セッション12
さて、また聖書に戻りましょう。コロサイ2:9です。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなた方は、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストは全ての支配と権威のかしらです。」主は全ての支配と権威のかしらなのです。つまり、キリストに従わない支配や権威は、一つも存在しないという事です。皆さんは、自分がキリストの内にいる事を理解しなければなりません。ですから厳密に言うと、それらは皆さんに従うという事です。皆さんがキリストにあって何者なのか、キリストが皆さんの中にあってどのような存在なのか、又、皆さんが生きるべき人生といったものと同様に、この事も皆さん当てはまるので、そこにアンダーラインを引いておいて下さい。そこには次のように書かれています。11節です。「キリストにあって、あなた方は人の手によらない割礼を受けました。」これは心の割礼である新生の事を言っているのです。「肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなた方は、バプテスマによってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から蘇らせた神の力を信じる信仰によって、キリストと共に蘇らされたのです。」さて、ここに注目して下さい。皆さんはバプテスマによってキリストと共に葬られたのですよね?しかし、キリストと共に蘇りました。12節には、「あなた方は彼と共に葬られ、同時に彼と共に蘇らされたのである」とあり、その次にはこのように書いてあります。「彼は死人の中から蘇りました。」死人の中から蘇ったのです。そうでしょう? そして皆さんもイエスと共に蘇りました。ここでもまた、主のされた事の恩恵を、受けているのです。主が経験された事が、皆さんが経験した事と見なされているのです。ですから、もし主が葬られたのなら、皆さんも葬られたのです。主は蘇られ、復活されました。という事はどういう事ですか?皆さんも蘇ったのです。そうでしょう?全てがそうなっているのです。主は十字架につけられ、皆さんも十字架につけられました。そうですね?ですから主が経験されたあらゆる事の功績が、皆さんに与えられ、皆さんがそれをした事になっているのです。そして主は、父なる神の右に座されました。私たちも主と共に、父なる神の右に座しているのです。
私たちはいつも次のような言葉を、聖句を用います。「神が合わせられたものを、人は離してはならない。」結婚式でいつも用いられる言葉です。しかし、それが聖書のどこで用いられ、何について語っているかに気づかなければなりません。パウロは、自分が夫と妻について語るなら、それは主に…現世的な例を用いているだけで、実はキリストと教会について語っているのだと言いました。そうですね?その事について話す時、パウロは毎回その二つを一緒に用いました。ですから、彼が夫と妻について話している時に、実際にはキリストと教会について話しているのだとすれば、「神が合わせられたものを、離してはならない」という言葉もまた、夫婦関係について用いられてはいるものの、実際は教会とキリストの関係について語っているのです。ですから、神が合わせられたものを誰にも離させてはなりません。さて、神は何を合わせられましたか?キリストと教会を一つにされました。そうですね?ですから、キリストから離れてはいけません。むしろ一緒に働くのです。アーメン?皆さんとキリストは一つです。ですから聖書の中で、キリストについて語られている言葉は全て、皆さんについてでもあるのです。キリストについて語る時には、キリストがどんな事をされたかに言及し後で、それとは別個のものとして自分の事を語るだけでは十分ではないのだという事を覚えていて下さい。お分かりでしょうか?皆さんはキリストと一体になり、一つになっているのです。私たちが持っている唯一の手本がイエスなのです。イエスが送られた目的は、私たちを神と一つにする為でした。キリストが送られた目的とは、私たちをキリストと一つにする事ではなく、神と一つにする事だったのです。しかし、神と一つになる為には、キリストと一つになる必要がありました。そして私たちは、キリストと一つになった時、神と一つになったのです。ですから、神と一つになっている人がどのように行動し、どのように自分と神との一体について語るかについて、私たちが持っている唯一の例がイエスなのです。そのような例は、現世では他に一つもありません。パウロ、ペテロ、そういった人々がいますが、厳密に言うと、彼らの誰一人として、私たちの手本とする事はできません。聖書には「パウロを見なさい」とは書いていないからです。むしろこうあります。「イエスを見なさい。」私たちは手本としてイエスを見るべきなのです。ですから、主が私たちの手本であられるなら、神とどのような関係を持ち、神との関係をどのように語るか、といった事においても、イエスに目を向けなければなりません。それでは、イエスはご自分と父なる神との関係について、どのように言われたでしょうか?
「私と父とは一つです。私は父が私に言われた事を話すだけです。」さて、私たちがそう言うと、人々はそれを次のように解釈します。神が私たちの耳に語られ、私たちは神がそうされるまで口をきく事ができず、まるで腹話術師の人形のように話すのだと。そんな事を言っているのではありません。イエスが言いたいのはこういう事です。「聞きなさい。私と父は一つです。私たちは性質も人格も一体となって融和しています。私たちは一体となっているのです。」これらの尊い約束によって、神の性質にあずかる者となればなるほど、神の思いが皆さんの思いとなり、もっと自由に自分の中から湧き出る言葉を話す事ができるようになります。思いが新たにされていればいるほど、皆さんの中から出てくる言葉は、神が既に言われた事と一致するようになり、父なる神が言われた事しか言わなくなるのです。それが秘訣です。大切なのは、父なる神が語られるまで待つ事ではなく、父なる神の性質を知っている事なのです。各地を回って病人を癒やされていた時、父がされると分かっている事しかしないと言われたのです。さて、主は父なる神がそうされたのをご覧になったわけではありません。御父は目に見える形で天から下って、盲人を癒やされたりしませんでした。「そうされなかったと、どうして分かるのですか?」と言うかも知れません。もし父なる神が盲人を癒やされるのを、主がご覧になっておられたとしたら、その盲人は癒やされており、主はそこに行って癒やしを行わなくてもよかった事でしょう。ですから主は、父なる神がそうされるのをご覧になったわけではありませんでした。ただこう言っておられたのです。「父がここにおられたなら、きっとこうされるだろ。私はただ、父がされるであろうと思う事をしているに過ぎない。」そうですね?さて、皆さんは自分の両親や親戚を知っており、中には他の親戚よりもよく知っている親戚もいる事でしょう。私の家族にも何人か親戚がいます。実をいうと父は、去年の3月に70歳で亡くなりました。私が一緒に住んでいた時はずっと警察官でした。私は両親がとても若い時に生まれました。母は16で父は17でした。ですから、私たちは殆ど一緒に育ったと言ってもいいくらいです。そう、人生の大半を。しかし驚きなのは、父は私が7、8歳ぐらいの頃に、警察官になったのです。ですから、何か他の事をやっている父を覚えていませんが、父は警察官として多くの事を目にしてきたのであり、実際私も若い頃に、父と一緒に何度か警察の車に乗せてもらったので、色々な事を見ました。そして自分が見た事を思い返してみると、父がどれだけ様々な事を見てきたのか、想像もつきません。けれども、父は若い頃から飲酒を始め、かなりの大酒飲みになりました。実際、もし当時にそのような診断結果が出せていたとしたら、アルコール依存症と呼ばれていた事でしょう。しかしその時代は、酒瓶を抱えて、家もなく路肩の溝に座り込んでいるような人しかアルコール依存症と呼ばれる事はなかったのです。そのような症状が、機能性アルコール依存症と見なされる事はありませんでした。それが理解できなかったのか、そう診断しなかったかのどちらかでしょう。必ずしも病気というわけではありませんが、ただ医師たちはそれを病気のように見なしているのです。
さて、私はそのような環境下で育ったせいで、酒類を根っから嫌うようになりました。そのせいで自分の家族にどれほどの害が及んだかを見たからです。そして30年くらい前、父は飲酒をやめてキリストに心を捧げ神の人となって、亡くなるまでの10年から15年間ほど、テキサス州更正課の総務捜査官として、テキサス州周辺の刑務所を担当していました。何か問題が起こると、そこの刑務所に出向いて内部調査をしたのです。そして、父が担当した囚人から、よく手紙やカードが送られてきて、それは数え切れないほどの量でした。どの手紙にも同じ事が書いてありました。彼は自分たちを囚人のように扱わず、むしろ一人の人間として扱ってくれたと。彼は親切で公正だった、厳格だったけれども公正だったと。そして父は正しい事をしたのです。要するに、彼は善良な性格で、全てにおいて素晴らしい人で、多くの囚人をキリストに導きました。彼らに教えを説き、キリストの人生を示したのです。キリストが刑務所の看守だったとしたら、きっと父のように見えた事でしょう。そしてそのようであるべきです。皆さんが銀行員なら、イエスが銀行員をしておられる姿が見えているべきなのです。そのように、どんな人生を歩んでいようと、どんな世界にいようと、世にキリストを示しているべきです。そうですね?ですから私は、周りで色々な事が起こっているのを見て、酒類を心底憎むようになったので、飲酒を習慣にする事はありませんでした。何故こんな話をしているのかと言うと、もし30年前か、それ以前に誰かから、「おい、お前の親父さんが酒屋から出てくるのを見たよ。12本入りパックか、茶色の紙袋を持っていたよ」とか何とか、そんな事を言われたとすれば、私はこう言わざるを得なかった事でしょう。「そうかい。」いかにも父がしそうな事だったからです。しかし、ここ20年、10年間は特にそうですが、誰かが、「おい、お前の親父さんがあそこの酒屋から出てきて、これを持っていたよ」と言ったとしたら、私はこのように言った事でしょう。「本当に?父がそうしているところを、想像できないな。」どういう事か分かりますか?それは自分がそこにいても、目で見えなかった、という意味ではありません。彼がそんな事をしているところを想像できないという意味でそう言ったのです。彼はそんな事をする人ではないからです。それが、イエスが私たちに伝えようとしておられた事です。イエスは言われました。「私はただ、父がここにおられたなら、なさるであろう事をしているだけです。ただ父を真似ているだけです。」さて、皆さんはこう言います。「どうやってそれを証明するのですか?」フィリポもそれと同じ事を言いましたね。「主よ、私たちに父を見せて下さい。そうすれば満足します。」するとイエスは言われました。「こんなに長い間あなた方と一緒にいるのに、私が父の内におり、父が私の内におられる事を知らなかったのですか。私を見た者は、父を見たのです。」主はご自分が父であると言っておられるのではありません。ご自分を見たなら、ご自分のした事を見たなら、父を見たも同然であると言っておられたのです。ご自分の行いによって父を見せたのだからと。つまり、ご自分の性質が父の性質なのであると。ちょうどパリサイ人たちに、彼らが悪魔の子で、悪魔の性質に従っていると言われたように。聖書によると、私たちは悪魔によって導かれていましたが、ただそこに座って、「ああ、悪魔よ導いて下さい」と言って、断食して祈ったりはしませんでした。「飲みに行くかい?金曜日の夜に、酒場や居酒屋に行くかい?」と言われ、「そうだな、分からない。祈ってみるよ。『おおサタンよ、行くべきですか、行かないべきですか?』」などと祈る事はありません。悪魔に導かれる事など、考えもしませんでしたね。でもそうなっていました。何故でしょう?自然に悪魔の性質に導かれていたからです。悪魔の性質が、私たちの性質だったからです。分かりますか?自分が導かれているかどうかなど、考える必要もありませんでした。ただ行動しただけです。あなたはこう言うかも知れません。「ああ、やったよ。そうするのが好きだからね。普段からそうしているんだ。これが私なんだ。」いいえ、違います。それは、その当時のあなたの父の性質だったのです。「出て行って病気の人を癒やそう」と誰かに言われると、今あなたはこんな風に言います「ああ兄弟、あなたは病人を癒やしに行ったりはしません。あなたが癒やせない事を我々は知っていますからね。本当はこう言いたいのでしょう、出て行って病人の為に祈ろうと?」いいえ、私たちは祈りません。これっぽっちも祈るつもりはありません。私はここ30年間、とりわけここ10年間は決して、病人の為に祈った事などありません。全くないのです。私は病人の為に祈りません。何故でしょう?聖書は病人の為に祈るようにとは告げていないからです。新生したての信者たちが、長老としてあなた方を呼んだ場合は別ですが。そしてその場合ですら、祈って神にそうして下さるよう乞い求めたりはしません。あなたはそこに行って、その病気に向かって語り、癒やされるよう命じるのです。油を塗るなどをして。そうですね?ですから、私たちは病人の為に祈る事はしません。そこでは祈りについて一言も触れていません。むしろ病人に手を置くようにと告げているのです。私たちがそこに行き、病人に手を置くと、彼らは回復するのです。「そうですね、私たちは外に行くつもりです…あなたも来たいですか?今夜外に行って、病人を癒やそうと思っているのです。」皆さんがそのように言うと、宗教的な人々は非常に腹を立てます。そして皆さんの言葉を訂正しなければならないと感じて、「いえ、このように言って下さい」と言い、「癒やすのはあなたではないという事に、気づかせようとしているのですよ」と言います。「それでは誰なのですか?」と尋ねると、彼らは、「知っているでしょう。癒しをなされるのはイエスだという事を」と言います。ええ、私は知っています。そして私とイエスは一つです。こういう言葉を使って、私たちがどんなに自分たちを、イエスと切り離して考えているかが分かりますか?
さて、私は出て行って、こんな風に言うつもりはありません。「私が病人を癒やします。」それが自分の内にいます父なる神の御霊であると分かっているからです。イエスもそう言われたではありませんか?私もそれと同じ事が言えます。何故でしょう?イエスが私の内におられ、父の御霊はイエスの内におられるので、もしイエスが私の内におられるなら、父の御霊も私の内におられるからです。御わざをなされるのはイエスです。人は言います。「イエスが御わざをなされると、どうして分かるのですか?」私は自分のわざをやめたからです。だからもう、自分がする事について心配してはいません。私が自分の力によって病気の人を癒やそうとしているとしたら、私はそれについて心配する事でしょう。あなたが病気で、私に癒やしてもらおうとしていて、私があなただったら、やはりその事について心配するでしょう(笑)。というわけで、私が自分の力で癒やす事を心配する必要がない事に気づいてほしいのです。何故でしょう?イエスの御わざは世の初めから完結しているからです。それは既になされました。イエスはご自分の打ち傷によって皆さんが癒やされたと言われました。皆さんが癒やされる事について、私が心配する必要はありません。主はご自分の打ち傷によって癒やされたと言われたのですから。私はただこう言えばいいだけです。「悪魔よ、彼らは癒やされている。出て行け!」 このように、真剣に威圧的に言わなければなりません。そして通常は、同時にドンと足を踏みならすのであり、相手が犬なら尻尾を巻いて逃げ去ります。悪魔もまったく同じです。アーメン?けれども、ただその病気や問題に語って、命じなければなりません。皆さんはその場にいて、イエスが皆さんの中におられるからです。イエスは身体を持って、その場におられるわけではないので、皆さんが彼ら(病人など)の為に祈るのです。皆さんが彼らの為に祈る...というか、先にも言ったように、祈るのではなく、命じるのです。イエスの代理として。厳密に言うと、イエスの御名を使う必要すらありません。「イエスの御名によって」という必要はないのです。そうする必要すらありません。それをするのは、特にこの世の人々の為です。私たちが誰と繋がっているのかが、彼らに分かるように。私たちを癒やされたお方が、仏陀でもモハメッドでもクリシュナでもなくイエスである事を、彼らが知るようにです。そうですね?私たちはイエスの御名によって、と言いますが、自分が何をしているかに気づいていますか?このように書かれています。「あなた方のする事は、全てイエスの御名によってなしなさい。」全てを主の御名によってするべきであるなら、食べる事もそうではありませんか?歯を磨く事、髪をとかす事も?全てといえば全てです。そうでしょう?ですから、朝起きる時もこう言うのです。「イエスの御名によって」(笑)。もちろんそんな事はしません。しかしお分かりでしょうか。たとえ「イエスの御名で」と言わなくても、あなたは全てをイエスの御名によってしているのです。全ての通常の物事を、イエスの御名によってしているとすれば、霊的な物事をする時にはなおさら、それをイエスの御名によってするのではないでしょうか、イエスの代理として?病人に手を置いているなら、皆さんはそれをイエスの御名によってしているのです。主の権威の下に。それは皆さんの権威ではなく、主の権威です。前にも言ったように、「ビルの名によって」などとは言わないからです。むしろイエスの御名で、イエスの権威によって命じます。そうですね?私たちは御名を呪文のように用いる事をやめなければなりません。それは魔術でも呪術でもありません。魔法の呪文ではないのです。皆さんがその御名を持っており、それを信じているという事実が肝心なのです。アーメン?さて、神は地上のあらゆるものを名づけられたと書かれています。御体の中にいるあらゆる人々も、です。生きてこの地上に存在しているのであれ、既に主のみもとにいるのであれ、教会であるならキリストの体です。キリストの内にいるなら、そうなのです。そしてキリストの体が持っている名前を知っていますか?イエスです。ですから、皆さんがその御名の内にいて、その御名が皆さんの内にあり、皆さんがイエスの内にいるなら、皆さんは誰でしょうか?イエスです。それが皆さんの名前です。皆さん自身にも名前があり、姓や名前を持っていますが、私たちはイエスの御名を使う権利も持っているのです。女性が男性と結婚すると、夫の姓を用いる事ができます。通常は夫の名前をもらい、彼の名でサインする事ができます。彼女の姓は変わります。それがご自分と教会の関係を示す為に、イエスが用いられた例ではありませんか?パウロは夫婦を例にとって説明していますが、実際は教会とキリストの関係を掴んでもらおうとしているのです。ですから、夫婦が同じ姓を共有するなら、キリストと教会が同じ名前を共有するのはなおさらです。皆さんにはその御名を用いる権利があります。キリストの体の一部なのですから。御体の一部ではないとしたら、その御名を用いる権利はありません。御体の一部ではないのにその御名を用いるなら、悪魔が人々から飛び出してきて、皆さんに飛びかかります。スケワの七人の息子たちにそうしたように。
もう一度言いますが、私はただ皆さんに聖句を読み聞かせているだけです。聞いて下さい。皆さんの誰にでも、私と同じように聖句を読む事ができます。しかし、私がそれを解釈しているとすれば、それを解釈するようにと告げるお方が私の中に、そして皆さんの中にも生きておられるのです。ですから、私は皆さんよりも有利な立場にいるわけではありません。恐らく唯一の有利な点とは、あえて言うなら、恐らく経験でしょう。私はここ12年から15年ぐらいの間に、幾らか経験を積んできたからです。そうですね、合わせて30年ぐらいになるでしょうか。しかしもう一つは、私はそのような事に時間を費やせるような仕事をしているという点です。それが有利な点です。ある秘密を教えましょう。私は大の読書好きで、中でももちろん、聖書を読むのが大好きです。私たちは先日、波止場の近くにいて、そこに行く前には、色々な店を見て回ったりしていました。私は、あまり楽しいと感じていませんでした。ある所にやって来て皆でベンチに座ると、ついに私は我慢できなくなって、こんな風に言いました。「ああ、禁断症状だ。」すると皆は言いました。「何の?」「御言葉のだよ。ここ数時間聖書を読んでいないからね。読みたいな。家に帰るよ。」私にとって家とは、モーテルとか泊まっている所の客間とかいった場所なのですが。それが家なのです。「帰りたい。読みたい。読みたくてたまらない。」それで読み始められるように、自分のiPadか何かを探していました。それを持って来ていましたから。何故でしょう?それが習慣になっているからです。それが私の生きる糧なのです。いつもそれを携帯しています。いつも何か読む物…聖書を持っているのです。それに、小さな電話も持っています。以前は一緒にいた何人かの仲間に、私が聖書を持っていないところを見つけたなら…これはウィグルスワースの真似なのですが…聖書を持っていない私を見つけたなら、5ポンドあげようと言ったのです。ウィグルスワースがそう言ったのですが、私はそれを真似たのです。聖書を持っていない私を捕まえたなら、5ドル払おうと。だからもう何年間もこの小さな聖書を持ち歩いています。皆さんにも見せてあげたいものです。情けない状態ですよ。ばらばらにならないようセロテープで留めてあるのです。ジッパーは…あのよくある小型の聖書です…ジッパーは壊れてしまいました。もう何年も前に壊れて、縫い目の所が裂けています。茶色の粘着テープを使って表紙を留めていました。もう今はそれを持ち歩いていません。持ち歩けないほどフニャフニャになってしまったのです。この聖書は何度も読み返されていました。私は読むのが好きなのです。だからこれが欲しかったのです。いつも聖書を持ち歩いているので、仲間たちに言ったのです。自分が聖書を持っていない所を見つけたなら…と。だから何年もこの小型聖書を持ち歩きました。しかし、今では聖書を持ち歩く必要はありません。iPhoneがあるからです。こちらの方がずっと大きいですが、それでもかなり役立ってくれるし、私はこのiPhoneを持っているので、常に聖書を持っているわけです。聖書そのものではなく、聖書の入った携帯電話を持ち歩き始めた時の事を覚えています。実に愉快でした。何故なら、「カリー、君の聖書を見せてくれるかい?」と言われると、 「いいよ」と言って携帯を取り出したからです。その人は、私の聖書が見当たらなかったので、「ああ、5ドルもらえると思っていたのに...」と思っていたのです。今はこれを持っていればいいわけで、普通の聖書よりずっと多くのものが入っているし、ずっと簡単になりました。どこへ行くにも、それを持って行くのです。まあ、皆さんにとっては、そんな事はどうでもいいかもしれませんね。とにかくiPhoneはこの国でも、殆どの地域で機能しますが、私がそれを持ち歩く主な理由は、それにカメラと聖書が付いているからです。聖書には私たちのいるべき場所、とあります。使徒の働きのある箇所には、彼らが御言葉中毒だったと書いてあります。アーメン。中毒です。さて、それは皆さんがなる必要のある中毒です。神の言葉の中毒になる必要があるのです。ただもう、絶えずその事について考えているほどに。そしてそれは、人々がウィグルスワースについて言った事と同じです。彼は一度に30分以上祈る事は決してないが、彼が祈る事なしに30分が経過する事も決してないと。ですから、彼は絶えず祈り続けていたのです。これはサムラル博士が何度か話してくれたのですが、ウィグルスワースが立ち止まってこんな風に言ったそうです。「ちょっと待ってくれ」そして聖書を開いて、ただそれを読み始めるのです。そして読み終わった後で、再び歩き始めようとすると、「いや、まだだ」と言い、次のように祈り始めるのです。「父よ、私たちの目を開いて下さい。この御言葉が私たちの心を支配しますように。」そのように祈り始めたそうです。それから数分間祈り続けると、「ウィグルワースさん。ここの所を読みましょう」と言って、また聖書を読んだりしたのでした。ずっと彼と一緒にいると、そうしてしまうのです。さて、それこそ皆さんの望むものです。御言葉こそがリアルなものとして、御言葉に没頭する事です。アーメン?人々はそれを夢中になると言いますが、それは良い種類の夢中です。そのようにすると、御言葉が皆さんの中で現実となるからです。ですから、そのように神の言葉を読み始めて下さい。
さて、パウロはコロサイ 2:12でも、主についての事は、私たちについても言っているのだと示しています。「あなた方はキリストと共に蘇らされたのです。」「バプテスマによってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から蘇らせた神の力を信じる信仰によって。あなた方は罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなた方を、キリストと共に生かして下さいました。」さて、私たちはいつ生かされたのでしょう?キリストと同じ時にです。お分かりでしょうか?地上に生まれる前から、皆さんはキリストと共に生かされていたのです。主が何をされたのであれ、それをされた時、皆さんが主の中にいたという事実によって。どのように皆さんが主の中に入ったかというと、主を受け入れた時にそうなったのです。しかし、主がされた事は全て、皆さんの代わりにされた事になっているのです。その事を理解していなければなりません。そして、彼はここで言っています。「それは、私たちの全ての罪を赦し、いろいろな定めの為に私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」さあ、見て下さい。「神は、キリストにおいて、全ての支配と権威の武装を解除して。」また出てきましたね、覚えていますか?10節にもありました。「そしてあなた方は、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストは全ての支配と権威のかしらです。」どのようにして、キリストはかしらになられたのでしょう?悪霊どもをさらし者にされたのです。主はそれらを打ち負かし、それらのかしらとなられました。そうですね?それらの上に御力を行使されたのです。公の場で、それらをさらし者にし、その戦いにおいてそれらに勝利されたのです。この「勝利」というのは驚くべき言葉です。パウロがこれを書いたのは、恐らくきっと、二人のローマ兵に鎖でつながれていた事でしょう。そして興味深い事に、彼はずっと次のように書いているのです。「私は自分が留まるべきか去るべきか決断を下そうとしている」と。つまり、生きるべきか死ぬべきか、という事です。「私は去った方が良いし、去りたいと思っている。死ぬ事を望んでいる。私は別にそうしても構わない。しかしあなた方の為に、私はここ地上に、もう少し長く留まっていようと思う。」まるで決定権が彼にあるかのようですね。そうでしょう?彼が決断を下していたのです。想像してみて下さい。彼は二人のローマ兵に鎖でつながれた状態で書いています。そして、彼らには恐らく、パウロが書いている内容が聞こえているのです。彼は通常それを口述し、誰かに書いてもらっていたからです。そして彼は、このように口述していました。「そうだな、どうしようか。ここを去って主のみもとに行く事もできるし、或いは、ここに留まる事もできる。ここに留まる方があなた方にとって益となるなら、留まる事にしよう。ああ、ただもう少しここに居ようと努めるよ。」ローマ兵たちが、「我々には彼を殺す権限がある事を、知らないのだろうか?それなのに自分に決定権があるかのような話し方だ」とでも言いたそうに、顔を見合わせている場面を想像できるでしょうか。しかし実際に、彼は生き延びたのです。彼は二度釈放され、三度目に戻ってきた時に、言い伝えによると、斬首刑によって命を落としました。彼の死に様については何も記述がありませんが、恐らくはそのように死んだと考えられています。そして私は、そこに行った事があります。ローマで福音をのべ伝えたのです。イタリアで何度か教える事ができました。そしてマルタでも。そしてローマでコロセウムと牢獄のそばに行く機会がありました。マメルティヌスの牢獄です。言い伝えによると、そこにペテロとパウロが入れられていました。彼らが入っていたと言われている獄屋も見ました。「言われている」というのは、マルタではパウロの船がここで難破したと言われているからです。島を回ると、「そしてここでパウロの船が難破した」という風に書かれています。そして知っていますか、10ドル払うと別の場所に行って、パウロの船が難破した場所を見る事ができ…私は考えたものです。「わあ、パウロは本当に島中を飛び回っていたのだな」と。彼の船は至る所で難破していました。ですから一部のそういう話にはちょっと気をつけなければなりません。しかし、その場所を見れた事は素晴らしい経験でした。
パウロには決定権があり、彼が物事を決めていました。ある時彼は、自分の命を捧げ物の献油のように注ぎ出しても構わないと言いました。彼が殺されたのは、その直後の事でした。彼が決めたのです。人々は言います。「彼は殺されたんだ、彼は殉教した」と。しかし、彼が決めたのです。彼が行く事を選んだのです。もし彼が自由になれるよう祈っていたなら、間違いなくそうなっていたと思いますが、ある時点で彼は年老いたパウロと呼ばれていたので、どうやら年を取ってきていたようで、恐らくはもう天に行っても大丈夫だと言ったのでしょう。もう終わりにすると。「教会はかなり大変になってきている。海を渡り、船が大洋のど真ん中で難破して漂流するなど、もうそんな目には遭いたくない。あれはまるで楽しくない。そこに行き、すべき事をし、もう家に帰る準備はできている。」それで、彼はただ世を去ったのです。しかしそれは、私たちが時折彼について抱いてきたイメージとは違っていた事に、気づかなければなりません。「勝利」という言葉について話していたのでした。すみませんでした。ここには彼が勝利したと書いてありますが、パウロがここで用いた言葉は、王が公の場で宣言や告知をする時にだけ用いられる特定の言葉でした。さて、ある人が勝利を得るというのは…分かってもらいたいのですが、彼はここでイエスの事を話しているのです。彼はイエスが支配と権威に勝利された事について話しています。さて、この「勝利」という言葉は、ローマの将軍が戦地に赴いて勝利するか、ローマへの勝利の凱旋を果たす時にしか用いる事ができませんでした。何故なら兵士たちを、ルビコン河の対岸に置いてこなければならなかったからです。兵士たちを連れてローマに入る事はできませんでした。それは侵略行為と見なされるであろうからです。ですから戦地に出向いていた将軍が帰国すると、人々は彼をルビコン河の対岸で戦車に乗せ、彼は兵士たちをその場に残して、戦車でルビコン橋を渡ってローマに入り、そしてローマ国民全員が、当時のカイザルに、それに参加して通りに並ぶよう命じられたのです。そして市民は通りに並んで、花を投げました。勝者をたたえて色々なものを投げたのですが、彼らはまた、彼の戦車の前に人々を歩かせる事もしました。その方法は時代ごとに様々でしたが、彼らが入城する時、戦車はしばしばそれにつながれた七頭もの白馬に引かれている事がありました。ここからも、この行事が通常のものではなく、特別なものである事が分かります。アメリカでもそれと非常によく似た、栄誉のメダルと呼ばれるものがあります。大抵の人はそれを栄誉賞と呼んでいますが、実際は栄誉のメダルです。それは非常に特別な時にしか与えられないのです。実際にもらった人はほんの数人しかいません。これもそれと同じようなものです。その将軍は戦場に出向かなければならず、しかもそこで圧倒的な勝利を収めねばなりません。つまり、それは敵を、いわゆる「デシメート(10人ごとに1人を殺す)」という事です。そしてそれは、戦場で対戦した10人の内、少なくとも1人は殺さなければならないという意味です。そう、それが「デシメート」の意味するところです。デシはラテン語で10を表します。ですから、10人の兵士の内1人を殺さなければならないのです。千人が襲ってきたら、少なくとも100人は殺さなければなりませんでした。戦場においてです。すると勝利は決定的なものとなり、敵は完全に討ち滅ぼされてしまいます。もはやどんな軍勢によっても、再び襲ってくる事ができないほどに。それが2番目の満たすべき条件でした。
3番目に、その将軍は戦いに勝った時、帝国に広大な領地を増し加えなければなりませんでした。どんな将軍も、ローマへの勝利の凱旋を許されるには、これらの3つの条件が満たされなければならなかったのです。そして、それら3つの条件が満たされた事を示す為に、彼らは通常、その将軍を6頭の白馬が引く特別な戦車に乗せました。馬以外のものにそれを引かせる事もありましたが。多くの場合、彼を町まで引っ張ってきたのは、彼がその戦いにおいて実際に捕らえた奴隷たちでした。ですから、彼らは奴隷たちを彼の戦車に繋いで、町までそれを引いてくるよう強要したのです。誰が戦車を引いているかによって、彼が打ち負かした敵がどのような人々なのかを、国民が見る事ができたからです。そして彼らは馬車の前後を歩き、彼らはその奴隷たちに、敗北した敵の前を歩かせて、花や他のあらゆるものを撒き散らさせる事もありました。彼らが、道端に立っている人々に向けて、果物や野菜を投げ与える事すらあったのです。当時それらはとても高価でした。そして勝利が大きければ大きいほど、より多くの戦利品が配られたのでした。パウロは次のように言いました。「(イエスは)全ての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」それはあたかも、彼らが主の戦車を引いて町に入り、主が敵をさらし者にされているかのようです。彼らを辱めておられるのです。どれほど徹底的にご自分が彼らを壊滅させたかを、見せておられるのです。そしてこうあります。「彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」ここに注目して下さい。「イエスが死から蘇られた時に。」私たちはイエスがここ地上にしばらくおられた事を知っています。彼らにこう言われたからです。「私に触れてはいけません。私はまだ父のもとに昇っていないのだから。」そうですね?まだご自分に触ってはならないと言われたのです。しかし、後になって主はこう言われました。「私に触ってご覧なさい。」そうでしょう? つまり、その時は既に父のみもとに行き、戻って来られた後だったのです。そうですね?主は天に行き、戻って来なければなりませんでした。ですから今私たちは、主が行かれた時に、何故彼らが主に触ってはならなかったかが分かります。主はこう言われたからです。「私に触ってはならない。至聖所に私の血を持って行かなければならないからだ。そしてそれを、恵みの御座に注ぎ出さなければ。」そうですね?それはベマや裁きの御座とも呼ばれています。面白いではありませんか?裁きの御座が恵みの御座になったのですから。何故でしょう?血が注がれたからです。ですから、いったん血が注がれると、裁きの御座は恵みの御座となったのです。アーメン?さて、主がされた事とはこうです。天国に行ってご自分の血を注ぎ出さなければなりませんでした。天国に行かれたこの時こそ、主が勝利をおさめられた時です。お分かりでしょうか?勝利は軍隊を打ち負かす事ではありませんでした。勝利とは、勝利に満ちて天国へと凱旋し、支配と権威をその行進に加えて、ご自分が天国に入られる時に、それらを霊界全体の前でさらし者にされた事だったのです。主は敵をご自分の前に歩かせられました。天に昇られた時、主は捕囚として捕らえられていた人々も、一緒に連れて行かれました。アブラハムの懐に保たれていた者たちを。彼らは捕囚となっていました。そうですね?そして主は彼らを導かれました。彼らはその当時、神と分断されていたからです。しかし天に昇られた時、主はその人たちも一緒に引き連れて行かれました。そしてその時です、主が人に賜物を与えられたのは。使徒、預言者、宣教者、牧師、そして教師を。そう書かれているではありませんか?天に昇られた時、主は賜物を与えられたのです。人々が、「使徒たちは死んでしまったから、それは真実ではない」と言ったのを知っています。今後は決して十二使徒が出現する事はないでしょう。彼らが現れる事はもう二度とありません。主はご自分が地上におられた時に、それらの使徒たちを与えられました。しかし、エペソ四章で主が与えられた使徒たちというのは、ご自分が天に昇られた時に与えられた、昇天の賜物の事でした。ですから、それは二番目の使徒たちの一団だったのです。それらの使徒たちは、特定の個人の事ではありませんでした。子羊の十二使徒たちは個人です。彼らは決して異なった者にはなりません。しかし、主がエペソ四章で与えられた使徒たちは、その時々によって様々な人々が担う責務です。ちょうど大統領のように。今そこには大統領がいますが、いつか彼はいなくなり、他の誰かがその役職を引き継ぎます。責務は続きます。使徒たちの責務も続くのです。ご自分の教会の責務として継続するよう、イエスがそれを教会に与えられたからです。またそれは、癒やしが教会において存続し続ける理由でもあります。第1コリント12:28 を読むなら、そこにこう書いてあるからです。「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました」と。そうですね、実際そこには、「第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒しの賜物」とあります。ですから、癒やしの賜物は教会がある限りずっと教会の中にあり続けるのです。教会が存在する限り、使徒も、預言者もいる事でしょう。何故でしょうか?それらの役割はそこに置かれたからです。教会がある限り、奇跡が起こる事でしょう。もう一度、第1コリント12:28 を読み直してみて下さい。そこにそう書かれていますから。今晩読んでみて下さい。明日の朝9時にまたお会いしましょう。
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