セッション 5
引き続き質問に答えていきましょう。あと二つほど質問をもらっており、この主題について、ここで少し説明しておかなければなりません。マニュアルの9ページを開いて下さい。またこの箇所を取り上げたいと思います。先ほど読んだヨハネ9:5 で、イエスは言われました。「私が世にいる間、私は世の光です。」それから、目の不自由な人を癒されたのです。そして、マタイ5:13から19 でこう言われました。「あなた方は、地の塩です。」ここは先ほども読みましたが、主は14節でこう言われています。「あなた方は、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなた方の光を人々の前で輝かせ、人々があなた方の良い行ないを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。」それから、「私が来たのは律法や預言者を廃棄する為だと思ってはなりません。廃棄する為にではなく、成就する為に来たのです。まことに、あなた方に告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれる事はありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」
要は、主が言われる通りにしなければならない、という事です。ここには実質上、教え全体が集結されており、一般に殆どの人々が、「聖書の代名詞」として用いる言葉であると考えています。人々がそれを用いるのは、おもに新生について語る時だけです。そして敵である悪魔は長年の間、実際は何一つ存在せず、新たに生まれ変わる必要もなく、癒しの時代は過ぎ去ったなどといった考えを、人々に信じさせる事に成功してきました。力は失われ、全てが消え去ったと。そして奇妙な事に、教会が奇跡を信じなくなればなるほど、この世はますます奇跡を渇望し、他の方面でそれを探し求めるようになりました。それが理由で数々のカルトが、現在のように増え広がり、ニューエイジが爆発的な人気を博しているのです。それは彼らが、必要を満たしてはくれないながらも、ある種の答えは与えてくれるからです。お分かりでしょうか? そして、クリスチャン・サイエンスや、その類の領域においてさえ、様々な事が起こっています。彼らは何らかの成果を上げていますが、私に言わせれば、それは聖書から生じた成果ではありません。ですからどんな国においても、そこに問題があるなら、責められるべき者(そう呼びたければですが)は、そこの教会です。結局はそういう事なのです。そして神は、その御名で呼ばれる民がへりくだってご自分に呼ばわるなら、それを聞いて彼らの地を癒すと、はっきりと言われました(2歴代誌7:14)。ですから、その地が癒されていないなら、神の民に非があるのです。今日において、病人を癒す事について神が私たちに言われた事についても、同じ事が起こっています。「ある町に入ったなら、その町にいる病人を癒しなさい」と言われたのであり、癒す相手を選びなさい、とは言われませんでした。それが教会のしてきた事です。
私たちの教えの大半は、とりわけ癒しや神の御力に関するものはそうですが、失敗の神学です。私たちはその神学を、失敗の上に確立しました。神学は、「上手く行く」より、「上手く行かない」と言う事をベースにしたものが多いのです。ですから、私たちは単純な御言葉に、それが正確に何と言っているかを説く事に、立ち帰らなければなりません。さて、そのような例は幾つかあります。例えば、癒しが簡単であると私が言うなら、それは実際にそうだからです。気が散らされないでいる事が重要です。そして実際の所、私たちは今回の旅で、よくこの事を話題にしています。望むような成果が見られない主な理由の一つは、大抵の場合、日常生活の事に掛かり合っているからです。それだけの事です。パウロもテモテにそう言いました。立派な兵士は苦しみを耐え忍ぶが、兵役に服していながら、日常生活の事に掛かり合っている者は誰もいないと(2テモテ2:1-4)。そしてペテロの手紙には、実際に神を知っており、神と共に歩んでいる人々が脱落して、再び日常生活の事に掛かり合ってしまう事について書かれています(2ペテロ2:20-22)。ですから、失敗の大半、特に神の御言葉の真理と単純さを知った後で失敗するのは、ただその人があまりにも、他の物事に掛かり合っているせいなのです。それほども単純な事です。ケーキを持っていたいけれども、同時にそれを食べたいとも考えている、(食べたら、持っている事はできない)言わばそんな矛盾した態度なのです。
さて、私たちが気づかなければならないのは、もしそれが簡単であったなら、誰もがやっているはずであるという事です。そうでしょう? つまり、ただ神の主権によって、自動的に癒しが起こるなら、皆がそうしている事でしょう。しかしそこには、私たちが果たすべきある役割があって、その役割とは信じる事なのです。そうではありませんか? 私たちは神を信じ、神にあって休息し、これらの御言葉に休息して留まり、神に信頼し、そして神が自分たちに、すべきであると言われた事をするのです。そうすれば、これらの事ができるようになるでしょう。
人々の為に祈って、即座の成果を目にした時もあれば、人々の為に祈っても、徐々にしか成果が表れなかった時もあり、また人々の為に祈っても、何の成果も表れない時がありました。さて、私は癌が癒されたケースも、自分たちが祈った相手が癌で亡くなったケースも見ました。癒しを目にする時、私たちは当然、常に神に感謝します。しかし同時に、普通は、その件についてあれこれと分析しません。大抵の場合、分析するのは、自分たちが失敗したケースであり、どこがいけなかったのかを知ろうとしてなのです。そして実際に殆どの場合、そこから判明するのは、祈る側があまりにも日常の事に掛かり合っており、あまりにも多くの事が起こっていて、集中(もっと良い言葉が見つからないのでが)できていない、という事なのです。集中といっても、気を張り詰めているとかそういう意味ではありません。ただ相手の人に関心を払い、その人を助け、癒す事ができる、という意味です。そんなにも単純な事なのです。
そして、DHTTでもお話したように、自宅に居る時でも、他の場所に居る時でも、私たちは過去に9か月以上、人々がどんな病気にかかっても癒されるのを、何度も繰り返し見てきました。知っている人の全員が癒されたのです。実に素晴らしい事です。全員といっても、「9ヶ月間」という事です。恐らく、100人ぐらいでしょう。ですから、スピリットワード教会の集会に行って癒しの礼拝に参加し、大勢の人が一度に癒された、などのようなものではありません。その類のものとは少し違うのです。その違いというのは、病人たちが私たちの家にやって来た時、他に誰もいなかったという点です。彼らは通常、一人ずつやって来たのです。予約を取る事もあれば、予約なしにふらりとやって来る事もありましたが、私たちはその時、その人一人だけに関心を払っていました。そのように集中して関心を払う事を保つ事が、重要な鍵であるように思われます。誰かの為に祈っている時、他の人々が列をなして待っていたとしても、皆さんが関心を払うべき唯一の相手はその人がであり、横に見えている次の人でも、つい先ほど祈ってあげて、まだ心に残っている前の人でもありません。
皆さんは一人の人と繋がり、その後その接続を断って、次の人に移行しなければならないのです。接続を断つ事ができないなら、相手を見て、その人の為に祈っていても、その祈りは別の人の方に行ってしまいます。まだそちらの人と繋がっているからです。そのような事が実際に起こるのです。人々は言います。「イエスはそんな事はされなかったです。」そして皆さんも、イエスがそんな事はされないと分かっています。そして私たちが目指しているのはそこです。それを(つまり、祈りにおいて、人との繋がる事に振り回されない事を)目標としているのです。しかし同時に私達は、成長段階にあるので、それに応じて話そうとしています。
正直言って、皆さんの大半が、絶対的で厳しい真理を望まないのは、それを実践しようとしないからです。ですから、私たちがDHTTを教えた時、その背後にある意図とは、平均的なクリスチャンを彼らの快適ゾーンから出て行かせ、人々の為に祈らせる事なのです。DHTTは最重要事項や、最終段階でもありません。それは始まりなのです。それは皆さんを始動させ、送り出す為のものです。そして出て行くなら、皆さんは主がされた事をもっと上手くできるようになり、すればするほど、さらに多くを学ぶのです。使徒たちや初期の弟子たちや、2世代目や3世代目の弟子たちでさえもそうですが、彼らの人生について読んでみると、自分が救われた土地に留まっていたケースは、一つとして見られません。聖書の中で、奇跡やしるしや様々な事を起こしたと言われている人々は全て、最初に居た場所ではなく、必ずどこか他の場所に落ち着いています。何故でしょう? それは彼らが、イエスがされたように、そこの人々を離れたからです。「預言者は誰でも、自分の郷里では歓迎されません(ルカ4:24)。」故郷に留まり、普通に暮らしたい人たちは、9時から5時まで仕事をし、夕方に帰宅して、テレビの前にどかっと腰を下ろし、二、三のくだらない番組を見るなどして、死人を生き返らせてくれという電話がかかって来るのを待つのです。そして、そのままずっと待ち続ける事になるのです。そんな機会が訪れるかもしれませんが、その人に死人を生き返らせる備えができているとは限りません。要するに、福音に則した生き方についてです。
イエスは非常に多くの例を挙げられましたが、私たちはそれらを、ただの好ましい見解であるとしか考えません。主は私たちに、ある種の人々について、非常に多くの例を挙げられています。ある一区画の土地で良いものを見つけて、そこを買う為に、何もかも売り払った人の話です(マタイ13:44)。それなのに、私たちはそれを欲しがりません。このように考えるのです。「そうだな、ローンでその土地を買おう。それを買いに行く為に、全ての持ち物を売り払うなんてごめんだ。何とか別の方法でやってみよう」と。ところがイエスは、ご自分が唯一の道であると言われたのです(ヨハネ14:6)。主以外に何も道がないわけですから、この事は、心底真剣に受け止めなければなりません。真剣にならなくても、奇跡は目にし、癒しも目にするでしょう。DHTTセミナーを受けた人々の殆どは、癒しを行う事ができます。彼らは一ヶ月に平均、25件から30件の癒しを目にするでしょう。彼ら全員が、一日に最低でも一人の為に祈っており、実際に癒しが見られるでしょうから。しかし、さらなる高みの生き方があります。
ヘブル書には、一切の「重荷」とまとわりつく「罪」とを捨てる事について話しています(へブル12:1)。全部が罪というわけではありません。中にはただの重荷もあります。中には、皆さんにまとわりついて、進歩を遅らせるものもあり、それらは益になりません。ですから、中には捨てなければならないもの(重荷)もあります。余計なものを取り除くという事です。皆さんは今週の終わりまでに、DHTTで気づいた以上に多くの事に気づく事になり、言い訳ができなくなるでしょう。全てが(イエスによって)なされたのです。全てが成し遂げられました。皆さんには、全てのものが与えられています。今皆さんは、それを用いて、何をするのでしょうか?
第2コリント5章を読んでいきましょう。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です (2コリント5:17-18)新しい創造、新しい種(しゅ)です。聞いて下さい。「古いものは過ぎ去って、見よ」は見なさい、注目しなさい、という意味です。「誰でも」とは、皆さんや私、あるいはどんな人でもという事です。「キリストのうちにあるなら」は、キリストと一体となっているならという事です。キリストの成し遂げられた事を、自分の為であったと考えているなら、その人は新しく造られた者です。つまり、新種の生き物なのです。以前の皆さんや、以前の行動様式といった古いものは過ぎ去りました。人が死んだ時と同じように。それは死に等しいのです。それらはもはや、彼らの一部ではなくなりました。今私たちは、皆さんの内面や、特徴の全てがすっかり新しくなり、それは皆さんが新生する前にはそこに存在しなかったものであると見なし、考えなければなりません。そして「これらの事は全て、神から出ているのです。」皆さんの中にある、それらの新しいものの事です。皆さんの中の全てが、今や神のものなのです。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ...」つまり、皆さんは神の方に向き直ったから和解したのではないという事です。イエスが皆さんの為に、和解への道を切り開き、向き直る機会を与えて下さったのです。皆さんが神の方を向いたからそうなったのではありません。お分かりでしょうか、もしイエスが十字架の上で死んで下さらなかったとしたら、皆さんが神の方に向き直ろうとしても、和解して頂けなかった事でしょう。それが事実です。もしイエスの死なしに、神と和解できていたとしたら、私たちをただ、神に向き直るよう人々を説得するだけで良かったのであり、イエスの死は必要なかった事でしょう。しかし、私たちはイエスが死ななければならなかったと知っています。ですからイエスは、皆さんが和解を得られるよう、皆さんに代わって罪の代価を支払わなければならなかったのです。そうではありませんか?
さて、パウロはこう述べています。「また和解の務めを私たちに与えて下さいました。」ですから、今私たちの仕事は、ある意味、人々がキリストに目を向けて、和解できるように、何をして下さったかを人々に知らせる事なのです。その節は新生の際に、新しいものが私たちの中に置かれたと告げています。私たちは自分自身のものではありません。実際に神ご自身によって造られた者であり、神は私たちの中に全く新しいものを置き、私たちを全く新しい者にされ、私たちの中の全てが、神のものであり、また神によるもので、神から来ているのです。今や皆さんの中で、皆さんから出ているものは何一つなく、それらは神のものです。神ご自身が、イエス・キリストによって私たちをご自身と和解させて下ったのであり、そしてイエスが持っておられたのと同じ務めを、私たちに与えられたのも、神ご自身です。それは人々を神と和解させ、再び神と一つにするという務めです。ここが重要な鍵です。今私たちが話しているのも、この事についてです。そして、ここでのセミナーを終える前に、その事について詳しくお話したいと思います。
皆さんは霊であり、魂を持っており、体の中で生きています(1テサロニケ5:23)。皆さんは男性でも、女性でも、人と呼ばれる、3つの異なる部分が一体となった存在です。創世の時、彼らは人と呼ばれました。すなわち、霊と魂と体です。さて、私たちが今ここで話しているのは、新生した時に生まれ変わったのは、皆さんの霊だけだという事です。霊は人の一部に過ぎません。それによって、新生が起こりました。今、かつてそこにいた古い皆さんはいなくなり、新しくなった皆さんは、今や神のものです。そして神は、ご自分を皆さんの中に置かれました。ですから、皆さんの中の全てが正しく、善であり、神と正しい関係にあるのです。さて、問題は、皆さんの思考が新しくなっていない事です。ですから、大切な鍵とは、霊と一致するように、思考を一新する事です。霊は常に神の言葉と一致しています。そこで、皆さんの体はただ、何をすべきかを教わり、訓練されなければならないだけです。体は基本的に、それ自体、心を持っているようなものですが、「感覚上の記憶」とも呼ぶべきもので、皆さんはこれまで、体が特定の行動を取るよう訓練されてきたのです。その体は、再訓練されなければなりません。
ここで気づいてほしいのは、霊と魂と体について話している時、私たちは救いと解放と癒しについても話しているという事です。私たちが永遠の命として捉えている救いは、厳密に言うと霊に関する事だからです。解放は魂の解放であり、癒しは体の解放です。人々はよくこんな事を言います。「皆さんは癒されました。イエスを受け入れた時、皆さんの霊は癒されたのです。」或いは、昨今ではこんな事さえ言います。「そうですね、皆さんには霊の癒しが必要です。」いいえ、皆さんの霊には何も悪い所はありません。新生したのなら、皆さんの霊は完全な状態です。キリストにあって完全なのです(へブル10:14、12:23)。それほど単純な事です。皆さんの霊には、何一つ手を施す必要がありません。皆さんの霊は癒しを必要としていませんでした。皆さんの霊は罪や違反行為にあって死んでいたのです(エペソ2:1)。そうでしょう?死人は癒しを必要としません。必要なのは蘇りです。ですから、皆さんは霊が癒されたのではなく、霊が蘇ったのです。
イエスが十字架に架かられたのがいつであれ、その時、皆さんも十字架にかかりました。イエスが埋葬された時、皆さんも埋葬されたのです(ローマ6:3-5)。また洗礼についても、ある程度同じような事を示している、象徴的な言葉があります。しかし、主が死から蘇られた時、皆さんも又、死から蘇りました。そして主が死から蘇られた瞬間に、皆さんに新生する機会が与えられたのです。言わば、主の命が皆さんの霊の中に入って、皆さんを造り替えてくれたようなものです。では2コリント5章19節です。「知りなさい。」これはKJV訳では「to wit」です。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせられませんでした。そして、和解の言葉を私たちに委ねられたのです(2コリント5:19)。」さて、この節が、神がキリストの内におられ、神と人とを和解させるという目的を果たす為に、イエスを通して働かれ、イエスと連携しておられた事を、私たちが知って(wit)いるべきであると言っている事に注目して下さい。また、それを既になされた、つまり神と人との和解の言葉を私たちに委ね、割り当て、私たちの管理下に置かれたのは、神であると言っています。
20節でパウロはこう言っています。「こういうわけで、」ここで彼が皆さんに、そこに至るまでの過程を思い起こさせているのが分かります。新生し、古いものが過ぎ去り、全てが新しくなりました。神はキリストの内におられ、今や主は、皆さんの内におられます。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。」聞きましたか?「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。」それは、皆さんの口から出る音が、まるで皆さんが話しかけている人々に向けて、神ご自身が発しておられる言葉のようだという事です。お分かりでしょうか?「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなた方に願います。神の和解を受け入れなさい。」ここから、私たちがキリストにあって使節、すなわち、キリストの法的代理人として、正式な使命を帯びて派遣された使者である事、そして神が私たちを、神と和解するよう、人々に文字通り乞い求め、嘆願し、呼びかける為に用いられる事が分かります。そして今私たちは、キリストに代わって嘆願しているのです。21節です。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは私たちが、この方にあって、神の義となる為です。」(注:英語では「神の義とされる(made)」とあります)この「される」という言葉に注目して下さい。
イザヤ書を開いて下さい。54章を読みましょう。ここでは、二、三の箇所にしか触れません。イザヤ54章14節にはこうあります。「あなたは義によって堅く立ち、虐げから遠ざかれ。恐れる事はない。恐れから遠ざかれ。それが近づく事はない。」ここで言われている事が、お分かりでしょうか?皆さんが義によって堅く立つと言っているのです。そして義によって堅く立つ時、虐げから遠ざかると。聞きましたか?要するに、義によって堅く立つならば、虐げから遠ざかると言う事です。別の言い方をすれば、義によって堅く立つと同時に、虐げを受ける事はあり得ないと言う事です。いいですか、全てを知っている必要はないのです。ただ二、三の事を知っていれば、それが皆さんの中で爆発的なインパクトを与えるでしょう。この新約聖書の中には、リバイバルや、わくわくさせるような物事や、建物といった事については、何一つ書かれていないからです。実際、新約聖書の中で一番リバイバルを説いているのに近い箇所は、パウロが次のように言っている箇所です。「義に対して目を覚ましていなさい(正しい訳)(1コリント15:34)。」パウロは、それこそが人々の問題であると言っているのです。堕落し、神に対して心が冷えている事が。それは義を理解していないからです。自分に何が起こったのか分かっていません。それが分かっているなら、つまり自分がキリストにあって、神の義とされた事が分かっており、それがどういうものであるかが分かる程度にまで、それに対して目を覚ましているなら…。堕落ですって?冗談でしょう。堕落する理由などあるでしょうか? 何もありません。何故でしょう?もうそこにいないからです。生きているのはもはや皆さんではなく、キリストが皆さんの中に生きておられるのです(ガラテヤ2:20)。皆さんは死んでいるのです。古い皆さんはいなくなりました。そして、自分が誰であるかに気づき始めるのです。新約聖書のメッセージ全体、新約聖書の全目的が、私たちがキリストにあって、神の義とされている事であると、覚えていなければなりません。
それでパウロは、こう述べています。「義に対して目を覚ましていなさい。」この義が全てなのです。そしてこうも言っています。「義によって堅く立つ時、皆さんは虐げから遠ざかる。」この義ゆえに、悪魔は皆さんに触れる事もできないという事です。皆さんが義の中にいるからです。皆さんはそれに包まれています。さて、ここで主が次のように言われている事に注目して下さい。「あなたは恐れる事はない(イザヤ54:14)。」それにどんな効果があるか分かりましたか?何故恐れないのでしょう?それは、正しい人は若獅子のように頼もしいからです(箴言28:1)。つい先ほども、第1ヨハネで読みませんでしたか?「この事によって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、裁きの日にも大胆さを持つ事ができる為です(1ヨハネ4:17)。」何故、私たちは大胆さを持つのでしょう? それは恐れないからです。恐れと大胆さが共存する事はできません。大胆であるか、恐れているか、二つの内のどちらかなのです。お分かりでしょうか?「しかし正しい人は若獅子のように頼もしい。」そして彼は言います。「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかるでしょう。」何故でしょう?「あなたは恐れないからです。」それが理由です。虐げは近づきません。何故でしょう? 皆さんが恐れないからです。そして虐げから遠ざかるのです。何故でしょう?「それは近づく事がない」からです。聞きましたか?私がただ皆さんに言葉を読んで聞かせているだけだと思っている人も大勢いるでしょうが、これらはただの言葉ではなく約束です。これらは霊の世界の事実であり、現実であり、皆さんがそれに目を留めて、それに同意しようと決意し、それが霊の世界の事実であると言ったその瞬間に、実際に起こっているのです。これが霊の世界の「本来の私たち」であり、それによって突然に霊にあるものが、物質の世界にもたらされます。それを信仰から事実にするには、信じる心です。信じてこそ、霊のものが目に見える形で現れるのです。そうではありませんか?
皆さんはそのような存在なのです。さて、よく聞いて下さい。主は言われます。「見よ、攻め寄せる者があっても、それは私から出たものではない(イザヤ54:15)。」聞きましたか?「神よ、何故こんな事をされたのです?」と言う必要はありません。恐れ、虐げ、怖いもの…「それらが攻め寄せて、あなたを狙っても、成功しないだろう。私がそれらをもたらしているのではないからだ。」主がそう言われている事が分かりますか?ローマ人への手紙には何と書いてあるでしょう?「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対し、害をもたらせるでしょうか(ローマ8:31)。」誰が私たちに敵対できるでしょう? 私たちには神がついておられるのですから、神が味方であられるなら、敵である悪魔が自分たちに何一つ手出しできない事に気づかなければなりません。いいですか、敵は、皆さんができると信じている事しかできないのです。敵が自分に触れる事ができると信じるのをやめるなら、敵はもう皆さんに触れられなくなります。皆さんが神の守りを信じ、神の御言葉を信じているならば。とは言え、世俗的なものを追い求めている人が「いや、私は自分が触れられると信じませんよ」と言う事とは違います。敵が皆さんに触れられないのは、皆さんが信じているからというだけではなく、皆さんが義とされたという事実によるのです。しかし、義人の中にも、敵に触れられている人々が大勢いる事に、気づいているでしょうか。何故でしょう?それは彼らが、自分が触れる事のできない存在であると信じていないからです。いったん義とされたなら、キリストの中に置かれるなら、全てが変わります。問題は、キリストの中に入った時、皆さんは全てが変わると教えられ、それを聞いておきながら、全ての恐れや自我や疑いといった、あらゆるものを引っさげてくる事です。自分のあらゆる罪さえも。そしてこう言います。「私の罪は赦された。」しかし、まだ自分のした事を思い出すのです。自分のした事を思い出す限り、悪魔はやって来て皆さんの耳にささやきかけ、ある考えを吹き込もうとします。
肉の思いは死であると言われている事に気づいていますか?(ローマ8:6)言い換えると、肉的な事で頭が一杯で、話し方や生き方や行動までも、それに左右されてしまうほど、そればかり気にかけている状態の事です。そのようにしている限り、肉の思いは死なのです。私たちの武器は肉のものではありません(2コリント10:4)。いいですか、肉の思いを抱く事は死ですが、私たちの武器は肉のものではないのです。何故でしょう?それは悪魔の武器が肉的なものだからです。それらを用いて皆さんに、何か肉的な事を信じさせようとするのです。
道を歩いている時、悪魔が皆さんに突き刺す痛みの一撃を食らわせたとします。その時に、「ああ、癌になった時を思い出す。あの時も同じような痛みを感じた」と言ったとしたら、敵はそんな考えで皆さんを攻撃しています。「ああ、きっとまた癌かもしれない」と同意してしまえば、敵としては、それだけ十分なのです。敵は皆さんをそのような考えで攻撃し、そのような考えに皆さんを誘惑します。しかしイエスはこう言われました。「そういうわけだから、~と言って、心配するのをやめなさい…(マタイ6:31)。」では、皆さんはどうするでしょうか?実際に口に出すまでは、心配している事にはなりません。考えているだけなら、一方の耳から他方へと抜けて、出て行ってしまう事もあります。しかし、癌かもしれないというような思いを口に出すなら、そのような思いを抱いている事になるのです。そして、原因は他に幾らでもあり得るのに、その痛みが走った時に、悪魔は即座に皆さんの思考をこんな言葉で攻撃するでしょう。「あの時の癌が再発したんだ。」そしてそのような思いが、皆さんの脳裏をよぎるのです。聖書は私たちの戦いの武器は肉のものではないと言っています。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです(2コリント10:4-5)。」そしてその要塞とは、誤った思考や誤った教え、誤った教義の事であり、それらはどんどん積み重なって、今や害をもたらす要塞となり、皆さんはこれらのものを信じ始めるのです。聖句は私たちに、「全てのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」るよう説いています。「神の知恵に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き」なさいと。
そういうわけで、敵がする事とは、神の知識を否定し、神の御言葉に反するような思いを送る事です。皆さんは大抵の場合、口に出す事によってその考えを受け入れ、それを発言し始めます。「そうなんだ、癌になった時感じたような痛みを感じてね。それでちょっと、医者に診てもらいたいと考えているんだ。」そしてその「そうなんだ」という言葉により、要塞が築かれ始めます。そして驚くべき事に、それを野放しにして置くと、皆さんがテレビをつけた時、突然、何かの医薬の宣伝が流れてこう言います。「痛みがありますか?それは癌の兆候かもしれません。」皆さんは考えます。「そうだ、今日痛みを感じた。」それからそれをすっかり信じ込んでしまい、他のあらゆる人々の証言が、耳に入って来ます。「ああ、私は普通に暮らしていました。何もかも順調だったのです。ところが脇腹に痛みを感じて、あっという間に死の床に直行です。」そして、他にもあらゆる話が聞こえてくる事でしょう。これらは実際、少しずつ折り重なって、徐々に形成されてゆく要塞なのです。そして皆さんはそれらを受け入れます。「そうだな、自分もそうだ。」それによって、同意の力を発動させているのです。二人がどんな事でも地上で心を合わせる(同意する)なら、それはキリストの内にあっての事でも、神の事柄以外についても実現します。皆さんはこれらの考えを受け入れ始めるのですが、肉の思いは死です。ですから敵の企みに引っかからないよう、この事を話しているのです。敵はただ入ってきて、皆さんを命を奪う事はできません。そうできたなら、皆さんは今頃死んでいるでしょう。ですから、敵がそうしていないという事は、皆さんの同意を得る必要があるという証拠なのです。
エデンの園で、敵がエバに「さあ、これを食べなさい」と言わなかった事に気づいているでしょう。そこでエバが、「まあ、そう言うなら」となったわけではありません。敵は彼女を誘惑してこう言ったのです。「神は本当にそう言われたのですか? 本当にそのような事を?」それが敵の常套手段です。今日では、皆さんにこんな風に言います。「神は本当に信者たちが病人に手を置けば、と言われたのですか?本当にそういう意味で言われたのでしょうか?」そして皆さんに、疑わせようとします。そこで皆さんを弱める事ができるなら、さらに引き下げる事ができると知っているからです。敵は、今日や明日の事など考えていません。来週や来月や来年の事を考えているのです。そしてどんどん、皆さんを弱めていこうと、働きかけるのです。皆さんを鈍感にし、弱めてしまう事が、この世の娯楽システムの目的です。それが唯一の目的です。それらは、神を敬わないあらゆる思想を持ち込み、最も効果的な方法です。罪深い行為を扱ったドラマを放映するなら、まだそれに抵抗を感じる人々もおり、あまりに強烈すぎると、視聴者は見るのをやめてしまうでしょう。しかし、彼らがホームコメディーにそれを織り込んで、笑い事にし、冗談にしてしまうなら、皆さんはただ笑ってそれを見続け、番組の間中、そこに座ってこう考えるでしょう。「ああ、あれはひどいな。ハハハハ。」そしてそのようにして、ただそれを自分の中に取り入れているのです。そして間もなく、ひどく嫌悪すべきものとは感じなくなる程度にまで、弱められてしまいます。「ああいうのは、ただ…面白いだけじゃないか」と。そして神の目を通してではなく、それを違った目で見るようになるのです。自分と同じ種を世に送り出したり、成果を生み出す事ができないどんな歩みも神に栄光を帰す事はなく、神のものではありません。そうでしょう?それが最初の命令だったのですから。「生めよ。ふえよ。地を満たせ(創世記1:28)。」そうではありませんか?それらを見て私たちは笑い、別に構わないと感じます。それを笑い飛ばしてしまうなら、次には強く迫り、皆さんはそれを受け入れざるを得なくなります。最初に拒む事をしなかったからです。それが娯楽システムの目的です。それは楽しませるためではなく、洗脳を施すための宣伝行為なのです。そして皆さんを洗脳している教義はこの世の教義であって、神のものではありません。
またイザヤ書(54章)に戻りましょう。この15節で、神はこう言われています。「見よ。攻め寄せる者があっても、それは私から出たものではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。」見て下さい。神は、ご自分の管理下にあるものをいかに世話されるかを話しておられます。人々はこの聖句を、「見なさい、これが本来私が意図した姿である。それが本来あるべき姿である」という言い方に見いだすでしょう。神はただ、「見なさい。私は自分が造った地球の責任を取る。たとえ人が堕落しても」と言っておられるのです。人が堕落した事は、驚きではありませんか?神はその時、去ったりはされませんでした。こんな風に言う事もおできになったでしょう。「いいや。それは私の計画した事ではない。そんな事は意図していなかった。あなたが私の計画を成就しなかったから、私は代わりにどうすればいいだろう?」神はただ歩き去って、このように言う事もおできになりました。「よし、プランBでいこう。ここにもう一つ地球を造り、何か他の事をしよう。」神は容易にそうする事がおできになったはずです。神なのですから。そうでしょう?
けれども、良き父であられる神は、子どもを生み出した後にそこから去ったりはされません。どんなに長くかかろうと、状況を修復する為に必要な事は何でもするという責任を負っておられるのです。いいですか、もし皆さんの子どもが誰かの家の窓に石を投げたら、誰がガラス代を弁償するでしょう?神様の場合も同じです。人の堕落ゆえに、これら全ての事が地上に起こり始めました。人々は言います。「はて、何故この人は生まれつきこんな風なのでしょう?」それは私たちが、堕落した世界に暮らしているからです。それには疑いの余地がありません。何故人々は盗みを働いたり、一生の大半を死にそうな体で過ごすのでしょう?それは私たちが、堕落した世界に住んでいるからです。人々は言います。「何故こんな病気にかかるのでしょう?」しかし私たちは、それら全てを霊的に捉えたがり、彼らが死んだり病気になるなら、それは罪を犯したからだと言います。そうではありません。それは皆さんが、邪悪な人々が大半の世界体制を、世の中の仕組みを支配している世界に住んでいるからです(1ヨハネ5:19)。そして病原菌その他のあらゆるものが、空気中に漂っていますが、それは神のせいではありません。神はそれを考案されませんでした。けれども私たちは、自分たちがこのような世界に暮らしている事に、気づかなければなりません。この世は暗闇に包まれています。私たちの仕事は光となる事です。私たちの仕事とは、このような光となり、暗闇を一掃する事です。私たちは、行く所どこでも、暗闇のある所どこでも、光をもたらすべきです。そうでしょう?皆さんが行う全ての事において、天の御国を反映するのです。実際私たちの仕事は、天の御国で生きる事が、どのようなものであるかを示す事です。それは私たちが、癒してもらう側の人になるべきではないという事です。どういう事か分かりますか?私たちが神について語っている時に、人々の目に映るものこそが、神がどんな方であるかを表しているという事です。神のようなお方は、他に一つも存在しません。神は何でもおできになります。神は全能であられます。私たちの神はそのようなお方です。それが人々の目に、どのように映るか分かりますか? 私たちはこれまで殆どの地域に対して、良い宣伝となっていませんでした。
いつも人々にこう話しています。「この国には色々な車があるけれど、私は決してレクサスに乗っている人からベンツを買わない。」どういう事か分かりますか?相手が信用できないからです。ベンツを売るつもりなら、その人はベンツに乗っているべきです。お分かりでしょうか?通常皆さんは、自社の製品を使いもしない人から物を買いません。「ああ、これは市場でも最高の車ですよ。」「本当に?ところであなたの車は?」「ええと、私のはあちらです。」お分かりでしょうか?私たちは神の広告にならなければなりません。さて、そのように、命であられる神の広告となるつもりであれば、神の命を宿している必要があります。そうでしょう?病気であったり、死にかけていてはいけないのです。皆さんは言います。「いいでしょう。それは分かりますが、私は今病気で、死にかけているのです。」教会は、これまでずっとそんな風でした。私の仕事の一つは、教会を成長させて、神の命の内に歩めるようにする事です。私たちは、神による健康の内に歩むのです。病気にかかっている側の人にならないように。皆さんは尋ねます。「それではあなたは、決して病気にかからないのですか?」これまで何度か病気にかかった事はありますが、今は以前よりも、ずっと少なくなりました。そして実をいうと、病気になりそうな時は、大抵、自分でもそうと分かるのであり、その45分後には、本当にかかっています。病気と二日ほど戦っていた事もあるので、これまで一度も病気になった事がないと言っているのではありません。実際にそういう事が起こったからです。最近は、病気になっていません。かかったとしても、しばらくすると治り、大抵は神によって健康に保たれています。それは実際、神の保護に他なりません。これまで私は、感染性であれ非感染性であれ、ありとあらゆる病気や疾患を持った人に触ってきたからです。全員病気にかかっている部屋に居た事もあります。私は彼らが呼吸しているのと同じ空気を呼吸していましたが、病気を移されませんでした。何故でしょう? 移される為ではなく、その病気を消滅させる為に行ったからです。そうでしょう?
いいですか、イエスの人生もそんな風でした。イエスもそのように生活されたのです。ジョン・レイクもそのように生活しました。様々な人々がそのように生活しました。しかし、一人の平均的な人間の証言だけに基づいて判断する事はできません。もし私が、「聞いて下さい。私は1984年頃から概ねずっと、神の健康の内に生きて来ました」と言ったとしたら、それは事実です。その通りなのですから。しかし同時に、それを信仰の拠り所とすべきではありません。人の経験は決して、信仰の拠り所となってはならないのです。そのようにしているなら、決して前の世代以上に進歩を遂げる事はできません。常にそれらに目を留め、それらに照合しようとするからです。聖書こそが私たちの基準です。そうではありませんか?
さて、神はこのイザヤ54章で、次のように言われています。また戻りましょう。17節です。「あなたを攻める為に作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、裁きの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、私から受ける彼らの義である。――主の御告げ。――」 聞きましたか? 皆さんの義は神によって与えられるのであり、自分自身から出たものではありません。それは皆さんとは何の関係もないのです。しかしだからといって、出て行って世の人々のように生きるべきだというのではありません。私たちは自分たちが説いている事に、まず自分自身があずかっているべきなのです。御霊を持っているなら、皆さんの人生は少なくとも神聖さの方向に動いているべきであり、反対方向に動いているべきではありません。新生の時、皆さんは御霊によって新しく生まれ変わります。この世の霊によって生まれ変わったのではありません。こんな風に言う事はできないのです。「ああ、今なら他の全ての人のように罪を犯しても、赦してもらえる。」いいえ、そうではありません。今もなお、罪の支払う報酬が死である事に変わりはありません。それほど単純な事です。
さて、人はその生き方を見ていると、本当に新生したかどうかが分かるものです。問題は、殆どの人々にとって、自分が本当に新生したのかどうかの境界線が、かなりあやふやになってきているという事です。「私は通路を歩いて行って、手を握りました。そして祈りを唱えました。」とある人は言いますが、大切なのは、祈りを唱える事ではありません。イエスは言われました。「あなたは口先では私を敬うが、その心は、私から遠く離れている。」祈る事ではなく、人生の変化について私は話しているのです。ですから、好き放題に生きろと言っているのではありません。違います。言っておきますが、私は好きなように生きています。しかし、私は御霊を持っているので、清い生き方をしたいのです。そしてそれこそが私の「好きな生き方」なのです。過ちを犯さないというわけではありませんが、つまずき倒れても、過ちを犯しても、そのままではいないという事です。そのままでいたせいで、実に大勢のクリスチャンが駄目になってしまいました。彼らはそれが気に入らなかったのです。「過ちを犯しておきながら、どうやってまた立ち直って、進み続ける事ができるのですか?」それは私が聖書の言葉を信じているからです。そして過ちを犯したなら、最善の方法は、神の方に向き直り、聖書に書かれているような清めを受け入れ、真っ直ぐに歩む事です。そして自分がそれを信じていると証明する最善の方法は、その後即座に、一度も罪を犯した事がない人のように振る舞う事です。罪が清められたと知っているがゆえに、それらの罪が一度も犯されなかったかのように振る舞うのです。その後にできる最善の事は、祈ってあげられる誰かを、即座に見つけに行く事です。即座にです。義に対して目を覚ましていない限り、そのような事はできないからです。まだ罪の意識を感じていたなら、人々の為に祈ったりはしないでしょう。ですから、清められ、義とされ、正しい生活をしましょう。簡単な事です。大抵の人が正しい生活を送らない最大の理由は、そうしたくないからです。それを望んでいないのです。自由にやりたいし、イエスを火災保険の代わりにしたいのです。しかし主は、その為に来られたのではありません。皆さんに命を与える為に来られたのであり、主が火災保険よりはるかに良いのです。そしてその命は、一歩踏み出せば直ぐそこにあります。
正直言って、今でも私が分け合うのをためらってしまう事が幾つかあります。「新しい人セミナー」をしている今でさえも。中には話しにくい事柄があり、それにはわけがあります。長い事。フォルクス・ワーゲンをベンツだと教え込まれていて、その後に誰かが来て、こう言ったらどうでしょう。「それはベンツではないよ。」皆さんは最初、こんな風に言うでしょう。「馬鹿言うな。それがベンツだって知ってるよ。パパが教えてくれたんだから。おじいちゃんも、僕が生まれてからずっとそう教えてくれた。それはベンツに決まってる。ああ、VWはベンツのドイツ語表記なんだ。それはベンツの事なんだよ。」違います。彼らに真実を言わざるを得ません。「残念だけど、そうじゃないんだ。それは真実じゃない」と。それを言うのは、時に辛いものです。何故なら人々は…。聞いて下さい、十中八九そうだと思いますが、皆さんはこれまでに一度も、クリスチャン生活を送っている人を見た事がないでしょう。罪を赦されて生きている人を見た事はあるかもしれませんが、クリスチャン生活を送っている人は、恐らく見た事がないはずです。
クリスチャン生活とは、新しい創造物として生きる事です。さて、皆さんがこれまでで一番その姿に近づいたのは、福音書を読んでいる時でした。何故なら、この地上を歩んでおられた時のイエスは、神の霊に満たされて、何の罪悪感も劣等感も抱かずに、完全な自由と、父なる神の愛への完全な信頼の内に歩む神の子どもの姿を、最も身近な形で表しているからです。けれども大抵の場合、皆さんはそれを分かっていません。皆さんは人々が宗教的に生き、宗教の制限内に留まろうと苦労しているのを見ます。ここにやって来たなら、二つの内どちらかが起こると確信しているからです。つまり、神に捕まってしまうか、悪魔に捕まってしまうかのどちらかであると(笑)。それが皆さんの見方です。そうではありませんか? 私は、主から与えられた務めを果たし、主が示された事を行うよう召されているので、願わくはそんなにも長くかからないよう、今よりも速いペースで、本題まで進めていく事ができると思います。そして今お話しているこれらの事は、皆さんをそこに向けて備える準備段階なのです。これらの書簡、特にパウロによる書簡の中の神の御言葉は、実に驚異的な言葉だからです。そこから、ほんの基本的な事柄について少しお話しましょう。
私たちは、神が驚くべき神であられる事についてお話しました。その通りではありませんか? 何といっても、神なのですから。そうでしょう?神のような方は、他におられません。誰一人として。そうですね?そしてその驚異的な点とは?私たちに神が見えるという事です。考えてもみて下さい。私たちは神ご自身についてお話しているのです。父と子と聖霊からなる、三位一体の神全体について。それら3つをまとめにして扱いましょう。その神は、今私たちの目に映る全てのものを創造されました。そうですね?山々や、全てのものを神が造られたのです。そして驚異的なのは、神がこれらのものを、ただ言葉を語る事によってお造りになったという点です。神がお語りになると、それらが存在するに至ったのです。神は言われました。「光あれ。」すると光がありました。あらゆる事が起こっていました。あらゆる事が。神がこれら全てをされたのです。天地を造られた神が、私たちの目に見える全てのものを造られました。これまでに起こった全ての奇跡をなされたのもまた、それと同じ神です。蘇った全ての死人も、神によって蘇ったのです。そうでしょう?これまで死から蘇り、癒された人々の中で、神によってそうされたのではない人など、一人もいませんでした。ですから、神がそれら全てを取り仕切っておられるのです。
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