2023年9月29日金曜日

New Man セッション16

セッション16


さて、エペソ1章を開いて下さい。読み進めて行くうちに、既にどれだけ多くを学んだかが分かるでしょう。皆さんの中にキリストがおられる事について、そしてそれゆえに、皆さんが持っているものについて話してきたので、この事実を強調したいと思います。今までの話の中でも、ずっとこれらに触れてきました。エペソ1章1節で、使徒パウロが次のように書いています。「 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方の上にありますように。私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねと御心のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」さて、ここには既に多くの事が書かれていますが、神は御心に、ご自分の喜ばれるところにしたがって、ご自分の子とする為に、世界の基の置かれる前から私たちを選んで下さった事に気づくでしょう。皆さんが神の子である事が神の喜びです。それは、神が皆さんを受け入れねばならず、仕方なくそうされるという事ではありません。むしろ神は、皆さんを子として受け入れる事を嬉しく思い、それに喜びを感じておられるのです。そこには、「私たちを世界の基の置かれる前に選んで下さったのは、私たちが愛のうちに神の御前で清く、傷のない者となる為である」と書かれています。主が私たちを選んで下さったのは、愛のうちに責められる所のない、清い者とする為です。ですからこれもまた、愛とは何かについての第1コリント13章に帰結するのです。そこを読み返せば、愛がどんな形で表れるかが分かるでしょう。5節にはこうあります。「みむねと御心のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」聞きましたか?「神の恵みの栄光がほめたたえられる為に。」つまり、神がここでされている全ての事は、神の恵みの栄光への賛美につながるのです。


この事を強調しているのは、神がされている事に2つの側面がある事を理解して欲しいからです。明らかに私たちの益となる面もありますが、その一方で、神ご自身の益ともなります。神はそれによって、霊的な領域や全ての支配や権威や存在といったあらゆるものに、ご自分がどれほど優れていて強大であられるかを示す事がおできになるからです。言ってみれば、まるで人を神の息子や娘に変える事ができるご自分の能力を、誇示しておられる(もちろん良い意味で)かのようです。ご自分は人の内面にそのような変化を起こせるのだと。そしてここの所を、根本的な部分まで掘り下げてお話しようと思います。これを見ると1節で、まずそれが皆さんに向けて書かれている事が分かります。皆さんはキリスト・イエスにあって忠実な者です。ですから、皆さんもその一員なのであり、エペソにいた人たちだけではありません。皆さんは忠実な人々の1人である為、そこには皆さんも含まれるのです。そして、「あなた方に恵みと平安があるように」とありますが、これは私たちにもまた、恵みと平安があるはずだという事を教えてくれます。3節には「私たちを祝福して下さった主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」とあります。ここの所に印をつけておくといいでしょう。「私たちを祝福して下さった」何によってでしょうか?「キリストにあって、天にあるもろもろの霊的祝福をもって」です。これはどういう意味でしょう?皆さんは既に祝福されており、あらゆる霊的祝福を受けているという事です。つまり、皆さんが手に入れなければならない霊的祝福などないのです。もうそれらを持っているからです。ここで重要なのは、旧約にさかのぼるとある箇所で神が、「私は、『私はある』という者である」と言っておられる事です。中には、実際は「私はなるべき者になるであろう」と訳すべきであると言う人もいます。神やその御名に関する全ての聖句は、全部現在形であるという事です。さて、ここで質問です。神はどんな方になられるでしょう?将来も、今と同じような方であられるでしょうね。神は主なので、変わる事などあり得ないのです。神は変わらないとマラキ書に書いてあります。イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わる事がありません。ですから神の本質に変化などないのです。そこで意味論に入り込む事もできますが、要は神は癒す主であられるという事です。現在形です。神はジェホバ・ジャイラ、すなわち供給される神…これも現在形です。神の御名は全て現在形で表されています。さて、6節を読むとこうあります。「 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えて下さった(英語では愛する者たちの内に受け入れて下さった)恵みの栄光が、ほめたたえられる為です。」これについては、もう前に話しましたね。神が私たちを受け入れて下さったのであって、自分でそれを手に入れたわけではありません。人が成し遂げたのではないのです。神が「まだだ、まだ到達していない。ああ、今到達した。今はもう受け入れられている」と言われるような、何らかの到達点があるわけではありません。皆さんを再創造された時に、神が皆さんを造られたのです。「再創造された」、或いは「造り変えられた」と言ってもいいでしょう。そして皆さんを造り変えられた時、神は皆さんを、愛する人々の内に受け入れられるような者にして下さいました。皆さんはそれを自分で手に入れたのでもなければ、自力で成し遂げたわけでもありません。


そして7節です。「私たちは受けています」…未来形ではなく「受けている」です。「その血による贖い、罪の赦しを。それは神の豊かな恵みによる事です。」つまり、どれだけ赦されているのでしょう?そう、皆さんに応じてではなく、神の豊かな恵みに応じてですね。そうでしょう?これら全てを受け入れ、そちらに移行しなければなりませんが、それは神の豊かな憐れみに応じて与えられるのです。それは神の果たされる分であり、神の憐れみであり、しかも皆さんを愛する人々の一人として受け入れて下さるほどの、大いなる憐れみです。その憐れみの大きさが、どうやって分かるのでしょう?次のように書いてあります。「この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の奥義を私たちに知らせて下さいました。」というわけで、神の御心はもう皆さんにとって「隠されたもの」ではなくなっているはずなのです。人々は常にこのように言います。「神が何をなされるか、誰が知ろうか?」神の御言葉に没頭し、神の御言葉を読み、それを学習するなら、神の御心は皆さんにとって謎めいたものにはなりません。私はサムラル博士に、テキサス州ヒューストンで開かれた集会で出会いました。そこである時彼に、いつ頃インディアナ州サウスベンに来られるかと尋ねられました。彼はそこに住んでいたのです。私は答えました。「用意ができればすぐに。できるだけ早く行きますよ。」家族に電話をかけ、サウスベンに行くつもりだと伝えました。そこに来るようサムラル博士に言われたのだと。当時は車すらなかったので、家に戻り、バッグに荷物を詰め込みました。妻と子供たちは、義姉の家に置いてもらい、私はバスに乗ってインディアナ州サウスベンに行きました。到着するとすぐに博士のお宅を訪問し、彼に会いました。会った時に、私は自分の事を何も話しませんでした。妻子がまだテキサスにいて、できる限り早く合流するつもりであると言いましたが、手持ちのお金があるかどうかや、お金がない事や、寝泊まりする場所があるかどうかなどは、その時伝えませんでした。そこに到着して初めて彼に会った時、私は泊る所がありませんでした。私のバッグは教会の入り口付近に置いてありました。正面扉の前でバスを降りて、中に入り、バッグをそこに置いて、受付係と話しました。会合の約束があるのかと尋ねられたので、「サムラル博士は自分が来る事をご存じです。会いに来るようにと言われたので」と答えました。受付係が部屋までの行き方を教えてくれ、私はバッグをデスクのそばに置いて廊下を抜け、ドアをノックしました。「入りなさい」と言う声が聞こえ、私は中に足を踏み入れました。それは幾分細長いオフィスでした。実際教室のようでしたが、一方の端に彼のデスクがあり、もう片方の端に長椅子や色々な物がありました。ドアの中に足を踏み入れるとすぐに、私は左を向かなければならず、彼はずっと向こうの端のデスクに向かって座り、書き物をしていました。私にはクリスチャンとして人生を歩むようになった最初の頃から、ずっと知りたいと思っていた二つの事がありました。一つ目は、どうすれば神の御霊に導かれていると分かるのか?自分が導かれている時に、そうと分かるようになりたかったのです。そして二つ目は、神の御心が知りたいと願っていました。どういう時に自分が神の御心の内にいるのか、またいかにして御心を知るのかを。神の御心を知る事を切望していたのです。そこでそれについての色々な教えを聞いていましたが、聞けば聞くほど混乱して、自分は本当に神の御声を聞いたのだろうかと疑わしくなりました。それで妻にこう言いました。「それを突き止めなければ。」その二つ、知る必要のある事といえばそれだけでした。それを土台として残りの人生を生きる事ができると考えていたのです。


それで、私は彼の前に立ち、彼は書き物の最中で、下を向いて紙に何か書いていました。私はただそこに立って、壁にかけられた色々な物を眺めながら、書き物が終わって彼が話してくれるのを待っていました。すると、彼は書き物の手を止めて目を上げ、こう言いました。「神の御心が知りたければ、聖書を読みなさい。御霊に導かれたければ、聖書を実践しなさい。」そしてまた書き物に戻ったのです。彼は私の両方の質問に答えてくれました。私はこう思いました。「もう家に帰っていいのかな。用事は全部済んだし。」しかしもう少しそこに残って、彼と話しました。その後彼はペンを置いて、実際に私と会話し始めてくれました。けれども私は彼に何も言いませんでした。家族がどこにいるかは話しましたが。自分が何を持っていて、何を持っていないかといった事は話しませんでした。私は出て行って仕事を見つけました。そして仕事の賃金が入るまで、親族の家に泊まり、その後アパートを借りて、テキサスまで家族を迎えに行き、そこに連れて来ました。それからは、教会でボランティアとしてどんな雑用でもしました。必要な事は何でも。ボランティアだったのです。そして最終的にはサムラル博士の祈りの電話の応答係となり、一晩中人々の為に祈りました。夜の11時から朝の7時まで働かねばなりませんでした。その時間帯のシフトに入れる人が他に誰もいなかったからです。私たちはそのようにして電話に応答していました。電話がかかってくるたびに、相手の人の為に祈りました。人々が実際に癒されたとか、体の色々な部分が癒されたとの報告があった最初の奇跡の数々は、その頃に起こりました。これを話しているのは、誰もがそう見せかけているほど、神の御心が謎めいたものではないからです。事実面白い事に、サムラル博士は神の御心を知る方法についての本を書きました。実際の題名は「神の声」といいます。神の声を聞く事についての本です。その本全体にはあまり大した事は書かれていませんが、裏表紙に本の紹介文が載っていて、そこに答があるのです。全く驚きでした。裏表紙を読むだけで答が分かるなんて。本全体を読む必要はなかったのです。またサムラル博士は常に言いました。自分はこれまでずっと、様々な時に神に導かれてきたが、その方法は御言葉を通してであったと。祈りを求められたり、必要を抱えていたり、どう動けばいいか知りたい、といった時には、彼はただ聖書を開いてじっくり読み始め、すると神が聖句を通して語られるのだそうです。その裏表紙には、彼の息子(彼には3人の息子がいます)がそれぞれ違う仕事をしているが、全員がミニストリーに携わっているので、神の御心の内にいる、神が自分にして欲しい事をしているから、と書いてありました。また彼はそれと関連づけて、人はそれぞれ異なった事をしており、他の人と全く同じ事をするわけではないが、それでも神が自分がするよう望まれている事をしているので、やはり神の御心の内にいるのだと語りました。


さて、これらについてはっきりと具体的に示される事もありますが、大抵の場合は御心を知る事ができます。人々は尋ねます。「どうやって?」と。私が主に問いかけ、サムラル博士が答を知る手助けをしてくれたのと同じ質問を尋ねてくるのです。彼らはこのように言います。「自分がしている事が神の御心だとどうすれば分かるのですか?自分のしている事が神の御心だと正確に分かるのは、どんな時ですか?」私は答えます。「それを知る一番確実な方法とは、皆さんのしている事が聖書に沿っているか確かめる事ですよ。伝道をしているなら、神の御心を行っている事になります。」それだけの事です。病人に手を置いているなら、病人の為に祈っているなら、病人の為のミニストリーをしているなら、神の御心を行っています。神の完全な御心の内にいます。その時点において、それ以外の御心などありませんから。空腹な人を養っているなら、皆さんは神の御心の内にいます。神が言われた事をしていながら、神の御心の内にいない、などといった事はあり得ません。お分かりでしょうか?「霊的な人々」と呼ばれる人々と、これについて口論を交わした事があります。こんな風に言われました。「誰かに手を置かないよう神から命じられた事はないのですか?」いいえ、そんな事はあり得ません。そんな事を私に言われるはずがないのです。既にそうするよう告げておられるからです。病人に手を置くなと言われる可能性があるなら、全ての造られたものに福音を宣べ伝えるな、と言われる可能性もあるわけですから。そして神が「この人に福音を宣べ伝えてはならない」と言われたとしたら、自動的にその人を地獄に引き渡される事になります。そしてそれが、神の責任になるのです。既にせよと言われた事を、神がするなと言われる事などあり得ません。お分かりですか?ですからそれは常に正しいのです。こうして今話しているこれらの考え方は全て、神学に端を発しています。そしてこんな議論をする羽目になるのも全て、皆さんが間違った事を教えられてきたからです。大抵はそのせいです。「そうだな、この人を自由にしても、相手が自由になる事を望んでおらず、以前の生活に戻りたがったら、聖書にあるように別の七つの悪霊に憑りつかれて、以前の七倍悪い状態になる。だから自分が彼らから霊を追い出した事は、助けになったんだろうか?」それは非常に霊的で深遠に聞こえますね。そうやって色々と思い巡らす事は。しかし、要するにこういう事です。皆さんはその人に自由に歩む機会をまだ与えもしない先から、もう彼らを束縛された状態のまま放置する事を選んでいるのです。分かりますか?イエスが皆さんを束縛されたまま放っておこうと決断されていたら、一体どうなっていた事でしょう?


自分にして欲しいように他の人にもするのです。このミニストリーの真の基盤となっている理念はとても単純で、ただ神の御言葉に沿って行動するという事です。そして何をするにしても重要な事とは、マタイ7章に基づいて行う事です。事実、聖書を持っているなら、それを読むといいでしょう。かつてこのテーマについて教えた事があり、それは「正しいルールに則って生きる」と題されていました。おかしな事に、人々はこのルールが好きではないので、そのCDを聴こうとしないのです。あたかも無視すれば、それが真理ではなくなり、それに耳を傾けなくて済むと思っているかのように。しかし、マタイ 7:1 にはこうあります。「 さばいてはいけません。さばかれない為です。あなた方がさばくとおりに、あなた方もさばかれ、あなた方が量るとおりに、あなた方も量られるからです。」さて、見て下さい。自分がさばく通りに裁かれると書いてあります。憐れみ深い裁きを下すなら、自分も憐み深く裁いてもらえるのです。厳しく裁くなら、自分も非常に厳しく裁かれます。アーメン?ですから、裁くつもりであれば、常に人々に奉仕し、彼らを助け、彼らに語りかけるなどして、その上で裁いた方がいいでしょう。「さばいてはいけません。さばかれない為です」と言っていますが、裁くつもりなら、必ず憐みをもってそうしましょう。慈悲深い心でそうするよう心がけるのです。自分がさばくように自分も裁かれるからです。そして人々に最高の自分を信じて欲しいと望み、憐れみを示して欲しいと思うなら、人々にも憐れみを示しましょう。簡単な事ですよね?以前話していたこの原則を把握しなければなりません。そうすれば生涯ずっと助けになるでしょう。神がするよう言われた事を、しないようにと言われた事があったと思うなら、聖書を読むべきです。そんな事例はありません。マルコ16章を読むなら、「信じる者は病人に手を置き、病人は癒される」と書いてあります。さて、殆どの人が守っているようなルールに則って生きようとするなら、彼らはこう言わねばならないでしょう。「病人に手を置きなさい。信者が病人に手を置けば病人は癒されます…誰かが手を置かないよう導くのでない限り。」そんな事は書いていませんね?そこには「信じる者が病人に手を置く」とあるだけです。そこの文章に「主がそうしないよう導かれるのでない限り」と付け加えなければならないでしょう。私たちがそのような事をしていると気づかねばなりません。文の中に書かれていない言葉を読み取って、まるで実際の聖句ではなしに、それらの言葉が聖句であるかのように振舞うのです。


娘と話していた時、私はこう言いました。「おかしなものだね。私は自分の時間の80パーセントを、聖書を急いでざっと読むだけの人々と話す事に費やしている。彼らの複雑な解釈を単純な理解に戻してやらなければならないんだ。」正直、時間の殆どをそれに費やしているのです。もっと早めに立ち止まるなら、聖書に親近感が湧くでしょう。お分かりですか?しかし人はそうする代わりに、すっかり論理にはまり込んでしまい、急いで読み進めようとします。その殆どは失敗者の思考形式から来ているのですが。私たち人間は、祈って何かが起こらなければ、その理由を思いつき、しばらく経つと、聖句よりもその理由の方を、もっと聖句のように見なすようになるのです。ですから、聖句に立ち返らなければなりません。皆さんに、キリストにあっての単純さに戻って欲しいのです。これは難しい事ではありません。クリスチャンとして生きる事は簡単です。イエスはご自分のくびきは負い易く、その荷も軽いと言われました。大変になるとは言われませんでした。人々はこのように言います。「律法を説くなら、人々を束縛下に置く事になる。私たちは律法の下にはいないし、律法は律法であり、私たちは今恵みの下にいる。」さて、律法は殆どの場合、神の恵みである事に気づいているでしょうか?自分が間違っている事を人に悟らせる為に、律法を与えられた事さえ、神の恵みでした。神はそれほど人を気遣って下さったからです。皆さんは自分の子供を愛していますか?通りを渡る前に左右を確認しなさいと教えるほど、彼らを愛しているでしょうか?それは律法です。皆さんがその律法を定めました。何故でしょう?子供たちに残りの生涯を通じて、そのように生きて欲しいからです。何故でしょう?彼らを愛しているからです。厳しくしたり、意地悪く接しようとしているわけではありません。「通りに走って行ってもいいが、そこで立ち止まって左右を確認しなさい」と言って、彼らの楽しみに水を差そうとしているわけではありません。何故そう言うのでしょう?死んで欲しくないからです。それと同じように、規則自体が悪いというわけではない事に気づかなければなりません。人々は言います。「ああ、私たちは今恵みの下にいて、律法の下にはいない。」その通りですが、同時にこれを定められたのは神である事に気づかねばなりません。そして聖書全体を通じて、次のように書かれています。「律法は完全です。律法は良いものです。」詩篇作者のダビデすら、かつてこのように言いました。「律法を愛していなかったら、私は災いの中で命を落としていたでしょう」と。別に律法の下に戻れと言っているわけではありませんが、要するにここには、気づくべきある側面があるという事です。物事にはやり方が、原則というものがあります。私たちが聖書と呼ぶこの本に書かれているのは手法でも技術でもありません。神は私たちが物事を行う際に、種々様々な方法を与えられるからです。聖書は原則の本なのです。どこに住むべきかや、どんな車を運転すべきかや、どの都市のどの通りに住むべきかを教えてくれるわけではありません。そうではなく、むしろ原則を教えてくれるのです。どこに住んでいようと、人はこのように生きるべきであると。そういった原則を教えてくれるのであり、具体的な事は殆ど告げていません。だからこそ、神の御心に立ち返るよう告げているのです。神の御心の内にいるなら、神の御心を行うでしょうし、もはや律法に基づいて生きる事はありません。今や神の御心を行っており、神の御心が自分の一部になっているからです。


例えば、私は人から「飲むな」と言われる必要はありません。これは特に酒類の事で、それは確かに、聖書の中で禁じられているわけではありません。しかし、それにどんな良い効能があるか教えて下さい。全ての事はしても良いのですが、全てが益になるわけではありません。箴言には、強い酒はあざけるもので、王の飲み物ではないとあります。「決して酒類に触るな」という法を制定しているわけではありません。むしろ、色々と有益な事柄があり、多くの事ができるものの、全てが最善というわけではないと言いたいだけです。しかし、皆さんが自分で決めて下さい。皆さんではなく、他の誰かがそれを決めて、聖書に書かれていない法規を皆さんに課し、それを律法とするなら、それは律法主義と呼ばれます。しかし自分で決めるなら、それは律法主義ではなく自己鍛錬です。違いが分かりますか?誰かがやって来て「酒場に行って飲もう」と言うなら、私はこう答えます。「飲むといえば、私の場合はコーラだ。」「いや、酒だよ。」「酒は飲まない。味見した事も一度もない。今から飲み始めるつもりもない。」今52歳で、もうすぐ53歳ですが、これまでずっとそれで通してきました。今更飲み始めるつもりはありません。すると彼らは言います。「おや、飲まないって?飲めないのかい?」「9歳の時に神に誓いを立てたんだ。酒には一度も触った事がないし、ずっとそれを守ってきた。」「律法主義だなあ。律法の下にいるのか。」いいえ、それは自己鍛錬です。酒には何の益もありません。そして色々な問題を引き起こします。酒を飲むなと言っているわけではありません。ただ、法に則って生きても別に構わないと言いたいだけです。そうしているからといって、律法主義という事にはなりません。だらしない生活を送っている人々に、自分が秩序正しい生活を送っている事で、決まりの悪い思いをさせられてはいけません。しかし、自分の生活が秩序正しいなら、他の人が同じ規則を持っていないからといって、クリスチャンとして自分より劣っていると彼らに感じさせてもいけません。もしかすると、彼らが皆さんよりも秩序正しく歩んでいる他の分野があるのかもしれません。アーメン?ですから、それはただ、皆さんが神と共に働きかけるべき一つの分野なのであり、そして何が神の御旨であるかを突き止め、その神の御心の中へと移行しなければなりません。しかし、神の御心を見つけるのは難しい事ではありません。神の御心とは神の御言葉です。神の御心が御言葉ではないなら、神は嘘つきという事になりますね。ですから、神の御心はその御言葉なのです。それでは、続きを読んでいきましょう。これは、私たちのミニストリーの基盤です。これこそ私たちの運営方針です。3節にこうあります。「 また、何故皆さんは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『皆さんの目のちりを取らせて下さい』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」そしてこう言っています。「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除く事ができます。聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂くでしょうから。」ここには人々との接し方について書かれています。何でもかんでも人に与えればいいというものではありません。


集会においてだけでなく、路上や様々な場所で人と話している時に私が学んだ原則の1つは、「答えは手短に」という事です。相手がもっと知りたいと思えば、さらに聞いてくるでしょうから。そして、相手が質問をやめた時点で、答えるのをやめるのです。相手が会話に応じないなら、おそらく無視しようとしているのでしょうから、無理矢理に話そうとしてはいけません。多く話せば話すほど、豚に真珠を与える事になります。そうしているも同然です。引き続きそれらの言葉を注ぎ出そうとしているのですから。証しをするなとか、宣べ伝えるなと言っているわけではありません。そうは言いませんが…ある人と話すなら、最初のうちは、相手は話してくれるでしょう。彼らは質問をし、皆さんはそれに答えるでしょう。私は何年も前に、あるカセットテープを持っていました。今それをもう一度見つけようと探しています。見つけたら同じものを注文し、うちのスタッフやJGLMの全員に聴かせなければと考えています。素晴らしい教えだからです。実際にはそれは商社の販売員訓練教材のようなもので、それ自体が自己啓発教材というわけではないのですが、基本的には人との接し方に関するものでした。私はそれを探し出して、うちのメンバー全員に聞かせるつもりです。それは「30秒かそれ以下で伝えたい事を相手に伝える方法」と題されていました。一日に8時間説教する人物によって書かれたものです。要は、どんな会話においてもなるべく簡潔に答えて、長々と話さないという事です。とりわけ今日、人々にとって最も貴重なものとは時間ですから。ですから私は、皆さんがこれに参加し、まるまる三日間ここで耳を傾け、座っているという事実を、当然の事とは思っていません。本当です。それを二通りの意味に受け取っています。一つは、神がご自分の子供たちを私にお任せになり、彼らに語らせて下さるとは光栄であるという事。私は自分の子供が誰の話を聞くかについては、かなり厳選するからです。ですから、神が皆さんを任せて下さるほど私を信頼して下さっている事を感謝します。それと同時に、時間が貴重である事は承知しているので、時間を浪費したくはありません。しかし、私は皆さんの成長に役立つ事、私が学んだ事で、ある程度成長の助けになった事をお話ししたいのです。その一つが、人と接する時は30秒以内に自分の言いたい事を伝えるという事です。殆どの場合、人が質問をして、求めている答えは大抵の場合、イエスかノーです。詳細が必要な場合は、詳細を伝える事ができます。しかし、まずはイエスかノーから始めましょう。イエスかノーの質問であれば、イエスかノーにたどり着きます。それが相手の質問に答える事になり、その後、必要に応じて詳細を加える事ができます。私の言っている事が分かりますか?もし30秒以内に自分の言いたい事を伝える事ができれば、皆さんが福音を伝えたり、誰かに証言したりする前に、30秒の福音の断片を伝える事で、実際にそれを彼らの心に届ける事ができるのです。そして、彼らが聞きたくないと判断する前に、実際に彼らの中に入れる事ができます。それは種として既にそこにあるのです。もしそれが真の福音であれば、その種はそこに残り、朽ちる事なく残り、彼らを悩ませ、成長し始めます。ある事について考えていなかったのに、ふと何かが目に留まって…例えば車とかですが、「わぁ、あれが例の車か、なるほど」などと思った事はありませんか?すると次の週には、同じ車をそこらじゅうで見かけるようになるのです。そんな現象に気づいた事はありますか? そしてその後、それが目に付くようになります。何故でしょう?皆さんの注意がそこに向けられているからです。


時として、相手の心を勝ち取るのは皆さんではありません。皆さんは種を蒔くだけです。そして、その週の残りの期間に、その人がどこに行っても、福音という貴重な情報が、様々な方法で目の前に現れるのを見る事でしょう。それはその人にとって意義深い形で現れ、彼らを勝ち取ろうとされている神のご意思が、さらにはっきりと示される事でしょう。それが至る所に現れるからです。私が言いたいのは、まるでセールストークのように常に無理矢理に決断を迫り、その場でキリストを受け入れてもらおうとする必要はないという事です。ただし、人によっては、皆さんが証しをした最後の証し人になるかもしれないからです。ですから時には決断を迫る必要があり、「それで、どうされますか?」と言う必要があるのです。しかしその場合は、彼らに話しているものが必ず福音である必要があります。彼らを教会に入れたり、あれやこれやに参加させたりするのではなしに。言っている事が分かりますか?大切なのは、神への心の姿勢です。私がこの話をしているのは、それが私たちの人生で守るべきルールであり、また私たちのミニストリーの基盤でもあるからだという事を覚えておいて下さい。7節では「求めなさい、そうすれば与えられます」と言っています。求めなさい、そうすれば与えられるかもしれない」などという言葉を考え出すのは、神学者やクリスチャンぐらいです。主は、「求めなさい、そうすれば与えられます」と言われたのです。「捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」これはとても絶対的な事なので、主はそれを2回繰り返されています。そして9節です。「あなた方も、自分の子がパンを下さいと言う時に、だれが石を与えるでしょう。」もし皆さんがクリスチャンの集まりに頻繁に参加しており、教会生活が長いなら、ここに出てくる言葉をよく耳にしているはずです。後で出てくる他の節もありますが、ここにはこう書かれています。「あなた方も、自分の子がパンを下さいと言う時に、誰が…」さて、聖書で「パン」という言葉を聞くと、自動的に二箇所が思い浮かぶでしょう。主の祈りにある、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」の箇所、これが皆さんの頭に最初に浮かぶ聖句であるはずです。もう一つの聖句は、子供たちのパンを犬に与えるのは良くないというものでした。そうでしょう?主の祈りには、「私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい」とあります。それは物理的な食べ物を指しているのかもしれませんが、イエスは物理的な食べ物については殆ど語られませんでした。マルコ7章24-30節で、「私の娘を治して下さい」と言った女性について、主が語り出されます。そして、子供たちのパンを犬に与えるのはよくないと言われました。さて、彼女は何について話しているのでしょうか? 癒しについてです。つまり、子供たちのパンは癒しなのです。しかし、マタイ7章9節ではこう言っています。「あなた方も、自分の子がパンを下さいと言う時に...。」それは子供たちのパンですね、そうではありませんか?もし息子が父にパンを求めるなら、父は彼に石を与えたりするでしょうか?つまり、子がパンを求めれば何がもらえるでしょう?パンです。石をもらう事はありません、そうでしょう?それでは、癒しを求めたら、何が得られるでしょうか?癒しです。石をもらう事はありません。


皆さんはこの事に確信を持っていなければなりません。疑問を抱きつつ状況に踏み込んでも、答は得られません。二心の人は、全ての点で不安定です。もし二心であれば、その人は神から何かを得られると思ってはいけません。むしろ一心に取り組み、決断を下さなければなりません。信仰は祈る前に、その結果がどうなるかを決めます。結果がどうなるかを決めていないなら、信仰を持っていない事になります。信仰は、「さて、神様、皆さんは何をされたいのでしょうか」と言って祈るのではありません。信仰は、聖書を読み、神が何をされたいのかを知り、そのような結果をもたらすべく自分の信仰を行使し、結果が得られるまでそこに留まるのです。そして途中でその結果ではない何かが生じるとすれば、明らかに話はそこで終わりません。そうでしょう?イエスを見て下さい。人々はやって来て、ラザロが病気だと言いました。それからイエスはもう二日別の場所に留まっておられましたが、後で調べてみるとラザロはイエスがその知らせを受ける頃には既に死んでおり、イエスはその事をご存知でした。そして一度は、弟子たちにラザロは眠っているだけであるとさえ言われました。彼らは言いました。「まあ、眠っているだけなら大丈夫だろう。」それからイエスは、「いや、彼は死んでいる」と言われました。死という言葉すら使う事を好まれなかったので、「眠っている」と言われたのです。少女が死んでいた時も、イエスは彼女が死んでいるのではなく眠っているだけであると言われました。そして彼らを蘇らせる事は、それほども簡単なはずなのです。誰かを起こすのと同じぐらいに。ですから、主はラザロの墓に行かれました。そこに着いた時、彼らはそこから少し離れたところでイエスに会って言いました。「主よ、皆さんがおられたなら、ラザロは死ななかったでしょうに。そして今でさえ、求めるなら神が求めるものを何でも与えて下さると知っています。」そしてイエスは弟子たちにこの病は死に至るほどのものではないとすら言われました。しかし、ラザロは死んだのですよね? そう言われたのではありませんか?主は言われました。「この病は死に至るほどのものではない。」しかしラザロは死にました。という事は、イエスは間違っていたのでしょうか?いいえ。しかし、実際にそれが起こったのです。以前も言ったように、即座に癒される場合もあれば、徐々に癒される場合もあります。人々は言います。「何故徐々に起こるのですか?」理由は数多くありますが、大抵は祈っている時に何を信じているかに関係があります。マルコ16章は人々が癒されてさっと飛び起きるとは書かれていません。マルコ16章は奇跡についての節ではありません。お分かりでしょうか?マルコ16章にはこうあります。「信じる者が手を置けば癒される(KJVでは recover=回復する)。」回復とは徐々に起こる事を指す言葉です。それ自体がある過程なのです。手術を受けて手術室から出てくると、彼らは一定期間その人を回復室に入れて、術後の回復を図ります。


ですから、病人に手を置けば彼らは回復するのです。手を置けばその結果相手は元気になると言う事です。すぐに癒されて飛び起きるとは言っていません。さて、分かって欲しいのですが、癒しが即座に起こるのなら、それは奇跡かもしれません。イエスの癒しは、即座に起こった場合もあれば、ある程度時間が掛かった事もありました。私も時間が掛かったケースの証しを沢山お話する事ができます。癒しの過程が長引くのは好きではありません。私は即座の癒しが好きなのです。必要以上に人々に苦しんで欲しくはありませんし、実際彼らは苦しむ必要などないのです。しかし、私たちは結果を重視します。聖書にそう書いてあるなら、効果を生むはずです。そうでしょう?しかし、最大の成果を上げる最も手っ取り早く最善の方法とは、成果について考えるのをやめ、ただ聖書ができると言っている事をし、一旦、聖書が言っている事をしたなら、後は向きを変えて歩き去り、それが既になされたと考える事です。祈っている人の中で何が起こっているのかは判別しがたいものです。彼らが「よし、癒された」などと言っていても、癒されたと本当に信じているのか、ただそう言っているだけなのかがわからず、判別できません。彼らが実際本気でそう言っており、癒されたと考えている事を願います。その場合は、彼らがそこから立ち去った時、それはもうなされたも同然なのです。そしてその後、実際にそうなります。相手の人は回復し、癒されるのです。しかし、かつてあるグループの多くの信者は、「信仰によって」病気をずっと受け入れてきて、彼らは10年経った今もなお、「信仰によって」同じ状況に立っています。それは聖書ではありません。それは癒しの為の信仰ではありません。それでは、イエスの約束や贖いを何一つ信じていない事になります。もっとずっと早く癒されているべきなのです。全部の病気が即座に癒されているべきです。先ほども言ったように、それは即座に起こるべきであり、それが徐々に起こったり時間が掛かるのが、私は好きではありませんが、その一方で、全く癒されないよりは徐々にでも癒された方がいいのです。アーメン?


かといって、時間が掛かるのが神の御心であると言っているわけではありません。そんな事は信じていないし、そのように考えたくもありませんが、ただ時間がかかるケースを何度も見てきたと言っているのです。人々に起こったそのような話や証しを次から次へと話す事ができます。私たちは世界中を回り、様々な大陸を巡り、人々の為に祈ってきましたが、私たちがそこを去る頃には、私自身の目にはまったく変化が見えず、或いは変化が見えたとしても、容体がさらに悪化しただけ、といった事もありました。実際私たちが祈った直後に悪化したのです。正直言って、そんな事がよく起こります。そして通常は、そんな事が起こると人々は皆動揺して言います。「ああ、もっと悪くなった。何故、癒されないんだ?」彼らは元気でしたが、その後病気になりました。私たちは祈りました。そして今突然に症状が悪化しました。すると人々は何も起こらなかったと考えます(笑)。明らかに何かが起こったのです。人々はやって来て、症状が悪化していると私たちに告げたのですから。そうでしょう?しかし、このように考えなければなりません。「何故、悪化しているんだ?」これは、祈った後でただ偶然に悪化したのではありません。それは私たちが「それ」に命中し、刺激したという証拠です。いわば、それを揺さぶって緩めたのです。そして通常起こる事とは、祈った後に即座の結果が出て人々が癒されるか、祈った後に即座の結果が出て症状が悪化するかのどちらかで、後者も即座の結果には違いありません。ただ望んでいる結果ではないというだけの事です。それから通常は、そうした即座の結果が生じる場合には、症状が再び悪化して、最悪の状態になったすぐ後に、それらがただすっと出て行き、癒されるのです。人は言います。「何故そうなるのですか?」分かりません。イエスはどうされましたか? 彼が霊を追い出された時、その子供はひどく苦しみ、人々が「彼は死んでいる」と言ったほどでした。それはイエスが彼の所に来られる前よりも悪化したという事です。そうでしょう?そこでも同じ事が起こったのです。人々は言います。「何故、イエスの時代には全ての癒しが即座に起こり、『癒されよ』と言っただけで全部が癒されたのだろう。」 


第一に、皆さんはそこにいませんでした。何が起こったか知らないのです。皆さんが知っている事は自分が読んだ事だけで、しかも読んだ内容の半分は正しく解釈していません。そこに書いてある事すら読んでいないのです。ただ「これはこうなるべきだ」というイメージを抱いているだけです。そのような人はイエスに会いたくない事でしょう。鞭を作っている最中のイエスに会う羽目になるだろうからです。そしてイエスに対して抱いているイメージは完全に崩れ去るでしょう。「ああ、主は優しくて穏やかで親切で、そんな方だ。」そうでもありません。優しく穏やかで親切な人は鞭を作って人々を神殿から追い出したりはしませんから。考えてもご覧なさい。彼は人々が常に思い描いているような方ではなかったのです。


さて、症状が徐々に良くなっていく時もあります。これは霊を追い出した時に起こる一現象なのです。その霊はあちこちを行き廻って…それから少し後に、また元の場所に戻って来ようとする事が時々あります。考えてみて下さい。皆さんが盗みに入る家を探している泥棒だとして、押し入るのに都合のよいある家について耳にしたとします。その家には皆さんが欲しがっている全てのものがあり、車でそこに近づくと、正面玄関にADT(セキュリティーサービス)があります。 その場合、もう一区画先まで進むでしょう。その場に車を停めて、つるはしとか色々な物を取り出したりはしません。そうする代わりに、車でその周囲を走り回って、もっと良い機会を狙う事でしょう。警察がそこにいないタイミングを。そうですね?それから、皆さんがある集会に来て私たちに祈って欲しいと頼み、私たちが皆さんの為に祈ったとします。「ああ、これは素晴らしい。」もう少しも痛みを感じないか、殆ど痛みがなくなるか、ほんの少し痛みが残っているだけです。それからそこを離れて、帰途につくのですが、そこでまたバーンと同じ痛みに襲われたとします。或いは二日後か一週間後にまた同じ痛みが、ぶり返したとします。「ああ、本当に癒されたわけではなかったんだ。きっと痛みを感じないと思ったのは幻覚だったのだ」と考え始めます。何年も車椅子生活だった後で、実際に立ち上がって歩いたのに、本当に癒されたわけではなかったと考えるのです。いいえ、それは本当に起こりました。しかし私たちがいなくなった後で、皆さんは私たちの癒しに頼っていた為に…。警察がいなくなったかどうか確かめる為に、何が戻ってくると思いますか?私たちがこれがただの魔法だとでも思っているかのように振る舞います。信仰は魔法ではありません。へブル書を読んで下さい。信仰はわざです。分かりますか?人々は言います。「信仰かわざのどちらかだと思っていた。わざによっては何も得られないと思っていた。」そう、「わざ」という言葉を理解しなければなりません。それは「原則」という言葉を理解しなければならないのと同じです。信仰という原則があります。皆さんは、モーセの律法の原則の下にはもういません。今は、信仰という原則の下にいるのです。信仰という原則に基づいて行動しない限り、神から何一つ受け取る事はありません。信仰がなくては神に喜ばれる事はできないからです。


というわけで、信仰との原則があるのです。愛の原則があるのも知っていますね。皆さんは愛の律法に則って行動します。ローマ8章では、キリスト・イエスにあっての命の原理について語られています。その原則に則って物事が起こるという事実があります。ちょうど重力の法則のように。その原則の通りになるのです。しかし人々はただ「ああ、それはいつも、ただ偶然に起こるのです」と言います。それがただ偶然に起こるのなら、何も重要なものはないでしょう。意味あるものは何一つありません。それらはただ起こるのではありません。ただ何かを詳しく調べて、「もしその通りなら、これら全てはただ偶然に起こるはずだ。このようになっているはずだ」と言う事もできますが、この事に数年間携わってきた経験から言うと、そのような事は未だかつて見た事がありません。そして皆さんも見た事がないと知っています。もし見た事があるなら、皆さんがここに立って教えているでしょう。皆さん、やけに静かになってしまいましたね。言ったでしょう。パウロが現れたら、皆さんは彼の事を気に入らないだろうと。パウロはそんな話し方をするからです。


聖書はもし誰かが違った考え方をするなら、神が示して下さると言っています。それとは異なる考え方をするなら、神はどこが間違っているか教えて下さるでしょう。パウロはそんな風に語りました。私たちもそうだったからです。私たちも同じ経験をしました。自分たちが全ての知識を持っていると言っているわけでもありません。まだ学んでいる最中ですから。しかし、知っている事もあります。私たちはこの世界に住んでおり、御霊の法則にしたがって行動しているのです。そしてその中の特定の物事は、特定の方法で機能します。イエスは「信者が病人に手を置くと、病人は車椅子から飛び上がって3,4分間その場をくるくると跳び回り、それから降りてくるでしょう」とは言われませんでした。そんな事は書かれていません。むしろ、「信者は病人に手を置く」と書かれています。


さて、癒しの賜物について語る時、確かにそれは奇跡的なものになり、即座に色々な事が起こる事もありますが、私が入って来て皆さんに、どのように癒しの賜物を働かせるかについて教えたとします。しかし皆さんがその賜物を持っていないなら、それを教えても何の役にも立ちません。しかし、私が皆さんに教えるのはマルコ16章であり、それは全ての信者に当てはまります。あくまで「賜物によって働きたい」と言い張るなら、別に構いません。そうすればいいでしょう。ただ、それが聖書に沿っている事を確かめて下さい。しかし信者として行動するつもりであれば、病人に手を置くと、その病人は癒されるでしょう。中には他の人より素早く癒される人もいるでしょう。色々な理由がありますが、その一つは、中には他の人よりも強い人がいるという事実です。二人の人が同じ手術を受けて、一人は翌日に起き上がり、もう一人は一週間かかる事があります。何故でしょう? それはただ、体力的な違いがあるからです。身体的にどのような状態かという点で異なるのです。また意志力に関係している部分もあります。私は任務を遂行できない状態をひどく嫌います。ですから、寝たきりでいるのは絶対に嫌です。そんな事をしていられないほど忙しいのです。そんな時間はありません。ですから、人々が死にかけているといった、そんな状況においてでさえ、ある種の問題が生じます。人々が口論を仕掛けてくるのには驚きます。彼らを癒そうとしているのにです。彼らは病気のままでいたいので、反論してくるのです。「そうですね、でも神は私を癒されないかもしれませんよ。だってほら、パウロは癒されませんでしたからね。」パウロがいつ病気になりましたか?パウロが病気であったという記録など一つもありません。皆さんは、よく分かっていない人々にそう教えられてきたのです。「よくお聞きなさい、パウロにはとげがありました。」そうですか、ではとげとは何でしょう?「ああ、それは目の病気です。」本当に?そうだと知っているのですか?そう書いてありますか? 「私はこのとげを与えられた。このサタンの使い、すなわち目の病気を」と書いてあるのでしょうか?いいえ、そうは書かれていません。それに、そのとげが何なのかどうやって分かるのですか?「だって、神学校の何とか博士が言っていたから…」彼らの言う事を何でも信じてはいけません。自分の考える事を何でも信じるのもだめです。考えたからといって、その全てを信じる必要はないのです。皆さんは言います。「では、とげとは何なのですか?」


「とげ」という言葉を調べて下さい。聖書の前の箇所で、「とげ」という言葉がどのように用いられているか調べるのです。文字通り藪の中にあるとげという意味で用いられている箇所もあります。イエスがいばらの冠をかぶられた時、彼に刺さったのは実際のとげでした。しかし、旧約聖書では、ある土地の先住民たちを追い出さないなら、彼らは戻って来て脇に刺さるとげとなり、目を刺すであろうと書かれています。ですから、その土地に住んでいる人々を追い出さないなら、彼らは戻って来て目の病気を与えるであろうという...ここはそういう意味なのでしょうか?いいえ、とげとは人々の事です。パウロの言った事をよく聞いて下さい。パウロは言いました。「私はとげを、このサタンの使いを与えられた。」何故でしょう?「私が受けた多くの啓示ゆえに」です。そして、マルコの4章には何と書かれていますか?マルコ4章に非常にはっきりと書かれています。種を蒔く者たちが御言葉を蒔き、その後に御言葉のゆえに迫害が起こると、そのせいでつまずいてしまう人々がいると書いてあります。ですから、御言葉のせいで迫害が起こるなら、そしてキリスト・イエスにあって信心深く生きようとする人は皆迫害を受けるのなら(パウロ自身がそう書いた)、パウロは最も多くの啓示を説き、しかもその啓示のせいでとげが与えられたと言っています。そこから分かるのは、彼が人々からの迫害の事を言っているという事です。ここで考えてみましょう。パウロは誰かに迫害された事がありましたか?見たところ、彼はユダヤ教徒たちをかなり怒らせてしまったようです。ユダヤ教の要人たちを怒らせ、彼らはパウロを迫害して石打ちにし、死んだと思って放置した事がありました。しかしおかしいですね。何故なら彼は「私はイエス・キリストの使徒だ」と言ったからです。そしてこう言いました。「自分が使徒である事の証明が何かを知りたいか?」と。「自分の使徒としての経歴を教えて欲しいか?」と。「殴られ、鞭で打たれ、石打ちにされて死んだと思って放置された。私は飢えた。船が難破した。海の上を漂流した」様々な時期にそういう事が何度かあったようです。福音を説いたがゆえに、自分が苦しんだ様々な困難を書き連ねました。そしてその福音とは彼が受けた数多くの啓示であり、そのせいでとげが与えられたのだと。そして自分の苦しんだあらゆる事柄を挙げているのに、一度として次のような事は言っていません。「どうしても治らないこの馬鹿げた目の事は言うまでもない!」そんな事は一度も言いませんでした。病気だった話など一度もしなかったのです。そのような事は一度も話しませんでした。彼は、「私がどんな苦しみを通ったか教えて欲しいですか?」と言ったのであって、「私は病気に苦しんだ」とは一度も言いませんでした。何故でしょう?イエスがそれらを負われたからです。アーメン?すると人々は言います。「でも彼はそれを治して下さいと、様々な異なる時期に神に三度求めましたよ。ここにこうあります。『私はこれを取り去って下さるようにと、神に三度求めた』と。」ちょっと待って下さい。今言い方を変えましたね。「癒されるよう神に祈り求めた」と言いました。彼は「癒されるよう神に三度祈った」とは言っていません。「それを取り去って下さるよう三度祈った」とあります。すると神は言われました。「パウロよ、私の恵みは十分である。」


そしてそこでの恵みとは、何かを最後までやり遂げる能力の事です。つまり神はこう言われたのです。「パウロよ、聞きなさい。私はそれをあなたから取り去る事はしない。パウロよ、あなたは福音を宣べ伝えている。その為に何を受けると思うか。あなたは迫害を受けるだろう。」ですから、パウロが本当に迫害になくなって欲しかったのなら、ただ宣べ伝えるのをやめれば良かったのです。そうしたらそれはなくなったでしょう。そしてその時点で、ユダヤ教の指導者たちは彼を迫害するのをやめた事でしょう。そうではありませんか?しかし、彼は神に「それを取り去って下さい」と求めました。そして神は言われました。「いいや、これらの人々があなたを迫害するのをやめさせる事はできない。」何故でしょう?彼らには彼らの自由意思があり、彼は福音を宣べ伝えているのですから、福音を宣べ伝えているがゆえに迫害を受ける事になるからです。当然そうなるでしょう。そうではありませんか?さて、ここにはこうあります。「私はそれを取り去って下さるようにと、主に三度求めた。」そして神は言われました。「私の恵みは十分である。」つまり、心配するなという事です。「私はそれを取り去らないが、あなたがこれをやり遂げられるよう助ける。あなたはこれをやり遂げるだろう。」そして実際、パウロはやり遂げました。何故でしょう? 彼が王たちの前に立たなければならなかったからです。彼はカエサルの前に立ち、カエサルの家族さえも福音に勝ち取らなければなりませんでした。


人々が物事についてしっかりとよく考えないのには驚かされます。そして彼らは、誰かが投げてよこした、どんな宗教的教義も真に受けてそこにのめり込んでしまうのです。その人たちは、癒しのミニストリーなど何も持っておらず、癒しの成果も全く出していないというのに。それなのに病気や疾患や癒しについて、彼らが話す全ての事を信じてしまいます。これらの事を説いている人々は、癒しの成果を目にした事など一度もないというのに。全く驚きです。破産した人の所に行って、お金の儲け方を尋ねてはいけません。貧しい人の所に行って裕福になる方法を尋ねたりはしないでしょう。ですから、病気の人の所に行ってどうやったら癒されるかを尋ねてはいけません。そういう事を伝える人々の大半は、自分も問題を抱えており、それを解決する事ができません。ですから、何か霊的な事を思いついてそれらしく聞こえるように造り上げるのです。「そう、私は霊的だからこのようなとげがあるのです」といった具合に。それが本当なら、そうした人々のように霊的になりたくはありませんね。むしろ、イエスのように霊的になりたいですね。アーメン?では休憩にしましょう。

New Man セッション17

セッション17


さて、前に戻りましょう。マタイによる福音書7章から再開します。9節まで読みましたが、もう一度読みます。マタイ 7:9-11「あなた方の内の誰が、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。この様に、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っているのです。それならなおの事、天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えて下さらない事があるでしょうか。」12節、「ですから、人からしてもらいたい事は何でも…」この言葉がどれほど広範な意味を持つか、お分かりでしょうか。「何でも」とはとても広範囲です。マタイ 7:12「ですから、人からしてもらいたい事は何でも、あなた方も同じ様に人にしなさい。これが律法と預言者です。」イエスが何を言っているか気づいていますか?イエスは、「彼らはユダヤ教の信仰において従わなければならない613の掟を細部にわたって作り上げまとめたのです」と言いました。ところがここでは、「これらの事、つまり、人からしてもらいたい事を他人にすれば、律法と預言者を全うする」とイエスは言っています。イエスが人々に伝えようとしたのは、自分にして欲しいと思う事を他人にもする事でした。私が子供の頃、これは「黄金律」と呼ばれていました。私たちはそれに慣れすぎている為、守るべき良いルールの事だと分かっていても、あまり高く評価しません。イエスはこれを基準にしています。イエスは様々な教えをしました。裁かれないように、人を裁くな。もしあなたが裁くなら、どうなるかなど。しかしイエスが言われたのは、「要約すると、あなたがすべき事は、次の事を覚えておく事です。自分にして欲しい事を人にもする。そうすれば、神の御心のままに生きる事になります」というものでした。とても単純ですね?こうしなければならない、ああしなければならない、こうするのが正しい、ああするのが正しいという考えを頭から捨てて下さい。違います。もし皆さんがただ自分の人生を生き、自分にされたいように人にするなら、常に神の意志の中にいる事になります。どんな反響や影響があるか、皆さんは気づいているかどうか分かりませんが... まず、イエスがパリサイ人にどのように対処したかを思い出して下さい。イエスは彼らを偽善者と呼びました。偽善者とは、演技する人たちです。イエスは人々に、彼らが言う事を行うように、でも、彼らのする事はしないようにと言いました。何故なら、彼らは自分たちが教える事をしないからです。その理由は、彼らが偽善者だからです。彼らは人に命令はするが、実行はしません。イエスは、彼らの言う事は正しいから、彼らの言う通りにしなさいと言いましたが、彼ら自身は実行しないので、彼らの真似をしてはいけないと言いました。彼らはただ人に言うだけなのです。


皆さんに聞きますが、イエスは偽善者でしたか?もちろん、そうではないです。「人からしてもらいたい事は何でも、あなた方も同じ様に人にしなさい」という言葉は命令ではありませんか?イエスは人々にそうするように言っています。このように生きなさいと言っていますよね?ではまた質問します。イエスは偽善者でしたか?偽善者とは、自分がやらない事を人にやるように命令する人でした。イエスが偽善者ではなかったとしたら、そして、他人にしてもらいたい事を他の人にしなさいと命令したという事は、イエスはその命令の通りに生きていたという事です。イエスは偽善者ではありませんでしたから。という事は、イエスは善を行い、悪魔に虐げられている全ての人を癒したという事です。何故なら、もしイエスがそのような状況にあったなら、それがイエスご自身の為にして欲しかった事だからです。私がしようとしている事は、イエスがご自分で説いたのと同じように生きた事を、皆さんに知ってもらいたいという事です。イエスの説教は、ご自身の歩みと異なるものではありませんでした。イエスは偽善者ではなかったので、そのような事はできませんでした。人々は言います。「イエスはただ、父の言われた事を言い、父のなさった事をしたのです。」誰もがそう言い、その二つが別のものであるかのようにしますが、それは同じ事です。イエスは御父がなさった事をどうご覧になったのでしょう?イエスが言ったように、「人からしてもらいたいと望む事は何でも、人にする」という事です。イエスは、「何故なら、もし御父がここにおられたら、それが父がなさる事だからです。もし私の父がここにいたら、父がそうしているのを見るでしょう」と言ったのです。聖書は、「善を行う事を知っていながらそれを行わない者にとって、それは罪である」と言っています。もし善を行う力が手にあるのに、それを行わないなら、それは罪だと書いてあるのです。そうですよね?ですから私たちは気づかなければ...私たちは小さな事にこだわり、その小さな事を大きなものに作り上げてきました。ところが、実際はとても単純な事なのです。前にも私が教えたように、最も偉大な信仰とは、最も広範で漠然とした約束を具体的な状況に適用できる事です。それが最も難しい事だからです。もしイエスが、「いいですか。毎週土曜日の午後三時半に、病人に手を置けば癒される」と言ったとしたら、全く難しい事ではありません。それはかなり具体的です。それで、どうするでしょう?人々を並ばせて...おかしな事に、そう決めたとたんに、「それはどのタイムゾーンですか?ああ、エルサレム時間帯にです。では、エルサレムのタイムゾーンで」となるのです。そうしてまた複雑にしてしまいます。土曜日の午後3時30分、手を置けば人が癒される、そのような具体的な約束事を、それを実行するという事ですが、それはほんの少しの信仰だけ必要です。何故なら、とても具体的な命令を受けたからです。


しかし、信仰とは、漠然とした命令を受け入れる事ができる事なのです。次のように言いましょう。おかしな事に、多くの人は、僕がのんびりしすぎていると怒ります。私は演出が足りない、十分に奮起していない、彼らが望むように物事を進めないので、それで彼らは腹を立てます。彼らはもっと私に...しかし、私はこれ以上ないほど真剣なのです。私が生きようとしている一般的なルールは、自分の仕事に真剣に取り組み、自分の召しに真剣に取り組むという事です。ただ、私は真剣になりすぎないという事です。面白いジョークがあれば、それを私に聞かせてくれれば、私も一緒に笑います。良い冗談ならですよ。対象が誰であろうと、面白ければ面白いのです。自分自身を笑う事ができないなら、自己防衛上の問題があなたにはあるのです。この幅広い約束を受け止める事ができなければいけません。マルコ16章は、幅広い約束です。信者が病人に手を置けば、病人は癒されるというものは、幅が広い約束です。厳密には、三つ、四つの具体的なものがあります。まず、信者である事、信者が手を置く事、病人がいる事、そして、病人が癒される事です。これら四つがあります。幅広いのですが、ある種の具体的なものもあります。私が始めた時、これが私たちがやっている事だ、と本当に迫った唯一の聖句でした。今も、それを土台として教えています。しかし同時に、人々は私がいつも手を置かず、言葉で命令するので腹を立てます。私は、食物アレルギーを持ち、特定のものが食べられない人たちを前にして、「あなたは何が食べられないのですか?それが食べられないのか?でも、それを食べて下さい」と言います。彼らは「食べられないって言ったでしょう?」と言いたいようにします。私は、「そう、だから食べてみて下さい」と言います。彼らが食べると、彼らは自由になり、癒されるのです。何故でしょう?彼らは命じた通りにしたからです。私たちは世界中でそうしてきたが、それは殆どつまらないものです。私たちは、「神様、食事に行かせた方が宜しいですか、それとも私たちに手を置いて欲しいのですか?」といった事をする必要はありません。そうすれば結果が出たから、そうすればいい、という感じなのです。人々が来るなら、「どうぞ、そのようにしたら良いです」と言いえば、彼らは何かを言うでしょう。人々は大抵、私に祈って欲しいと尋ねます。私は祈る事をしません。ただ、問題を言えば、私はその問題に対して、出て行けと言うだけです。それは祈りとは呼ばれるものではないですね。アーメン?私の義理の母は長年エホバの証人で、私が妻と出会った時も、彼女はエホバの証人でした。それで私たちはあまり仲が良い方ではありませんでした。今は文字に直して転写するお手伝いをしています。こうして変えられた事は驚く事です。彼女は私が本物かどうか確かめる為に、何年も私たちの生活を見ていたのでした。


私の人生で最も素晴らしい日の一つは、彼女が首に痛みがあると言った日でした。彼女は交通事故に遭っていて、首を安定させる為の装具を着ており、首の問題を抱えていました。私の妻は、「カリー、早く。お母さんの為に祈って。」妻の母は、私がやたら宗教熱心だと思っていて、彼女は自分の為に祈って欲しいなどとは決して言わず、そこにはいつも、私たちが突破できない壁があったのです。レストランの外に出て、食事をして、戻って来て、妻は自分の車に乗り、私は自分の車に乗ったところ、妻は私をひきとめて、「カリー、お母さんはあなたに祈ってもらいたいの」と言いました。私は、「本当に?そう言ったの?彼女の為に祈って欲しいと私に頼んだって?」「そうよ。」「わあ。そうとう酷いんだね。よほどの痛みなんだね(笑)。」それで私は彼女のいる車の近くまで行き、車に座っている彼女に近づいて言いました。「祈って欲しいという事ですか?」彼女は言いました。「ええ、でも、その前に、あなたは以前のあなたとは違うと言ってほしい」私は言いました。「その事については言えますけど、でも既に知っていると思います。見て下さい。この数年の私の人生は...」以前の私はクレイジーでした。それについてお話できます。(笑)その証はもう過ぎ去りました。まあとにかく、私は彼女を見て言いました。「私の人生は...」妻の母は私の浮き沈みを見ていました。彼女は問題など全てを見ていましたが、その後はスムーズに行っているのを見ました。それで彼女は納得したようで、祈ってくれという事になりました。私にとっては大きな出来事でした。義母から祈るように頼まれたら、それは信頼に値するという事です。義母があなたに祈るように頼んだら、あなたが本物だという事です。アーメン?一般的に、他の誰よりもあなたの事をよく知っているからです。さらに素晴らしい事に、義母は私たちと一緒にメッセージの文字起こしを助けています。私たちの出す本の殆どは、彼女の働きがあっての事なのです。


面白い事に、彼女はメッセージを沢山聞いたので、今や私のように説教する事ができるでしょう。義母は、「ほら、ここの所。私はこのようにしたけど、あなたらしくないので、修正する必要があると思うけど」などと言います。彼女はまた、よくこう言います。「あなたの言葉は文字にするのが本当に難しい。文章の半分くらいしか終わらないから。」(笑)実際、私はそうします。分けたり、話が飛んだりします。彼女は、「ここが前半で、後半はどこなのか理解しようとしているのよ。これはこっちに置くけど、あっちに戻さないといけない」などと言います。それで、私の言う事は、文字にするのは難しいそうです。しかし今、彼女は上手くやっていて、メッセージでさえもできるほど成長して、素晴らしいです。ある日、私は彼女が住んでいる町を通りかかりました。私たちがいる場所から北へ約一時間です。彼女とレストランで会って、昼食をとり、本の話をしました。私がそこを出ようとしていましたが、まだ座っている時に、「出て行く前に」と彼女が言いました。彼女は、「医者に行ったら、ここの所が。医者は皮膚がんだと言って、取り除いて方が良いと言ったの。それで、あなたにこれに、一言、言って欲しいの。」 誰もそんな事を私に言いません。みんな、「祈ってくれませんか」と尋ねます。しかし彼女は私のメッセージと神の言葉を知っているので、そう言ったのです。私は彼女に次のように言いたいと思いました。「あなたはもう癒されています。あなたが私に頼んでいる事を信じて、自分でやってみて下さい。あなたは信じています。どのようにして尋ねるか知っているので、自分でできます。」それから私たちは外に出て、帰ろうとしていました。「ちょっと、それに言います」と私が言うと、彼女が腕を伸ばしてきました。私は「イエスの名において、お前は彼女の体から離れろ。ここに留まる事はできない。お前は行かなければならない。全て死滅しろ」と言いました。そして私は帰りました。その時は、私はまだデンバーに住んでいて、彼女はダラスの北に住んでいました。数週間後、私はダラスに戻った時、彼女に会うと、「医者に戻って調べさせたら、がんは無くなっていました。その全てが無くなっていた」と彼女が言いました。神に栄光あれ。


私は以前...数年前、私の腕にシミができて、腕を擦るとピンと刺さったような、まるで破片のような感触がありました。目でも見えました。私は皮膚がんも取り扱った事があったので、「いや、お前はそうする事はできない」と言って、その上に指を乗せて、「イエスの御名において、お前は死滅しろ。私の体から離れろ」と言いました。それだけでした。それから私は仕事をしました。次の朝、起きると...およそ三、四週間だったと思いますが...私は一日中、「おお、神よ。がんを癒して下さい」などとしませんでした。私が考えていたのは、それ(軽く扱う事)だけでした。ただ指をおいて、死滅するように命じて、仕事をしました。翌朝起きると、その後、それが見当たらなかったので、見つける為に探さなければならなかったのです。ただ「イエスの御名によって、死滅しろ」と言っただけでした。それから三、四週間後のある日、私は朝起き上がると、それを探しましたが、ありませんでした。いつ消えたのか分かりませんが、たぶん、前日から今日にかけての一晩でしょう。その事についてずっと考える事はしませんでした。ただそれに言って、出て行くように命じただけです。何度も命じて、神をほめたたえ、神に感謝し、それだけで終わりました。このように、私は自分で問題を解決しました。何故こんな事を言うかというと、大抵の人は「これに言って下さい」と言う代わりに、「祈って下さい」と私に頼むからです。しかし私はそれに言います。何故なら、山が動かされる必要があるからです。聖書のどこにも、病気について神に祈れとは書かれていないし、そのような意味で自分の問題について神に祈れとも書かれていません。癒しの為に祈れともかいてありません。イエスが誰かの為に祈った場所は一つもないのです。主はいつも問題に話かけ、それらに行くように命じられた。イエスは人々に癒しを受けなさいなどと言ったのです。イエスは宗教的なもののようにはしませんでした。もし、クリスチャンに私がそうしたなら...気づいていますか、皆さんの多くは...私の所へ来て祈りを求めます。それは構いませんが、皆さんが「こうして下さい」と言えば、「そうしましょう」と私は言います。しかし気づいていますか?ここへ来て、「カリー兄弟。これに言って下さいませんか?」と言えるのです。私は「何ですか?分かりました。神よ、イエスの御名によって」と言えるのです。全く同じ事なのです。マルコ16章を読むと、信じる者が病人に手を置けば癒される(回復する)とあります。信者が祈れば、とは書いてありません。私たちはそのようにして読んでしまっていますが、信者が病人に手を置けばなのです。


マルコ16章は、信者が未信者にしるしを見せて、福音の現実を彼らが知る為にやるものです。信者が信者に手を置く事ではありません。いやしというしるしは、信者に伴うものです。ここでの病人とは、未信者の事で、神が実在するという現実を見る事ができ、自由になるように、しるしが彼らの為に行われるという事です。それで、マルコ16章は、信者が未信者に手を置いているのであって、信者が信者に手を置いているのではないのです。これを言っている理由は、他の別の事がありますが...時間がないのでそこに行く事はできません。イエスは、マタイ 7:12の箇所で、「ですから、人からしてもらいたい事は何でも、あなた方も同じ様に人にしなさい。これが律法と預言者です」と言いました。それに関係して、次の節では、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです」と言いました。ですから、滅びに至る広い道があり、「命に至る門は狭く、それを見いだす者は少ない」のです。この箇所を読むと、私たちは自動的に、イエスが話していると考えます。私たちは、イエスが御父への唯一の道であり、御父に近づく為にはイエスを信じなければならない事を知っています。そうでしょう?私たちは、イエスが唯一の道であり、イエスは命に至る狭い道である事を知っています。しかし、広い道は破滅に導く道であり、多くの人々がその道を歩むとも書かれています。しかし、命に至る道は狭く、その道を行く者は少ない。そこへ行くと主張する全ての人が、そうではないという事が分かります。そうですよね?マタイ 7:15「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなた方の所に来るが、内側は貪欲な狼です。あなた方は彼らを実によって見分ける事になります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶ事はできず、また、悪い木が良い実を結ぶ事もできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなた方は彼らを実によって見分ける事になるのです。私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行う者が入るのです。」


ローマ書では、イエスを主と呼ぶなら、主とするなら、救われるとあります。しかしイエスは、「主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、御父の御心を行う者だけが入る」と言いました。ですから、ただ救いの為の祈り以上の事があるのです。私たちの問題は...主の御名を呼ぶとは、主の御名を呼び求めるという意味でありますが、それはもっと深い意味があります。インターネットで最近、それについて学びをした所です。私たちは毎週日曜日の朝、教会の礼拝の一環として、アメリカからインターネット放送を行っています。朝の十時から一時間くらいやっています。短いシリーズの、二つのセッションだったと思いますが、やりました。そのタイトルは、信じるとはどういう意味かというものです。人々は、神を信じると言うのですが、意味論のようである事は認めますが、信じる、信じた、信じているという違いがあるのです。時計を今見ると、これこれの時間だと分かります。そして、今、信じると決めます。その一分後、私は先程の時間に、信じましたと言う事ができます。その意味は、ある地点で心を決めたという事です。そうしなかったのなら、信じなかったという事です。信じるとは、決めるという事です。言っている意味が分かりますか?ある時、ジョン・レイクは言いました。「祈って、祈って、祈って、自分自身が不信仰になるまで祈り続ける事ができる。」彼らは祈りの集会を持っていました。祈りのリクエストが沢山あり、その為に祈っていました。そしてジョンは、「さあ、私たちは祈りました。今度は五分持つ事にしましょう。そして、神を信じましょう」と言いました。この精神が分かりますか?祈って、宣言して、それはもう終わったものとして考えるのです。スタンプを押して、終わったとするのです。終わったものとして次に行こう、とするのです。私の言っている事が分かりますか?それは終わったと決心する必要があるのです。もう終わったと決めたら、それが終わったと、信じた事になるのです。そうですよね?信じた後、そこで止まってはいけません。信じるとは、それがなされたとみなし、なされるだろうと信じている事ではありません。これは、信仰の基本的な事です。マルコ 11:22 では、既に得たと信じなさい。そうすれば、その通りになるとあります。既に得たと信じる事と、霊においてそれを所有する事、信仰によって見る事の間には時間のギャップがあります。その部分は、皆さんが嫌いな所です。


誰も好きではありません。私はいつも言います。祈ったら答えを待つように、見るまで、待って下さい。その期間は、「その間」と呼ばれるものです。何故なら、その時、粗野なものがあるからです。それは困難な時で、諦めようと誘惑されたり、後退するように誘惑されるのです。しかし、私たちの考え方に問題があるのです。ヤコブは言いました。「様々な試練にあう時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」以前にも言いましたが、私は誰かが次のように言うのを聞いた事がありません。「カリー兄弟、誘惑にあっている最中です。でも、神に栄光があるように。」そういう事は起こりません。反対に、「ああ、何故これが起きているんだ。カリー兄弟?」私は知りません。喜びと思い始めるまでは、それが続くかもしれません。しかし、喜びとする時、見ていて下さい。それがどのように変化するかを。そして、変わったのは「それ」ではなく、「あなた自身」だった事に気づくでしょう。そして、あなたが変わった時、あなたが信仰に入った時、それは変わるのです。ですから、それはあなたを待っているのです。そうですよね?信仰とは何かという事を考え始めると...私たちは問題を望んではいません。人生が祝福され、素晴らしいものであり、問題を望みません。問題が無い時...どうそれを定義するかによりますが、大抵、信仰を用いるのは問題に対してだけですよね?一般的に、問題の無い事に信仰を使いません。新しい教会堂が必要であるにしても、それはあなたが信仰を適用している問題と言えるのです。しかし私たちは、信仰を用いる事を避けようとするのです。人々は、「その状況について、祈っています」と言います。「祈らなければならないほど悪化しているのですか?」「はい。悪い状況です。」そうするのは、問題であるからです。よく聞いて下さい。もしかしたら、これが皆さんに違う視点を与えてくれるかもしれません。


これが時間だとしたら、これはタイムラインで、これが祈る時、ここが見る時、物理的に現れる時です。それは1分かもしれないし、1週間、1カ月、1年かもしれません。癒しについて言っているのではありません。ただ信仰の適応について、結果を見る事について語っているのです。皆さんは何を望みますか?ここからここへと、できる限り早く到達する事を望んでいます。そうですよね?ビューっとこちらに来たいですね。「イエスの御名によって、アーメン」と言って、結果を見るという事です。そうですよね?このような事が早く起こるほど、信仰に立つ時間が短くなる事を知っていますか。従って、神を喜ばせる時間が少なくなるのです。ここからここまでが、神を喜ばせる唯一の時間だという事を知っていますか。分かりますか?結果を得るまで、信仰はあなたにとって問題です。奮闘であり、敵です。何故なら、あなたはどうして早く起こらないのだろうと考えるからです。何故、自分の信仰は働いていないのか?しかし本当は、「神に栄光あれ。私の信仰は働いており、神を喜ばせる時間がたくさんある」と言っているべきなのです。そうした考え方を持つ時、何かを楽しい事をしていると見えるのです。面白い映画を見て、それが終わりそうな時、「ああ、たったの二時間だ。もっと長いものに仕上げられたのに。終わってしまうなんて」と言うでしょう。或いは、良い本の場合でも。それを読んで、「ああ、読まなけりゃ良かった。そうすればまた初めて読めるのに」という感じのように(笑)。「とても面白くて、終わってしまうのが嫌だ」という感じです。アーメン?


楽しんでいる時は、あっという間に時間が過ぎてしまいますが、問題は楽しんでない時です。ことわざにあるように、「見ている鍋は沸騰しない」のです。それ続く言葉は、「忘れていれば、沸騰する」です。でも、そこに立って待っていたら、時間が掛かるように見えるのです。それと同じで、信仰があなたの問題になっている時、信仰は沸騰させたい鍋のようなものです。そこに立ってただ、「早く、早く、早く、ほら、ほら、急いで、急いで」と言っていて、時間が掛かるようなものなのです。しかし、もしあなたがただ種を蒔き、イエスの御名によってそれを受け取り、そして日常を過ごして行くなら、次に振り返った時、「ああ、もうすぐだ。結果を見始めているんだ。或いは、もう見えているだろいう」となるのです。私の言っている事が分かりますか?私たちはすぐに信仰から抜け出そうとしてしまいます。私たちは信仰に入る方法を探すべきなのです。聞いて下さい。あなたの信仰は常にそこにあるべきです。一つの信仰の企画への答えが得られたら、次のものを探すべきです。他に何を信じる事ができるだろう?何かないか探してみよう、と考えるべきです。「私は何も必要なものはないし、全て順調です。あなたはどうですか?あなたの為に祈ります。自分の信仰を広げたいのです。あなたの為に祈りましょう」というものです。何故かと言えば、私たちが神を喜ばせる唯一の時は、結果を見るまで信仰を植え付ける時だからですが、私たちはその時に入ろうとしないのです。全てを喜びとして下さい。信仰の旅を喜びとしなければならないのです。様々な誘惑に陥っても、それを喜びと思って下さい。どんな誘惑ですか?神を信じない、後退する、信仰を撤回する、止まってしまうなどの誘惑です。「まあ、上手く行っていないのだろう。」「何故、そう思うのですか?」「何も見えなかったからです。」でもそれなら、あなたは決して信じていなかった事になるのです。


マルコ11章に行きます。これを心に刻みましょう。11節です。「こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、全てを見て回った後、既に夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。」12節 「翌日、彼らがベタニアを出た時、イエスは空腹を覚えられた。」イエスはここで、必ずしも信仰の教えを授けようとしていたわけではありません。ただ食事を求めておられました。お腹が空いていたのです。13節「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉の他には何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。」主がそれを知らなかったとでも思いますか?いちじくの実がなる時期を知っていたと思いませんか?見て下さい。イエスがそこへ行って、いちじくの木を見ると、その時期ではなかったので実がありませんでした。そしてイエスは、「言われた」と書いてあります。イエスが言われたのは、この木がイエスに言った事でした。分かりますか?木は明らかに話してはいませんが、イエスに「いいえ」と言っていたのです。イエスがいちじくの実を取りに来ると、その木は「いいえ」と言ったのです。実がなる時期ではなかったというのは本当ですが、イザヤでは、義に歩む者には、野の木も季節の前に実を結ぶとあります。イエスは義のうちに歩まれました。種蒔きと刈り取りについて話すなら、農夫たちは、いちじくを得る為に待たなくてはなりませんでした。何故なら、その時期ではなかったからです。しかし、義であるイエスは、まだ芽が出る時期でもない木に近づいて、いちじくの実がなる事を期待したのでした。それがイエスが考えていた事です。イエスがそこに行かれると、その木は、いちじくの実を与えないと言ったのです。この木は神の言葉に従わなかったので、神はこの木に答えられました。いちじくの木がそんなふうに話すと思うなんて愚かだと言うのですか。ではお尋ねします。アダムが生きていた間、他に誰が地上にいたでしょうか。アダムは大地を豊かにし、それを治め、大地を従わせなければならなかったのでした。アダムは、木やその他のものを従わせなければならなかったのです。では聞きます。動物たちに名前をつけようとした時、神は動物たちを呼んで、自分のそばを歩かせました。そうですよね?アダムは動物に彼らが呼ばれるべき名をつけました。アダムは彼らに名を与えましたが、動物たちは従わなければならなかったのです。


木々が従い、動物たちが従い、地球全体が従うという事が何度も書かれているのを聖書から見る事ができます。全ての被造物が神の子が現れるのをうめきながら待っている事を覚えていますか。何故なら、それらは束縛の中にいるからです。うめいているのです。音を出しているのです。カール・バウ博士は、他の科学者も、ケント・ホビンドも、ある同じ事をしました。彼らは、今は実際に装置を持っていて、野の木々が手をたたくと聖書で書いてあるのを実際に聞く事ができます。レバノンの杉の木が歌っている事も。彼らは全ての木が歌う事を証明しました。全てのものが歌い、全てのものが音を出すのです。テキサスに私の友達がいます。彼はすごい人です。最も控えめな人物の一人です。人を助ける男です。素晴らしい人です。私が彼を知る前、彼は死んで天国に行きました。彼は死んで天国に行き、三分間そこにいました。でも、彼にとって三分間は、一日中だったそうです。しかし、彼は全ての話し、起こっている事の全てについて話す事ができます。木々や草花はみな歌い、神の賛美を歌っていたとの事です。そしてそれらは歌い始め...あまり詳しく言うと、彼の話を本当に台無しにしてしまうかもしれません。でも、私の記憶が正しければ、鳥さえいて、鳥はその小鳥に歌を歌っているのだと彼は話していました。母鳥は子鳥に神の賛美を歌い、子鳥はそれに応えて神に賛美を歌い返しました。花々は神を賛美していました。そこにあるもの全てが......空気そのものが......彼がそう表現したように......まるで水の中を歩いているようでした。扇風機を回せば、皆さんは空気を感じる事ができます。何故なら、空気の流れを作り出すからです。一般にはこちらから空気が入って来ません。ここにある空気が前方の空気を押し出すので、目の前の空気が顔に当たっているのです。それで、空気を押し出すからです。もし私がここに立って、空気を入れて、こうして強く振ったら、気流が皆さんの方に向かってくるのを感じる事ができます。


同じ事が、水だとよく分かります。水中でこうすると、水の流れを作る事ができます。霊の領域とはそういうものです。水の中にいるようなもので、どんな動きも他の何かに影響を与えるのです。空気もそうですけど、私たちはそれをあまり意識してはいません。水は...言い換えると、分子なのです。波は分子と分子がぶつかるだけです。霊の領域ではまさにそうなのです。そこでは、神の力を放つ事を知るなら、言葉によって、見るだけで、或いは、手で放つ事ができます。私は皆さんに手を置いて力を放ち、そこへと力を移したり、後列の人に「イエスの名によって」と言うだけで、文字通り、投げるようにして、力を解放する事もできます。ベニー・ヒンが行った幾つかの例、彼が腕やジャケットを振ると、人々が倒れるというような事など。その幾つかは本物ですが、幾つかはそうではありません。彼を責めてはいけません。腕を振って倒れたとしても、それが本物かどうかは、その人の責任ではないのです。ですから、私は彼の事を責めるつもりはありません。私にとってはどちらであっても、関係ありません。しかし、人が神の力を感じる事ができるような方法で、自分から神の霊を投影する事がき、全員がそれを感じる事ができるか、最後の人だけがそれを感じるかを決める事ができるのです。恐らく、この部分は皆さんに言うべきでもないかもしれませんが。パウロは以前から知っていた幾つかの事柄に基づいて説教しました。以前から知っていた事を、神は彼に示され、パウロは、以前に知っていた事と関連づけ、それを用いて教える事ができたのです。そのような方法で、主は誰にでもなさるのです。伝道師がかつて漁師であったなら、漁の話をするだろうし、漁の例え話を使うでしょう。私は格闘をやっていたので、物事を実証する為に、それに例えて説明する事もあります。私は学んでいた頃の事を覚えています。多くの学びでした。数年も掛かりました。ある男が、1800年代後半から1900年代前半にかけていました。クー・ユー・チョンという中国人です。彼は「鉄の掌」として知られる人でしたが、彼の手は柔らかかったのです。硬い手ではありませんでした。力ではありませんでした。それは中国語で霊や呼吸を意味する「気」と呼ばれるものでした。


ヘブル語の「ルゥア」のようです。ギリシャ語では「ニューマ」で、同じ概念です。違うのは、中国人は神が関与しているという考えがなかった事です。そして、彼らはこのような事に手を出し始め、「気」というものを開発し始めました。彼らは、その特定の方法を「チ・グーム 」と呼んでいます。それは、中国式の気の開発法です。そしてその人は、身長170センチ、体重40キロくらいで、骨と皮でした。彼がデモンストレーションを行った時、彼が服を脱ぐと、肋骨を数える事ができました。筋肉がありませんでした。彼はタイルやレンガを積み上げ、人々にこう言いました。「選びなさい。どれを壊して欲しいか?」彼らは、「それら全てだ」と言います。「簡単な事だ」と彼は言って、彼はそこに立ち、(拳)を落とすのです。すると、全てが壊れたのでした。それからタイルを回収する為に数分かけ、「一つ選べ」と言うのです。彼らは、「13枚のタイルのうち、上から8番目だ。8つ数えて、それだけを壊し、他のものは壊れないように」と言います。彼は「分かった」と言って、軽く叩き、8番目のものを壊します。どうやってでしょう?彼は霊の力を投射する方法を学んだからです。あれは悪霊に強化されたのですかって?そうです、間違いないでしょう。私が格闘をやっていた時は、絶対に悪霊に取り憑かれていましたから。間違いありません。当時、私は今よりもっと小さかったです。当時は、身長163cmとか165cmとかでした。私の最高の体重は 59、60kgがベストでした。64kgまで行った事がありますが、60kgがベストでした。それで、デモンストレーションをしに行きますが、その中で、大きい人、大抵二人の大きな人を私は選びました。テキサスで言うように、フットボール選手のような人を選ぶのです。ここなら、ラグビーでしょうか。私はこれらの男たちを捕まえて、「いいか。私はそこに立つ」と言って、彼らに、「この辺りに全力でパンチをしてみろ。この辺り。ここじゃない。他のどこでもない。ここだ」と言います。二人に同時にパンチさせても、私はそれに耐えられるのです。クランチなどをたくさんやったので、筋肉のおかげもありますが、それ以上に霊的なものでした。そして、一番大きな男を選んで、こう言います。「ここに来て、私を持ち上げて。」 通常、彼らは「はい、これでよし」と言って、私を持ち上げて、そこに降ろします。それから私は、「今度は、30まで数えろ」と言います。そして、彼らが数を数えている間、私は意図的に「根を張る」と呼ばれる事をしました。そうすると動かされないのです。それから、「よし、もう一度持ち上げて」と私は言いました。しかし、私はそこに立っているのです。彼らは、「さっきやったよね。問題ありません」という感じでやろうとします。そして押したり、色々とやりますが、私の肩は上がっても、私の足は地面から離れないのです。何故なら、私は地に根を張ったからです。どんなに大きな男でも、背の高い男でも、強くても関係ありませんでした。私の足を地面から離す事ができなかったのです。何故なら、それは霊の力だったからです。神の霊ではありませんでした。私自身の霊でもありませんでした。私が思った事を達成できたのは、悪霊と連携した私自身の霊だったです。その目的は、私をより霊的に深く引き込む事でした。


神の霊も同じ事をなさいます。誰かに奉仕する時、それはあなたの霊だけではなく、あなたの霊と神の霊が共に働きます。これが神の意志だとあなたが決め、それを達成する為に、あなたが意図する通りに、神の霊とあなたの霊が共に働くのです。その目的は、私を神の霊の中に深く引き込む事にあります。ですから、私たちが神の霊を解放する事について語る時...この話をする理由は、皆さんに気づいて欲しいからです。私は最初に言いました。私たちが教えられてきた宗教的なやり方だけに神を限定するのではなく、もっと大きな視点から神を見て欲しいのです。神は偉大な事ができるという事に気づいて欲しいのです。考えてみて下さい。もし私たちが祈って同意する事ができるなら、もしイエスが百人隊長のしもべに語りかけ、遠くから彼を自由にする事ができるのなら、なぜ手を置く必要があると思うのですか?百人隊長のしもべは新生してもいませんでした。彼らは同じ霊を持っていませんでした。イエスはそのしもべに、「癒されよ」と命じてもすらいなかった事に気づいてますか。「あなたの信じた通りになるように」と言っただけです。「あなたが言った通り、信じた通りになるように」と。イエスはただ同意しただけです。そして、事は終わったのです。そうですよね?その人はその時から癒され始めたのです。マルコ11章で、イエスはいちじくの木にこう言っています。「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように。」弟子たちはこれを聞いていました。これはどういう意味でしょう?周りの人々がイエスの言葉を聞き取れるように、大きな声で言ったという事です。マルコ 11:15「こうして彼らはエルサレムに着いた...」イエスは前日、既に神殿に入っていて、そこから出てきて、戻る途中で、「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように」とその木に告げました。それからイエスは宮の中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されました。


マルコ 11:16-19「また、誰にも、宮を通って物を運ぶ事をお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「『私の家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、お前たちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どの様にしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していた為、彼らはイエスを恐れていたのである。夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。」それで、イエスは都から出たり入ったり、行ったり来たりしているのです。マルコ 11:20「さて、朝早く...」まだ24時間しか経っていないという事ですね。彼らが夕方に出かけた時、弟子たちは誰も何も言いませんでした。都を出て、戻って来る間、誰も何も言っていません。という事は、彼らは恐らく、(いちじくの木に対して)何の変化も感じていなかったという事です。何も変化は見られなかったのです。そうですよね?マルコ 11:20「さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧下さい。あなたが呪われた、いちじくの木が枯れています。」彼らが「呪われた」と言った事に気づいて下さい。イエスは、このいちじくの木に、「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように」と言いました。イエスはこのいちじくの木を呪ってはいません。「いちじくの木、死滅しなさい」とは言っていません。何が起こったか見て下さい。いちじくの木は、根本から死んでしまいました。何故なら、いちじくの木は従わなければならず、いちじくの木が今後、永遠に人がその実を食べられないようにするには、死ぬしかなかったからです。イエスは何をしましたか?主はご自身が望まれる結末を語られたのです。分かりますか?「いちじくの木よ、あなたに根から死滅するようにと命ずる」とは言っていないのです。イエスはただ、「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように」と言ったのです。いちじくの木は「それを確実にする唯一の方法は、死ぬ事だ」と考え、死んでしまったのです。


見て下さい。イエスはこの事を用いて教えます。ペテロは言いました。「あなたが呪ったいちじくの木は枯れています。」マルコ 11:22「イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。」他の人々は、この箇所を取って、「ギリシャ語では、神の信仰を持ちなさいと言っている」と言います。イエスはただ、「神を信じなさい。信じるのです」と言ったのです。信仰は信仰で、ただ何かを信じるという事です。それだけです。イエスは言いました。「神を信じなさい。まことに」...つまり、確かに、絶対に、疑いもなくという意味です。「あなた方に言います。誰でも」...これは大きな発言です。それは、皆さんを含みますか?誰でも「言うなら」...誰でも「望むなら」ではありません。誰でもこの山に向かって言うならです。『立ち上がって、海に入れ』とは、リクエストですか?祈っているのか、それとも命令しているのですか?望んでおられる事を話しているのですか?...『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。」イエスは「あなたの言う事が実現すると信じなさい。何でも言った事を手にします」と言われたのです。必ず実現すると信じなさいという事です。しかし、そこが問題でもあります。人々はこう言います。「私が何か言っても、それが実現しないのは何故ですか。」その理由は、スイッチを入れたり切ったりできると思っているからです。一度だけ命令を口にすれば、後はずっと、従順にあなたに従うと思っているからです。これから私が言う「嘘」とは、嘘をついたり、ごまかしたりするような意味ではありません。しかし例えば、「聖霊、来たれ」という歌を歌ったら、それは嘘だという事を理解していますか?特に、あなたが新生したのならです。生まれ変わっていないなら、それは全く違います。聖霊があなたの所へ来て下さる必要があるからです。しかし、新生したのなら、それはそれはむなしい空言になるのです。何故なら、御霊は既にそれをして下さったからです。そういう意味では、それは嘘になるのです。


おかしなものです。「何を望みますか?教会でもっと神を感じたいですか?」と言われると、「はい、私たちはもっと神を求めます。神を慕い求めます。神が必要です」と人々は言います。そして、「では、神の祝福があるように」と牧師が言って、その礼拝が終わると人々は出て行き、次に教会来るまでは、神について話もしません。教会にいる時は、「神を求めます。鹿がそうするように...」と言います。あなたは嘘をついています。何が欲しいのか、よく考えて下さい。あなたは子供に、「来週の木曜日に遊園地に連れて行くよ」と言えば、「木曜日はまだ?今日行くの?」と子供が話すのを聞くでしょう。何故なら、子供はそれを欲するからです。そのように尋ね続け、その事はその子の考えにあり、そればかりを考えているからです。「そこについたら、最初の乗り物はこれで、それが終わったら...そうだ食べ物、これを食べて、それからそこにいたら...」というように、そればかりを考えるのです。或いは、月曜日の夜に、「今度の土曜日は遊園地に行こう」と子供たちに言ってみて下さい。次の日に子供の部屋に入ると、どんな服を着て行くかの準備が整えられています。「これは何?」と聞くなら、「遊園地に着て行く服だよ」と子供は答えるでしょう。どうしてこうなるかと言うと、この事が彼らの考えにあるからです。人々は普段の生活では一言で済ませるのに、教会に行くと神の力を望み、神の言葉を語ろうとし、望んでいるものを期待しますが、そうではありません。常に神の事を考えている必要があります。私たちは人生を生きる事について話しているのです。イエスはスイッチをオンにしたり、オフにしたりはしませんでした。イエスはいつも信じていたのです。イエスは、信じていない事を、口にしてはいない事に気づいていますか。その事を考えてみて下さい。想像してみて下さい。もし、あなたがそれに従って言葉を並べなければならないとしたら...実際、そうしているべきです。


しかし、そうしなければならないと想像してみて下さい。殆どの人がそう望んでいますが、もし魔法のようなもので、あなたが言った事が全て即座に起こると想像してみて下さい。誰もあなたの町に残っている人はいないでしょう。道で誰かに割り込まれると、あなたは、「あんたのタイヤがパンクするように」と言い、「ボン、ボン」となります。家では、「言っておくけど、これが嫌いなんだ。ただ気分が悪くなるんだ」と言うと、その通りになるのです。分かりますか?もし神があなたの言葉を尊重されるなら...神はサムエルについてそう言われました。サムエルの言葉は一言も地に落ちませんでした。神は彼が求めた全てに答えて下さいましたが、(サムエルのようでない)私たちは神の力を求めているのです。神の力はどのようにして来るのですか?神の力が発揮される一番の方法は、言葉なのです。それが一番の方法です。イエスは言いました。「何を望んでいるのか?」ある人が、「目が見えるようになりたいのです」と言えば、「目が見えるようになりなさい」と答えられました。言葉です。「どうして欲しいのですか?」「主よ、お言葉一つで、そうなります。」「宜しい。あなたが望む通りに、信じる通りになるように。」娘のいた女性に対しては、「子供たちのパンを取り上げて、犬に与えるのはよくない」とイエスは言われました。「はい。しかし、犬でもパンくずは頂きます。」「あなたがそのように言ったので、行きなさい。あなたの娘は解放されます。」言葉です。いちじくの木に対しては、「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように」と言われると、それは死にました。イエスが言った事は全てその通りになりました。言葉は神の力を伝える第一の方法なのです。アーメン?


私たちはこの地球上で唯一、自分の口から出る言葉をコントロールし、指揮する事ができるものです。アーメン?しかし、私たちはただ言葉を投げつけ、何についてもおしゃべりします。その一方で、教会においては、祈って何かが起こるのを見たがるのです。例えば、週に一度ジムに言って、ボディービルのコンテストに参加できると考える事はありません。分かりますか?実際にエクササイズしなければならないのです。ジムに行って、そこで立って、プロテインバーを食べたり、ジュースを飲んだりするだけではありません。それから家に帰って、座ってテレビを見るなら、殆どの運動は親指だけです。座ってポップコーンを食べたり、テレビの前に座ってアイスクリームを食べたりしておいて、「二ヶ月以内に、ボディービルのチャンピオンになるんだ」と言う事はできないのです。そのようにはならないのです。目標の為の生き方が必要です。アーメン?ボディービルダーや優勝者を見て下さい。彼らは、世界一うっとうしい連中です。何故なら、一緒に食べに行くと、「ここでは食べられない。」「どうして?」「これこれがないから。」「問題ないよ。一度だけなら。」「いいえ。」私の娘がグルテンフリー、乳製品フリーなどの...私にしてみれば、食事フリーですが(笑)。どこか食べに行った時、「ここにしよう」と私が言うと、「ここでは食べれない」と娘が言うのです。「じゃあ、お腹空かしていなさい。私はここで食べるから。」しかし、彼女は規律正しくしていました。私が言いたい事はそれです。誰かに律法主義を押し付ける事について話しているのではありません。しかし、鍛錬される事は価値ある事なのです。ですから私は、嬉しいという意味の表現を「死ぬほどくすぐったい」で表そうとはしません。それは嘘です。くすぐる事で死ぬ事はありません。私はくすぐって死んだ人を知りません。私がその最初の人になるつもりはないです。私は死ぬほど驚きません。死ぬほど行きたいのでもありません。ですから、そうした事を私から聞く事はないでしょう。理由は、私の口から出た事は実現すると信じているからです。皆さんは、私の口から出た事は必ず実現すると信じているので、祈りの為に私の所へ来るのです。


私がやろうとしているのは、皆さんの口から出た事が実現すると信じられるようにする事なのです。そうすると何が起きるか分かりますか?皆さんは、「カリー兄弟。この事について同意してもらえませんか」と言って私の所へ来ます。私は、「同意します」と言うと、私たちは合意の祈りをします。何事に関しても、二人が合意すれば、それはなされる、という事です。それがどんなに強力が知っていますか?イエスは、そうの通りになると言われました。もし、たぶん、知る由もない、という事ではありません。ですから、夫婦は...神の為の発電所であるべきです。二人が一つですから。目標、大志、望みが一つです。二人は、同じ方向へ向かっているべきです。一緒になって何かに合意する時はいつも、二人が一つになって合意しているのです。同意して祈るべきです。そうすると事が起こります。同意するだけで。同意の祈り、話し言葉など、それらの一つを取って、焦点を当て、心に刻み、のめり込むなら。つまり、黙想して、学んで、御言葉から掘って、言葉にし、宣言し、その通りに歩み、夢中になるなら、比較的短い間で...それらの一つを、どれか一つを始めると、それはあなたの為に働き始めるでしょう。こうして自分で自分を鍛錬するという事です。神はそれを尊重して下さいます。「全ては賜物であるべきだ」と言う人もいます。しかし賜物とは、主の中に入る事、賜物とは、病人に手を置く事ができる事です。それは全て、神が恵みによって与えて下さったという意味で賜物なのです。聖書では、「敬虔の為に自分自身を鍛錬しなさい」と明確に言っています。それは賜物について言ってはいません。「自分を律しなさい、若い時の情欲を避けなさい、これらのものから離れなさい、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てなさい。」恵みを誇張して、間違って考えている人々がいます。それは別の溝です。神の恵みではありますが、その恵みによって、私たちはこれらの事ができるのです。人間としてこれらの事をするのではありません。こういう事ができるのは、恵みによるのです。何故なら、神の恵みが私たちにそうさせて下さるからです。何故なら、私たちは神の中にいるからです。それが神の恵みです。私たちは病人に手を置く事ができますが、世の中の人たちは、こんな事はできません。彼らは医者の所へ行かなければならないし、切ったり、薬や注射を打ったりしなければならないのです。病人に手を置いて回復するのを見るという神の恵みを得られないのです。こうした事に上手くなりたければ、練習するのです。


人々は言います。「癒しの練習をする必要はないと思う。」しかし医者は練習します。彼らはそう呼ばれていませんか?「一般に練習する人(通常の英語は一般開業医の意味)」と?(笑)それは練習です。これは医療練習(通常は医療行為の意味)であり、皆さんはその練習を受けているのです。(笑)ですから、年寄りの医者がいいのです。多くの練習をしたのですから。アーメン?最初のモルモットではないからです。いやむしろ、真ん中くらいの練習をしてきた人が良いでしょう。若い医者は何も知らないので、いりません。若い医者はあなたに対して練習します。真ん中くらいの経験を持った医者良いでしょう。十分な経験を持ちながら、再挑戦もできるくらい若い、と言われるからです。そういう医者が必要なのです。分かりましたか?自分が実現させたい事だけを口にするように、自分を鍛錬しなければなりません。これが聖書なのです。

New Man セッション18

 セッション18


さて、聖書から幾つかの箇所を読みたいと思います。まず詩篇136篇です。詩篇136篇1節には、ある際立った点があります。詩篇136篇。「 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。地を水の上に敷かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。夜を治める月と星を造られた方に。その恵みはとこしえまで。エジプトの初子を打たれた方に。その恵みはとこしえまで。主はイスラエルをエジプトの真ん中から連れ出された。その恵みはとこしえまで。」12節です。「力強い手と差し伸ばされた腕をもって。」この言い回しを覚えていて下さい。「差し伸ばされた手」です。「力強い手と差し伸ばされた腕をもって、その恵みはとこしえまで。」神はそれによってイスラエルをエジプトから連れ出されたのです。すぐに分かりますね。「葦の海を二つに分けられた方に。その恵みはとこしえまで。主はイスラエルにその中を通らせられた。その恵みはとこしえまで。パロとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。その恵みはとこしえまで。荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる王たちを打たれた方に。その恵みはとこしえまで。主は力ある王たちを、殺された。その恵みはとこしえまで。エモリ人の王シホンを殺された。その恵みはとこしえまで。バシャンの王オグを殺された。その恵みはとこしえまで。主は彼らの地を、相続の地として与えられた。その恵みはとこしえまで。主のしもべイスラエルに相続の地として。その恵みはとこしえまで。主は私たちが卑しめられた時、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。主は私たちを敵から救い出された。」ここを覚えていて下さい。「その恵みはとこしえまで。主は全ての肉なる者に食物を与えられる。その恵みはとこしえまで。 天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」


さて、注目して下さい。彼は基本的に、イスラエルの全歴史をたどって、その各文を「その恵みはとこしえまで」で結んでいます。ですから要は、神の恵みがとこしえだという事です。きっとそれが伝えたい要点なのだと思います。さて、マタイ9章を開いて下さい。1節から読みましょう。「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。と』言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、『この人は神をけがしている』と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。『何故、心の中で悪い事を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事を、あなた方に知らせる為に。』こう言って、それから中風の人に、『起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群集はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。イエスは、そこを去って道を通りながら、取税所に座っているマタイという人をご覧になって、『私について来なさい』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられる時、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓についていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『何故、あなた方の先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。』」そして旧約のある聖句を、ホセア6:6と12:7を引用してこう言われています。「私は憐れみは好むが、いけにえは好まない。」


聞きましたか? 神が「私は憐れみは好むが、いけにえは好まない」と言われた時、それがどういう意味だったのか、行って学んで来なさいと言われたのです。旧約聖書では、神は次のようにさえ言われています。「私はあなた方の祝日を好まない。あなた方が祝日に行う事も。あなた方が集まる事も。あなた方の祝宴を好まない。あなた方がするどんな事も好まない。」そして神は言われました。「いけにえを捧げる事と憐れみを持つ事の違いをあなた方が理解していないからだ。」ですから、この節で強調されているのは憐みなのです。では、先ほどの詩篇136篇を覚えていますね?「その恵み(憐れみ)はとこしえまで。」アーメン?神の恵みがとこしえに続くなら、今も続いているという事です。そうでしょう?神は言われます。「私は正しい人を招く為ではなく、罪人を招く為に来たのです。」するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、何故、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするような事はしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるような事はしません。ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」イエスがこれらの事を話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいで下さって、娘の上に御手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります。」さて、この後どうなるかはもう大体分かっているでしょう?そして驚きなのは、イエスはこれを2000年前にされ、今日もなお同じ事をされているという事です。アーメン?私たちはそんな証しを耳にします。溺死した若者が脳死状態で、しばらく死んでいたのに、目を覚ました時に自分が命じられたまさにその通りの事をしたのです。彼は起き上がってこう言いました。「お腹が空いた」と。そう言うように命じられていたのです。


そう、私たちが知っているそのような出来事についての証しを聞いた人が、皆さんの中にも大勢いる事でしょう。ちょっと面白いのは、死人が蘇ったという証しが常にひと際注目を浴びるのです。それは過去においてさえ、かなり珍しい事だったからです。しかしここ南アフリカでの一番最近の集会で…少なくとも去年開催された複数の集会のどこかで、自分が死から蘇ったか、あるいは死人を蘇らせたという人に出会わなかった事は一度もありませんでした。私たちが出席した全ての集会で人々はその事について話していたのです。そして驚きなのは、その事について話すと、人から変な目で見られる事です。そして「それは疑わしいな」という目つきをされるのです。しかし言っておきますが、私たちは献金は受け取っていないので、嘘をついても何の得にもならないわけです。何の益もありません。どの道そこから得るものはないし、私がここにいるのは、ただ世界中でイエスがしてくれた事を、自分たちが目にしたイエスの御わざを伝える為なのです。そして驚くべき事に、私は証しすら話していません。自分の証しを話す事もできますが、それについて話しさえしていません。他の人々の証しを話しているのです。福音の真理のメッセージを学んだ人々、神の恵みが真にとこしえに続くと知っている人々の証しを。これらの証しは全て、神の恵みに帰結するからです。神が自分を通して働き、病人を癒し死人を蘇らせ盲人の目を開けてくれた、などのあらゆる証しを聞かせてくれた人の中で…少なくとも私に話してくれた人の中では…神が自分を通してそうして下さったのは、自分がそれにふさわしい者だからだ、と言った人は一人もいませんでした。一人もです。むしろ実際には、彼らは通常、神が自分を用いられた事に幾分驚いていたのです。彼らはただ、その結果を追い求めただけです。彼らは必要を目にし、それを満たしたいと願って、引き下がる事を拒みました。そして面白い事に、人々はこのように言います。「そうだね、こういう話をする人たちは、きっとプライドの塊で、おごり高ぶっているんだよ。」本当に、その人たちとじかに話してみるといいでしょう。彼らの大半は、神がして下さった事や、自分が目にした神の御わざについて語る時、とても謙虚なのです。殆ど第三者でもあるかのようにそれを語るか、あるいはそれを語る時に「神がこれをしてくれたのです」と言うのです。「本当に?どこで?誰がしたのですか?」「えっと、実は神は私を通してそれをされたのです。何故かは分かりませんが。」そして、初めて死人が蘇るのを見た時の事を覚えています。たとえその30分前に、死人を蘇らせる為に神が自分を用いるつもりでおられると誰かに告げられていたとしても、きっとそれを信じなかったでしょう。私には準備ができていませんでした。引きこもって断食し、祈り、それに備えたわけではありません。彼らが死ぬと知らなかったのですから。常に準備ができているとは限らないのです。


さて、その人は実際、このように言います。「私の娘がいま死にました。」18節です。「でも、おいで下さって、娘の上に御手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります。」この人は先ほども言ったように会堂の管理者で、新生してもおらず、神とどんな関係にあったのかも分かりませんが、新生していなかった事は分かっています。そして19節にはこうあります。「 イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。すると、見よ。十二年間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわる事でもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。イエスは群集を外に出してから、うちにお入りになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんで下さい」と叫びながらついて来た。」 さて、彼らが何と言っていたかに気づきましたか? 「ダビデの子よ、私たちをあわれんで下さい。」イスラエルの全歴史において、彼らは神の恵みと祝福に癒しが伴う事を理解していました。人々がイエスのもとにやって来て、「ダビデの子イエスよ。あわれんで下さい。」と言った話を数多く見つける事ができます。そして全ての状況において、結果は常に同じです。彼らが「あわれんで下さい。」と言うと、誰かが癒されたのです。主は実際に大勢の群衆を見て、彼らを憐れまれました。ある時、ナインという町に入っていくとある女性の一人息子の若者の葬式が執り行われており、イエスはその母親を憐れまれ、息子を死から蘇らせたとあります。母親を憐れに思われたからです。考えてみて下さい。彼は死んだ若者を憐れんだのではなく、その母親を憐れに思われたのです。さて、その若者は母親に感謝すべきですね。イエスが彼女を憐れまれなかったなら、そのまま葬式が執り行われていた可能性もあるわけですから。


いいですか、主は「若者は蘇るにふさわしいような人物だったのか?それに値するような者だったのか?彼の死因は?」などと尋ねたりされませんでした。明らかに彼は、死ぬには若すぎるような年齢でした。しかしおかしな事に、その事には全く触れられていません。イエスが母親を憐れまれた、と書いてあるだけです。私たちはしばしば詳細にこだわり、時にはイエスが誰かを癒されない理由を探そうとする事もあります。そして常に、イエスがそうされないかもしれない理由を探しているのです。あるいは、癒しがなされた後であれば、何故こうされなかったのか、或いは、ああされなかったのかなどと言うのです。正直に言いますが、聖書には、明かされた物事は私たちに属するが、隠された物事は神に属すると書かれています。しかし、今夜皆さんにおもに話したいのは、それが恵みによるのだという事です。この部屋には、癒されるにふさわしい人など一人もいません。一人もです。あなたが何をしたかは関係ありません。どんなに良い人間であったかもです。ここに居る人の中で、自分が救われるに十分なだけ善良であったと思う人はいますか?では、皆さんのほぼ全員が、自分が救われた事すらも、ただ神の恵みによるのだという事に同意しているのですね?さて、考えてみましょう。皆さんの中で自分が、或いは誰かが救われるに十分なだけ良い人間になれると思う人はいますか?それに値するほど十分、善良になれると、そんな事が可能だと思いますか?それとも、全てはただ神の恵みであると思っているでしょうか?さて、考えてもみて下さい。十分良くなれないなら、神が救わないと決めるほど十分悪くもなれないわけです。そうでしょう?もし悪すぎて救えないなどという事があり得るなら、神がそれを与えて下さるほど良くなる事もあり得るのです。そうですね?ですから、それをもらえるほど十分良くなれないなら、神に救ってもらえないほど悪くなる事もできないわけです。要するに、皆さんも言ったように、結局、それは恵みによるです。両方の側の恵みです。一方を持っていないなら他方も持っていないからです。両方が揃わなければなりません。十分良くなるというなら…もし人が十分良くなる事ができるなら、悪すぎてそれをもらえない事だってあり得るのです。しかし、それをもらえるほど良い人になれないなら、もらえないほど悪い人になる事もできません。分かりますか?皆さんがどう思うかは分かりませんが、それは良いニュースです。アーメン?そうすれば、それはただ神が良いお方だからだ、という事に帰結するからです。いいですか、かつて私はこのように言ったものです。「贈り物の価値は、それを受け取る側ではなく、むしろ贈る側の良さで決まる。」そうですね?それはあなたがどれほど良い人であるかにはよらないのです。神があなたに与えて下さる贈り物は、あなたとは何の関係もありません。神が与えて下さる贈り物は、全て神に関わるものです。そうでしょう?さて、読み続けましょう。彼はこう言っています。幾つか読んでいきましょう。二人の盲人が彼についてきて、こう叫んだと書いてあります。「ダビデの子よ、私たちをあわれんで下さい。」そしてイエスは家に入り、盲人たちがそばにやって来ると、こう言われました。「私にそれができると信じるか?」変な質問ではありませんか?しかしそれは彼らが、私たちが知っているような形でイエスを知らなかったからです。それで、主はただこう尋ねられたのです。「私にこれができると信じるか? それが可能であると信じているか?」そして彼らは言いました。「はい主よ。」そこで主は彼らの目に触れて言われました。「あなた方の信仰通りに、あなた方の身になるように。」驚きですね?


さて、この二人の盲人に注目して下さい。彼らについては何も書かれていません。彼らの過去については触れていないのです。しかし、イエスはこれら二人の盲人が癒されるに十分なだけの信仰を持っていると言われました。そして彼らに必要だった唯一の信仰とは、「私にこれができると信じるか?」「はい。」「分かった。そうしてあげよう。」簡単でしょう? 全ての癒しがそれくらい簡単であるべきです。最大の問題とは、時として私たちが克服すべき障害であり、その障害は残念な事に、通常は宗教によってそこに置かれたものです。十分良くなる事や十分悪くなる事、ふさわしくなる事やふさわしくない事といった、ありとあらゆる考えが宗教から来ているからです。そして大抵は、クリスチャンになった後でさえも、多くの場合こんな質問が持ち上がるのです。「どれほど信仰を持っているか?」私は悲しみを知っています。病気や患いがどんなものか分かっているのです。私たちはそれを目にし、そんな人たちの近くにいて、特にここ10年間は、かつてなかったほどそうでした。ずっと旅をして回り、実際にこのようにしてフルタイムでミニストリーをしてきたからです。家族が病気になったり何かを患ったりする事もありましたが、それでも非常に豊かに祝福されてきました。神の健康の内に生きてきたのであり、時々他の家族が色々な病気にかかるのを目にしても、ここ20年間自分の家族は誰一人として死ぬ事はありませんでした。老齢の人たちさえもです。驚くべき事です。そしてずっと人々のそばにいて、病人のそばにいるので、それがどんなに大変かが分かります。誰かが病気の時、それが子供であれ親であれ兄弟であれ、その病人一人だけではなく、家族全員が苦しみます。家族全員が何らかの形で囚われ人となるのです。そして人々の愛情は…家族の中でもとりわけ病気の人や、問題を抱えている人に注がれ、私たちにはそれが分かります。色々な所を旅して回り、そこで起こっている事を目にし、人々が感じている苦痛について耳にします。私たちは実際に、そのような事を経験してきているのです。沢山の事を見てきましたが、神が人々の人生にどのように働きかけられるかも目にしており、それは実に驚くべきものです。


人々に何かを伝える事ができるとしたら、大切なのは、ただ癒される事ではない、という事です。癒されたとしても、またいつかは病気になり、再び癒される必要が出てくる可能性が高いからです。しかし、自分に癒しをもたらす事のできる真理を手に入れて、その後に癒されたなら、次にまた何かにかかったとしても、誰かに解放してもらう必要はありません。あなたは真理を知るようになるので、それを遠ざけておく事ができますし、もしそれがあなたに降りかかってきたとしても、他の誰かの助けなしにそれを遠ざける事ができます。いいですか、驚くべき事とは、一旦それを理解し、その内を歩き始め、他の人々を助け始めると、実際に自分自身の為に癒しが必要になる事は殆どなくなるという事です。実に驚くべき事です。そして、それはどんどん簡単になっていきます。面白い事に、あなた自身は病気や疾患からどんどん遠ざかっていくのですが、それと同時に、あなたがさらに多くの人々に奉仕するようになっているので、病気や疾患にますます近づいているのです。しかし、病気はあなたから遠く離れていて、決してあなたに触れる事はありません。そして、しばらくして、御言葉の中で時間を過ごし、真理の中で時間を過ごすと、それがあなたの中に湧き上がってくるのです。そして実際に、人と接してると、その人が経験している事を理解する事ができ、傷みを感じる事ができるのです。彼らの目を見ればそれが分かり、それが聞こえてきて…そうしたあらゆる事が起こっているのです。しかしそれと同時に、それはあなたとはかけ離れた世界なのです。時々、そのような問題を抱えている人を完全に理解するのは難しい事もあります。自分がとても長い事、そのような事柄から遠ざかっていたからです。それが見えるし、それを持っている人に奉仕をして彼らを解放する事ができますが、それを理解する事が難しくなってしまうのは、これまで自分ではずっとそうした病気にかからず、ずっとそれらを経験していないからです。他の人を助けるのに忙しくしていたからです。あなたから命が注ぎ出され、そして命が注ぎ出されるなら、敵があなたを何かの病気にかからせるのは難しいのです。あなたはただ注ぎ出し続け、どんな病気が襲おうと、それはすぐに洗い流されて、決してあなたに触れる事はないからです。そして驚くべき事に、それをするにつれて、病気の事が理解し難くなります。あなたはこんな風に言い続けるからです。「お前がそこにいる理由が分からない。そしてどのようにそこに留まっているのか。何故なら、この真理がここにある。それは全ての人の為なのだ。」救いや他の全てのものと同様、真理はそこにあるのです。その中に入り込んで、それを自分の中に入れましょう。だからイエスはこう言われたのです。「あなた方が私にとどまり、私の言葉があなた方にとどまっているなら、何でもあなた方の欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなた方の為にそれがかなえられます。」


皆さんに質問させて下さい。私が聖書に沿っていない事を何か話すのを、聞いた事がありますか?今聖句を読んだばかりですよね?大抵は、ただそうしているだけです。ただ聖句を読んで、「それはそういう意味です」と言って、それについて少し話します。やっている事といえば、それだけではありませんか?ですから、もし私が今週、答をもたらしたとしたら、それは隠されていたものや、皆さんが持っていなかった答ではないはずです。そして神は、一人の人間が、よく言われる「特別な人」である事を望んでおられません。イエスこそが特別なのだという事に、人々が気づく事を望んでおられるのです。神は人々に、それは神の愛である事に気づいて欲しいのです。それは神の恵みであり…とこしえに絶える事がないのです。肝心なのはそれです。私たちは神の力や神ご自身について語り、私もセミナーの間にそれについて話してきました。私たちはその事について話すし、神様が力を持っておられる事には、何の疑問も抱いていないのです。人々は言います。「神はどれほど強力な方なのですか?」「神は神なのだから、その御力に際限などありませんよ。」それなら、神が起こって欲しいと望んでおられる事が実際に目にできないとしたら、それは神が喜んで癒したいと思っておられる事を、私たちが心から確信していないからに違いありません。クリスチャンがそんな風でいるのは、正直、とても悲しい事です。その人が救われておらず、神を知らないというならまだ理解できます。そういう人たちが、神が癒しを喜んでして下さるかどうかに疑問を抱いても、まだ分かるのです。しかし父親として、私だったら自分の子供に、むしろこのように言われたいです。「パパ、パパがお金を持っていて僕を助ける事ができるなら、そうしてくれるって分かっているよ。もしそうできるんだったら、きっと助けてくれるよね」と。「パパ、パパには僕を助けられると分かっているけど、ただパパが僕を助けたいかどうか、よく分からないんだ」なんて言われるよりも、ずっといいです。違いが分かりますか?しかし、考えてもみて下さい。私たちは神様にそんな風に言っているのです。「神にできるだろうか?」と。できますとも。イエスは彼らに、「私にこれができると信じますか?」と尋ねられました。彼ら「はい」と言いました。そして、必要なのはそれだけでした。そうでしょう?主は言われました。「あなた方の信仰のとおりになれ。」彼らはただ、はいと言っただけです。ですから今晩、皆さんにミニストリーをするにあたり、次のように言っておきます。第一に、私たちは皆さんに信仰を持つようにとは求めません。私たちは神の御言葉の中で、信じる者が病人に手を置けば癒されると書かれている聖書の箇所を見つけました。それだけです。それで十分なのです。さて、あなたは信じる人になる事ができ、求めるなら私たちあなたに手を置き、全ての人を同じように扱います。皆さんに手を置き、神の言葉と一致するよう、皆さんの体に命じます。そしてその言葉は、彼の打ち傷によって癒されたと書かれているものです。ですから、皆さんに信仰を持つようにとは求めません。しかし、今ここで言っておきますが、自分でも信仰を持っており、それを行使したいと望んでいるとしたら、私たちがそこに着く前にすら、癒される事ができるでしょう。ぜひそうなって欲しいです。イエスご自身があなたに対処され、あなたを自由にして下さる方がいいのです。そうしたら他の誰にも、いかなる功績も帰される事がないでしょうから。アーメン?それが私たちの望んでいる事です。


一旦、癒しを受け取った人が「神は私を癒されたが、あなたを癒されるかどうかは分からない」と言うのを、私は今まで一度も聞いた事がありません。一度もです。むしろ、そんな人たちが何と言うか知っていますか?「私を癒されたのなら、神はあなたも癒して下さいます。」そうですね?それがどんなに上手く行くかに、全く驚いてしまいます。人は癒されても、高慢になったりしないのです。もしなるとしたら、むしろ謙虚になります。神が病人を癒す為にあなたを使われるとすれば、信じようが信じまいが、あなたはそれで高慢になったりはしないのです。人々が癒されていると本当に分かったなら、むしろ謙虚な気持ちになります。彼らよりもあなたの方が、自分には実際そんな事をする力はない事や、それが全て神様のみわざである事を、もっとよく知っているからです。あなたはこう考えます。「神様、全てあなたがされました。それがあなたであると分かっています。私にはそれが自分と何の関係もない事が分かります。自分の事は十分知っていますから。」つまり、ただ決断しさえすれば、非常に簡単であると言いたいのです。これまで私は、聖句から恵みには癒しが伴う事を話してきました。そう書いてありましたよね? 彼らは恵みを求めたのです。そして何を得ましたか?癒しです。ですから、癒しは恵みに含まれているのです。そして恵みはどんなものですか?それはとこしえに続きます。ですから、今晩は恵みがあります。そうですね?という事は、もし恵みがとこしえに続くなら、今晩も恵みがあるのであり、そして恵みの内には癒しがあります。癒しは恵みに含まれているのです。さて、神が誰かに恵みを与える時、恵みを受ける人はそれに値するでしょうか? いいえ。それは恵みを与える側の、善なる性質によるのです。それは恵みを受ける側の人とは、何の関係もありません。決めるのは、恵みを与える側の神です。今詩篇136篇を読んでいるのですが、神の恵みがとこしえに続くと、はっきりと書かれています。神の恵みは決して絶える事がありません。恵みは憐みの同義語であり、憐れみは愛の同義語だからです。そしてこんな歌もありませんでしたか? 「あなたの私への愛は決して尽きる事がない。あなたは決して私を見捨てない。」もし神が決してあなたを見捨てず、あなたへの神の愛が決して尽きる事がないなら、神の恵みは、今もあなたに注がれているのです。ほら、ほんの数秒間立ち止まって、実際に神様がどんなに良いお方であるかに気づいて下さい。どんなに恵み深いお方であられるかに。


あなたが大金持ちだとしましょう。文字通り世界一のお金持ちです。自分の子どもや孫たちの為に大学の学費や銀行口座や、そうしたあらゆるものを提供できるほど裕福なのです。それらの子孫たちは数世代にわたって既に生活が保障されている上に、余分のお金もたっぷりあります。遣いきれないほど。これまで欲しいものは何でも買ってきました。つまり、途方もないお金持ちの事を話しているんです。お金がありすぎて、その遣い道もわからないほどです。お金が有り余っており、しかも毎日トラックがバックであなたの戸口に停まって、さらに多くのお金を降ろして行くのです。毎日そんな事が起こり、そして彼らは、この先50年間ずっとそれが続くだろうと既にあなたに告げています。ずっとお金が戸口に落とされ続けるであろうと。それなら、誰かがあなたのところにやって来て、「これこれが必要なんです。食事が必要です」と言っても、何か問題があるでしょうか?そう言われても、何か支障がありますか?いいえ。彼らが入って来て「車が壊れそうなんです。車が必要です」と言ったとしたら、その人に車を買ってあげる事に、何か問題があるでしょうか?いいえ。何故でしょう?そんな事は、あなたには些細な事だからです。与えたからといって、それを惜しいとは決して思わないほど沢山持っているのですから。お金があるからという理由だけで人々に家を買ってやり、それでもまるでそのお金が惜しいとは思わない事でしょう。さて、それほど豊かに持っているとしたら、決して遣いきれないぐらいお金があるとしたら、それを与えてしまう事を、少しもためらわない事でしょう。さあ、考えてみて下さい。聖書は神は愛であると言っています。神は愛なので、とても多くの愛を持っておられます。愛を途方もなく豊かに持っておられるので、ただ与えて、与えて、与え続け、与える事をためらう事さえされません。しかも、与えてもらう価値のない人たちにまで与えられるのです。そうでしょう?私が誰の事を話しているか分かると思います。今、そういうふさわしくない人たちの名前が思い浮かんでいるはずです。神はただそのように、人々に愛をどっさりと与え、愛を示し続けられます。そこで、こんな疑問が浮かびます。「神よ、何故あなたはそのようにされるのですか?彼らはあなたの事など、気にもかけていません。何故彼らにそんなに良くされるのですか?」神はただ愛をふんだんに与え続け、おかしな事に、与えれば与えるほど、さらに気前よくなられます。神が物惜しみをするなど、到底あり得ないからです。


また、覚えていて下さい。神は実際には、何も持っておられません。神ご自身が全てなのです。神は愛です。神の恵みはとこしえに続きます。恵みは憐みの類義語で、憐みは愛の類義語であり、そして神は愛なので、その恵みはとこしえに続くのです。それは神がとこしえに永らえられるからです。それが神の本質です。そして神の恵みはとこしえに続き、恵みに伴って癒しが与えられ、神から恵みを受け取るのと同じくらい簡単に、恵みも受け取る事ができます。ちょっとここで、恵みについて考えてみて下さい。恵みを受けたなら、恵みの中には癒しがあります。そして神の恵みはとこしえに続き、日々新たにされるのです。詩篇の作者は神様の恵みや憐みや良いご性質について、数多くの良い歌を歌いました。自分の生きている限り必ず、それら全てが伴うであろうと。神はあなたに、そんなにも良くして下さるのです。あなたが誰であれ、何をしたのであれ関係ありません。知っていますね、あなたの為に、イエスを与えて下さったのです。そしてあなたは自分がそれに値しないと分かっているでしょうが、そんな事を言っても、もう手遅れです。神様はあなたが生まれる前からイエスを地上に送って下さったので、イエスが来られるのを阻止して、その贈り物を拒む事などできません。そして、私たちが歌っているように、神はそれを愛ゆえにされたわけですが、殆どの人はその事について考えすらしません。私たちはそれについて歌い、それから次の歌に移りますが、決してその事についてじっくり考え、神が愛を持っておられるのではなく、神ご自身が愛であられる事に気づく事はありません。そして愛の内に歩むなら、神の内に歩む事になるのです。そして神の内に歩み、聖霊の内に歩むつもりであれば、愛の内に歩まねばなりません。そして愛の内に歩むつもりであれば、恵みの内に歩まねばならず、恵みの内に歩むつもりであれば、批判的な態度の内に歩む事はできません。批判的な態度は、人を見て「うわっ」と言って裁きます。しかし恵みは、「おや、それをしてはいけないよ」と言います。何故でしょう?それは、恵みはとこしえに続くからです。「批判的態度はとこしえに続く」ではありません。そんな事は言っていないのです。とこしえに続くのは恵みです。悪い意味での裁きを受けるにふさわしい人間でない限り、恵みを必要とはしません。しかし、神様はあなたに恵みが必要であるとご存じなので、その恵みがとこしえに続くのです。そうですね?というわけで、神がどれほど良いお方であるかという、これら全ての神のご性質は…慈愛に満ち、世話して下さり、喜んで助けて下さるなど、これら全ては…ご覧なさい。神の内を歩む為に重要なのは、ただ神の中で自分を消し去ってしまう事です。人生を捨てて、神様のいのちを得るのです。アーメン?


さて、私の事をすごく霊的だとか、そういう風に感じてほしくはありません。ただ、霊の内を歩むという、それだけの事です。霊的な事を説明する人の話を聞いても、何を言っているのかわからないと思った事はありませんか?それが理由で私はそんな風に説明します。人は話が分からないという理由で、そのような話し方をする人をすごく霊的であると考えるのです。しかし、イエスがものすごく霊的な方ではなかった事に、気づいているでしょうか。彼は非常に実際的で、同時に愛そのものであられました。決して誰も拒まれた事はありません。誰にも癒す事を拒まれず、福音のメッセージを、最初はイスラエルの人々にだけでしたが、その後あらゆる所の全ての人々に広められました。そして、求めてくる人全員を癒し、その人たちに与えるようにと言われました。誰かに癒して欲しいと頼まれたなら、どうしますか?癒しを与えます。何故でしょう?求めてくるなら、誰にでもそれを与えるからです。ご覧なさい、神様は実に良いお方で、実に器の大きな、実に愛情深い方なので、私たちは時々理解に苦しみます。殆どの人は神を、自分の地上の父親との関係に基いて理解しているからです。そのように神を見ているのです。地上の父親が非常に厳しく容赦ないなら、通常あなたは神を非常に厳しく容赦ないお方であると想像します。地上の父親が家に居た事がないなら、しばしば天の父なる神に対して、「自分でこれを何とかしなくては、神は気遣って下さらないから。神はそこにおられ、私を救って下さったが、ただそれだけの事だ」という態度になるでしょう。神は、あなたが神の中で自分をすっかり消し去り、何かを考えるたびに、それを口に出す前に、神がそれに同意して下さるほど、神と完全に繋がっている事を望んでおられるというのに。「そんなわけがない」と言うのですか。いいえ、神がそう言われたのです。あなたがまだ呼ばない先に答える、と言われました。神はそんなにも良いお方なのです。ご覧なさい。私たちは、ジェホバ・ジャイラ(Jehovar Jirah-備えて下さる神)という名前を知っています。神はそのように供給されるのです。そんなにも豊かに与えて下さいます。神は常にそこにおられるのです。


何年も前に、家庭に問題があったある少女がいました。彼女は娘の友達だったので、私たちの家にしばらく滞在し、彼女の母親と父親は離婚し、彼女は私のところに来て、父親の為に祈って欲しいと頼みました。彼は病気で、医者たちはその病気を見つけ、それは体を蝕んでいく病気でした。彼は死にかけていたのです。そして彼女は言いました。「父の為に祈ってくれませんか?」彼女が私たちのところに来た時、私たちは彼女の家庭生活の話を聞き、彼女の父親が良い人ではないと聞きました。私は彼が好きではありませんでした。一度も会った事はありませんが、彼についての話を聞いて、彼に嫌悪感を抱きました。そして彼女は言ったのです。「彼の為に祈ってくれますか?」と。私は「ああ、いいよ」と答えました。それから一日か二日経って、その事は忘れてしまっていました。彼の為に祈ろうとしたのですが、正直言って記憶からすり抜けてしまい、その事を殆ど気にも留めていませんでした。しかしそれから、この少女が数日後に私のところにやって来て、こう言ったんです。「カリーさん、父の為に祈ってくれると思っていたのですが。」私は言いました。「おや、祈らなかったとどうして分かったんだい?」彼女は言いました。「だって、父はまだ病気だから。」彼女は言いました。「さあ、父の為に祈って下さい。」私は「分かった、祈るよ」と言い、それから車に乗り込みました。町から少し離れたところに住んでいたので、町に向かって車を走らせながら、祈り始めました。私は祈ろうと最善を尽くしていました。何故なら、その男が好きではなかったからです。彼にあまり癒されてほしくありませんでした。本当にどうでもよかったのです。彼は悪い人で、好きではありませんでした。面識はありませんでしたが、嫌いだったのです。だからどうでもよかったのです。それで最善を尽くして、答えられないと知っているような祈りを祈りました。冗談抜きで、本当に。想像できる内で最も熱心さに欠ける祈りを祈っていたのです。これまでに聞いた人々の祈りの中で、答えられないと知っているあらゆる祈り方について考えました。そして、自分もそれと同じように祈ろうとしていたのです。「神よ、もしあなたがこの男を癒す事がおできになるのでしたら、もしそれが御心でしたら。」絶対に信仰があるように聞こえない祈り方が、他にもっとないかと考えました。「もしできたら、彼を助けて頂けませんか?ありがとうございます。」イエスの御名で祈る事すらしませんでした。イエスの御名で、と祈りを結ぶ事もしなかったのです。その名前が効いて、癒されてしまう事を恐れていたのです。だからこんな風に祈りました。「ありがとうございます。ではさようなら。」それだけです。するとすぐに、神が語られました。いいですか、それまで他の祈りを祈っても何も聞こえなかったのに、この祈りを祈ると、神が語られたのです。聞いて下さい。これは衝撃的でした。明らかに自分の成長を促してくれたからです。神はこう言われました。「彼を癒そう。」私は、祈りが答えられないようにするには、どうすれば良いのかと考えていたというのに。私は神がこの男性を癒すべきか否かについて、神と口論するつもりでした。神は言われました。「彼を癒そう。しかしそれは、彼が私と関係を結んでいるからではない。彼はそんな関係をまるで持っていないからだ。私がそうするのは、あなたが私と関係を結んでおり、あなたがそれを求めたからだ。」


そこで私は、神と口論しようと試みました。「いいでしょう。ではそれについての聖句を与えて下さらなければ。聖句が必要です。」すると神は、即座にアブラハムの事を思い起こさせられました。次にロトの事を思い起こさせて、ご自分がロトを滅びから免れさせたのは、アブラハムの事を覚えておられたからであると言われました。考えてもみて下さい。神がロトを助けられたのは、アブラハムの事を覚えておられたからなのです。それはナインのやもめの息子の話と似ていますね。イエスがその女性を憐れまれたので、少年が祝福を受けたのです。そうですね?しかし、その聖句は私に効果がありました。それによって、自分が神と繋がっており、神を認めているがゆえに…、恐らくその時は、確かにそんなに強く繋がっていませんでしたが…本来やるべきほど隣人を愛していなかったからです…けれども、私が神と繋がっていて、神に求めたがゆえに、神はそうして下さるおつもりなのだという事が分かったのです。そこでやっと気づきました。「私が何か言うだけで、それをして下さるほど、私たちは親密な関係なのだろうか?」と私は思いました。その後何年か経ち、そこからずっと離れた東海岸のバージニア州にいた事がありました。周りに何もない、実に辺ぴな場所でした。外に出て橋を渡ると、数軒の建物があり、そこから沼地を抜けて、とにかく田舎でした。外に出ても携帯がつながらず、電波を受信しようとするのですが、何も受け取れません。インターネットがまったく使えないのです。世から隔絶されているのです。私の携帯は、非常事態にかかってくる電話で、一日中鳴りっぱなしです。電話がかかってくると、よくそれをボイスメールに転送しました。そうすれば、相手の祈りの要請や電話番号や名前の記録が残るからです。電話で話している時、しばしば相手はヒステリックになっているか、全ての情報をちゃんと伝える事ができない為、ただそれをボイスメールに送って、後から聴くのです。そうすれば既に情報が分かっているので、折り返し相手に電話した時に、自分がどういう状況に関わっているのかが分かり、何の為に祈るかや、どう祈ればいいかが分かるからです。それで外に出ると、あまりに辺ぴな場所なので、電話回線のサービスも何もないわけですが、私の携帯には、通常一日に三~四件のボイスメールが入っています。それをただ頻繁にチェックして、再びメールボックスを空にし、相手の番号をメモしておいて、折り返しかけ直すなど、何であれ必要な事をしていました。けれども私はそういう色々な事を、絶えずやり続けていなければなりませんでした。


そこでかかってきた三本目の電話の内容はこうでした。「カリーさん、誰々が入院しています。医者はあきらめてしまいました。彼はあと数時間で死んでしまいます。祈って下さい。」それは三日前のものでした。私はひどい気分になりました。「ああ、しまった。これはまずいぞ。」人々は私たちに電話をかけ、他の誰にも電話をしない事が多いからです。ですから私たちが、祈っている唯一の人々でした。私はこう考えました。「ああ、この人はもう死んでいるかもしれない。この状況は思わしくない。」そこで残りのボイスメールを聴いていると、27番目の電話が3番目にかけてきたのと同じ男性で、彼はこう言いました。「カリーさん、神の祝福がありますように。祈って下さってありがとうございます。彼は一命をとりとめました。」これを聴いてもっと気分が悪くなりました(笑)。彼らは、私がその癒しに何らかの形で関わっていると思っているのですから。私はそれを聴いて、こう考えました。「この男は癒されたが、私は祈っていない。」そこで神に尋ねました。「これはどうした事ですか?」すると神は言われました。「私の信用はあなたにある。」私は「それについての聖句が必要です。聖句を示して下さらないと」と考えました。すると、神は言われました。「彼らがあなたと話せていたなら、あなたは祈った事だろう。信仰の祈りを祈って、彼らは癒されていただろう。だから、私はあなたが呼び求める先に答えたのだ。」アーメン?私たちは神を何と過小評価している事でしょう。神はそれよりずっと大きな方であられるというのに。神はあなたに癒しを届ける方法を探しておられるのです。あなたに火の中水の中をくぐり抜けてそれを得て欲しいなどとは思っておられません。イエスが火の中水の中をくぐって、それをあなたの為に手に入れて下さったのですから。アーメン?神様はあなたに健康でいて欲しいのです。イエスは鞭打ち刑場で、あなたの為に砕かれるべく、ご自分の体を与えて下さいました。あなたが健康でいられるように。何故でしょう?そのひとり子を与えられたほどに、神があなたを愛して下さったからです。あなたを罪から救う為だけではありませんでした。神に栄光を。決して救いを軽んじているわけではありませんが、それだけではなかったのです。


さて、もう少し読んでいきましょう。また詩篇に戻って下さい。詩篇103篇を読みます。私たちのところで訓練を受けてきた殆どの人は、この節を知っていますね。詩篇103:1にこう書かれています。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにある全てのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」2節には:「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くして下さった事を何一つ忘れるな。」3節では…その良くして下さった事の数々を挙げ連ねています。「主は、あなたの全ての咎を赦し、あなたの全ての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みと憐れみとの冠をかぶらせ。」さて、聞きましたか?ここでは正しい言い方をしなければなりません。間違った言い方をすると、皆さんがそれを非常に間違った風に解釈してしまって、よくないからです。神様があなたの全ての咎を赦し、全ての病を癒されるなら、咎の為にされた事は全て、病の為にもして下さるという事です。つまり、どちらも「全ての」と言っていますよね、そうでしょう?ですから、イザヤ53章では実際にこの事について書かれており、神が私たちの悲しみや嘆きを取り去られたとありますが、それは病気や病の事です。へブル書に戻ってそこを読んで下さい。もし神が…全ての患いを癒されないとしたら、全ての咎を赦されるとどうやって確信できるのでしょう?ある事で嘘をついているなら、別の事でも嘘をつく可能性があるわけです。そうでしょう?これが理由で、言い方に気を付けなければ、と言ったのです。私がこの事を話すと、人々が後で戻って来て、こんな風に言うからです。「あなたは私から救いを奪ってしまいました。私は気分が良くなかったからです。そこでこう考えました。もし自分がまだ病気であるなら、赦されてもいない事になる」と。いいえ、それが言いたいポイントではありません。とりわけ癒しの奉仕活動においてはそうです。福音伝道の奉仕であれば、そのポイントを強調しようと努める事も、或いは、あるかもしれません。今晩はそうしませんが。しかし、神は一方に対してされた事を、両方にされたのだという事に気づいて欲しいのです。あなたの咎を赦されたのなら、あなたの病も癒されたのです。さて、皆さんがこの世に生まれてくるずっと前に、イエスは罪の代価を支払って下さっています。そして、あなたがこの世に生まれてくるずっと前に、病気の代価も支払って下さいました。その後あなたは、彼が自分の罪の代価を支払って下さった事を受け入れ、彼を受け入れて救われたのです。そうでしたね?癒しもそれと同じです。ただ少し違うのは、救いの場合は人生の変化が伴うという点です。生活様式が変わるのです。しかし癒しの場合は、癒されても生活様式は変わらない事があります。生活様式を変えないなら、恐らくまた病気になるでしょう。それでも、癒しは受ける事はできます。しかしここで重要なのは、神がその両方において同じ事をされたのだという事です。神はあなたの咎を赦し、あなたの病を癒されました。あなたは自分の咎に対するイエスの贖いを受け入れました。ですから今度は、自分の癒しに対するイエスの贖いを受け入れて下さい。イエスが十字架の上でして下さった事は、自分の為にして下さったと信じて下さい。信者としてそう決断したはずなのです。そして、イエスが鞭打ち場でされた事もまた、自分の為にして下さったのだと信じて下さい。そしてそうするなら、私か他の誰かがあなたに手を置く前にさえ、あなたは癒されるのです。癒しは人の手によるのではなく、神の御霊によるからです。アーメン?癒しは神の御霊によって生じ、神の言葉を真理として受け入れた瞬間に、それは起こります。神による罪の代価の支払いを受け入れたなら、その瞬間に新生したのです。神が病の代価を支払って下さった事を受け入れるとすぐに、あなたはその現れを見、癒しを受け取ります。そんなにも簡単な事です。両方とも既に成し遂げられた事になっており、ただ「そうだ、それは私の為だ」と言うだけで良いのです。


さて、続けましょう。証しだけでも、ここで皆さんに何時間でも話し続ける事ができます。実際…ある日、一つの場所で、毎日9時から5時まで、ただ証しだけを話し続けたとしても、少なくとも2週間はそこに居られる事に気づきました。そういう事は頻繁にやっているのですが、実際に2週間ずっとそうしていられるのです。恐らくは、病気の種類や体の部分ごとに、分類して話さなければならないでしょうが。そして今、アメリカでもそれをするようになりました。私はどこに行くにも車で行くので、色々な高速道路を走っている時に、どの道路を走っていても、こんな風に言う事ができます。「この出口から降りた所で、こんな癒しが起こった。この町ではこんな癒しが、あんな癒しがあった。そしてこの道を降りて行くと…ああ、あそこに別の高速道路があったな。この道を降りた所で、こんな癒しがあった。」 私たちは、これまでとても多くの癒しを見てきたのです。そして驚くべき事に、それは今も続いており、私たちは神がなされるみわざを見て、とても驚いています。しかし同時に、さほど驚きもしないとも言えるのです。それは、神がみわざをなさるのを見れば見るほど、だんだん驚かなくなっていくからです。むしろこのように言います。「ああ、さすが神だ。そうとも。」そうして、「ああ、ちっとも驚かないよ」といった風にただ腑に落ちるのです。何故でしょう?神はそういうお方だからです。アーメン?


ですから、あなたの癒しはあなたがどれほど良い人であるかや、何をしてきたかや、他のどんな事とも関係ありません。良い事をしたのであれ、悪い事をしたのであれ、それはあなたが癒されるかどうかに、全く関係ないのです。そのどれ一つとして。私たちは皆さんの為に信仰を持っており、皆さんに癒しのミニストリーをするつもりでいます。しかし、神が探しておられるのは誰かの中の信仰だけなのです。その信仰があなたのものであれ、私たちのものであれ、そんな事は気にも留められません。今や、癒しは既に十字架によって成し遂げられている事が認識できるのです。それは既になされました。ですから厳密に言えば、癒しは信仰の問題ではなく、むしろ神に何ができるかについての私たちの信仰こそが、神を喜ばせ、神に栄光を帰すのです。ですから今夜私たちが癒しのミニストリーを始める時に、「自分は癒されるだろうか?以前も誰かに祈ってもらった。以前にも同じ問題があって、これまで癒された試しがない」なとど考える事すらやめてもらいたいのです。全て忘れて下さい。全部忘れるんです。何故でしょう?今夜は新しい日だからです。何故でしょう?神の恵みがとこしえに続き、神の恵みは日ごとに新しいのです。アーメン?今日は新しい日です。これは新しい時間であり、新しい分です。ですから、あなたが癒されない理由など一つもありません。癒しは恵みから生じるからです。そして神の恵みはとこしえに続きます。神はそういうお方なのです。神はジェホバ・ラファ、つまり癒す主であられます。イエスが代価を支払われたので、それはそんなにも簡単なのです。アーメン?





では今から、少し祈りましょう。さあ、私たちはミニストリーをします。必要に応じて人々に手を置きます。ただもし可能であれば…皆さんが自分で神と繋がって欲しいのです。ただ、自分が神と繋がっている事を知って下さい。後で振り返って、「少しの疑いもなく、あの時私は神と繋がっていた」と言える時が来るのは、素晴らしい事です。それほど素晴らしい事は、他にありません。では、今から祈ります。


父なる神よ、主よ、イエスの御名によって、私たちはあなたの聖なる御名をほめたたえます。あなたは素晴らしい方です。あなたはあらゆる異教の神々にまさる方です。あなたのような方は、他にいません。あなた以外に誰一人いないのです。あなたは最高主権者、天地を造られた壮大な神です。王としての知識によって、ご自分の創造物に恵みや愛や憐みを賜ると決められたのはあなたであり、あなたはそうすると決断されました。そして父よ、その事を感謝します。父よ、心からあなたに感謝します。今私たちがあなたと繋がり、ずっと繋がっていられる事を。またあなたの御霊によって、私たちがあなたと繋がり、その繋がりを通して、あなたの命や御力が私たちの中に流れ込んで、私たちを自由にし、癒し、解放し、救いや罪の赦しをもたらして、たった今私たちを清めてくれる事を。父よ、あなたの御力が実際に霊の領域にあり、稲光のようである事を感謝します。そして稲光が落ちると、その周りの空気そのものが浄化され、そこには病気が住み着く事はできません。ですから父よ、今あなたに感謝します。私たちが語ると、あなたの御力が稲光のように、男性や女性や子どもの体や魂の中を駆け抜けるのですが、同時にあなたは、穏やかな雨のような方法でそうされるのです。私たちを怖がらせたり、ショックを与えないような方法で。むしろそれは慰め、平安をもたらし、自由をもたらし、解放をもたらします。


そして父よ、今もイエスの御名によって、あなたに感謝し、あなたをほめたたえ、あなたに栄光と誉れを与えます。それを受けるにふさわしいのは、あなただけだからです。ですから父よ、あなたを賛美し、あなたに感謝します。父よ、あなたが代価を支払う為に、喜んで耐え忍び、ご自分の御子をこの地上に送って下さった事を感謝します。私たちの罪が赦され、私たちの不義が取り除かれた事を感謝します。父よ、病気や患いが、病が私たちから取り除かれた事を感謝します。あなたの御子ナザレのイエス・キリストの受けた打ち傷によって、私たちは癒されました。そして今も癒されています。今この時、この場所で、この瞬間に、あなたの御力を、あなたの御国の力を、人々の思考や体に対するあなたの支配権を、たった今私の声によって解き放ちます。今晩ここに来て、ここに居られるようにと、王なる神が喜びをもって、地球の反対側から送られた神の大使として…そしてあなたは、彼らもまたここにいられるようにあらかじめ定めて下さいました…そのような大使として、私は皆さんの罪が赦され、不義が取り除かれ、病が癒され、主の打たれた傷によって、皆さんが健やかにされた事を、ここに告げる光栄に預かっています。イエスの御名によって、今、ナザレのイエス・キリストが皆さんを自由にしました。今すぐ癒されよ、治れ、イエスの御名で。たった今ここで、過去は全て忘れ、そして確信して下さい。神の実在が、癒す為に今ここにあると。神の御力が癒す為にここにあると。神の御霊が癒す為にここにあると。そしてたった今、どんな問題にどれだけ長く面してきたか、どれだけ長い事それを患ってきたかにかかわらず、どれだけ治ったり再発したりを繰り返してきたかにかかわらず、今ここで、神の御力によって、あなたは自由になりました。癒されました。健康です。神の憐れみゆえに、そして神の恵みが永遠に続くがゆえにです。だから今、イエスの御名によって癒されよ。自由になれ。イエスの御名で。今イエスの御名によって、痛みよ、お前に命じる。この人たちから出て行け。お前にはここにいる権利などない。ここにお前の場所はない。お前はこれらの人々の為に死ななかった。これらの人々の為に代価を払わなかった。イエスの御名でお前に命じる、臓器よ、回復し始めよ、癒されよ。解放されよ。イエスの御名で。今すぐに。あなたを自由にします。今ここで、神の御力によって。化学的不均衡よ、治れ。イエスの御名によって。今、あなたを自由にします。イエスの御名で、今。では、以前できなかった事をしてみて下さい。


肺よ、今癒されよ、癒されよ。イエスの御名で、神の御霊によって、それが癒されるよう命じる、今すぐに。では呼吸してみて下さい。以前できなかった事をし始めて下さい。腕を伸ばせなかったのなら、腕を伸ばしてみて下さい。脚を動かせなかったのなら、動かしてみて下さい。片目が見えなかったなら、もう片方の目を手で覆って、そちらの目で見てみて下さい。今、耳よ開け、イエスの御名で。神の御霊によって、聖なる霊によって、イエスの御名で、今そうなるよう命じる。父よ、あなたの御霊を与えられた事を、そしてあなたの御霊によってこれらの御わざがなされる事を感謝します。必要な人々に与える事ができるよう、あなたがこの力を人に与えられている事を感謝します。その事ゆえに父よ、感謝します。今、あなたが私たちの中に置かれた知恵の霊、理解の霊、助言の霊を感謝します。主への恐れの霊を感謝します。私たちはあなたがどんなお方かを知っており、神であられると同時に父でもあられる事を知っています。父よ、その事を感謝します。今イエスの御名で、私たちはあなたに敬意と栄誉を表します。あなたを崇めます。あなたは崇められるにふさわしい唯一の方です。その事を感謝します。そして父よ、あなたの恵みがとこしえに続く事を感謝します。あなたに感謝し、今あなたを崇めます。さあ、神を崇め、神に感謝し始めましょう。まだ新生していない人がいるなら、今がそうするのに良い時です。今、もしあなたが聖霊のバプテスマと呼ばれるものをまだ受けていないなら、今それを受けるといいでしょう。神はそれが贈物であると言われました。それを求めるなら、他のものを与えたりはしないと。求めるものを与えて下さると、そう約束されているのです。ですから今、イエスの御名で、まだ聖霊のバプテスマを受けていないなら、今神に求め、受け取って下さい。イエスの御名によって。父よ、あなたはそれが、ご自分が私たちに与えたいと望んでおられる贈り物であると言われました。そして父よ、今祝福された聖霊を求めている人たちを満たし、彼らにバプテスマを与えて、溢れさせて下さい。


父よ、今私たちは言います。イエスの御名で、聖霊を受け取りなさい。聖霊のバプテスマを受けた人たちは、異言で祈り始めて下さい。これは聖書的な事であると理解していて下さい。メッセージの最中に、皆が同時に話し始めるのではありません。同時にやらないようにと言われているのは、そういう意味なのです。霊の内で礼拝し、祈るだけです。私たちと神との問題なのです。グループの問題ではありません。個人個人が神に祈るのです。では、今やっているように異言で祈り始め、礼拝し始めて下さい。異言を伴うような形で聖霊のバプテスマをまだ受けておらず、そうしたいなら、今がその時です。ただ受け取るだけです。受け取らないなら、ただ自分の言語で神を礼拝して下さい。そして神がどんな素晴らしい方であるかについて、神に感謝し、賛美し、神をほめたたえ、礼拝し始めましょう。神がどんなに素晴らしいお方であるかや、神がして下さった事ゆえに。神は素晴らしい神であられるからです。私たちを敵の罠から救い出されました。私たちはイエスの御名の内に、神の力強い御手によって贖われました。癌は頭(こうべ)を垂れなければならない。それは神の存在に耐えられない。癌は腰をかがめなければならない。癌よ、お前は聞き従え。イエスの御名にひざをかがめよ。今お前に命じる。エイズよ、今出て行け、イエスの御名で。血液系と免疫系が強まり、回復するよう命じる、イエスの御名で。今すぐにだ。腎臓に命じる、今機能し始めよ、イエスの御名で。腎臓よ、働け。仕事をしろ、イエスの御名で。今すぐにだ。正常に戻れ、イエスの御名で。正常になって、正しく機能せよ。イエスの御名で、今すぐに。心臓が癒されるよう命じる。今すぐ癒されるようにと。証しで聞いた、あの二つしか心室がなかったのが、四つに増えた赤ん坊のように。父よ、あの証しを感謝します。主よ、感謝します。あなたは素晴らしいです。あなたは素晴らしい。素晴らしい神です。あなたのような方は他にいません。そして今、あなたの御霊によって起こる癒しとゆるしと自由を感謝します。イエスの御名で。今すぐそうなれ。


さて、皆さんの中で私たちのDHTトレーニング(神癒技術者訓練)を受けた事がある人はいますか?この中でどれぐらいの人が受けたでしょうか?分かりました。よかったら訓練を受けた方は、その場で立ってみて下さい。ああ、そうですか。次はちょっとこちらに来て、壇上に上がって下さい。信仰告白の為に出てきてもらう時みたいですね。ここに並んでもらいましょう。さて、聞いて下さい。きっと今皆さんの殆どが感じている事でしょうが、これは通常の癒しの礼拝ではありません。私たちの癒しの礼拝に行った事がある方なら、これは平均的な集会ではありません。もっと分かりやすく言うと、ここには特定の霊があるのです。分かりますか?霊に敏感な人なら、きっと感じられると思いますが、そこには非常に敬虔な霊があるのです。いいですね?そして私の事を知っているなら、大半の場合私が楽しんでこれをしていると分かっているでしょう。何かを生み出そうとしているのではなく、むしろそれはただ神の御霊がこれらの集会でそちらの方向に動くからであり、それは良い事です。別にそれに反対しているわけではありません。私たちは常に神と共に動きますから。けれども同時に、私たちがここでしている事は、ただの見世物ではない事を皆さんに理解して欲しいとも望んでいます。これはただのショーではありません。何かを見せようとしているわけではないのです。穏やかに事を進め、皆さんを興奮させる事もしないし、集団で病的興奮状態にさせたいとも思っていません。無駄にわくわくさせて、後で結局何も起こらなかった、といった経験をさせたくないのです。皆さんに神の霊と繋がって欲しいと望んでいます。アーメン?それが私たちの願いです。そしてそれをする最善の方法の一つとは、ただ時間を割いて意識的に神と繋がろうとする事です。私たちがこれまで常にやってきたように。さて、これは既になされた事であり、今からしようと予定している事ではありません。既になされたのです。たった今、ここにそのような霊を感じるのは、それが理由です。この部屋にもそれが感じられるし、そしてそれは、ある種の神性さと表現するのが最善でしょう。お分かりでしょうか。それは通常、殆ど重々しいとも言える形で現れますが、ただ憂鬱にさせる重々しさではなく、これまでもずっとそうであったような、穏やかな静けさなのです。


そして、今癒しが必要な人は、手を挙げて下さい。体の癒しが必要な人はどれくらいいますか?既に癒された人の方が、まだ癒されていない人よりも多いように思われます。普段とちょっと違いますね。さて、今からミニストリーを始めたいと思いますが、留意していて欲しい事があります。私はそちらに行って、この壇上にいる人々と一緒に皆さんの為に祈り、皆さんに手を置きます。それは問題ありません。ただ、どこかの時点でキリストの体である教会は成長しなければなりません。そして皆さんは、人に目を留めるのをやめなければならないのです。お分かりでしょうか? そしてキリストに目を向け、キリストの霊を持っている人は誰でも、キリストの御霊を持っている他の人たちができるどんな事でもできるのだと確信していて下さい。アーメン? そう、それが私が、何らかの特別な人物になろうとしていない理由の一つです。むしろその逆を行こうと努めています。自分がする仕事がなくなってしまうよう、懸命に働きかけているのです。本当ですよ。しかし、気づいて欲しい事があります。ミニストリーが始まって…彼らがそちらに行って、皆さんに癒しのミニストリーをする際に…このミーティングではそのようなやり方をしようと思いますが…私が祈る人を呼び集めるのです…私はそれをイエスのもとに行い、他の祈り手たちはこの時点において、それを私のもとに行います。いいですか? ですから、私たちは繋がっているのであり…彼らがあなたに触れたら、それは私があなたに触れているようなものです。そして私があなたに触れるなら、それはイエスがあなた触れているようなものです。皆が同じ霊を持っているのですから。アーメン?そんなにも簡単な事です。ですから、クリスチャン流の偶像崇拝に陥って、こんな風に言ってはいけません。「私は彼に触ってもらいたい。その為に来たのだから。」そんな風に言わないで下さい。何故ですって? 重要なのは神であって、人ではないからです。アーメン? 私たちは成長する必要があります。そしてそれがわからないなら、外にいる人々の人生に触れる者となって、神に用いられる事はできないでしょう。他の誰かに病人に触ってもらおうとして、常に人々をこのようなミーティングに引っ張ってくるようになるからです。アーメン?


それでは、ミニストリーを始めたいと思いますが、それは皆同じイエスの御わざです。そして先ほども言ったように、私は皆さんのところを回り、他の人たちと一緒に皆さんの為に祈りますが、どうかその事を忘れないで下さい。人に目を留めるような考えを持っている限り、巧みに操られて、利用されてしまうでしょう。そうなってしまうのです。どうかそのように考えるのはやめて、今私たちがキリストにあって一つなのだと確信して下さい。キリストが私たちの中におられ、私たちは彼の中におり、「私は大物だが、あなたは小物だ」などといった区別は一切ありません。皆が一緒にこれに携わっているのです。アーメン?


さてそれでは、もう一度。病気で体の癒しが必要な人は、手を挙げて下さい。この壇上にいる人たちは、彼らのところに行って下さい。できるだけ男性は男性のところに、女性は女性のところにお願いします。できるだけそうした方がいいです。別に堅苦しいルールというわけでもありません。では、あちらに行って、祈り始めて下さい。彼らが祈っている間、私もそれに同意して祈ります。今ここで。そして私は、具体的な症状を知っている必要はありません。そこが素晴らしいところです。今イエスの御名で。このセミナーに出ていたなら、手を置く事によって聖霊を流すと話していたのを聞いた事でしょう。癒しにおいては、語る言葉や、見つめる事によってすらも、聖霊が流れるのだと。私がここから見渡して目を合わせ、言葉によって触れる時に、その事を知っていて下さい。私は語っています。あなたは癒されています。今ここで。神の聖霊によって、たった今です。イエスの御名で、あなたを解放する。癒されて健康になれ。私たちは病人のところを回ります。実際に、私もそちらに行って祈ります。イエスの御名で、その御名によって、完全に癒されるよう命じる。そうなれ。そうなれ。それに同意する、同意する。さあ見ていて下さい。イエスの御名で、イエスの御名で。完全に癒されよ。癒されて健康になれ。イエスの御名で。今そうなれ。今すぐに。イエスの御名で。そうなれ。そうなれ。アーメン。命と強さと健康。癒され健康になれ、イエスの御名で。癒されて健康になれ、今すぐに。イエスの御名で。イエスの御名であなたを解放する。ナザレのイエス・キリストの御名で、癒されよ。今すぐに。癒され健康になれ。今、頭のてっぺんからつま先まで、イエスの御名で。アーメン。