セッション11
続きから読み始めましょう。前回はヤコブ1章で終わり、25節の真ん中あたりまで読んだので、そこを少し読み返して、その後コロサイ人への手紙に戻ろうと思います。25節です。「 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」御言葉を実行するなら、すくに忘れる聞き手にはならないと言っているのです。聞いた事を行うなら、その行いによって祝福されると。そうですね?神に自分を祝福させようとしている人たちが大勢います。第一に、彼らは既に祝福されています。しかし第二に、彼らは自分たちが何故祝福を目にする事がないのかと考えているのです。古い契約の下では、契約を守るなら祝福があなたに追いつくと書かれています。つまり、祝福を受けずにはいられないのです。新しい契約の下では...人々は今、絶えず祝福を追い求めています。殆どの教会の人たちは、自分たちが祝福に追いつかれていると言いません。むしろ彼らは、祝福を追い求めているのです。先ほども言ったように、古い契約の下ですら祝福を追い求めなくてよかったのですから、今はなおさら、どれほど追い求めなくても良い事でしょう?そのような考えがどこから来ているか分かりますか?私たちは絶えず祝福を追い求め、神に自分を祝福させようとしているというのに、何故、上手く行かないのでしょう?とても単純な事です。それは御言葉を実行する者ではないからです。「私は実行しています」という人もいるでしょう。はっきりさせましょう。そう言う人と神のどちらが本当の事を言っているかを。私は裁きの日に、その人の前に立つ事はないので、神の方を信じようと思います。
御言葉の実践、その特定の方法、或いは、行いゆえに祝福を受けているかについて、神が何か言われるなら、私たちはその点に関して「何が真理であるのか」に立ち返らなければなりません。ですから、御言葉をただ聞くだけではなく、行わなければならないのです。26節でこう言っています。「自分が宗教に熱心であると思っても」さて、ここでの宗教は(皮肉的に)「良い意味」としての宗教です。「自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら…知ってもらいたいのですが、皆さんの心や霊は、基本的には新しく造られています。霊と心は別々ですが、霊は心の一部とも言えます。心は存在全体、中心的な部分です。それは霊と魂と体が一つに合わさったものです。ここでヤコブは、宗教に熱心であるように見えても、舌にくつわをかけないなら、自分の心を欺いていると言っているのです。つまり、実際の自分と一致しないような事を言うであろうからです。たとえばこんな風に。「ああ神よ、私たちにはもっとあなたが必要です。おお神よ、別の祝福が必要です。別の油注ぎが、何かが必要です。」いいですか。もし実際に、神を追い求めているのではなく、実際に神を見いだしている教会が存在すると想像してみて下さい。人々は実際神と共に歩み、神と語り合いつつ人生を送るという事です。あたかもそれが、ごく普通の事であるかのように。教会全体がそのように歩んでいるのだとしたら...と言っても、別に異様な生き方をするわけではありません。お分かりでしょうか。私たちは日常のやるべき事はやります。請求書の支払いをしなければなりません。店に寄って何かを買ったり...ごく一般の暮らしです。しかし、誰かが電話してくるなら祈ります。病気を追い払い、相手を解放します。或いは、誰かの為に直接祈っていて、本人たちが目の前にいるとしたら、祈ります。大きな成果を得る為に異様に振舞う必要などありませんが、この世の事に煩わされてはダメです。それらの物事に捉われてはいけません。初期の聖霊派には、自分の今いる場所で宣教師になるという概念がありました。自分たちは、この世を通り過ぎている寄留者でいるべきだというものです。貧しく暮らす生き方や、何の考えも持たずに生きよと言っているのでもありません。ただ、全てが手段に過ぎないのだという考えについて話しているのです。以前も言ったように、お金は手段にもなれば、神にもなります。お金を神にすると恐ろしい事になりますが、手段としては有用なのです。そうでしょう?
私たちは自分の全ての持ち物を、そのように見なさなければなりません。人生で物を持つ事や、人生を楽しみ、楽しい時間を過ごしてはいけないと言っているわけではありません。私は人生を楽しんでおり、自分の仕事も好きです。一緒に時間を過ごせる孫たちもいるて楽しい人生です。四六時中どこかに引きこもっているわけではなく、昨日皆でやったような告白もします。絶え間なくそうしているのです。そのような生き方を選んで、人生そのものを仕事にする事だってできるのです。或いは、周りの人々と全く心を通わせる事のない場所に行く事もできますが、神はそんな事をするようにと、私たちを召されたのではありません。どこかの修道院の僧侶になり、引きこもった生活をして誰とも会わない…。ある意味、そのようなクリスチャンになるのは世界一簡単な事です。難しいのは人々が居る場所でクリスチャンでいる事です。そうでしょう?そこでは、人々と接しなければならないからです。しかし、私たちはこの地上において、塩や光となるよう召されました。皆が塩であったとしたら、塩など必要ありません。そうですね?塩は塩がない場所で必要とされます。そこで自分の役割を果たす事ができるように。ですから、皆さんは地上の塩になる必要があります。動き回って仕事に行ったり支払いをしたり、外食をしたり、やるべき事をするという意味では、普通の生活を送って構わないのです。同時に、神の力も持つ事ができるのです。しかし、決して世のものに執着して、自分の奉仕活動よりも、物を大切にするようになってはいけません。つまり、ヤコブが言いたい事とはこうです。自分の言っている事が神の言葉と、神があなたについて言っておられる言葉とに一致するよう、自分の舌にくつわをかけなければならない。さもないと、自分の心を欺く事になる。そのような人の宗教はむなしいと書いてあります。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っている時に世話をし、この世から自分を清く守る事です。」聞きましたか?「清い宗教」とは、この世から自分を清く守る事なのです。皆さんを清く守るのは誰の仕事ですか?皆さんの仕事です。皆さんが自分を清く守るのです。神が皆さんを清く守って下さるとは書かれていません。ですから、皆さんにはこれらの事柄の幾つかを実践する責任があるのです。
さて、コロサイ1章27節まで読んでいましたね。そこにはこうありました。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みの事です。」これはキリストの事です。「あらゆる人を戒め...」と言っています。戒めるべき事がなければ、戒める必要はありませんね。ですから、人々が戒められているという事は、戒めるべき何かがあるのです。そうでしょう?「私たちは、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、全ての人を、キリストにある成人として立たせる為です。」本来、奉仕を行う全ての人と、全ての教会の目標とは、全ての人をキリストにある大人として立たせる為なのです。これは人々を成長させ、成熟させ、キリストの体の中で役目を果たす事ができるようにするという事です。29節です。「この為に、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」文を二つに分けてみましょう。「私もまた、労苦し」それは正しい事をし、全ての人をキリスト・イエスにある成人として立たせる為です。「キリストの力によって奮闘しています。」つまり、自分の中におられる神の働きに応じて、パウロも働いているのです。「自分のうちに力強く働くキリストの力によって。」聞いて下さい、理解しておくべき一つの大切な事とは、自分の中には自分を教え、あらゆる真理に導いてくれる聖霊がいるという事です。お分かりでしょうか?皆さんは聖霊が教え、あらゆる真理に導いてくれる事を、信頼しなければなりません。聖霊がすべき事をしてくれると信じなければならないのです。聖霊は神です。ですから、すべき事をしてくれます。そして御霊の仕事は、皆さんをあらゆる真理へと導く事です。殆どの人は、人がそれをしなければならないと考えています。「そうだな、私は聖書学校を出ていないし、神学校にも行かなかった。ここにいる他の人たちほど頭が良くない。聖書を自分で読めないし。何と書いてあるか他の人に教えてもらわないと」と言うのです。いいえ、あなたの中には聖書の著者が宿っておられるのです。その方が聖書を書かれました。その書が書かれた意図が、何であったかもご存じです。そうでしょう?という事は、あなたにどれだけ教養があろうが、或いはどれだけ教養がなかろうが、他のどんな事も一切関係ありません。聖書を読めば、そこに何が書いてあるか、神が教えて下さいます。しかし、それを読むには、偏見のない目で読まなければなりません。自分の属している集団や教派や、他のどんなものも通さずに。ただそれを手に取って、読むのです。
人の思考というものは非常に素早いので、相手が言いかけた言葉を、自分で終わらせてしまいます。そして大半の人々にとって最もじれったい事とは、「ああ、もう何を言うか分かるよ。言う必要もない。もう分かったから、言わないで」と思うほどに、相手がものすごくゆっくりと話す事です。ものすごくゆっくり話すか、或いは慎重に言葉を選び過ぎる人に会った事はありませんか。「分かった、分かった。もう言わなくていい」と言いたくなるのです。何故なら人の思考は、それほども素早いからです。そして聖句の場合も、それと同じ事が起こります。大半の人は、これまで沢山聖句を読んできたか、誰かに読んでもらってきたので、私が彼らに聖句を示して、相手が聖句を知っている場合には、最初の一言二言を読むと直ぐに、私がそれを読み終わる前に、即座に彼らの思考が働いて、それを全部言い終わってしまうのです。私は人の思考がそこに何が書いてあるかを言うのと同じくらい素早く、聖句を読む事などできません。ですから、最初の単語を口にするや否や、もしそれが相手の知っている聖句なら…パッと思考が働いて、もう次の言葉を待っているのです。そんなわけですから、相手は一秒かそこらで退屈し始めます。その思考が、既にこう書かれてあると言う部分を私が読み終わって待っている間、別の事を考えています。人の思考というのは、そういう風にできているのです。多くの場合、聖書を読もうとして腰を下ろす時、人はそれを読みさえしません。聖書を開き、それにささっと目を通して、聖書を思い出すのです。人はそれを覚えています、これまで読んできた全ての聖句が、そこにあるからです。一つとして忘れていません。今から25年後に、誰かが催眠術か、何かその類のものをかけて、この年のこの日にどこにいたかと尋ねたなら、皆さんはそれを覚えている事でしょう。人の脳というのは、それほども驚異的なのです。ただの身体器官にすぎない、この脳がそれらを覚えており、全ての事ができるのです。脳は全ての事を覚えています。道路を車で走って標識を見る時、脳はその道路を運転しながら見る全ての標識を覚えています。私が皆さんにお話しした全ての事も…ビューンと、ほらこの通り。皆さんはそれを思い出せないかもしれません。それはそこから、意識的に思い出せるほど強い印象を受けなかったからです。
アルファ、ベータやシータといった様々な脳波がある中で、アルファ脳波状態と呼ばれる状態に入る事ができるなら、皆さんはそれを思い出して、再び見る事ができるのです。そしていわば、それこそが、催眠術の基盤なのであり…別に催眠術を使うよう勧めているわけではなく、そんなものは決して奨励しませんが、ただ、その記憶はそこにあると言っているだけです。人々は言います。「待って下さい。私は自分がそれほど頭が良いとは思いません。私は賢くないはずです。これが分からないのですから。」それは頭の良さとは何の関係もありません。どんな人にも、頭が切れる分野とそうでない分野があります。いいですか、アルバート・アインシュタインはある分野においては頭脳明晰でしたが、他の分野ではそうではありませんでした。彼は物理学や、その類のあらゆる面において素晴らしく秀でていましたが、町のどこかに置いて行かれると、家に帰る道を見つける事ができませんでした。何故でしょう?彼は常に物思いに耽っており、道路標識を見ないし、自分がどこにいたかも覚えていなかったからです。彼が外に出かけると、片方しか靴を履いておらず、もう片方は裸足、といった事がありました。靴を履いている最中に、何かを思いついて、ずっとその事について考えながら外に出てしまうからです(笑)。ですから、よくよく考えてみると、天才と精神病患者とは、本当に紙一重なのです。しかし脳の中には、こうしたあらゆる情報が封じ込められています。ですから、私が皆さんに聖句を読むとしたら、それを素早く読んで、瞬時に要点を述べない限り、皆さんは退屈になって、あれこれと考え、私が追いついてそれを読み終わった頃に、ようやく物思いから覚めるのです。自分で聖句を読んでも、もしその聖句を既に知っていたならば、皆さんの思いは…残念な事に、自分が読んだもの、そこに書かれてある事を、常に覚えているわけではありません。人はそこに書いてあると、誰かから言われた事を覚えているのであって、誰かからそこに書いてあると言われた内容に沿って、それを読んでしまうのです。それが驚くべき点です。特に、そう書いてあると告げた人が、その道の権威として、皆さんが尊敬している人物であればなおさらです。そして、その人を心から尊敬していればいるほど、彼らの言葉はより大きなインパクトを与えて、心に刻まれます。実際、人々に頼んで、聖句を朗読してもらった事があるのですが、彼らは間違った読み方をしました。全会衆がです。そのように教えられてきたからです。私は言いました。「それでは、そこをもう一度、私に読んで聞かせて下さい。一語一句読んで欲しいのです。」すると彼らは、やはり間違った読み方をしました。毎回そうしたのです。
一つ例を挙げましょう。これは私が通常読む聖句なのですが、人々は、殆ど常に間違った読み方をされます。それはエペソ4章14節で、次のようにあります。一言一言、とてもゆっくりと読もうと思います。「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する事ができる為なのです。 」さて、私は間違った読み方をし、「それでは」と言って、2節か3節を読んでから、こう言ったのです。「私が間違った読み方をした節はどれでしょう?」すると人々は、「間違った読み方?気づきませんでしたが」という顔で私を見るのです。私は言いました。「大丈夫です。もう一度読みますね。」そして節を読み、13節辺りから始めて、15節か16節まで読むと、毎回15節を間違った読み方で読み、人々も間違っている所を探そうとして、一緒に目で追い、私はゆっくりと読んでいました。そして彼らは間違いを探そうとし、私はそこを読み、間違った読み方をします。そしてこう言ったのです。「さて、私はどこを間違いましたか?」すると彼らは「間違っていません」という顔をします。私は15節を彼らに読んだ時、私は次のような読み方をしました。「むしろ、かしらなるキリストにあって愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長する為なのです。」さて、気づいたでしょうか?何年もこれを間違った読み方で読んでいたのに、誰一人気づきませんでした。何故でしょう?そのように(間違ったように)読むよう教わったからです。皆さんは、自分たちがキリストにあって成長する事ができると教わってきましたが、成長してキリストに達する事ができるとは教わりませんでした。私はケープタウンで成長する事もできますよね?しかし成長して、ケープタウンになる事はできません。成長して何かになる為には、それは生きている何かでなければなりません。私たちが成長してキリストに達するというのは、本当でしょうか?ええ、その通りです。それは成熟と呼ばれています。しかし、私たちは成熟する時、キリストのようになるのです。違いが分かりますか?キリストにおいて成長する事と、成長してキリストのようになる事とは違います。私は何年もかけて、キリストにあって成長する事もできますが、そうするのではなく、むしろ常にキリストのようなものへと成長してきたのであり、今や成熟して大人になったのです。違いが分かりますか?人々にそれを読んで聞かせても、間違って読んでいたのですから。私も同じように読んでいました。「彼らはあらゆる点において、かしらなるキリストにあって成長し...」私は言いました。「ヒントをあげましょう。15節です。15節を読んで、教えて下さい。15節には『達する(into)』という言葉がありますか?」すると彼らはそこを見て、「ああ、ありますよ、ここにあります。では、もう一度読みますね。」そしてまたそれを、間違った読み方で読むのです。すると彼らは私を見て、「ええ、どこが間違っているのですか?」といった顔をします。真面目に言っているのです。信じられませんでした。しかし、以前教えられた事がそれだけ深く心に刻み込まれているのです。彼らは事実上、それに気づかなかったのですから。真理に対して盲目になっているのです。何故でしょう?宗教のせいです。宗教は決して、「あなた方は成長してキリストに達する事ができる」などとは教えません。宗教は、あなたがキリストにおいて成長し、一生涯、永遠に渡って成長し続け、死ぬ時になってもまだキリストに達していないだろう、と告げるのです。「どこかの段階には達しているだろうが、キリストに達するだって?いやいや。それはもっと後の、瞬時に霊の体に変えられた時に起こる事で、また別の話だ。」それが宗教が告げる事です。何故でしょう?宗教は決してあなたに、成果を出して欲しくないからです。宗教は常に、皆さんが決して休む事なく奮闘し、努力し、働きかける事を望むのであり、何かが達成される事を決して許しません。ですから、聖書を読もうと思うなら、新しい読み方をする事です。先入観なしに、そこに書いてある事を。
そこに何が書いてあり、またどういう言い方をしているかなど、全てを正確に読み取る方法を教えてあげましょう。第一の秘訣は、ゆっくり読む事です。聖書を開いて…言っておきますが、これはiPadではできない事です。iPadでやってみようとしましたが、うまく行きません。今からしようとしている事は、聖書を持って、それを逆さまにする事だからです。それから11節を読んでみて下さい。そのようにすると、目を凝らさないといけない事に気づくでしょう。そうではありませんか?さっと流し読みする事はできません。ですから、実際に集中して考えるのです。そして、読むスピードも遅くなります。そしてそれ以外の、自分が知っている節さえも、そのように読むのです。ヨハネ 4:10 に戻って、15節から読むといいでしょう。そこにはこう書いてあります。「女はイエスに言った。『先生。私が渇く事がなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」この読み方をすると、もっと考えるようになりますね。そしてスピードを落として、実際にそこに書かれてある事を読み取るようになります。そして教派ごとの狭量なこだわりや、その他の色々な事を、もはや考えなくなるのです。これが新しい読み方の一例です。さて、いつもそんな風に読むようにと言っているのではありません。とりわけ人前ではやめましょう(笑)。変な目で見られるでしょうから。だからiPadではうまく行かないと言ったのです。逆さにしても、くるっと回ってまた元通りになりますからね。
コロサイ人への手紙に戻ろうと思います。2章1節です。「あなた方とラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見た事のない人たちの為にも、私がどんなに苦闘しているか、知って欲しいと思います。それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになる為です。」聞きましたか?「神の奥義を知る為に」と彼は言っています。「あなた方の心が励まされる事を知っていて欲しい」と。「愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、」「豊かな全き確信」です。これらを一語一句覚えていて下さい。アンダーラインを引いておきましょう。「神の奥義であるキリストを真に知るようになる為です。」ですから、神の奥義とその奥義の内容を知らなければならず、その奥義が何かがわかれば…その奥義とは何でしょう?あなたの内なるキリスト、栄光の望みです。そうですね?それが奥義であり、キリストが自分の内におられると分かったなら、その時、自分が十分に理解できているのだと、心から確信するのです。それが他のあらゆる知識の扉を開き始めるからです。この奥義が分からないなら、基本的に他のどんな物事も理解できないでしょう。内におられるキリストの奥義こそが、新しい契約の真髄である事を理解するまでは、常に古い契約の考え方で行動するようになるでしょう。古い契約の考え方は、肉的な行いの考えである事を思い出さなければなりません。それは律法主義的な考え方です。自分の行いに応じて報われるという考え方です。良い事をすれば良い報酬がもらえ、悪い事をすれば、悪い報いがあるのだと。そして新しい契約へと移行するまで、常にそのような思考を持ち続けるでしょう。皆さんの内におられるキリストによる、この新しい契約の事です。そして今皆さんは、それをしておられるのは神であると気づいています。皆さんは神がなされた善い事の益にあずかっており、神は悪い事は何一つされないので、悪い報いは下りません。というわけで、もし悪い事が起こるなら、それはどこから来るのでしょう?私たちは、全ての良い贈り物、完全な贈り物は上から、光の父から下ってくると知っています。ですから、それが悪いなら、ヨハネ 10:10 を思い出して下さい。「イエスが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つ為である。しかし盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけの為である。」ごく単純な事です。良い贈り物は神から、悪い贈り物は悪魔から来るのです。簡単ですね。アーメン?
パウロが「神の奥義であるキリストを真に知るようになる為です。このキリストのうちに」と言う時、これは誰のうちに、と言っているでしょう。キリストですね。「この方のうちに」という言葉を見る時、それは毎回キリストを指しています。私たちの事を指している時もありますが、大抵はキリストの事です。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝が全て隠されているのです。」さて、キリストは私たちのうちにおられます。それが奥義です。それを理解して認識すると、つまり、知恵と知識との宝を認識する事になります。人々は言います。「ヤコブはどうなのですか。そこには知恵に不足している者があれば、神に願い求めよと書いてありますが?」ヤコブの手紙が新生したばかりのクリスチャンに宛てて書かれている事を覚えておく必要があります。彼らはあまりに日が浅い為に、肉的であると呼ばれても、その意味が分からないのです。彼らはまだ、肉的な人というカテゴリーに分類されてすらいませんでした。最初に新生児、それから赤ん坊になります。そうですよね?新生児は本当に生まれたばかりなので、赤ん坊とすら呼ばず、新生児と呼ぶのです。彼らはそれほど生まれたてなのです。ヤコブは新生児の為に書かれました。言っておきますが、聖書を学習したいなら…或いは誰かを改宗させるとすれば…最初に彼らに読んでもらうべき書は、ヤコブへの手紙です。彼らにヤコブを読んでもらいましょう。それは短い書で、そんなに多くの事は書かれていません。そして、ヨハネの福音書を読むべきであると告げる人々に、それを読んでもらいましょう。彼らにヤコブを読ませるのです。ヨハネの福音は、新たにクリスチャンとなった人々を怖がらせます。それは重厚すぎ、長すぎるのです。ヨハネ自身も次のように書きました。「この物事が書かれたのは、あなた方がイエス・キリストを知る為である。」既に新生しているなら、イエスがキリストである事を知っているわけですから、その時点でヨハネは必要ありません。彼らにヤコブを読んでもらいなさい。ヤコブの手紙には、クリスチャンとして生きる為に知っておく必要のある事が、全て書かれています。その短い5章の中に、全部入っているのです。ヤコブは、人の扱い方について、次のように言っています。「立派な身なりをして入ってくる人もいれば、みすぼらしい身なりで入ってくる人もいるが、彼らの扱いに差があってはならず、同じように扱いなさい」と。そうですね?「聞きなさい、べらべらと喋って口にくつわをかけなければ、あなたの宗教は空しい。だからそんなに話すのはやめて、口をつぐみ、不適切な事を語ってはならない。」とヤコブは言っています。彼はその事に関して、非常にはっきりと告げています。またこうも言っています。「真の宗教とは何かを知りたいですか?真の宗教とは、やもめや孤児の世話をする事です」と。そうではありませんか?彼は言っています。「癒される方法が知りたいですか?」聞いて下さい、信仰について心配する事すらあってはなりません。彼は「あなた方のうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招きなさい」と言い、信仰を持つようなどとは、言いもしませんでした。何故でしょう?彼らはあまりに生まれたてなので、信仰が何かも知らなかったからです。知っていたのは、自分たちが新生したという事だけで、信仰の用い方を知りませんでした。まだ基本を学んでいる所でした。その基本とは何でしょう?神への信仰です。彼らはまだそれを知りません。生まれたてなのです。では、そんな人はどうしますか?長老たちを招くのです。長老たちがやって来て、彼らに油を注ぎ、彼らの為に信仰の祈りを祈ります。神は彼らを立たせて下さいます。信仰による祈りは、病む人を回復させます。長老たちが祈る信仰の祈りが、病む人を回復させるのです。病人が祈る信仰の祈りではありません。そうでしょう?
ですから、病気になった場合は…聞いて下さい。彼らは全員にこう言いました。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさいと。苦しんでいるなら、祈りなさいと。そして病気なら、長老たちを招くようにと。要するに、これは単なるリストです。ホテルにチェックインするようなものです。ルームサービスが必要なら1番を。これこれが必要なら2番のボタンを押して下さい、といったような。苦しんでいるなら、祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。病人は?長老を招きなさい。簡単ではありませんか。それは単に、キリスト教の基本なのです。彼は言いました。「聞きなさい、もし二人の人がいて…誰かや何かの事であなたが過ちを犯し、誰かと不仲になっているなら、彼らの所に行きなさい。そして互いに罪を告白し合うなら、あなた方は癒されます。」癒される方法については、既に語られました。病気なら、長老たちを招きなさい。そうすれば、彼らはあなたの為に祈り、それによって癒されると言ったのです。ところがその直後に…15節、「癒される」という言葉を用いているのは、何故なのでしょう? 互いに罪を告白し合い、互いに対して過ちを犯した事を告白すれば、あなた方の関係が癒されるだろうと、そういう意味で言っているのです。体の癒しの事についてではありません。それについては、既に語られたからです。そうですね?
ヤコブは「もしあなたが罪を犯しているなら、恐らく病気になったのはそれが理由です。だから癒される前に罪を取り除いて下さい」とさえ言っていません。「病気なら長老たちを呼びなさい。彼らはあなたに油を注いで、あなたの為に信仰の祈りを祈り、主は病人を救われます。ところで、もしあなたが罪を犯していたなら、あなたは赦されました。心配要りません」と言っているのです。驚きではありませんか?彼はそれを最初に言ったのではなく、後で付け加えました。「そうそう、心配しないで下さい。全て上手く行きます」という風に。これは驚きですね?クリスチャンの生活について知る必要のある事は、全てヤコブの書にあります。全ての信者がヤコブの書を学習し、通読すべきです。御言葉を聞いても、それを行わないならどうでしょうか?そういう人は自分自身を欺いているのです。ですから、ただそれを行う者になりましょう。彼は完全な自由の律法を一心に見つめて離れない人について語っています。人がどこで成長するか知りたいですか?この聖書にじっくり目を通して下さい。そこに書かれている事を読むのです。それは鏡を見ているのと同じ事です。これがあなたです。行って、自分が何者であるのかを発見し、それにふさわしく歩み行動し、イエスのようになりなさい。簡単ではありませんか?私たちはそれを、とても難しいものに、難解な神学にしてしまいました。神は、それが神学となる事は、まるで意図しておられませんでした。ただ人との関係を取り戻す事を望んでおられただけです。なのに私たちは、それを関係ではなく、むしろ制度に変えてしまいました。神はただ、私たちと関係を持ちたいだけなのです。ただ皆さんに、次の事を知って欲しいと望まれています。「聞きなさい、私はあなたの味方であって、敵ではない。あなたが病気になっても、それを起こしているのは私ではない。その事で私と話したいなら、そうしても構わないが、ただ私を責めないで欲しい。」そうですね?病気がどこから来たか知りたいですか?全ての良い贈り物、全ての完全な贈り物は、上にいます父なる神から下ります。そうでしょう?そう言われているではありませんか?
ちょっと想像してみて下さい。人々が新生した時、最初に彼らに、ヤコブの書だけを教えたとしたらどうでしょう。 誰かがこう言いました。「神が私を病気にしたのです。」ヤコブの書を読み返して下さい。「全ての良い完全な贈り物は光の父から来ます。」そうですね? 従って、病気は良いものでも、完全なものでもない為、神からのものであってはならないのです。そうでしょう?ただ御言葉に立ち返るのです。そうすれば、何と簡単な事でしょう。私たちは、実際に神と共に働いて、キリストのように見えるクリスチャンを造り上げる代わりに、むしろ、自分たちの神学によって、すっかり水を濁してしまったのです。私たちは人を裁きたがり、そのせいで本来すべき事をしていません。私たちは、自分の業績に基づいて他の人を裁きたがります。それは新しい契約ではなく、未だに古い契約の考え方をしているからです。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝が全て隠されているのです」とパウロは言っています。一方で、「あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、とがめる事なくお与えになる神に願いなさい」とヤコブは言っています。ヤコブが手紙の中で、「あなたが知恵を欠いているなら、神に願いなさい」と書き伝えたのは、その人が知恵と知識の全ての宝がキリストの内に隠されており、キリストが今自分の中におられる事を知らないからです。そこで、その知識を得る為に、いわば願い求めなければなりません。コロサイ人への手紙を読み始めると、その時、次のような事が分かるのです。「キリストが私の中におられる。私の中におられるキリスト、それは栄光の希望だ。それが奥義だ。だからキリストは私の中におられ、知恵と知識の全ての宝物はキリストにあり、そのキリストが私の内におられるので、私は全ての知恵を持っており、神にそれを願う必要はない。ただ、そこにあるのだと神に信頼しなければならないだけだ。そうすれば、聖霊は必要に応じてその知恵や知識をもたらしてくれる。だから私は計画を立て、神は私の歩みを導き、私は前へと踏み出す。私が口を開いて語り出すと、神がそれを満たして下さる。私は神の言葉で自分を満たす。口を開くと、神の言葉しか出てこなくなるように。そして神の言葉で自分を満たす事で、御霊が『これを引っ張り、今度はあれを引っ張りなさい。次はこれをあれの後に置き、あれをそこに置きなさい』 などと言って、数多くの事を伝える事ができるように。」
神が地元の教会、そこのグループに向けて、少なくとも私を通して何と言われているのかを本当に聞きたいなら、その最も簡単な方法は、このセミナーを3つの異なった形で受ける事です。つまり、私がダービンで開催したものと、コロラド州のスプリングスで開催したもの、それからここでのセミナーに参加し、それらを全て聴くのです。そうすれば、同じ話も聞くでしょうが、違う話も聞く事でしょう。どれが違う話であるかは、だいたい分かります。そして、私がコロラド州のスプリングスにいた時に言った事は、神の御霊によってその人たちに与えられた言葉です。私は行く先々で、どこでも同じマニュアルを用います。ですから、基本的な骨組みは常に同じなのです。しかし堅い肉、つまりどんなグループや地域においても、そこで神が語られる堅い肉は、神がその特定の場所にいる人々の為に与えられたものです。神はそこに誰がいて、何を必要としているかご存じだからです。ですから、私は至る所で、全く同じ事を異なる方法で教えようと思います。宣べ伝える目的に応じて、使徒的に教える事もあれば、預言的に教える事もあります。教えている時、私は詳しく掘り下げます。それは教義を確立するという点において、使徒的です。使徒は矯正し、物事を正しい位置に収めます。もし皆さんが、「彼(カリー)は今、使徒という立場で教えいるのか、それとも預言者として宣教しているのか?」といった事を知りたいなら、私がどこに立っているかで簡単に分かります。ここに立っていれば、通常は使徒として教えています。別の所に立つ事があります。すると預言者の領域に踏み出し、そんな時、私はもはや聖書を読んで言っているのではなく、神の言葉が口から出て来るのです。そしてそれは御霊のわざによるものです。私は大抵こちらに立つのですが、すると預言者モードが始まって…言葉が来ると分かっていても、まだそれが出てきていないなら、私は通常ここから動きません。するとそれが出てきて、私はただ動き続け、その動き方もどことなく預言者っぽいのですが、それほど強くは表れていません。しかし通常は、こちら側でも、どちらの側でも、私が動き回っている時には、大抵は預言の霊がそこにあり、御霊が「いや、こう言いなさい」と言っているのに、私がそれを聞いていないからなのです。「こう言いなさい」というものが自然に出てくるのですが、少々神の後押しがあります。分かりますか?ですから、通常は私の立ち位置によって、皆さんは私がどちらの立場で宣べ伝えているかが分かります。
さて、パウロはここで言っています。「私がこう言うのは、誰もまことしやかな議論によって、あなた方をあやまちに導く事のない為です。」「私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなた方といっしょにいて...」私たちは、「霊において、皆さんと共にいますよ」などと言います。しかしパウロは、そういう意味でこう書いたのではありません。「霊においてあなた方と一緒にいて、あなた方の秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます」と言っていて、実際に見ているのです。何が起こっているかが見えているのだと彼は言いました。「聞きなさい、そこにいなくても、それでもそこの会衆に何が起こっているかを見守っているのですよ。御霊によって、会衆に何が起こっているかが分かるのです」と。何故でしょう?彼はその会衆に遣わされた使徒だからです。御霊によって彼らと繋がっており、子供に対して父親が負うような責任を負っていたのです。ですから、パウロは子供に何が起こっているかを、知っていなければなりませんでした。遠く離れた場所で子供に何か悪い事が起こっている時には、目が覚めるのだという親たちの話を、よく耳にすると思います。何故でしょう?そこにそうした繋がりがあるからです。それと同じ事です。さて、通常その繋がりは、霊において何が起こっているのかが分かるほど十分に強くはありませんが、霊において会衆を見守っているなら、それが見えるほど強いつながりを持つ事ができるのです。実際、それをした人がいます。ジョン・レイク氏です。1908年から1913年まで、彼がここ南アフリカにいた時、全く同じ事を体験しました。旅に出て留守にしている時に、会衆の中で問題が生じているという知らせを聞くと、彼はただ散歩に出かけ、異言で祈りました。そして異言の解釈を受け取りました。多くの場合、幻のようなものが見えたそうです。レイクには会衆が見えました。彼は手紙の中でこのように告げました。「さあ、これがあなた方の面している問題です。このような事が起こっており、あなた方はそれがこの人のせいだと考えていますが、実際は問題を起こしているのは、別の人物なのです。彼らを引き離し、会衆から追い出しなさい。私が戻って来るまで彼らは別の場所に居させ、会衆と接触させてはなりません。」そしてレイクがその手紙を送ると、人々は言われた通りにし、彼が言っていたまさにその人物が…問題に関係していると誰一人気づきもしなかった別の人間が、問題の根であると気づくのです。そしてその人物を会衆から追い出すや否や、教会に秩序が戻りました。たった一人のイゼベルがいるだけで、秩序が乱れます。彼女はアハブの陰に隠れて悪事を働いていた悪人でした。その事について話しているのです。そして会衆の中にイゼベルのような人物がいると、そういう事が起こるのです。それが男性であれ女性であれ、例外なくそうなります。
そういう人は進み出て自分の意見を述べたり、自分で問題を起こすだけの度胸がないので、誰かの後ろに隠れ、誰かの耳にささやいて問題を起こし始めるのであり、誰かがいかにも言いそうな事を、その人が言ったと皆に吹聴し、その後自分は身を引いて、そこからあらゆる問題を引き起こすのです。イゼベルの霊によって悪事を働く人は、どんな危険性も責任も危機も回避して、やりたい放題に振舞うのであり、皆さんは御霊によって、その問題がどこから生じているのかを知らなければなりません。何かを発言した人を追い出しても、それが問題の根源ではないからです。その人を追い出しても、イゼベルは他の誰かを通して語るでしょう。すると今度はその人が追い出され、何が起こっているのか分からないまま、会衆全体が徐々に削り取られてしまうでしょう。しかも真犯人は決して追い出されないのです。「その人を追い出すべきではありませんか?」と言うでしょう。そうです。聖書はその事について語っています。会衆に問題を起こす人は、あらゆる悪い行いをして、騒ぎを引き起こすであろうと。会衆に影響が及ぶ程にまで悪事に関わっているか、罪を犯しているなら…それが誰の目にも明らかなのに、何も罰を受けていないように見えるなら、会衆は「ああ、罪を犯しても罰を受けずに逃れる事ができるのだ。別に構わないのだな」と考え始めます。すると、罪が会衆全体に蔓延し始めます。私たちは、それを阻止しなければなりません。そしてパウロはある時、人々に言いました。コリント人への手紙で彼らにその返事を書いて、次のように言いました。「ここには父親の妻を妻にしている人がおり、それは不品行であるので、彼を追い出しなさい。会衆から追い出し、破門にして、追放しなさい。」そしてここが肝心な点です。「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされる為ですが、それによって彼の霊が主の日に救われる為です。」さて、ここに注目して下さい。人々はこう言います。「ああ、彼をサタンに引き渡すのですね。本当にそんな事をすべきなのですか?」ええ、パウロがそうするように言ったのです。そして彼らはそうしました。その後、次の手紙の中でパウロはこう言っています。「聞きなさい。その人は悔い改めました。彼を再び迎え入れなさい。」彼らはその人を戻したくはありませんでしたが、パウロは彼が悔い改めたので、再び会衆に迎え入れるようにと言ったのです。
「この懲戒は、私たちが望んでいた通りの効果をもたらしました。彼は悔い改め、戻ってきたので、彼を再び迎え入れて下さい」とパウロは言ったのです。これは滅ぼす為ではなく、取り戻す為です。そのような観点から行うなら、それは正しい事です。この人はあからさまな罪の中に生きていました。そしてパウロは、「彼の肉が滅ぼされる為に、彼をサタンに引き渡しました」と言いました。さて、そこから何が分かるでしょうか。この人は罪の内に生きていたのに、サタンは彼を滅ぼす事ができませんでした。何故でしょうか? 祈りによって、そしてパウロの手紙から学んだ通りに生きる事によって、彼は、守っていた会衆の一人だったからです。パウロは彼らに、彼の肉が滅ぼされるよう、実際に彼をサタンに引き渡さなければならないと言いました。彼に触れる事すらできなかったサタンに、彼を引き渡さなければならないと言ったのです。人々は肉が滅ぼされる為にサタンに引き渡される人たちについて、話したがりません。それは彼らを怖がらせます。彼らが神に引き渡すと言っていない事に注意して下さい。という事は、肉を滅ぼすのは誰の仕事でしょう?神ではありませんね。人々は言います。「それは神の仕事を成し遂げる為に、サタンを利用しているのです。」いいえ、そうではありません。皆さんはサタンにサタン自身の仕事をさせているのです。肉を滅ぼす事は敵のする事なのです。人が悔い改めて戻って来るなら、迎え入れるのです。すると、人々は言います。「恐らくそこが悪かったんだ。そこが問題なんだ。だから病気になっているんだ」本当にあからさまに罪を犯したのですか?サタンに引き渡した人が誰かいましたか?もしかしたら、いたかもしれません。しかし、もし罪を犯していないのなら、その場所から出て下さい。何の理由もなしに人々をサタンに引き渡すような所にいる必要はありません。罪があるなら、悔い改めて下さい。方向転換して、戻って来るのです。アーメン?
さて、この人物に注目して下さい…救いの教義全体について詳細に語るつもりはありません。そんな事をすれば、議論だけで一日が終わってしまうかもしれないので。しかし驚きです。彼は肉が滅ぼされるように、サタンに引き渡されたのでしょう?けれどもその時、パウロはその事を知っていました。何が起こっているかを把握していたのです。自分でもそう言っています。このように語っているのです。「私の方では、体はそこにいなくても心(霊)はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によって裁きました。」ですから、そこにいなくても何が起こっているかを見ていたのです。その節にそう書かれているのは、驚きではありませんか?大抵の人は全然それに気づきもしないのです。さて、私たちは御霊の内に宿る命について話しています。御霊による歩み、御霊にあるとはどういう事かについて話しているのです。別に御霊にあって、御霊によって歩んでいれば、このような事は起こらないと言っているのではありません。しかし起こっていた事が、パウロに見えた理由に注目して欲しいのです。そうすれば、教会を正す事ができますから。その理由とは、それを見た人々に、「ああ、見てごらん。彼は何て霊的なのだろう」と言わせる為ではありません。それにはある目的があるのです。そしてもし皆さんがこれらの事をし、そのような御霊の表れがあるとしたら、それはある目的を果たす為であって、皆さんや相手の人の為だけではありません。むしろそれは通常、教会全体の為なのです。それから彼はこう言っています。「あなた方は、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」主イエスを受け入れたのだから、イエスのように歩み、そこに留まりなさいという事です。「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられた通り信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。誰のとりこにもならないよう、注意しなさい。」あのむなしい、だましごとの哲学の事です。「そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」9節です。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」そうですね?「そしてあなた方は、キリストにあって、満ち満ちているのです。」この二つが関連し合っている事に気づきましたか?キリストのうちには神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っており、皆さんはキリストにあって満ち満ちているのです。これがどういう事か分かりますか?神の満ち満ちた性質が全て皆さんの中に宿っているという事です。神がそこにおられるのです。皆さんを通して生きておられるわけではないかもしれませんが、そこにおられる事は確かです。皆さんはこれまでずっと、キリストをそこに、独房に閉じ込めてきたかもしれません。拘束服を着せて、手を動かす事ができず、誰にも触れる事ができない状態のままで。しかし、キリストはそこにおられます。そしてキリストがそこにおられるなら、神もそこにおられるわけです。
さて、これだけ言わせて下さい。「イエスはキリストです。これは正しいでしょうか?イエスはいつキリストではなくなるのでしょう?」これについて色々調べているうちに、イエスは通常、クリスチャンの中に入った時に、キリストではなくなるという結論に達したのです(笑)。私がそのように言う理由とは、キリストという名前には、油注がれた者という意味もあるからです。これは複数いる内の一人ではなく、唯一無二の(THE)油注がれた方です。そうですね?キリストが自分の中に入られても、私たちはまだ油注ぎを求めて叫ぶのです。何故でしょう?きっとそれは、油注がれた方が自分の中に生きておられないからに違いありません。そうでしょう?その方を下さいと求めなければならないなら、油注ぎが必要なら…つまり、キリストが内に生きておられいても、二倍の油注ぎを欲しがっているなら、それは皆さんの中におられるだけでは十分ではないという事です。そう言っているも同然ではありませんか?イエスが満たして下さらないと?私たちはこれまでずっと、このような考え方を確立してきたのであり、多くの場合、その事に気づいて大きな衝撃を受けるまで、その真偽を確かめる事すらしません。しかし、もしイエスがキリストであられるなら、あなたが油注ぎを受けていない時など、片時もないはずです。イエスには常に油注ぎがあるからです。もし皆さんに油注ぎがあるなら、それは一つしかありません。つまり、油注がれた方による油注ぎです。アーメン?別の油注ぎなどありません。油注がれた方の油注ぎだけです。イエスこそ油注がれた者です。そして私たち全員が、そのお方からの完全な油注ぎを受けています。私たちはイエスにあって完成された者であり、イエスの内には神の満ち満ちた性質が形をとって宿っているのです。私たちには別の油注ぎなど要りません。唯一の[THE]油注がれた方が、中におられるからです。そうですね?
ビル・ゲイツのような、とてつもなく裕福な人がいますが、もしビル・ゲイツがいるとすれ、別のお金持ちは要らないですよね?いつも小切手帳を持ったビル・ゲイツが来てくれるのですから、別のお金持ちは要りません。あなたにはその[THE]お金持ちがいて、その人が財政面でのあらゆる必要を満たしてくれるからです。そうですね?では、もしあなたがキリストを持っていたなら、他の何らかの油注がれた存在が必要でしょうか?キリストは物質面においても、或いは霊的な面や感情面においても、その他のどんな面においても、皆さんのいかなる必要も満たす事がおできになるのではありませんか?キリストに満たせないものなどあるでしょうか?そしてイエスを持っているなら、イエスはいつも皆さんと繋がっていて下さるというのに、何故、他の誰かを必要とするのでしょう?ある人は言います。「しかしイエスは天に座しておられるのですよ。」しかし、イエスは皆さんのそばにおられるのです。皆さんもイエスと共に天に座しているからです。「しかし、イエスは私の中に宿っておられます」と言うでしょうが、皆さんはイエスと共に天にいます。イエスは皆さんのすぐそばにおられます。皆さんがイエスと共にいるのであれ、イエスが皆さんと共におられるのであれ、常に一緒なのです。霊的な物事はあくまで霊的です。それに、気づいているでしょうか、皆さんに挑戦します。私がこれまで言ってきた中で、一つでも違反したり、誤って引用したり、変えてしまった聖句を、何か思いつきますか?或いは、私が否定したり、無視した聖句がありますか?私はただ聖句を引用しているだけですが、それでも私たちがこれまで教わってきた事とは、殆ど全てが正反対です。アーメン?
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