セッション9
さて、続きを始めましょう。こんな質問を受けました。「古い人はどのように死ぬのでしょう。又、どうすれば本当に死んでいると分かるのですか?」その大部分は、御霊の内に歩んでいるなら、肉の欲を満たす事はないという事に関連しています。御霊の内に歩むとは、神の御言葉を実践する事です。それほども簡単な事なのであり、聖書を実行に移すという事で、きわめて実践的です。私たちが「自己に死ぬ」と言う意味は、厳密に言うと、「自分が死んだ者」と見なすという事です。それは、御霊の内を歩む事によって意識して、肉の欲を満たさぬよう努める事であり、御霊の内に歩むには、神の言葉がしなさいと言っている事を、実践しなければなりません。病人を見たら手を置く事を含めて、あらゆる事を。肉は幾つかの理由により、そのような事をしたがりません。第一の理由は恥ずかしいからです。自分の快適ゾーンを出て、一歩を踏み出すのは難しいものですが、それら全てが死ぬ事の一部なのです。皆さんは自分の願望よりも御言葉を選びました。肉の自分ではそれを望んでいないにも関わらずです。それと同じ事です。
私は何年も前に誓いを立てました。気づいた時にはいつでも、神と共に状況に対処すると。具体的な例としては、施しを求める人々に与えると決めたのです。そして私は努めて、そのような人々に与えてきました。彼らがそのお金を何に費やすかに関係なく。人々は言います。「あなたは賢い管理者ですか?」ええ、肝心なのはこの「管理者」という言葉で、お金は私のものではないのです。お分かりですか?だから与えてしまう事ができるのです。すると人々は言います。「ああ、あなたは賢い管理者であるべきです。」賢い管理者になるとは、そのお金を用いて神がするようにと言われた事をする事であり、しかも神は求めてくる人全員に与えなさいと言われています。お分かりでしょうか?ですから、私はこうすべきとか、ああすべきでないといった規定の下には生きていません。新しい律法の下にすらいません。いいですか、私は古い律法の制約の下から抜け出したのです。新しい律法、イエスが私たちに与えられた新しい戒めとは、神を愛し、自分と同じように仲間を愛する事、つまり、人からして欲しいと思う事を他の人にもするという事です。それが新しい律法です。自分を愛するように隣人を愛する事が。そう、愛するのです。神が私たちに与えられている新しい戒めは愛です。それで聖書には、愛の律法、最高の律法について書かれているのであり、ローマ人への手紙にはこうあります。私たちはこの愛の律法によって生きているが、愛の律法は「従わなければならない」律法ではなく、むしろそれによって生きる事を特権と思わせるような律法であると。分かりますか?何故なら、変化が起きているからです。ですから私は、「これをしろ、あれをするな」といった、すべき事やすべきでない事に従って生きてはいません。むしろ、神の御言葉が命じていると分かっている事に従って生きています。無意識の内にそれを自分の思いや生活の中に組み込んでおり、それが行動に表れるのです。
これらの尊い約束を聞いて、それらによって行動し、生活の中にそれらを組み入れ始め、消化して自分の一部にしてしまうにつれ、肉の思いはますます新たにされ、古い人が死んでいきます。聞いて下さい。ここで区別しなければならない一つの事とは、立場と経験の違いです。私たちの「立場」において、それは全て終わっているのです。内面において、キリストにあって、神にあって、それは全て成されています。そして私たちの「経験」においては、私は今の肉の自分を、霊の自分と一致させつつあるのです。その違いとは、一方は立場上のもので、他方は経験上のものなのです。いいですか?神の子としての私たちの「立場」は霊的に見ているので、以前の方法やこれまでしてきた事から考える事はしません。ところが、現時点での「経験」から見るなら、過去の体験や古い人の視点から考えてしまうのです。公共の場である人に歩み寄って、その人の為に祈りたいと思っているのに、やっぱりやめておこうと決める時、皆さんの思いの中で、次のような戦いが起こっているのです。「以前これをして、上手く行かなかった。もう恥ずかしい思いはしたくないから、やめておこう。」それが古い人の主張です。全てが思考の中で起こっているのです。皆さんの思考は部分的に新たにされただけで、残りは古いままです。古い人が新しい人と言い争っているのです。
さて、古い人は死にました。死人といっても、存在しなくなったわけではありません。全くの無ではないのです。ただ死人は、取り仕切るとか指図するといったように、何かを掌握し、意志を通わせる事はしません。ですから、霊にあっては、古い人は完全に死んでおり、神と完全に一致しているのです。しかし経験においては、まだ古い思考がある為に、そうとは限りません。そして重要な鍵とは、経験を立場と一致させる事です。聖書を読み始めた時に、多くの人々が問題を抱えるのはそこなのです。彼らは、今彼らが置かれている立場の真理を読みますが、その真理を経験するという側面を考慮に入れていません。今私たちは、経験という面に働きかけようとしていますが、実際にその面に力を入れて取り組んでいる人々は、ほんの僅かしかいません。そして、カルトや間違った教えや偽の教義や、さらには悪魔的な教義に至るまで、ありとあらゆる異端の大半が、立場上のものと経験上のものを区別できていない事から生じているのです。いいですか?ですから、私たちの神の子としての立場という観点から書かれているものを読むと、人々はこんな事を言います。「ほら、そこを見なさい。罪を犯す事ができなくなると書いてある。罪を犯す事ができないなら、私が何をしようと罪ではないわけだ。罪を犯す事などあり得ないのだから。」しかし、そういう意味ではありません。そこには、罪深い生活を送る事がないと書いてあるのです。たとえ過ちを犯しても、それは出来事であってライフスタイルではありません。違いが分かりますか?それが立場上のものと経験上のものとの違いです。ここで重要なのは、私たちの実際の経験を、真理における私たちの立場に一致させる事です。それが目指すべき事なのです。しかしそれには、ある過程が伴い、その過程は自然には起こりません。その過程は、皆さんがその過程を通ろうと決意する時に起こります。皆さんが決める事なのです。そこには皆さんの意志力が関わってきます。皆さんが新生した時に、自分の意志を神に捧げました。重要な鍵とは、必ず自分の意志を神の御心と一致させようと努める事です。皆さんは罪を犯さないと決断する機会を、毎日与えられているのです。
さて、話に戻りましょう。マニュアル48ページでしたね?エペソ3:9 です。そこにはこうあります。「また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにする為に他なりません。」神が万物を、イエス・キリストによって造られたと言われている事に注目して下さい。そしてその目的とは「今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示される為...。」それが何と言っているか分かりますか?神がイエス・キリストによって万物を造られたのは、天の支配者たちや権力者たち(天上の悪霊たち)が、教会が知っている事を今知る事ができるように、教会が神の様々な知恵の中を歩み、基本的には神と対立しているが、今は敗れている天の支配者たちや権力者たちにそれを実証できる為だったのです。皆さんはここを離れ去って、本来は天の御座いる事になっていますが、今私たちがいるのは地上です。皆さんがキリストと共に、あらゆる支配や権威よりも遥かに上の方で座に着いているのが分かるでしょう。ですから、皆さんは彼らに劣ってなどいません。それが理由で私は、人々が説いている霊的な戦いについての教えに、文句を言いたくなるのです。「ああ、天を支配する者に逆らってはいけません。それは強大なので、まず神から導きをもらわないと、支配者に逆らって攻撃する事などできないのです。」そんな事はありません。最も強大な支配者でさえ、最も軟弱なクリスチャンより弱いのです。分かりますか?それが真実です。何故でしょう?皆さんは彼らよりも上に座しているからです。天の階級制度において、皆さんは彼らよりも上なのです。階級においても、霊の物事においても、皆さんは彼らに勝っています。そうですね?
ですから、彼は11節でこう言っています。「私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿った事です。」ここに注目しましょう。私たちは大胆に、はばかる事なく近づく事ができるのですから、這いつくばって入るのはやめましょう。私たちには大胆さがあります。そうですね?それはエペソ5:22 に書いてあります。そして特に強調したいのは、私たちがここで話している事であり、パウロはそれを口に出す事さえしています。教会の事を話していますが、夫と妻という現世的な例を挙げてその原則を説明しているのです。ここの夫と妻という表現にこだわってはいけません。それは一例に過ぎませんから。エペソ5:22 でこう言っています。「妻たちよ。あなた方は、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」ここに注目して下さい。「自分の夫に」と書いてあるのです。そうですね?「何故なら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、全ての事において、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会の為にご自身をささげられたように、あなた方も、自分の妻を愛しなさい。」何故でしょう?26節はこうです。「キリストがそうされたのは、御言葉により、水の洗いをもって、教会を清めて聖なるものとする為であり」何故でしょう?27節です。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる為です。」
さて、聖書を出して下さい。2つの聖句を読みたいと思います。ここでのテーマは、パウロが言っていた奥義である事を忘れないで下さい。第2ペテロを開けて下さい。9節から始めましょう。聖書はいつ読んでも素晴らしいので、毎回後から章全体を読み返して欲しいのですが、時間が迫っているので、一部を省略しなければなりません。9節でこう言っています。「これらの事で分かるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、裁きの日まで、懲罰のもとに置く事を心得ておられるのです。」不義な者たちが、裁きの日まで懲罰を受けない事に注目して下さい。何故でしょう?神は良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さるからです。神は良いお方で、神の恵みが人を悔い改めに至らせるからです。そして神が正しくない人に一定の期間良い事をされた後に、彼らがなおも悔い改めないなら、そのような人々はその日まで懲罰の元に置かれるのです。お分かりですか?それはまたそれで、別の大きな主題で、深く入り込む時間はありません。それについては以前、1セッションを設けて話した事があり、そのCDもあります。Mp3でも手に入れる事ができるでしょう。私たちのウェブサイトに行けば、ダウンロードできます。それは裁きの日について語っているので、聴いておく必要があります。そうすれば多くの疑問が解消する事でしょう。
そしてこのように書いてあります。「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。」ここで語られているのは実際の政府ではなく、牧師や使徒や預言者といった、神の御国や運営に携わる組織や統括者たちの事です。軽蔑してしまいますね。彼が語っているのは、そのような人々についてなのです。「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にも勝っているにも関わらず、主の御前に彼らをそしって訴える事はしません。ところがこの者どもは、捕えられ殺される為に自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしない事をそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐ事を楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなた方といっしょに宴席に連なる時に、自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。」「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽く事を知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らは呪いの子です。彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。物を言う事のないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。この人たちは、水のない泉です。」さて、見て下さい。ここでは人々について話していますね?お分かりですか?これらの人々は水のない泉のようなのです。「突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれを逃れようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人は誰かに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」
さて、皆さんが現在の教会で起こっている事、議論や、一部の極端な教義に気づいているなら、ここに書かれているのは、まさにその事だと思う事でしょう。彼らは言います。「ああ、これは廃止されています。それは気にする事はありません。あれは関係ありません。」そう言いながら自分自身は、束縛の内に生き、誰も真似したくないような状態で生きているのです。そうでしょう?何の事を話しているのか知らないなら、別に教えません。知らない方が良いのです。知りそびれたのです。しかし、もし知っていたなら、それに(終焉説など)ついて話したいとは思わないでしょう。というわけで、パウロは20節でこう言っています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知る事によって世の汚れから逃れ、その後再び、それに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかった法が、彼らにとって良かったのです。彼らに起こった事は、『犬は自分の吐いた物に戻る。』とか、『豚は身を洗って、また泥の中に転がる。』とかいう、事わざ通りです。」ですから、彼らは命令に背いたのです。聞きましたか?この文章全体が、悪い事だらけです(笑)。良い終わり方ではありませんね。あまり真似したくないような人々ですが、ここに注目して下さい。先ほどの所に戻りましょう。これの発端となった節は、エペソ 5:27 です。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる為です。」また13節に戻って下さい。ここでもまた、人々について語られています。「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐ事を楽しみと考えています。」真っ昼間から飲んでいるのです。「彼らは、しみや傷のようなもので...」分かりますか?ですから、エペソ 5:27 には、「しみやしわや、そのようなものの何一つない、栄光の教会をご自分の御前に立たせる」つまり神は、このような人々は、イエスがご自分の前に立たせる教会の中にいないと言っておられるのです。お分かりでしょうか?これらはしみやしわなどの欠点で、神がその御前に立たせる栄光の教会には、そのようなもの(人々)はないと言っています。パウロはそのような人たちの事を話しているからです。彼らは皆と共にいて、パウロたちの語った事を聞き、受け入れましたが、その後、教えに背を向けて古い生活や、彼らの元の歩みに戻ってしまいました。これは、神が皆さんのしわや過ちやしみや欠点に、アイロンを当てて下さるという事ではありません。神は皆さんのいたらない点を「しみ」として言っておられるのではありません。キリストの体である教会とその中の人々に、こうした「しみ」となる人々がいるべきでないと言っておられるのです。
それで、ここから二つの事が分かります。明らかに皆さんが見ている教会、実際の教会は…その中にいる全ての人が、神がご自分の前に立たせられるような、栄光の教会になるわけではないと分かります。そしてイエスさえもこう言われました。「毒麦を生えるままにしておきなさい。それらが分かたれる時が来るから。」そうですね?さて、毒麦は通常、成長しません。それらは絶えず何かに絡みつき、成長を妨げようとします。そうでしょう?その一方で、麦は絶えず成長し、他の麦の成長を妨げる毒麦にはなりません。ですから、私は固く信じています。今から数年後には…状況が進展し、人々が成長して行くのを見るにつれ…。皆さんは実際に、ますます多くの人々が脱落して、これらの偽の教えの幾つかを信じ、今起こっている事の幾つかに加わるであろうと。何故なら、イエスご自身もこう言われました。「人は探し求めるものを見つける。探すなら、見いだすだろう。」ですから、皆さんが見つけるのは、皆さんが探しているものなのです。お分かりでしょうか?
エホバの証人は地獄のない宗教を探し求める人々です。彼らは罰が好きではありません。罰という概念が気に入らないのです。彼らは罰という概念を拒んで探し求めた末に、宗教を見つけました。その中に地獄が含まれていない教えを。ですから、人は探すものを見いだすのであり、それに引き寄せられるのです。だから私たちは神の真理を愛し、真理を探し求める人々にならなければなりません。そうですね?「真理」と言っても、種々様々な真理という意味ではありません。この事は前もってお話しておくべきでしたが、真理は一つしかありません。そして真理は真理です。だからこそ真理と言えるのです。お分かりでしょうか?それが真理であるというのは、事実です。事実というものがあります。皆さんの体には、そこに癌があるという事実が存在し得るのです。それは事実であって、真理ではありません。真理とは、主の打たれた傷によって皆さんが癒された事です。違いが分かりますか?そして皆さんは、その事実に同意するか、或いは、真理に同意するかを決断するのです。真理に同意するなら、事実はその真理に一致し始めるでしょう。しかし事実に同意するなら、やがて真理から遠のいて、過ちに陥ってしまいます。真理ではなく事実に従ったからです。
さて、私たちが概して「現実」と呼んでいるものがあります。現実は常に真理とは限りません。大半の人にとっての現実は、何かについての真理ではなく、彼らの物の見方に基づいています。言い換えると、皆さんには誰かについての特定の見解があるのです。誰かがある人について何かを言うと、皆さんは彼らに一度も会う事なしに、そのような見解を抱きます。彼らに会う前に、誰かから彼らの事を聞いて、もう見解ができあがっているのです。そして彼らと会うと、前々から聞いていた事に基づいて相手と接するのです。それは真理でも事実でもありません。分かりますか?それは現実なのです。皆さんの物の見方から生じた、主観的な現実です。そして、何故それが真理でも事実でもないと分かるかというと、同じ人を知っている2人の異なる人というケースもあり得るからです。そして彼らは異なった事を聞いたがゆえに、それぞれ互いとは異なった見解を持っているのです。そうでしょう?そしてその見解によって、彼らの現実が形成され、残念な事に大半の人は自分たちの現実を信じています。それは彼らの見解でできているのですが、その見解は真理ではなく、おもに噂話や、又聞きによるものです。皆さんがすべき事とは、真理によって自分の現実を形成する事です。そして皆さんの現実が真理でできているなら、真理と一致した事実が生じる事でしょう。これらの事が分かりますか?
28節です。「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。誰も自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。 私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』」さて、ここを見て下さい。「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」「この奥義」がキリストと教会の事であると言っている点に注目して下さい。そこから、今日ずっとお話している、例の奥義に話が戻るのです。そしてそれはとても簡単な事なのです。きっと皆さんは、以前もそれを聞いた事、それは皆さんが既に知っている啓示となる事でしょう。エペソ 6:19 でこう言っています。「また、私が口を開く時」パウロは祈りについて話しているのです。「語るべき言葉が与えられ、福音の奥義を大胆に知らせる事ができるように私の為にも祈って下さい。私は鎖に繋がれて、福音の為に大使の役を果たしています。鎖に繋がれていても、語るべき事を大胆に語れるように、祈って下さい。」今度は、コロサイ 1:25 を見て下さい。「私は、あなた方の為に神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。」聞きましたか?パウロの言う事に注目して下さい。27節です。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みの事です。」分かりましたか?それが奥義なのです。これに比べれば、他のどんなものも、さほど重要ではありません。この事ゆえに、割礼は無益な行為となり、割礼を受けない事も無益なものとなります。何故でしょう?大切なのは、キリストの中の新しい人、あなた方の中にいますキリストだけだからです。それこそが新しい人を生み出すのです。新たな存在を。かつて一度も存在した事のない、新たな種族を。何故でしょう?今やあなたは、神の姿に似せて造られているからです。キリストに似た者として。そしてキリストはあなたの中に形作られ、これらの尊い約束により、私たちは神の性質にあずかる者となるのです。そのような性質を表明しつつ、イエスのように歩み、語り、行動する事ができるように。そして、キリストを頭とする全ての物事において、主のような存在へと成長するように。分かりますか?全てはこれに帰結するのです。これがなかったなら、他に何があったとしても、全て無意味です。何一つ変わらず、私たちは「動物を殺して、その血に価値がある事を願おう」と言いながら、まだ古い契約の内にいた事でしょう。しかしこれがあれば、全てが変わります。
さて、自分が教会を始めると想像してみて下さい。皆さんは牧師で、こう言います。「もうやる気がなくなってきた。」しかし、皆さんが牧師としてただ外に出て、誰もキリスト教について聞いた事すらないどこかに行くとします。そこの人たちはこれまで、クリスチャンと呼ばれている人たちとも一度も話した事がなく、皆さんが話している事が全くわからないとします。全然理解できないのです。そこで、皆さんは彼らに証しをし、宣べ伝え、悔い改めさせる事ができます。皆さんが彼らに話している内容は、律法ではありません。あれをしろ、これをするな、というものではなく、むしろこんな風に言うのです。「この時代まで一度も明かされなかった秘密をお教えしましょう。この特定の神の摂理を。これは最初パウロに明かされ、パウロがそれを書いて、パウロがキリストの奥義について持っていた知識を今や私が読み、理解しているがゆえに、それをあなたと分け合う事ができるのです。」考えてみて下さい。今まで自分たちにキリスト教として教えられてきた、すべき事やしてはいけない事や、その他のあらゆる事を教える代わりに、これを教えたならどうなるかを。人々に彼らがキリストにあって何者であるか、世の始まりから隠されてきた奥義を教え始めるなら…。人がイエスのように歩み、イエスのように生き始め、罪や自責の念から解放されて、ただ神と共に歩き始める事ができるよう、神がご自分の御霊を人の中に送られ、人の姿をしたキリストをお造りになられた事を教えるなら。
エデンの園には、神殿も祭壇も犠牲もなく、捧げ物すらなかった事に、気づいているでしょうか。人が堕落するまでは、何一つなかったのです。神が宗教を始められたのではありません。神が始められたのは、人とご自身との交わりです。人は背教の霊に屈する事を選び、それゆえに神との交わりを断ち切って、背教の霊と交わるようになりました。そこで今、神は地上にお戻りになり、人とのそのような関係を、もう一度取り戻したいと願っておられるのですが、人は霊の内で死んでいるのです。ですから、人が霊の内で死んだ状態で神を理解しようとするなら、宗教を通してそうするしかありません。お分かりでしょうか?死んだ霊のままで神と交わろうとすると、人が行き着く先は常に宗教です。宗教は命を生み出す事が出来ないので、それは単なる儀式に過ぎません。命を造り出す事ができる律法などというものもありませんでした。律法でさえも、命も義も、何一つ与えてくれなかったのです。しかし、律法は人に注意を促し、人は自分の過ちに目を向けるようになりました。神のところにやって来て、「私はずっと善人でした」と言える立場ではなくなったのです。むしろ人はキリストに寄り頼み、キリストの憐れみの上に、身を投げ出さなければなりませんでした。そしてキリストの上に落ちるなら、救われるのです。しかし、キリストが皆さんの上に落ちるなら、粉々に砕かれてしまうと、聖書に書いてあります。そうではありませんか?それで、人は何一つ持たずにキリストのもとに来て、自分にはできないと言うのです。自分はそれを成し遂げられるほど善人ではないが、イエスは自分の為にそれをして下さったから、その事を神に感謝していると。そしてそれが、神からあらゆるものを受け取る方法なのです。
さて、ここで気づいて欲しいのですが、それではこの、世の始めから隠されていた大いなる奥義とは、何だったのでしょうか?これは世の君たちが、現世で主権を握る人々が知らなかった事です。知っていたなら、イエスを十字架につけたりはしなかったでしょうから。イエスを殺す事によって、実際にイエスが天の父なる神のみもとに上り、代わりに全ての人の中にその御霊を送り出す経路を、切り開く事になったからです。悪魔には勝ち目がありません。悪魔は百万人のクリスチャンを相手にするよりも、1人のイエスを相手にしていた方が良かったのです。しかしそれは、クリスチャンがイエスのような者になった場合だけです。悪魔は、殆どのクリスチャンが自分と対峙するような方法に、何の抵抗も感じていません。何故でしょう?彼らの殆どは、悪魔が強大で恐ろしく、自分たちよりも強く、たちが悪いと考えているからです。私は悪魔よりもたちの悪いクリスチャンに会った事がありますよ、多分(笑)。そして宗教は常に、それよりもさらにたちが悪いのです。悪魔はどちらかというと、その事を知らないクリスチャンを相手にしたがるのです。けれども、いったん新生を理解するなら…。私たちが新生についての教えをさっと飛び越して、どれだけそれを殆ど無に等しいものにしているか。それなのに、口先ではそれを尊んでいるのです。「ああ、これは人生で最も大切な出来事です。これが一番大切なのですよ。」しかし実際は、「私は生まれ変わりました。次は何ですか?」と言い、導く人も、「ああ、次はこちらです。御霊に満たされて、癒されて、祝福されて下さい」としています。自分が新生した事を、深く掘り下げて理解する事すらしていません。実際何が起こったのでしょう?それは単に、死んだ時に天国に行くためのチケットに承認印を押してもらう事ではありません。お分かりですか?新生はそのようなものではないのです。それは入り口にすぎません。それはちょうど、飛行機に乗ってある国に入る時に、そこの人が私のパスポートを手に取って、じっくりと調べるようなものです。「滞在予定期間は?」(スタンプを押して)「では、入国を許可します。」そしてパスポートを返してもらい、ポケットに入れるのです。これで「入国完了」です。
お分かりでしょうか、新生はそのようなものではありません。キリスト教はそのようにはできていないのです。キリスト教では、神の御霊があなたの中に入る時、その全ての性質も、一緒に引き連れて来られるのです。お分かりでしょうか?御霊が皆さんの中におられるのです。さて、次のような宗教的な考え方はやめなければなりません。「そうだな、イエスの事は知っている。主は子羊であられ、羊飼いの杖をその御手に持ち、それから…」いいえ、イエスはそんな風ではありません。主は世の始めから屠られた子羊であられますが、ユダの部族の獅子でもあられます。そして主は来られます。それから、ここに注目して下さい。もう一つあります。主は、ご自分の敵をその足台とするまで、座していると言われましたね?さて、その事を考えてみて下さい。そして万物が主の足下に置かれると書いてありますが、今はまだ、万物が主の足下に置かれている様子が見えません。つまりこれは、立場と経験の違いですね。ですから、神に関しては、このように言われています。「よく聞きなさい。私は彼に万物に対する絶対的な権威を授けた。今やあなたは彼の中にいるのだから、今やあなたは行って、絶対的な権威をもって彼の名を用い、あらゆる状況に、また神のものには見えず、天国のように見えないあらゆるものを正して、それを彼の足下に置かねばならない。天国のものらしく見えるようになるまで、それを修復するのだ。」それが皆さんの仕事です。そして私たちが自分たちの仕事をする時、何が起こると思いますか?主の再臨が可能となるのです。
先日、イエスの再臨がいつになるかわからない事について話していた時も、私たちはそう言いました。「さて、誰が知りましょう?教会はいつ成長するのでしょう?」問題はそこですね?主がご存じないと言っているのではありません。神がご存じないという意味ではないのです。ただ、私たちはこれをあたかも、定まった日があるかのように話していると言っているのです。別に神が、「よし、この日だ。この日に決行しよう」と言われるのではありません。むしろこのように言われています。「その日に教会は成長し、その時に私はそうする」と。そこでは成長が起こるのです。だからこそ、エペソ4章にこう書いてあるのです。エペソ 4:8 にこうあります。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」何故でしょう?「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げる為であり、」いつまででしょう?「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達するまで」です。聞きましたか?ここで、私たちがこの五役者のミニストリーをどれだけ長く続けなければならないと言われているかに気づいたでしょうか?私たちが皆、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達するまでです。ここの「知識」は、ギリシャ語ではエピグノシス(epignosis)となっています。それは完全で十分な経験上の知識という意味です。イエスが神の御子であられるという事に関する知識ではありません。彼は教会に向かって話しており、教会はすでにイエスが神の御子であられる事を知っているからです。もし知らないなら、教会の人ではありません。ですからパウロは、イエスが誰であるかについて語っているのではないのです。むしろイエスご自身が持っておられるのと同じくらい、十分な経験上の知識を皆さんが持つまで、と言っています。皆さんは言うでしょう。「私たちはそれを持っているのですか?」 ええ、皆さんはキリストの思考を持っています。私たちはすでにその事について読みました。ですから、皆さんはキリストの思考を持っているべきなのです。今や皆さんは、立場上ではキリストの思考を持っていますが、エペソによると、それを経験において持つようになるという事です。どうやってそれを経験において持つようになるのでしょう?五役者のミニストリーがあなたを成長させ、経験を与えてくれるので、神の知識を経験する事ができる様になるのです。どういう意味でしょう?彼らが皆さんに教え、それを実践するよう送り出すのです。しかし、気づいて欲しいのですが、出て行って実践する事で皆さんが得るのは、経験による知識です。つまり、五役者のミニストリーはただ話すだけではないという事です。彼らは皆さんを送り出して、色々な事をさせる事になっているのです。「まだそこに出て行ってはいけません。まだ十分成長していないから」といって、ただ知識を教えるだけではありません。皆さんが学ぶ全ての事は、即座に実践するべきです。聞いて下さい。耳から入ってくるものは、素早く口から出ていきます。そうでしょう?20年後にではありません。皆さんは学んだ事を実行に移すのです。しかも即座に。
したがって、五役者のミニストリーにはあなたに、起き上がって何かをするよう命じる権利があります。イエスご自身でさえも、祈って言われました。「収穫の主に、収穫の為に働き人を送って下さるように祈りなさい。」五役者のミニストリーの仕事とは、「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達するまで」皆さんを成長させ、訓練し、教え、建て上げ、育て上げ、完成し、成長させる事です。皆さんが完全な人へと成長するまで。完全な人とは何でしょう?キリストの体です。キリストの体が成長して、完全な人となるのです。成長した事がどうすれば分かるのでしょう?皆さんが完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する時に、そうなります。五役者のミニストリーは、皆さんをそのようなレベルに至らせる為にあります。彼らの仕事は、ここで皆さんを育て上げる事なのです。皆さんは成長し、主のようになります。よく聞いて下さい。そこの箇所を読みます。14節です。「それは、私たちがもはや、子供ではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする事がなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し...。」「主にあって成長する」というよりも、「主へと成長する」のです。そこには大きな違いがあります。「かしらなるキリストに達する事ができる為なのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により...。」つまり、体をあるべき姿にする為に、それぞれの部分が必要なものを生み出さなければならないという事、要するに、成長するという事です。自分の役割を果たさなければなりません。皆さんの役割とは、他の誰かが全てをやってくれている間、座って眺めている観客ではありません。皆さんはキリストの体の一部なのです。聞いて下さい。もし皆さんが体の一部だとして、その部分を動かさないならどうなるでしょう?弱くなって、機能が退化してしまいますね。そして長い事運動せずに、ずっと座っていたなら、そこの筋肉が、体のその部分が死んでしまうでしょう。何故でしょう?それは使い、動かすものとして造られているからです。そうですね?それで、パウロは言ったのです。「あなた方は年数からすれば教師になっていなければならないにも関わらず、神の言葉の初歩をもう一度誰かに教えてもらう必要があるのです。」そしてこう言いました。「あなた方は堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」「するようになっている」というのは、常にそのようではなかったという事です。退化したのです。分かりますか?退化するとどうなるでしょう?弱くなります。神にあって前進する事をやめてしまうという事です。後退し、弱まってしまったのです。何故でしょう?分かっている事をせずに、座ったままでいたからです。
教会の最大の罪の一つは、信者たちを活発なミニストリーに携わらせたり、彼らを外に送り出して、世に手を伸ばさせていない事だと思います。教会は、ある意味、訓練場であって、雑多な事が起こっている場所ではありません。皆さんが訓練を受ける場なのです。私たちが病人に手を置く時、皆さんはそれを見るでしょう。そして私は意図的にそのようにします。どのように癒やしのミニストリーを行うかを教えて、人々を訓練し、いざ癒やす時になったら、必要なだけ、しかもなるべく素早くミニストリーを行います。そして自分は、そこから身を引こうと努めています。さもないと、カリーのワンマンショーになってしまいますから。皆さんが実践しないなら、病気の人々を見つけるとそこで待機し、こう言うでしょう。「カリー牧師は先ほどここを離れました。4月にまた戻って来られるので、4月まで足は治してあげられませんが、我慢して下さい。4月になったら、必ず礼拝に呼びますから。」いいですか。私は自分がする事を、皆さんにやらせようとしています。皆さんを3日間教え、その後、病人を癒やしの礼拝に連れてきて、皆さんを呼び、私も人々の為に祈りますが…その比較的大部分を…皆さんにやってもらいます。何故でしょう?皆さんに教えるだけで、私が全部やってしまったのでは、何の役にも立たないからです。そんな事をすれば、皆さんは最終的に、人をあがめ奉るようになるでしょう。皆さんがここにいるのは、私に説教する場所を提供する為ではありません。私は皆さんを訓練し、備えさせる為ここにいるのです。もし私が皆さんを訓練し、備えさせていないなら、助けるよりは、むしろ傷つける事になるでしょう。聞いて下さい。私が皆さんを装備させるという事なら、私は場を譲って、皆さんにそれをやらせなければなりません。ただし、ここでのガイドラインに沿って、安全な場所でそうさせるのです。ですから、一旦ここで、安全な場所でやり、すべき事が分かったなら、今度は、皆さんが外に出て行って同じ事をする事ができ、私が見守っている必要もなくなるでしょう。ここでやったので、何をすればいいか分かっているだろうからです。それが弟子訓練というものです。比較的短期間ではあるものの、それも弟子訓練の一形態です。ごく短縮された、その事だけに的が絞られた弟子訓練です。
気づいてもらいたいのですが、私たちが行うべき備えとは、次のようなものであるべきです。五役者のミニストリーは皆さんを備えさせ、その後送り出し、仕事をさせねばなりません。私たちが五役者のミニストリーや御言葉のミニストリーに時間を費やし、それによって皆さんを訓練できるように。私たちは訓練教官であって、全てを自分でやってしまってはいけません。そして皆さんとの共依存関係を、いつまでも続けるわけにはいかないのです。「牧師に祈ってもらわないと。カリー牧師に祈ってもらわなければ」ではないのです。いいえ、私が出来るだけ早く身を引くのは、それが理由なのです。私は、病人が癒やされるのを見てきました。素晴らしい事です。しかし、皆さんが見なければならないのです。自分が手を置いた時に、それが起こるのを見なければなりません。私が代わりにやっている限り、常に人々は、私に功績を帰そうとします。けれども、皆さん全員にそれをやってもらうなら、皆さんの愛する人や、親戚や、仕事仲間は、それが皆さん自身の力ではない事が分かるでしょう。何故でしょう?彼らはそれが皆さんの力ではないと分かるほど、皆さんの事をよく知っているからです。そうでしょう(笑)? そして、それが誰にでも出来る事や、私たちの力ではない事を全員が理解するなら、功績を受けるお方は一人だけであり、それがイエスなのです。そうですね?これがどれほど単純な事か分かりますか?しかし、皆さんは主の身丈にまで成長しなければなりません。主があなたを通して、思うがままに動く事がおできになるように。
ローマ 8:19 にはこうあります。「被造物も、切実な思いで神の子供たちの現われを待ち望んでいるのです。」聞きましたか?そしてすぐに、この被造物が地球である事が分かります。被造物全体です。そしてそれは、神の子供たちの出現を待っているのです。「神の子供たちの誕生を」とは言っていません。それは、皆さんが現れるのを待ち望んでいます。「それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由の中に入れられます。」聞きましたか?皆さんが神の子供として現れるのを、この地球全体が待ち望んでいるのです。それは被造物自体も、アダムに起こった事のせいで、滅ぶべき運命に縛られているからです。そして今被造物は、待ち望んでいます。神の子供の出現を待ち望んでいるのです。1ヨハネ 3:8 に、「神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわす為です」あります。もし悪魔のしわざを打ちこわす為に、主が御子として姿を現されたのなら、皆さんは何の為に現れたのだと思いますか?この地球は滅びつつあります。それは束縛されており、皆さんが現れるのを待ち望んでいます。今起こっている事を、あなたに止めてもらう為に。そして被造物は解放されるでしょう。神の子供たちの輝かしい自由の内に。あなたが現れて、こう言うようになるからです。「そのような悪い事は終わる。もうそれを許すつもりはない。」そして皆さんは、起こるべき事を命じ始めます。神の統治下で働く統治者として、この地球を天国に似た場所にすべく、そこを管理しているからです。それが皆さんの仕事です。22節でこう言っています。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみをしている事を知っています。そればかりでなく、御霊の初穂を頂いている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にして頂く事、すなわち、私たちの体の贖われる事を待ち望んでいます。」今の時点では、私たちの体は死にます。今の時点において、人々はまだ病気になります。ですからパウロは、私たちは御霊の内で熱心に待ち望んでいるけれども、成長して姿を現す時には、それら全ての束縛が解かれるのを目にし、それらに向かって命じ始めるであろうと言っているのです。
もう一つ読みましょう。1ヨハネ 3:1。これは使徒ヨハネが書いているのですが、彼はこう言っています。「私たちが神の子供と呼ばれる為に、――事実、いま私たちは神の子供です。――御父はどんなに素晴らしい愛を与えて下さった事でしょう。」つまり、私たちが神の子供と呼んでもらえる事は、驚くべきであると言っているのです。「世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子供です。後の状態はまだ明らかにされていません。」つまり、まだ成長しておらず、完全に姿を現しているわけではないという事です。全地球がうめき声を上げて、神の子供たちが一つの体や教会として現れるのを待ち望んでいるのですから。しかし彼はそこまでしか言わず、今私たちは神の子供で、まだなるべき姿になっていないが、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となる事が分かっていると言っています。私は昔、それが次のような意味であると教わりました。主が来られる時、私がキリストのような者に変えられるのだと。しかし、聖書にはそんな事は書いてありません。聖書は、私たちが変えられ、死すべき者が死ななくなると述べているのです。滅びるべき者が滅びない者に変わると。私たちの何かが変わってイエスのようになる事については、何も書かれていません。私たちが変わってキリストのようになるのは、五役者のミニストリーの目的であって、主の再臨の目的ではありません。お分かりですか?五役者のミニストリーは、私たちをキリストのような者へと変える事を目的としています。主の再臨が私たちをそのように変えるのではありません。主の再臨は私たちを、滅びる者から滅びない者に変え、死すべき運命にある者を、不死の存在とするなど、そのようなあらゆる事をしてくれますが、主は待っておられるのです。五役者のミニストリーは、私たちを成長させ、神の子供として現れ出るように仕向けます。主が現れて全てをお持ちになる事ができるよう、全てを主の足台とし、全てを神に手渡し、そして主がその全てを父なる神に手渡され、全てが一つになるのです。しかし、主は何を待ち続けておられるのでしょう?主は私たちが神の子供として現れるのを待ち続けておられるのです。それほども簡単な事です。成長して、神の子として、私たちは現れ始めましょう。「再臨の時」にではありません。
あなたが神の子供として出現し始めたならば、私たちがどこに向かうか分かりますか?クラスが進むにつれ、今あなたがキリストにあって何者であるかを、さらにお教えしましょう。しかし、今皆さんは奥義を知っており、それは皆さんの中のキリストなのです。そして奥義が、皆さんの中におられるキリストだと言う事に気づいて下さい。それは「皆さん自身の」栄光の希望ではありません。皆さんの中におられるキリストこそが、栄光の希望であると書かれています。キリストが中におられる限り、栄光には主の御心が成就されるという希望が伴います。それが今この時点における、栄光の希望です。それは皆さん自身の栄光の希望ではありません。皆さんの中におられる主こそが希望なのです。これらの事を深く考えなければなりません。それが何と言っているかを、一語一句考えて下さい。皆さんの中におられるキリストは、天国に行けるという希望ではありません。皆さんの中におられるキリストは、主の御心が地上で成し遂げられるという希望なのです。皆さんは言うかもしれません。「ああ、それはどのみち成し遂げられるでしょう。」では、何故イエスは「御心が天に行われる通り、地にも行われるようにと祈りなさい」と言われたのでしょう?主の御心が自然に成就されるとしたら、祈る必要もありません。そう、皆さんが何をしようと構わないわけです。私たちは、主の御心が成されるように、祈りなさいと教わりました。しかし、それをするには、主の御心が何であるかを知っていなければなりません。私たちが主の御心を知っている時、何が起こると思いますか?私たちは主の思いを持ち、主の御心を知り、主の御言葉の内を歩んで、神の子供として現れる事が出来、神の御心が成し遂げられるのです。
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