2023年9月29日金曜日

New Man セッション6

 セッション6



それでは、席について下さい。始めましょう。マニュアルの12ページです。マニュアルを持っていないなら、エペソ4章、22節から始めます。私たちはこの「新しい人」について、どれ程大切であるかを話しています。エペソ4章22節では、「その教えとは、あなた方の以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべき事」とあります。ストロング・コンコーダンス#391のギリシャ語は、「anastrophe」で「態度」、「生活」という意味もあります。それで、パウロは「以前の生活を脱ぎ捨てなさい」と言っているのです。一つ驚くべき事は、「生活」と「会話」が関連していて、英語訳は「会話」という語を使っているという事です。皆さんが話す言葉は、皆さんの生活に関わるものです。「以前の生活を脱ぎ捨てなさい」とパウロは言い、「古い人は人を欺く情欲によって滅ぶもの」、「思考の霊(気質)を一新させなさい」、24節では「新しい人を着なさい」「その新しい人は真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された」と言っています。


先に言いましたが、パウロは割礼や無割礼が重要ではなく、新しい人が重要だと言いました(ガラテヤ 6:15)。ここでは彼は、新しい人は神にかたどり造り出されたと言っています。つまり、複写のような、同じ種類、神の似姿という事を言っているのです。それは、「義と聖をもってかたどり造り出された」と言っています。そして、コロサイ3章9-10節で「互いに偽りを言ってはいけません。あなた方は、古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」と言っています。


「新しい人」がどの様なものか見えてきましたか?霊において神の様に見えるのです。神はご自身の命を捨て、人が造られた元の姿、神の形に皆さんの霊を神の義において再創造さたのです。多くの場合、私たちは言葉の本当の意味を知らずに使っているので、私が定義を教えましょう。「義」という語は、「正しさ」という意味で、それは良いのですが、それだけでは十分ではありません。「義」というのは、全く劣等感や非難などが無いという事です。神の前、人の前、そして悪魔の前に立っても、劣等感や非難される感じを持たないのです。何故かと言えば、神の前で正しいからです。「正しさ」や「義」の定義は、とてもシンプルです。それは、「自分のであるべき姿にされる」という事です。驚きですよね?何とシンプルな定義でしょうか。皆さんが神の霊において再創造された時、生まれ変わった時、皆さんがあるべき姿に創造されたという事です。素晴らしいと思いませんか?


それから、次の事も定義しましょう。私たちが「キリストにあって」という時、私が皆さんは生まれ変わりましたという時、それはコロサイ人への手紙で言う、キリストにあって完全だという事です。それを聞くと人々は、「私たちがする、これやあれはどうですか」などと聞きます。明確にしたいと思いますが、エペソでは私たちは成長してキリストの様になると言っています。私たちが成長するという事については、聖書では、五役者の働きの目的の一つが聖徒が大人になる為だとしています。それが鍵です。私には五人の孫がいます。一歳から十歳、その中で、一番小さい二人は女の子です。一人は私の息子の娘で、もう一人は娘の娘です。孫たちが生まれた時、皆、同じ様に生まれたのですが、一番下の子をいつも例として取り上げています。でも、その子も同じ様に生まれました。子供が生まれる時、車輪のついたもので運び込まれ、皆の前で見せます。すると、人々は「おー」とか「あー」といって写真を撮ります。最初にする事と言えば、全てを数える事です。二つの腕、二本の足、両耳、鼻、両目、指、全て良し、という風に。全てを数え終わると、「全て完全だ」と言います。しかし彼らは、体が揃っていても、まだ成長はしていません。そうですよね?この子が生まれて、育って行く時、成長は三本目の腕が伸びて行く事ではないですよね?その子は、同じ肢体を持ち、全ては成長した時も今の時も同じです。そうですよね?


唯一の違いは、全体のバランスが取れた成長を成し遂げるという事です。又、鍵となるのは、その子が生まれ持ったものを、どの様にして使うかを学ぶ事、それが成長であるという事です。成長過程というものがあります。成長とは、持って生まれたものを正しく使えるように学ぶ事です。今その子はどこへでも歩いたり走ったりしています。いいですか、この子は完全に生まれて来ました。生まれ持ってきたもの、それ以上のものを持つ事はありません。彼女はどの様にして使うかを学び、それは全体のバランスが取れた成長となります。何かが欠けていて、それ以上に加えられる必要があるという事ではありません。クリスチャンの場合でもそうです。新しく生まれ変わった時、皆さんは完全でした。ある人は言います。「聖霊のバプテスマはどうなんですか?」その言葉使いに気を付けなければいけません。使徒の働き1:8 によると、神の霊を受けるのは、皆さんが証人となるという唯一の目的の為です。もし、山の上かどこかにいて、そこに一人だけいるとして、誰かがそこに来てイエス・キリストを証しして、皆さんが新生したなら、その人は皆さんをそこに残して去って行くでしょう。皆さんが新生した時、クリスチャンとして歩める全てを持ったのです。何かキリストを証しする為の必要があるなら、その時は聖霊が必要なのです。私たちはそれを通常、「聖霊のバプテスマ」と呼びます。しかし、それは奉仕の為、力の為です。何故なら、聖霊が臨む時に力を受けると言っているからです。そうですよね?聖霊のバプテスマは力の為ですが、皆さんがクリスチャンとして生きる為には全ての必要を持っています。もし、力を持っていなかったとしても、信仰があるなら、事は起きます。分かりますか?何故なら、神への信仰で山に向かって言うなら、その通りになるのです。その為に力は必要ありません。ただ神への信仰を持つだけです。そうですよね?神によって癒される為に、聖霊に満たされて、異言を話すクリスチャンでなくても良いのです。ですよね?或いは、誰かの為に祈って癒される為にもそうです。アンドリュー・マーレ―は、ここ南アフリカで素晴らしい癒しを行ない、神の癒しを信じ、自分自身も癒されたのですが、その時は、彼は私たちが言う「ペンテコステ系の聖霊のバプテスマ」を受けていませんでした。


ジョン・アレクサンダー・ダーウィーという人は、メジャーな奇跡、癒し、あらゆる種類の奇跡を行なったもう一つの良い例です。しかし、私たちが「聖霊のバプテスマ」と呼ぶものに、彼は死ぬまで完全に反対しました。ジョン・レイクは、1891年から1907年10月までずっと奇跡と癒しを見て、1907年10月まで聖霊のバプテスマを受けませんでした。それで、レイクが見ていた全ての奇跡や証言、それまでの間は、私たちが知っているような「御霊の満たし」を経験していたのではなかったのです。それでも彼は奇跡と癒しと他の全てを見ました。彼らがしていた事は、彼らが信仰をもって活動していたという事でした。彼らは神の癒しに関しての真理を持っていました。つまり、彼らは癒しについて神を信じていました。彼らは、今日私たちがバプテスマと呼んでいる意味での、異言を伴う聖霊のバプテスマを必要としませんでした。さて、皆さんが本当に特定の事を取り扱いたいのなら、定義などについて話すべきです、そしてそれは、間違いなくこのセミナーの目的ではなく、その為の時間がありません。しかし、その多くは定義に関係しています。さて、ここでパウロが言っている事に注目して下さい。11節で、「ここには、ギリシャ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストが全てであり、全てのうちにおられるのです」と言っています。分かりますか?彼は全てのものは重要ではないと言いました。キリストがあなたの中にいるという事、それが重要なのです。繰り返しますが、彼は同じ事を言っています。ローマ6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする為です。」その新しい命は生まれ変わった命です。


ローマ 7:6 では別の言い方をしています。「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」第一ヨハネ 4:17 も再び言いますが、皆さんとキリストが一つになっているという事を示したいからです。ヨハネの14章には「あなた方が、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう。」10節まで戻って読んでしまいましょう。「私が父におり、父が私におられる事を、あなたは信じないのですか。私があなた方に言う言葉は、私が自分から話しているのではありません。私のうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。私が父におり、父が私におられると私が言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。まことに、まことに、あなた方に告げます。私を信じる者は、私の行なうわざを行ない、又、それよりもさらに大きなわざを行ないます。私が父のもとに行くからです。」イエスが父の所に行く事について話している事に気づいて下さい。「あなた方が、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう。」どうしてでしょうか?「父が子によって栄光をお受けになる為です」とある通りです。



何故、あなたの祈りが答えられるのか知りたいですか?それは御霊が、父と子に栄光をたたえているからです。それはあなたとは何の関係もありません。そうですよね?イエスは言い​​ます。「私の名によって求める事は何でも、それをしましょう。あなたが私を愛しているなら、私の戒めを守りなさい。そして私は父に祈ります。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなた方にお与えになります。その助け主がいつまでもあなた方と、共におられる為にです。その方は、真理の御霊です。」ですから、私たちはイエスが御霊について話している事を知っています。「世はその方を受け入れる事ができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなた方はその方を知っています。」注目して下さい。「その方はあなた方と共に住み、あなた方のうちにおられるからです。」違いが分かりますか?イエスは特にご自身の死ぬ前と死後との違いをはっきりさせ、そして今、御霊はあなた方と一緒に住んでいると言います。御霊はあなたとここにいます。しかし、御霊はもはやあなたと一緒ではなく、あなたの中にいるという時が来ています。イエスは、私たちが今、御霊と持つであろう関係を示す為に、ご自分の道を行かれました。


イエスは言いました。「私は、あなた方を捨てて孤児にはしません。私は、あなた方のところに戻って来るのです。いましばらくで世はもう私を見なくなります。しかし、あなた方は私を見ます。私が生きるので、あなた方も生きるからです。その日には、私が父におり、あなた方が私におり、私があなた方におる事が、あなた方に分かります。」聞きましたか?「私は父の中にいます。あなたは私の中にいます、そして私はあなたの中にいます。」それについて考えて下さい。どうして皆さんはイエスの中、そして彼はあなたの中に、イエスと父の中にいる事ができますか?それを理解し始める事ができる唯一の方法は、量子物理学を学び始める事です。量子物理学では、距離と質量のようなものは全て存在しなくなるので、その事を説明できるのに近づく唯一の方法です。イエス様は21節でこう言います。「私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛する人です。私を愛する人は私の父に愛され、私もその人を愛し、私自身を彼に現わします。イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」イエスは彼に答えられた。「だれでも私を愛する人は、私の言葉を守ります。そうすれば、私の父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人と共に住みます。私を愛さない人は、私の言葉を守りません。あなた方が聞いている言葉は、私のものではなく、私を遣わした父の言葉なのです。この事を私は、あなた方と一緒にいる間に、あなた方に話しました。しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなた方に全ての事を教え、また、私があなた方に話した全ての事を思い起こさせて下さいます。私は、あなた方に平安を残します。私は、あなた方に私の平安を与えます。私があなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」


ここにはもっと進んで読むものが沢山ありますが、私は2つの事に関して話したいと思います。そして、この章の最後まで14、15、16ページを読んで、メモをとる事を強くお勧めします。聖書を読んでから、その聖句が言っている事を一行に書いて下さい。皆さんに対して言っている事や、皆さんが今キリストと共に歩いている事ではありません。この手紙を誰かに書いているように、その聖句が言っている内容を自分の言葉で書いて欲しいと言っているのです。そして、できるだけ単純に、正確に、その通り言っている事を書きます。これらは驚くべき御言葉なので、戻ってまた読む時が来るかもしれません。しかし、セクション4に進みたいと思います。マニュアルでは45ページです。非常に重要な理由がここにあります。聖書だけを見ていきます。そして、今週話しているのが何であるか、何故私がこれまで言ってきたのかを皆さんに注意を向けさせたいと思います。ローマ 16:25「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導く為にあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなた方を堅く立たせる事ができる方」


それでパウロたち何を説教しましたか?イエス・キリストを説教しました。奥義の啓示です。ですから、ここで話しているのは、世界が始まって以来隠されていた奥義の啓示です。ですよね? 「しかし、今は明らかにされています。」従って、以前は奥義であったものは、もはや奥義ではありません。現在は、現わされています。 「永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導く為にあらゆる国の人々に知らされた。」そして、私たちは既にこの殆どを読みました。第一コリントの2章を見て下さい。「さて兄弟たち。私があなた方のところへ行った時、私は、すぐれた言葉、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝える事はしませんでした。私は・・・・決心したからです。」つまり、パウロは選択をしたのです。「あなた方の間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方の他は、何もしらない事に」「あなた方と一緒にいた時の私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私の言葉と私の宣教とは、説得力のある知恵の言葉によって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」ここで、2つの事に注意して下さい。御霊のデモンストレーションは必ずしも力のデモンストレーションではありませんが、彼は御霊と力のデモンストレーションと共にそこにいました。何故なら、御霊のデモンストレーションは必ずしも力のデモンストレーションではなく、御霊の存在のデモンストレーションである場合があるからです。知識の言葉、知恵の言葉、そのようなものは御霊のデモンストレーションですが、必ずしも力のデモンストレーションではありません。


力あるわざは一般的に信仰の賜物、奇跡の働きであり、癒しの賜物の幾つかでさえ、力の賜物と関係があります。そして、彼はここで賜物について話しているだけではありません。彼は御霊と力の違いを示す事について話しています。パウロは5節で、その理由を宣べています。「それは、あなた方の持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、」「人間の知恵のみ」に支えられずと私はむしろ言います。「神の力にささえられる為でした。」「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。」ここを見て下さい。「この知恵は、この世の知恵でもなく、」パウロは二つの知恵について語っています。ヤコブも二つの知恵があると私たちに言っています。神から来る神の知恵と、人間の知恵である地上的で五感に支配された悪魔の知恵があります。パウロはその知恵を説教する為に来なかったと言いました。しかし、神の知恵と共に来ましたと言っています。「この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。」と彼は言います。


ここで彼は再び奥義について話しています。「・・・私たちの栄光の為に、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」さて、世界が始まる前に神が計画されていた事が、私たちの栄光になる事に注目して下さい。それはすごい事ではありませんか?それは神の栄光になりますが、ここで神は彼自身ではなく私たちの栄光の為にそれをした事を強調しています。いいですか?人々はいつも心配して言います。「神の栄光に触れないで下さい。」神の栄光に触れる事を心配する必要はありません、神は皆さんにそれを与えました。ですよね?皆さんのものです。どうしてか?皆さんは神と一体だからです。主と交われば一つの霊です。



もう一度、神について話す時、特にイエスについて話す時は、「神」と「私たち」を別にする考えから離れる必要があります。ただ「私たち」なのです。分かりますか?それは私と神ではなく、私たちです。イエスが言ったように。イエスは、「父と私は一つです」と言われました。さて、イエスは私たちがキリストとの共同相続人であると言われました。言い換えれば、イエスが持っているものは何でも、私たちも持っています。相続を分かち合う事ではありません。相続を分かち合う人は全てを分割します。共同相続人とは、イエスが持っているものは何でも、私たちが持っている事を意味します。それで、もしイエスが父と一体だったとしたら、何を推測しますか?私たちは父と一つです。私たち自身の行いやそこにたどり着く為にした事に基づくものではなく、私たちがキリストの中にいて、キリストは父と一つであるからです。生きているのはもはや皆さんではなく、皆さんの中に住んでいるキリストである事を忘れないで下さい。アーメン?ですから、皆さんは権威を持って話す事ができるのです。どうしてか?それは皆さんの権威ではないからです。イエスは、「天と地の全ての権威が私に与えられた」と言われました。「従って、あなた方は私の名前で行きなさい。これらをしなさい。」そうですよね?



イエスが全ての権威を持っていると書かれている事に注意して下さい。それは、私が前にDHTTで言ったように、「全て」の権威を意味します。皆さんがそれの幾らかだけを持っているならば、イエスはその全てを持っていません。ですから、皆さんが権威を行使する時はいつでも、それは皆さんのものではなく、全てイエスのものです。しかし、皆さんはもはや生きておらず、今皆さんを通してイエスの人生を生きているのはイエスご自身なので、皆さんはイエスの完全な権威を行使しています。そして、それは一部ではありません。イエスが皆さんに限定的な権威を委任していると思う限り、「私はこれだけ持っています。そして私は本当に忠実です。神は私にさらに与えてくれるでしょう」と考える事でしょう、そのような事では上手くいきません。皆さんはキリストにおいて、共同相続人として、彼が持っている完全な権威を持っています。ですから、どんなものが皆さんに逆らっても、皆さんが何に直面しても、イエスの名前を使うと、それは効果を出すのです。何故でしょう?全ての権威がその名前の背後にあるからです。皆さんが良いクリスチャンであるというので、ほんの少しだけの権威を持っているのではありません。悪霊に悩まされている人や病気の人は、権威が殆どない、悪霊を追い出す事ができないクリスチャンに会ってしまったと騙される必要はありません。


そうした人たちは、自分の権威ではなく、イエスの全て権威の下で働いている事を理解しているクリスチャンと出会う必要があります。もし、「今週私は良い人であった」という事で、皆さんが外へ出て行くのなら、「もっと力を持つだろう」と思うでしょう。そうするなら、皆さんが祈る時、皆さんは自分の名前においてやる事になります。分かりますか?自分の名前で祈るつもりがないのなら、皆さんが行うように振る舞わないで下さい。自分が神と離れているとさえ考えないで下さい。皆さんが話す時、イエスが話すのです。皆さんがイエスの名により求めるものは、何でもイエスはして下さるのです。この事は、皆さんとキリストとの一体を示す、全ての聖句に対して目を開く事でしょう。人々が皆さんにある事をするなら、それは皆さんにしているのではなく、「私にそれをしている」とイエスは言ったからです。イエスはそう言いませんでしたか?私たちはいつも、人々は私たちを迫害していると言ってきましたが、私たちではなく、イエスを迫害していたのです。さて、迫害についてそう信じるなら、権力についてもそう信じて下さい。アーメン?それは全てかゼロのどちらかです。キリストを皆さん自信から、引き裂かないで下さい。


イエスは、誰かが私の名によって一杯の水さえ与えたら、私は彼らに報酬を与えると言います。そうじゃないですか?ですから問題は、それを信じるかどうかです。私たちはイエスと一つです。それは既に皆さんの霊で成されているので、その一体を思考に入れて下さい。そして、イエスのように歩き、話し、行動するように、その一体を皆さんの中に入れましょう。皆さんが話す時は、イエスに代わって話しているのです。だからイエスは、「私が話す言葉は私のものではなく、父の言葉です」と言う事ができたのです。どうしてでしょう?それは、イエスが父なる神と一体であったからです。イエスは、「私の父と私は一つ」だと言いまた。これについて考えてみて下さい。神と一つなら、語る言葉は、神の言葉だと言う事ができます。神と一つならです。イエスはご自分が神と一つであるという事を強調し、イエスが語った時、神が語ったと言ったのです。ですから、私が話すなら、それはイエスが話すのです。私の言葉ではなく、イエスの言葉です。私がしているのはイエスの言葉を読む事だけです。そして私がイエスの言葉を話すならば、それはイエスがそれを言うのと全く同じなのです。私たちはキリストの体ではありませんか?


私たちがキリストの体であるならば、私たちの口にするキリストの言葉は、イエスがここにいた時のイエスご自身の口からの言葉と同じくらい強力であるはずです。今日のキリストの体が発する言葉は、イエスの言葉よりも力が弱いのでしょうか?イエスは、「私が父の所に行くので、あなたは私ができるのと同じわざをする事ができ、それよりも大きなのわざをする事ができる」と言いました。ですから、私たちの言葉は弱いものであってはいけません。今、私たちの口のイエスの言葉は、劣った力を持っているべきではありません。より大きな力を持つべきです。どうしてでしょう?イエスは父の所に行ったからです。イエスは悪魔を打ち負かし、全ての悪霊を打ち負かしました。敵はもう問題ではありません。悪魔が皆さんを騙さなければならない理由はそこにあります。サタンは皆さんを説得しなければなりません。皆さんに考えを与えなければなりません。彼が強いのだという事を事実として、皆さんに思わせたい、サタンはそう考えています。


私は前にも言いましたが、もう一度言います。私がここで皆さんに教えている多くは、DHTTのトレーニングが上手く機能する理由についてです。それで、癒しについて教えているのではありませんが、多くのDHTTのトレーニングの内容を聞くでしょう。人々は悪魔がとても強大で、強力だと思っています。それを口にはしませんが、彼らの生き方に表れています。しかし悪魔は、殆どの人が思っているほど賢くはありません。福音書に戻って見て下さい。イエスが生まれた時の事を福音で読んで下さい。東方の三博士はイエスを見つけましたが、悪魔はできませんでした。 三人の人間がイエスを見つけたのは、星を見る事ができたからでしたが、悪魔はイエスを見つける事ができなかったのです。悪魔イエスを見つける事ができなかった為、ヘロデに二歳以下の全ての子供を殺させなければなりませんでした。何故なら、誰がイエスか分からなかったからです。それで、イエスを見つける事ができなかったという理由だけで、悪魔はその世代全体を殺しました。これがあなたがとても強いと思っている者なのです。いいですか?人々があるイザヤの聖句をどのように解釈するかには違いがありますが、一般的な考えでは、その箇所はサタンと終わりを指しているという事です。世界はサタンを見て、「これが、地の全体を震えさせた者なのか?」と言うと聖書にあります。今すぐサタンをそのような者として認識し、見て下さい。



マルティン・ルターについて少し話します。マルティン・ルターは、今日では、殆どの説教壇で説教する事さえできないような人でした。彼の説教の半分は、使用した言葉のせいで、どの会衆でも話す事さえできないようなものなのです。それらは、説教壇からは言うまでもなく、個人的な会話でも受け入れられないでしょう。彼のものを幾つか読んで下さい。言葉使いは良くないものです。でも聞いて下さい。彼は一つの良い考えを持っていた事は確かです。義は信仰によって生きるという事です。彼はそれを言って、残りの時間は口を閉ざすべきだったのです。(笑)



次に、スミス・ウィグルスワースです。スミス・ウィグルスワースはブラッド・フォードの家で眠っていました。彼は下で音を聞いたので、階段を降りてきました。彼が階段を降りて、部屋を見渡すと、悪魔がそこにいたのでした。ただの悪霊ではなく、悪魔自身が現れました。それはウィグルスワースの居間の椅子に座っていました。ウィグルスワースが階段を下りると、周りは静まっていました。彼は悪魔を見て、「なんだ、お前か」と言って振り返り、二階に戻って寝たのです。ウィグルスワースは恐れていたようには見えませんでした。(笑い)「お前が去る時には、明かりを消すんだ」と言いました。


次は、サムラル先生がフィリピンにいた時の話しです。彼がある部屋にいた時、暑かったので、窓を開けて、薄手のカーテンをぶら下げていました。その夜、ベッドで寝ようとしていると、悪霊がやって来ました。文字通り、悪霊が彼の部屋に入ってきて、カーテンが突然動きました。彼は悪霊を見なかったのですが、カーテンが動くのを見ました。彼は、ベッドに横たわっていたのですが、ベッドは床の真ん中まで動き始ました。悪霊は何かをしようとしていました。悪霊が何かをする事ができれのなら、それをしたでしょう。しかし、ベッドを動かしてサムラル先生を恐れさせようとする事だけでした。


もし彼が悪霊を傷つける事ができたなら、彼は傷つけたでしょう。それは皆さんが理解しなければならない事です。悪霊は、皆さんに「わーっ」と言わせたりします。そうする事によって、「俺に関わらない方がいい。俺はタフだ」と言う事ができるからです。本当にそうでしょうか?では、何故トリックをしているのでしょう?悪霊はベッドを床の真ん中に動かし、サムラル先生はベッドから出てそれを見て立ち上がって、「悪霊よ!ここから出て行け!」と言いました。サムラル先生はカーテンを見たと言いました。悪霊が去り、カーテンがフッとなって、出て行ったのでした。悪霊は出て行ったのです。彼はベッドの所に戻ってそれが床の真ん中にあったので、窓の所に戻って「悪霊!ここに戻って来い!」と言いました(笑)。それで悪霊は戻って来て、カーテンがフッと吹きました。サムラル先生は、「お前がここに入った時、そのベッドは壁側にありました。お前が去る時も、そのベッドは壁側になければいけません。今それを元に戻しなさい!」と言いました。(笑)そして悪霊がベッドをズズッと動かし、壁に戻すまでそこに立っていたと言いました。それから悪霊は去りました。そして彼は戻ってベッドに横になりました。


さて、殆どの人は、そのベッドに戻る事はありません。皆さんの半分は一晩中起きていて、窓やドアなど、全てを閉じてボルトで固定した後で、祈ったり何かをしたりするでしょう。しかし皆さんは、悪霊は思っているような者ではない事を理解しなければなりません。悪霊はそんなにはひどい存在ではありません。彼は皆さんを傷つけるように説得しなければなりません。悪霊に説得させないと決めた場合は、問題の90%が直ぐに解消されます。ただそれで終わります。そして悪霊がやって来ようとすると、皆さんはただ打ち傷を与えてとどめを刺します。ちょうどローマ 16:20 のような聖句です。「平和の神は、すみやかに、あなた方の足でサタンを踏み砕いて下さいます。」皆さんがサタンの頭を踏むと、それは皆さんのかかとの下で彼を傷つけている神によります。どうしてでしょうか?気づいていますか?皆さんは悪魔を踏みつけているのであり、それは神が彼を傷つけているのです。分かりますか?皆さんはそれをしなければなりません。神は悪魔を皆さんのかかとの下、足の下に置くつもりだと言ったのです。皆さんは神が打ち傷を与える事ができるようにする為に、幾つかのステップをしなければなりません。アーメン?分かりますか?



それでは、セクション6に進みましょう。さて、ここで質問がありました。自分を燃え立たせる方法について話したいと思います。自分を燃え立たせるには色々な方法があります。方法の一つは、皆さんが最も聖なる信仰で祈る事、聖霊で祈る事によって自身を築き上げるという事です。いいですか?それは異言で話す事で、それは自身を築き上げる方法です。自分自身を築き上げる事と霊を再燃させる事は、実際には二つの異なるものです。築く事の例を挙げます。ここが奇跡が起こるレベルであるなら、殆どの人々はこの下の方で生きています。人々は、必要性や問題によって、時には故意に、様々な方法で霊を再燃させます。自分自身の霊を燃やし、ピークに達し、また下に戻るでしょう。彼らがこのピークに達すると、奇跡が起こります。しかしこのレベルは、彼らが通常歩んでいる所ではありません。しかし、それから彼らは霊を燃やします。しかし、今、再燃させたものは蓄積されていません。それは「出来事」であって、「築き上げる」とはこのレベルで歩むまでに築くという事です。そして、皆さんがこのレベルに生きる時、奇跡が起こります。ですから、皆さんはただ自分を燃え立たせるだけでなく、築き上げられる必要があるのです。分かりますか?


築き上げる方法が幾つかあり、燃え立たせる方法が幾つかあります。それらは非常に似ており、重複しています。築き上げる一番の方法は、御言葉を大声で読む事です。しかし、真の知識に従ってそれを読まなければなりません。ある教派の視点、特にあなたが終焉説を教えている教派から来たのなら、「癒しや奇跡は過ぎ去りました」と彼らは教えますが、そうした余計なものを通さずに読みます。御言葉を宗教的な目で読むならば、宗教に築き上げられるでしょう。ですから、私たちは真理を持って、築き上げられるのです。さて、皆さんが定期的に異言で祈るなら、1時間、2時間、毎日...。ある期間を経ると、皆さんは築き上げられ、そこのレベルに歩むようになるので、異言で祈っていなくても、そこに足を踏み入れるだけになり、とても簡単になります。アーメン?素早く霊を燃やす必要がある時いは、異言で、少しの間大声で強く、力強く異言で祈ります。長くやる必要はなく、だいぶ短くても良いです。今から数分後に、ここでやろうとしている事をやるなら、それは皆さんを奮い立たせ、築き上げる事にもなります。つまり、私たちが祈り終わる時、文字通り、皆さんがここに来た時よりもわずかに高いレベルになります。御言葉を聞いたという事だけで、既に幾らかそのレベルにいます。異言で祈る事はもう一つの方法ですが、私たちがやろうとしている事を行う事によって、皆さんをより高いレベルに引き上げます。


私の後に繰り返して言って下さい。しかし、覚えておいて下さい。真理の原則があります。真理は真理で、そのままの通りです。詳しくは、明日話します。私がピレモン6節で言った事を思い出して下さい。「あなた方の信仰の交わり(会話)は、キリスト・イエスにおいてあなた方の中にある、全ての良い事を認める事によって効果的になります。」それが私たちがやろうとしている事です。これは皆さんの信仰が有効になる為のものです。義人の熱心な祈りが大いに役立つように、キリストにあって皆さんが所有しているものを認識する事は大切です。熱心であるほど、より効果があります。いいですか?ですから、冷たくて死んだ人のように宣言しないで下さい。宣言する内容を本当だと考えるように。これを熱心に言って下さい。いいですか?皆さんは自分が本気であると、悪魔を説得しなければならない時がある事に気付くでしょう。そのような単純な事です。悪魔は本当に手に負えない子供のようなもので、ただ、「いいか?私は真剣なのだ。それだけだ。お前がこれをもう一度やるなら、こうなるぞ」と言わなければならない事があるのです。敵が皆さんを信じないなら、再び同じ事をするでしょう。皆さんは悪霊どもに皆さんが真剣であると納得させなければならないのです。ですから、本気で言って下さい。


私は新しい創造です。全てのものが過ぎ去りました。

私の中の全てのものは新しいです。私の中の全てのものは神のものです。

私はイエス・キリストによって神と和解しています。

イエスは私に和解の務めを与えて下さいました。私はキリストにあって神の義です。

私は彼と一緒に働く者です。キリストにおいて、新しい創造だけが意義あるものです。

私はキリストと完全に一つである新しい人です。

私は古い人とそのライフスタイルを脱ぎ捨てました。

私は思考の霊において新しくなりました。

ギリシャ人もユダヤ人も、奴隷も自由人もありません。

しかし、キリスト・イエスにあって、一つです。

私はキリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られました。

従って、私は命の新しさの中を歩きます。彼は命の新しさで蘇ったからです。


次の数ページにわたって、100の宣言があります。これらは全て御言葉です。さて、私がした事は、御言葉を取り、それらを個人的なものにしたという事です。聖書に事実として述べられているものは何でも、皆さんの為の事実として個人化するのです。それから、後二つの事があります。箴言を毎日読んで下さい。ただ通読するだけです。そうするならば、知恵を得るでしょう。とても単純です。神はあなたが知恵を得るだろうと言ったので、そうなります。


第二に、私は詩篇を150篇を全て取り、どれが単に賛美と礼拝の為のものであるかを見つけ、私生活の中でもそれらを引き出して歌う事ができるようにしています。神に歌えるようにし、神に話せるようにし、それらに同意できるようにします。ダビデが苦しんでいる所や痛みを負っている事について話しているものについては話しません。私は傷を負わされていませんし、苦しんではいません。神が私に何をしておられるか、神が私を通して何をして下さったかを強調します。これらの御言葉を読んでいると、いずれは、皆さんの中に入ります。私が皆さんに読んだので、どのようなものだったかが分かったと思います。それを読むなら、口にするでしょう。そして、私の場合だと、それを次のようにするでしょう。同じ事を言う必要はありませんが、例えば、「私は新しく創造された者です」と言います。これは一つの言い方です。「『私』は新しく創造された者です。」そしてまた戻って言います。「私は『新しく』創造された者です。」「私は新しく『創造された者』です。」それぞれの言葉を強調されているのが分かりますか?


そんな感じで、それぞれの語を強調します。そうすると、悟りを得られます。啓示は神から来るものであり、人の努力によるものではありません。「悟り」は皆さんが瞑想する事によって得られます。私自身の個人的な生活では、この様にして通常行うのであり、皆さんも私のように繰り返して言う事ができます。毎朝、起きて直ぐに、「今日はいい日になる」と言うなら、上手く行きます。そして、皆さんは神にその事を言って、自分自身に思い出させ、その日がどうなるかについて悪魔に思い出させます。


ウィグルスワースは、「ベッドから出る時に最初にする事は、足が地面に着くとすぐに、主の前で踊り、主を10分間崇拝する事です」と述べました。それが彼が最初にする事でした。彼が起きた時、ただ神を崇拝し、その様に一日を始めました。それは一日を始めるのに良い方法です。朝起きたらすぐに、目覚めたらすぐに、神と話し始めて下さい。そうする事であなたの一日が設定されます。神との交わりとは、電話をかけて決して電話を切る事がないようなものです。あなたは一日中神と話し続けます。それは、絶えず祈る事と呼ばれています。そうするなら、神と接続しようとする必要はありません。皆さんは既に接続しているのです。その絶え間ない祈りの中で、「ところで、これが必要です。ありがとうございます」と求め、また会話を続けるのです。


今週、ここでの教えを理解すると、祈りにおいて、神に何かを求める事はしなくなります。その時間の殆どは、神に話し、神が言った御言葉について語り、そして神に感謝し、賛美と礼拝に時間を費やします。そして問題が起こった時、皆さんは問題について話しません。皆さんは問題に言います。「行って、海に入れ。山よ、私の視界から出て行け。」それが、イエスが言った事です。イエスは、「あなたの問題について、私に話しなさい」とは言いませんでした。「私について、あなたの山(問題)に言いなさい」と言ったのです。それが皆さんがする事です。皆さんがこのように生きるなら、皆さんの人生と周りの人々は変わるでしょう。ですから、朝起きて、全てのクリスチャンが最初に言わなければならない事は、「イエスは主である」という事です。これを信じますか?皆さんはこれを信じますか?イエスは主ですか?


イエスは私の体の主です。私の財政の主です。私の家族の主です。イエスの名において、天のあらゆる霊的祝福で私を祝福して下さったので、私の人生は祝福されています。そして父よ、ありがとうございます。私はそれらの祝福を受けました。私はそれらの祝福の中を歩きます。父よ、あなたの言葉は真実であり、私はあなたの言葉によって聖別されています。イエスは主であり、神は私の神であり、私の中におり、私の中に歩み、私の中で話し、そして私は神の中にいます。私の人生はキリストにあって神と共に隠されています。イエスは私の人生のあらゆる面で主である為、悪魔は私を見つける事さえできません。イエスは主であり、私は神の息子であり、キリストの命に生きています。キリストは私の中に住んでいます。



私には神の霊があります。イエスが父の元に行ったので、私は彼がしたのと同じ事ができます。イエスが父のもとに行ったので、私は彼よりも大きな事ができます。私はこれを信じています。イエスの名において、私は新しい創造です。古いものは過ぎ去ります。全てのものが新しくなり、全てのものは神のものです。神は私の中を歩き、私に語りかけます。私たちは一緒に歩きます。私は病人に手を置き、病人は回復します。私は悪霊を追い出し、これらの者は出て行きます。私は福音を説きます。私は御国の福音、神の覇権の福音、イエスが説教したのと同じ福音、パウロが説教したのと同じ福音を説きます。私は別の福音を説きません。私は神の言葉に従います。私は神の言葉を生きています。イエスは主なので、私は神の言葉を話します。



神は私の体の主であり、私の健康の主であり、私の状況の主であり、神のおかげで私は山に話しかける事ができ、それは私に従うでしょう。そして、私の信仰は、神に基づいており、私自身にも私の善行にも基づいていないので、失敗する事はありません。私は自分がした事を何も自慢しません。私は神がした事を誇りに思い、神のおかげで私は新しい創造です。この新しい創造は新しい種です。悪魔はイエスにどう対処するかを知らなかったので、私にどう対処するかさえ知りません。私には世の霊ではなく、神の霊があります。私はイエスのように歩き、話します。神の意志は私の意志です。私の意志は神の意志に服従します。神の考えは私の考えであり、私の考えは神の考えになりつつあります。そして今でも、私たちが一緒に歩くので、神の道は私の道です。私は御霊によって神と一緒になり、私たちは一つです。父は私の中にあり、私は父の中にあり、イエスは私の中にあり、私はイエスの中にあり、イエスは父の中にあり、父は御子の中にあり、私たちは皆一緒にここにいます。そして悪魔は誰を相手にしているのか知りません。ですから、イエスの名において、私は圧倒的な勝利者です。私は私を強めるキリストを通して全ての事ができます。



私は聖霊を受けました。私は聖霊を受けたので、私は力と奇跡的な能力を持っています。イエスは、全ての権威はご自分のものであると言われました。ですから、私は彼の名によって行くので、イエスの全ての権威が私に作用します。神の全ての充満はイエスにあり、イエスは私において住んでおられます。私はイエスにおいて完全であり、それ故に私は彼の充満を受け取りました。従って、私は歩き、話し、行動し、イエスのように見えます。私は全てにおいてイエスへと成長します。イエスはかしらであり、キリストであり、私はイエスの体です。私はイエスの体の中にいます、私が小さなつま先であっても、全てのものがイエスの足の下に置かれているので、私はまだサタンを踏みつけています。そして、悪霊どもがキリストの足元にいるのなら、私がイエスの中にいるので、悪霊共は私の足元にいます。従って、全てのものはイエスの名に屈するでしょう。その名は他のどの名よりも上にあるので、全てイエスの名に屈する必要があります。その名は癌の名の上にあります。その名はエイズの名の上にあります。従って、私がその名を言う時、私は私が宣言する事を所有すると信じます。ですから、私がどんな名を呼んでも、それは全ての名の上の名、つまりイエスの名にひざまずきます。ですから、私はイエスの名において言います。私の前に何も立つ事はできません。私に抵抗できるものはありません。



私は教会なので、地獄の門が私に打ち勝つ事はありません。キリストは私の内に住んでおられ、私を通して彼の意志を発揮し、私は地上で縛ると、それは天国で縛られます。そして、私は地上で解き、それは天国で解かれます。私が許可するものは許可されます。私が禁じる事は禁じられます。従って、私はこの地上に神の国を放ちます。私は癒しを放ちます。私は平和を放ちます。私はこの地に祝福を放ち、どこに足を踏み入れても、神の御国が近づきます。


そして、御国がある所には、平和、癒し、力があり、神に栄光があります。ですから、イエスの名において、父よ、私を強めるキリストを通して全ての事ができる事を感謝します。何故なら、私は圧倒的な勝利者だからです。私にいるお方は、世にいる者よりも大きいからです。それで悪魔よ、見ていなさい。父なる神、御子、聖霊に満たされ、私はここに来ました。私たちはより強い者です。ですから、イエスの名において、お前に公正な警告をします。今走り去りなさい、さもないと、イエスの名においてお前を踏みにじる。その通りになれ。今、神に賛美の叫びを捧げましょう!



これは、ダビデが全ての羊と一緒にその丘のその側に座った時にした事です。彼は羊の事さえ心配していませんでした。彼は神に向かって歌っていました、聖書は、彼が困難な時を経験する時、彼が既に王になるように呼ばれた時、それでもサウルは王であり、サウルはダビデを殺そうとしていたと言っています。ある時に、収容所に入ると、全ての女性と子供たちが殺されて捕らえられ、全ての持ち物が破壊され、家が焼かれました。


一部の男は自殺さえし、彼らが経験した事と彼らが見たものの為に泣き始めました。しかし、聖書は言っています。ダビデの強大勇敢な部下たちがした事について話しているのは驚くべき事です。しかしダビデは一人になり、主に励まされたと言われています。そして、これはダビデがした事です。彼は羊と一緒に野原にいた時にこれを学びました。ダビデが神に向かって歌い始めると、彼は神を賛美し、「神よ!」と言い始め、賛美を歌いました。「神よ、あなたは素晴らしい。あなたは偉大です。あなたは素晴らしい。全地においてあなたの名前は何と素晴らしいでしょう。」彼は、「誰が神に立ち向かう事ができるのか」と言いました。彼は人間についての歌も歌いましたが、彼は神に向かって歌い、「私の全ての苦しみの中で、あなたは私を救いました」と言いました。そして、問題を通るたびに、彼は自分自身を励ます為に一人になって、歌い始め、自分自身を励まし始めました。



聞いて下さい。皆さんは人生で周りに一人も励ましてくれる事がない場合があるでしょう。自分自身を励まして下さい。主にあって自分自身を励ます方法を知らなければなりません。自分を励ます事ができなければ、励まされる事はないからです。皆さんは自分でこれを行う方法を学ぶ必要があります。一人で行って、色んな事を経験している時、皆さんは行って、神が言われた事について神と話し始めます。これをお聞きしたいのですが、私たちはそれを経験し、それは約10分かかりました。非常に短く、非常に簡単です。しっかりと1時間これをするべきです。知って頂きたいのですが、これがダビデが歌う理由です。彼は言うでしょう。「ああ、私は軍隊を駆け抜けて壁を飛び越える事ができたように感じます。」何故でしょうか?彼はこれを何時間も行ったからです。ただ神に歌い、神がどれほど素晴らしいか、何をしたか、何ができるかを神に話しました。そしてダビデは「あなたが私の手を戦う為に教えた」と言いました。「あなたは私の指に戦うように教えました。あなたはこれらの事をしました。そして、これがあなたというお方です。ダビデは神がどの様なお方であるか、そして神が彼の中でどういうお方なのかを神に話しました。それからダビデは歌を歌い、それを書き、それを歌いました。そして彼は言いました。「人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは彼をあなたの御手の全ての御業の上に置き、彼にこれら全てを治めるようにさせました。」そして詩篇115篇でも、彼は同じ事を言っています。「天は神のものですが、地は人の子らに与えられました。」



人々は「なぜ神はこれを許しておられるのですか?」と言います。神は皆さんにこの地を与えました。地上で起こっている事について、皆さんは「なぜ、私たちはそれを起こさせたのか」と言わなければなりません。どうしてでしょう?神は人を支配し、人に「それを保ち、守り、征服し、あなた方の言う事を聞かせなさい」と言われたからです。神は、「後ろに下がって立ちなさい、私があなた方の為にそれをやります」とは言いませんでした。モーセが「神よ、これを見て下さい。人々が泣き叫んでいます」と言った時、神はモーセに叱って言いました。「なぜ、あなたは私に呼びかけているのか。あなたの手には何があるか。私はこれらの人々を横切らせるように言わなかったか?渡らせなさい。」アーメン?皆さんが御言葉を言う時、皆さんの心から出てくる必要があります。神の言葉が本物である事を知らなければなりません。私が御言葉の宣言を読む時、私は集中しなければならず、それは霊的なものになるという事です。皆さんが心の中に御言葉を置いて話し始める時、それが生き返る時です。それは活性化します。私たちがした事は、キリストの中にある全ての良い事を認めた事でした。それはキリストが私たちの中にいるお方であり、私たちがキリストの為に何ができるかでした。


それらは、キリスト・イエスにおいて皆さんの中にある良い事です。「ああ、神よ。私は献金を良くやる者です。神よ、私は忠実な日曜学校の先生です」などのどれも、皆さんの信仰のコミュニケーションを効果的にするものではありません。キリストにあって皆さんの中にあるのは全て良い事です。そのキリストのDNAは皆さんの霊から出て、皆さんの肉体に現れなければなりません、そしてそれが起こる時、皆さんは神の健康で生き、皆さんは生きて、文字通り、神の霊を発する事ができるでしょう。皆さんの影が病人を覆うようになる為に人々が来るようになります。どうしてでしょうか?命だからです。力はあなたから発せられるからです。アーメン?皆さんはこのように歩んでいますか?私は皆さんに言います。御言葉の宣言を正しく行っているのか、間違っているのかを判断する方法は次の通りです。正しくやっていれば、それを感じ、それが皆さんに影響を及ぼし始めるでしょう。間違ってしているなら、皆さんの頭の中でそれをしているだけです。御言葉の宣言を「頭を働かす」だけの事にしてしまうなら、横になってすぐに寝てしまうのなら、恐らくそれを正しくやっていないでしょう。ですから、定期的にこれを行い、キリスト・イエスにあって皆さんの中にある全ての良い事を認める習慣を身につける必要があります。アーメン?


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。