2023年9月29日金曜日

New Man セッション4

 セッション4



マニュアルを持っているなら、9ページを開いて下さい。9ページまでのものは殆ど話しました。直接マニュアルからは読んではいませんが、その少し前の...イエスが言った事について、ヨハネの16章にあります。イエスは言いました。「私には、あなた方に話すことがまだたくさんありますが、今あなた方はそれに耐える力がありません(ヨハネ16:12)。」これについては既に話しましたね。


8ページの下についても触れます。ヨハネの福音書 8:12です。「イエスはまた彼らに語って言われた。「私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩む事がなく、命の光を持つのです。」それから9ページ。ヨハネの福音書9章の4節です。既にだいたい話したものです。「私たちは、私を遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。誰も働く事のできない夜が来ます。」5節では「私が世にいる間、私は世の光です」と言っています。マタイ5章13-14節でも、「あなた方は、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなた方は、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」と言いました。



イエスは、私たちを含む彼の弟子は世の光ですと言いました。また、彼自身が世の光ですとも言いました。ここを通してある事が分かります。幾つかの事を明確にします。まず、イエスが彼自身について言った事は、文字通り私たちについても同じ事を言ったという事です。唯一の違いは、彼の人生と私たちの人生、それもだいぶ似ているのですが、皆さんは十字架に掛からないという部分です。イエスは十字架に掛かりました。命を買い取ったので、イエスの命は今私たちの命なのです。私達は彼の命にあって生きているのです。イエスは世を救う為に死にました。私たちは世を救う為に生きます。それが全ての目的です。


それでは、二、三質問を見ていきましょう。これらを一緒につなげたいと思います。良い質問がここに幾つかあります。「こんにちは、カリー。癒しやその他の為の油注ぎを流す目的で、手を置く事についてどう思いますか?」私たちはもっと(その事を)特定しないといけませんが、そうする必要はなく、聖書も癒しの油注ぎの転移の為に手を置くとは言っていません。二つ目に、その必要があるとは私は思いません。全ての信者は病人を癒すようにと言われています。全ての信者は病人に手を置けば彼らは回復するのです(マルコ16:15-18)。油注ぎの転移は必要ないのです。皆さんは既に必要なものを持っています。



一般的に、皆さんが持っていないのは経験です。これは、誰かが与える事はできません。皆さんは他人の話や証しを聞く事はできます。そしてそれは、きっと皆さんを燃え立たせる事でしょう。しかし、誰かの証しに励まされて実際に歩み、皆さん自身が自分でやらなければいけません。そういう事です。その一方で、唯一の受け取る賜物があります。それは聖霊です。使徒たちが手を人々の上に置いて、彼らは聖霊という賜物を受け取りました(使徒8:17、19:6)。聖書は、悔い改めるなら聖霊の賜物を受けるとあります(使徒2:38-39)。そこには油注ぎの転移について何もありません。多くの人たちは旧約聖書の事を考えます。旧約時代には、預言者、祭司、王の上にしか聖霊は働いていませんでした。そのような人々は、その時代に数人しかいませんでした。



新約聖書では、神はまだ聖霊を預言者、祭司、王の上に注ぎますが、唯一の違いは、今では私たち全員が神に対する王であり、祭司となっているのです(黙示録1:5-6、5:9-10、1ペテロ2:9)。それで、今はたくさんの預言者、祭司、王がいます。そして、神は直接私たちと関わります。私たちはいつも仲介者のような者、神との仲介者を持つ事に戻りたがりますが、神はそれを望んではいません。新しく生まれ変わる事の目的は、誰かを通して神に近づくようにする必要が無い為です。


皆さんは神と直接的な関りが持てます。ある人たちは言うでしょう。「それでは、『長老たちによる按手を受けた時、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません(1テモテ4:14)』と言っている箇所はどうですか?」パウロが言及している賜物は聖霊ご自身の賜物です。それは疑う余地がありません。



それは特別な一つの賜物ではありませんでした。パウロはあなたのうちにある唯一の賜物を軽んじるのではなく、燃え立たせなさいと言いました(2テモテ1:6-7)。これはまた別の質問を生み出すでしょう。ペテロは使徒の働き10章38節で、「神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神が共におられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられている全ての者を癒されました」と書いています。聖霊が与えられたのは、イエスが生まれた時でしょうか?それともヨルダンの向こう岸のベタニヤでバプテスマを受けた時でしょうか?



イエスは神の子として生まれたのですが、ピリピの手紙では、ご自分を神とならせたる全ての力と特権を無にしてこの地上に来られたとあります(ピリピ2:6-9)。つまり、神としてのご自身の力を一切行使しませんでした。イエスは人として歩みました。古い契約の下での預言者として、そして、聖霊という油を注がれた者として。神から、神の子として生まれたのですが、聖霊のバプテスマを受けられました。それは、私たちが福音書の中で見る彼のバプテスマです。ただ、イエスはこの事の前には一つも奇跡を起こしませんでした。仮に奇跡を起こす力を持っていたとして、そうしなかったのなら、彼は罪を犯している事になります。何故なら、もし良い事と知っていてそれを行なわなかったら、それは罪だと聖書にあるからです(ヤコブ4:17)。ですから、何年もの間、イエスは人を助ける事ができると分かっていながら、そうしなかったという事で、罪を犯していた事になってしまいます。



ですから、明らかに、イエスは力を持っていなかったのです。これは、私たちが多くの新約聖書の外典について同意しない理由の一つです。何故なら、その中には、「子供のイエスが土から鳩を作って、それを空中に投げると生きた鳩になった」などと書かれてあるからです。あらゆる奇跡が聖書に書かれています。カナの結婚式で、イエスが水をぶどう酒に変えた事が最初の奇跡だったという風に細かくあります(ヨハネ2:1-11)。それが最初の奇跡なので、その他の全ての奇跡はその前に起こっていないという事になります。外典は偽の記録であって、聖書的ではありません。私たちはそれらの書物を聖書として使いません。それが聖典から除外された理由です。それでは、「ペンテコステの時に上から来た力はヨルダンの向こう岸のベタニヤでのものと同じでしょうか?」私はこれらは同じだと考えます。イエスは私たちが経験したのと同じ事を通りました。私たちが経験する聖霊のバプテスマはイエスが経験したものです。人々がペンテコステに経験した事は、イエスもしたのです。



次の質問に、「十二弟子を送り出した事、つまり、主が彼らに力と権威を与える事についてです。十字架前の癒しと十字架後の癒しはどう違いますか?」とあります。DHTTで殆どカバーしている内容ですね。私たちが知るべき事は、イエスはクリスチャンを相手にしていなかった事です。十字架に掛かる前には、イエスはクリスチャンを相手にしていませんでした。相手にしていたのは生まれ変わっていない人たちです。十二弟子やその他の七十人などは、全て生まれ変わっていない人たちでした。しかし彼らは、イエスの権威で働いていたのです。



人々は二つの契約の違いが分からないので、新約聖書から多くの誤解があるのです。人々は新しい契約に生きる事をせず、古い契約の下に生きようとします。それが理由で、十字架の前とその後の違いが分からないのです。新しい契約は福音書の最後から2つめの章から始まっているのです。つまり、新しい契約はマタイの1:1 からスタートしていません。イエスが生まれた時でもありません。イエスは旧約聖書の預言者として働いていたのですから、彼のした事は古い契約にいる者としてです。それから主の晩餐で、「これは私の血による新しい契約です。」と言いました(マタイ26:27-28、マルコ14:23-24など)。その時から、イエスはご自分の復活の時までを移り変わりの時としているのです。そこが、新しい契約が実現した時なのです。この違いの言及は一般的になされていませんが、私たちには、古い契約と新しい契約(遺言)があるのです。



古い契約は同意でした。新しい契約はイエス・キリストの意思と遺言です。遺書は誰かが死んだ時に受け取るものです(へブル9:15-17)。違いが分かりますか?相続者となる為に、誰かと契約を結ぶ必要はありませんよね?もし相続者なら、相続する者なのです。遺言とはそういうものです。殆どの人は、イエスの言葉を新しい契約とします。当時の人々が新しい契約の下にいたとしたら、イエスは生まれ変わっていない人たちに対して、新しい契約の言葉によって生きるようには要求できなかったのです。何故なら、それは彼らにとって不可能だからです。しかし、新しい契約では全てが異なります。イエスが十二の弟子たちを送り出した事は、皆さんを送り出すようなものとは違います。イエスは十二人や七十人を送り出したように、皆さんを送り出されませんでした。皆さんが送られたのは、マタイ10章や9章、ルカ10章などではありません。



皆さんが送られたのはマタイ28章の第宣教命令においてです(マルコ28:18-20)。全く違います。最終的な結果は似ているべきでしょう。しかし、私たちはより幅広い権限が与えられています。決定的な権限です。イエスが弟子たちを送った時は、委任された(制限された)権威でした。残念な事に、人々はその時を振り返って見て、十字架の前だった事に気付いていません。気づいていても、その意味を理解していないのです。それで、彼らが権威を教える時、委任された(制限された)権威について教えるのです。それは真実ではありません。皆さんはクリスチャンとして、委任された(制限された)権威を持っていません。私たちは相続した権威を持っています。それが違いです。当時のイエスの弟子たちは、霊的な親子の関係を持っていませんでした。分かりますか?私達はその関係を持っています。私たちは、霊においてイエスと一つです(1コリント6:17)。彼らはそうではありませんでした。彼らはただ言われた通りにやっていたのです。


人々はマタイの17章に関して質問があります。弟子の所に自分の息子を連れてきた男がいましたが、弟子たちは悪霊を追い出す事ができず、イエスの所に来て、「その子をお弟子たちの所に連れて来たのですが、直す事ができませんでした」とその男は言い、イエスは言いました。「いつまであなた方と一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなた方にがまんしていなければならないのでしょう(マタイ17:14-20)。」イエスは「その子を私の所に連れて来なさい」と言いました。弟子たちがその子をイエスの所につれて来ると、イエスは悪霊を追い出しました。その子の親でさえ、「主よ。信じます。私の不信仰をお助け下さい」と言いました(マルコ9:24)。彼自身、信じる事が出来なかったので、私たちは彼は二心のある人だから、何も得る事はないだろうと考えます。しかしイエスは、その男が頼んだから癒したのではありません。それよりも、その子は解放される必要があったからです。その男が信仰を持っていたから、。その男が頼んだからでもありませんでした。単純に、悪霊に取りつかれたその子には自由が必要だったからでした。そして、イエスは彼を自由にしました。



信仰を働かせていたのはイエスだけでした。イエスの所に来た弟子たちは言いました。「何故、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは、「あなた方の不信仰の為です(直訳)。」と言いました。これがイエスの答えでした。マタイ17章の21節は別の訳では存在しません。「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」とイエスが言っているので、断食して祈らなければ悪霊を追い出せないというのですが、これは元々の福音書にはありません。ある人々が後で付け加えたのです。



パリサイ人とバプテスマのヨハネの弟子たちは「どうしてあなたの弟子たちにはバプテスマのヨハネの弟子たちが断食するように教えないのですか?」と言いました。イエスは「私が彼らといる間は彼らは断食はしません」と言いました(マタイ9:14-15)。そういうわけで、彼らが断食をする必要がないと言っていたのなら、彼らが断食をしていなかった事について叱る事はできなかったのです。ですから、このマタイ17章21節は元々の聖書には含まれていないのです。彼らがもし信仰を持っていたら悪霊を追い出す事ができたという意味です。分かりますか?祈りや断食、その他の事なしにです。彼らが信仰さえあれば、彼らは対処できたのです。これはマタイの17章で起きた事実ですが、イエスは既に彼らをマタイ10章で送り出しています。



マタイ10章です。話の内容はご存知かと思われます。マタイ17章は10章の後に来ますよね?ですから、彼らは既に病人を癒す為に、悪霊を追い出す為に遣わされていて、彼らが戻って来た時には「悪霊でさえあなたの名に服従します」と言いました(ルカ10:17)。それで、悪霊に憑かれた子が現れた時、イエスの弟子たちは悪霊を追い出す事が出来ませんでした。しかし、それ以前には、彼らは悪霊を追い出してはいたのです。この事から、私たちは何故イエスが次の様に言ったのかを理解できます。「いつまであなた方にがまんしていなければならないのでしょう。」「あなた方はそれまで悪霊を追い出していたではありませんか?それなのに、今は不信仰になっているのですか?」イエスは彼らにそう言ったのです(マタイ17:17)。



イエスは「あなた方は断食をしていないので霊的に十分ではありません」とは言っていませんでした。イエスは「私はあなた方を送り、人々を解放していました。前回はどの様にしたのですか?あなた方が言った事を覚えていますか?悪霊さえも私の名に服従すると言いました。それなら、どうして不信仰になっているのですか?何故、疑うのですか?」と言った事でしょう。弟子たちは、マタイの10章では一つの宣教の為に送られたのです。彼らは言われて出て行き、その伝道を終えて戻って来ました。彼らはどこに行っても全ての悪霊を追い出すようには言われていませんでした。それはマタイ28章になってからの話です。弟子たちは福音の為に遣わされました。二度三度は彼らだけで遣わされ、その度に戻ってきました。その時の彼らの仕事は病人を癒す事であり、彼らが戻って来たという事は、委任された権威だったので、任務が終わった事を意味します。それで、厳密に言えば権威も止んだのです。



分かりますか?それが理由で、マタイの17章では失敗したのです。彼らは伝道に出て、イエスと一緒にいた事を理解していたので、自動的に同じ事ができると期待してその様に試したのですが、不信仰ゆえにできなかったのです。この時の話を聖書でよく読むと、イエスが山にいた事がわかります。山で姿が変わった時に、三人の弟子たちはイエスといました。彼らが山から下りたという事は、九人の弟子たちは山のふもとにいたのです。イエスは三人と一緒に山から降りてきました。そして皆が集まった時に、弟子たちは誰が一番偉いかという事で議論していました。そうした状況をイエスに見られるのはまずいと思いませんか?考えてみて下さい。



でも、彼らがその様にしている中で、ペテロは考えていた事でしょう。「私たちは山に行っていました。知らせて上げましょう。誰が偉大なのかを。誰がイエスと山に行っていたのか知っていますか?それは私です。」ペテロはきっと、ヤコブとヨハネの事を忘れていたに違いありません。その様な事が起きていたと思います。ただ違いは、皆さんの場合は委任され、限定された権威を持ってはいません。委任による権威はお互いに血の繋がりがない人たちに与えられるだけです。私たちの場合は、イエスと親類関係を持っています。私たちの権威は委任によって与えられたものではありません。皆さんの持っている権威は委任によるものだと言わせないで下さい。そうであったなら、委任が終わる時が来る事を意味しているのです。人々の問題は、上手くいかないと直ぐに「委任が終わった」と考える事です。そして敵は彼らを打ち負かすでしょう。何が事実かと言えば、皆さんは相続した権威を持っているという事です。この事について、学び全体から見ていきましょう。


警察官が立って手を挙げ車を止める時、どうしてあなたは車を止めますか?それはあの人を見て、「あの人を知っている。あの人は狂っているから、もし止まらないと撃たれるかも知れない」などと考えるからですか?その様に考えますか?その人を知っているから止める事もあるでしょうが、それが車を止める通常の理由ではありません。彼のバッジ、拳銃、そして、彼が政府の権威を代表するのであなたは車を止めるのです。そうですよね?警察官の名前とは関係ありません。彼は「ビルの名によって止まりなさい。私はビルです」とは言いません。彼はそんな事はしませんよね?何故かと言えば、ビルは権威を持たないからです。政府が権威を持っています。彼は政府の一部であって、政府を代表しています。



ですから、何でも政府ができる事は、彼は代表します。そうですよね?そしてもし、「私は止まりません」と言って彼を引いて殺してしまったなら、政府による全ての圧力と力がかかる事になります。何故なら、その襲撃は政府に対するものであって、個人へのものとは見なされないからです。ビルは違反の切符を与え、その事を訴える為に裁判所に持って行きます。ビルとその人との間に問題はありません。政府との間にあるだけです。ビルは関りがなく、単に証人というだけです。彼は政府の為の証人です。



今私が言った事を、皆さんの状況で当てはめてみて下さい。つまり、厳密には、皆さんには何の権威もありません(マタイ28:18)。人々の為に祈る時や彼らに手を置く時、悪霊に対して去る様に命じる時、最後にあなたは「イエスの名によって」と言います。どうしてですか?それは、皆さんは自分の名前では言わず、自分の名前には権威が無い事を知っているからです。イエスの名において権威がある事を皆さんは知っています。そうですよね?皆さんはイエスを代表します。悪霊はその権威を認識するので、従います。彼が従わない時は、神の国の全ての力がその悪霊に降りかかってきます。分かりますか?皆さんは言うでしょう。「どうして毎回そうならないのか?」それは皆さんが信じていないからです。


信じる事は神の内にある全てのものを働かせます。信仰なしには何も起こりません。皆さんはこの事を知ったので、信じる事を決断をして下さい。次に悪霊を追い出す時にはどうなるか見て下さい。ただ信じて下さい。そして悪霊に言って、「今からお前に行けと命じる」と言って下さい。分かりますか?神の国という政府を代表する者としての自信が必要です。私は神の為に福音を語り、神は私を支援して下さいます。聖書では、「何でもあなた方が地上で繋ぐなら、それは天においても繋がれており、あなた方が地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」とあります(マタイ16:19、18:18)。つないだり解いたりする場所はどこですか?地上です。どこで始まりますか?皆さんの口です。


人々は「私たちは何をするべきか見つけるべきです。何が繋がれているのかを知れば、解く事ができます」と言います。なるほど、確かに幾らかの真理がそこにはあります。しかし、それはまだ違った方向を見ているのです。天において繋がれているのは、それがこの世界の基の置かれる前から繋がれているからなのです。私は物事は既に完了していると言いました。物事は、皆さんがその様に言う事を待っているのではありません。「私たちは自分たちのやる事を神が祝福してくれるようにしています」と人々は言います。


もし私たちが、神が何をしているか、何をするのかを見つけるのなら、それは祝福となります。そこには真理がありますが、問題は、皆さんが自分自身を神から離してしまい、あたかも、この場合には神が何をするのかを見つけなければ、という考えです。イエスは次の事を明確にしました。「あなた方が私の名によって求める事は何でも、それをしましょう」とイエスは言いました(ヨハネ14:13-14)。もちろん、主の御心に沿うものに限ります(1ヨハネ5:14-15)。人々は「神の御心に沿ってのみ」と言います。その通りです。それ以外をどうして考えるでしょうか?何故、主の御心に沿っていないものを頼もうと考えるのでしょう?つまり、皆さんの思考は、神の言葉と一致するように一新させられなければいけないという事で、そうすれば求めるものが神の御心と一致するのです(ローマ12:2)。アーメンですか?私たちはイエスの様に考える人について話しています。皆さんは言うでしょう。「それは不可能です。」いや、それは命令なのです。


私たちはキリストの思考があります(1コリント2:16)。(日本語で「心」と訳されている語はギリシャ語の「nous=思考」)私たちは思考の霊(気質)を一新させる必要があります(エペソ4:22-24)。私たちはイエスが考えるように考えるという意味です。「神の考えは私たちの考えよりも高いです」と言うかもしれません(イザヤ55:8-9)。皆さんが生まれ変わるまではそうでした。生まれ変わったら、神の考えは皆さんの考えになるのです。アーメン?ただし、神の御言葉に皆さんの思考を一新させる事が、神の考えが皆さんの考えになる唯一の方法です。それは神の御心が何であるかを見つける為に、神の御言葉を学ぶ事を意味しています。主の御心は一つ一つの状況に置いて異なるのではありません。主の御心はいつでも同じです。あなたの全ての咎を赦し、あなたの全ての病を癒します(詩編103:3)。そのように単純です。


神は虐げに反対します。それを憎んでいます。虐げるものを全て憎んでいます。主は自由を支持します。解放を支持します。それで皆さんは、いつもその方向に行くべきです。もし、殺したり、盗んだり、破壊したりするのなら、私たちは反対方向に行く事になります。そうですよね?主は私たちが命を得て、それを豊かにする為に来たのです(ヨハネ10:10)。そして命が豊かになる事と殺す事、盗む事、破壊する事とは関係ありません。もし誰かが、殺し、盗み、破壊しているなら、それは命ではありません。私たちの仕事はむしろ、殺し、盗み、破壊を打ち壊す事です。分かりますか?単純な事だと思いませんか?


ですから私は言ったのです。この神の命にあって生きて行く事は難しくないと。宗教は難しくします。何故なら、それはいつも、あれこれをするように、しないようにと言い、「神が何をするか決して知る事はない」と言います。


宗教、特に歴史を通してキリスト教と呼ばれているもの、人々が言う「キリスト教」、それが宗教として行われているものは、ただ昔からの異教にしか過ぎません。その教えはいつも、「怒っている神をなだめなければいけない」というものです。人は神をいつも喜ばそうとし、神が下って来るように試みます。神はいつも不機嫌で意地悪だと考えます。いつも、何かで打つ準備ができていると考えます。しかし、それはキリスト教ではありません。キリスト教の最初の言葉は「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」でした(ルカ2:14)。神の御心は人々に対して良いものです。アーメン?


神は私たちを愛していて、御子を私たちの為に、死ぬ為に送ったのです。私たちの為に神が御子を送り死に渡したのは、癌で打ったり、何かで私たちを殺す手段を見つける為ではありません。神は私達の見方であり、敵ではないのです(ローマ8:32)。これらの事は幾らでも言い変える事ができますが。私はその気になれば、一日中ここで神の愛について、神が良いお方である事、どれだけ皆さんを愛しているかなど語る事ができます。しかし、それはもう既に皆さんは聞いている事でしょう。しかし、何かの理由で、皆さんはまだそれを理解しなかったのです。もし神の愛がよく分かるなら、愛は決して絶える事が無いと知るでしょう(1コリント13:8)(KJV訳:愛は決して失敗する事はない)。それが分かるなら、皆さんはこのセミナーにはいません。それほど単純です。


私たちは数々の賜物について知りたい、力について知りたいと願っています。しかし、神は言います。「賜物について、それらがどの様について働くかはこれです。しかし、更に良い道があります。愛です(1コリント13:1)。」愛は決して絶える事がありません。愛とは何でしょうか?神は愛です(1ヨハネ4:16)。神のうちに留まるなら、愛のうちに留まります。単純ですね?それで、道を歩いていたとして、誰かを見るなら、その必要が何であっても愛は与える事ができます。つまり、ある人を見て、愛がする事は何でもあなたがする事です。シンプルではないでしょうか?


人々は言います。「それが神の御心だとどうして分かるのですか?」何故なら、神は愛だからです。愛による行動が神の御心でない事はありません。もっと易しい解説を求めているのなら、マタイの7章にあります。そこを開いている間に、似たような箇所の1ヨハネの4:17を読みます。「この事によって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、裁きの日にも大胆さを持つ事ができる為です。何故なら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」残り三日にかけて、皆さんに教えたい事がその聖句にあります。


「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」次の世ではなく、この世です。キリストのようにです。それで私たちは審判の日にも大胆なのです。何故かというと、皆さんは主のようであるからです。審判を恐れません。アーメン?もし皆さんの命がキリストに隠されている(コロサイ3:3)のなら、どうして審判を恐れるでしょうか?そうですよね?もし審判を恐れないのなら、何を持っていると思いますか?大胆さです。何故なら、失敗を心配していないからであり、失敗したら神が打つなどという事を恐れていないからです。愛によって行動するのです。アーメン?シンプルではないでしょうか?この事は全て繋がっているのです。



この箇所を再び読みましょう。「この事によって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、裁きの日にも大胆さを持つ事ができる為です。」分かりますか?裁きの日はありますが、今日ではありません。ある人は言います。「ああ、それは神の裁きです。」いいえ、違います。イエスは言いました。「また、父は誰をも裁かず、全ての裁きを子にゆだねられました(ヨハネ 5:22)。イエスはまた、「私は誰も裁きません」と言われました。またイエスは未来を指して「その日にはあなた方を裁くものがある」と言いました。「それはあなた方に話した私の言葉です(ヨハネ12:48)。」ですから、もし何の基準によって裁かれるのかを知りたいのなら、ここで言っている事がそうなのです。イエスの言葉と新約聖書の言葉です。皆さんはその様にして裁かれます。それの良い所は、皆さんが安息を得る事ができる事であって、審判の日にも大胆になれて恐れる事がないのです。何故なら、私たちはキリストと同じような者であるからです(1ヨハネ4:17)。


もし、イエスが私たちを否定的に裁くなら、彼自身を否定的に裁く事になります。素晴らしい事には、イエスは裁きを受けたのです。十字架での刑罰です。裁きが存在しないという事ではありません。私が言いたい事は、イエスの中にいるなら、主の通った苦しみの裁きは皆さんにも適応されるという事です。もし、イエスの中に留まらないのなら、皆さん自身の裁きがあるという事です。アーメン?ですから、イエスの中に入って下さい。中に入って隠れて下さい。そこに留まり、話し、その中で歩いて下さい。彼の中にあって、私たちは生きて行動し、私たちの存在があるのです。単純な事ではないでしょうか?世界一単純な事です。シンプル過ぎて宗教ではないみたいですよね?実際に、それは宗教ではないです。それは関係性の事なのです。


質問をまた読みます。「十字架前の癒しと十字架後の癒しの違いは何ですか?」違いは、十字架前にあった癒しは全て信仰によるものだったという事です。全ての癒しです。何故なら私たちは、ただキリストの打ち傷により癒されたという事だからです。私たちの癒しが保障されている唯一の事、それはイエスの受けた打ち傷によって私たちは癒されたという事です(1ペテロ2:24)。それだけです。皆さんの信仰でもありません。聞いて下さい。皆さんの信仰さえでもないのです。良い行いでもありません。ただ、主の受けた打ち傷によってです。それが唯一のものです。全ての癒し、創世記20章からゲッセマネに至るまで、それについては後に話しますが、というのは、別の側面から言いたい事があるからです。それはそうと、創世記20章では、アブラハムはアビメレクという神を知らない異邦人の王の為に祈り、癒しました。



神はアブラハムの祈りで異邦人を癒しました。「他の人を通して」という事なので、他の誰かの為に信仰を持つ事ができるのです。その時のアブラハムの信仰、彼の神との関係のゆえに、アビメレクは癒されました。そこからゲッセマネでイエスが十字架に掛かる前の最後に行ったマルコスの耳の癒しに至るまで、これらは全て旧約聖書、古い契約の下です。これらの癒しはイエスがまだ代価を払っていない、これから代価を払おうとするという事実、キリストの打ち傷に信仰を置いたものです。ですから、(ある意味)信仰がなければいけませんでした。そうですよね?何故なら、まだ代価を支払っていなかったからです。



例えて言いましょう。もし私が、「そこに行って何か欲しいものを取って」と私が言うとします。100ドル札をデスクに私が置き、その値段までなら何でも買えるとします。それで皆さんは、何か買う物を取ってレジで言います。「こんにちは。カリー・ブレイクという人がこの物の支払いを済ませたんですけど。」そうするなら、あなたは少しは信仰を持たなければならない事になりますよね?皆さんは私が事前にお金を払ったという事を信じなければいけません。そうでないなら、その人たちに私が後で払う事になっているのを知らせないといけないでしょう。皆さんの信仰か、彼らの信仰かになるのです。彼らは皆さんが品物を持って出て行く事を許すなら、私が後で支払うという事を信じなければなりません。



イエスにとって古い契約での癒しの全てはその様な感じでした。イエス自身の癒しも含めてです。後で清算するという事だったのです。何故なら、全てが彼の打ち傷によって癒されたからです。全ての死人の蘇りや全ての癒しもそうです。全てはまだ受け取っていないものに対する信仰でした。しかし、私たちの場合は違います。私はよく人々に言います。皆さんの信仰と癒しとの直接的な関係ではなく、信仰が癒すのではないという事です。イエスが「これから打ち傷を受けようとしていた時」には、そうなる事を信じる必要がありました。しかし、私たちはそれが起きた事を振り返るのです。当時の人たちは信仰によってこれから起こる事を期待しました。私たちは「事実」を振り返って見ます。イエスは病を担いました(イザヤ53:4、マタイ8:16-17)。


そうですよね?彼は打ち傷を受けました。神によると、信仰によってではなく、「イエスの打ち傷という事実」によって私たちは癒されているのです。という事は、信仰が問題ではなく、事実がポイントになります。それでは、イエスが実際に肉において打ち傷を受けたと信じますか?そうです。それなら、あなたが癒されるのに必要な事はそれだけです。それだけです。何故かと言うと、既に癒しの代価は支払われたからです。アーメン?



素晴らしい事には、もしあなたがキリストの中に入るのなら、キリストの中にあるものに対して信仰を持つ必要がない事になります。何故なら、それはあなたの物だからです。ただ、主を信じる信仰は必要です。主が身代わりになったという事、そして彼の中に入るという事に対する信仰は必要です。しかし、一度イエスの中に入るなら、全て彼の中にあるものはあなたの物になります。宗教はこの事を教えません。宗教は全ての事を得るには行いが必要だと教えます。しかし、聖書はもし神が私たちにイエスを与えたのなら、彼と共に命に関わる全ての事を与えない事があるでしょうかとあります。ここの言葉に気付いて下さい。もし、神が私たちにイエスを与えたのなら、「彼と共に」となっています(ローマ8:32)。



皆さんはいつ命に関わる全てのものを受け取りましたか?それは、イエスを受け取った時です。何故なら、全てのものは彼と共に来たからです。分かりますか?区別してはいけません。神はイエスを私たちに与えて、その後で必要なものを後で与えるでしょうとは言っていません。神はその様に言ってはいません。神は私たちにイエスを与え、イエスと共に命に関する全てを与えると言っているのです。それが鍵です。もし私たちが、彼の中にいるなら、全ては彼の中にあって、彼と共にあるので、私たちはその中で必要なもの全てのものと共にいます。全ては私たちのものです。この知識と理解によって目が開けて、恵みと平安が増す事になるでしょう。何故なら、完了したという事実に安息を得るからです。キリストの打ち傷によって私は癒されています。主は打ち傷を受けました。私は癒されています。もう既に事は終わっています。その様に単純な事です。そうすると、あなたの体に変化が起きます。分かりますか?


つまり、癒される為に踏まなければいけないステップがあるのではなく、ただ悟るだけ、イエスがあなたの内で、皆さんの為に、今皆さんの中で働いているという事を悟る時に癒しが起こります。究極的にはそういう事です。それは理解するという事です。それは啓示です。それでパウロは、「祈っています」と言いました。「あなた方の為に祈っています。あなた方の目が開けて知る事ができるように(エペソ1:18)。」どうしてでしょうか?それは、皆さんがイエスにあって何が与えられているかを知る為です。そうして皆さんが光の中にある、聖徒の相続分にあずかる豊かさを知る事ができる為です。驚く事ですね。神はその全てが皆さんの内にあると言っているのです。私たちの肉体のうちに、それらの宝を私たちは今、持っていると言っているのです。それで、鍵となるのは、皆さんは既に持っているという事です。



でもまず、この事について知っていて下さい。イエスの血によって私たちは彼にあって罪が赦されているという事です(コロサイ1:14)。そうですよね?もし、私たちの罪が赦されているのなら、私たちの全ての咎を赦して下さったのであれば、私たちの全ての病いも癒しているのです(詩篇103:3)。この二つは、本の最初と最後のページの様に重要で、皆さんが既に持っているものです。皆さんは、新生による霊的な命と癒しによる肉の命を持っています。二つの最も重要なものです。その他のものは、この二つの間にあります。これらの間に何があるかを知れば良いのです。それらは、エペソ、コロサイ、ガラテヤ、ピリピ、の手紙に主に書いてあります。ローマ書やコリント人への手紙、また、最も重要な聖句はヨハネの3:16 であり、ニコデモにいった言葉で、「新しく生まれなさい」というものでした。



「新しく生まれる」という表現はそこだけです。似たようなものは第二コリント5:17 から21節にあります。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」別の訳では、「以前に存在していない新しい種」となっています。考えてみて下さい。皆さんが、以前には存在していない者に新生したという意味は、どういう事なのでしょう。それは、古い契約の下の人たちには戻れないという事です。十字架以前の福音書に出ている人たちでもありません。へブル人への手紙は信仰と忍耐と受け継ぐべき約束を通して旧約時代の人々から学ぶようにと言っています(へブル13:7)。そして、私たちは彼らの信仰を模範にするようにと言っています。彼らの行動を真似するという事ではありません。私たちは信仰と行動は同じ事だと勘違いして、彼らのした事をすれば信仰を生み出す事が出来るとしますが、行動と信仰は(必ずしも)同じものではありません。ポイントは、行動は信仰の表れだという事です。信仰は行動に先立つものです。アーメン?


それで、エリヤを参考にして、クリスチャンになるにはどうするか、などと考える事はできません。何故なら、エリヤはクリスチャンではなかったからです。アブラハムに戻る事もできません。彼が旧約聖書の中でも模範とするべきだとしてもです。イエスも「アブラハムは私の日を見る事を望んでいた」と言っています(ヨハネ8:56)。アブラハムは、私達の今日に生きていたいと願ったのです。私達の問題は、「アブラハムの時代に生きて、アブラハムのようになりたい」と願う事です。彼は私達の持っているものを持ってはいませんでした。それはちょうど、ジョンG・レイクが1908年~1913年に、南アフリカで見て来た奇跡等を語る時のようなものです。人々は、驚くばかりの神の霊が現れたなどと話し、(私たちもその事について話たいと思います)「すごいですよね。覚えていますか?彼が菌を手に乗せてそれが死んだ事を顕微鏡で見せた奇跡の事を!」しかし、皆さんには気づいていない事があります。ノアの話に戻ります。



聖書によれば、ノアは洪水が起こると言われた神の啓示に対する信仰によって、箱舟を作っていましたが、周りの人々はただ見ているだけだったので、ノアは人々を叱責し、非難しました(へブル11:7)。彼の信仰が箱舟を作ったのでした。そうですよね?彼は信仰によってそれを作りました。もし、彼の信仰がその時代の人々を責めたのなら、ジョン・レイクはどうでしょう。私たちは、彼の奇跡を模範にして生きる事を望み、神が彼を通してやった素晴らしい事を語りたいと思います。しかし今日では、私たちはもっと聖書にアクセスでき、より多くの翻訳を参考にできたり、あらゆる方法による聖書の読み、様々な形での携帯する事もできます。多くの人は、スマホで聖書を持っているという事です。何時でも、何処にいても聖書を読む事ができます。iPad、PC、iPodにもありますね。毎日どの時間でも聞けます。私のiPadとiPhoneには旧約聖書と新約聖書が全てあり、違う訳の聖書もあります。ストロング・コンコーダンスもあり、新約聖書でも旧約聖書でも、知りたい語の定義を見つける事もできます。


私には全てのテクノロジーが手に入ります。インターネットは言うまでもなく、テレビ、ラジオ、メールもあります。これらのツールを通して、世界とコンタクトを取る事や福音のメッセージを語る事が出来ます。それなのに、私たちはジョン・レイク氏がやった事などを話したいのです。外に行って自分でそれを行おうとはしません。誰よりも私はその事について話したいのですが、同時に、彼が制限されたリソースとアクセスの中でも彼がした事をやっていたのなら、私の知識、理解、そして、こうしたツールを知っている私には、もっと大きな責任があるのだと思うのです。皆さんは、ジョン・レイク氏よりももっと輝く事ができます。他の国々にいる人たちの為に祈ったり、宣教も禁止されている閉鎖的な国の人に手を差し伸べたり、実際に、私たちは常にそれらの人々と連絡を取っています。サウジアラビア、インド全体、パキスタン、アフガニスタン、イェーメン。行って福音を宣べ伝える事が死を意味する様な所です。しかし、私たちは絶えず連絡を取ったり、メールを送ったり、色々なものを届けています。彼らはMP3をダウンロードできます。こうした福音に対して閉鎖的な国々にメッセージを、今この瞬間もやっているのです。皆さんもそれと同じ事ができるのです。


私は何人かと話したので知っていますが、皆さんの多くが、アウトリーチの為に外に行っています。でも、私は言います。ジョン・レイク氏のした事を振り返って、「凄い。彼が生きていた時代に戻ってみたい」とするべきではないのです。どうしてその様な考えを持つか分かりますか?それは、ただそばにいて、彼がするのを見たいからです。しかし、本当は皆さんが今日それをやっているべきです。もし、彼の時代に戻るのなら、皆さんは今日と何も変わりません。「やって見せて下さい」と言って立っているだけでしょう。しかし、「ではやりましょう」と言っているべきです。どの様な心構えであるかという事を理解していますか?どこかで、皆さんは決断をしなくてはいけません。ジョン・レイク氏の名前は奇跡を呼ぶ為の呪文などではありません。彼の名前、或いは、何であっても、それを理由として油を注いだのではありません。ジョン・レイク氏はただ、普通でいる事が嫌になっただけです。愛する人が死んで行くのを見るのが嫌になって、それで追求したのです。その経験がきっかけで、彼は後ろに戻らず前進し続けて行く事を決めたのです。もし、皆さんが「ああ。あの時に戻って住んでいたら」と言うなら、ジョン・レイク氏は喜んで交換すると思います。彼はきっと今日の時代に生きたいと思うでしょう。



何年か前、確かテキサスかどこかで、座って執り成していた時、オーストラリアから電話がありました。誰からかは分かりませんでした。電話に出ると、その男性は病気で、祈って欲しいとの事でした。彼の為に祈ると、彼は瞬時に解放されました。彼は瞬時に良くなったのです。電話を切って、私はそこに座りました。癒しが起きた事に関しては感謝の気持ちがありましたが、それよりも驚き気づいて考えたのが、「ジョン・レイク氏なら、世界のどこでも届く今日の時代に生きている事を喜ぶだろう。」その当時には、南アフリカからアメリカに手紙を書いて届くまで、六週間もかかったのに、今日ではメールを送れば、一瞬にして届きます。驚くとは思いませんか?それで、私たちはそうしたツールを使う機会を利用するべきです。今週、皆さんは多くの情報を得ますが、より重要な事はDHTTの時と同様に、大きな責任を得る事です。知識は責任を伴います。知識を得て、その道に歩む事は皆さんの責任です。アーメン?そして人々の人生に触れて下さい。そして、どの様にしてそれをやるかについて話して行きます。その前に休憩です。


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