2023年9月29日金曜日

New Man セッション3

 セッション3


さて、最初の質問からいきましょう。聖霊のバプテスマについて、その全てを持っていますか?ジョンG.レイクが見たり経験したような、聖霊のバプテスマを求める必要があるのでしょうか?それとも私たちは、既に全てイエスキリストにあって持っているのでしょうか?全ては与えられています。重要なのは、もっと力が放たれるという事であり、もっと与えられるという事はないのです。


聖霊のバプテスマについて語る時には、いつでも一つの事を意味します。よく言われるように、より多く満たされる度合いはありますが、聖霊のバプテスマというのは1つです。確か、デイクだったと思いますが、彼が言っているように、聖霊のバプテスマを受けるという意味はずっと聖霊の中に留まっているという事なのです。


「バプテスマを受ける」は「浸かる」という意味があり、満たされて溢れて、そして浸かったという事なのです。ですから、「聖霊によって満たされる、浸かる、バプテスマを受ける」は全て一つの事なのです。


常に聖霊のバプテスマの中に留まるというのは別の事です。それはちょうど、川の中に入って、水の中にいるようなものです。その中に浸り、同時に水に満たされている状態であり、それが続いている状態なのです。そこから出てしまうと、もう水に浸かってはいません。それで秘訣となるのは、常に聖霊のうちに留まるという事です。


自分に死ぬ(古い人に死ぬ)という事が聖霊の満たしに関わっています。自我に死ぬほど満たされる。それが最適な表現でしょう。それは多くの場合、強い願いから来ます。単に「欲しい」という願いではなくて、私たちがキリストにあって何者か、そして私たちのうちにいるキリストがどういうお方なのかという知識によってです。それと、キリストにあって私たちが何を持っているか、そして皆さんがその持っているもので満たされているという知識でもあります。


実際に、多くの人が聖書を読んで中途半端に引用して「全てこの世は主の栄光によって満たされる」と言っていますが、それはその節の一部分です。聖書は「全てこの世は主の栄光の知識で満たされる」と書いてあります。主の栄光に満たされるにしても、それは主の栄光の知識がこの地上を満たす事がもたらすのです(イザヤ11:9、ダニエル12:4)。この事から知識は常に経験に先立ちます。


もしそうでなかったなら、熱心だけで知識のないままになり、それは通常問題を引き起こします(ローマ10:2)。熱心さだけを持つ事はできるのですが、それが知識と一緒ならば、単なる気持ちが高揚するだけに終わらないのです。その事については後でもっと話していきます。


さて、第二ペテロでした。ペテロは4節でこう書いています。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束(複数)が私たちに与えられました。それはあなた方が、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる為です。」


5節、「あらゆる努力をして、信仰には徳を」加えるという語は「成長させる」という意味が適切です。単に増し加えるのではありません。発展させる、成長させるという意味です。「知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、」と続く事から明らかです。「自制」は「行動などが一貫性、安定している、一定である」という意味を持ちますが、これは多くの人が欠けているものですね。これは単に我慢するという意味ではありません。安定的なものですから、土台がしっかりしたという感じです。「敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と続きます。最後の愛は、「見返りを考えずに与える」という愛です。


それでは見て下さい。8節からです。「これらがあなた方に備わり、ますます豊かになるなら、あなた方は、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になる事はありません。」9節「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられた事を忘れてしまったのです。」10節「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなた方の召された事と選ばれた事とを確かなものとしなさい。これらの事を行なっていれば、つまずく事など決してありません。」


「召された事と選ばれた事」に注目して下さい。ペテロは教会で一般的に言われているような「召し」の事を指してはいません。新約聖書で「召し」という語が使われているのは、キリストの元へと呼ばれたという意味をもっており、「使徒として召された」のような使い方ではないのです。


確かにパウロは「使徒に召された」として彼のミニストリーの使命について言いう事もありました。ところが、その他の聖書の箇所の「召し」というのは、救いの為にキリストのうちにあるように呼ばれたという意味を持つのです。何か特殊なケースでの「召し」ではありません。


実際に、「召し」という語は常に単数形になっています。例えば「神の賜物と召命とは変わる事がありません」の箇所は賜物が複数形ですが召命は単数形です(ローマ11:29)。これは各自の召し(その場合は複数形)ではないという事です。


「ますます熱心に、あなた方の召された事と選ばれた事とを確かなものとしなさい。これらの事を行なっていれば、つまずく事など決してありません」と書いてあります。聞いていますか?「信仰には徳を、徳には知識を」から始めて、これらの事をやっていれば「つまずく事など決してありません」と書いてあります。


それで、もしがつまずくなら、皆さん自身の問題です。それは、皆さんがこれらのものを加えなかったから、或いは、これらを人生に発展させていかなかったからです。ある人は「私がつまずいたのは、神なしでは堅く立つ事はできない事を、教えている為なのです」と言うかもしれません。


確かに、私たちはイエスなしで一人でやっていけるものではありません。しかし、新生しているクリスチャンなら、イエスと共にいるのです。ですから、信者であるなら、イエスと離れていると思わないで下さい。神が結び付けたものを引き離さないで下さい。皆さんがつまずく時に、そのつまずいた理由が、「神が何かしたから、しなかったから」ではない事に気づいて下さい。私達がここに書かれている事をしないから、つまずくのです。


このセミナー全体を通して皆さんは聖書を信じるかそうでないかの選択をする事でしょう。何故なら、私がする事は皆さんが注意を払うように御言葉を持ってきてその一つ一つを読んで聞かせるからです。そして、皆さんはそれらの書かれている事を信じるか、信じないかの選択をする事になります。


次に、これがどの様になっているか示したいと思いますが、ピレモンへの手紙6節を開いて下さい。6節です。皆さんの信仰が失敗したのなら、この節が答えになっています。とてもシンプルです。「もし」、「でも」の言い訳はありません。たった一つの答えが問題解決になっているケースは多いものです。ここを何回も読めば分かってきます。ほぼ全ての問題は、皆さんが信仰を保つ為にやらなかった一つのものに帰ってきます。


ピレモン6節(以下は、より正確な日本語訳に訂正)、後ろの方から「皆さんの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように」の部分の「生きて働く」が重要です。私達の信仰が生きて働くのは、「私たちの中にいるキリストのうちにある全ての良いものをよく知る事によって」です。


皆さんのうちにあるもの全てが良いものとは限りません。「でも、私は人を助けるので良い人だと思います」というかもしれませんが、その様な事とは関係ありません。何が皆さんの信仰の交わりを「生きて働く」ものにするかと言うと、皆さんの中にいるキリストにある全ての良いものを知る時です。


というわけで、秘訣となるのはキリストのうちに何があり、キリストにあって皆さんに何が与えられていてるかを御言葉を通して学ぶ事です。そして、与えられているものを知る事、皆さんがそれを知る時にそれらのものは活性化されるのです。この活性化の方法をセミナーの中で教えていきます。


これはとても重要です。クリスチャンは皆、毎日するべきです。それはプロセスですあり、簡単な事です。一つだけ、皆さんにとって大きな誘惑になるものがあります。それは、あまりにも簡単すぎて、皆さんがこんな事で何かが変わるはずはないと考える事です。まさかそれが重要な事とはと思うでしょう。素晴らしい事には、福音というのはそれ程シンプルだと言う事です。神は一つの事だけに簡略化したのです。私たちは信じるだけです。それが、私たちをキリストに導いたのではないですか?キリストを信頼したのではないですか?皆さんの自由意志の働きによって、神の御心に自分自身に委ね、皆さんの人生の全てのコースを永遠に変える一つの決断をしたのではないですか?


そういうわけで、神がその様に簡単にしているのなら、他のものに対しても「そんなに簡単な事が変化をもたらすだろうか?」と思わないようにするべきです。もし神が、最も小さい事によって、最も大きくな変化をもたらす事ができるのなら(信じるだけにしてしまった事)、その他の全てはもっとシンプルにであるべきです。そういうわけで、決して物事を複雑にしようとする考えに陥らないで下さい。私たちは思いの中で、効果があるものは複雑なものだと考える傾向があります。福音に関して、私たちはそのような事は言えません。


例を一つ挙げましょう。スティル・フォンティン市に私たちがいた時の事です。少女が一人按手して祈ってもらう為に連れて来られました。ドラマチックな大きな出来事ではなかったです。女の子は10~13歳くらいでした。頭に按手する事もその他の事もしませんでした。私たちは、ただ信じたのです。その問題が去るように命じて祈っただけです。大きな声を出したり叫んだり、その様にしなかったのは、相手が子供だったからです。そして私たちはそうする必要もありません。叫ぶ必要があると思うなら、自分自身(の霊、又は聖霊)を奮い立たせる為(2テモテ1:6-8、2ペテロ1:13)、そして神の力を放つ事ができる為です。毎回、そうしなければいけないわけではありません。最初は大きな声を出して学ぶのは良いでしょう。時には自分を奮い立たせる必要があり、一般的には大きな声を出してそうするからです。それが分かれば、今度は神の事を考えるだけで、自分を奮い立たせる事を学びます(2ペテロ1:12₋15)。それができたら素晴らしいです。そして、同じ様にする事で神の力を放つ事を学ぶのです。大声を出す必要はありません。最初はそれで神の力を放つのが容易であるかもしれません。ただ状況によっては、病院などは、適切ではないでしょう。病院で大声を出すものなら、外に追い出されるでしょう。分かりますか?単純な事です。


子供に対してミニストリーをする時も同じです。私たちは子供に対して大きな声を出しません。解放しようとしているのであって、恐れを入れているのではありません。誰かが大声でやっているのなら、それは自制心を失っているからです。率直に言いますが、子供に対して叫んでいるのなら、自制を欠いてのです。そういうケースになると、人々はリスペクトしなくなり、皆さんの単純な指示に従わなくなります。そうなると統制を立て直す必要があり、大体、恐れが関わってきます。その様にして子供をしつける、恐れを子供に教えるという事です。ここでは詳細には触れません。とにかく、彼らは従わなければ、それなりの結果があるというのを知っておかなければなりません。悪魔に対して大声を出さなければならないのなら、コントロールを失っているというのが一般的です。もちろん、最初の頃は声を大きくしても良いでしょう。ただ、大きな声に力があるのではありません。大きな声を出すのは、うちにある力を解放する為です。それが出来る事を学べば、大きな声を出さずとも、力を放てるようになります。手を置くだけでも力を解放できるになります。


マルコ16章では祈りについて何も言っていません。「信じる人々が手を置けば病人が癒される」のです(マルコ 16:18)。信者が祈るという事は一言も言っていません。祈らなくても良いのです。これに驚く人は多いです。もし皆さんが私の所に来て癒しのリクエストをしても、私は祈る必要はありません。私はただ信じる、信者であるというだけで良いのです。マルコ16章にあるように、私が手を置けば皆さんが癒されるという事を信じるだけなのです(マルコ 16:15-18)。一言も言わないでいいのです。ただ皆さんに触れるだけです。重要なのは祈る事ではなくて、信じる事です。ですから、信じる事を学んで下さい。そうすれば、力を解放する事を学ぶ事ができます。


手を置いて(神の)力を出す事もできれば、言葉や命令によっても可能です。「行って、シロアムの池で洗いなさい(ヨハネ 9:7)」とイエスに言われた人がそうしたらどうなりましたか?彼は癒されたのです。イエスが命令したからです。また、イエスが悪霊に「この人から出ていけ」と命じたらどうなりましたか?悪霊はその命令によって出て行ったのです(ルカ 4:35)。イエスは命令によって力を解放したのです。見るだけでも力を解放する事ができます。


自然にやる例は他にもあるのですが、見る事だけでも同じように力を出す事ができるのです。その他にも方法があります。皆さんが来ていた服などでも力を放つ事ができます。その服を誰かに持たして病人に置く様に言う事もできます。それを病人に置けば癒されるのです。分かりますか?使徒の働き19章に書いてありますね。


癒しの布と私たちは呼んでいます。パウロは彼の服に対して祈ったという証拠はないのですが、彼の前掛けや手ぬぐいを取って病人に置くと、何処ででもそれによって病人が癒された、悪霊が出て行ったと書いてあります(使徒 19:11-12)。パウロは、「これは病気の癒しの祈り」、「これは悪霊からの解放の祈り」のように細かく指定しませんでした。ただ力が働いたのです。それは命です。命は死を追い出します。病気を追い出します。神は光であり、命であり、愛です(1ヨハネ1:5、ヨハネ14:6、1ヨハネ4:8)。それらの性質が現れたのが癒やしや解放です。誰かにミニストリーをする時、使徒19章にあるように皆さんの触れた布を置けば悪霊が出て行くでしょう。どうしてでしょう?それは光が闇を追い払うからです。病気であればそれは出て行くのです。どうしてそうなるでしょう?それは命が死を追い払うからです。分かりますか?


私の仕事は2つの面があります。まず一つに、皆さんが神の言葉を信じるように助ける事です。書いてある御言葉を書かれている通りにそのまま読んで下さい。二つ目には、いかに神が偉大であり、ある人達の尺度によって小さくなったりするお方ではない、というのを皆さんが信じるように助ける事です。神はどの人たちを通しても働かれるのであり、私たちのやり方でも働かれます。しかし、小さくされてしまう(制限されてしまう)事はありません。ある人たちが信じているやり方と、別の人たちが信じているのと違いはあっても、両方のグループで神は働かれるのです。


神はあるグループの人たちの中である制限内の範囲で働く事があります、その制限の度合いは彼等が神がその度合いで働くと信じているからです。もちろん、その人たちの信仰だけに神が制限されているのではありません(エペソ 3:20)。つまり、神は他の方法でも事をなさるのです。神がどの様にして働くかについて私たちが持っている考え、それが唯一の方法ではないですが、そのやり方で私たちを通して、神は事をして下さっています。ですから、私たちが神に制限をかけるのが、神にとっての唯一の制限となるのです。それで私のすべき事は、皆さんが神に制限をかけないようにする事であり、神をありのままの神であるようにしておく事です。もし神が癒すのなら、私たちが手を置く時に癒せます。祈らなくても、或いは、言葉を発して手を置かなくても良いわけです。アーメンですか?


次に行きましょう。第二コリントの1章13節です。「私たちは、あなた方への手紙で、あなた方が読んで理解できる事以外は何も書いていません。」パウロは各教会によって違う事を書いたのではありません。パウロの書いた内容は、手紙を宛てた教会で起きていた問題や、教会全体に影響していた大きな問題に関係しているのですが、この事に気づいている人はいますか?彼が大きな問題に対する返事を書いた時はいつでも、事前にその事を教会の人たちから知らされていたので、彼は返事をしたのです。さて、そういった返事をパウロが書いた時、驚く事に、その返事には二つの面があります。非常に実践的である部分、例えば、皆が一斉に異言を話すならそれは訳の分からない事をしている事。そうではなくて、二人か三人が異言を話し、しかも誰かが解き明かす人がいるべきです。何故でしょう?何が起きているか分かる為であり、それが適切であり秩序なのです(1コリント14章)。彼はこのような実践的なアドバイスを書きました。


一方で、パウロが答えたもの、全ての教会にあったそれぞれの問題に答えたものは、一つでした。それは「イエスがあなた方にされた事はこれです」という答えです。毎回そうでした。これがイエスが皆さんのうちにおいてした事、これが皆さんの為にイエスが成し遂げた事です。「聞いて下さい。あなた方が抱えている問題は、神についての知識、つまりイエスが十字架でなさった事と蘇った事に関して十分な知識がないという事なのです。」パウロはその様にコリントの人たちに言ったのではないでしょうか?彼は知恵と優しい言葉を持って彼らを訪れたのではないと言いました。彼は目的をもって来たのです。「私は、あなた方の間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない事に決心したからです」とパウロは言いました(1コリント 2:1-2)。


考えてみて下さい。パウロは博学でした。当時、彼は最も頭のいい人の一人だったでしょう。神学的にはパリサイ人でした。律法をよく理解していました(ピリピ 3:4-5)。彼のような人なら、旧約聖書を暗唱できたでしょう。彼がその様だったのは私たちが知っている通りですし、異邦人の書いた詩なども引用したくらいです。当時の文学にも詳しい人でありました。「彼らの中でもこれは正しい」と引用して書いた通りです(使徒 17:28)。


それで、パウロは無知な人ではなかったのです。彼は言いました。「いいですか。私があなた方の所に来る時、私はこの知識を持って来ます。あなた方が知るべき事は、イエスキリストと彼が十字架に掛かった事です(1コリント 2:1-2)。」

考えてみて下さい。パウロは色んな事を教える事ができたのです。しかし、その他の物は全て塵あくたと彼は考えたのです(ピリピ 3:1-8)。当時の表現において、それはとても強い言葉でした。彼はその他の事は全て損だと言いました。キリストにおいて捕らわれてしまう事が唯一の大切な事なのです。今一番大事な事は、イエスとイエスの十字架なのです。アーメンですか?


パウロにとって、それだけが重要であるなら、私たちもそうであるべきでしょう。アーメンですか?13節です。「私たちは、あなた方への手紙で、あなた方が読んで理解できる事以外は何も書いていません。そして私は、あなた方が十分に理解してくれる事を望みます(2コリント 1:13)。」つまりパウロは、あなた方に新しい事を書いているのではなく、まだ説教をしていない事でもなく、まだ聞いた事のない様なものとか、まだ他の教会に書いていないものではないと言っているのです。これが重要だと分かりますか?それが重要だと今から分かります。


私がクリスチャンになる前、しかもクリスチャンと自覚していた後でも、私は格闘技を教えていました。格闘技は私の人生でした。そればかりをしていましたし、その事ばかりを考えていました。皆さんが賢い格闘家なら、常に一つの技を見つけようとするはずです。あらゆるものに対する防御の技です。もし全ての攻撃に対応できる様々な技を知ろうとすれば、皆さんは、残りの人生全てを掛けてトレーニングして習得しなければならないでしょう。


だいたい36種類の攻撃パターンがあります。人生全ての時間を掛けて、攻撃#1に対する防御はこれ、攻撃#2なら別のやり方など。それで最低でも36のパターンを知る必要があり、しかも異なる対応のレベルも知っていなければなりません。相手が殺すつもりで攻撃しないのなら、殺すつもりで対応しないという理由です。コントロールしたり、控えめにしたりできますが、それには相手の攻撃の強さに対してきちんと対応できる能力が必要になります。


人生の全ての時間を掛けてトレーニングしても、相手がどの様な攻撃を仕掛けてくるか、或いはどのようなディフェンスが必要なのかは分からないのです。でも、もしあらゆる攻撃に対して有効なディフェンス、いつでも使えて誰に対しての攻撃であっても、大きさ、強さ、速さなどに関係なく、そういった全てのものに対応できる一つの答えを見つける事ができるなら、それはベストだと思いませんか?それなら、全ての人生をその一つの事のトレーニングだけに時間を費やせば良いわけで、しかも(一つなので)上達する事が可能です。攻撃の大きさ、強さ、速さ、その他のもの一切関係なく自分を守る事が正確にできるのです。アーメンですか?それで、そのようなものを求めるべきです。全てに対応できる一つの事。これがパウロがやった事なのです。パウロはこの一つの事を見つけたのです。


時間があればコンコーダンスを使って是非調べて欲しいものがあります。ストロングのコンコーダンスでそれを調べる事ができます。ウェブ上でも「一つの事」を検索すれば探せます。検索結果などで最初に出てくるのが、イエスとマルタとの会話のものです。マルタは、「妹に手伝うように言って下さい。妹はただ説教を聞いているだけで座っているだけです。私はここで色々と忙しくしているのに」とイエスにいました。イエスはマリアに、「お姉さんを助けてやりなさい」とは言いわず、マルタに対して、「あなたは、色々な事を心配して、気を使っています」と言いました。イエスは必要な事はただ一つだと言いました。そしてマリアはその一つの事を選んだと言いました。その一つの事とはイエスの説教の言葉です(ルカ 10:38-42)。



パウロも同じ事をしていたと気づくと思います。彼が教えたのは同じものでした。誰にでも、どこへ行っても同じ事を彼は教えたのです。彼はある時に、サタンからの使いを与えられたのですが、それはパウロが多くの啓示を与えらえたからです(2コリント 12:1-9)。しかし、彼の全ての啓示は一つの事であると分かります。彼の持っていた啓示はたくさんあったかもしれませんが、それらは皆、ある一つの事を指しているのです。その一つの事は何かを皆さんとシェアしたいと思いますが、それはランチの後にしましょう。


使徒の働き3章に、ペテロとヨハネはある一つの事を示しています。ペテロが足が萎えていた人を癒したのがきっかけで、全員が彼に耳を傾けました。「何故、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」とペテロは言いました(使徒 3:12)。使徒であるなら、賜物を持っている、癒しの賜物がある、と言う事もできたのですが、彼はそういうものではないと言いました。彼らの聖さ、十分な断食や祈り、善い行い、などをしたわけでもないのです。ペテロのこの発言は、今日の教会でどうやって力を得るかという教えを、全て無力である事を証明するものです。彼は、自分たちの力とか聖さとかがこの人を歩けるようにしたのではなく、イエスの名とその名を信じる信仰によってだと言いました(使徒 3:16)。この箇所を読んだ時、私は格闘技をやっていた頃の事を思い出しました。ペテロは一つの技を見つけたと思うのです。彼は常に通用する一つのものを見つけたのです。


一つの事ですが、二つの部分があります。まず、イエスの御名です。その御名だけではないというのは明らかで、その御名の背後に働くものもあります。つまり、イエスの御名とそれを信じる信仰の事です。ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たち、彼らはユダヤの魔よけ祈祷師だったのですが、自分たち方法で結果を出していました。彼らは悪魔を追い出す事ができたのです。何故なら、旧約聖書の時代でも悪霊を追い出す事はできたのです。イエスもパリサイ人にこう言っています。「悪霊を追い出している私が悪霊を持っているのか。もし私がベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなた方の子らは誰によって追い出すのですか?(マタイ12:27)」彼らは悪霊を追い出していたのです。どうやってでしょう?イエスがそうするのは正しく、イエスがそうなさるのであれば、「悪魔によって」というのはどういう事でしょう?


それで彼らは、悪霊を追い出していて成功していたのですが、ここに問題出てきました。スケワの七人の息子たちが出て行って、彼らはそれまでは悪霊追い出しを成功させていたのですが、今回は新しい方法でやってみたのです。彼らはイエスの名によって悪霊を追い出すというのを聞いたので、試しに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみたのです(使徒 19:13)。


彼らはイエスを知らず、パウロの成功を見ただけです。それで彼らは、パウロの宣べ伝えているイエスの名によって命じたのです。彼らは悪霊を追い出す事はできました。ところが、その悪霊は彼らを襲って追いかけました。彼らは悪霊を追い出したのですが、彼らが望んだ通りの形ではありませんでした。彼らが新しい啓示を混ぜようとしたのに気づいて下さい。彼らはテクニックを混ぜようとしたのです。違うメッセージを混ぜる試みは失敗に終わりました。もし皆さんが何かをやるなら、結果が出せるものを見つけてそれを追い求めて下さい。「全ての中から、それぞれベストのものを取れば、全体的にベストを持つ事ができる」のであれば、それはフランケンシュタインなのです。それらのものをまとめても、何一つ結果を出す事はありません。「このメッセージ(純粋な福音)は何か違う」と言って、他のものと混ぜる人がいます。メッセージはそれ自体でこそ働くのです。混ぜてしまうとダメになります。石油を車に入れる時のようなものです。それだけなら良いのですが、水を加えてしまえばダメになります。混ぜものになると使えません。純粋なものが通用するのです。


分かりますか?それで、混ぜたらだめなのです。福音はそれだけで良いのです。例えば心理学と混ぜてしまうと...心理学の起源は私たちが想像しているようなものではありません。それは悪魔からの知恵であり神からのものではないのです。単純に言えばそうなのです。それがどこから来たのかたどれば、人から、悪霊に取りつかれた人から、ドラッグ漬けや精神異常の人からなのです。それで、(それを混ぜると)神からのものではないものを混ぜようとする事になるのです。私たちはそのようにする必要はありません。私たちは神からの知恵が与えられており、それだけで十分なのです。


コロサイ人への手紙4章に行きましょう。16節を見ていきます。パウロはこの様に言っています。「この手紙があなた方のところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにして下さい。あなた方のほうも、ラオデキヤから回って来る手紙を読んで下さい。」パウロはここで、「この手紙があなた方の所で読まれたなら」と言いました。つまり、彼らがこれを受け取った時、それはただの手紙であって、パウロは4章を何か特別なものとして書いたわけではないのです。彼は手紙が読まれるようにと書いたのです。


誰かから手紙をもらった時、三行だけ読んでそこで止めてしまい、それらの事を考える事はしないでしょう?手紙全部を読むはずです。何故なら、手紙全部を知りたい(と思う)からです。家族や友人からの手紙だったら、皆を呼んで、「~さんから手紙があったよ」と言って皆の前で全部を一気に読むはずです。何回かに分けて読む事はしません。


「次の四週にかけて、毎週月曜日にビルおじさんからの手紙を読む事にします」などという事はしないはずです。手紙全てを読むはずです。コリント人への手紙やへブル人への手紙は(長いので)別としても、パウロの手紙を一気に、5分くらいで読む事はできます。ただ通読するだけです。10分くらいで全部読めます。分ける事はしません。後でそうしたとしても、最初読む時は一気に全部読むでしょう。そして、全ての書簡は単純にキリストが皆さんの内にあって、皆さんを通して、皆さんの為にした事を伝えているのです。それらの殆ど全ては、十字架によってなのです。そして、更にここが重要な箇所ですが、パウロはこの手紙が読まれる時、それを声を出して読まれる事を期待しました。もし、セミナーの時に私がコロサイ人への手紙1章1節、という様にしてただ聖書を読んだだけなら、「それで?」と言って、殆どのクリスチャンは怒るでしょう。教えるというのは必要であり、神は教師を教会に置いていますが、単に聖書を読むだけでは無駄な時間だと考えているのです。


でも例えば、ヨハネによる黙示録を読んだとしても、それには読むだけでも祝福があると言っています(黙示録1:3)。ある人たちは、「でも理解できない」と言うのですが、ヨハネは読んで理解できるから祝福されているとは言っていません。もちろん、理解はできないでしょうけど、分からなくても、読むだけでも祝福されるのです。ですから、皆さん自身や皆さんのうちに既にあるものについて書いてある箇所を読むなら、どんなに祝福される事でしょうか。暑い日に外で冷たい水を見つけた時、それを飲むなら皆さんの体、全体にその冷たさを感じる事ができるでしょう?神の御言葉もその様なものです。皆さんの霊と御言葉は一致しています。皆さんの霊は御言葉の通りに信じますが、時には、ただ御言葉を聞くだけでも「その通りだ」と言って満足するのです。御言葉を聞いて色々と考えるのではなく、ただ皆さんの霊が聞きたいだけなのです。


私はテキサス州で生まれ、そして世界中に行くようになりました。色々なアクセントを聞きます。時には聞き慣れたテキサス州のアクセントを耳にする事もあります。聞き慣れたアクセントは何だか落ち着きますね。どうしてでしょう?それはちょっと自分の故郷を思うからでしょう。知らない所へ出て、別に家に帰りたいわけではないのですが、家のような慣れた環境は良いものです。それと同様に、皆さんの霊が御言葉を聞くと、慣れた家のようなものを感じる、そういう効果があるのです。


そういうわけで、パウロは「この手紙があなた方のところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにして下さい」と言ったのです。これらの手紙はただ勉強する為ではなく、その全体を声を出して信者に読まれるようにという意図があったのです。もし私がここに来て癒しについて教える、癒しを必要としているなら祝福となるでしょう。でも、癒しを必要としていない人なら、癒しについて関心もありません。彼らにとってはただ教会の礼拝に来ただけになるのです。彼らにしてみれば、「私は健康で周りには特に病気の人もいないので、私にはそれ程の事でもない」となり、強く印象づけるものにはならないでしょう。


しかし、もし皆さんが御言葉をただ読むのであれば、ここにいる皆が良い影響を受けます。何故なら、御言葉は全ての人にとって良いものだからです。キリストにあってどこにいようとも、皆さんが人生のどこにいようとも、皆さんの問題がどの様なものでも、御言葉を聞く事によっていつも祝福を受ける事ができるのです。御言葉をただ読む、ストレートに読むというような事が、例えメッセージの前でも、或いはメッセージ以外の事でも、そういった教会の礼拝というのがあるべきだと私は考えます。


第一テモテの5:27を見て下さい。ここでもパウロは教会に次のように書いています。「この手紙が全ての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」この聖書の箇所を読んだ事がないとしたら、皆さんは兄弟だと思いますか?もし新生したのなら、もちろんそうです。例え、この手紙を知らなかったり、一度も読まれなかったとしたら、誰かが聖書通りにきちんとしていない事になるのです。「この手紙が全ての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます」と書いてありますから、もし誰かが立ってこの手紙を読んだなら、神に従っている事になるのです。そうして手紙を読んだ人は、「私は神の御心を行っている」と言えるのです。アーメンですか?


それではエペソを開いて見ましょう。このセミナーの中心的な内容について詳しく話していきます。3章です。皆さんによく分かってもらえる為に、ここからはゆっくり話します。正直に言いますと、マニュアルにある全てをカバーできないと断言できます。多くの事をカバーしていきますが、もしそうでなかったとしても、皆さんがそれらを学び始める事ができるように方向づけます。これから何をどうするかについて教えますが、私が去った後でも自分で調べて、私がしている事をどうしたら良いか分かるようになり、また私がした事を皆さんも同じようにできるようになります。


それを証明しましょう。私がこれを読んだ時、非常に驚きました。そのいきさつを先に言います。いいですか?第一コリント人への手紙は存在しないのです。彼らはパウロに書き、パウロは返信しました。私たちはその最初の手紙を知らないのです。第一コリント人への手紙は、実は二番目の手紙なのですが、最初の手紙がないので、それを第一としたのです(1コリント5:9)。ですから、第二コリント人への手紙は本当は第三コリント人への手紙なのです。エペソ人への手紙は2つあります。私たちが持っているのは、実は第二エペソ人への手紙です。第一エペソ人への手紙が存在しないのに、第二エペソ人への手紙とするのはおかしな話なので、そういう事になっているのです。


エペソ人への手紙3章の1節から3節。「こういうわけで、あなた方異邦人の為にキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。あなた方の為にと私が頂いた、神の恵みによる私の務めについて、あなた方は既に聞いた事でしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。」3節を見れば、彼が手紙を書いた事について言及しているのが分かります。彼が先に書いた事は奥義についてではなく、彼がその奥義をどのようにして受けたかです。それで、第一エペソは恐らく、彼がどの様にしてキリストについての奥義の啓示を受けたかについての証だったと思います。それについては、後ですぐに見ていきます。


4節を見て下さい。「それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。」パウロが何を言っているか分かりますか?パウロは、「私はどのようにして啓示によってこの奧儀受けたかについて前に手紙を書きました。そして私はこの奥義を理解しています。私が書いた手紙を読めばそれを理解でき、私の奥義についての知識が分かるはずです」と言っているのです。分かりますか?私たちは神が啓示を与えて下さるのをいつも待っています。でもパウロが持っていた奥義をただ読むだけで、手に入れる事ができる事に気づいていますか?それがいかに単純であるか分かりますか?私たちは聖書を読むだけでは十分でないと思いがちです。「何かをしなくてはいけない、そしたら神は私たちに啓示を与えて下さる」と考えているのです。しかし、啓示は聖書なのです。啓示が欲しいなら、聖書を読む事です。神がパウロに与えた同じ啓示を与えて下さるようにずっと祈るか、その啓示をパウロの書簡で読んでゲットするかなのです。分かりますか?ですから、何十年もかけて啓示を得るという事をしなくて良いのです。この様にして神が私たちに与えたのであり、これらの約束を通して私たちが神の性質を共有する者となれるのです。


どのようにしてそうなるのか?それは、パウロに与えた啓示を読む事によってです。ヨハネの黙示録も、「ヨハネを通してキリストについて啓示された」という意味があります。啓示の本であるのに、多くの人は理解できないと言います。隠されたではなく、啓示(明らかにされた)の本なのです。キリストについて啓示されている本です。イエスについて明らかにされている本であると、ヨハネは言っています。イエスが隠れているという意味ではなく、隠された知恵、隠された奥義でもありません。イエスを啓示している本なのです。ですから、奥義が隠されているからという前提でそれを探すかのようにする必要はありません。イエスを見つけるだけに焦点を当てれば、イエスを見いだす事ができます。黙示録の中にイエスが見えれば、ヨハネが言おうとしている事が明らかになります。アーメン?これは奥義が隠された本ではなく、啓示の本なのです。


それで、黙示録を読むと啓示を得る事ができるのです。混乱してはいけません。啓示と悟りを得る事ができるのです。しかし、間違ったものを探しているなら、そこにないものを探している為に、回り道をしてあるものが見えなくなってしまいます。そこにあるものを見ようとするなら、見つけられます。混乱していない事を願います。さて、私たちは3節と4節を見ました。ここで鍵となるのは、パウロがこれを読めばキリストの啓示についての私の知識を理解できるという箇所です。次の数日にかけて、エペソ、コロサイ、ピリピを読んで、神が皆さんの中で何をしてくれたのかを見ます。ローマやコリントなども読んでいきますが、主にこれらのパウロの書簡から学びたいと思います。マニュアルの中に入れてあるのですが、一字一句を見るようにして見ていきます。全ての箇所をそうすると時間がないのですが、「新しい人」に関して、正しい方向に進む事ができるようにしたいと思います。


では、ローマの16章の20節を見て下さい。「平和の神は、すみやかに、あなた方の足でサタンを踏み砕いて下さいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなた方と共にありますように」サタンの力は既に打ち破られています。イエスが死んで十字架で犠牲になられて、死人のうちから蘇りました。パウロは「平和の神は、すみやかに、あなた方の足でサタンを踏み砕いて下さいます」と言っています。


ですから、ローマ教会のクリスチャン達が、彼らの足でサタンを踏み砕くという様な事をしていた事が分かります。しかし、これは彼らのした事です。そして最後に25節、「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなた方を堅く立たせる事ができる方」ここでパウロは「私の福音」と言っています。パウロの福音には奥義についての啓示、或いは、啓示についての理解が書かれていると知る事ができます。この奥義という単語は、(ある特定の奧義)(The mystery)という単語です。それは、世の初めから隠されていました。パウロは奥義についての情報を知っていました。それは世の初めから隠されていたのですが、「世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導く為にあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示」なのです。


パウロは、奥義の啓示を与えられたと言いました。世の始めから誰一人としてその奧義を知りませんでした。それが理由で、パウロはそれを宣べ伝えるように命令されたのです。そして、奥義は全ての人に明らかにされました。私たちは奥義が教会を通して知らされ、現れたという事を見ていきます。休憩から戻ってきたら、奥義が何かを見ていきます。強調し過ぎる事も、それ以上大きくする事もないのですが、これは隠されていた奥義なのです。パウロが説教していたのはこの奥義であって、私が皆さんに知らせたいのはこの事です。次の事を最後に、休憩に入りましょう。


これについては、後にまた見ていきますが...ヨハネの福音書で、イエスが「話す事はまだたくさんありますが、今、あなた方はそれに耐えられません」と言っています(ヨハネ16:12)。ですからイエスは、それについて何も言いませんでした。本当は奥義を明かしたかったのです。そして十字架に付けられ、処刑されて墓に入れられました。三日目に蘇って、それからだいたい14年後に、或いは、17年から20年頃でしょうか、最初の弟子たちが耐える事ができなかった為に伝えれなかった奥義を、パウロに明らかにされたのです。イエスがパウロに啓示されたのは、(最初の弟子たちに)教えたかったものでしたが、できなかったものです。その時には、イエスはできなかったのです。それはパウロに示されたのですが、パウロの教えではありません。パウロの教えはイエスの教えの続きなのです。イエスが言いたかったけれども言えなかった、世の初めから隠されていたもの。そして、十字架の後になってからでないと啓示する事ができなかった理由も後で説明します。十字架に掛かって天に昇って行った後では、イエスは地上にはいなくなりました。ですから、それらの教えを誰かを通して教えなければならなかったのですが、これらについても説明していきます。休憩から戻って来たらそれらについて説明します。

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