セッション2
それでは始めていきます。4ページ目の基本的な原則について説明し終えましたが、その前に、次の事を強調しておく必要があります。私達が気が付いた事は、DHTTTを学ぶ多くの人たち、特に他の癒しの教えを受けた人々は、既に他で学んだ事をDHTTの教えに加えようとします。しかし、聖書は何も付け加えられる必要はありません。これから、私が聖書にあるパウロの言った言葉を読むにつれて、私の姿勢を理解してくれると思います。そうである事を望みます。私の姿勢は悪意を持ってのものではありません。
パウロは典型的な説教者ではありませんでした。彼はとても大胆な人でした。イエスに関して際立っていた事、人々がイエスについて言った事は、次のような事でした。「イエスは律法学者たちのようにではなく、権威のある者として教えられた(マタイ7:29)。」皆さんが神の言葉の真理を明確に理解した時に、その真理はある種の態度を皆さんのうちに築き上げます。その態度とは、何でも知ったかぶる態度ではありません。何事にも自信のない人は、自信のある人を見て、彼らはいつも何か偉そうな態度を持っていると考えます。イエスに関しても、パウロに関しても、彼らが際立っていた点は、自分の語っていた事に確信を持っていた事です。
JGLMに関わっている人達の周りにいても、いずれ、そのような態度を見て取れると思います。それは、精鋭気取りの態度ではありません。何故なら、私達は知っている事をシェアしようとするからです。また、自分たちは他人よりも優れているとも考えません。ただ私達は、力ある結果を出す真理を見つけました。それは聖書です。私達の教える事全てを御言葉により裏付ける事ができます。それはきちんと文脈に沿った解釈です。私がJGLMに関わっている人達が好きな主な理由は、彼らはいつも助ける姿勢を持っているからです。彼らは進んで皆さんと共に戦いに参戦する事を望み、何が起きようとも皆さんと戦ってくれます。ですから、うぬぼれた精鋭気取りのような態度を身に付けなければいけないと言っているのではありません。そんなものではないのです。
信仰は態度ではありませんが、ある種の態度を生み出します。それは確信の態度です。それは確信していて、自信のある態度です。しかし、皆さん自身に対して自信があるのでもなく、皆さん自身からのものでもありません。それは皆さんのうちに生きているキリストに対して自信があるというものです(ガラテヤ2:20)。それはちょうどパウロが、「私は私を強くして下さるキリストにより何でもできるのです(ピリピ4:13)。」と言ったようなものです。これは信仰により生み出された態度です。皆さん自身が(肉において)死んでいる事、又、キリストが皆さんのうちに生きていると考えて、それを認める事によりそのような態度は生じます。
私達のメッセージを聞いて、それを受け入れてくれた人々がJGLMの人達です。そのメッセージはとても単純なものです。それは、私達は仕える神の子供達(神の息子)である、というものです。これが要点であり、まとめたものです。私達は仕える神の子供達(神の息子)です。私達の隣人たちに仕える事により、私達は天の父に仕えます。そのようにして神に仕えます。
それでは幾つか覚えておく事があります。第一に、JGLMは教えを混ぜる事はしません。福音を聞いた時に気が付く事は、福音は従う事を要求する事です。福音は、ある事との関係を断ち、福音に従う事を要求します。皆さんが最初に福音を聞いた時には、仏とイエスを信じてもいいですよ、とは聞いていませんでした。つまり、イエスは彼自身だけが真理であり、彼を信じる者だけが救われると言いました。他の可能性はありません。イエスは確信していました。彼は、父への道はただ一つしかなく、彼を通してでなければ、誰も父の元に行けないと言いました(ヨハネ14:6)。そうですよね?それに対してある人はこう言うかもしれません。「それは、頭のとても固い人ですね。」それで良いのです。イエスは正しかったのです。正しいなら、頭が固くても良いのです。
重要な事は自分が正しいか確かめる事です。今週幾つか話していく事柄の中で、幾つかの事を遠慮なく主張させてもらいます。そのうちの一つは、真理は間違いなく、ある程度の分裂を引き起こします。しかし、一致も生じさせます。その真理を受け入れる人達は、互いに一致します。その真理を拒否する人達は分裂します。単純です。イエスご自身が言いました。「私は地に平和をもたらす為に来たのではなく、剣をもたらす為に来たのです(マタイ10:34)。」ある人達は言います。「私達は家族などあらゆるものを分裂させます。」もし福音を宣べ伝えるなら、そうする事になるでしょう。でもそれは何か悪意によってとか、非聖書的なやり方でではありません。ただ、真理は従う事を要求します。福音は、態度が変わる事、考え方が変わる事を要求します。それは考え方を一新する事の一部です。
JGLMは人を崇める事はしません。ジョンG.レイク氏を崇める事もしません。私達がジョンG.レイク氏の名前を使っている唯一の理由は、彼の名前を通して人々が、私達と私達の教えを見つける事ができるからです。ジョンG.レイク氏は、皆さんや私と、何の変りもない人でした。彼は神を信頼しました。私達と同じように間違いも犯しました。私達は、彼は間違いを犯さなかったとも言わず、それを隠そうともしません。私達はこう言います。「彼は間違いを犯しました。しかし、神は彼を用いました。だから神は、私達を用いる事ができます。」唯一完全な人はイエスだけです。ですから、もし完全さを求めるなら、イエスを見て下さい。それ以外の人は忘れて下さい。
また、私達は誰も持ち上げる事はしません。何か特別な賜物や、油注ぎなどは主張しません。それらの事に注目すらしません。私達はただ、私達のうちにいるキリストに目を向けます。彼だけが唯一特別な方です。ただイエスだけを持ち上げます。五職の中にはそれぞれの立場があります。キリストのからだにおける影響力があります。それは神の恵みによるものですが、その人個人ではなく、福音のメッセージの影響力を増す為に与えられたものです。その人は影響力が必要ですが、その影響力はその人が持っている福音のメッセージによるものです。もしその人を取り除いて、同じメッセージを持つ人をその立場につけるなら、同じ影響力が生じます。ですから、私も、皆さんも、ジョンG.レイク氏も特別な人ではありません。イエスだけが特別な方です。しかし私達は全て、キリスト・イエスのうちにいるので特別です。全ての人が特別なら、誰も特別ではありません。イエスだけが特別な方です。
それでは学びに入って行きましょう。今まで話して来た事で、私達がどのような人なのかがよく分かって来たと思います。まず、幾つかの基礎的な事を話したいと思います。最初に第2ペテロへの手紙を見ていきましょう。2ペテロの1章1節からです。こう書いてあります。「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。」私達のうち何人が「同じ尊い信仰」を受けましたでしょう?つまり、私達は信仰に立っており、イエスを信じているという事です。皆さんの事です。ここでペテロは皆さんに向けて書いているのです。この言葉は皆さんのものです。2節では「恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」と書いてあります。どのように、恵みと平安があなたの上にますます豊かにされるかに気が付いて下さい。神はそれらのものを自動的にあなたの上に増す事はしません。それらのものは、神とイエスを知る事によって、あなたの上にますます豊かにされます。ですから、恵みと平安を増し加えられる為には、何かを知らなければいけません。それは、「神と私達のイエスを知る事によって」です。では3節。「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知った事により...」(*直訳は「知識によって」。前節にあるように、私達は神の知識を増し加える必要があります。)ですから、これらのもの(命と敬虔に関する全て)が与えられたのは、私達の行いによるのではなく、イエスがしてくれた事によるのであり、彼の力によるという事です。そのこれらのものとは、「命と敬虔に関する全ての事」です。聖書にはそう書いてありますよね?ここに書いてる事に注意を向けて下さい。一語一語見てみましょう。聖書を理解する上での秘訣は、ゆっくり読む事と、一語一語全ての言葉を読む事です。シンプルですよね?そして、3つ目は、勿論、きちんと文脈に沿って読んでいるかに注意するという事です。
「主イエスの、神としての御力は、命と敬虔に関する全ての事を私たちに与えたからです。」(*原文のギリシャ語では完了形になっています。)「与えた」とはどういう意味でしょうか?これから将来に起ころうとしている事ではありません。既に起こった事です。「与えた」とあります。という事は、既に与えられたという事です。誰に対してでしょうか?それは私達にです。同じ尊い信仰を受けた人達です。それは皆さんです。そうですよね?ですから、皆さんに何かが既に与えられているという事です。その何かとは、「命と敬虔に関する全ての事」です。私達は、命と敬虔に関する事で持っていないものは何もないという事です。分かりますか?つまり、私は皆さんに、もう何も与える事はできないという事です。私のできる事は皆さんが既に持っているものが何であるのかを見せる事です。
例えば、私がアップルストアの店員だとして、皆さんが店に来てこう尋ねたとします。「これはどのように使ったらいいのですか?」それに対して私は言います。「ちょっと見せて下さい。ここです。ここからアプリをダウンロードできます。」それに対して、皆さんは言います。「ああ、それでいいんですね」という感じです。
必要なものは既に皆さんは持っていました。既にそこにあったという事です。店員として私がした事は、皆さんにそのアプリを得る方法、そして、それにアクセスして、そのアプリの使い方を教えるだけでした。つまり、私の役割は皆さんに何かを与えるというものではなく、既にあるものを明らかにして示す事です。それが五役者の役割です。五役者の目的は私達を整える為です。それがエペソの4章に書いてある事ですよね?それは皆さんを整える事であり、キリストのからだを整える事です。しかしピリピには、「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの全ての必要を満たして下さいます」と書いてある事に注目して下さい(ピリピ4:19)。ですから、私達の必要は、私達の行いによってではなく、キリスト・イエスにある神の栄光の富によって満たされるという事です。神が私達の必要を与えてくれます。五役者は私達に何かを与える事はしません。彼らは私達を整えます。つまり、彼らは私達に既に供給されたものの使い方を教えてくれるという事です。
たとえば、軍隊には新兵を訓練する下士官がいます。下士官は私達(が新兵だとして)に何も与えません。政府が私達に武器やユニフォームなど必要な道具を与えます。私達の必要なもの全ては政府が与えます。下士官は政府が供給した武器を装備させて、それらの使い方を私達に教えます。それが五役者のミニストリーです。神は必要なものを与えます。五役者は私達を整えます。先ほど読んでいた聖書個所に戻りましょう。「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知った事によって、主イエスの、神としての御力は、命と敬虔に関する全ての事を私たちに与えたからです(2ペテロ1:3)。」
2ペテロ1:4には、「その栄光と徳によって、尊い、素晴らしい約束が私達に与えられました」と書いてあります。(ギリシャ語では「複数の約束」)何故、神は私達にそれらの約束を与えてくれたのでしょうか?それは、「私たちをご自身の栄光と徳へお召しになった方の知識を私たちが得た事によって、主イエスの、神としての御力は、命と敬虔に関する全ての事を私たちに与えた」からです(より正確な訳に訂正)。私達が神の知識を得る為には、その知識を得る為の神からの約束が必要です。神が私達に得て欲しいご自身に関する知識の事です。ですから、一度それらの約束が何であるのかが分かれば、神が私達に得て欲しいと願う、ご自身に関する知識を知る事ができます。そして、その知識により恵みと平安が私達に増し加えられます。それがこのセミナーに参加する特権でもあります。恵みと平安があなたに増し加えられます。自分の力で神のわざを行おうと奮闘しなくなります。何故かと言うと、平安が増し加えられるからです。その理由は、私達がするべき全ての事を行う為の方法は安息に入る事であると分かるからです。神の安息に入る事が秘訣です。
もし皆さんが問題があって、歩むべき神の約束にあずかって歩む事ができていないなら、その理由は、一生懸命になり過ぎているからです。イエスの重荷は重くはありません(マタイ11:28-30)。イエスのように歩むのは難しい事ではありません。秘訣は私達が神の安息のうちに入る事です。自分自身のわざを止めて、神のわざのうちに入る事です(へブル4:10)。素晴らしい事に、神のわざは創世の初めから既に終わっているという事です(へブル4:3)。
量子力学には時間というものはありません。多くの人たちは病人を癒そうと努力したり、「この人を癒す為に、又は、自分自身が癒される為には何をしたらいいだろう?」と考えると思います。彼らは癒しを未来の事にしています。しかし、癒しの為の代価は2000年以上前に既に支払われました。2000以上前の時点で、癒しは既に完了しました。癒しの為の代価は支払われたからです。私達は誰も癒す事はしません。何故なら、キリストの打ち傷によって私達は癒されたからです。ですから、癒しは既に完了しています。だから、私達は誰も癒そうと試みる事はしません。重要な事は、私達が今この時に、そのように状況を見る必要があるという事です。神のわざは創世の初めから既に完了しているという事です。ですから、癒しの為の代価は十字架のわざにより支払われて完了しました。しかし、そのわざでさえ創世の初めから宣言されており、(神からすると)終わっていたという事です。
十字架のみわざの時点で、神は既にご自分のわざを終えていたのなら、イエスが直面した問題の解決の為の代価は既に支払われており、その解決は既に与えられていたという事です。つまり、歴史の年代記の上ではそれらの出来事は既に全て書かれており、既に完了した事実として確立されていたという事です。
この考え方を念頭に入れて、ヨハネ9章の出来事に適用してみて下さい。弟子たちがイエスの元に来て、「誰が罪を犯したのでしょうか?」と尋ねたのを覚えていますか(ヨハネ9:1₋2)。彼らが生まれつき盲目の人を連れてきて、「誰が罪を犯したのですか?彼自身ですか?それとも彼の両親ですか?」とイエスに尋ねたのを覚えていますか?イエスは答えました。「誰でもありません(ヨハネ9:3)。」ここより、病気やわずらいや盲目は全て罪によりもたらされるものでない事が分かります。問題の根本的な原因として罪を捜しなさいと教えられているなら、そのうち一生かかって問題の原因である罪を捜しても見つからないケースに直面する事になります。何故なら、その問題はその人の罪によりもたらされてのではないケースだからです。その場合、前提が間違っているのです。
では、イエスの視点から見てみるとどうでしょうか?弟子達は尋ねました。「誰が罪を犯したのですか?彼自身ですか?それとも彼の両親ですか?」そして、イエスは答えました。「誰が罪を犯したのでもありません。」ここでイエスは既に彼らの質問に答えました。しかし、多くの人はさらに付け加えて、イエスの答えであるかのようにします。イエスは続けて言いました。「神のわざが彼のうちに現される為には、私がそれをしなければいけません(ヨハネ9:3₋4)。」しかし私達は、「この人が盲目で生まれたのは、私が彼を癒す事ができる為です」とイエスが言ったのだと勘違いします。そうすると、自動的に私達は盲目である責任を神に押し付けます。イエスがこの盲人を癒して栄光を受ける事ができる為に彼を盲目にしたのだと考えます。このヨハネ9章で起きた事はそういう事ではありません。もし、私達が行う全てのわざは既に神にあっては確立したものであり、それらは創世の初めから既に終わったものであると分かれば、私達がどのような問題に直面しようと、神のわざが現れる事が明らかであれば、その場にいる間に、そのわざをしなければいけません。この問題に対する姿勢の違いが分かりますか?これがイエスが確信をもっていた理由です。イエスは決して、「この盲人が癒される事は神の御心でしょうか?」というように心配はしませんでした。第一に、盲人が癒されるのは神の御心でした。何故なら、イエスがその場にいたからです。「もし私が問題に直面するなら、それを解決する事は神の御心である」という考え方を持つ事を想像してみて下さい。これはとてもシンプルな物事の捉え方だと思いませんか?つまり、皆さんが何処に行こうと、何に直面しようと、その問題を解決する事は神が既に定めた事であるという事です。何故なら、皆さんがその場にいるからです。皆さんがその問題を解決するという事です。ここで話している事が分かれば、残りの教えの中で、何故今話している事が現実であり、それが事実である事が明らかになっていくと思います。
2ペテロ1:4には、「その栄光と徳によって、尊い、素晴らしい約束が私達に与えられました」と書いてあります。何故でしょうか?「それは、あなた方が、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる為です。」次に注目して下さい。「それは、あなた方が、その約束のゆえに、…神のご性質にあずかる者となる為です」と書いてあります。イエスは神の言葉が人となったお方でした(ヨハネ1:1‐14)。イエスは、この聖書と呼ばれる一つ一つの聖句が人となったお方である事を私達は知っています。彼は御言葉が人となったお方でした。
聖書の全ての聖句を人間のDNAにたとえる事ができます。人間のDNAには様々な鎖のようなものや部分があります。ひねった梯子のような二重螺旋構造があります。そのうちの1本でも欠けると遺伝子的な問題を引き起こします。例えば、染色体が一つ足りないとダウン症が生じます。ここで説明したい事は、この聖書の聖句一つ一つがイエスのDNAであるという事です。聖書はこれらの尊い数々の約束により、私達は神の性質にあずかる者となると言っています。ですから、これらの聖書の言葉が私達を神の性質にあずからせる事のできるDNA(Divine Nature Attributes)です。
この聖書の聖句の一つ一つを取れば、それは神の性質の一部であり、キリストの性質です。私達が、「あなた方のうちにいる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです(1ヨハネ4:4)」と言うのなら、それがキリストの内に見られる性質ではないでしょうか?つまり、キリストはそのように考えたのではないでしょうか?イエスは、父は彼のうちにおり、彼と共にいると言いましたよね(ヨハネ10:38など)?イエスには恐れはありませんでした。彼について際立っていた事の一つは、敗北の可能性を一切認めなかった事です。又、父のわざを成し遂げる為の信仰が十分ないかもしれないという事すら考えませんでした。聖書を読むとイエスがとても大胆であった事が分かりますが、興味深いのはその大胆さしかし、権威でもなく、彼がいかに簡単に父の御心を行って歩んだかという事です。イエスは決して御心を行う為に悪戦苦闘しませんでした。決して心配しませんでした。決して緊張しませんでした。彼の周りにいた人達は緊張しました。周りの人々は神経質になっても、彼はリラックスしていました。クリスチャンの歩みもイエスのようであるべきです。
もし皆さんが緊張しすぎて力むなら、心配しているという事です。もし手をこまねいて、手を合わせて、「どうしたらいいだろうか?医者は救いようのないと言っている」と言うなら、祈るのを止めて下さい。何故なら、その祈りは時間の無駄だからです。信仰に立っていないからです。信仰は安息に入る事です(へブル4:3)。もし皆さんがそのように心配している状態なら、その状況に関して祈る事を止めて、他の人を見つけて下さい。医者が救いようがないと言っていても、「分かりました。行って祈りましょう」と言う人を見つけて下さい。そして、その人が祈る時には皆さんは黙っていて下さい。いいですか?何故なら、信仰に立っていない祈りは、何も力を加える事ができないからです。冷静で、落ち着いている人に祈らせて下さい。大抵の場合、興奮している人は安息に入っていないからです。信仰は安息です(リラックスします)。へブル書の3章と4章を読むと信仰は安息であり、どのように神の安息に入るかが書いてあります。安息の内には信仰によって入るのであり、不信仰によってではありません(へブル3:19)。ですから、この聖書の言葉が目に見える現実よりもリアルなものであると決心しなければいけません。この聖書の言葉が、直面している何事よりもリアルなものとなった時に、私達は信仰にあって歩んでいる事を知る事ができます。つまり、聖書の「キリストの打ち傷によって、あなた方は癒されたのです(1ペテロ2:24)」という言葉が、人の体にある病気よりも皆さんにとってリアルになる時、病気に対して「お前は去れ」と命じるとその通りになります。
こう言う人もいるでしょう。「助けてくれませんか?」そして、私は答えます。「分かりました。問題は何ですか?」その人は言います。「~という病気なんです。私は言います。「本当ですか。分かりました。では、何が望みですか?」その人は私の顔を見てこう答えるでしょう。「何言っているんですか?今言ったではないですか。私は~の病気なんです。」私はそれに答えて言います。「あなたはただあなたの持っている病気を伝えただけです。何が望みですか?癒されたいのですか?」その人は答えるでしょう。「もちろん、癒されたいです。」私は言います。「分かりました。ただあなたの望む事を教えて下さい。では、あなたの言った通りになるように。」何故、このように言うのでしょうか?それは、私は神の代理人だからです。私は神の大使です(2コリント5:19)。ですから、私が誰かの願いを受けるなら、私は神の代わりにその願いに応じるか、応じないかを決める権利があります。
しかし実際には、私にはその願いに応じないと決める権利はありません。何故でしょうか?それはキリストのにあって、全ての神の約束は「しかり」であり、彼にあって「アーメン(そうなるようにという意味)」だからです(2コリント1:18-20)。私は、キリストの代理人として言わんとする事しか言う事ができません。イエスがこの地上にいたらどのように振る舞ったでしょうか?福音書に記されている中で、イエスがどのように行動したのかというと、イエスは昨日も、今日も、とこしえに変わる事はありませんでした(へブル13:8)。つまり、彼は誰の願いを拒否もされませんでしたし、追い返す事もしませんでした。ですから、私もイエスと同じ事をしなければいけないでしょう。私は願う人を追い返す事も、拒否する事もできません。
例えば誰かがやって来て、「癒しが必要です」と言えば、私はただ「分かりました。癒されよ」と言うだけです。それだけで良いのです。結果を出すのに重要なのは、どのような言葉を言うのかではなく、祈りの型でもなく、感情でもありません。既に癒しは完了しているという事実に根ざして、そこから動かない事です。多くの人は、癒しを得る為に何時間も運転して、大金を払ってやって来るので、それに見合った分の祈りを期待します。彼らは言うでしょう。「せっかく3時間もかけて運転して来て、お金もかかったし、ホテルにも泊まる必要がありました。だから、ただ「癒されよ」だけは足りません。他にも何かをして下さい。」彼らは私に魔術師のようになって欲しいと思っているのです。踊ったり、水を振りかけて、呪文を唱えるような事を望んでいるのでしょう。彼らは、「いや、そんな事ありません」と言うかもしれません。私は数多くの人々の為に祈ってきたので、そのような人達が何を要求するのか知っています。何故なら、私が「何が望みですか?」と言えば、彼らは「癒される事です」と言います。そして、私が「分かりました。イエスの名により、癒されろ」と言い、振り返って去ろうとすると、彼らは私を見て、「え、それだけですか?他に何もしないのですか?」と考えます。
その時に重要なのは、癒される人が信じる事ではなくて、私が信じる事です。もし私がただ「癒されろ」と言うだけで、信じる事ができるのなら、彼らの癒しに必要なのはそれだけです。私は彼らの信仰を求めてはいません。彼らの信仰には頼りません。私は自分の信仰により歩みます。いいですか。今から説明する事を良く理解して下さい。重要なのは、皆さんがどれだけの量の信仰を持っているかではありません。イエスは、私達がからし種程の信仰を持っているなら、その山に向かって言えば、それはあたなの言う事に従うと言いました(マルコ11:22-24)。ですから、重要なのは信仰の量ではありません。私達の信仰に関する考えは、ねじ曲がったものになってしまっています。それを変えなければいけません。
ここで話しているセミナーのCDかDVDを購入する事をお勧めします。そして、その中で話している事柄についてよく考えて、思いを巡らせてみて下さい。約束します。それらの事柄の一つでも本当に理解するなら、残りの人生をキリストにあって与えられた、自由にあって歩んでいく事ができるでしょう。全ての事柄を知らなくてもよいのです。ここで話している一つの事でも理解するなら、それが自由をもたらすでしょう。今から、恐らく最も重要な事柄の内の一つについて語ります。信仰とは量に関してではありません。信仰は皆さん自身から出ているもの(生み出したもの)ではありません(使徒3:16、ローマ10:17)。重要なのは信仰自体ではありません。重要なのは皆さんがどこに信仰を置いているかです。分かりますか?
神はあなたを見て、「どれだけの信仰がありますか?」とは問いません。神の関心事は、「あなたの信仰はどこにありますか?何に対して信仰を持っていますか?私に信仰(信頼)を置いていますか?」という事です。それが神が尋ねている事です。皆さんは何に信仰を置いていますか?はっきりと言いますが、多くの人々は神に対して信仰を持ってはいません。私の祈りに対して信仰を持っています。何故なら、もし私が祈るなら、癒されると信じているからです。彼らは神に対して信仰は持っていません。もし神に対して信仰を持っているなら、私の所にまで来て祈ってもらう必要はありません。直接神から答えを受け取れるからです。それが神の御心です。神はそちらの方を好みます。しかし、もし皆さんが神に対して信仰がなく、私の所に来れば祈ります。そして、癒されます。何故でしょうか?それは皆さんの信仰は私の祈りに対してあるからです、これが分かりますか?
私の信仰は神にあります。私は皆さんに対して信仰は全くありません。こういうのは皆さんを目を覚ます為です(笑)。本当の理由は、聖書には「他人を頼りにするな」と書いてあるからです(詩編118:8、エレミヤ17:5)。何故でしょうか?それは人はいつもどこかで皆さんを落胆させる事になるからです。もし皆さんが他人に対して信仰を持つなら、いつも落胆させられる事になります。しかし、もし神に対して信仰を持つなら、人々が皆さんに何をしようと、落胆する事はありません。
皆さんの信仰が神に対してであるなら、皆さんが失望されられる事は決してありません(1ペテロ2:6)。それが信仰の秘訣です。秘訣は、皆さんにどれだけの量の信仰があるのかではなくて、信仰をどこに置いているかです。例え、世界中の全ての信仰を持っていても、皆さんの信仰が他の人に置かれているのなら、その信仰は失望に終わる事になります。何故なら、彼らはいつか皆さんの期待を裏切る事になるからです。しかし、からし種ほどの信仰があり、それを神に置くならば、皆さんの必要は全て満たされます(マタイ17:20、ルカ17:16)。あなたの言う事は何しかし、そのとおりになります(マルコ11:22-24)。皆さんの祈りは全て答えられます。手を置く病人は全て直ります。何故でしょうか?それは皆さんの信仰が神に置かれているからです。それには多くの信仰は必要ありません。ですから、信仰において重要なのは量ではなくて、どこに信仰が置かれているかです。大きい信仰ではなくて、大きな神に対する信仰が重要なのです。ですから、秘訣は神に対する信仰です。
多くの人は自分の信仰に信仰を置いています。ですから、彼らの信仰は失望に終わります。しかし、皆さんの信仰が神に対して置くのであれば、神がどれだけ大きなお方で、どれだけ善なるお方であるかを信じる事になります。多くの人が癒しを受け取るのが中々できない理由は、彼らが神の力を信じていないからではなくて、彼らが神が癒してくれる事を望んでいるかどうかの確信がないからです。それはまるで、政府に対する信仰のようなものです。「政府は~をする事ができると信じていても、実際に~をしてくれるかどうかは分からない」というようなものです。
多くの人は神が「できる」という事に関して、問題を持っていません。神が神であられるのは、何でもできる全能のお方であるからです。全能であるという事は、神である事の要素の一つです。神には何でもできます。神に対する信仰に関して問題が生じてくるのは「神はそれを望んでいるか?」に関しての分野です。「果たして神は~を願っているのだろうか?」というような分野です。ですから、癒しのセミナーの内容の主なものは癒し自体に関してではなくて、大部分は神の御心に関して、つまり、神は自分の言った事を必ず成し遂げる方である事を教える事です。
もし私が皆さんに、「神はご自分の言う通りの事を意図している」と信じさせる事ができるなら、聖書から学ぶ事は何でもその通りになります。何故なら、聖書が真実だと知る事になるからです。それは皆さんが、「神は約束を守る」という、神に対しての信仰を持っているからです。ですから、癒し、解放、繁栄、何に関して学ぼうと、結果は同じようにもう決まっています。つまり、神は聖書のそれらに関する約束を守られるという事です。そうなると重要なのは、「神は果たしてそう言ったのか?」という事になります。つまり、神の御心であるかどうかの問題ではなくなります。神の言われた事は彼の御心です。もし神が、するつもりでもない事をすると言うのなら、神は嘘つきであるという事になります。神は何かをすると言いながら、それをしないと選択する事はできません。何故なら、約束を破る事になるからです。私達が、神よりも人間の方が約束を守ると考えてしまうのは悲しい事です。
ある人は、「神は全能だから、彼は自分の言葉を破る事もできます。神は主権者だから自分の言葉を破ったとしても問題ないです。彼は何でもできます」と言うかもしれません。いいえ、それは神の主権ではありません。神ができる事は、ご自分でそれをすると言われた事です。私が契約に署名するなら、私はその契約を守らなければいけません。もし私がその契約を守らないなら、私は嘘つきであり、契約を破る事になります。私は信頼できない人になってしまいます。人も神も、その人が良い人であるかどうかは、その人がどれだけ自分の言葉に忠実であるかにかかっています。誰でもその人が良い人であるかどうかは、その人がどれほど自分の言葉を守るかによります。神がどれほど良いお方であるかどうかは、彼が自分の言葉にどれだけ忠実であるかによります。神の主権とは、「誰かに対して約束を守るか、守らないかを選べる」というようなものではありません。もしそれが本当であれば、私達は救われているという信仰の土台を持つ事はできず、「救うと言いましたが、ただのジョークでした」と神が言う事になってしまいます。
神の言葉は真実であるか、そうでないかしかありません。神は神であるか、神でないかしかありません。神の主権は、「永遠に変わらない真実のみを書く事ができる予知を持っていた」という事です。それが神の主権です。そして、それらの事柄を聖書に書かれました。ある時点で「契約を更新します」と神が言わない限り、それらの言葉を破る事はできません。神がそのように契約を更新した時には、その契約を縮小せずに拡大させました。
例えば、イエスがガリラヤやユダの町々を巡っていた時に、一人の女性がイエスのみもとに来た時、「子犬に子供達のパンを与えるのは良くない」と言われました(マタイ15:26)。その時点では、イエスはイスラエルの失われた羊の所にしか遣わされていない、と言いました(マタイ15:24)。考えてみて下さい。もしその時に言った事が今もそのままなら、私達はイスラエルの失われた羊ではないので、救われる事はできません。しかし、その時点では、イエスの地上でのミッションは始まったばかりでした。十字架にかかり、復活した後には、彼は弟子たちに、「全世界に出て行き、あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えて、彼らを弟子としなさい」と言われました(マルコ28:18-20)。
イエスがその時にした宣教活動の規模は最小限のものでした。後に、宣教活動の規模を拡大しました。彼が古い契約を新しい契約に更新した時に、宣教活動を一部の特別な人だけにしないで、規模を拡大して、多くの人々が参加できるものにしました。何故でしょうか?それが神のやり方だからです。アブラハムの頃からそれは変わりません。神は契約をまず一人のアブラハムから始め、彼の一人の子孫(キリスト)へと拡大して、それから最後には、この世の全ての人達が新しい契約にあずかる事ができるようにしました。何故でしょうか?それは神はそのように偉大で心の広い方だからです。物事を排他的には行いません。より多くの人が参加できるようにするのです。人々を切り捨てるのではなく、包括的に扱うお方なのです。
しかし、神の用意した者にあずかる為には、人々は神に同意して、神の元に来なければいけません。これから皆さんは気づくでしょう。神が成された事は、この世の基の置かれる前から、既に定められていた、既に成されていたという事です。ですから肝心な事は、神の力、神の御言葉、神の御心にあって歩むという事は、皆さんの肉的な部分とは何の関係もないという事です。つまり、皆さんは自分自身の肉において死に、キリストの内に隠されて、もはや自分が生きているのではなくて、キリストが皆さんのうちに生きるという事です(コロサイ3:3₋4、ガラテヤ2:20)。皆さんの命はキリストの内に隠されています。そして、皆さんの外側に見えているのはキリストです。それは思考(知性)の一新により可能になります。神は思考の一新について、ローマ12:1₋3で、はっきりと語っています。そこでは「この世と調子を合わせてはいけない。」つまり、この世に皆さん自身を形造らせてはいけませんと言っており、「思考の一新により、自分自身を変えなさい」と言っています。
このポイントは最も重要な所です。皆さんが変わるのは、按手によるのでもなく、祈りによってでもなく、祝福などのようなものによってではないという事です。皆さんの人生、皆さん自身が変わる唯一の方法は、思考の一新であると言っています。それがただ一つの方法です。他にはありません。ここ以外の聖書個所で、自分自身が変わる事に関しては、どこにも書いてありません。それが理由で、皆さんの人生は、新生する前とあまり変わっていないのです。つまり、皆さんの思考は、「地獄に行かないでもいい為の保険」として、イエス・キリストを救い主として受け入れた程度にしか、一新されていないのです。
しかし、思考がさらに一新されれば、もっとキリストのように歩むようになり、キリストにあって与えられている特権に、もっとあずかっていく事になります。いいですか、よく聞いて下さい。このセミナーの要点は「キリストの内にあって」という言葉にまとめる事ができます。どれだけ断食するか、祈るか、などに力があるのではありません。それらをしないように言っているのではなく、それらは皆さんが自分自身の肉に死ぬ事を助けます。自分自身の肉に死ぬ事が秘訣です。キリストが盛んになる為に、私達は衰えなければならないのです(ヨハネ3:30)。
断食や祈りは自分自身の肉に死ぬ事を助けてくれますが、「おお神よ、私はあなたが~を私に注いで下さるまで、~を下さるまで断食や祈りなどをします」というようなものではありません。何故なら、今、全ての必要、命と敬虔に関する全ての事はあなたの内に既に与えられているからです(2ペテロ1:3₋4)。ですから、皆さんの内にあるものが外側で見えるようになる為に、思考の一新があります。それにより、まだ残っている肉の自分をたまねぎの皮のようにどんどんむいていく必要があります。そして、十分に自分の肉がむけると、キリストだけが外側に見えるようになります。キリストがあなたの内において解放される度合いに応じて、外側にも見られるようになります。分かりますか?ですから、これら全ての事は「キリストのうちにある」という点に戻って来るのです。
イエスは命を得る為の唯一の方法は、自分の命(psuche=人生)を捨てる事だと言いました(ルカ17:33、マタイ10:39)。しかし私たちはこう言ってきました。「もし問題があるなら、イエスのもとに来なさい。私達があなたの人生を立て直してあげましょう」それは反キリスト的な事です。わかりますか?誰も自分の人生を直す事はできません。もしそうであったなら、イエスは死ななくても良かったはずです。psucheの命(人生)が直される必要があるのではなく、肉の自分に死ぬ必要があるのです。それを聞くと大半の人々は、「しかし、それは既に私が新しく生まれた時に起きました」と言うでしょう。確かに、自分に死ぬという事が、新生した時に起きる必要がありますが、多くの人々は、自分に死ぬ事はしません。それが、教会にいる多くの人々は新生していないという理由です。彼らはキリストにあって生きてはいません。彼らはただ自分の努力によって、天国に入ろうとしている罪人だと自覚してる人達です。彼らがそのような事をしている理由は、自分の罪を自覚しており、自分の努力によってその罪を取り除こうとしているからです。
それを取り除く事はできないと知りながらも、自分の良い行いによって罪を軽くしようとしているのです。彼らは神の御前に立つ時に、自分の良い行いによって、罪が軽くなり、神が憐れみを示して、天国に入れてくれる事を期待してるのです。これが大半の偽の宗教の基盤です。殆ど全ての東洋宗教の基盤はこのようなものです。神は、この点を本当に明確にされています。エゼキエル書、民数記、出エジプト記で言われました。後でそれを見せましょう。それはDHTT(神癒技術者訓練)マニュアルでは家系の呪いのセクションにあります。出エジプト記37章に書いてあります。そこで神は、罰すべきものは必ず罰する(KJVでは、有罪宣告を取り去る事はない)と言っています(出エジプト記 34:7)。
多くの場合、人々はキリスト信じた時に、神はその人の罪を取り去って、その人自身を無罪にしたと考えます。しかし実際には、神はその人の有罪宣告を取り去る事はしませんでした。キリストのうちに入る為に皆さんは死にました。それがパウロがもはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのですと言った理由です。(ガラテヤ2:20)有罪宣告を受けた人は、死ななければいけません。死ぬという事です。第二コリントの5章17節には、「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と書いてあります。何故でしょうか?古い人は過ぎ去ったからです。パウロは言っています。「全てのものが、全ての古いものが、過ぎ去りました。見よ全てのものが新しくなりました。そして、それらの全てのものは神から出ているのです。」有罪宣告を受けた皆さんの一部は死にました。何故でしょうか?それは、有罪宣告を受けた人は死ななければならないからです。皆さんが自分の罪にあって死ぬのなら、確かに自分の罪にあって死にます。しかし、もしキリストを信じる事によって死ぬのなら、皆さんは死んで、キリストが皆さんのうちに生まれるのです。そして皆さんは新しい人なので、過去の罪との関わりはありません。皆さんは全く新しい人なのです。有罪宣告を受けた人(古い人)は死にました。皆さんはもはや有罪ではありません。何故なら、皆さんはキリストのうちにおり、もはや皆さんが生きてるのではなく、キリストが皆さんのうちに生きているからです。そして皆さんは新しい創造だからです(ガラテヤ6:15)。キリストにあって生まれ、キリストのうちに、全ての勝利があります。キリストのうちにあって、全てのものが与えられています。全てのものは、彼のうちにあるのです。
ですから、皆さんが自分自身になろうと、注目を浴びる為に誰か特別な人になろうと、今の時代の油注がれた者になろうとして、キリストのうちから頭を出してしまうなら、その時、悪魔は皆さんを非難して打とうと待っています。何故そうなるのでしょうか?それは、皆さんの(古い人)は未だに有罪宣告を受けてるからです。分かりますか?重要な事は、キリストのうちに隠されて留まっている事、自分の名声を建てるのではなく、イエスの名を高く上げる事です(コロサイ3:3)。皆さんがする事は、自分のわざではなく、キリストのわざです。ですから、どれだけの信仰を持っているかは関係ありません。重要なのは、その信仰が皆さんをキリストのうちに入れたという事です。そしてキリストのうちにあって、全ての神の約束は、病人に手を置く事、異言で話す事など全ての約束は「しかり」となり、アーメンとなりました(2コリント1:19-20)。分かりましたか?
今私は、皆さんにこのセミナーの要約をしました。ですから、帰っても大丈夫です(笑)。もし、もっと明快に理解する必要があるなら、これから三日間のセミナーの中でそれを説明していきます。私たちは、キリストにあって皆さん何が与えられているのかを説明していきます。今私は、外見は落ち着いてるように見えると思いますが、私の霊のうちでは、燃えています。それは、これから皆さんが、私が話そうとしている事を理解する事になるからです。これを理解する時に、よりキリストのように歩むようになり、そのように歩んでいく事によって、人々は皆さんのうちにキリストをもっと見ていく事でしょう。そして、様々な事が容易になっていくと思います。皆さんがキリストにあって歩み始める時、神の性質が支配し始めます。皆さんは御言葉にあって歩み始め、これらの約束(御言葉)によって神の性質にあずかるものとなっていくでしょう(2ペテロ 1:1-4)。
平安、恵み、力など全てのものはキリストのうちにあります。「キリストのうち」にです。誰か特別な人になるのでもなく、何か新しく得るのでもありません。重要なのは、自分(古い人)に死んでいく事、そして、キリストが皆さんを通して生きる事です。そして実際に、これからどのように皆さんの人生のうちでそれを実践していくか説明して行きます。では休憩にして、10分後に戻って来ましょう。
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