セッション 15
さて、始めて行きましょう。席について下さい。始めましょう。私たちはイザヤの第9章の所にいました。6節を読み、それから7節に行きました。7節ではこう言っていました。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」ここで言われている事に注目して下さい。これが鍵です。これまでやって来たように、私たちはこの事について幾つか話してきました。それは次の様に言っています。それは全て一文でまとまっています。それを最後まで分割するのは難しいです。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて」そして注目して下さい。「その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て」と続きます。通常、人々が「裁き」という言葉を読む時、私たちは自動的にそれを否定的な見方で考えます。神が裁きをもたらす、きっと悪い事に違いない。全ての裁きは悪いものだ。しかし、裁きが皆さんにとって有利になる事もあります。皆さんの為の裁きであり、それは良い事なのです。実際にある時点で、異邦人に対する裁きを示され、それからその御言葉を関連付けられました。それはイザヤからの預言的な言葉であり、キリストが人々を癒し、盲人の目を開いて人々を解放したという、マタイの一節で引用されました。神は癒しを使って、自分が裁きを示していた事を明らかにしているのです。それで、裁きは人々に有利になり、彼らは解放されました。理解できますか?私たちが裁きと神の裁きについて話す時、それは常に悪い事ではないのです。その考えを超えなければなりません。神が異邦人に裁きを示すと言われている時、神が示している良い方法でそれについて話している事を認識しなければなりません。私はアルバートンのジョーバーガーのベテルでメッセージをしました。ディーンスノーボール牧師の為にでした。彼は先日ここにいました。そして、そこで私が説教したメッセージは「神は抑圧を裁かれた」というものでした。神は抑圧を裁かれ、抑圧に反対し、人々に有利に裁かれたという事を認識する必要があります。今、私たちはそれを知っています。詩篇103篇にも見られます。それは、神が抑圧されている全ての人の為に義と裁きを実行したと言っています。言い換えれば、裁判官が判決または評決を下す時、彼は被告のた為に判決を下していると言います。つまり、被告が訴訟に勝つという事です。従って、被告はいかなる告訴も免除される事を意味します。良いですか?ですから、裁きが皆さんに有利な場合、それは良いのです。神が判断を下したと言っています。ですから、イエスが異邦人の裁きを示すと言われ、それを癒しと結びつける時、抑圧された人々に対しては有利であり、抑圧された人々に反対する裁きを示しています。分かりますか?
神が絶対の神であると理解しなければなりません。神は断片的にはしません。選り好みをしていません。神は皆さんを個人として考えて、「そこの皆さん。私は皆さんを癒します。でも、そちらの者ではありません」と言っているのではありません。神は天国のボタンやスイッチを切り替えて電力を流したり、流したりして人を解放したりしていません。神は皆さんに対して、集団訴訟として取り扱っているのです。言い換えれば、皆さんは神が抑圧に対して解決し勝った全体的な訴訟の一部です。ですから、皆さんが抑圧されているなら、神は自由になる事を望んでいます。神は既にそれを宣言しました。神は抑圧が間違っていると宣言し、自由を望んでおられます。神が何とかしてそれを皆さんに教えたり、正しくするように罰したりする為に、病気などを利用しているという考えから、皆さんは離れる必要があります。ここで気づいて下さい。「堅く立てた」とあります。それはダビデの王座とイエスの王国について言っています。「その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」では、11章に行って下さい。私たちはこの言葉が預言的なものと知っていて、イエスについてのものである事を知っています。1節にこうあります。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」2節を注目して下さい。私たちはこのセミナーのテーマをキープしている事を覚えていて下さい。それはキリストについての奥義、新しい人の事です。パウロに神が示した奥義、それはキリストが私たちの中におられる事、栄光の望み、ですよね?それが奥義です。私たちの語るものは全てキリストが私たちの中におられるという事に関係しています。この個所を一緒に見ましょう。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊が留まる。」これはイエスについて話しています。イエスがいて、彼の上に主の御霊が留まる、ですよね?それが真実だと私たちは知っています。「主を知る知識と主を恐れる霊」とあります。聞きましたか?これらの全ての霊はイエスに留まるというのです。さて、私は全てを結び付けようとしています。主の霊がイエスの上に留まると神が言っているのに気づいて下さい。それは、知恵の霊、悟りの霊、はかりごとの霊、能力の霊、知識の霊、主を恐れる霊です。皆さんは彼らがしたようにそれらを一緒に結ぶ事ができます。これらは神の霊の中にある霊であり、神の霊は神の子の上にあります。これらの霊は全て、神の子の上にいる霊の中にいます。今では神の子、イエス・キリストはどこに住んでいますか?皆さんの中にです。それではどういう事になりますか?皆さんが何を持っている事を意味しますか?もう一度戻りましょう。それは、皆さんが主の霊を、皆さんの中に置いている事を意味します。皆さんは知恵の霊を持っています。皆さんは悟りの霊を持っています。皆さんははかりごとの霊を持っていて、能力の霊を持っており、知識と主を恐れる霊をもっています。全ては皆さんの中に住んでいます。
理解しましたか?何故でしょうか?何故なら、神の霊は皆さんの内に住んでおられ、キリストと共にいるからです。二節に注目して下さい。主の霊は彼の上に留まるとあります。彼から離れるなどとは全く書いてありません。主の霊は彼の上に留まる。つまり、彼の上にずっといる、一緒にいる、主の霊はそこにいるという事です。主の霊は離れて行くという事ではないのです。離れて行かないのなら、彼と常に一緒にいるという意味です。皆さんのところに引っ越して来た時、神の霊はいつもイエスと一緒です。そうですよね?私は皆さんが持っているもの、皆さんの中にあるものを見せようとしています。これは、「えーっと、私は救われました。救われています。ハレルヤ」という事よりも遥かに大きな事です。ずっと深いものです。今皆さんはイエスにあった主の霊を持っているからです。主の霊の代表的な霊であるこれらの霊は全て彼と共におられ皆さんの中にいます。聖書はまたキリストの中に知恵と知識の全ての宝が隠されていると言っているので、皆さんは今皆さんの中にこれら全てを持っています。これらの霊の殆どは知恵と知識に関係がありませんか?知恵、知識、理解、助言と関係があります。助言は理解と関係があります。皆さんはいつでも神の知恵と知識を引き出す事ができます。皆さんがそれを必要とする時はいつでも。知恵が足りない人がいたら、神に求めなさい。特に皆さんが生まれたばかりの信者であるなら、皆さんは神に求める事ができます。または、それが完了したと見なす事ができます。それがパウロが言い続けたものです。「自分自身をその様に思いなさい。」皆さんに単語を学ぶようにと話しました。コンコーダンスを取って、単語を調べて下さい。「油を注ぐ」「召す」それら全ての異なる語について話します。そして、皆さんは別の語を調べる必要があります。それは実際には派生語でもあります。その語は、「知る」という言葉です。パウロは何度か「これを知りなさい。これを知る事は」と言いました。「知る」と「知る事」という言葉を調べて下さい。特にローマ人からテトスへの手紙、その辺りにおいてです。何故なら、パウロは「この事を知っておきなさい。これを知る事は」と言い続けたからです。パウロが言った事全てを見ると、それは常に理解する事に戻りました。それは常に何らかの形の知識に戻りました。何故でしょう?クリスチャンたちの霊が再創造されたので、彼らの思考が彼らの霊と一致して機能するようにパウロは常に彼らの思考を一新しようとしていたのです。
それでパウロは、いつも彼らの思考を一新しようとして、「この事を知りなさい。これを理解しなさい...兄弟たち、この事について無知でいて欲しくはありません」と言っていました。無知でないなら、知っているという事を意味します。霊的活動という意味で、パウロが霊的な何かを求める事はありました。多くの場合、彼は思考についての内容について話しているのです。彼は、理解の目がはっきり見えるようになる事を時々言っていました。そんな事が祈りです。そのような事が祈りだったのです。もしパウロがそう祈ったのなら、それは神の御心です。だから、皆さんはそれを受け入れて、「私はそれを信じます。私はそれを受け取ります。私の目は理解できる為に開かれています。私は悟りました」と言う事ができるのです。皆さんは聖書を読み、それを見始めるでしょう。それは皆さんに活力を与えます。イエスはそれを明らかにしました。目があっても見えない人もいます。耳のある人でも聞こえません。しかし、私たちそうではありません。へブル人への手紙にあるように、私たちは試みの日のように心を固くしていないからです。しかし代わりに、私たちは神に目を向け、神の理解、神の知識に目を向けました。これらの他の幾つかについても見ていきます。3節で、「この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義を持って弱い者を裁き・・・」ここでも、否定的な判決について言っているのではなく、肯定的な判断について話している事に注意して下さい。神は弱い人々を正義をもって裁くのです。言い換えれば、弱い人々は抑えられ、抑圧されてきたのです。そして、神は彼らを正しく裁かれます。つまり、彼らを自由にします。それが神が言っている事なのです。続けて次の様に言っています。「公正をもって地の貧しい者の為に判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。」続けて、これから起こる幾つかの事、多くの場合、物事がどのようになるかについての原則などを話しています。驚くべき事に、これはある意味、地球の元の状態への回帰について話している所です。私はカール・ボー博士と知り合いです。彼はテキサス州グレン・ローズ、パルクシー川のそばにあるクリエーション・リサーチ施設の人で、恐竜の足が男性の足跡の隣にあり、恐竜と人間が地球上を同時に歩いていた事を示している証拠を持っています。彼は実際にそこで土地を購入して設置しました。私は実際に行って彼と一緒にしばらく仕事をして、設置を手伝いました。実際に、潜水艦のように見えましたが、生物圏のような施設でした。それは完全に密閉されており、環境をコントロールする事ができました。
それは素晴らしい事です。私の親友の一人は、実際にこの事に一定期間閉じこもって、血の中の変化、その他の全てに起こる変化やどの様になっているのかを研究する為に志願したのです。そしてそれは驚くべき事です。博物館の中に、彼は様々な動物の為の水族館のセットを持っています。多種類の動物、主に爬虫類。そして、これらの中に、彼は魚、鳥、ヘビを入れ、ケージに毒蛇とガラガラヘビを入れた事を除いて、完全に遮断しました。彼はそれらを完全に遮断し、特定の種類の光のみを受け取る場所に特定の照明を当て、完全に密閉し、酸素含有量を変更し、気圧を変更しました。彼は人間の堕落前の地球の元の状態がどの様であったかを計算しました。そしてそれはこれらの水族館の大気・気候を完全に変えました。驚くべき事は、彼がこれらの有毒なヘビをこれに入れて、特定の色の光を持っていた時でした。それは、地球の天蓋が落ちて全ての事が起こる前の、人間の堕落前の状態でした。通常、それに最も近いのは、空にピンクが見える日没です。堕落前の空全体はこんな感じでした。そして驚くべき事に、彼はこの中で植物を育てました、そして植物は時々その照明の下で最大5から10倍大きくなりました。それは植物がとても大きくなったであろう事を意味します。それはまた恐竜が死んだ理由の一つです。肺が非常に小さく、この大気下で地球上を歩くのに十分な酸素を得る事ができなかった為です。しかし、この大気が形成される前、人間の堕落の前には大気は異なっており、酸素含有量が多かった為、実際に小さな肺で呼吸でき、心臓も遥かに小さかった為、全てを必要としませんでした。それらが今日生きようとするなら、全ての筋肉と体を動かすのに十分な呼吸を得る事ができなかったので、生きる事ができません。しかし、その照明を備えたその天蓋の下では、彼らがより少なく、それでいてより多くをする事ができる気圧と酸素含有量を作り出しました。そして、植物は大きくなり、動物は実際に大きくなります。しかし、驚くべき事は、彼らがこれらの光の下に有毒なヘビを置いた時、蛇自体が毒を持たないので、ヘビの毒は無毒なったのです。驚くべき事は、攻撃的なヘビの様に非常に攻撃的だった動物たちが、この光の下で完全に攻撃的ではなくなったという事です。彼らは何も攻撃せず、これは恐らく最も驚くべき事の一つですが、彼らは食べる為に殺す事はありません。彼らは植物を食べるようになりました。従って、地球が特定の色の照明で元の手付かずの天蓋に復元された場合、ライオンはわらを食べるでしょう。毒でさえ無毒に変わります。そして動物はとてもフレンドリーになりました。ですから、ライオンは子羊と一緒に横になる事ができます。何故なら、ライオンは子羊を食べないからです。何故なら、彼らは全く攻撃的でなくなるからです。全て照明の為です。
さて、彼の研究が一般に知られるようになると、テキサス州の全ての刑務所の独房は、全ての独房が電球を交換し、ピンク色の照明をつけ刑務所の壁はピンク色に塗られると、争いは止まりました。囚人は全く攻撃的にならなくなりました。どうしてでしょうか?色が付いた為です。「バラ色のメガネを通して見る」と誰かが言うのを聞いた事がありますか?仲良くするのが簡単になり、全てが常に上手く行くのです。何故か?ピンクだからです。ほら、バラ色のメガネです。皆さんはそう言うでしょう。ですから、聖書が言っている事は全て、カール・ボー博士は科学で証明しています。私は科学、特に量子物理学などに驚いています。量子力学は、信仰を理解していない人々と話す為に使える言語を信仰の人々に与えていますが、未信者は量子物理学を理解しています。量子物理学を学べば学ぶ程、聖書の神と神のやり方を見つけるようになるので、沢山の科学者がキリストに来る事を見るでしょう。何故なら、量子物理学に関わる全ては信仰の事だからです。驚くべき事です。まだ、私たちは今も皆さんの中に住んでおられる神について話しています。ですから、私は全ての聖句を読むつもりはありません。何故なら、私たちがイザヤ 9:6と11:2 でやったようにそれらが順番にリストアップされる方法がないからです。それらはリストされているだけですが、戻って、エホバの名前と呼ばれるものを全て研究する事ができます。エホバの名前は全て、エホバ・イルエ(備える神)など、神が様々な時期に与えられた神の契約名です。エホバ・シャロアム、皆さんの平和である神、エホバ・ツクヌ、皆さんの義である神、エホバ・ラファ-皆さんの癒し主。これらの名前が、およそ16の名前があります。私がこれらの名前について最初に学び始めた時、私はサムラル氏と一緒でした。彼は神の名について実際に教えました。そして彼は神の名前について言いました。「神はダイヤモンドのようなものです。」彼はダイヤはこれら全ての面を持っていると言いました。そして皆さんが見るどんな面も異なる見方を与えるでしょう。しかしそれはただダイヤモンドの一部です。そして彼は、これらの16のエホバの名前は全て神の側面であり、神が皆さんに見られたいと望んでいた全ての性格であると言いました。ですから、神は皆さんから癒し主として見られたいのです。そして、神は皆さんの平和の主として見られる事を望んでおられます。分かりますか?神は皆さんに与える主として見られる事を望んでいます。従って、これらの名前は、神の性格の特徴の1つを詳述しました。それらの名はそれぞれ、神の性質がどの様なお方であるかについて考えさせるのです。さて、ここに鍵があります。聖書を通して、皆さんは人々の名前を勉強します。人々は良い名前を与えられ、その名前の意味の通りに生き、それらの名前になりました。神は「アブラム」から多くの国民の父である「アブラハム」に変えました。そして彼はその名前の通りに生きました。そして、そうやって見て行く事ができます。ヤコブはイスラエルになりました。しかし、彼は名前が変わるまではイスラエルになりませんでした。
ですから、名前は多くの場合において、その名前を持つ人の性質や性格を表す為にとても重要です。殆どの人にとってそうです。そして、彼らはその性質とその性格を具現化しました。神のエホバの名前を見て、エホバ・イルエが神の名前の一つである事が分かりますが、それは単なる名前ではありません。その名前は私たちが神と呼ぶものだけではありません。それは神ご自身です。例えば、私たちは犬について話すとします。それに対して犬と言います。何故それを犬と呼ぶのですか?それが犬であるからです。今では学名が付けられていますが、私たちはそれが何であるかと呼び、その名前はそれが何であるかです。そして、神がご自身の名前を与え、これが私であると言われるのです。それは皆さんが神と呼ぶ名前だけではなく、それが神ご自身なのです。ですから、いつでも、皆さんが病気で死にかけているのなら、神は皆さんを癒して下さる主、エホバ・ラファとして見られる事を望んでおられます。皆さんが病気で死にかけているとしましょう。皆さんはエホバ・ラファの神が必要です。しかし、皆さんはまた、平和である神、エホバ・シャロームも必要です。どうしてか?皆さんが病気で死にかけているなら、皆さんは心配していて、落ち着きがないので、平安が必要だからです。しかし、平安のうちに死ぬ事は何の役にも立たないので、癒しが必要です。そして信仰を持つ為には、平安を持たなけならないでしょう。皆さんは癒して下さる主が必要ですが、神を「癒しを備えて下さる方であるエホバ・イエルとして神を見る事ができます」と言う事もできます。ご覧のとおり、それら全ての名前は相互に関連していますが、それぞれが常に特定の視点からのものです。そして神がこれら全ての名前を付けた理由があるのですが、単に「私は神です」と言ったのではありません。「私は備える主、エホバ・イルエです」とただ言ったのではありません。殆どの人にとって、それは十分な程には具体的ではないからです。「神が私の備え主である事を知っていますが、神が私の癒し主であるのをどうやって知る事ができますか?」と皆さんは言います。神はエホバ・ラファでもありますよ。そしてそれが私がいつも強調する理由であり、私はいつもそれに戻ります。
人々がいつも神の性質を攻撃しようとしていると言う意味で、神に関しては、私たちは常に防御的であるように見えます。「神なら、何故人々を病気で死なせたのでしょう。何故これら全ての問題が起こっているのですか?」と人々は言うのです。「神は、何故人々を病気で死なせたのでしょう。神がいるのなら、何故これら全ての問題が起こっているのですか?」人々はいつも神エホバ・イルエではなく、エホバ・ラファではないと言おうとしています。そして人々は、癒しは過ぎ去ったと言おうとします。エホバ・ラファが過ぎ去るまで、癒しは過ぎ去る事はありません。そうでなければ、神は皆さんを癒す主ではありません。ですから皆さんが、「ある時にだけ、神は人を癒したいのだ」などと言うなら、皆さんは、「神は真実なお方ではない。神は誠実なお方ではない。神はエホバ・ラファではない」と言っているのです。何故なら、主エホバは「私はある」だからです。私は「そうであるでしょう」とか、私は「そうであった」とか、私は「時々そうです」ではありません。「私はある」です。分かりますか?「私はある」というのは「いつも」そうなのです。いいですか?Am(アム)は決して「いつかなる」事ではありません。「Am」は「is」(現在形)です。文法にとらわれる事はありません。たとえそれが間違っているように聞こえても、私はそれが最も理にかなっている方法であると言います。「私はある」はいつもそうなのです。モーセが言ったように、皆さんは、「私はある」という方によって送られたと言うのです。「神がある」であれば、神はそうなのです。分かります。変に聞こえますが、それは理にかなっていますよね?私たちの言葉は全て、ただ作り上げられています。誰かが、それらを作りました。そして、彼らがそれらを初めて使用した時、それらは、変に聞こえました。それから彼らは、それらを使う事に慣れました。そして今は普通に聞こえます。皆さんは、もう正しく聞こえなくなるまで、言葉を言った事がありますか?どんな言葉でも、それが正しく聞こえなくなるまで何度もそれを言う事ができます。どうしてでしょう?作り上げたに過ぎないからです。それは私たちが何かを表す為に使用するに過ぎません。一枚の紙、紙があります。紙、紙、紙。続けてみると、正しく聞こえません。誰かがどこかでそれを作ったからです。エホバが神であるなら、エホバは今そうであるという事です。ですから、神はそうなるというお方ではありません。私はいつもこう言います。人が作る事のできる最も大きな不信仰の言葉は、「神はこれから私を癒して下さる」です。まず、神は癒そうとなさるつもりはないからです。神はそうなさりません。皆さんが癒される事はないだろうと言っているのではありません。皆さんが癒しを経験しないでしょうと言っているのではありません。私が言っているのは、神は皆さんを癒そうとはしないという事です。神は既に役割を果たしています。終わったのです。設立されました。解決済みです。神に関する限り、イエスの打ち傷によって、皆さんは癒されました。完了です。ですから、神は何かをするつもりはありません。既にして下さったのです。
神はいつでも、皆さんを癒す主です。ですから、今日、今、皆さんが病気なら、皆さんは今すぐ癒しを受ける事ができます。皆さんは今いつでも癒しを受ける事ができるので、神は常に「現在のお方」であり、常に「今おられる」お方なので、それは皆さんが今から2分後に癒される事を意味し、皆さんがその時にも癒されるのは、神は「未来の神または過去の神、今の神」だからです。神がエホバ・ラファであるなら、それは神が今、皆さんを癒す主である事を意味します。そうですよね?事実、2分前に癒されたかもしれませんし、その時はエホバ・ラファだったでしょう。しかし、そうでなかったとしても、今でもそれを手に入れる事ができます。主はいつも「今・現在のお方」なので待っておられ、それで主は常に癒し主です。それで、皆さんはいつでも癒しを手に入れる事ができます。もし、今、私たちが怪我をしていて診療所に行かなければならないとします。「そこは9時から5時までの時間しか開いていません」としましょう。それなら、9時から5時までの間に行けば良いのです。しかし、それ以外なら、診療所は開いていない、利用できない事を意味していて、その為、5時以降は看護を受けられません。しかし、神はそうではありません。神はいつも「今・現在のお方」です。それで皆さんが神の所に行くと決めた時はいつでも看護を受ける事ができます。アーメン?ですから、皆さんが病気のままでいるのなら、それは皆さんは神が「今・現在のお方」であると信じようと選ばず、病気のままでいる事を選ぶからです。いいですか?私は皆さんのせいにはしていません。皆さんが病気になる事を選んだという理由で、私は皆さんを非難する事はしません。私は皆さんが今までに癒される事を選ぶ事ができたと言っているだけです。今まで待つ必要はありませんでした。神には皆さんの癒しの為の時間がありません。皆さんの癒しの時は、その鞭打ちの場で、約2000年前の時でした。神に関する限り、それが皆さんの癒しの時でした。神は、皆さんが癒される為の決まった時間を持っているのではないのです。「まあ、神はある時に私を癒すつもりでしょう」と誰かが言い、神は「いいえ。次の火曜日の9:00に癒すつもりです」と言ったとします。しかし、それは神ではありません。それは未来に延期する事になるからです。何故なら、主が打ち傷を受けた事によって、既に皆さんは癒されていると神が言われたからです。ですから、将来に癒されるだろうと神は言う事はできません。神はいつも「今日は救いの日です。今日は癒し、解放、自由の日です」と言われます。分かりますか?いつも「今」なのです。アーメン?
癒しがいつも今であるなら、皆さんはいつでも癒しを受ける事ができ、皆さんが健康なら、それでも神の命を常に受け取る事ができます。それが皆さんを健康にするからです。それは神の命です。ですから、皆さんは健康に留まる事ができます。病気になる必要はありません。いつでも癒される事ができれば、いつでも癒されたままでいる事ができます。ですから、「弱い者に私は強いと言わせよ」と言ったのです。「私は強くなるだろう」ではありません。いいですか? 「主の贖われた者にそう言わせなさい。」「私は贖われました。」アーメン?分かりますか?私たちはいつも神を先延ばしにしようとします。宗教は常に過去または未来に神を置きます。それは神が今のお方であるとしません。「ええ、昔はそれは素晴らしかったです。イエスの時代には良かったです。使徒たちが死ぬまでは。」、又は「ペンテコステ派の初期には、素晴らしかったです」などと言います。そして「時が来る」というのを皆さんはよく聞きます。神は素晴らしかったし、神は素晴らしくなるようです。しかし、今のところ、神はこのあたりにはいません。それは人々がそうやって見ているのです。しかし、それは宗教です。しかし、神は今のお方なのです。何故ですか?神は「ある」というお方だからです。アーメン?ですから、神はいつもエホバ・ラファです。私たちがここにいる間も、備え主であるエホバ・イルエが皆さんの中に住んでおられる、この事に戻りましょう。それについて考えて下さい。皆さんと一緒に住んでおられ、備えて下さるお方がいれば、皆さんが与えられない事はありますか?考えてみて下さい。備えはそこにありますよね?餓えで亡くなる金持ちがいるなら、彼らが持っている物を利用しないという理由だけでしょう。そして、病気で死ぬクリスチャンがいますが、エホバ・ラファが彼らの中に住んでおられます。何故こうした事があるのでしょう?彼らがその恩恵を受けないという理由だけなのです。彼らがキリスト・イエスにある全ての良い事を認めていないので、彼らの信仰の交わりが効果的になされていないからです。信者は自分の中に癒し主を持ちながらも、病気で死ぬ事ができます。何故ですか?自分が持っているものを認めていないからです。「イエスの打ち傷によって私は癒されています。その打ち傷によって私は生きています。彼の打ち傷によって私は癒されました。そして私が既に癒されたなら、私は今癒されています。そして私が癒されるなら、私は癒され続けるでしょう。」ただ神の健康の内に歩んで下さい。アーメン?分かりますか?
私は、皆さんの中にいるお方が、どのようなお方であるかを知らせようとしているのです。平和である神、エホバ・シャローム。皆さんはいつも平安を持っているべきです。決して取り乱してはいけません。(癒しなど)何も起こらないという考えを恐れて、決して落ち着きを失わないで下さい。決して皆さんの中に恐れを持ってはいけません。今おられる、神であるエホバ・シャマーを持つべきです。殆どの人は神がいる事にさえ気づいていません。義である神、エホバ・ツクヌ、皆さんの義です。そして、神は皆さんと一緒におられるのです。皆さんの中に住んでいるお方です。分かりますか?私は理論的な話をしているだけではありません。これは今の、現在の現実です。アーメン?どのようにして神は皆さんの中に住んでいるのでしょう?イエスによってです。神は御霊によって、御霊を通して私たちが神の住まいにされると言われています。それについて考えて下さい。私たちは神の住まいにされているのです。単なる訪問ではなく、住まいです。神は皆さんの中に住んでいます。行ったり来たりしなかったのです。さて、聖書は神の存在から来る、回復の時について語っています。ヨエルが預言した時を振り返ると...使徒言行録の第2章で、御霊が彼らに臨み、ペテロが立ち上がって最初に言ったのは、「これは預言されたものであり、回復の時です」という事でした。皆さんはこれらの事を聖書で見ますが、これは皆さんの中に住んでいるお方についての事です。これらについて黙想するなら、皆さんの中でそれらは支配し始めるでしょう。今は、気づいてさえいないかもしれません。メモをとってそれについて少し考えているかもしれませんが、これが皆さんの人生に与えるべき影響に、気づいていないかもしれません。全く恐れのない生活を想像してみて下さい。全く心配ありません。「ストレスがないのは可能ですか?」と言うかもしれません。ストレスを定義する必要があります。恐れも心配もないとします。人々は、恐れや心配がなければ、ストレスはないと言います。そうではありません。ストレスは皆さんがプレッシャーに反応して生じるものです。私たちはストレスがないと約束されていますか?皆さんがどう応答するかについて何か約束する事はできませんが...。皆さんは自分でストレス下にあるかどうかを決めるのです。何が起きているか、物事にどのように反応するかを決定します。しかし、皆さんは恐れなしに人生を送る事ができます。皆さんは神にあって、神の御心を自由に行う事のできる生活を送る事ができるのです。ですから、人々がやって来て、私たちは彼らに奉仕し、私たちは夜まで待つ必要はありません。5時に休憩する時、私はゲストハウスに戻ってそこで座って祈って気負って、ここに来て皆さんの上にそれ(神の力)を爆発させる為に油注ぎを積み上げるつもりはありません。いいえ、休憩中に皆さんの為にお祈りします。何故でしょう?それは全て神がなさっているからです。私は自分のわざをやめました。私は自分のわざについて心配する必要はありません。「私は十分に持っているか?」と言う必要はありません。神が私の中に住んでおられるなら、何かを十分に持っていないなどと考える事はあり得えません。全ての神の名前について考えて下さい。私たちには父、御子、聖霊がいます。いいですか?それはたった3つです。それから私たちは御子の全ての名前を持っています。彼は何と呼ばれていますか?不思議な助言者、永遠の父、力ある神、平和の君。
それが私に住んでいる全てのお方です。それから私は御父の16のエホバの名前を持っています。私は彼を「平安」として持っています。私は彼を「癒し」として持っています。私は彼を「導き」として持っています。私は彼を「今おられる方」として持っています。私はこれら全てのものを持っています。私は真理の霊として知られおられる神ご自身の霊を持っているので、だまされる事を心配する必要はありません。どうしてでしょう?私は物事を調べないと言っているのではありません。私は、何かが私をだまそうとしている時に、私に警告する真理の御霊を内に持っていると言っているのです。真実でない事を聞くと、私の中で赤信号が出ます。時々私は、それが真実ではない事さえ知らない事もあるのですが、ただ「えーと、これをチェックしてみよう。うん、彼らは間違っていた。それは真実ではない」となるのです。それが私たちが子供たちと一緒にした事です。子供が育つと共に、私たちは彼らを家庭教育しました。3人の子供全員に、私がゴミ検出器と呼んでいるものがあります。彼らは知っています。彼らは何かを見たり聞いたりすると、「それは間違っている、そうではない」と判断する事ができます。絶対的な真実である為には、ある特定の事柄がありますが、それらの絶対的な真実の1つに違反する何かを言うなら、それは間違いなのです。「ビーッ」とアラームが鳴ります。それはゴミです。私たちはそれを作り、真理の御霊によって彼らの内に虚偽を検出する能力を子供たちの内に組み込んだので、「その人に耳を傾けないで下さい。これを聞かないで下さい」といつも肩越しに言う必要はありません。ですから、私は彼らがだまされる事を心配する必要はありません。アーメン?しかし問題は、殆どの人がそうしない事です。そして彼らの子供たちは変な、狂った教義でめちゃくちゃになってしまうのです。私たちは真理の御霊を持っています。御霊は恵みの霊を持っています。それは私たちにとって、何を意味するでしょう?私たちは人々に恵みをもたらすべきです。御霊は愛の霊ですから、私たちは人々を愛するべきです。「人を愛する事ができるように、祈ってくれませんか?」と皆さんは言うかもしれません。いいえ。聖書は、皆さんが新生したなら、神の愛は皆さんの心の中に注がれていると言っています。
しかし、そのお方が皆さんの内に住んでいるのです。私たちは真理の御霊を持っています。御霊は恵みの霊を持っています。それは私たちにとって何を意味するでしょうか?私たちは人々に恵みをもたらすべきです。御霊は愛の霊ですから、私たちは人々を愛るすべきです。「人を愛する事ができるように祈ってくれませんか?」とあなたは言うかもしれません。いいえ。聖書は、あなたが新生したなら、神の愛はあなたの心の中に注がれていると言ってます。皆さんが今しなければならない事は、熱意を持って立ち上がり、行ってそれについて何かをする事です。ここに立って祈って神に何かを与えるように頼む方が簡単ですが、皆さんが神に求めているという事実は、皆さんがイエスを知らない人々と、彼らの状態を既に知っているので、求めている愛を手に入れている事を証明しています。ですから今、皆さんがやるべき事を立ち上がってやる事だけが問題なのです。そして、既に皆さんは主を知らない人々について何をすべきかを言われたのです。皆さんは出て行って、全ての被造物に福音を伝えるのです。それが皆さんがする事なのです。「でも、神が私に何をすべきか教えてくれるように祈って下さい」と人は言います。聖書を読んで下さい。主からの一つの言葉があります。皆さんの聖書を読んで下さい。神は皆さんに何をすべきかを教えてくれます。聖書の中で主は言われます。「聖書を読みなさい。」アーメン?聖書は私たちにすべき事を全て教えています。皆さんは「それはどうやって何をすべきかを教えているのですか?」と言います。お腹が空いた人を見かけたらどうしますか?皆さんは彼らに食べ物を与えます。「聖書はあなたの敵に食べさせなさいと言います。」さて、皆さんが敵を食べさせるのなら、友人の場合は、どれだけ多く食べさせるべきでしょうか?そして、それは殆ど全ての人を含みますよね?兄弟が裸で貧しいのを見たら、どうしますか?「祝福され、暖かくなりなさい」と言って立ち去るだけですか?いいえ、彼に毛布を渡して下さい。彼を助けるのです。彼らを祝福し、彼らの必要を満たす為に必要な事は何でもするのです。「私が見る全ての人にそうするなら、私は何も所有できない」と言うかもしれません。それなら皆さんは、エホバ・イルエ(備えて下さる神)を内に持っていません。そうですよね?
備えて下さる神。皆さんは神よりも与える事はできません。皆さんが与えるものは何でも、神は返して下さいます。それは素晴らしい事です。人々はこれらの事を見て、「私は与えているので、取り戻したいのです」と言います。ルカ 6章38節には、「与えるなら、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、懐に入れてくれるでしょう」と書かれています。神が天国からお金を作られるとは言っていません。それは、皆さんが与えるならば、神は人に皆さんに返すようにさせると言っています。そうではないですか?別の聖句があります。それは、皆さんが家や土地、そのようなもの全てを放棄するなら、神は百倍にして返す事を言っています。神はこの人生、そして次の人生、永遠の人生で皆さんに返されます。神は皆さんが与えるものを返されます。こうした神の法則があります。それらの聖句を見る事ができます。私が良いと感じる時、経済についてのシリーズを教えましょう。私はその事について教えるのが好きではないからです。しかしそれは、人々にとって、とても大きな問題なので教える必要があります。経済についての教えは、多くの場合に起こるような、単なる操作ではなく、聖書の教えである必要があります。言っておきますが、私は種蒔きと刈り取りの法則で生きてはいません。種を撒いて、刈り取る事をしないという事ではありません。聖書は、だまされないようにと言っています。蒔くものは何でも、刈り取るでしょう。しかしそれは、お金についての事ではなく、皆さんのライフスタイルについて話しているのです。それは皆さんがどの様に生きるか、物事をどの様に行うかについて話しています。ですから、私は種蒔きや刈り取りで生きていません。私は御国の法則に従って生きています。種蒔きと刈り取りは地上においてです。神は、種蒔きと収穫がある限り、太陽と月、地球がある限り、種蒔きと収穫があると言いました。それは地上の事です。誰でも種をまき、刈り取る事ができます。種を蒔いて刈り取る為に、新生する必要はありません。ですから、種蒔きと刈り取りは、新生するという恩恵とは何の関係もありません。新生の利点は、御国の法則に従って生きる事です。それは、皆さんが御国を得る為に蒔くという事ではなく、皆さんに御国を与える事は御父の喜びなのです。
私は、より多く手に入れる目的で種を蒔きません。殆どの場合、私が与え、種を蒔くと、蒔いたものは戻ってきます。しかし、私は戻ってくる事さえ考えていません。私は一般的に、得る為に種を蒔く事がなく、ただ与えます。私はお金を貸さずに、与えます。私があなたに貸すなら、返済するのを待つでしょうが、返済がないなら、私たちの間に何かがある事になります。しかし、私が与えるならば、返済がなくても、神が返済して下さいます。神が私に返済し、人が返済しないなら、私はそれを取り戻しますが、私と皆さんの間に何も卑しい事はないので、私はそれについて心配する必要はありません。しかし、神が私に返済し、人も私に返済するなら、私が二倍取り戻しているので、それはさらに良い事です。しかし、私は御国の法則に従って生きているのです。聞いて下さい。危機から抜け出す為に蒔く事はできません。種蒔きと収穫があるからです。皆さんが危機に瀕しているなら、それから抜け出す事を考えて、蒔かないで下さい。何故なら、皆さんが必要なのは奇跡だからです。種蒔きと刈り取りは奇跡ではなく、物事の自然なプロセスです。奇跡は皆さんを危機から抜け出す事です。ですから、皆さんは危機から抜け出す為に、その真っ只中において、種を蒔く事はしません。自分が神を信じている事を証明する為に種を蒔きを続けるべきですが、危機から抜け出す目的で種を蒔こうとはしないのです。分かりますか?ですから私は、種蒔きと刈り取りで生きてはいません。私は御国の法則に従って生きています。つまり、私に求める人には誰にでも与えるという事です。誰かが何かを必要とするなら、私たちは何でも与えます。そして私は種蒔きや刈り取りなどについて心配しません。種蒔きと刈り取りについての素晴らしい事は、皆さんが心配する必要がないという事です。種蒔きの法則は自然の法則であり、機能するのです。それはまた、皆さんが貧しい人々に与えるならば、皆さんは主に貸す事になると言っています。そして主は皆さんに返済するでしょう。しかし今、私が貧しい人々に10ドルを与える場合、又は、私が貧しい人々に10万の大金を与える場合、主はそれをローンと見なすので、神の言葉によれば、その与えた額のみを、私に返済する責任があるのです。ですから、私が10万ドルを貧しい人々に与えるなら、神は私に10万ドルを与えて下さるでしょう。
ですから、貧しい人々に与えるものは何でも、神は返されるので、皆さんは何も失いませんし、何も得ていません。元の状態に戻ったのです。別の機会に、私はその全てについて教えるでしょう。時々、人々が献金などについて操作する事を見るのが嫌なので、私はそのような事をしません。しかし実際には、得る為に種を蒔く必要はありません。皆さんが御国にいるなら、全ては皆さんのものです。そして、皆さんが財政に必要とする大きなブレイクスルーの一つは、御国の法則では、皆さんが与える額に比例して戻ってはこないという理解です。皆さんは種を蒔く事ができ、取り戻す事ができますが、鍵となるのは、御国の法則に生きる事です。何故なら、御国の法則では、与えるものがなくても、神は皆さんに与えて下さるからです。言い換えれば、種蒔きと刈り取りの下では、種をまくものがなければ、飢えて死ぬ可能性があります。しかし、御国の法則の下では、飢えて死ぬ事はできません。何故なら、与えるものがなくても、蒔かなくても神は皆さんに与えて下さるからです。どうしてでしょう?神は良い父だからです。鳥は種を蒔きませんが、それでも神はそれらの世話をします。もし神がそうするなら、皆さんはスズメより遥かに価値がありませんか?イエスがそう言われたのではありませんか?それは聖書です。ですから、地上の種蒔きと刈り取りの法則ではなく、御国の法則に従って生きる事を学びましょう。蒔いて刈り取らないと言っているのではありません。種を蒔けば、刈り取ります。それは問題ありません。しかし、刈り取る為に種を蒔く事ができない状態になったとしても、神は皆さんの必要を満たす事を知っておいて下さい。そして、皆さんが与える時でさえ、皆さんが得る目的で種を蒔いていなくても、皆さんは種を蒔いているのです。それに勝るものはありません。皆さんは取り戻す為に期待している必要はありません。種を蒔くなら戻ってきます。それは神が言った事です。アーメン?
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