セッション8
実は休憩中に、ある人がある事について話してくれたので、この機会に話しておきたいと思います。この教えは世界中で必要とされていますが、まだ教えられていない場所も数多くあり、私たちはそのような場所に行こうとしています。しかし私たちのオーディオを聴き、ダウンロードし、この事を理解し始めている人々も世界中にいるので、私たちはまず、グループを作りました。いわばセルグループのようなものです。そしてそれを、ライフチームと呼んでいます。それはこの教材を入手した信者たちが、集まってできたものです。ライフチームの目的は、セルグループのそれとは異なります。ライフチームはまさにその名前の通りです。ただのグループではありません。グループというのは…今ここにいる私たちもグループですし、どんなものでもグループになり得ます。しかし、ライフチーム、つまりチームであるというのは、共通の目的や目標の為に共に働くという事です。ですから、ライフチームは集まって神の御言葉を学習しますが、その目的はキリストの為に地域の都市を獲得する事なのです。それが目的です。厳密に言うなら、最も重要な目的は、霊的な成長ではありません。そして、キリストの為に地域の都市を獲得する為には、霊の内で成長しなければなりません。私たちはそのような見方をしているのです。
最も重要な目標とは、その都市を獲得する事です。私たちが皆さんを訓練するのは、その獲得の助けとなるようにであって、成長は副次的なものです。ライフチームは集まって教材を学習し、また集まって外に出て行き、病人に奉仕します。それから証しに行き、色々な場所に行って、人々に奉仕し、彼らの為に祈り、彼らに教え始めるなどあらゆる事をします。そして私たちは、皆さんが何をどのようにすれば良いのかを知る手助けをし、訓練を与え、御言葉から教えるのです。私たちの目標は、ある人がライフチームに二年間参加するだけで、私たちの聖書学校の課程を大体修了できるようにする事です。そして実際、ライフチームで学び、そこに参加する事によって、その人は基本的に聖書学校で学んでいる事になるのです。そういうわけで、私たちの目標とは、皆さんを訓練する事です。ですから、ライフチームに参加する事やライフチームを主催する事に興味があるなら、一枚の紙に皆さんについての情報を書いて欲しいのです。名前と連絡先、Eメールアドレス、電話番号などを書いてもらえるといいです。そしてどの国のどの都市、といった住所も。いずれは誰かがそこを訪問するようになるでしょうから。ただ簡単な詳細を書いて、ライフチームを結成したいと書いて下さい。「グループを作りたいのです」という言い方をしてもいいでしょう。そう言ってくれれば分かります。あるいは、「参加したいです。主催したいです」などでも構いません。参加するには、どこかに行かなければなりません。主催するのであれば、皆さんの家が集合場所になります。通常は週に一度集まるよう提案されますが、頻度は好きに決めて構いません。もっと頻繁に集まる事もできるのです。中には週に2、3回集まるライフチームもあります。殆ど家族のようになっているからです。ですから、そうするよう奨励します。別に名前や情報を求めたからといって、皆さんを型にはめて「こうしなければならない」と言っているわけではありません。皆さんは情報提供する事で、ライフチームについての情報が欲しいと伝えている事になります。ですから、皆さんが実際にそう思っており、ライフチームについての情報が欲しいか、そのような方法で私たちとつながりたいなら、皆さんの情報を紙に書いて提出して下さい。私たちの目標と仕事は、皆さんとつながって連絡を取り合い、その後も連絡を取り続ける事であり、今それぞれの地域にコンタクトデスクを設けようとしているところです。特定の問題や必要が生じた場合に、皆さんと直接一緒に働いて、皆さんの事を知り、その活動を助ける事ができるように。
ちょっと把握しておきたいのですが、皆さんの中で、ライフチームについての情報に興味のある人はどれくらいいますか? 手を挙げて下さい。分かりました。きっと沢山の紙がアダムに提出される事でしょうね? それらに記入してくれれば、セッションの終わりに集めます。おそらくは休憩の前に。さて、こんな質問が来ています。「サタンが私たちに触れる事ができないなら、ローマ8:35 をどう説明しますか?そしてローマ8:21 もそれに関係がありますか?」まずローマ8:35 ですが、そこにはこう書いてあります。「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 『あなたの為に、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた』 と書いてある通りです。しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これら全ての事の中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。パウロはこう言っています。「私はこう確信しています。死も、命も、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離す事はできません。」
さて、ヘブル11章に戻りましょう。私は個人的に、これもパウロによって書かれたと考えているのですが。パウロでなかったとしたら、彼と沢山時間を過ごした人物でしょう。言葉遣いや書き方など、その全てがとても似ていますから。パウロがヘブル11章もローマ8章も書いたと推定するなら、それら二つを照らし合わせる事ができます。ヘブルには以前もお話した通り、これらの人々がありとあらゆる苦難を経験したにもかかわらず、そこから解放される事を願わないという選択を下したと書かれていますが、ここで彼は再び、その話を持ち出しているのです。さて、イエスは敵が触れる事のできない領域において歩んでいました。十字架に行くタイミングを決断を下されるまでは。ここでの違いは、十字架の前と、それから十字架の後、つまり十字架刑が執行された後です。さて、ヘブル書に挙げられているのは全て旧約時代の人々ですが、人々が殺され、どんな苦難を通ったかという箇所では、それらの全員が旧約聖書の聖徒たちであるとは書かれていません。パウロがヘブルを書いたのなら、彼がその時、自分自身が迫害し、家々から引きずり出した人々の事を考えていた可能性がかなり高く、迫害された人々が、いかにして洞窟に隠れ、逃げ回らなければならなかったかを知っていたはずです。ですからこれらの描写は、決してサタンがそういうように彼らを苦しめる事ができたという意味ではありません。皆さんはサタンが触れる事のできない領域で歩む事ができるからです。しかし同時に、もし殉教者として死のうと決めるなら、容易にそうする事ができます。ですから、重要なのは、たとえあらゆる苦難に遭おうとも…ここでの重要な鍵は、「何が私たちを引き離せるでしょうか?」と言われている事です。そのようなあらゆる苦難を通ったとしても、それらが神の愛から私たちを引き離せるのか?という事です。いいえ。何故なら、たとえ地獄に行く事になっても、皆さんは神の愛から引き離されません。神は皆さんが地獄にいる時でも、愛しておられるのです。お分かりですか?神がこの世を愛しておられるので、何ものも私たちを神の愛から離れさせる事はできないのです。しかし、だからといって、全世界の人々が自動的に神と永遠に暮らすようになるわけではありません。
さて、昨日はペテロから一つ読みました。倒れる事がない事についての聖句を。エペソ6章には、全ての火の矢を消す事ができる信仰の盾について書かれてあり、1ヨハネでは、自分を制するなら邪悪な者が人に触れる事はない事について語られています。聖書はとてもはっきりと、自分を制するなら、邪悪な者は触れる事がないと言っているのです。ですから、それは各人が下す決断であり、皆さんが適用しなければいけないライフスタイルなのです。それは正しい事を信じる事、つまり聖書を、文脈に沿って正しく解釈する事であり、これらの多くが、いわば共に働いているのです。
次の質問です。「全ての信者が、キリストにあって神の癒しの力を表し、行使するよう召されているなら、癒しの賜物の目的とは何ですか?又、それらはキリストの癒しの力を表す全ての信者の能力と、どう違うのですか?」その事はDHTでもお話しましたね。新約聖書で霊の賜物について触れ、またそれらが定義され特定されている唯一の箇所は、1コリント12章です。ローマでも少しそれに触れていますが、あまり多くはありません。ローマ12章です。少しだけそれについて書かれていますが、1コリントの明確さには到底及びません。そして1コリントの3章に、パウロが、自分が「肉的」な人々と呼ぶコリントの人々に手紙を書いたという事実が、詳しく記されている事を、覚えておかなければなりません。パウロは彼らの事を、肉的な信者と呼んでいるのです。彼はただ、「あなた方に賜物について教えなければ」と言っていたのではありません。彼らはかねてからパウロに手紙を書いて、こう告げていました。「このような事が起こっています。共に集まる時、礼拝でこのような事が起こっているのです。全員が同時に異言で語り、他にもありとあらゆる事が。」ですから、パウロはそうした報告を耳にし、それに返事を書いてこう言っています。「聞きなさい。全ての事を適切に、秩序をもって行いなさい。」彼らは、「一度も学んだ事のない言語を人々が話しています。何と言っているかさえ分かりません。そして他の誰かが、彼らが何と言っているか教えようとしてくれるのですが、これはどうした事でしょう?一体何が起こっているのですか?」と言っていたのです。そこでパウロが返事を書き、こう言いました。「ご覧なさい。これに関しては…。」12章の1節では、「賜物」とさえ言っていません。実際こう書かれています。「霊の物事に関しては」 霊な事柄、すなわち御霊の表れを含むものです。彼はこう言っています。「皆さん方に無知でいてもらいたくはない。」そこで彼は、できるだけ正確にその事を彼らに説明しました。これらの様々な霊の表れについて、その一つ一つについて語ったのです。私たちはこれを「賜物」と呼びますが、それらは「御霊の表れ」と呼ばれているのです。ですから、それらは御霊が表される形態なのであり、先ほども言ったように、賜物ではありません。「物」とは違うのです。「これは誰かの物です。ああ、こちらは私の物ですよ。カリーから贈られたんです。」いいえ、そうした事ではなく、御霊の表れとは聖霊の顕現なのです。それは御霊がご自身を表される方法です。それについて詳しく書かれている唯一の箇所が、肉的な信者であるコリント人に宛てられた手紙なのです。
ですから、賜物を行使するのに超霊的な人である必要はないという事です。肉的なコリント人が賜物を行使して、パウロに次のように言わせたほどだったからです。「皆さん、ちょっと落ち着いて正しいやり方をしましょう。」これが二番目のポイント、すなわち賜物は御霊の表れではあるものの、それでもなお、それを表している人の制御下にあるという事です。お分かりでしょうか?預言者の霊は預言者に従うからです。そして皆さんもそれに許可を与える事ができるのであり、だからパウロは次のように言っているのです。「異言を語る人がいるなら、それを1人か2人、多くても3人に留めなさい。そしてそうするのは、その異言を解釈する人がいる時だけにしなさい。」彼はこうも言っています。「聞きなさい。異言でメッセージを与えたいなら、グループ内にそれを解釈できる人がいる事を確かめなさい。誰もいないなら、自分自身に向けて異言を語るに留め、公の場には持ち出さないように。」誰かが、「ああ、どうしても語らずにはおれない。霊が私の所に下りてきて、私には制御できない」と言うのなら、それは神ではありません。神はそんな風になるまで、皆さんを圧倒される事はなく、皆さんと一緒に働かれるのです。それが重要な鍵です。私たちは神の同労者です。ですから物事は、適宜に秩序を正して行われねばなりません。さて、時として、神にとっての適宜で秩序正しい事は、人にとっての適宜で秩序正しい事とは異なります。ですから私たちは秩序を保つ事を考えながらも、御霊を抑えつける事のないよう、気をつけていなけれればなりません。私たちは御霊と共に働いているのですから。そうでしょう?お分かりでしょうか?
これは賜物についてのセミナーではありません。しかし、自分はレスター・スムラル博士と数年間一緒にいて学んだ経験から恩恵を被ったと思います。彼は御霊の最も基本的な教えの幾つかに貢献した事になります。そして彼がその知識を得たのは、ハワード・カーター氏からです。彼こそが、実際に1900年代初期に、当時の教会において賜物についての知識を解説し、それを復興させた人物だったのです。ですから、私はこれらの分野について、ある程度権威をもって語る事ができます。しかし、イエスの人生に賜物が特別に行使されている場面が、一つも見当たらない事に気づかなければなりません。誰かがこんな風に教えるのを聞いた事があります。「ご覧なさい。主はここで彼らの思いを見抜かれましたが、これは霊による識別、あるいは知識の言葉なのです。」しかし、賜物に触れている記述は、一つもありません。病人を癒された時、主はただ病人を癒されました。癒しの賜物については何も書かれていません。その理由は、主が神の御子で、御霊に満たされて御わざをなされていたからなのです。これを言うのはもう三度目ですが、賜物について語り、同時に主についても触れている唯一の記述は、肉的で未熟な信者に宛てて書かれた手紙の中にあります。そこから分かるのは、賜物が必要を抱えた人々の為であるという事です。つまりはこういう事です。皆さんが肉的で未熟な信者で、何らかの必要を抱えた人々に出会うとします。そして恐らく皆さんは、肉的で未熟、完全に成長していない信者だとします。完全に成熟したクリスチャンではありません。いわゆる、未熟な神の子どもなのです。イエスがされたように、御霊に満たされて動いていません。そのせいで、そこには通常、何らかの聖書の知識が欠けているのです。助けを必要としている人々に与えるものは持っているのですが、自分にそれが備わっている事を知らないのです。そして、人が自分にそれがあるという知識を欠いていたとしても、御霊はなおも、相手の人の必要を満たしたいと願います。そこで主が、特別に現れて下さらなければならないのです。それが御霊の特別な現れであり、私たちが「賜物」と呼んでいるものです。ですから賜物を通して、御霊は皆さんがその未熟さゆえに、どのように満たせば良いか分からない必要を満たす為に、ご自身を現されるのです。お分かりですか?そして皆さんが成長するにつれて、そのような特別な顕現の必要性はなくなっていきます。それらはだんだんと落ち着いてくるのです。何故でしょう?今や皆さんは、御霊の一時的な爆発(「賜物」を通してなされる神のわざ)によってではなく、御霊に満たされて動いているからです。その違いが分かりますか?
さて、今私がお話したような見方をするなら、1コリント13章のこの言葉も完全に説明がつきますね。「異言ならばやみます。」これは教会における霊の現れの異言の事です。「預言の賜物ならばすたれます。知識ならばすたれます。」これら全てがなくなると言っているのです。その一方で、過去の典型的な例として、ある時点においてこれらのものが全て終わってしまうと教えていた、終焉説の教えがあり、通常は、最後の使徒が死んだ時にそうなると教えていました。そしてそれは真実ではありません。御霊の賜物の働きについて詳しく書かれた、2世紀や3世紀頃の教会の歴史の記録が残っているからです。実際1世紀のものも残っており、そこからずっと20世紀まで続き、そしてこの21世紀に至っています。ですから御霊の賜物は、全然終わってなどいない事が分かっています。そして通常、信仰のある所では、賜物もまた働くのです。しかし成長するに従って、これらのものがなくなると聖句に書かれているのです。あまり使われなくなり、やがて終わってしまうと。さて、賜物という御霊の現れ、私に言わせるなら、これらの爆発的な神の力の表れは、何をどうしたらいいのか分からないという私たちの能力の欠如を補うようなものです。この様な欠如は私生活では少なくなっていきます。教会全体ではないですが。何故ならそれは、最後の使徒がいつ死ぬかではなく、個人的な成長に基づいているからです。まず何よりも、最後の使徒が死んだ記録など、一つも残っていません。つまり、今日でも使徒がいるという事です。今日使徒が一人もいなかったとしたら、牧師もいないでしょう。それらは同じ文章の中に出てきますから。一人をなくしてしまうつもりなら、両方なくしてしまう必要がありますよね。ですから、全てか無かです。そうでしょう?
御霊の賜物はもう必要がなくなったと言われていて、それは1コリント13章に基づいています。それについて通常人々はこう言います。「そうですね、それはどこかで起こったのです。」しかし、それはどこかで起こったのではありません。さて、この事を詳しく調べると、その意味が分かります。聖霊が入ってくる時、御霊の賜物はそこにあるでしょうか?初めてクリスチャンになった時、あまりに物事が簡単に起こって、あまりに状況が良くなるので、殆ど不公平であるように思われた人は、この中に何人いますか?どういう事か分かりますね?神は至る所におられて、人が祈ると何かが起こるのです。その後ある時点にさしかかると、まったく突然にこんな風に思うようになります。「何が起こったんだろう?神よ、どこに行かれたのですか?私は失敗したのでしょうか?私を離れてしまわれたのですか?何が起こっているのです?」すると神はただこう言われるのです。「いや、あなたは成長を遂げたのだ。今あなたに、自分でその責務を負って、出て行くように求めます。私がいつもあなたの代わりに、色々な事をしてあげなくてもいいように。」皆さんは一定期間、子どもを養うのですが、彼らが15歳になってもまだご飯を食べさせ続けているなら、問題が起こります(笑)。何故でしょう? それは子どもが成長して、自らを養い始める必要があるからです。成長するにつれて、自分でもっと責任を負うようになるべきであり、自らを養い、世話し、守るようになるべきなのです。その事についての参照できる聖句を、山ほどお見せする事ができます。これら全てを自分でするようになるのです。もちろん、自分を守れるようになるのは、皆さんの中にいる御霊のおかげですね。ですから、自立のような事を話していても、神が離れ去ってしまわれると言っているのではありません。お分かりでしょうか?それはただ、皆さんが神と共に働く事を学び、神はもう皆さんの中で、そんなに多くの事を代わりにやってあげなくてもよくなるのです。神は皆さんと協力し合って働かれるお方です。今や皆さんには知識があり、一歩を踏み出し始める事ができるからです。お分かりでしょうか?
そういうわけで、その事が賜物についての多くの疑問に答えてくれるでしょう。それをそのような観点から見て、1コリント12章と13章、そしてローマ12章を深く探り、学習するなら…ローマ12章にも同じ事が書かれており、そこでもパウロは、人にはこうした様々な賜物があり、それらはその人の信仰の度合いに応じて異なっていると述べています。ですから、賜物は皆さんの信仰の度合いに応じて作用するのです。その大部分は、皆さんがどれだけそれを必要としているかや、どれだけそれらの事柄について神を信頼できるかに基づいており、それらは皆さんを通して、多くあふれ出しますが、その一部分は皆さんの成長とも関係しています。そして成長するにつれ、賜物として聖霊の働きの表れ(霊的幼子に対する聖霊の助け)は少なくなり、御霊がさらに豊かにあふれ出す(霊の充満による働き、霊的大人としての働きになる)のです。それら二つの違いが分かりますか?一つは神の力の爆発的な働きで聖霊が助ける時に表れ、もう一つはただ皆さんの中におられ、皆さんの中で語られる神です。おかしな事に、皆さんが成長し始めた時に、賜物によって動いているか、御霊に満たされて動いているかの違いが、最もよく表れるのは、次のような時においてです。賜物が表れた時、皆さんはこんな風に言うのです。「わあ、すごいな、見たかい?」そしてそれについて興奮しますが、御霊に満たされている時には、幾分落ち着いた調子で、このように言うのです。「ああ、もちろんそうなると分かっていた。」違いが分かりますか?それは先ほども言ったように、もっと信仰によって動き始めるからそうなるわけですが、実はそれこそが、皆さんの真の姿なのです。
そしてそれは、ただ神のみわざにすぎないので、皆さんは神がされている事の閃光や魅力といったものに、それほども驚愕する事はないのです。お分かりでしょうか?しかし、しるしは皆さんではなく、信じていない人々の為にある事を覚えていましょう。ですから皆さんは、信じていない人々と同じように、しるしに心を奪われるべきではありません。そうでしょう?私たちはそのしるしを起こす側にいます。彼らと同じように(不信仰で)驚いていたら、それは数多くの教会で、頻繁に見かける光景と同じようになってしまいます。教会に入っていくと…(中にはそのように教えられている人々もいるので、別に批判するつもりはありません。彼らはただそのように振る舞うよう、ある意味、教えられてきただけなので)人々の為に祈ると、時々、その場で倒れてしまう人もいれば、そうでない人もいます。「按手されたら倒れるのが自然」のような環境で育って、何となく自分で倒れようとしている人々もいます。癒しを受け取る最も簡単な方法が、ただ自分を明け渡してしまう事であると分かっており、それで彼らは倒れるのです。必ずしも、神が彼らを倒されるとか、そういう事では決してありません。私が人々にいつも言っているように、それが神から来ているか、人から来ているかを見きわめる一番手っ取り早い方法とは、そこに受け止める人を準備しておかない事です。そうでしょう?受け止める人を置かなければ、倒れる事が起こる回数がどんなに減るかを人々が見て、きっと驚かれる事でしょう。おかしなものですね。集会に行って人々の為に祈っていると、彼らは後ろを振り返って、誰も受け止める人がいない事に気づくのです。倒れようとすると、「待って、誰も後ろにいませんね。分かりました、ただ癒しを受けます」とします(笑)。そういう事もありました。
しかし、次のような光景も何度も見てきました。私は集会に行くと、その場で見守りますが、奉仕している人たちを見ます。そして彼らの中には、与えているものが自分に戻ってきて、ふらふらして気分が悪くなる人々がおり、常にその力を持ち運べるとは限りません。聞いて下さい。それは別に…そのような現象は成熟のしるしではありません。お分かりですか?つまり、霊の内で酔っ払ったからといって、他の誰よりも「霊的」である事にはならないのです。まず何よりも、それが本当に神からである場合と、それが皆さんの慣れ親しんできた「やり方」であるとか、皆さんの教団の考え方でそうするのなら、まったく話が違ってきます。「本物」であるなら、私は大賛成ですが、教団の考え方に基づくものである場合は、気に入りません。分かりますね?それらの多くはただの作り物で、そうするよう期待されているだけにすぎません。普通にしている「変な人」にはなりたくないですから(笑)。その意味が分かるでしょう。普通にしているからという理由で、「霊的でない変な人」として扱われるから、目立たないよう他の皆と同じように「霊的」に振る舞おうとして、「霊の内で酔っ払った」振る舞いをするようになるのです。しかしよく見かけるのは、人々が奉仕し始め、その後「ああ、もうこれ以上続けられない」という風になってしまう光景です。そこから、彼らが成熟した霊によってではなく、むしろ賜物によってそれを行っている事が分かります。その主な理由とは、それが成熟によるものであるならば、どんな状況で働こうとも、そのまま続ける事ができるからです。賜物としての御霊の働きは、皆さんに舞い降りるような感じです。ただブーンとやって来るのです。しかし、成熟しているなら…聞いて下さい、霊の内で酔っ払う事などは、それほど皆さんの益にならないでしょう。手を置いているべき立場の自分たちが、倒れてしまうほど、それにのめり込むのなら。ある意味、皆さんは神の御力と絶縁していなければならない、とも言えます。すると人々は言います。「ああ、神の御力と絶縁するなんて嫌ですよ。」否定的な意味でそう言っているのではありません。ただ、建物の中に設置される電線は、人が触れる事ができるよう、絶縁されていなければなりません。人がそれに感電しないのは、絶縁されているからです。電気の力はそれが本来流れるべき所に流れるべきで、皆さんに流れる事はないようになっているべきです。
そういうわけで、福音を述べ伝える者であり、神の御霊を携えて世に奉仕し、世にしるしをもたらす者である私たちは、絶大なパワーが自分の中に流れたとしても、なお働き続ける事ができる程度に、絶縁されていなければなりません。ある人に手を置くと同時に、自分たちがそのパワーにあてられてしまったのでは、何の益にもならないからです。すると、私と当人の両方が床に横たわる事になり、他の皆は「これからどうすればいいんだろう?」となります(笑)。ですから、相手に与えながらも、神の力を携えていく事ができ、神の働きを続ける事ができるよう、それと絶縁されている必要があるのです。そうですね?お分かりですか?奉仕している間は、皆さんは祝福される為にそこにいるのではなく、祝福となる為にそこにいるからです。ですから、神の力を携え、祝福を注ぎ出さなければなりません。個人的に神と時間を過ごしている時は、皆さんが祝福を受けるべき時です。ですからその時には、倒れるような事があっても構いません。私の場合は、歩きながら祈るのが好きです。ですから、歩きながら祈っている時に、道路の真ん中で御霊に打たれたくはありません。分かりますよね?その場で倒れて、車にひかれてしまうかもしれませんから。私が御霊に打たれるつもりであれば、家に居てベッドの横に立つでしょう。そうすれば倒れても、衝撃が緩和されますから。...中にはただ常識によって判断できる事柄もあります。いや、それは見たところ、あまり常識的な行動ではありませんね(笑)。
ここの続きを見ていきましょう。1コリントの2:8を読んでいましたね。「この知恵を、この世の支配者たちは、誰ひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」そしてこうあります。「まさしく、聖書に書いてある通りです。」ここで彼は旧約聖書から引用しようとしています。「『目が見た事のないもの、耳が聞いた事のないもの、そして、人の心に思い浮かんだ事のないもの。神を愛する者の為に、神の備えて下さったものは、みなそうである。』彼はこう言っています。「しかし神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。」神は、「神を愛する者の為に、神の備えて下さったもの」を啓示されたのです。「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊は全ての事を探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心の事は、その人のうちにある霊の他に、誰が知っているでしょう。同じように、神の御心の事は、神の御霊の他には誰も知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。」何故でしょう?「それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知る為です。」聞きましたか?皆さんは何故、御霊を持っているのでしょう? 神が皆さんに賜ったものを、知る事ができるようにです。そうですね?そして神が御霊を賜ったのは、皆さんがこれらの事を知る事ができるようにそうされたのであり、今や神はこれらの事を御霊によって私たちに明らかにされました。神が明かされた事とは、通常の物事ではなく、7節で語られていたこの奥義についてだったのです。「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光の為に、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」ですから、私たちはこの奥義が、このご計画における神の知恵に関係している事を知っています。そして今では、「この世の支配者たちが知っていたなら」という言葉の意味が、「彼らが奥義を知っていたなら、キリストを十字架に架けなかった」事であると知っています。ですから私たちは、キリストの十字架が、隠されていたご計画における神の知恵と関係している事を知っているのです。そのご計画は、私たちが後に御霊を受け取り、それによって神が用意されていたものを受け取れるようにしてくれる「何か」が成就されるよう、隠されていました。そしてその神のものとは、人がキリストにあって新たに生まれ変わった時に起こる事です。その時キリストは死からよみがられ、それら全てのものが私たちの中に移行したのであり、ここで神は私たちに、この奥義が何であるのかを告げようとされているのです。これら全てが理解できますか?CDを手に入れてじっくり復習するといいかもしれませんが、私は皆さんの為にこれら全ての事を、手短に要約したのです。
そして彼はこう言っています。「私たちもそれらについて語る」と。パウロは、働きによって獲得したり、お金で買わなければならないとか、或いは、その為に種を蒔かなければならない何かについて言っているのではなく、恵みによって私たちが神から賜ったものを、明らかにしているのです。それは恵みによって神から与えられているものです。この事を理解しなければなりません。つまり、既に皆さんの中にあり、自分の中に何があるかを学ぶにつれて、それが皆さんの中から表れ出てくるという事です。彼はこう言っています。「この賜物について話すには、人の知恵に教えられた言葉を用いず、御霊に教えられた言葉を用います。その御霊の言葉をもって御霊の事を解くのです。」私たちが人間の知恵でその事を考えても、決して理解できないのです。そして私たちは、人の知恵に教えられた言葉を用いない事について話しています。人の知恵は決して、手を置いただけで病人が癒されるなどとは教えません。それは人の知恵ではありません。人はこう言います。「人が人の手によって癒されるとしたら、その唯一の方法とは、その手に外科用メスや、注射器か何かが握られている場合だけである」と。しかし、彼は御霊の言葉をもって御霊の事を解くと言っています。私たちは人の知恵について話しているのではなく、神の知恵について話しているのです。よく聞いて下さい。この事を理解しなければなりません。ここで言われているのは、神の御霊がその人の中にいて教えない限り、誰一人として御霊の物事を理解できないという事なのです。そうですね?
皆さんは、主を知らずさまよっている親戚の人たちに、異言で語る事の価値を説明しようと努めています。彼らにはそれが分かりません。理解できないのです。それは彼らにとって愚かな事なのです。彼らにとってそれは、訳の分からない言葉を延々と並べているとしか思えないからです。皆さんの言っている事が分からないのです。そしておかしな事に、そこには神の知恵よりも自分の知恵がまさっていると考えている人間がいます。聖書は非常にはっきりと、それらが何かを告げているからです。しかしどういうわけか、人間は、何度もそのような人々と出会い、その類の事を聞いた事があるというのに、決して生まれ故郷の町から出ないのです。それでいて自分たちの事を、あたかも宇宙のあらゆる知恵を集めた宝庫であるかのように考えているのです。考えてもご覧なさい。彼らは皆さんが何を言っているのか、まったく分かりませんが、それでも皆さんが間違っていると言いたがるのです。それはまるで、私が以前人々に言った事のようです。「癒しについて私が間違っていると言いたいのですか?1万人とか4万人とか5万人とかを癒した後に…。私が手を置いた事で、彼らが癒されるのを見た後で、それが真実ではないと言うのですね。私はそこにいました。それを実際にやってきたのです。ですから私を説得して、それが真実ではないと思わせる事などできません。私たちはそれを見たのですから。」そしていったんそれを見るなら、確信が揺るがされる事はないでしょう。
たとえ私が背信して神を離れ、世俗に戻り、恐ろしく罪深い生活を送っていたとしても、誰かがやって来て「癒やしは本当に起こるのですか?」と尋ねたなら、それでもなお、私は癒やしは本当に起こると答えるでしょう。それを見たからです。たとえその時に、どんなに神から遠く離れていたとしても。何故でしょう?事実は事実だからです。ですから何が起こっても、その点に関しては妥協するつもりはありません。いいですか、もし背信しても妥協するつもりがないなら、神のそばに留まっている時には、なおさら妥協するわけがないと断言できます。そうでしょう?癒しの時代が過ぎ去ったとか、もう癒やしは効力を失ったなどと、どんな程度であれ、私に癒しを否定的に見るよう納得させる事のできる方法など、一つもないのです。何よりもまず、神は過ぎ去る事がなく、エホバ・ラファ、癒す神であられるからです。そうですね?ですから癒やしが過ぎ去るとしたら、その前に神が過ぎ去っておられなければなりません。そして黙示録の最後にすら、癒しの記述があります。木の葉が諸国の民を癒すと書かれているのです。ですから、聖書の最初にも最後にも木が出てくるわけです。私はいつもその事をすごいと思っていました。木の葉が諸国の民を癒やし、しかも今の全ての混乱状態が、木から始まったのですから。神は本当にユーモアのセンスがあると考えたものです(笑)。
パウロは書いています。「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知る為です。この賜物について話すには、人の知恵に教えられた言葉を用いず、御霊に教えられた言葉を用います。その御霊の言葉をもって御霊の事を解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属する事を受け入れません。それらは彼には愚かな事だからです。また、それを悟る事ができません。何故なら、御霊の事は御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、全ての事をわきまえます。」聞きましたか?「御霊を受けている人は、全ての事をわきまえます。」ここで「全ての人」と言っていない事に注目して下さい。全ての事をわきまえる(判断する)のです。そうですね?物事は裁いても構いません。人の生活を裁いて、「それは正しくない」と言っても構いませんが、決して人を裁いてはいけません。誰かを見て、「あなたは地獄行きですよ」などと言っては駄目です。それによって裁きを宣言する事になるからです。つまり、彼らが何をしようと、他でもない皆さんがそう言ってしまうなら、彼らは地獄に行く事になり、それを変える事ができないからです。さて、そんなつもりはないかもしれませんが、事実「地獄に行く」と言ったのです。皆さんが自分の言葉を信じ、しかも口にしたどんな無益な言葉についても責任を問われると信じているとすれば、そんな言い方はやめるでしょう。むしろ、このように言えばよいのです。「お聞きなさい。聖書にはこのような事をする人たちが神の御国を継ぐ事はないと書かれていますよ。」これはどのような行為ですか?ここでは皆さんは、人々ではなく物事を裁いています。そうでしょう?ですから、彼らにこのように教えるといいでしょう。「聞きなさい。こんな事はやめるのです。こんな事をしていると神の御国を体験できませんよ。そんな事はやめなさい。キリストに向き直るのです。」このように言えば、相手を罪に定めるのではなく、希望を与える事になります。お分かりですか?
しかし御霊を受けている人は、全ての事を裁き(判断し)、決めます。「はい、いいえ。その通りです。それは間違っています。」という風に。簡単な事です。そして今日、クリスチャンの世界においてさえも、絶対的な存在についてや、結局、何を絶対的と呼ぶのかについて、きわめて熾烈な議論が交わされています。大抵の人は絶対的なものを望みません。何故でしょうか?それは人が、絶対的にある側にいるか、それとも別の側にいるかのどちらかだからであり、殆どの人はそれが気に入らないのです。しかし事実、神は絶対的な存在です。そうでしょう?さて、「御霊を受けている人は、全ての事を裁きますが、自分は誰によっても裁かれません。一体、『誰が主の御心を知り、主を導く事ができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」私たちはキリストの心を、今持っているのです。どこに持っているのでしょう?皆さんの霊の中にです。それは皆さんが新生した後すぐに、皆さんの中にダウンロードされました。さて、そこに何があるかを知りたければ、マニュアルに戻って、何があるか見て下さい。ここにあるものはそこにも書いてあるからです。いいですね?さて、エペソ1:6-14 にはこうあります。「それは、神がその愛する方によって私たちに与えて下さった恵みの栄光が、ほめたたえられる為です。」(英語訳「神は私たちが、愛する者たちの内に受け入れられるようにして下さいました。」)聞きましたか?皆さんは受け入れてもらえるような者にして頂いたのであって、自分でそれを達成したのではありません。皆さんを創造された時、神は皆さんを、愛する者たちの中に受け入れられるような存在として造られました。「この御子のうちにあって」すなわちキリストです。「私たちは御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによる事です。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって 御心の奥義を私たちに知らせて下さいました。」
さて、神の御心の奥義とは、何の仕事に就くべきかとか、どの通りに住むべきか、どの車を運転すべきかなどに関する、特定の奥義ではありません。そんな話をしているのではありません。神の御心の奥義について話しているのです。ここでの神の御心の奥義とは、世界が創造された時からずっと隠されていた、あの奥義の事です。イエスが十字架につけられ、埋葬され、蘇られ、数多くの息子(神の子)たちを設け、その後彼らを栄光へと導かれる事が、神の御心だったからです。神の御心の奥義とは、それなのです。「それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画による事であって。」これは何の事でしょう?先ほどお話した事が、ここで立証されます。「時がついに満ちて、この時の為の御心が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる事なのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。」どのように受け継ぐ者となるのですか? 私たちが新約聖書(New Testament)の時代にいるからです。Testament(遺言の意味もある)には遺産が伴います。古い契約には遺産が伴いませんでした。そうですね?そこにあったのは律法です。新たな遺言には遺産が伴います。何故でしょう?死んだ人は、その財産を後に残していくからです。喜ばしい事とは、その死んだお方がまたお戻りになり、その御心が遂行された事を見届けられた事です。死んだ後に、自分の遺言通りにしてもらえなかった人が、一体どれだけいる事でしょう?そう、イエスはお亡くなりになった後、その御心通りに全てが成就された事を確かめる為に、また戻ってこられたのです。
「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、御心によりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」さて、「あらかじめ定められていた」という言葉に騙されて、怖がってはいけません。皆さんついて、一つの事が定められていました。キリストに似た者となる事が。最初からそう定められていたのであり、それはキリストの中に入ったなら…。ここでちょっとした例を挙げましょう。皆さんが軍隊に入り、そこにある種のイメージを抱いているとします。しかし訓練教官には別の思惑があるのです。皆さんはこのように考えています。「あの軍服を着たら、かっこよく見えるだろうな。そこら中を進軍して回るんだ。すごいぞ。」そしてその訓練教官は、心の中で、皆さんに軍人根性をたたき込んでやろうと考えています。彼のところに誰が送られてこようと、気にしていません。彼の仕事は皆さんの未熟な部分を全部削ぎ落として、外見も行動も話し方も、まさしく軍人そのものになるまで鍛え上げる事なのですから。目標としているのは、次のような事です。私たちには御霊と呼ばれる教師がいて、教える事を非常に得意としています。そして彼は、大きく分けて五つの、様々なタイプの人々で構成された助けを得て働いてきたのであり、私たちはそれを「五役者のミニストリー」と呼んでいます。そして御霊は、私たちがキリストに似た者となれるよう、教え訓練するという自らの意志を果たすべく、その人たちを通して働きます。それが目標の全容なのです。皆さんは、このように言われたかもしれません。「キリストに来るなら、皆さんの人生は素晴らしいものになりますよ。キリストに来るなら、主は皆さんを「今月の優秀社員」に選んで下さいます。キリストに来るなら、主の祝福を受け、素晴らしい人生を過ごせるでしょう。最高ですよ」などといった事を。そこでキリストに来て、実際に新生するのですが、御霊の考えている事とは、皆さんをキリストに似た者とする事なのです。つまり、入りたての時、皆さんは未熟な新米で、御霊は皆さんを見てこのように言います。「そうだな。そこを直して、あそこを何とかしないと。心配は無用だ。きっとやって見せるから。彼をクリスチャンに作り変えてやろう。」皆さんが新生した時、それは軍隊に入隊したようなものです。しかし、それが旅の終わりではなく、単なる始まりにすぎない事を知っている人が、どれだけいるでしょうか。皆さんは新生し、完全な者となり、キリストにあっての兵士ですが、まだ訓練を受け、学び、キリストにあって成長しなければなりません。
さて、12節で彼はこう言っています。「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となる為です。またあなた方も、キリストにあって、真理の言葉、すなわちあなた方の救いの福音を聞き、またそれを信じた事によって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐ事の保証であられます。これは神の民の贖いの為であり、神の栄光がほめたたえられる為です。」では、そこの次の部分を読みましょう。エペソ3:1-12です。そして先日も、ここから幾つか読みましたね。「こういうわけで、皆さん方異邦人の為にキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。皆さん方の為にと私が頂いた、神の恵みによる私の務めについて、あなた方はすでに聞いた事でしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。この奥義は、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」聞きましたか?パウロが話しているこの奥義は、彼が述べ伝え始める前は、人に知らされていなかったのです。「今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが。」次はこちらを見て下さい。「異邦人もまた共同の相続者となり」さて、これらの全てが奥義の一部なのです。「私は、神の力の働き(力強く、効果的で活発なもの)により、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」「全ての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられた...」のは何故でしょう?「私がキリストの探す事のできない富を異邦人に宣べ伝え...」これは実に驚くべき言葉です。「私がキリストの測り知れない富(英訳:見つける事のできない富)を異邦人に宣べ伝え...」考えてみて下さい。測り知れない富を述べ伝える事ができる唯一の方法が、啓示を通してなのです。
何故でしょう?それは皆さんが自分でそれを見つけ出す事ができないからです。それは測りがたいからです。それを自分で調べて突き止める事はできません。啓示によって明かされなければならず、パウロはそれが自分に与えられた啓示であると言っています。それは神が、世の始めから、キリストが十字架に架けられる事を考慮に入れておられたという奥義であり、十字架に架けられて、その後に蘇られた時、キリストがご自分の霊を人々の内に移されて、ユダヤ人も異邦人もキリストに来るなら、一人の新しい人、新たな生き物、新たな創造物になるという奥義でした。さて、皆さんは旧約聖書と福音書を深く探り、新たな創造物を見つけ出す事などできません。それはそこにはないのです。何故でしょう? それは世の始めから隠された奥義であり、それ以前のどんな時代にも明かされていなかったからです。つまり、皆さんが読んだパウロ以前のどんなものも、パウロが受けた啓示とは無関係であるという事です。そしてその啓示とは、神が現代において私たちに明かそうと目論んでおられた奥義なのです。すごいではありませんか?そしてパウロはこう言っています。「私は皆さんが探っても見つけられないものを、宣べ伝えなければなりません。啓示によって私に与えられたものを。」彼がイエスにお会いした事は、ダマスカスに向かう途中の道で、きわめて劇的な出会いでした。しかしその後、彼は14年間にわたって、アラビアの砂漠でイエスと直接会って語り合い、そこでイエスから啓示を受け取ったのです。さて、それはきっと一度きりではなかったに違いありません。啓示が彼に与えられた様々な時を表している箇所があり、その全てが「奥義の啓示」で…。この事は、もう少し後でお話ししましょう。
それでは、続けて先を読んでいきましょう。パウロは言いました。「私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え」ここに注目して下さい。「また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにする為に他なりません。」ここでもそう言っています。彼は毎回、この奥義に触れていますね。それがずっと隠されてきたと言っています。皆さんには見つけられないと。誰もそれを知らないと。神が自分にだけ、それを与えられたのだと。そうですね?だからパウロは「私の福音」と言ったのです。何故でしょう?他の誰もそれを受け取らなかったからです。すごいではありませんか?イエスはご自分の弟子たち、ずっと一緒に旅してきた人々にすら、奥義を与える事がおできにならなかったのです。彼らには、突然啓示が与えられたりした事がありました。ペテロに、主は言われました。「この事をあなたに明らかに示したのは、人間ではなく、天にいます私の父です。」そうではありませんか?そしてペテロが知っていたのは、「主よ、あなたはキリストです。メシアです。あなたこそが、私たちが待ち望んでいたお方です」という事だけでした。すると主は言われました。「あなたは自分でそうと理解したのではない。自分で突き止めたわけではないのだ。それは私の父が皆あなたにお示しになった事だ。」そうですね?それから、彼は啓示を受けて、イエスは彼に「私は啓示によって、(この群れを)あなたに与えます。私は皆さんをペテロ(小石の一部、岩全体の一部)と呼びます。この事ゆえに、私はあなたに天の御国の鍵をあげます」と言われました。そしてイエスから御国の鍵を与えられたにも関わらず、彼は世界の始めから隠されていたその奥義の啓示について、まるで理解していなかったのです。イエスはご自分の弟子たちではなく、ご自分を迫害した人に、それをお与えにならなければなりませんでした。猛烈にそれに反対していた人だったからこそ、それを理解し、受け入れるよう、その啓示をお与えになる必要があったのです。想像できますか?11人の弟子が、最初はパウロと一切関わりたがらなかったのも、無理はありません。彼は仲間ではなかったからです。事実パウロは、彼らを迫害していたのですから。彼らは互いの事を知っていました。そしてきっと、イエスが11人弟子に…全部で12人ですが…それを与える事がおできにならなかった主な理由は、パウロ自身も言っているように、「ですから、私たちは今後、人間的な標準(肉的に、五感に従ってというギリシャ語)で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」つまり、イエスがパウロにそれを与えなければならなかったのは、ペテロもヨハネもヤコブもマタイも、その全員が、肉に従って、人間的にイエスを知っていたからです。彼らが思いを切り替える事ができたとは思いません。きっとそれらを切り離して考える事ができなかったでしょう。最初のマタイの福音書を読んでも、そこには神がパウロに与えられた啓示は、何一つ書かれていません。主がニコデモに言われた言葉、「皆さんは新しく生まれなければならない」という新生についての言葉はありますが、新しい創造について明かされている箇所はありません。
ヨハネはこのようにすら言っています。「私たちは主を知っていました。手で触れ、主に触ったのです。私たちはこの真理を知っていました。イエスが人となってご自身を現されたという真理を。その事を知っていたのです。私たちはそれを目で見、耳で聞きました。私たちは主と共にいたのです。」また、次のように書いたのも彼でした。「言葉は人となって、その言葉は神であった。」後の世の人々は、パウロの奥義の事を知っていましたが、それでも把握できていたわけではありません。そう、それと奥義とは話が違うのです。ヨハネが書き始めて、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」と言った時、彼の頭は衝撃的だったと事でしょう。「わあ、これはすごい。私たちは神の子なのだ!神の御霊が人に宿るなんて、こんな事がどうして起こるのだろう?」そしてこれら全ての事が起こっていたにも関わらず、その奥義を受け取るべき人物はパウロでした。そして彼はこう言ったのです。「今後あなた方はどんな人をも、人間的な標準、肉に従って知る事はない」と。そこが問題なのです。教会では、今でも御霊ではなく、人間的・肉的な基準で物事が推進され、今でも誰かを判断する際に、その場におけるその人の人間的な面に目を留めて、彼らを霊にあって知るのではなく、何らかのカテゴリーに振り分けているのです。誰かを霊にあって知っているなら、彼らをどこにでも入れる事ができるからです。何故でしょう?彼らは皆(いずれは)リーダーになるからです。全員が神の御霊を宿す人になるので、神の御霊に基づいて判断するようになります。外面ではなく内面で判断するようになり、それこそが神の判断される方法なのです。
神がダビデをお選びになり、サウロを退けられたのも、それが理由です。神は外見ではなく、心を見て判断されたからです。しかし、神は人の外見ではなく、むしろ内面に目を留められたのです。そして私たちは今、誰をも人の基準で、外見によって知る事はありません。今や私たちは、霊に目を留めます。彼らが霊の内で何者であるのかに。彼らは霊においてでどんな人物なのでしょうか?皆さんの中には、どなたがおられるのでしょう?キリストです。皆さんが新生した時、この新しい人が神ご自身、すなわち、キリストの御姿にかたどって造られました。昨日もお話したように、皆さんは真の義と真の神聖さをもって、そのお方に似せて造られたからです。そうではありませんか?ですから今、私たちはキリストを人間的な基準で判断する事さえしません。それが問題なのです。私たちはどうしても福音の中のキリストに目を向けてしまい、ただ神が人の間でどのように歩まれたかを知る為に...そうする事もある程度必要ではあるものの、今のキリストは、その時のキリストとは違います。ある人はこう言うでしょう。「イエスキリストは昨日も今日も、いつまでも変わる事がない、と書いてある。」ええ、御霊においてはそうであり、本質的には変わりません。主が肉体を持って、この地上におられた時には、主は制限されておられました。ご自分のおられた場所で、肉によって制限されておられたのです。しかし、今ではもう肉に制限されてはおられません。何故でしょう?御霊の内におられるからです。ですから、今私たちは主を人間的な基準で見てはいません。むしろ今では、蘇られ、天に昇られ、栄光をお受けになった王の王、主の主として見ているのです。主がまだ地上におられた時には、そのような存在ではあられませんでした。主は現世的な存在でした。主の父親であるヨセフの名前が、イエスが成人された後は出てこないのを知っていますか?一度も出てきません。そして人々は言うのです。「何故なのだろう?」恐らく死んだのかもしれませんが、聖書にはそのような記録はありません。
「The Archko 第一巻」という書物があり、それは収集品の一つで、よく分かりませんが70年前ぐらいに、実際はそれよりももっと前に、バチカンの一番奥から引っ張り出されてきた本です。しかしそれは収集品でした。バチカンは…一つにカトリック教会というものは、何かを集める事に非常に長けているのです。ご存じでしょう。遺物とか芸術品とかお金とか、ありとあらゆるものを。そのような色々なものを集めるのが実に得意で、だから彼らはそれらを全部かき集めて、バチカンの図書館に仕舞い込み、その何年も後に、そこからこの本を掘り出したのです。そしてこれは聞いたところによると、1世紀に書かれた書物の蔵書という事です。そこでは著者の見聞きした事の記録という形で、詳細にわたる描写がなされています。ある若いラビが成人に達してラビの資格を持てるようになった時、サンヘドリンから一つのチームが派遣され、その若者と面談して、彼が地域の会堂でちゃんとした教育を受けているかといった事を確認した話も載っています。あらゆるチェック・アンド・バランスの手順を踏んで、それらを通して彼がラビと呼ばれるにふさわしい人物である事を確かめたのです。そういうわけで、彼らはこのチームを送ったのですが、面談をした人々は非常に素晴らしかったと述べていました。そして主の身体的な特徴が描写され、その身体的な特徴がそこに記されており、それには幾分驚かされます。聖書に書かれている事と全く同じだからです。「私たちが彼を見た時、そこには大して特別な、注目に値するような点はなく、見た目が良いとも思わなかったし、その外見のゆえに彼の事を気に入ったわけでもなかった。」事実、彼らは彼の髪が赤褐色で、その最も際立った特徴は、主の目であると言ったのです。何もかも見通しているかのようなその眼差しに、特別な何かを感じたと。そして彼の髭が…主は髭を生やしておられ…その髭が、当時の慣わし通りに…殆どの人はその慣習を知らなかったのですが…それが長く伸ばされ、それを二つに分けて、下の方で二つに束ねてあったという事です。主の髭がそのようになっていたと、彼らが言ったのです。そして髪が、後ろになでつけられていたけれど、さほど長くはなく、しかし後ろでポニーテールのように結べるだけの長さはあったようです。そして彼らは、主と面談しようとして、主のおられる場所…というか、おられると教えられた場所にやって来ても、主は毎回いなくなっておられたそうです。そこで、彼らは決して主に追いつく事も、捕まえる事もできませんでしたが、主の周りにいる他の人たちと面談すると、その若者はいつも微笑んでいるけれど、声を出して笑う事は決してないという返事が返ってきました。しかし、彼は喜びにあふれているのです。そして一緒にいると楽しいけれど、殆どいつも一つの場所にじっとしていないのだそうです。いつもどこか他の所に行ってしまい、そしていつも物思いにふけっていると。よく一人ですっと出て行って、誰かと話したり、独り言を言ったりしていると。そしてもちろん、彼らは主が神に話しかけているとは、思いもよりませんでしたが、彼らは主について、このようなあらゆる事を教えてくれ、いつも大勢の女性に囲まれていて、彼女たちは主の世話をするのが好きで、殆ど母親のように振る舞っていると言いました。それでいて、主はいつも彼女たちに対してとても他人行儀に振る舞い、礼儀正しく距離を置いて、決して近づきすぎないのだと。そしていつも彼女たちに、心から感謝を示していたそうです。その書物には主についてのそういった色々な話が書かれているのです。
さて、「The Archko」で、彼らはイエス本人が捕まらないないので、当時の慣わしに従って、その両親と面談したと書いています。そして、母親と話しに行った時、その母親はとても礼儀正しく気立ての良い女性で、母親であれば誰もがするように、息子について良い事を言っていたと言いました。しかし、父親と話すと、父親の方は彼らと話す事さえ嫌がっていたそうです。心に苦々しい思いを抱いているようだと、彼らは言っていました。そして何故、そんなに苦い思いを抱いているのか探り出そうと、彼と話してみると、彼は自分の息子が、まもなくこの地上で支配者の座について、王になるという希望を、すっかり失っているかのよう、自分の息子がイスラエルの王になる事に全く興味を示さないと言ったとの事です。ですからその事は、父親である彼をひどくがっかりさせていたのです。こういうわけで、彼らはその父親が、(天使が現れた)夢などの事を全て知っていたにも関わらず、そのような態度を取るようになり、それで十字架の場面にも名前が出て来ないのだと言いました。ですから、誰が知る事でしょう…自分の息子が犯罪者として十字架に架かった時も、ひどい恥辱を味わったのではないでしょうか。まっとうな人間であれば、そんな事にはなりませんから。そしてヨセフは経済面も含めて、かなりまっとうな人物でした。彼らは貧しくはありませんでした。それには二つの理由があります。一つ目は…主が幼子であられた時、3人の博士たちが贈り物として何を持ってきたかは読んだでしょう。それは主が一生良い暮らしをされるに十分なほど、高価な品々だったのです。しかし主は、ご自分の家族もその所有物も、殆ど全部捨ててしまわれました。そして聖書には、兵士たちが主の着物をめぐって賭け事をしたと書かれているので、主の着物は、その為に人々が賭け事をし、それを手に入れる為にお金を失う危険を冒したほど値打ちがある、かなりの高級品だったという事になります。まあ、これはちょっとした余談ですが...。それでは、皆さんどうぞ休憩して下さい。
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