セッション16
さて、エペソ1章を開いて下さい。読み進めて行くうちに、既にどれだけ多くを学んだかが分かるでしょう。皆さんの中にキリストがおられる事について、そしてそれゆえに、皆さんが持っているものについて話してきたので、この事実を強調したいと思います。今までの話の中でも、ずっとこれらに触れてきました。エペソ1章1節で、使徒パウロが次のように書いています。「 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方の上にありますように。私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねと御心のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」さて、ここには既に多くの事が書かれていますが、神は御心に、ご自分の喜ばれるところにしたがって、ご自分の子とする為に、世界の基の置かれる前から私たちを選んで下さった事に気づくでしょう。皆さんが神の子である事が神の喜びです。それは、神が皆さんを受け入れねばならず、仕方なくそうされるという事ではありません。むしろ神は、皆さんを子として受け入れる事を嬉しく思い、それに喜びを感じておられるのです。そこには、「私たちを世界の基の置かれる前に選んで下さったのは、私たちが愛のうちに神の御前で清く、傷のない者となる為である」と書かれています。主が私たちを選んで下さったのは、愛のうちに責められる所のない、清い者とする為です。ですからこれもまた、愛とは何かについての第1コリント13章に帰結するのです。そこを読み返せば、愛がどんな形で表れるかが分かるでしょう。5節にはこうあります。「みむねと御心のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」聞きましたか?「神の恵みの栄光がほめたたえられる為に。」つまり、神がここでされている全ての事は、神の恵みの栄光への賛美につながるのです。
この事を強調しているのは、神がされている事に2つの側面がある事を理解して欲しいからです。明らかに私たちの益となる面もありますが、その一方で、神ご自身の益ともなります。神はそれによって、霊的な領域や全ての支配や権威や存在といったあらゆるものに、ご自分がどれほど優れていて強大であられるかを示す事がおできになるからです。言ってみれば、まるで人を神の息子や娘に変える事ができるご自分の能力を、誇示しておられる(もちろん良い意味で)かのようです。ご自分は人の内面にそのような変化を起こせるのだと。そしてここの所を、根本的な部分まで掘り下げてお話しようと思います。これを見ると1節で、まずそれが皆さんに向けて書かれている事が分かります。皆さんはキリスト・イエスにあって忠実な者です。ですから、皆さんもその一員なのであり、エペソにいた人たちだけではありません。皆さんは忠実な人々の1人である為、そこには皆さんも含まれるのです。そして、「あなた方に恵みと平安があるように」とありますが、これは私たちにもまた、恵みと平安があるはずだという事を教えてくれます。3節には「私たちを祝福して下さった主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」とあります。ここの所に印をつけておくといいでしょう。「私たちを祝福して下さった」何によってでしょうか?「キリストにあって、天にあるもろもろの霊的祝福をもって」です。これはどういう意味でしょう?皆さんは既に祝福されており、あらゆる霊的祝福を受けているという事です。つまり、皆さんが手に入れなければならない霊的祝福などないのです。もうそれらを持っているからです。ここで重要なのは、旧約にさかのぼるとある箇所で神が、「私は、『私はある』という者である」と言っておられる事です。中には、実際は「私はなるべき者になるであろう」と訳すべきであると言う人もいます。神やその御名に関する全ての聖句は、全部現在形であるという事です。さて、ここで質問です。神はどんな方になられるでしょう?将来も、今と同じような方であられるでしょうね。神は主なので、変わる事などあり得ないのです。神は変わらないとマラキ書に書いてあります。イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わる事がありません。ですから神の本質に変化などないのです。そこで意味論に入り込む事もできますが、要は神は癒す主であられるという事です。現在形です。神はジェホバ・ジャイラ、すなわち供給される神…これも現在形です。神の御名は全て現在形で表されています。さて、6節を読むとこうあります。「 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えて下さった(英語では愛する者たちの内に受け入れて下さった)恵みの栄光が、ほめたたえられる為です。」これについては、もう前に話しましたね。神が私たちを受け入れて下さったのであって、自分でそれを手に入れたわけではありません。人が成し遂げたのではないのです。神が「まだだ、まだ到達していない。ああ、今到達した。今はもう受け入れられている」と言われるような、何らかの到達点があるわけではありません。皆さんを再創造された時に、神が皆さんを造られたのです。「再創造された」、或いは「造り変えられた」と言ってもいいでしょう。そして皆さんを造り変えられた時、神は皆さんを、愛する人々の内に受け入れられるような者にして下さいました。皆さんはそれを自分で手に入れたのでもなければ、自力で成し遂げたわけでもありません。
そして7節です。「私たちは受けています」…未来形ではなく「受けている」です。「その血による贖い、罪の赦しを。それは神の豊かな恵みによる事です。」つまり、どれだけ赦されているのでしょう?そう、皆さんに応じてではなく、神の豊かな恵みに応じてですね。そうでしょう?これら全てを受け入れ、そちらに移行しなければなりませんが、それは神の豊かな憐れみに応じて与えられるのです。それは神の果たされる分であり、神の憐れみであり、しかも皆さんを愛する人々の一人として受け入れて下さるほどの、大いなる憐れみです。その憐れみの大きさが、どうやって分かるのでしょう?次のように書いてあります。「この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の奥義を私たちに知らせて下さいました。」というわけで、神の御心はもう皆さんにとって「隠されたもの」ではなくなっているはずなのです。人々は常にこのように言います。「神が何をなされるか、誰が知ろうか?」神の御言葉に没頭し、神の御言葉を読み、それを学習するなら、神の御心は皆さんにとって謎めいたものにはなりません。私はサムラル博士に、テキサス州ヒューストンで開かれた集会で出会いました。そこである時彼に、いつ頃インディアナ州サウスベンに来られるかと尋ねられました。彼はそこに住んでいたのです。私は答えました。「用意ができればすぐに。できるだけ早く行きますよ。」家族に電話をかけ、サウスベンに行くつもりだと伝えました。そこに来るようサムラル博士に言われたのだと。当時は車すらなかったので、家に戻り、バッグに荷物を詰め込みました。妻と子供たちは、義姉の家に置いてもらい、私はバスに乗ってインディアナ州サウスベンに行きました。到着するとすぐに博士のお宅を訪問し、彼に会いました。会った時に、私は自分の事を何も話しませんでした。妻子がまだテキサスにいて、できる限り早く合流するつもりであると言いましたが、手持ちのお金があるかどうかや、お金がない事や、寝泊まりする場所があるかどうかなどは、その時伝えませんでした。そこに到着して初めて彼に会った時、私は泊る所がありませんでした。私のバッグは教会の入り口付近に置いてありました。正面扉の前でバスを降りて、中に入り、バッグをそこに置いて、受付係と話しました。会合の約束があるのかと尋ねられたので、「サムラル博士は自分が来る事をご存じです。会いに来るようにと言われたので」と答えました。受付係が部屋までの行き方を教えてくれ、私はバッグをデスクのそばに置いて廊下を抜け、ドアをノックしました。「入りなさい」と言う声が聞こえ、私は中に足を踏み入れました。それは幾分細長いオフィスでした。実際教室のようでしたが、一方の端に彼のデスクがあり、もう片方の端に長椅子や色々な物がありました。ドアの中に足を踏み入れるとすぐに、私は左を向かなければならず、彼はずっと向こうの端のデスクに向かって座り、書き物をしていました。私にはクリスチャンとして人生を歩むようになった最初の頃から、ずっと知りたいと思っていた二つの事がありました。一つ目は、どうすれば神の御霊に導かれていると分かるのか?自分が導かれている時に、そうと分かるようになりたかったのです。そして二つ目は、神の御心が知りたいと願っていました。どういう時に自分が神の御心の内にいるのか、またいかにして御心を知るのかを。神の御心を知る事を切望していたのです。そこでそれについての色々な教えを聞いていましたが、聞けば聞くほど混乱して、自分は本当に神の御声を聞いたのだろうかと疑わしくなりました。それで妻にこう言いました。「それを突き止めなければ。」その二つ、知る必要のある事といえばそれだけでした。それを土台として残りの人生を生きる事ができると考えていたのです。
それで、私は彼の前に立ち、彼は書き物の最中で、下を向いて紙に何か書いていました。私はただそこに立って、壁にかけられた色々な物を眺めながら、書き物が終わって彼が話してくれるのを待っていました。すると、彼は書き物の手を止めて目を上げ、こう言いました。「神の御心が知りたければ、聖書を読みなさい。御霊に導かれたければ、聖書を実践しなさい。」そしてまた書き物に戻ったのです。彼は私の両方の質問に答えてくれました。私はこう思いました。「もう家に帰っていいのかな。用事は全部済んだし。」しかしもう少しそこに残って、彼と話しました。その後彼はペンを置いて、実際に私と会話し始めてくれました。けれども私は彼に何も言いませんでした。家族がどこにいるかは話しましたが。自分が何を持っていて、何を持っていないかといった事は話しませんでした。私は出て行って仕事を見つけました。そして仕事の賃金が入るまで、親族の家に泊まり、その後アパートを借りて、テキサスまで家族を迎えに行き、そこに連れて来ました。それからは、教会でボランティアとしてどんな雑用でもしました。必要な事は何でも。ボランティアだったのです。そして最終的にはサムラル博士の祈りの電話の応答係となり、一晩中人々の為に祈りました。夜の11時から朝の7時まで働かねばなりませんでした。その時間帯のシフトに入れる人が他に誰もいなかったからです。私たちはそのようにして電話に応答していました。電話がかかってくるたびに、相手の人の為に祈りました。人々が実際に癒されたとか、体の色々な部分が癒されたとの報告があった最初の奇跡の数々は、その頃に起こりました。これを話しているのは、誰もがそう見せかけているほど、神の御心が謎めいたものではないからです。事実面白い事に、サムラル博士は神の御心を知る方法についての本を書きました。実際の題名は「神の声」といいます。神の声を聞く事についての本です。その本全体にはあまり大した事は書かれていませんが、裏表紙に本の紹介文が載っていて、そこに答があるのです。全く驚きでした。裏表紙を読むだけで答が分かるなんて。本全体を読む必要はなかったのです。またサムラル博士は常に言いました。自分はこれまでずっと、様々な時に神に導かれてきたが、その方法は御言葉を通してであったと。祈りを求められたり、必要を抱えていたり、どう動けばいいか知りたい、といった時には、彼はただ聖書を開いてじっくり読み始め、すると神が聖句を通して語られるのだそうです。その裏表紙には、彼の息子(彼には3人の息子がいます)がそれぞれ違う仕事をしているが、全員がミニストリーに携わっているので、神の御心の内にいる、神が自分にして欲しい事をしているから、と書いてありました。また彼はそれと関連づけて、人はそれぞれ異なった事をしており、他の人と全く同じ事をするわけではないが、それでも神が自分がするよう望まれている事をしているので、やはり神の御心の内にいるのだと語りました。
さて、これらについてはっきりと具体的に示される事もありますが、大抵の場合は御心を知る事ができます。人々は尋ねます。「どうやって?」と。私が主に問いかけ、サムラル博士が答を知る手助けをしてくれたのと同じ質問を尋ねてくるのです。彼らはこのように言います。「自分がしている事が神の御心だとどうすれば分かるのですか?自分のしている事が神の御心だと正確に分かるのは、どんな時ですか?」私は答えます。「それを知る一番確実な方法とは、皆さんのしている事が聖書に沿っているか確かめる事ですよ。伝道をしているなら、神の御心を行っている事になります。」それだけの事です。病人に手を置いているなら、病人の為に祈っているなら、病人の為のミニストリーをしているなら、神の御心を行っています。神の完全な御心の内にいます。その時点において、それ以外の御心などありませんから。空腹な人を養っているなら、皆さんは神の御心の内にいます。神が言われた事をしていながら、神の御心の内にいない、などといった事はあり得ません。お分かりでしょうか?「霊的な人々」と呼ばれる人々と、これについて口論を交わした事があります。こんな風に言われました。「誰かに手を置かないよう神から命じられた事はないのですか?」いいえ、そんな事はあり得ません。そんな事を私に言われるはずがないのです。既にそうするよう告げておられるからです。病人に手を置くなと言われる可能性があるなら、全ての造られたものに福音を宣べ伝えるな、と言われる可能性もあるわけですから。そして神が「この人に福音を宣べ伝えてはならない」と言われたとしたら、自動的にその人を地獄に引き渡される事になります。そしてそれが、神の責任になるのです。既にせよと言われた事を、神がするなと言われる事などあり得ません。お分かりですか?ですからそれは常に正しいのです。こうして今話しているこれらの考え方は全て、神学に端を発しています。そしてこんな議論をする羽目になるのも全て、皆さんが間違った事を教えられてきたからです。大抵はそのせいです。「そうだな、この人を自由にしても、相手が自由になる事を望んでおらず、以前の生活に戻りたがったら、聖書にあるように別の七つの悪霊に憑りつかれて、以前の七倍悪い状態になる。だから自分が彼らから霊を追い出した事は、助けになったんだろうか?」それは非常に霊的で深遠に聞こえますね。そうやって色々と思い巡らす事は。しかし、要するにこういう事です。皆さんはその人に自由に歩む機会をまだ与えもしない先から、もう彼らを束縛された状態のまま放置する事を選んでいるのです。分かりますか?イエスが皆さんを束縛されたまま放っておこうと決断されていたら、一体どうなっていた事でしょう?
自分にして欲しいように他の人にもするのです。このミニストリーの真の基盤となっている理念はとても単純で、ただ神の御言葉に沿って行動するという事です。そして何をするにしても重要な事とは、マタイ7章に基づいて行う事です。事実、聖書を持っているなら、それを読むといいでしょう。かつてこのテーマについて教えた事があり、それは「正しいルールに則って生きる」と題されていました。おかしな事に、人々はこのルールが好きではないので、そのCDを聴こうとしないのです。あたかも無視すれば、それが真理ではなくなり、それに耳を傾けなくて済むと思っているかのように。しかし、マタイ 7:1 にはこうあります。「 さばいてはいけません。さばかれない為です。あなた方がさばくとおりに、あなた方もさばかれ、あなた方が量るとおりに、あなた方も量られるからです。」さて、見て下さい。自分がさばく通りに裁かれると書いてあります。憐れみ深い裁きを下すなら、自分も憐み深く裁いてもらえるのです。厳しく裁くなら、自分も非常に厳しく裁かれます。アーメン?ですから、裁くつもりであれば、常に人々に奉仕し、彼らを助け、彼らに語りかけるなどして、その上で裁いた方がいいでしょう。「さばいてはいけません。さばかれない為です」と言っていますが、裁くつもりなら、必ず憐みをもってそうしましょう。慈悲深い心でそうするよう心がけるのです。自分がさばくように自分も裁かれるからです。そして人々に最高の自分を信じて欲しいと望み、憐れみを示して欲しいと思うなら、人々にも憐れみを示しましょう。簡単な事ですよね?以前話していたこの原則を把握しなければなりません。そうすれば生涯ずっと助けになるでしょう。神がするよう言われた事を、しないようにと言われた事があったと思うなら、聖書を読むべきです。そんな事例はありません。マルコ16章を読むなら、「信じる者は病人に手を置き、病人は癒される」と書いてあります。さて、殆どの人が守っているようなルールに則って生きようとするなら、彼らはこう言わねばならないでしょう。「病人に手を置きなさい。信者が病人に手を置けば病人は癒されます…誰かが手を置かないよう導くのでない限り。」そんな事は書いていませんね?そこには「信じる者が病人に手を置く」とあるだけです。そこの文章に「主がそうしないよう導かれるのでない限り」と付け加えなければならないでしょう。私たちがそのような事をしていると気づかねばなりません。文の中に書かれていない言葉を読み取って、まるで実際の聖句ではなしに、それらの言葉が聖句であるかのように振舞うのです。
娘と話していた時、私はこう言いました。「おかしなものだね。私は自分の時間の80パーセントを、聖書を急いでざっと読むだけの人々と話す事に費やしている。彼らの複雑な解釈を単純な理解に戻してやらなければならないんだ。」正直、時間の殆どをそれに費やしているのです。もっと早めに立ち止まるなら、聖書に親近感が湧くでしょう。お分かりですか?しかし人はそうする代わりに、すっかり論理にはまり込んでしまい、急いで読み進めようとします。その殆どは失敗者の思考形式から来ているのですが。私たち人間は、祈って何かが起こらなければ、その理由を思いつき、しばらく経つと、聖句よりもその理由の方を、もっと聖句のように見なすようになるのです。ですから、聖句に立ち返らなければなりません。皆さんに、キリストにあっての単純さに戻って欲しいのです。これは難しい事ではありません。クリスチャンとして生きる事は簡単です。イエスはご自分のくびきは負い易く、その荷も軽いと言われました。大変になるとは言われませんでした。人々はこのように言います。「律法を説くなら、人々を束縛下に置く事になる。私たちは律法の下にはいないし、律法は律法であり、私たちは今恵みの下にいる。」さて、律法は殆どの場合、神の恵みである事に気づいているでしょうか?自分が間違っている事を人に悟らせる為に、律法を与えられた事さえ、神の恵みでした。神はそれほど人を気遣って下さったからです。皆さんは自分の子供を愛していますか?通りを渡る前に左右を確認しなさいと教えるほど、彼らを愛しているでしょうか?それは律法です。皆さんがその律法を定めました。何故でしょう?子供たちに残りの生涯を通じて、そのように生きて欲しいからです。何故でしょう?彼らを愛しているからです。厳しくしたり、意地悪く接しようとしているわけではありません。「通りに走って行ってもいいが、そこで立ち止まって左右を確認しなさい」と言って、彼らの楽しみに水を差そうとしているわけではありません。何故そう言うのでしょう?死んで欲しくないからです。それと同じように、規則自体が悪いというわけではない事に気づかなければなりません。人々は言います。「ああ、私たちは今恵みの下にいて、律法の下にはいない。」その通りですが、同時にこれを定められたのは神である事に気づかねばなりません。そして聖書全体を通じて、次のように書かれています。「律法は完全です。律法は良いものです。」詩篇作者のダビデすら、かつてこのように言いました。「律法を愛していなかったら、私は災いの中で命を落としていたでしょう」と。別に律法の下に戻れと言っているわけではありませんが、要するにここには、気づくべきある側面があるという事です。物事にはやり方が、原則というものがあります。私たちが聖書と呼ぶこの本に書かれているのは手法でも技術でもありません。神は私たちが物事を行う際に、種々様々な方法を与えられるからです。聖書は原則の本なのです。どこに住むべきかや、どんな車を運転すべきかや、どの都市のどの通りに住むべきかを教えてくれるわけではありません。そうではなく、むしろ原則を教えてくれるのです。どこに住んでいようと、人はこのように生きるべきであると。そういった原則を教えてくれるのであり、具体的な事は殆ど告げていません。だからこそ、神の御心に立ち返るよう告げているのです。神の御心の内にいるなら、神の御心を行うでしょうし、もはや律法に基づいて生きる事はありません。今や神の御心を行っており、神の御心が自分の一部になっているからです。
例えば、私は人から「飲むな」と言われる必要はありません。これは特に酒類の事で、それは確かに、聖書の中で禁じられているわけではありません。しかし、それにどんな良い効能があるか教えて下さい。全ての事はしても良いのですが、全てが益になるわけではありません。箴言には、強い酒はあざけるもので、王の飲み物ではないとあります。「決して酒類に触るな」という法を制定しているわけではありません。むしろ、色々と有益な事柄があり、多くの事ができるものの、全てが最善というわけではないと言いたいだけです。しかし、皆さんが自分で決めて下さい。皆さんではなく、他の誰かがそれを決めて、聖書に書かれていない法規を皆さんに課し、それを律法とするなら、それは律法主義と呼ばれます。しかし自分で決めるなら、それは律法主義ではなく自己鍛錬です。違いが分かりますか?誰かがやって来て「酒場に行って飲もう」と言うなら、私はこう答えます。「飲むといえば、私の場合はコーラだ。」「いや、酒だよ。」「酒は飲まない。味見した事も一度もない。今から飲み始めるつもりもない。」今52歳で、もうすぐ53歳ですが、これまでずっとそれで通してきました。今更飲み始めるつもりはありません。すると彼らは言います。「おや、飲まないって?飲めないのかい?」「9歳の時に神に誓いを立てたんだ。酒には一度も触った事がないし、ずっとそれを守ってきた。」「律法主義だなあ。律法の下にいるのか。」いいえ、それは自己鍛錬です。酒には何の益もありません。そして色々な問題を引き起こします。酒を飲むなと言っているわけではありません。ただ、法に則って生きても別に構わないと言いたいだけです。そうしているからといって、律法主義という事にはなりません。だらしない生活を送っている人々に、自分が秩序正しい生活を送っている事で、決まりの悪い思いをさせられてはいけません。しかし、自分の生活が秩序正しいなら、他の人が同じ規則を持っていないからといって、クリスチャンとして自分より劣っていると彼らに感じさせてもいけません。もしかすると、彼らが皆さんよりも秩序正しく歩んでいる他の分野があるのかもしれません。アーメン?ですから、それはただ、皆さんが神と共に働きかけるべき一つの分野なのであり、そして何が神の御旨であるかを突き止め、その神の御心の中へと移行しなければなりません。しかし、神の御心を見つけるのは難しい事ではありません。神の御心とは神の御言葉です。神の御心が御言葉ではないなら、神は嘘つきという事になりますね。ですから、神の御心はその御言葉なのです。それでは、続きを読んでいきましょう。これは、私たちのミニストリーの基盤です。これこそ私たちの運営方針です。3節にこうあります。「 また、何故皆さんは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『皆さんの目のちりを取らせて下さい』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」そしてこう言っています。「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除く事ができます。聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂くでしょうから。」ここには人々との接し方について書かれています。何でもかんでも人に与えればいいというものではありません。
集会においてだけでなく、路上や様々な場所で人と話している時に私が学んだ原則の1つは、「答えは手短に」という事です。相手がもっと知りたいと思えば、さらに聞いてくるでしょうから。そして、相手が質問をやめた時点で、答えるのをやめるのです。相手が会話に応じないなら、おそらく無視しようとしているのでしょうから、無理矢理に話そうとしてはいけません。多く話せば話すほど、豚に真珠を与える事になります。そうしているも同然です。引き続きそれらの言葉を注ぎ出そうとしているのですから。証しをするなとか、宣べ伝えるなと言っているわけではありません。そうは言いませんが…ある人と話すなら、最初のうちは、相手は話してくれるでしょう。彼らは質問をし、皆さんはそれに答えるでしょう。私は何年も前に、あるカセットテープを持っていました。今それをもう一度見つけようと探しています。見つけたら同じものを注文し、うちのスタッフやJGLMの全員に聴かせなければと考えています。素晴らしい教えだからです。実際にはそれは商社の販売員訓練教材のようなもので、それ自体が自己啓発教材というわけではないのですが、基本的には人との接し方に関するものでした。私はそれを探し出して、うちのメンバー全員に聞かせるつもりです。それは「30秒かそれ以下で伝えたい事を相手に伝える方法」と題されていました。一日に8時間説教する人物によって書かれたものです。要は、どんな会話においてもなるべく簡潔に答えて、長々と話さないという事です。とりわけ今日、人々にとって最も貴重なものとは時間ですから。ですから私は、皆さんがこれに参加し、まるまる三日間ここで耳を傾け、座っているという事実を、当然の事とは思っていません。本当です。それを二通りの意味に受け取っています。一つは、神がご自分の子供たちを私にお任せになり、彼らに語らせて下さるとは光栄であるという事。私は自分の子供が誰の話を聞くかについては、かなり厳選するからです。ですから、神が皆さんを任せて下さるほど私を信頼して下さっている事を感謝します。それと同時に、時間が貴重である事は承知しているので、時間を浪費したくはありません。しかし、私は皆さんの成長に役立つ事、私が学んだ事で、ある程度成長の助けになった事をお話ししたいのです。その一つが、人と接する時は30秒以内に自分の言いたい事を伝えるという事です。殆どの場合、人が質問をして、求めている答えは大抵の場合、イエスかノーです。詳細が必要な場合は、詳細を伝える事ができます。しかし、まずはイエスかノーから始めましょう。イエスかノーの質問であれば、イエスかノーにたどり着きます。それが相手の質問に答える事になり、その後、必要に応じて詳細を加える事ができます。私の言っている事が分かりますか?もし30秒以内に自分の言いたい事を伝える事ができれば、皆さんが福音を伝えたり、誰かに証言したりする前に、30秒の福音の断片を伝える事で、実際にそれを彼らの心に届ける事ができるのです。そして、彼らが聞きたくないと判断する前に、実際に彼らの中に入れる事ができます。それは種として既にそこにあるのです。もしそれが真の福音であれば、その種はそこに残り、朽ちる事なく残り、彼らを悩ませ、成長し始めます。ある事について考えていなかったのに、ふと何かが目に留まって…例えば車とかですが、「わぁ、あれが例の車か、なるほど」などと思った事はありませんか?すると次の週には、同じ車をそこらじゅうで見かけるようになるのです。そんな現象に気づいた事はありますか? そしてその後、それが目に付くようになります。何故でしょう?皆さんの注意がそこに向けられているからです。
時として、相手の心を勝ち取るのは皆さんではありません。皆さんは種を蒔くだけです。そして、その週の残りの期間に、その人がどこに行っても、福音という貴重な情報が、様々な方法で目の前に現れるのを見る事でしょう。それはその人にとって意義深い形で現れ、彼らを勝ち取ろうとされている神のご意思が、さらにはっきりと示される事でしょう。それが至る所に現れるからです。私が言いたいのは、まるでセールストークのように常に無理矢理に決断を迫り、その場でキリストを受け入れてもらおうとする必要はないという事です。ただし、人によっては、皆さんが証しをした最後の証し人になるかもしれないからです。ですから時には決断を迫る必要があり、「それで、どうされますか?」と言う必要があるのです。しかしその場合は、彼らに話しているものが必ず福音である必要があります。彼らを教会に入れたり、あれやこれやに参加させたりするのではなしに。言っている事が分かりますか?大切なのは、神への心の姿勢です。私がこの話をしているのは、それが私たちの人生で守るべきルールであり、また私たちのミニストリーの基盤でもあるからだという事を覚えておいて下さい。7節では「求めなさい、そうすれば与えられます」と言っています。求めなさい、そうすれば与えられるかもしれない」などという言葉を考え出すのは、神学者やクリスチャンぐらいです。主は、「求めなさい、そうすれば与えられます」と言われたのです。「捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」これはとても絶対的な事なので、主はそれを2回繰り返されています。そして9節です。「あなた方も、自分の子がパンを下さいと言う時に、だれが石を与えるでしょう。」もし皆さんがクリスチャンの集まりに頻繁に参加しており、教会生活が長いなら、ここに出てくる言葉をよく耳にしているはずです。後で出てくる他の節もありますが、ここにはこう書かれています。「あなた方も、自分の子がパンを下さいと言う時に、誰が…」さて、聖書で「パン」という言葉を聞くと、自動的に二箇所が思い浮かぶでしょう。主の祈りにある、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」の箇所、これが皆さんの頭に最初に浮かぶ聖句であるはずです。もう一つの聖句は、子供たちのパンを犬に与えるのは良くないというものでした。そうでしょう?主の祈りには、「私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい」とあります。それは物理的な食べ物を指しているのかもしれませんが、イエスは物理的な食べ物については殆ど語られませんでした。マルコ7章24-30節で、「私の娘を治して下さい」と言った女性について、主が語り出されます。そして、子供たちのパンを犬に与えるのはよくないと言われました。さて、彼女は何について話しているのでしょうか? 癒しについてです。つまり、子供たちのパンは癒しなのです。しかし、マタイ7章9節ではこう言っています。「あなた方も、自分の子がパンを下さいと言う時に...。」それは子供たちのパンですね、そうではありませんか?もし息子が父にパンを求めるなら、父は彼に石を与えたりするでしょうか?つまり、子がパンを求めれば何がもらえるでしょう?パンです。石をもらう事はありません、そうでしょう?それでは、癒しを求めたら、何が得られるでしょうか?癒しです。石をもらう事はありません。
皆さんはこの事に確信を持っていなければなりません。疑問を抱きつつ状況に踏み込んでも、答は得られません。二心の人は、全ての点で不安定です。もし二心であれば、その人は神から何かを得られると思ってはいけません。むしろ一心に取り組み、決断を下さなければなりません。信仰は祈る前に、その結果がどうなるかを決めます。結果がどうなるかを決めていないなら、信仰を持っていない事になります。信仰は、「さて、神様、皆さんは何をされたいのでしょうか」と言って祈るのではありません。信仰は、聖書を読み、神が何をされたいのかを知り、そのような結果をもたらすべく自分の信仰を行使し、結果が得られるまでそこに留まるのです。そして途中でその結果ではない何かが生じるとすれば、明らかに話はそこで終わりません。そうでしょう?イエスを見て下さい。人々はやって来て、ラザロが病気だと言いました。それからイエスはもう二日別の場所に留まっておられましたが、後で調べてみるとラザロはイエスがその知らせを受ける頃には既に死んでおり、イエスはその事をご存知でした。そして一度は、弟子たちにラザロは眠っているだけであるとさえ言われました。彼らは言いました。「まあ、眠っているだけなら大丈夫だろう。」それからイエスは、「いや、彼は死んでいる」と言われました。死という言葉すら使う事を好まれなかったので、「眠っている」と言われたのです。少女が死んでいた時も、イエスは彼女が死んでいるのではなく眠っているだけであると言われました。そして彼らを蘇らせる事は、それほども簡単なはずなのです。誰かを起こすのと同じぐらいに。ですから、主はラザロの墓に行かれました。そこに着いた時、彼らはそこから少し離れたところでイエスに会って言いました。「主よ、皆さんがおられたなら、ラザロは死ななかったでしょうに。そして今でさえ、求めるなら神が求めるものを何でも与えて下さると知っています。」そしてイエスは弟子たちにこの病は死に至るほどのものではないとすら言われました。しかし、ラザロは死んだのですよね? そう言われたのではありませんか?主は言われました。「この病は死に至るほどのものではない。」しかしラザロは死にました。という事は、イエスは間違っていたのでしょうか?いいえ。しかし、実際にそれが起こったのです。以前も言ったように、即座に癒される場合もあれば、徐々に癒される場合もあります。人々は言います。「何故徐々に起こるのですか?」理由は数多くありますが、大抵は祈っている時に何を信じているかに関係があります。マルコ16章は人々が癒されてさっと飛び起きるとは書かれていません。マルコ16章は奇跡についての節ではありません。お分かりでしょうか?マルコ16章にはこうあります。「信じる者が手を置けば癒される(KJVでは recover=回復する)。」回復とは徐々に起こる事を指す言葉です。それ自体がある過程なのです。手術を受けて手術室から出てくると、彼らは一定期間その人を回復室に入れて、術後の回復を図ります。
ですから、病人に手を置けば彼らは回復するのです。手を置けばその結果相手は元気になると言う事です。すぐに癒されて飛び起きるとは言っていません。さて、分かって欲しいのですが、癒しが即座に起こるのなら、それは奇跡かもしれません。イエスの癒しは、即座に起こった場合もあれば、ある程度時間が掛かった事もありました。私も時間が掛かったケースの証しを沢山お話する事ができます。癒しの過程が長引くのは好きではありません。私は即座の癒しが好きなのです。必要以上に人々に苦しんで欲しくはありませんし、実際彼らは苦しむ必要などないのです。しかし、私たちは結果を重視します。聖書にそう書いてあるなら、効果を生むはずです。そうでしょう?しかし、最大の成果を上げる最も手っ取り早く最善の方法とは、成果について考えるのをやめ、ただ聖書ができると言っている事をし、一旦、聖書が言っている事をしたなら、後は向きを変えて歩き去り、それが既になされたと考える事です。祈っている人の中で何が起こっているのかは判別しがたいものです。彼らが「よし、癒された」などと言っていても、癒されたと本当に信じているのか、ただそう言っているだけなのかがわからず、判別できません。彼らが実際本気でそう言っており、癒されたと考えている事を願います。その場合は、彼らがそこから立ち去った時、それはもうなされたも同然なのです。そしてその後、実際にそうなります。相手の人は回復し、癒されるのです。しかし、かつてあるグループの多くの信者は、「信仰によって」病気をずっと受け入れてきて、彼らは10年経った今もなお、「信仰によって」同じ状況に立っています。それは聖書ではありません。それは癒しの為の信仰ではありません。それでは、イエスの約束や贖いを何一つ信じていない事になります。もっとずっと早く癒されているべきなのです。全部の病気が即座に癒されているべきです。先ほども言ったように、それは即座に起こるべきであり、それが徐々に起こったり時間が掛かるのが、私は好きではありませんが、その一方で、全く癒されないよりは徐々にでも癒された方がいいのです。アーメン?
かといって、時間が掛かるのが神の御心であると言っているわけではありません。そんな事は信じていないし、そのように考えたくもありませんが、ただ時間がかかるケースを何度も見てきたと言っているのです。人々に起こったそのような話や証しを次から次へと話す事ができます。私たちは世界中を回り、様々な大陸を巡り、人々の為に祈ってきましたが、私たちがそこを去る頃には、私自身の目にはまったく変化が見えず、或いは変化が見えたとしても、容体がさらに悪化しただけ、といった事もありました。実際私たちが祈った直後に悪化したのです。正直言って、そんな事がよく起こります。そして通常は、そんな事が起こると人々は皆動揺して言います。「ああ、もっと悪くなった。何故、癒されないんだ?」彼らは元気でしたが、その後病気になりました。私たちは祈りました。そして今突然に症状が悪化しました。すると人々は何も起こらなかったと考えます(笑)。明らかに何かが起こったのです。人々はやって来て、症状が悪化していると私たちに告げたのですから。そうでしょう?しかし、このように考えなければなりません。「何故、悪化しているんだ?」これは、祈った後でただ偶然に悪化したのではありません。それは私たちが「それ」に命中し、刺激したという証拠です。いわば、それを揺さぶって緩めたのです。そして通常起こる事とは、祈った後に即座の結果が出て人々が癒されるか、祈った後に即座の結果が出て症状が悪化するかのどちらかで、後者も即座の結果には違いありません。ただ望んでいる結果ではないというだけの事です。それから通常は、そうした即座の結果が生じる場合には、症状が再び悪化して、最悪の状態になったすぐ後に、それらがただすっと出て行き、癒されるのです。人は言います。「何故そうなるのですか?」分かりません。イエスはどうされましたか? 彼が霊を追い出された時、その子供はひどく苦しみ、人々が「彼は死んでいる」と言ったほどでした。それはイエスが彼の所に来られる前よりも悪化したという事です。そうでしょう?そこでも同じ事が起こったのです。人々は言います。「何故、イエスの時代には全ての癒しが即座に起こり、『癒されよ』と言っただけで全部が癒されたのだろう。」
第一に、皆さんはそこにいませんでした。何が起こったか知らないのです。皆さんが知っている事は自分が読んだ事だけで、しかも読んだ内容の半分は正しく解釈していません。そこに書いてある事すら読んでいないのです。ただ「これはこうなるべきだ」というイメージを抱いているだけです。そのような人はイエスに会いたくない事でしょう。鞭を作っている最中のイエスに会う羽目になるだろうからです。そしてイエスに対して抱いているイメージは完全に崩れ去るでしょう。「ああ、主は優しくて穏やかで親切で、そんな方だ。」そうでもありません。優しく穏やかで親切な人は鞭を作って人々を神殿から追い出したりはしませんから。考えてもご覧なさい。彼は人々が常に思い描いているような方ではなかったのです。
さて、症状が徐々に良くなっていく時もあります。これは霊を追い出した時に起こる一現象なのです。その霊はあちこちを行き廻って…それから少し後に、また元の場所に戻って来ようとする事が時々あります。考えてみて下さい。皆さんが盗みに入る家を探している泥棒だとして、押し入るのに都合のよいある家について耳にしたとします。その家には皆さんが欲しがっている全てのものがあり、車でそこに近づくと、正面玄関にADT(セキュリティーサービス)があります。 その場合、もう一区画先まで進むでしょう。その場に車を停めて、つるはしとか色々な物を取り出したりはしません。そうする代わりに、車でその周囲を走り回って、もっと良い機会を狙う事でしょう。警察がそこにいないタイミングを。そうですね?それから、皆さんがある集会に来て私たちに祈って欲しいと頼み、私たちが皆さんの為に祈ったとします。「ああ、これは素晴らしい。」もう少しも痛みを感じないか、殆ど痛みがなくなるか、ほんの少し痛みが残っているだけです。それからそこを離れて、帰途につくのですが、そこでまたバーンと同じ痛みに襲われたとします。或いは二日後か一週間後にまた同じ痛みが、ぶり返したとします。「ああ、本当に癒されたわけではなかったんだ。きっと痛みを感じないと思ったのは幻覚だったのだ」と考え始めます。何年も車椅子生活だった後で、実際に立ち上がって歩いたのに、本当に癒されたわけではなかったと考えるのです。いいえ、それは本当に起こりました。しかし私たちがいなくなった後で、皆さんは私たちの癒しに頼っていた為に…。警察がいなくなったかどうか確かめる為に、何が戻ってくると思いますか?私たちがこれがただの魔法だとでも思っているかのように振る舞います。信仰は魔法ではありません。へブル書を読んで下さい。信仰はわざです。分かりますか?人々は言います。「信仰かわざのどちらかだと思っていた。わざによっては何も得られないと思っていた。」そう、「わざ」という言葉を理解しなければなりません。それは「原則」という言葉を理解しなければならないのと同じです。信仰という原則があります。皆さんは、モーセの律法の原則の下にはもういません。今は、信仰という原則の下にいるのです。信仰という原則に基づいて行動しない限り、神から何一つ受け取る事はありません。信仰がなくては神に喜ばれる事はできないからです。
というわけで、信仰との原則があるのです。愛の原則があるのも知っていますね。皆さんは愛の律法に則って行動します。ローマ8章では、キリスト・イエスにあっての命の原理について語られています。その原則に則って物事が起こるという事実があります。ちょうど重力の法則のように。その原則の通りになるのです。しかし人々はただ「ああ、それはいつも、ただ偶然に起こるのです」と言います。それがただ偶然に起こるのなら、何も重要なものはないでしょう。意味あるものは何一つありません。それらはただ起こるのではありません。ただ何かを詳しく調べて、「もしその通りなら、これら全てはただ偶然に起こるはずだ。このようになっているはずだ」と言う事もできますが、この事に数年間携わってきた経験から言うと、そのような事は未だかつて見た事がありません。そして皆さんも見た事がないと知っています。もし見た事があるなら、皆さんがここに立って教えているでしょう。皆さん、やけに静かになってしまいましたね。言ったでしょう。パウロが現れたら、皆さんは彼の事を気に入らないだろうと。パウロはそんな話し方をするからです。
聖書はもし誰かが違った考え方をするなら、神が示して下さると言っています。それとは異なる考え方をするなら、神はどこが間違っているか教えて下さるでしょう。パウロはそんな風に語りました。私たちもそうだったからです。私たちも同じ経験をしました。自分たちが全ての知識を持っていると言っているわけでもありません。まだ学んでいる最中ですから。しかし、知っている事もあります。私たちはこの世界に住んでおり、御霊の法則にしたがって行動しているのです。そしてその中の特定の物事は、特定の方法で機能します。イエスは「信者が病人に手を置くと、病人は車椅子から飛び上がって3,4分間その場をくるくると跳び回り、それから降りてくるでしょう」とは言われませんでした。そんな事は書かれていません。むしろ、「信者は病人に手を置く」と書かれています。
さて、癒しの賜物について語る時、確かにそれは奇跡的なものになり、即座に色々な事が起こる事もありますが、私が入って来て皆さんに、どのように癒しの賜物を働かせるかについて教えたとします。しかし皆さんがその賜物を持っていないなら、それを教えても何の役にも立ちません。しかし、私が皆さんに教えるのはマルコ16章であり、それは全ての信者に当てはまります。あくまで「賜物によって働きたい」と言い張るなら、別に構いません。そうすればいいでしょう。ただ、それが聖書に沿っている事を確かめて下さい。しかし信者として行動するつもりであれば、病人に手を置くと、その病人は癒されるでしょう。中には他の人より素早く癒される人もいるでしょう。色々な理由がありますが、その一つは、中には他の人よりも強い人がいるという事実です。二人の人が同じ手術を受けて、一人は翌日に起き上がり、もう一人は一週間かかる事があります。何故でしょう? それはただ、体力的な違いがあるからです。身体的にどのような状態かという点で異なるのです。また意志力に関係している部分もあります。私は任務を遂行できない状態をひどく嫌います。ですから、寝たきりでいるのは絶対に嫌です。そんな事をしていられないほど忙しいのです。そんな時間はありません。ですから、人々が死にかけているといった、そんな状況においてでさえ、ある種の問題が生じます。人々が口論を仕掛けてくるのには驚きます。彼らを癒そうとしているのにです。彼らは病気のままでいたいので、反論してくるのです。「そうですね、でも神は私を癒されないかもしれませんよ。だってほら、パウロは癒されませんでしたからね。」パウロがいつ病気になりましたか?パウロが病気であったという記録など一つもありません。皆さんは、よく分かっていない人々にそう教えられてきたのです。「よくお聞きなさい、パウロにはとげがありました。」そうですか、ではとげとは何でしょう?「ああ、それは目の病気です。」本当に?そうだと知っているのですか?そう書いてありますか? 「私はこのとげを与えられた。このサタンの使い、すなわち目の病気を」と書いてあるのでしょうか?いいえ、そうは書かれていません。それに、そのとげが何なのかどうやって分かるのですか?「だって、神学校の何とか博士が言っていたから…」彼らの言う事を何でも信じてはいけません。自分の考える事を何でも信じるのもだめです。考えたからといって、その全てを信じる必要はないのです。皆さんは言います。「では、とげとは何なのですか?」
「とげ」という言葉を調べて下さい。聖書の前の箇所で、「とげ」という言葉がどのように用いられているか調べるのです。文字通り藪の中にあるとげという意味で用いられている箇所もあります。イエスがいばらの冠をかぶられた時、彼に刺さったのは実際のとげでした。しかし、旧約聖書では、ある土地の先住民たちを追い出さないなら、彼らは戻って来て脇に刺さるとげとなり、目を刺すであろうと書かれています。ですから、その土地に住んでいる人々を追い出さないなら、彼らは戻って来て目の病気を与えるであろうという...ここはそういう意味なのでしょうか?いいえ、とげとは人々の事です。パウロの言った事をよく聞いて下さい。パウロは言いました。「私はとげを、このサタンの使いを与えられた。」何故でしょう?「私が受けた多くの啓示ゆえに」です。そして、マルコの4章には何と書かれていますか?マルコ4章に非常にはっきりと書かれています。種を蒔く者たちが御言葉を蒔き、その後に御言葉のゆえに迫害が起こると、そのせいでつまずいてしまう人々がいると書いてあります。ですから、御言葉のせいで迫害が起こるなら、そしてキリスト・イエスにあって信心深く生きようとする人は皆迫害を受けるのなら(パウロ自身がそう書いた)、パウロは最も多くの啓示を説き、しかもその啓示のせいでとげが与えられたと言っています。そこから分かるのは、彼が人々からの迫害の事を言っているという事です。ここで考えてみましょう。パウロは誰かに迫害された事がありましたか?見たところ、彼はユダヤ教徒たちをかなり怒らせてしまったようです。ユダヤ教の要人たちを怒らせ、彼らはパウロを迫害して石打ちにし、死んだと思って放置した事がありました。しかしおかしいですね。何故なら彼は「私はイエス・キリストの使徒だ」と言ったからです。そしてこう言いました。「自分が使徒である事の証明が何かを知りたいか?」と。「自分の使徒としての経歴を教えて欲しいか?」と。「殴られ、鞭で打たれ、石打ちにされて死んだと思って放置された。私は飢えた。船が難破した。海の上を漂流した」様々な時期にそういう事が何度かあったようです。福音を説いたがゆえに、自分が苦しんだ様々な困難を書き連ねました。そしてその福音とは彼が受けた数多くの啓示であり、そのせいでとげが与えられたのだと。そして自分の苦しんだあらゆる事柄を挙げているのに、一度として次のような事は言っていません。「どうしても治らないこの馬鹿げた目の事は言うまでもない!」そんな事は一度も言いませんでした。病気だった話など一度もしなかったのです。そのような事は一度も話しませんでした。彼は、「私がどんな苦しみを通ったか教えて欲しいですか?」と言ったのであって、「私は病気に苦しんだ」とは一度も言いませんでした。何故でしょう?イエスがそれらを負われたからです。アーメン?すると人々は言います。「でも彼はそれを治して下さいと、様々な異なる時期に神に三度求めましたよ。ここにこうあります。『私はこれを取り去って下さるようにと、神に三度求めた』と。」ちょっと待って下さい。今言い方を変えましたね。「癒されるよう神に祈り求めた」と言いました。彼は「癒されるよう神に三度祈った」とは言っていません。「それを取り去って下さるよう三度祈った」とあります。すると神は言われました。「パウロよ、私の恵みは十分である。」
そしてそこでの恵みとは、何かを最後までやり遂げる能力の事です。つまり神はこう言われたのです。「パウロよ、聞きなさい。私はそれをあなたから取り去る事はしない。パウロよ、あなたは福音を宣べ伝えている。その為に何を受けると思うか。あなたは迫害を受けるだろう。」ですから、パウロが本当に迫害になくなって欲しかったのなら、ただ宣べ伝えるのをやめれば良かったのです。そうしたらそれはなくなったでしょう。そしてその時点で、ユダヤ教の指導者たちは彼を迫害するのをやめた事でしょう。そうではありませんか?しかし、彼は神に「それを取り去って下さい」と求めました。そして神は言われました。「いいや、これらの人々があなたを迫害するのをやめさせる事はできない。」何故でしょう?彼らには彼らの自由意思があり、彼は福音を宣べ伝えているのですから、福音を宣べ伝えているがゆえに迫害を受ける事になるからです。当然そうなるでしょう。そうではありませんか?さて、ここにはこうあります。「私はそれを取り去って下さるようにと、主に三度求めた。」そして神は言われました。「私の恵みは十分である。」つまり、心配するなという事です。「私はそれを取り去らないが、あなたがこれをやり遂げられるよう助ける。あなたはこれをやり遂げるだろう。」そして実際、パウロはやり遂げました。何故でしょう? 彼が王たちの前に立たなければならなかったからです。彼はカエサルの前に立ち、カエサルの家族さえも福音に勝ち取らなければなりませんでした。
人々が物事についてしっかりとよく考えないのには驚かされます。そして彼らは、誰かが投げてよこした、どんな宗教的教義も真に受けてそこにのめり込んでしまうのです。その人たちは、癒しのミニストリーなど何も持っておらず、癒しの成果も全く出していないというのに。それなのに病気や疾患や癒しについて、彼らが話す全ての事を信じてしまいます。これらの事を説いている人々は、癒しの成果を目にした事など一度もないというのに。全く驚きです。破産した人の所に行って、お金の儲け方を尋ねてはいけません。貧しい人の所に行って裕福になる方法を尋ねたりはしないでしょう。ですから、病気の人の所に行ってどうやったら癒されるかを尋ねてはいけません。そういう事を伝える人々の大半は、自分も問題を抱えており、それを解決する事ができません。ですから、何か霊的な事を思いついてそれらしく聞こえるように造り上げるのです。「そう、私は霊的だからこのようなとげがあるのです」といった具合に。それが本当なら、そうした人々のように霊的になりたくはありませんね。むしろ、イエスのように霊的になりたいですね。アーメン?では休憩にしましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。