セッション14
さて、始めましょう。こんな質問を受けました。「ジョンとチャールズ・ウェスレーの母親の名前は何ですか?」彼女の名前はスザンナ・ウェスレーです。スザンナ・ウェスレー。素晴らしい神の女性でした。恐らく私がこれまで読んだ内で、最も偉大な神の女性の一人でしょう。キャサリーン・ブースもそうです。彼女も素晴らしい神の人でした。大半の人は、ウィリアム・ブースの説教が全てキャサリーン・ブースによって書かれた事を知りません。彼の説教は全て彼女が書いたのであり、彼はただそれを読んだか、暗記して話したにすぎません。しかし実のところ彼女は、救世軍の背後にある力や強さの大部分を占めていたのであり、素晴らしい神の女性でした。残念な事に、人々はあまりその事を知りません。そして救世軍の初期には、癒しも起こっていました。しかし人々の為に癒しのミニストリーをする事について知らなかったので、キャサリーン・ブースは乳癌で亡くなったのです。その時期には悲しい事ばかりが続き、ウィリアム・ブースがその影響を強く受けた事は明らかです。彼らは長い事人生を共に生きたのですから。キャサリーン・ブースについても、やはり読む事を勧めたいです。人々に勧めたい本が何冊かあります。数年前、私はその事について神に話しました。「ご存知のように、私は人々に色々な物事を説明していますが、中にはそれを理解するのにとても長い事かかる人たちがいるようです。どうすればこれをもっと早く分かってもらう事ができますか?彼らにはこれがどのように見えているのでしょう?どうすれば彼らにも見てもらえるのでしょう?」すると、神はただこう答えられました。「あなたが読んでいるものを彼らに読ませなさい。」JGLM.comにアクセスすると、私たちのウェブサイトに推奨書籍リストが表示されます。そこには幾つかの本の表題がリストアップされています。ウィリアムとキャサリ・ンブースに関する素晴らしい本があります。そのうちの1冊は、ニュージーランドのトレバー・ヤクスレイによる、非常に素晴らしい本です。他にもウィリアムとキャサリン・ブースについての本、ジョン・ウェスレーについての本は沢山あります。そのリストには、皆さんが読む事のできる、色々な人たちについて書かれた本があります。ジョン・ウェスレーとウィリアム・ブース、恐らくその二人のものが、私の一番のお気に入りです。彼らが神の為にどんな事をし、何を確立して、またそれを継続できたか、という点においては。
二番目の質問には、こう書かれています。「1テモテ2章の11節から15節を説明してもらえませんか?」その箇所を開いて下さい。「 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりする事を許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産む事によって救われます。」さて、人々は何年にもわたってその聖句を、女性が奉仕するのを妨げる為に使ってきました。しかし、キリストの復活を最初に報告したのは女性でした。そうでしょう?デービッド・ヨンギ―・チョウ、あるいはポール・ヨンギ―・チョウ氏は…彼の人生のどの時期の教えに従いたいかで名前が異なるのですが…教会を始めたいのなら女性を送りなさいと言いました。本当にその通りです。彼が言うには、女性は物事を成し遂げるのだそうです。男性は何かについて話すだけだが、女性はそれを成し遂げるのだと。彼は、女性をある地域に送り、彼女に教会を建てさせなさいと言いました。そこに男性を送ると、皆が彼に敵対して戦ってくるという事です。ところが女性を送ると、女性は「私の為にこれをしてくれませんか?」と言い、男性は「ええ、いいですとも」と言います。このようにして、女性は自分たちの為に、男性に働いてもらう事ができるのです。質問にはこうあります。「女性には異なった役割があるのですか?JGLMチームや病人に手を置く事などは、全て男性がしているように思われます。私たち女性も、教え、宣べ伝え、手を置き、癒しを命じる事ができますか?」ええ、JGLMにおいてはこれまで、ジョン・G・レイクの頃からさえ、歴史を通じて男女に分け隔てなくミニストリーの機会がありました。男女を等しく御仕事に任命し、資格証明を与えるという意味でですが。キリストにあっては男も女もない、という聖句の真理を、私たちは正式に信じています。性別という観点で人を見る事はしません。さて、聖書には文化的事象という側面がありますが、それも理由の一端を担っているのです。テモテへの手紙では、彼らの当時の慣習のせいで、どちらかというと文化的な物事について語られているのです。言っておきますが、ここで大切な鍵となるのは次の節です。11節と12節にはこうあります。「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。」ここの集会の女性たちは、皆静かにして従っているでしょう?という事は、それは聖書にかなった姿勢ですね?私が教えている最中に、皆さんは「ねえ、これってどういう意味なの?」という風に叫んだりしません。当時はそんな事が起こっていたのです。パウロが宣べ伝えていた時代には、まだ男女はそれぞれ部屋の反対側に分かれて座っていたのです。それで座っていた女性が、説教の中で何か分からない事があると、夫に向かって大声でこのように言ったのです。「ビル、彼はああ言ったけれど、これって正しいの?あなたは何か違う事を言っていたと思ったけれど?(笑)」ですから、パウロがしないようにと言っていたのはそれなのです。そこには、静かにして教えを受けなさいとあり、続けてこう言っています。「私は、女が教えたり男を支配したりする事を許しません。」「教えてはならない」と書かれていない事に注目して下さい。ここでは男性(夫)の上に立って支配する事について話しているのです。文法的な構造を見ると、それについて話しているのが分かります。ですから実際、その先のある箇所では、家庭を守り夫を愛し、家事に携わるなどといった事柄について、年配の女性が若い女性を教えるべきであると書いてあります。しかし、イエスに従った人々の中には女性が大勢おり、彼女たちは主に奉仕し、必要なものや食べ物などあらゆるものを調達しました。女性にそれ以外の事ができないと言っているわけではありません。さて、私たちに関して気づくべき一つの事とは、キリストにあっては男も女もないわけですから、イエスが全世界に出て行って全ての造られたものを教えよと言われたのなら、それには女性も含まれますよね?そして彼らに、ご自分が命じられた事を全て守るよう教えなさいとも言われています。という事は、イエスが彼らに病人に手を置くよう命じられたのなら…全ての造られた女性に、とは言われませんでしたが…しかし言っている事は分かりますね?女性にも福音を宣べ伝えられたなら、その人は病人に手を置くという責任を負います。そうですよね?ただ性別を理由に、その責任から解かれる事はありません。
さて、人々は言います。JGLMでは男性ばかりがミニストリーをしているように思われると。いいえ、それは私と一緒に旅している人たちだけです。ここには私に同伴して妻や娘も来ており、他にも2人の男性が一緒に旅しています。しかしそれはただ、私が通常は他の女性と旅する事がないからです。「通常は」と言いましたが、「決して」と言い換えた方がいいでしょう。自分たちもダラスに来たいとか、宣教の旅について行ってもいいかと、メールで尋ねてくる女性が大勢います。私が一人で旅しているか、あるいは一緒に旅している人が男性だけの場合は、だめです。女性がその旅に加わる事は許可しません。もちろん、妻や娘が一緒にいるなら、通常は他の女性も旅に加わって構いませんが、ただ私たちは極力男女間の礼節を重んじており、物事を正しく行い、悪のように見えるどんな事も避け、あまりにも馴れ合いになってしまう事も避けようと努めています。どういう事か分かるでしょう?そこに一線を引き、けじめをつけたいのです。そうするのが正しい事だからです。ですから、別に女性を除外しているわけではありません。ミニストリーをしている女性たちが世界中のJGLMにいます。ライフチームを導いている女性もいれば、牧師として任命される女性もいます。私たちが任命の申し込みを受ける際には、性別は何の関係もありません。福音を宣べ伝えたいなら、その仕事がしたいなら…特にアメリカにおいてですが、私たちはJGLMに、州とそこでの仕事全体を監督する人を配置しています。そしてその役職に女性が就いても何の問題もありません。全然構わないのです。「何て事だ、権威を奪うのですか?」と言うかもしれません。しかしその聖句は、女性が権威ある地位に就くのを許可しないとは言っていないのです。男性以上に権威ある地位に就く事を許さないと言っているわけではなく、権威を「奪う」事を許さない、と言っていて、権威を奪うとは、男性(夫)が権威を持っている所に女性がやって来てそれを乗っ取る事、権威を男性から取り上げる事なのです。するとある男性たちは、「そんな風には思えません。あなたの見解は聖句に反しています」と言います。いいでしょう。それなら女性が教えている場所には行かない事です。彼女に耳を傾けなければいいでしょう。簡単な事です。私も初めの頃は苦労しました。しかし、その人が女性であるからというよりも、その人の声にありました。ただ彼女の声が気に入らなかったのです。すると、ある日神がこう言われました。「あなたに必要な答を彼女が持っていたらどうする?声のせいで必要な答えを受け損ねるつもりか?」私はその声の問題を克服しなければならなかったので、意識的に彼女の話を聞き続けました。ついにその声が気にならなくなるまで。何故でしょう?表面的、外面的な事柄に基いて誰かを判断したくないからです。そこで、私は人々にずっとこう言ってきました。その仕事ができるなら、構わずやればいいと。そしてその役職に就いた後に、あなたにそれができないと分かれば、その時は他の誰かと交代させるからと。そんなにも単純な事なのです。
殆どの人は、物事をうまく軌道に乗せるのに90日ぐらいかかります。90日でできないなら、恐らく180日かかってもできないでしょう。それなら、何故待つ必要があるでしょうか?現状は変わらなければならず、しかも素早く変わらなければなりません。外には死にかけている人々がおり、彼らは待っているのですから。役職が欲しいというだけの理由で役職につこうとする人々に費やしている時間はありません。そういう人たちは、名刺に名前を入れて誰かに手渡し、自分はこの地域のお偉い方だと言いたいのです。私たちはそんなものを目指していません。福音で世界に手を伸ばそうとしているのです。仕事ができる人には仕事が与えられますが、先ほども言ったように、その役職についてからそれができなかったとしても、それほど大した事ではありません。私たちはあなたを他の誰かと交代させ、あなたに最も適した役職を見つけるでしょう。けれども、女性が宣べ伝え、教え、病人に手を置く事を禁じたりはしません。別に女性がそうしても問題ないのです。実際、私たちはこれまでずっと、あらゆる分野で女性に活躍してもらう事を大いに推奨しました。正直言って、大半の男性は…こんな風に言いましょう。女性は通常、男性よりもマルチタスキングが得意です。そして宣教活動には、多くのマルチタスキングが伴います。ですからそれに女性が携わっても全然構わないのです。とはいうものの、別に女性を現地の活動から退けて、管理運営のスタッフやあれやこれやのスタッフに回すと言っているのではありません。女性の中には管理運営が得意な人もいれば、そうでない人もいるからです。それは結局、その人に何ができるかや、自分を通してどれだけイエスに働いてもらうかにかかっています。ですから、女性が活躍しても何の問題もないと思います。JGLMチームの一員になる為に男性である必要はないのです。私たちはこのように旅をしており、女性にとって旅をするのはもっと難しいでしょうし、それに私たちのチームは、ブライアンを除いて全員が既婚者ですから、奥さんたちはスタッフとして加わっているか…ケビンの奥さんはダービンの自宅に残っていますね。彼女たちにはそこらじゅう旅して、私たちがしているような色々な事をする、といった贅沢ができません。ケビンさえも、ここに来る為に職場に休暇を申請したのです。彼は…今は恐らくパートタイムですね。以前はフルタイムでしたが、ミニストリーの時間が増えてしまい、今では仕事の方がパートタイムになりました。妻たちがここで最前列に座っていない唯一の理由は、彼女たちは家に留まって、家庭をきりもりしてくれているからです。彼には赤ん坊が生まれたばかりです。ですから明らかに、奥さんたちはそういう理由でここにいないのですが、私たちは女性は家に留まり、夫が帰宅する頃には食事の準備ができているべきだなどと言うような性差別主義者ではありません。そんな風ではないのです。実際私の妻などは、時には家に留まって料理する方を好みます。そういう家庭的な生活が好きなのです。そして大体半分ぐらいの割合で、私が帰って来て「食事はできているかい?」と尋ねると、「いいえ」と妻が返事します。私が、「それなら外食しよう。外で食べようよ」と言うと、「あら、これを料理できるわ」と言いますが、「いや、もう出かけよう」と私は言います。私はどちらかというと、外で食べたいからです。私がそう言う理由は…妻は言います。「ちょっと、あなたがそんな風に外食しようって言うと、皆に私が料理できないと思われるじゃないの。」言っておきますが、私の妻ほど料理がうまい人間を私は未だかつて知りません。本当ですよ。彼女の料理を食べた殆どの人も、まったく同じ事を言います。レストランに行くと、彼女はそこの料理を一口食べてこう言うのです。「分かったわ。これとこれと、あれが入っているのね。これは自分で作れるわ。」私は思います。「どうやって?味わうだけで、全部の材料とその量が分かるなんて。」彼女は何も量ったりしません。ただ「さあ、これで十分でしょう」という感じです。賜物ですね。ええ、明らかにそうです。けれども私にとっては、外食しようと言う方が簡単なのです。そうすればそこに行って座り、話していると、食べ物が出てきますから。食べ終わった後もそのままにして、後片付けは彼らがしてくれるし、妻に料理してもらい、材料を買ったりあれやこれやをしてもらう場合とは違って、話に時間を費やす事ができます。私としてはむしろ、ただ出て行って食べ、食べ終わったら帰ってくる、という風にしたいのです。私にとってそれは食事であり、職業ではありません。
話を元に戻しましょう。イザヤを開いて下さい。9章から読みます。ここ数日間話してきた事を、さらに深く掘り下げたいと思います。「あなた方の中におられるキリスト、栄光の望み」についてです。キリストが皆さんの中におられるなら、彼は入って来られる時に、父なる神や御霊も一緒に持って来られます。そこで私は、皆さんにある考えを提起しますから、これを読んでいる間、ちょっとそれについて考えて欲しいのです。これらのミーティングの間に、私はずっとゆっくり話しています。言葉が浸透して、皆さんがそれを理解できるよう時間を与えているのです。私のオーディオ資料を聞き慣れている人なら、通常はこの2倍か3倍は速く話し、平均的な牧師より速く話す事を知っているでしょう。そしていつも皆に言うのですが、私はとても早く話すので、一枚のCDに大半の牧師がCDに入れる2倍か3倍多くの言葉が入っています。それでも、皆さんに2倍や3倍の料金を請求する事はしません(笑)。皆さんにメッセージを届けようとしているのであり、できる限り多くの情報を得てもらいたいのです。皆さんはCDを手に入れて、それを聴いてもらえれば、もっと情報を得る事ができます。イザヤ9章には、皆さんが何者であるのかが書かれています。イザヤ9章6節にはこうあります。「ひとりのみどりごが、私たちの為に生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」さて、ここで幾つかの事に注目して下さい。一つ目は、「ひとりのみどりごが、私たちの為に生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり」と書かれている事です。ここで主権と言われているのは、明らかに王国の主権の事です。それに続けて、彼はこれこれの名で呼ばれるであろう、と書かれているからです。まず第一に、もしキリストが皆さんの中におられるなら、皆さんの中におられる方はまず第一に不思議な方です。第二に、助言者です。力ある神があなたの中におられるのです。永遠の父があなたの中におられます。これこそ皆さんが内に持っているものです。これを意識的に強調しているのは、ここをさっと読み進めてしまいたくないと、皆さんに気づいてもらいたいからです。昨日もお話したように、読み進める際に、皆さんの思考はただそれをざっと拾い読みし、既に聖句を知っている為、それにさっと目を通す事しかせず、あまりそこからインパクトを受けないからです。神がこれら一つ一つの名前で知られている事に気づいて下さい。そして名前はきわめて重要です。私たちは明らかに、常に自分で名前を選べるわけではありません。しかし人は通常、その名前に則した人物となり、それが基準となって、その名前で人に知られています。その事を覚えておいて下さい。その事を踏まえて話を進めますから。そしてイエスは、「平和の君」とも呼ばれています。彼が平和の君であるなら、自分の内にイエスを持っている皆さんは、何を持っているのでしょう?平安ですね。そしてイエスは、ご自分が皆さんに与える平安は世のそれとは異なると言われました。「私の平安をあなた方に与える」と。そうですね?ですから、私たちは常に平安の内にいるべきです。
聖句には非常にはっきりと書かれています。神はこう言われています。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」これは神についてです。つまり志を堅固に神に留めているなら、神は皆さんを全き平安の内に守って下さるのです。人は緊張している事が多いです。「ああ、どうしよう?」と言って。「ええとその、御言葉を学習し、御言葉について瞑想しています。思いを御言葉に留めているのです。御言葉を告白しています。」「いいえ、していませんよ。」「していますとも。御言葉の事しか考えていません。御言葉に集中しているのです。そしてイエスの事ばかり考えています。」「いいえ、そうしていません。聖書には、志を堅固にして(思いを神に留めて)いるなら、平安があると書いてありますから。」ですから、平安がないなら、思いを神に留めていないという事です。ここに注目して下さい。人はイエスに思いを留める事なしに、イエスの事を考える事ができるのです。イエスを知らない人々は、イエスの事を考えても、裁きとか将来についてなど、何か別の事を考えており、全然平安がもらえるような方法でイエスに思いを留めていない場合もあります。分かりますか?車やゲームやラグビーや、そういった事について話す事がありますよね。それについて話していても、それに影響されていない、といったケースがあるのです。皆さんは何かについて話していて、その後そこから歩き去ったとします。五分後に誰かがやって来て、「何について話していたんだっけ」と尋ねられると、「うーん、何だったかな?ちょっと考えさせてくれ」というだけで、何も思い出せません。何故でしょう?それはそれについて話してはいたけれども、思考がそこに留まっていなかったからです。分かりますか?それは雑談と呼ばれる事もあります。
しかし、雑談などというものは存在しません。皆さんは自分が語った全ての言葉について、言い開きをしなければならないからです。雑談などというものはありません。「ええっと、ただ時間をつぶしていただけです。」いいえ、聖書には時間をつぶせとは書かれていません。むしろ「機会を十分に生かして用いなさい」と書かれています。時間つぶしをするのではありません。生かして用いるのです。アーメン?何故でしょう?それは悪い時代だから、時を生かして用いるのです。私は人生の早い時期に、あまりにも多くの年月を無駄にしました。今こんなにも容易に神の為に仕事ができているのは、それが理由です。そうしようと努力する必要もありません。もっと速く走ろうと無理をする事もありません。何かすべき事があるとすれば、逆に現場から退いて休息を取る事ぐらいです。休む時間を取るのです。何故でしょう? 私は過去にとても多くの時間を無駄にしてきましたが、多く赦された者は多く愛するとイエスが言われたからです。というわけで、私は赦されており、今はその無駄に失われた時間の埋め合わせがしたいのです。時を十分に生かして用いようとしています。そして時を生かして用いる方法の一つとは、皆さんを通して自分を増殖させる事です。それが私たちのやり方です。そういう目的でキリストの体を増し加えているのです。
私はもう一度、この事を強調したいと思います。何故ならこの方こそ、皆さんの中におられる方だからです。私たちは、「ああ、イエスを知っているでしょう。彼はただ上の階に住んでいる気のいい仲間なんです。ただの古い友人で、私たちはいつもこうして一緒にいるんです」という風には話しません。「いいえ、私たちは不思議な方、助言者であり、力ある神について話しています。」皆さんの中におられるのは、そんなお方です。そして力ある神が、永遠の父、平和の君であられる方が内におられるならどうでしょう?さあ、ローマ人への手紙にはこう書いてあります。「誰が私たちに敵対できるでしょう?」それが皆さんの中におられる方です。パウロは言いました。「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えて下さいました。」ここにも「勝利」という言葉が出てきます。覚えていますか?昨日その「勝利が何を意味するかお話した事を。これも同じ言葉です。いいですか、歴史の中で、将軍たちは一生に一度しか、中には二度そうした人もいましたが、その人が誉れ高い地位に昇格された場合です。けれどもパウロがここで、それと同じ言葉を用いているのは、パウロがローマ市民だったからなのですが、彼はギリシャ人に向けてそれを書き、その事について話していました。しかし彼は言いました。「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、常に」時々、ごくたまに、とかではなく、常にです。私たちに勝利を与えて下さいました。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」神は常に私に、御国を推進し、敵を完全に打ち滅ぼし、御国の為に広大な領地を増し加えさせて下さいます。常に人生にそのような勝利をもたらして下さる神に感謝すべきです。聞こえていますか?「そうだな、勝つ事もあれば負ける事もあるが、イエスはどちらにしろ共にいて下さるのだから」というのではありません。そんなものは福音ではないのです。
神は言われました。私たちがすべき事をするなら、あらゆる良い働きができるよう備えられ、装備されると。ペテロの手紙で先日読んだように、神はこう言われました。これらの事を行い、信仰や徳や知識や節度など、それらあらゆるものを持っているなら、あらゆる良い働きにおいて必ず豊かに実を結ぶであろうと言われたのです。さて、ちょっと想像してみて下さい。ある状況に足を踏み入れる時、自分が手で触れたものは全て栄えると分かっているとしたらどうでしょう。何をしようとも自分が勝つと分かっているとしたら。どんな問題であろうと、それを乗り越えて頂点に立つ事を知っているとしたら。その理由は?神が共におられるからです。いいですか、人々はそれを聞くと、よくこんな風に言います。「ああ、それはすごいですね。」私が今言った全ての事は、その最後の部分は、古い契約の頃からずっと続いている約束であり、ましてや新しい契約下においてはなおさらです。神はユダヤ人に語られ、彼らに「あなたの足の踏む所は、あなたの土地として与えよう。あなたが手を触れるものは、全て祝福しよう」とさえ言われたのです。それは新しい契約下ですらなく、古い契約の下でそう言われたのです。それは新しい契約にも継承され、今や私たちは神の御心を成就したのですから、どれだけもっとその内を歩んでいるべきでしょうか。へブル11章に登場する人々は皆、約束されたものを受ける事なしに死にました。私たちはその約束の内を歩んでいます。死んで約束のものがもらえるかどうかが分かるまで、待つ必要もありません。今それをもらっているのです。そして私たちは、その約束の内を歩んでいるべきです。そのような者として歩んでいるべきなのです。さて、ここに注目して下さい。7節を読みましょう。いいですか、つい先ほど、主権が神の肩にあると言いました。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく。」つまり、いったん神がそれを確立されたら、どんどん成長して、ずっと育ち続けるという事です。そうですね?それが神の御国について主が言われた事ではありませんか?イエスはそう言われませんでしたか?神の御国が植えられると、それは種のようで、植えられる時は種の中で最も小さいと。ところが、育つと非常に大きくなり、空の鳥たちがそこに宿るようになると。神の御国について話しているのです。そしてここで彼は、神の主権がダビデの王座に着いて、その王国を治めると言っています。
私たちは教会について話し、キリストの体について話し、クリスチャンである事について話します。私は今に先立って、皆さんからどんな問題が生じているかを知っています。何故なら皆さんがそこにいる時に、聖霊が皆さんに必要な話題を持ち出すからです。そしてこのセミナーをどこか他の場所で開くなら、そこでは恐らく、ちょっと違った話になる事でしょう。皆さんが問題の根源でない限りは、ですが。その場合、話題の矛先は皆さんに向けられるでしょうが、時としてそのように問題が発覚する事もあるのです。そして私はそれが、以前の様々な状況からの反動や反発から来ていると分かっています。私たちはこれまでずっと、体制や組織に反対してきましたから。今はそのような姿勢を離れようとしているのですが、どうしてもそこに戻ってしまいます。それは何故かというと、神の王国について話しているからです。王国には王がいるので、階級制度があり、等級があります。聖書には、イエスが白い馬に乗って、天の軍隊を率いて戻って来られると書いてあります。軍隊であって群衆ではありません。集団ではなく軍隊です。軍隊には階級や等級があります。軍隊には規律があります。軍隊に入る人は訓練を受けます。それは等級があり、階級があるという事です。確かに私たちは常に、自分たちがキリストにあって一つであり、全員が同じ事をするという事実を強調しています。確かにその通りです。病人を癒す事や福音を宣べ伝える事や、悪霊追い出しや死人を蘇らせるなど、その種の事柄に関しては、私たち全員が同じ事をします。どんな信者でもそうできるのですから。私たち信者は、誰もがそうするよう命じられているのです。神癒技術者訓練に参加した事がある人なら、私が以前この話をしたのを聞いた事があるかもしれませんが、内的権威と外的権威というものがあります。私がここで引き合いに出す例は、私たちの誰もが警察について知っている事実です。たとえば、今朝車で教会に向かっていたとしましょう。道路を走っていると、工事か何かをやっています。恐らくは警察官がいて、何かがそこで起こっており、その警察官は道路を封鎖しています。彼らは人々の車を停止させており、そこには制服を着た一人の警察官がいます。そこで通行止めをして交通整理をしている警察官が、通常は警察長官や警察署長ではない事を知っている人は、ここにどれだけいますか? 彼は警察のお偉いさんではありません。そんな人は外に立って交通整理なんてしません。お偉いさんは誰をそこに送りますか? 警察の中で最も低い地位にいる人を、新入りを送ります。私たちアメリカ人はそういう人の事をルーキーと呼びます。つまり新入りです。何故でしょう?経験を積まなければならないからです。他の誰もしたがらない卑しい仕事を回されるのです。彼らは、警察の内部では記章も階級も権威も、何一つ持っていない人を派遣します。警察の誰かが「おい、これをやっておけ」と言えば、彼はそうしなければなりません。そこで一番地位が低いからです。そうではありませんか?しかし、警察で最下位の人を送っているのに、全ての車が止まるなんて、すごいではありませんか。何故だか分かりますか?それは、最下位の警察官であっても、最高位の市民より立場が上だからです。さて、内的権威とは…彼は警察の内部で最も地位が低く、他の全員が彼よりも上です。しかし、皆さんが車を寄せ、彼が手を突き出す時、皆さんは階級に目を留めません。見えるものといえば、制服だけです。そして相手を警察官と認識し、止まります。何故でしょう?彼は皆さんにとって、権威の象徴だからです。その権威において、どの階級にいるかに関係なく、とにかく皆さんよりも立場が上で、従わなければなりません。ですから、内的権威と外的権威があるのです。車の列に警察長官がいて、辺りを見回してこう言ったとしましょう。「あそこに行かなければ。」それで車を寄せて、そこに近づきます。彼が車を寄せると、例の警察官はその車に目を留め、歩み寄ってこう言います。「だめだ、おい、止まれ。」しかし、その時にそれが長官であると気づくのです。するとどうするでしょう?「どうぞお通り下さい。」と言って、長官を通らせる事でしょう。何故ですか?長官の方が彼よりも階級が上だからです。しかし、他の皆はそこに留まっていなければなりません。その違いが分かりますか?それが内的権威と外的権威の違いです。
この世、救われていない人々、病気、疾患、その他諸々のものがありますが、皆さんはキリストの体を持っており、しかも他のあらゆるものを持っています。この世や病気や疾患や悪霊たち、それらは気にも留めません。外で病気の子供を抱えている人は、皆さんが使徒であれ、預言者、伝道者、牧師、教師であれ、そんな事はどうでもいいのです。彼らはそんな事を気にしません。彼らに認識できる事といえば、皆さんがクリスチャンであるという事だけです。彼らに分かる事といえば、皆さんが彼らを助けてくれるだろうかという事だけなのです。病気や疾患からすれば、皆さんがそれらに命じる事ができるか、という事だけです。相手が悪霊なら気づきます。「ああ、お前は使徒だな、それでは出て行かなくては」などとは認識しませんが、皆さんが信者であると認識するのです。皆さんはクリスチャンです。最も身分の低いクリスチャンでさえ、階級という点から言えば最高位にいる悪魔よりも上なのです。そして霊界の階級制度は、最も身分の低いクリスチャンでも、最も身分の高い悪魔よりも霊の内では高い地位にいます。悪の支配者だの悪の権力だのと言いますが、そんなのはどうでもいい事です。クリスチャンは別格の存在なのですから。そうでしょう?教会の外にいる人たちは、使徒である事を認識しません。皆さんが「私は使徒の誰々です」と言えば、「それがどうしたんですか?何の意味があるのです?知りたいのはただ、私の頭に手を置いて病気を治してもらえるかという事です。それだけです。あなたが自分を何と呼ぼうと構いません。助けてもらえますか?」と言われるでしょう。そうでしょう?分かりますか?大切なのはそれだけです。しかし、今教会には、まるで警察のように階級制度があります。この、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という階級が。等級や序列制度があります。それは聖書では必ずしも序列制度とは呼ばれていません。1コリント12:28では…覚えていますか、言いましたね。昨日読んだ所です。そこには神が教会に、最初に使徒、2番目に預言者などなど、それらのものを置かれたと書かれています。そして神はそれらをリストアップしておられますが、厳密に言うと、もしギリシャ語で読むなら、そこにはイエスが教会に、使徒、預言者、伝道者、教師である牧師を与えられたと書かれているのです。つまり、彼は牧師と教師を一緒にされたわけで、厳密に言うとそれは五役者ではなく、四役者のミニストリーなのです。私たちは常に五役者の事を話しますが。しかしギリシャ語では、「教師である牧師」と書かれています。そして他の全ての箇所でも、教師は出てきますが牧師は出てきません。人は教師かつ牧師になれるという事です。お分かりでしょうか?人々を牧する教師になる事もあるかもしれません。しかし、逆に「彼は教える事のできる牧師だ」とも言う場合もあるでしょう。何故ならエペソには「教師である牧師」、つまり教える事のできる牧師と書かれているからです。厳密に言うと、その言葉は教師を指しているのですが、人々の成長を見守る責任を負う教師は、彼らを牧し、監督している事になります。ですからそこに目を留めるなら、かなりの階級制度があるのですが、ただしこの階級制度は、この者はあの者に従わなければならない、といった類のものではありません。むしろそれば、奉仕によるのです。皆さんの内で偉くなりたいと思う者は、全ての人のしもべとならねばなりません。ですから、階級は影響に置き換えられます。つまり一番偉い人というのは、最も大勢の人々に仕えているという理由で、最大の影響力を持っている人なのです。
私たちはかつて、この人はこれをするよう召されている、牧師に、使徒になるよう召されているとか言ったものです。実際に使徒パウロも同じ事を言っています。自分は使徒として召されているが、同時に伝道者としても召されていると。ですから、使徒の働きを読むなら、そこには彼らがアンテオケにいた時の事が書かれており、そこには使徒や預言者たちがいた場所で、聖書には、そこには教師が何人かいたとあります。預言者や教師がいたと。そしてそこでは、預言者や教師ほどには、使徒の事にあまり触れていません。パウロは、当時教師であった人々の一人であり、そこで教え始めましたが、使徒として遣わされるようになったのです。というわけで、このように段階を踏んでいくケースもあるのです。さて、使徒も預言する事があります。預言者らしく行動していても、その人は預言者ではなく、それでいて殆ど預言者のような役割を果たします。使徒が伝道者や、あるいは監督者として牧師の役割を果たす事もあり、あるいは教師としての役割をも果たす事もきっとあるでしょう。使徒は何であれ、なされるべき事を成し遂げる為に、その地域に大使として遣わされるからです。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師。私たちはそれらが、教師から始めて、その後牧師になり、それから伝道師、といった風に並んでいると考えます。しかしそれは最善の考え方ではありません。ある人が使徒として召される時には、大抵ある地域に送り出されます。いったん送り出されると、そこでの最初の任務として使徒としての役割を果たしますが、伝道者としての役割も果たす事でしょう。何故でしょうか?人々を引き寄せる為に、しるしや奇跡を伴った福音を宣べ伝えなければならないからです。いったん人々がやってくると、彼らは牧師としてそれらの人々を監督するようになります。そしてこれらの人々を牧するという彼らの役目は、教え、弟子訓練を施し、彼らの教師となる事から始まるでしょう。そして生徒や弟子を持つには、教師にならなければなりません。
さて、全ての信者が教師となるべき事は知っていますね。へブル五章の最後にはこうあります。「あなた方は年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず」手紙を読んでいる人たちに向けて話しています。ですから年数からすれば、そこにいる全員が他の人々を教えているべきなのです。何故でしょう?私たちは皆出て行って、人々を弟子とするよう召されているからです。もし私たちが出て行って人々を弟子とするよう召されているなら、全員が教師にならなければなりません。というわけで、キリストの体全体で機能する教師には、一定のレベルがあります。だからこそ皆さんがやり遂げる事ができるよう、奉仕してくれる五役者の働きが必要なのです。皆さんにはこれらの働きのそれぞれのDNAが必要ですから、教えを受け、学ぼうという姿勢が必要です。ですから一定期間、教師の足元に座してそのDNAをもらわなければなりません。御言葉が開けて、御言葉を理解できるように、またそれを思い出す事ができるようにです。中にはそれを「その油注ぎを掴む」とか、「その油注ぎを受けると」呼ぶ人もいますが、私はそんな呼び方はしません。聖書はそのような呼び方をしていないからです。そこではそんな言葉は用いられていません。教会が今までその言葉をずっと使ってきただけです。いったん弟子を獲得して彼らを訓練し始めたなら、その後皆さんは彼らの牧師とならねばなりません。多くの場合、自分が訓練している人々の牧師とならねばならないでしょう。彼らを監督し、教えているのが皆さんだからです。彼らが、教わった事を人生で実践する手助けをしなければなりません。それが牧師の仕事です。彼らがあなたに教わっている事を実践し、それが彼らの人生で良い実を結んでいる事を見届けましょう。それが牧師が心を配るべき点です。
又、皆さんは伝道ができなければなりません。人々を勝ち取って弟子にできなければなりません。相手が必要を抱えていれば、預言者としての役割を果たす可能性もあります。しかし通常、預言者としての役割を果たす為には、預言者の近くにいなければなりません。1サムエル10:10-16を読むと、サムエルがサウルに油を注いで王とした時、彼は言いました。「あなたが行くと、預言者たちの一団に出会うでしょう。彼らは色々な楽器を持って、高い場所から下って来て、預言し始めるでしょう。そして彼らが預言した時、主の御霊があなたの上に下り、あなたは彼らと共に預言するでしょう」と。何故でしょう? 彼らのそばにいたからです。それは音叉(おんさ:楽器の調律に用いるU字型の鋼鉄製器具)の場合と同じです。音叉の話は、まだお話した事がなかったですよね?五つの音叉があるとしましょう。それぞれが異なった音調に調整されています。そこで六つ目の音叉を手に取って、それを叩き、五つの音叉全てにその波動を伝えると、手にしているのと同じ音調の音叉に近づいた場合を除いては、それらは一つも振動しません。他の音叉は一つも反応しませんが、自分のものと同じ音調の音叉に近づくと、それは直接触れていないのに振動し始めます。何故でしょう?同じ波長で振動しているからです。お分かりでしょうか?ですから、特定の人々のそばにいる時、これら五つの奉仕の働き全員のDNAを受けなければなりません。神からの言葉を必要としている人々がおり、また神からの言葉を路上で人々に伝える事ができるよう、預言者となる必要があります。ですから預言者のDNAが必要なのであり、それは通常、預言者の足元に座る事によって手に入ります。ただの預言者的な人々ではなく、預言者です。預言者の足元に座ると、強められます。又、使徒のDNAも必要です。そして遣わされた者としての使徒の全目的は、人々をまとめ、教義を確立し、状況を正し、矯正し、教義を教え、誤った教えを正し、組織化して隊を結集する事です。使徒は軍司令官に最もよく似ています。司令官の全目的とは、敵地に侵入し、基地を設置し、組織化し、そこを占領する事だからです。いいですか?分かりますか?
そういうわけで、五つとも全部必要なのです。それら五つ全部の足元に座す必要があるのであり、そうすればそれらのDNAを受けるでしょう。さて、伝道者の足元に座すなら、皆さんは人々に語り始めます。証しをし始めるのです。伝道者が皆さんの中からその資質を引き出すのです。ですからいわば、誰かが五役者の働きの一つをそこに持ち込むのです。例えば、私がここにやって来て、特定の賜物を働かせると、聞いている人は情報を得ますが、それとよく似たミニストリーの職務に召されている人たちは、命を帯びて生き生きとし始めるのです。何故でしょう?単に知識や、それらのもののせいだけではありません。むしろそれは、その音叉が近くにやって来て、皆さんを振動させているからです。そして多くの場合、何の職務に共鳴するかによって、自分が何の職務に召されているかが分かります。しかし、皆さんには預言者のDNAも使徒のDNAも必要です。何故なら使徒の仕事は、他の殆どどんな仕事にも勝って、人々を育成し送り出すという点において、ほぼ軍隊の仕事に近いものだからです。彼らが重きを置くのは、ただ「敵地を侵略せよ」という事だけです。さて、牧師ではあるものの、使徒のDNAを持っている使徒的牧師というのもいるかもしれず、そんな人は常に進歩を遂げるでしょう。或いは、「教師的牧師」の性質を持ち、教える事を主要な役割とする、「教える牧師」もいる事でしょう。ですから、そのような混ぜ合わさった役割をする人もいれば、一つの純粋な役割をこなす人もいます。使徒たちの場合、通常それらは必要に応じてやるので、どんな役割もこなすのです。ある使徒を、仕事を成し遂げるようにと送り出すと、彼らは教会を建て、福音を宣べ伝えます。基本的に、それら全てをするのです。それはテキサス・レンジャーズ(騎馬警察隊員)と呼ばれる人々に似ています。野球チームの話ではありませんよ。法を施行する末端機関の事です。ある時、大きな暴動が起こって、人々が州兵を呼びたいと思いました。彼らはそういう色々な役目を引き受けていたのです。人々は言いました。「ああ、ひどい状況だ。」人々は銃で撃たれていました。首を縛られて吊るされている人々もいました。本当に滅茶苦茶な状況でした。それは大規模な暴動で、彼らは「助けが必要だ」と言いました。そこでテキサス・レンジャーズに電話して、助けを送って欲しいと言ったのです。これは1900年代初期に起きた事なのですが、列車が町に入ってくると、そのテキサス・レンジャーは自分の馬を引いて、駅に降り立ちました。そして人々は彼を出迎え、暴動が起こっているのだと伝えました。「他の人たちはどこにいるのですか?」と尋ねると、その男は町の人たちを見て言いました。「他の人たちだって?」町の人たちは、「つまり、レンジャーはあなただけですか?一人しかいないのですか?」と尋ねると、男は言いました。「まあ、暴動も一件だけですから(笑)。」
しかし、そのように考えるべきです。一つの暴動につき一人のレンジャーしか要らないのだから、使徒も一つの地域につき一人しか要らないのだと。アーメン?彼らは入って来て組織化し、人々を動かすからです。正直なところ、牧師、また一部の預言者さえも、自分たちの日々の生活の方にもっと関心がありますが、使徒はそれよりも御国の生活に関心を抱いています。御国を発展させる事にもっと興味があり、皆さんを兵士と見なしています。別に皆さんの事を気にかけていないのではありません。むしろ彼らは、皆さんが持ち出さない限り、個人的な生活を話題にはしません。正しく生き、正しく行動し、すべき事をし、この世に手を差し伸べる為忙しく働くようになどと、個人的生活に口を出す事はしないのです。人はこの世に手を差し伸べる為に忙しくしていればいるほど、個人的な生活であまり問題を抱えなくなります。そういうものなのです。皆さんも、それが分かるようになるでしょう。そしてそれが、神が様々な奉仕の働きを取り入れられる理由です。皆さんがそのDNAを受けられるように。アーメン?そして十分長い間、足元に座しているのに、そのDNAを受けないなら、神は五役者を通して皆さんのお尻を叩き、皆さんが出て行ってそれに取り掛かれる何らかの働きをお与えになるでしょう(笑)。アーメン?では休憩にしましょう。
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