2023年9月29日金曜日

New Man セッション1

*ここに紹介されているセミナーのセッションは、セミナーの中でカリー・ブレイク氏が語った全ての言葉を訳したものではありません。一部省略したものや訂正されたものがあります。省略と訂正は、教えの内容とは殆ど関係のない余談、各種のアナウンスや祈り、同じ言葉の繰り返しや、遠回しな表現を簡潔に言い換えたものなどが含まれています。


New Man (新しい人)セミナー 南アフリカ

セッション1


今回、皆さんにお会いできて光栄です。このセミナーは新しい人についてです。マニュアルがあれば、1ページ目を開いて下さい。このセミナーの素晴らしい所は、私達が何かこれから成し遂げなければならない事ではなく、私達の為に既に成し遂げられた事についてである事です。何かこれ以上、霊的になる必要もありません。このセミナーで話して行くものを得る為に、私達は祈りも、断食もする必要がありません。それは既に今、皆さんのうちにあります。


これから幾つか聖句を紹介していきます。素晴らしい事は、私達がこの既に持っているものについて知り、それを認める事でそれらは働き始めます。このセミナーでは、どのようにそれをして行くかを教えて行きます。すごく単純です。恐らく、今まで見てきた事の中で一番単純な事です。私のする事は、ただ私達に与えられたものを、聖書を通して皆さんに見せて行くだけです。


まず、基本事項です。ケビンが言ったように、全ての携帯などをマナーモードにして下さい。集会中は、個人的な録音や録画等は一切禁止です。それは、私の言った事の断片だけを文脈から外れた形で公開して、教えてもいない事を教えたように見せる人達がいるからです。どうして、私を好きでない人がいるのか理解できません(笑)。


前もって言っておきますが、私達が信じている事は正統派と同じです。私達は、教会が信条として信じている事に100%同意します。教会の基本的な信条の事です。私達の信じている事は基本的な事であり、何も特別な事ではありませんが、初めにこう言っておきます。私達が強調している事の為に、少し新しいものに聞こえるかもしれません。


日曜の夕方の癒しの集会の前に、このセミナー中に癒しやその他のミニストリーが必要な方は、JGLM(John G. Lake Ministries)のスタッフの誰かに声をかけて知らせて下さい。先ほど紹介したケビンか、マルコでも良いです。マルコは私の隣に座っている彼です。彼らはここ、南アフリカに住んでいます。その他のスタッフはアメリカから私達と共に来ました。後ろにいるブライアン・ドゥーリン、扉のそばにいる私の娘レベッカ、また、私の妻は昼食後、ここに来ます。それと、オーストラリアから来たアダムがここにいます。私達と共に働く為に、彼の家族はアメリカに移住する予定です。ですから、彼はオーストラリア人に見えますが、アメリカ人としておきましょう。いずれ、私達と働く事になるので。これから数日間の間で祈りやミニストリー、その他話す必要があるなら、彼らと話して下さい。


実際に、彼らが皆さんの癒しの為に祈ると思います。彼らは癒しを行う事ができます。私が持っていて、彼らが持っていないものはありません。このセミナーが終わるまでに、皆さんも理解すると思います。私が持っていないもので、皆さんが持っていないものは何もないという事を。それが鍵です。それを伝える為に教えています。そして、セミナーは皆さんが病人を癒せるようになる為です。詳しく言うと、このセミナーの焦点は病人を癒す事についてではありません。しかし、このセミナーで教える事を知れば、病人、傷ついた人、心の病んだ人たちを助ける事がよりできるようになります。それは皆さんのうちにいるキリストを外側に解放する事によってです。この事について、今週話していきます。


質問がある時にはそれを紙に書いて渡して下さい。その場で私の所まで来て口頭で質問するなら、恐らく短い答えにしかならないからです。質問を紙に書くなら、私はそれを読む事もできるし、より深く回答する事ができます。それに、それを聞く他の人の為にもなります。ですから、質問を紙に書くなら、休憩時間に持って来て講壇の上に置いておくか、スタッフに渡して下さい。


また、このセミナがーがここではどのように設定されているのかは知りませんが、通常、私達はセミナーの参加費は徴収しません。セミナーの為に参加費を要求する事も、時にはある事は知っています。ここではどのようになっているのかは知りません。私達は参加費は徴収しませんが、昼食前に自由献金は募ります。


もう一つ。私達は、土曜の夜の癒しの集会の為に献金は募りません。癒しの集会では献金は決して募りません。それは私達が4,5年前に決めた事です。献金を募らないという事で、主が祝福しなかったとしても、それは正しい事です。しかし、私達が癒しの集会で献金を募らない事に決めたので、主は祝福してくれました。癒しの集会で献金を募らない事は正しい事です。それは、人々が癒しをお金で買う事ができたり、得る為に献金する必要があると考えて欲しくないからです。今週、このセミナーを通して、私達に必要なものや神から得る必要があるものは、既にイエスが支払った代価により、全て私達に与えられている事を学んでいきます。ですから皆さんが、神が既に与えてくれたものを得ようと努力すればする程、よりそれらから遠ざかります。元々私達は、神から何も得るに値しません。どんな行いをしても、それに一切値する事はできません。神からの賜物は買う事はできません。そんな考え方は一切頭の中から捨てて下さい。ただ神の恵みによって与えられたものを受け取って下さい。ただ神への感謝の心を持って受け取って下さい。それが神からものを受け取る鍵です。決して買い取る事はできません。


これは基礎的な事の一つです。これから教えに入って行きます。今説明している事は、ちゃんと教えを聞く事ができるのを妨げてしまうので、先に説明する必要があります。次に、テーブルの所に私達の本や教材が置いてあります。セミナーの中で幾つかの教材についても言及します。質問があれば彼らに聞いて下さい。喜んでお答えします。


私達の郵便住所を知りたければ、WWW.JGLM.orgへアクセスして住所を見つけるか、P.O.Box 742947, Dallas Texas 75374となります。連絡先等についてはこの先必要に応じて言及していきます。バイブルスクールやスモールグループもあります。また、任命なども行っています。世界中で教会開拓も行っています。もし興味があれば連絡して下さい。喜んで質問にお答えします。


そして、教会のリーダー達の為の昼食会も行う予定です。昼食会の前夜にリーダーの集会について行う予定だと伝えましたが、少し間違った事をお伝えしてしまったようです。それはJGLMのリーダー達の為の集会です。何故なら、ここに来たからには、この地域のJGLMのリーダー達に会いたいからです。私達JGLMと働いているなら、もう知っていると思いますが、私達は集会が始まる前には、その地元の教会のリーダー達とは会いません。彼らと話さない事によって、集会の中で聖霊が預言的に、私の知らないような、その地域で起きている事や問題などを教えてくれるからです。私はその地域で何が起きているかは知りませんが、聖霊がその地域の事情について語ったりするように導いて下さいます。私はそれを語りますが、それが何に関する事なのかは通常は知りません。従って、そのような事が起きて、私達が皆さんやその地域の教会の事情や問題などを取り扱えば、それは明らかに聖霊がそれらを取り上げている事が分かります。何故なら、そこのリーダーからは何もそれらの事に関する事は聞いていないからです。ですから、その地域起きている事に関しては何も知りません。それが事前にリーダーとは合わない理由です。会えば、必然的にその地域や教会内での事情や問題について話す事になるからです。


そして、それらについて聞けば、集会の中でその聞いた知識により、それらの事について語る事にもなるからです。それは聖霊によるものではありません。私がその地域や教会の事情や問題について語るなら、自分の意見ではなく、聖霊によって語りたいと思います。別に私はリーダー達に対して、距離を置きたいわけではありません。私は招かれた教会のリーダー達をとても尊敬します。ただ私達は、聖霊の導きや指示も期待します。それで、もし私が皆さんの事情や問題に関する事について語るなら、それは聖霊による事が分かるはずです。何故なら、私はこの地域や教会の事情や、何がここで起きてるのかは全く知らないからです。私はここにどの教会の人たちが来ているのかも知りません。ですから、何か皆さんの事情に当てはまる事を語るなら、それは聖霊によります。私の知識によるものではありません。


最後に、大体45分に一回くらいの休憩を入れます。それは皆さんと私自身の為です。皆さんは、ずっと座って聞いています。寝ないといいですが。しかし、私は立って話し続けます。休憩中には休憩して下さい。休憩中は、私は座って、なるべく誰とも話さないようにすると思います。ですから、質問攻めなどして、結局15分間私が話しっぱなしにならないようにして下さい。私自身が休憩できないからです。コーラを飲みながら休憩するのが好きなんです(笑)。


注意事項はこれくらいです。では、マニュアルの2ページ目です。もしJohn G. Lake Ministriesについて良く知らないなら、そこに詳細が書いてあります。そこに書いてある事は全て事実です。私達は癒しの多くの結果を出しています。既にこの南アフリカに来てから幾つかの良い証もあります。私はこの港町に戻ってくる事ができて嬉しく思います。この美しいケープタウンが大好きです。最初の夜には波止場に行きました。帰りには渋滞に遭いましたが、ゆっくりだったので、山がある方向も見る事ができて多くの写真を撮りました。夕暮れもきれいでだったので、渋滞も気になりませんでした。それに海がきれいでした。私は本来は海よりも山好みですが、ここ3年間でこの南アフリカに6度ほど来て、ヨハネスブルグやダーバンスティルフォティンなどで教えたりしてからは、海が好きになりました。ただ座って波を何時間も眺めます。リラックスできます。そういうわけで、南アフリカにはとても感動を覚えています。


昨日、私の娘は檻に入ってのサメ観察のダイビングへ行ってきました。私はジョイマガジンを読むのに忙しく、行きませんでした。何も予定がなければ行きましたが、でも次回はサメを見てきます。また、スティルフォティンのスピリットワード放送局に行き、もう一年分の契約にサインしてきました。彼らは無料で既に3年間も私達の教えを放送してくれて、すごく祝福してくれています。彼らは現在、アメリカの450個のケーブルネットワークでも放送しようとしています。ですから、私達もそろそろお金を払って、放送時間を拡大する時ではないかと考えています。現在、私達の教えは、たしか月曜日の午後2時か、4時半にスピリットワード番組で放送されていると思います。ちょっと正確な時間は覚えていません。そして、夜の11時半くらいにまた再放送してくれています。もしスピリットワードで私達の教えをまだ見ていないなら、是非見て下さい。もしよければ彼らに感謝の手紙を書いてあげて下さい。もし気に入らないなら、私に手紙を書いて下さい。それを捨てます(笑)。とにかく、もっと放送時間を長くしたいと思っています。それから昨日ジョイマガジンの編集者と社長とのミーティングも持てました。


前回、私達がここ南アフリカに来た時に、集会に参加され方は居ますか?そのうち、何人の方がDHTTに参加されましたか?今週、私の教える事はDHTTで学んだ事を行いやすくします。より速い癒しの結果を見る事ができるでしょう。DHTTだけを学んでいた時と比べて、この教えのおかげで、病人を癒すのも努力が殆どいらなくなったので正直驚いています。もしDHTTに参加されていないなら、是非参加して下さい。一般的には、最初にDHTTを学ぶ事をお勧めします。そしてそれからこの新しい人のセミナーを学んで下さい。でも今回は、何人かの人は最初のステップを飛ばして学ぶ事になるでしょう。DHTTでは皆さんの行う神のわざが、どのようにして、なぜ働くのかを教えます。そして、新しい人を学んだ後は、それを行うのも簡単になります。


昨日、ジョイマガジンに関して彼らと話しましたが。毎月記事を書いて載せ始めます。それは、実は以前に同意した事でしたが、コミュニケーションの問題で行う事ができていませんでした。ですから、1月から毎月2ページの記事を書く契約をしました。少なくとも1年間は続けます。その後も継続していくか決めます。ですから、もしマガジンを読んでいて私達の書く記事を気に入っているなら、彼らにもっと記事を読みたいと手紙を書いて下さい。そうしたら、もしかしたら彼らは私達が記事を載せるのを無料にしてくれるかもしれません。そうなれば嬉しいです。今は記事を載せる為にお金を払っているからです。


来年には多くの事を計画しています。4月には南アフリカに再び戻って来て、3か月間のバイブルスクールを開く予定です。それは計画のうちの一つです。宣教師たちを輩出して、訓練して、世界中に送り出したいと思っています。幾つかの国ではなくて、世界中にです。ですから、ここでバイブルスクールを始める予定です。ここで数か月間バイブルスクールを行う前に、通信によるバイブルスクールも始める予定です。もし興味があれば教えて下さい。是非参加して下さい。私達は宣教師達を輩出しています。世界中で起きている神のムーブメントの為に指導者たちを輩出しています。


私達のメッセージはとてもシンプルなものです。それは聖書の言う通りのものです。聖書の言葉に戻り、それを書いてある通りに信じて、そこに書いてる事を実行して、それを体現する事です。残念な事に、それは1世紀にはムーブメントとして行われていましたが、だんだんと失われて、しばらくの間は実行されていませんでした。しかし今、再燃してきています。このメッセージが世界中で変化を起こしているのを目撃しています。私達は教会を開拓して、バイブルスクールを開き、次世代の為の、次のムーブメントの為の指導者を育てています。もしこれらの事に興味があれば早めに教えて下さい。何故なら、今週皆さんが聞くこのメッセージは、遅かれ早かれ、教会の中での標準のメッセージになるからです。私がこういう理由は、カリー・ブレイク(私)が語るメッセージですが、私自身から出たものではないからです。私というよりも、私達のメッセージです。まず、何よりも聖書のメッセージです。聖書の語るメッセージです。しかし、今までは一般的に教会のメッセージは、聖書のメッセージそのものではありませんでした。しかし、これから3~5年間のうちに、教会のメッセージが再び聖書に従ったキリスト教のメッセージに戻って行くのを目の当たりにするでしょう。


そのメッセージはとても単純なものです。そのメッセージは、特別な行いに基づいたものではなく、生き方そのものに基づいたものです。それは生き方という行いに基づいたものです。言い換えると、私達は行いによって救われているのではなく、救われているから行いをするのです。私達が神から何かを得るのは、私達がそれに報いる行いをするからではありません。私達は既に神から全てのものを受け取っています。つまり、私達は神が私達に与えようとするものは既に全て受け取ったという事です。これが私が皆さんとシェアしようとしている事の重要な点のうちの一つです。ですから、皆さんがする必要があるのは、その与えられたものをどのように引き出していくかを知る事です。それはカードのようなものです。もしここにある事を知らないなら、それを使う事はできません。


例えて言うなら、携帯のようなテクノロジーです。私はiPhoneを持ってますが、iPadも持っています。メッセージする時にたまに使います。まさに21世紀を感じさせますね。私は紙の本の方を使うのに慣れています。電子書籍よりも早くページをめくる事ができます。それが、私が今だに紙のマニュアルや聖書を使う理由です。機械よりも、この紙の本の使い方の方をよく知っているからです。だから長い間、今でさえも、自分の子供に、「これはどうやったらできるんだ?」と尋ねます。何を質問しても、いつも思います。「私も彼らのように(その機械を)使えたらいいのに。」息子は言います。「父さん、その為のアプリがあるよ。」そのアプリがこの機会の中にある事すら知りませんでした。何年もiPhoneを持っていましたが、私はEメールと通話しかしていませんでした。テキスト送信と通話だけ使っていて、アプリの事は二の次でした。しかし、子供達と話したおかげで、本当はiPhoneがもっと多くの事をできる事を知りました。未だにiPhoneのできる全ての事を知りません。しかし、もしこのアプリの事について知らなかったら、一生それを使いだす事はなかったでしょう。ここで大切な事は、何を使う事ができるのかを知る事です。何度も言いますが、それがこの集会の目的です。私達が今からシェアしていく事は、私達が何を使う事ができるかについてです。


マニュアルの3ページを開いて下さい。色々な方々からの推薦の言葉が載せてあります。これらの言葉に感謝します。4ページには、癒しを行っていく上での幾つかの基本的な原則と、私達がどのようにミニストリーを行うかについて書いてあります。ですから、もしここに載せてある11の原則に違反する事を見つけたら教えて下さい。何が起こっているのかを知りたいからです。例えば、その原則の一つは、JGLMは治療法に関しては何もコメントしないというものです。治療法や薬の処方などに関する事は、その人と医師、また、神との間の事です。私達は何もコメントはしません。どこにいても、どのような状態でも、助けが必要であれば私達は助けます。しかし、それらの事に関してコメントはしません。もし誰かが、インスリンを処方しないようにとか、この治療をやめなさいなどと言うなら、私に連絡して下さい。何故なら、第一にそれは違法だからです。第二に、それは道徳に反する行為だからです。その人が医師としての資格などを持っていない限りは、薬の処方をやめなさいというのは非倫理的です。もしそのような事を言うなら、その病人は必ず完全に癒されるか、病気から自由にならなければいけません。でなければ、治療法や薬に関しての事柄はその人の問題です。私達は一切コメントしません。


2つ目の原則は、JGLMはお金を乞うような手紙は書きません。誰も私達からお金をお願いするような手紙、Eメールなどは受け取らないはずです。私達は神を信頼します。JGLMのパートナー達のおかげで、今私達がしている事が可能となっています。多くの教材などを与えています。とくに囚人や宣教師たちなどにです。私達は全ての教材を全ての人に無料で提供できるようになる事を目指しています。それが目標です。しかし、電気会社は電気を使えば電気代を徴収してきます。そして食材を買う時には、お金をスーパーで払わなければいけません。スタッフ達は当然食べていかなければいけません。私達のパートナーとなってくれている人たちは、これらの代金を払うのを助けてくれています。このパートナープログラムについては、この後どこかで話します。私達のパートナーになってくれると嬉しいです。パートナーはその月の教えのCDやMP3のダウンロードリンクを受け取ります。また、パートナーニュースレターも送っています。そのレターの中でも教えは書いてあります。そして、オンラインフォーラムにアクセスすれば、過去の全てのパートナーニュースレターや教えにアクセスする事ができます。ですから、パートナーになればこれら全ての特典を得る事ができます。私達のパートナーになって欲しいと思います。それによって私達は、この聖書のメッセージを持って世界にリーチしていく事ができます。パートナーになる事は時間もかかりません。


私達は癒しの集会では、献金などのものは受け取りません。これについては既に話しました。私達は病人の為に祈ったり、病気の人へのミニストリーをする為には一切の金銭的なものは受け取りません。お金は癒しとは関係はありません。もし関係があったとしたら、それは悪い形でありました。使徒の働きを読んでみると、魔術師がいました。彼は聖霊を受け取りたいが為に、お金を捧げる事を申し出ました。そこで、ペテロは言いました。「あなたのお金はあなたと共に滅びるがよい(使徒の働き8:20)。」これは大胆な発言でした。癒しやその他のどんな祈りをしてもらう為にお金を払おうとする人達への私達の姿勢も、同じようなものです。もし誰でも献金をするのなら、癒しなどとは一切かけ離れて、その人の自由意思によるものであるべきです。その働きを援助したいと思うから、なされるものであるべきです。また、何かを購入する為の種を蒔く為の献金なら、そのお金はそのままその人に返されます。私達はそれらの理由の為にお金は受け取りません。


次に、JGLMはその病気の為に病人を責める事はしません。その人が癒しを受け取らないからといって責める事はしません。私達は、信者は誰でも病人を癒す事ができるべきだと信じます。しかし、その人が癒しを行えるようになる成長過程であるからといって、責める事はしません。しかし、ある人は成長すらしません。彼らはただ、病気になった時に、癒してもらう為に皆さんの所にやって来ます。そういう人たちも確かに癒すべきですが、同時に、私達は彼らを弟子訓練して成長させようとします。彼らが成長しなかったとしても、彼らを拒否する事はしません。私達はいつでも、どこでも、誰の為でも祈ります。頼まれるなら尚更です。ですから、それらの為には何も制限は設けません。皆さんが成長する事を望みます。何故なら、病人を癒す事により、皆さんが住んでいる地域の人々に手を差し伸べて欲しいからです。私達にはそれはできないからです。それが、私達がこのように人々を訓練する目的です。


JGLMは人々の過去を掘り下げる事はしません。また、人々を自由にする為に彼らの罪を見つけ出す事もしません。もし私達JGLMと関わりがあると言いながら、ヒーリングルームや癒しを行う上で、これらの事を行っている人たちがいたら教えて下さい。イエスは決して誰の過去の罪なども扱う事はしませんでした。彼は何の病気であるのかも知ろうとはしませんでした。どのようにその病気になったのかも見つけようとはしませんでした。それらの事は一切しませんでした。彼はただ病人たちを解放しました。イエスは病人を解放して、それから弟子訓練しようとしました。でも今日の教会は、病人を弟子訓練して(病気などから)解放しようとします。イエスはそのような事はしませんでした。エペソ4:15に従って、もし私達があらゆる事においてキリストの背丈まで成長しようとするなら、私達のする事は何でも、よりキリストのようになっていかなければいけません。よりキリストのようではなくなるのではありません。イエスは人間の心理を知ってはいましたが、精神科医ではありませんでした。イエスは今日の精神科医のカウンセラー達が行うような事は何もしませんでした。彼は解放者であり、皆さんもそのようであるべきです。人々がどのようにしてその問題に陥ったのかは、後々まで問題ではありません。いいですか。まず、イエスが彼らを解放します。その後で、彼らを弟子訓練するのです。その訓練の中で、どのようにしてその問題に陥ったのかを知っていきます。そして、弟子訓練のおかげで彼らはその問題に再び戻っていく事はありません。イエスはよく人々を解放して言いました。「行きなさい。そしてもう罪を犯してはいけません。でなければもっと悪い事があなたに起こります。(ヨハネ5:14)。」


ある特定の事を行えば、(病気などの)問題が再び戻って来るのを可能にします。それは種蒔きと刈り取りの法則と呼ばれるものです。もし喫煙するなら、肺がん、舌癌、唇癌などになる確率は高まります。それらを引き起こすのは神ではありません。全ての病気や患いの源は悪魔です(ヨハネ10:10)。盗み、殺し、滅ぼすようなものは全て悪魔に属するものです。単純です。しかし、それらの事を皆さんが自分自身に行うのなら、源は悪魔であっても、悪魔がそれらの事をしているのではありません。皆さんが自分自身にしているのです。良い知らせは、それでもイエスは、皆さんを癒してくれるという事です。同時に、神がその人の原因に再び戻って行き、その問題を招いた同じ事を繰り返す愚かさも癒してくれる事を願います(笑)。それらのようなものを刈り取る事になる種を蒔かない事も学ぶべきです。ですから、私達は過去を掘り下げません。それらの問題の原因を見つけようともしません。


7つ目です。私達は病人の世代の呪いを見つけようとはしません。病人の家族の歴史を調べたりなど、そのような事はしません。もし誰かが、「これは遺伝的な病気です」と言えばその病気には対処します。しかし、私達はその人の叔父や曾祖父などの代に行き、何かを断ち切るような事はしません。もし新生している人なら尚更です。何故なら、もし皆さんが新生しているなら、皆さんの叔父は霊的に何の影響も及ぼさないからです。しかし、皆さんがまだ叔父と同じような行動をするなら、叔父の行いの結果と同じものを刈り取る事になります。例えば、彼がアルコール中毒で、皆さんも酒を飲むとしたら、恐らくアルコール中毒者になるでしょう。これはただの注意です。アルコール中毒になる為には、酒の入ったグラスを口までもっていかなければいけません。誰かがある人を押えて、その人の口に酒を注ぎこんでいるのをバーで見る事はありません。ですから、「叔父がアルコール中毒だから自分もそうなる」という類のものは、世代の呪いなんかではありません。それは世代続きの愚かさです。もう一度言います。その行いをやめて下さい!そうすれば、その問題は解決します。私達は過去に戻り、呪いを打ち砕く事はしません。私達は人々を弟子訓練して、イエスのように歩む自由に導きます。


JGLMは、彼らの子供の病気や癒しの失敗の為にその両親を責める事はしません。もう一度言いますが、私達が癒しの為に祈るなら、責任は私達が負います。DHTTの時には教える事が多くて言えませんでしたが、今この事についてはっきりと話します。私達は彼らの子供の病気や、その子の癒しに失敗したからといって、責める事はしません。私達は皆さんを整え、教え、弟子訓練します。私達の目的は真理に導く事です。もし医者の所へ行き、彼がこう言ったとします。「この薬を一日に3回処方して下さい。それを10日間続けて下さい。」恐らく皆さんはそれに従うでしょう。それに関して、こういう言い回しさえあります。「私の医者の命令に宗教的に(つまり熱心に)従います。」そのようにして、私達の指示にも従って欲しいと思います。助けを求めて私達のもとに来たら、私達の言う事を即座に行って下さい。つまり、助けが必要で私達のもとに来るなら、私達の言う事を行って下さい。癒しなどの奉仕も行いますが、「この本を読んで下さい。これをして下さい。こう言って下さい」などと言うかもしれません。それは皆さんの考えを一新しようとしているからです。その思考に問題があるからです。


皆さんの霊は新しく生まれました。そしてキリストにあって完全です。何も付け加えられる必要はありません。賜物も、油そそぎも、何も皆さんの霊に付け加えられる必要があるものはありません。皆さんの霊は神により再創造されました。完全です。欠けはありません。変えられる必要があるのは皆さんの思考(考え方)です。思考を真理である神の言葉に従って、一新させる必要があります。思考が一新されればされる程、皆さんのうちの悪魔が働く事のできる領域は少なくなっていきます。事実、思考の一新は敵からの攻撃を阻止します。そして、実際に敵が皆さんに触れる事ができない神の領域を歩む事ができるようになります。悪魔は触れる事ができないので、皆さんはつまずきません。


これらの聖書個所については、これから話していきます。まず、エペソ6章を少し見ましょう。ここには神の武具について書いてあります。信仰の盾を取れば、悪者の放つ全ての火矢を消す事ができると書いてあります(エペソ6:16)。全てをです。ですから、皆さんの信仰は全ての敵の火矢を消す事ができます。どのように消すのかについてはこれから話していきますが、覚えておく事は、信仰が全ての火矢を消すなら、火矢は当たる事はないという事です。ですから、皆さんの信仰によって、敵の全ての攻撃から守られて歩む事ができるという事です。イエスはそのようにして3年と半年の間福音を宣べ伝えて歩みました。人々はイエスを崖から投げ落とそうとしました。彼らは彼を殺そうと計画してました。しかし、イエスは十字架の上で命を捧げる用意ができており、自分の命を捧げました。イエスは言いました。「誰も私から命を取るのではありません(ヨハネ10:18)。」また、彼は言いました。「私がそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」イエスは命を完全に支配していました。実際に、聖書には、悪魔は引き下がって、攻撃するのに適した機会まで見張る事にしたと書いてあります(ルカ4:13)。ですから、私達はキリストにあって、敵が私達を打ち負かす事のできない領域にあって歩む事ができます。それが今週教えていく事の内容です。その教えは、敵が皆さんに触れる事のできない領域にあって歩む事を可能にします。


この教えを学ぶにつれて分かる事は、敵は皆さんに触れる事ができないという事です。しかし、敵が皆さんに触れる事ができないのなら、皆さんに近い人たちを探します。例えば、皆さんが宣教師を経済的にサポートしようとするなら、別の件で余分な出費を出させる事により、宣教師への金銭的な助けを留めようとします。もし敵が皆さん自身の車や所有物に手を出せないなら、皆さんの子供の車などを狙ってきます。敵はそのようにして働いてきます。


これらの事を理解していないなら、霊的な戦いに関しての訓練の教えを学ぶべきです。パート1はどのように戦士になるのかを教えます。パート2は敵がどのように働いているのかを見抜く事ができるように、戦いの原則を教えます。今週教える事にあって歩む事を学ぶなら、敵が触れる事ができない領域にあって歩む事ができるようになるでしょう。もしそれを信じないなら、常に感染性の病気を持つ人に手を置く事を躊躇するでしょう。つまり、皆さんが病気になり、神が癒される事だけを信じるなら、病気に対しての守りはありません。神が癒して下さって、健康ではあるかもしれません。しかし、神にあってのより素晴らしい歩み方があります。つまり、病気にかからず、敵も病気にできないので、「病気になっては癒される」という繰り返しを経験しなくても良いという事です。何故なら、一般に私達が病気の時には、神の国の為に十分に働く事ができないからです。ですから、重要な事は、他の人たちを助け、戦場にあっても戦う事ができる為に、まず皆さんを癒し、健康でいる事ができるように教える事です。病気、患い、或いは、薬が手に入らない為に、皆さんが戦いの場から離れてしまう事があって欲しくはありません。ですから、重要な事は癒されて、健康にあって歩む事です。


今は、神の癒しの範囲を超えた事について話しています。つまり、神による健康についてです。その健康は皆さんのうちにある、神の命によりもたらされるものです。この休憩の後で、どのようにして、その神の命にあって歩みだす事ができるかについて説明していきます。それがどのような仕組みなのか説明していきます。直ぐにもそれについて話していくので楽しみにしています。私はこのトピックについて話すのが大好きです。DHTT(神癒技術者訓練)について教えるのも、いつも楽しみですが、この新しい人について話す事の方が好きです。何故なら、純粋に神の御言葉についてだけ学べば学ぶほど、神の命が私達のうちで働くからです。今週、皆さんが学んでいく事はただ神の言葉です。まず短い休憩にしましょう。10分後に次のセッションを始めます。

New Man セッション2

セッション2


それでは始めていきます。4ページ目の基本的な原則について説明し終えましたが、その前に、次の事を強調しておく必要があります。私達が気が付いた事は、DHTTTを学ぶ多くの人たち、特に他の癒しの教えを受けた人々は、既に他で学んだ事をDHTTの教えに加えようとします。しかし、聖書は何も付け加えられる必要はありません。これから、私が聖書にあるパウロの言った言葉を読むにつれて、私の姿勢を理解してくれると思います。そうである事を望みます。私の姿勢は悪意を持ってのものではありません。


パウロは典型的な説教者ではありませんでした。彼はとても大胆な人でした。イエスに関して際立っていた事、人々がイエスについて言った事は、次のような事でした。「イエスは律法学者たちのようにではなく、権威のある者として教えられた(マタイ7:29)。」皆さんが神の言葉の真理を明確に理解した時に、その真理はある種の態度を皆さんのうちに築き上げます。その態度とは、何でも知ったかぶる態度ではありません。何事にも自信のない人は、自信のある人を見て、彼らはいつも何か偉そうな態度を持っていると考えます。イエスに関しても、パウロに関しても、彼らが際立っていた点は、自分の語っていた事に確信を持っていた事です。


JGLMに関わっている人達の周りにいても、いずれ、そのような態度を見て取れると思います。それは、精鋭気取りの態度ではありません。何故なら、私達は知っている事をシェアしようとするからです。また、自分たちは他人よりも優れているとも考えません。ただ私達は、力ある結果を出す真理を見つけました。それは聖書です。私達の教える事全てを御言葉により裏付ける事ができます。それはきちんと文脈に沿った解釈です。私がJGLMに関わっている人達が好きな主な理由は、彼らはいつも助ける姿勢を持っているからです。彼らは進んで皆さんと共に戦いに参戦する事を望み、何が起きようとも皆さんと戦ってくれます。ですから、うぬぼれた精鋭気取りのような態度を身に付けなければいけないと言っているのではありません。そんなものではないのです。


信仰は態度ではありませんが、ある種の態度を生み出します。それは確信の態度です。それは確信していて、自信のある態度です。しかし、皆さん自身に対して自信があるのでもなく、皆さん自身からのものでもありません。それは皆さんのうちに生きているキリストに対して自信があるというものです(ガラテヤ2:20)。それはちょうどパウロが、「私は私を強くして下さるキリストにより何でもできるのです(ピリピ4:13)。」と言ったようなものです。これは信仰により生み出された態度です。皆さん自身が(肉において)死んでいる事、又、キリストが皆さんのうちに生きていると考えて、それを認める事によりそのような態度は生じます。


私達のメッセージを聞いて、それを受け入れてくれた人々がJGLMの人達です。そのメッセージはとても単純なものです。それは、私達は仕える神の子供達(神の息子)である、というものです。これが要点であり、まとめたものです。私達は仕える神の子供達(神の息子)です。私達の隣人たちに仕える事により、私達は天の父に仕えます。そのようにして神に仕えます。


それでは幾つか覚えておく事があります。第一に、JGLMは教えを混ぜる事はしません。福音を聞いた時に気が付く事は、福音は従う事を要求する事です。福音は、ある事との関係を断ち、福音に従う事を要求します。皆さんが最初に福音を聞いた時には、仏とイエスを信じてもいいですよ、とは聞いていませんでした。つまり、イエスは彼自身だけが真理であり、彼を信じる者だけが救われると言いました。他の可能性はありません。イエスは確信していました。彼は、父への道はただ一つしかなく、彼を通してでなければ、誰も父の元に行けないと言いました(ヨハネ14:6)。そうですよね?それに対してある人はこう言うかもしれません。「それは、頭のとても固い人ですね。」それで良いのです。イエスは正しかったのです。正しいなら、頭が固くても良いのです。


重要な事は自分が正しいか確かめる事です。今週幾つか話していく事柄の中で、幾つかの事を遠慮なく主張させてもらいます。そのうちの一つは、真理は間違いなく、ある程度の分裂を引き起こします。しかし、一致も生じさせます。その真理を受け入れる人達は、互いに一致します。その真理を拒否する人達は分裂します。単純です。イエスご自身が言いました。「私は地に平和をもたらす為に来たのではなく、剣をもたらす為に来たのです(マタイ10:34)。」ある人達は言います。「私達は家族などあらゆるものを分裂させます。」もし福音を宣べ伝えるなら、そうする事になるでしょう。でもそれは何か悪意によってとか、非聖書的なやり方でではありません。ただ、真理は従う事を要求します。福音は、態度が変わる事、考え方が変わる事を要求します。それは考え方を一新する事の一部です。


JGLMは人を崇める事はしません。ジョンG.レイク氏を崇める事もしません。私達がジョンG.レイク氏の名前を使っている唯一の理由は、彼の名前を通して人々が、私達と私達の教えを見つける事ができるからです。ジョンG.レイク氏は、皆さんや私と、何の変りもない人でした。彼は神を信頼しました。私達と同じように間違いも犯しました。私達は、彼は間違いを犯さなかったとも言わず、それを隠そうともしません。私達はこう言います。「彼は間違いを犯しました。しかし、神は彼を用いました。だから神は、私達を用いる事ができます。」唯一完全な人はイエスだけです。ですから、もし完全さを求めるなら、イエスを見て下さい。それ以外の人は忘れて下さい。


また、私達は誰も持ち上げる事はしません。何か特別な賜物や、油注ぎなどは主張しません。それらの事に注目すらしません。私達はただ、私達のうちにいるキリストに目を向けます。彼だけが唯一特別な方です。ただイエスだけを持ち上げます。五職の中にはそれぞれの立場があります。キリストのからだにおける影響力があります。それは神の恵みによるものですが、その人個人ではなく、福音のメッセージの影響力を増す為に与えられたものです。その人は影響力が必要ですが、その影響力はその人が持っている福音のメッセージによるものです。もしその人を取り除いて、同じメッセージを持つ人をその立場につけるなら、同じ影響力が生じます。ですから、私も、皆さんも、ジョンG.レイク氏も特別な人ではありません。イエスだけが特別な方です。しかし私達は全て、キリスト・イエスのうちにいるので特別です。全ての人が特別なら、誰も特別ではありません。イエスだけが特別な方です。


それでは学びに入って行きましょう。今まで話して来た事で、私達がどのような人なのかがよく分かって来たと思います。まず、幾つかの基礎的な事を話したいと思います。最初に第2ペテロへの手紙を見ていきましょう。2ペテロの1章1節からです。こう書いてあります。「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。」私達のうち何人が「同じ尊い信仰」を受けましたでしょう?つまり、私達は信仰に立っており、イエスを信じているという事です。皆さんの事です。ここでペテロは皆さんに向けて書いているのです。この言葉は皆さんのものです。2節では「恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」と書いてあります。どのように、恵みと平安があなたの上にますます豊かにされるかに気が付いて下さい。神はそれらのものを自動的にあなたの上に増す事はしません。それらのものは、神とイエスを知る事によって、あなたの上にますます豊かにされます。ですから、恵みと平安を増し加えられる為には、何かを知らなければいけません。それは、「神と私達のイエスを知る事によって」です。では3節。「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知った事により...」(*直訳は「知識によって」。前節にあるように、私達は神の知識を増し加える必要があります。)ですから、これらのもの(命と敬虔に関する全て)が与えられたのは、私達の行いによるのではなく、イエスがしてくれた事によるのであり、彼の力によるという事です。そのこれらのものとは、「命と敬虔に関する全ての事」です。聖書にはそう書いてありますよね?ここに書いてる事に注意を向けて下さい。一語一語見てみましょう。聖書を理解する上での秘訣は、ゆっくり読む事と、一語一語全ての言葉を読む事です。シンプルですよね?そして、3つ目は、勿論、きちんと文脈に沿って読んでいるかに注意するという事です。


「主イエスの、神としての御力は、命と敬虔に関する全ての事を私たちに与えたからです。」(*原文のギリシャ語では完了形になっています。)「与えた」とはどういう意味でしょうか?これから将来に起ころうとしている事ではありません。既に起こった事です。「与えた」とあります。という事は、既に与えられたという事です。誰に対してでしょうか?それは私達にです。同じ尊い信仰を受けた人達です。それは皆さんです。そうですよね?ですから、皆さんに何かが既に与えられているという事です。その何かとは、「命と敬虔に関する全ての事」です。私達は、命と敬虔に関する事で持っていないものは何もないという事です。分かりますか?つまり、私は皆さんに、もう何も与える事はできないという事です。私のできる事は皆さんが既に持っているものが何であるのかを見せる事です。


例えば、私がアップルストアの店員だとして、皆さんが店に来てこう尋ねたとします。「これはどのように使ったらいいのですか?」それに対して私は言います。「ちょっと見せて下さい。ここです。ここからアプリをダウンロードできます。」それに対して、皆さんは言います。「ああ、それでいいんですね」という感じです。


必要なものは既に皆さんは持っていました。既にそこにあったという事です。店員として私がした事は、皆さんにそのアプリを得る方法、そして、それにアクセスして、そのアプリの使い方を教えるだけでした。つまり、私の役割は皆さんに何かを与えるというものではなく、既にあるものを明らかにして示す事です。それが五役者の役割です。五役者の目的は私達を整える為です。それがエペソの4章に書いてある事ですよね?それは皆さんを整える事であり、キリストのからだを整える事です。しかしピリピには、「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの全ての必要を満たして下さいます」と書いてある事に注目して下さい(ピリピ4:19)。ですから、私達の必要は、私達の行いによってではなく、キリスト・イエスにある神の栄光の富によって満たされるという事です。神が私達の必要を与えてくれます。五役者は私達に何かを与える事はしません。彼らは私達を整えます。つまり、彼らは私達に既に供給されたものの使い方を教えてくれるという事です。


たとえば、軍隊には新兵を訓練する下士官がいます。下士官は私達(が新兵だとして)に何も与えません。政府が私達に武器やユニフォームなど必要な道具を与えます。私達の必要なもの全ては政府が与えます。下士官は政府が供給した武器を装備させて、それらの使い方を私達に教えます。それが五役者のミニストリーです。神は必要なものを与えます。五役者は私達を整えます。先ほど読んでいた聖書個所に戻りましょう。「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知った事によって、主イエスの、神としての御力は、命と敬虔に関する全ての事を私たちに与えたからです(2ペテロ1:3)。」


2ペテロ1:4には、「その栄光と徳によって、尊い、素晴らしい約束が私達に与えられました」と書いてあります。(ギリシャ語では「複数の約束」)何故、神は私達にそれらの約束を与えてくれたのでしょうか?それは、「私たちをご自身の栄光と徳へお召しになった方の知識を私たちが得た事によって、主イエスの、神としての御力は、命と敬虔に関する全ての事を私たちに与えた」からです(より正確な訳に訂正)。私達が神の知識を得る為には、その知識を得る為の神からの約束が必要です。神が私達に得て欲しいご自身に関する知識の事です。ですから、一度それらの約束が何であるのかが分かれば、神が私達に得て欲しいと願う、ご自身に関する知識を知る事ができます。そして、その知識により恵みと平安が私達に増し加えられます。それがこのセミナーに参加する特権でもあります。恵みと平安があなたに増し加えられます。自分の力で神のわざを行おうと奮闘しなくなります。何故かと言うと、平安が増し加えられるからです。その理由は、私達がするべき全ての事を行う為の方法は安息に入る事であると分かるからです。神の安息に入る事が秘訣です。


もし皆さんが問題があって、歩むべき神の約束にあずかって歩む事ができていないなら、その理由は、一生懸命になり過ぎているからです。イエスの重荷は重くはありません(マタイ11:28-30)。イエスのように歩むのは難しい事ではありません。秘訣は私達が神の安息のうちに入る事です。自分自身のわざを止めて、神のわざのうちに入る事です(へブル4:10)。素晴らしい事に、神のわざは創世の初めから既に終わっているという事です(へブル4:3)。


量子力学には時間というものはありません。多くの人たちは病人を癒そうと努力したり、「この人を癒す為に、又は、自分自身が癒される為には何をしたらいいだろう?」と考えると思います。彼らは癒しを未来の事にしています。しかし、癒しの為の代価は2000年以上前に既に支払われました。2000以上前の時点で、癒しは既に完了しました。癒しの為の代価は支払われたからです。私達は誰も癒す事はしません。何故なら、キリストの打ち傷によって私達は癒されたからです。ですから、癒しは既に完了しています。だから、私達は誰も癒そうと試みる事はしません。重要な事は、私達が今この時に、そのように状況を見る必要があるという事です。神のわざは創世の初めから既に完了しているという事です。ですから、癒しの為の代価は十字架のわざにより支払われて完了しました。しかし、そのわざでさえ創世の初めから宣言されており、(神からすると)終わっていたという事です。


十字架のみわざの時点で、神は既にご自分のわざを終えていたのなら、イエスが直面した問題の解決の為の代価は既に支払われており、その解決は既に与えられていたという事です。つまり、歴史の年代記の上ではそれらの出来事は既に全て書かれており、既に完了した事実として確立されていたという事です。


この考え方を念頭に入れて、ヨハネ9章の出来事に適用してみて下さい。弟子たちがイエスの元に来て、「誰が罪を犯したのでしょうか?」と尋ねたのを覚えていますか(ヨハネ9:1₋2)。彼らが生まれつき盲目の人を連れてきて、「誰が罪を犯したのですか?彼自身ですか?それとも彼の両親ですか?」とイエスに尋ねたのを覚えていますか?イエスは答えました。「誰でもありません(ヨハネ9:3)。」ここより、病気やわずらいや盲目は全て罪によりもたらされるものでない事が分かります。問題の根本的な原因として罪を捜しなさいと教えられているなら、そのうち一生かかって問題の原因である罪を捜しても見つからないケースに直面する事になります。何故なら、その問題はその人の罪によりもたらされてのではないケースだからです。その場合、前提が間違っているのです。


では、イエスの視点から見てみるとどうでしょうか?弟子達は尋ねました。「誰が罪を犯したのですか?彼自身ですか?それとも彼の両親ですか?」そして、イエスは答えました。「誰が罪を犯したのでもありません。」ここでイエスは既に彼らの質問に答えました。しかし、多くの人はさらに付け加えて、イエスの答えであるかのようにします。イエスは続けて言いました。「神のわざが彼のうちに現される為には、私がそれをしなければいけません(ヨハネ9:3₋4)。」しかし私達は、「この人が盲目で生まれたのは、私が彼を癒す事ができる為です」とイエスが言ったのだと勘違いします。そうすると、自動的に私達は盲目である責任を神に押し付けます。イエスがこの盲人を癒して栄光を受ける事ができる為に彼を盲目にしたのだと考えます。このヨハネ9章で起きた事はそういう事ではありません。もし、私達が行う全てのわざは既に神にあっては確立したものであり、それらは創世の初めから既に終わったものであると分かれば、私達がどのような問題に直面しようと、神のわざが現れる事が明らかであれば、その場にいる間に、そのわざをしなければいけません。この問題に対する姿勢の違いが分かりますか?これがイエスが確信をもっていた理由です。イエスは決して、「この盲人が癒される事は神の御心でしょうか?」というように心配はしませんでした。第一に、盲人が癒されるのは神の御心でした。何故なら、イエスがその場にいたからです。「もし私が問題に直面するなら、それを解決する事は神の御心である」という考え方を持つ事を想像してみて下さい。これはとてもシンプルな物事の捉え方だと思いませんか?つまり、皆さんが何処に行こうと、何に直面しようと、その問題を解決する事は神が既に定めた事であるという事です。何故なら、皆さんがその場にいるからです。皆さんがその問題を解決するという事です。ここで話している事が分かれば、残りの教えの中で、何故今話している事が現実であり、それが事実である事が明らかになっていくと思います。


2ペテロ1:4には、「その栄光と徳によって、尊い、素晴らしい約束が私達に与えられました」と書いてあります。何故でしょうか?「それは、あなた方が、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる為です。」次に注目して下さい。「それは、あなた方が、その約束のゆえに、…神のご性質にあずかる者となる為です」と書いてあります。イエスは神の言葉が人となったお方でした(ヨハネ1:1‐14)。イエスは、この聖書と呼ばれる一つ一つの聖句が人となったお方である事を私達は知っています。彼は御言葉が人となったお方でした。


聖書の全ての聖句を人間のDNAにたとえる事ができます。人間のDNAには様々な鎖のようなものや部分があります。ひねった梯子のような二重螺旋構造があります。そのうちの1本でも欠けると遺伝子的な問題を引き起こします。例えば、染色体が一つ足りないとダウン症が生じます。ここで説明したい事は、この聖書の聖句一つ一つがイエスのDNAであるという事です。聖書はこれらの尊い数々の約束により、私達は神の性質にあずかる者となると言っています。ですから、これらの聖書の言葉が私達を神の性質にあずからせる事のできるDNA(Divine Nature Attributes)です。


この聖書の聖句の一つ一つを取れば、それは神の性質の一部であり、キリストの性質です。私達が、「あなた方のうちにいる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです(1ヨハネ4:4)」と言うのなら、それがキリストの内に見られる性質ではないでしょうか?つまり、キリストはそのように考えたのではないでしょうか?イエスは、父は彼のうちにおり、彼と共にいると言いましたよね(ヨハネ10:38など)?イエスには恐れはありませんでした。彼について際立っていた事の一つは、敗北の可能性を一切認めなかった事です。又、父のわざを成し遂げる為の信仰が十分ないかもしれないという事すら考えませんでした。聖書を読むとイエスがとても大胆であった事が分かりますが、興味深いのはその大胆さしかし、権威でもなく、彼がいかに簡単に父の御心を行って歩んだかという事です。イエスは決して御心を行う為に悪戦苦闘しませんでした。決して心配しませんでした。決して緊張しませんでした。彼の周りにいた人達は緊張しました。周りの人々は神経質になっても、彼はリラックスしていました。クリスチャンの歩みもイエスのようであるべきです。


もし皆さんが緊張しすぎて力むなら、心配しているという事です。もし手をこまねいて、手を合わせて、「どうしたらいいだろうか?医者は救いようのないと言っている」と言うなら、祈るのを止めて下さい。何故なら、その祈りは時間の無駄だからです。信仰に立っていないからです。信仰は安息に入る事です(へブル4:3)。もし皆さんがそのように心配している状態なら、その状況に関して祈る事を止めて、他の人を見つけて下さい。医者が救いようがないと言っていても、「分かりました。行って祈りましょう」と言う人を見つけて下さい。そして、その人が祈る時には皆さんは黙っていて下さい。いいですか?何故なら、信仰に立っていない祈りは、何も力を加える事ができないからです。冷静で、落ち着いている人に祈らせて下さい。大抵の場合、興奮している人は安息に入っていないからです。信仰は安息です(リラックスします)。へブル書の3章と4章を読むと信仰は安息であり、どのように神の安息に入るかが書いてあります。安息の内には信仰によって入るのであり、不信仰によってではありません(へブル3:19)。ですから、この聖書の言葉が目に見える現実よりもリアルなものであると決心しなければいけません。この聖書の言葉が、直面している何事よりもリアルなものとなった時に、私達は信仰にあって歩んでいる事を知る事ができます。つまり、聖書の「キリストの打ち傷によって、あなた方は癒されたのです(1ペテロ2:24)」という言葉が、人の体にある病気よりも皆さんにとってリアルになる時、病気に対して「お前は去れ」と命じるとその通りになります。


こう言う人もいるでしょう。「助けてくれませんか?」そして、私は答えます。「分かりました。問題は何ですか?」その人は言います。「~という病気なんです。私は言います。「本当ですか。分かりました。では、何が望みですか?」その人は私の顔を見てこう答えるでしょう。「何言っているんですか?今言ったではないですか。私は~の病気なんです。」私はそれに答えて言います。「あなたはただあなたの持っている病気を伝えただけです。何が望みですか?癒されたいのですか?」その人は答えるでしょう。「もちろん、癒されたいです。」私は言います。「分かりました。ただあなたの望む事を教えて下さい。では、あなたの言った通りになるように。」何故、このように言うのでしょうか?それは、私は神の代理人だからです。私は神の大使です(2コリント5:19)。ですから、私が誰かの願いを受けるなら、私は神の代わりにその願いに応じるか、応じないかを決める権利があります。


しかし実際には、私にはその願いに応じないと決める権利はありません。何故でしょうか?それはキリストのにあって、全ての神の約束は「しかり」であり、彼にあって「アーメン(そうなるようにという意味)」だからです(2コリント1:18-20)。私は、キリストの代理人として言わんとする事しか言う事ができません。イエスがこの地上にいたらどのように振る舞ったでしょうか?福音書に記されている中で、イエスがどのように行動したのかというと、イエスは昨日も、今日も、とこしえに変わる事はありませんでした(へブル13:8)。つまり、彼は誰の願いを拒否もされませんでしたし、追い返す事もしませんでした。ですから、私もイエスと同じ事をしなければいけないでしょう。私は願う人を追い返す事も、拒否する事もできません。


例えば誰かがやって来て、「癒しが必要です」と言えば、私はただ「分かりました。癒されよ」と言うだけです。それだけで良いのです。結果を出すのに重要なのは、どのような言葉を言うのかではなく、祈りの型でもなく、感情でもありません。既に癒しは完了しているという事実に根ざして、そこから動かない事です。多くの人は、癒しを得る為に何時間も運転して、大金を払ってやって来るので、それに見合った分の祈りを期待します。彼らは言うでしょう。「せっかく3時間もかけて運転して来て、お金もかかったし、ホテルにも泊まる必要がありました。だから、ただ「癒されよ」だけは足りません。他にも何かをして下さい。」彼らは私に魔術師のようになって欲しいと思っているのです。踊ったり、水を振りかけて、呪文を唱えるような事を望んでいるのでしょう。彼らは、「いや、そんな事ありません」と言うかもしれません。私は数多くの人々の為に祈ってきたので、そのような人達が何を要求するのか知っています。何故なら、私が「何が望みですか?」と言えば、彼らは「癒される事です」と言います。そして、私が「分かりました。イエスの名により、癒されろ」と言い、振り返って去ろうとすると、彼らは私を見て、「え、それだけですか?他に何もしないのですか?」と考えます。


その時に重要なのは、癒される人が信じる事ではなくて、私が信じる事です。もし私がただ「癒されろ」と言うだけで、信じる事ができるのなら、彼らの癒しに必要なのはそれだけです。私は彼らの信仰を求めてはいません。彼らの信仰には頼りません。私は自分の信仰により歩みます。いいですか。今から説明する事を良く理解して下さい。重要なのは、皆さんがどれだけの量の信仰を持っているかではありません。イエスは、私達がからし種程の信仰を持っているなら、その山に向かって言えば、それはあたなの言う事に従うと言いました(マルコ11:22-24)。ですから、重要なのは信仰の量ではありません。私達の信仰に関する考えは、ねじ曲がったものになってしまっています。それを変えなければいけません。




ここで話しているセミナーのCDかDVDを購入する事をお勧めします。そして、その中で話している事柄についてよく考えて、思いを巡らせてみて下さい。約束します。それらの事柄の一つでも本当に理解するなら、残りの人生をキリストにあって与えられた、自由にあって歩んでいく事ができるでしょう。全ての事柄を知らなくてもよいのです。ここで話している一つの事でも理解するなら、それが自由をもたらすでしょう。今から、恐らく最も重要な事柄の内の一つについて語ります。信仰とは量に関してではありません。信仰は皆さん自身から出ているもの(生み出したもの)ではありません(使徒3:16、ローマ10:17)。重要なのは信仰自体ではありません。重要なのは皆さんがどこに信仰を置いているかです。分かりますか?




神はあなたを見て、「どれだけの信仰がありますか?」とは問いません。神の関心事は、「あなたの信仰はどこにありますか?何に対して信仰を持っていますか?私に信仰(信頼)を置いていますか?」という事です。それが神が尋ねている事です。皆さんは何に信仰を置いていますか?はっきりと言いますが、多くの人々は神に対して信仰を持ってはいません。私の祈りに対して信仰を持っています。何故なら、もし私が祈るなら、癒されると信じているからです。彼らは神に対して信仰は持っていません。もし神に対して信仰を持っているなら、私の所にまで来て祈ってもらう必要はありません。直接神から答えを受け取れるからです。それが神の御心です。神はそちらの方を好みます。しかし、もし皆さんが神に対して信仰がなく、私の所に来れば祈ります。そして、癒されます。何故でしょうか?それは皆さんの信仰は私の祈りに対してあるからです、これが分かりますか?



私の信仰は神にあります。私は皆さんに対して信仰は全くありません。こういうのは皆さんを目を覚ます為です(笑)。本当の理由は、聖書には「他人を頼りにするな」と書いてあるからです(詩編118:8、エレミヤ17:5)。何故でしょうか?それは人はいつもどこかで皆さんを落胆させる事になるからです。もし皆さんが他人に対して信仰を持つなら、いつも落胆させられる事になります。しかし、もし神に対して信仰を持つなら、人々が皆さんに何をしようと、落胆する事はありません。



皆さんの信仰が神に対してであるなら、皆さんが失望されられる事は決してありません(1ペテロ2:6)。それが信仰の秘訣です。秘訣は、皆さんにどれだけの量の信仰があるのかではなくて、信仰をどこに置いているかです。例え、世界中の全ての信仰を持っていても、皆さんの信仰が他の人に置かれているのなら、その信仰は失望に終わる事になります。何故なら、彼らはいつか皆さんの期待を裏切る事になるからです。しかし、からし種ほどの信仰があり、それを神に置くならば、皆さんの必要は全て満たされます(マタイ17:20、ルカ17:16)。あなたの言う事は何しかし、そのとおりになります(マルコ11:22-24)。皆さんの祈りは全て答えられます。手を置く病人は全て直ります。何故でしょうか?それは皆さんの信仰が神に置かれているからです。それには多くの信仰は必要ありません。ですから、信仰において重要なのは量ではなくて、どこに信仰が置かれているかです。大きい信仰ではなくて、大きな神に対する信仰が重要なのです。ですから、秘訣は神に対する信仰です。



多くの人は自分の信仰に信仰を置いています。ですから、彼らの信仰は失望に終わります。しかし、皆さんの信仰が神に対して置くのであれば、神がどれだけ大きなお方で、どれだけ善なるお方であるかを信じる事になります。多くの人が癒しを受け取るのが中々できない理由は、彼らが神の力を信じていないからではなくて、彼らが神が癒してくれる事を望んでいるかどうかの確信がないからです。それはまるで、政府に対する信仰のようなものです。「政府は~をする事ができると信じていても、実際に~をしてくれるかどうかは分からない」というようなものです。



多くの人は神が「できる」という事に関して、問題を持っていません。神が神であられるのは、何でもできる全能のお方であるからです。全能であるという事は、神である事の要素の一つです。神には何でもできます。神に対する信仰に関して問題が生じてくるのは「神はそれを望んでいるか?」に関しての分野です。「果たして神は~を願っているのだろうか?」というような分野です。ですから、癒しのセミナーの内容の主なものは癒し自体に関してではなくて、大部分は神の御心に関して、つまり、神は自分の言った事を必ず成し遂げる方である事を教える事です。



もし私が皆さんに、「神はご自分の言う通りの事を意図している」と信じさせる事ができるなら、聖書から学ぶ事は何でもその通りになります。何故なら、聖書が真実だと知る事になるからです。それは皆さんが、「神は約束を守る」という、神に対しての信仰を持っているからです。ですから、癒し、解放、繁栄、何に関して学ぼうと、結果は同じようにもう決まっています。つまり、神は聖書のそれらに関する約束を守られるという事です。そうなると重要なのは、「神は果たしてそう言ったのか?」という事になります。つまり、神の御心であるかどうかの問題ではなくなります。神の言われた事は彼の御心です。もし神が、するつもりでもない事をすると言うのなら、神は嘘つきであるという事になります。神は何かをすると言いながら、それをしないと選択する事はできません。何故なら、約束を破る事になるからです。私達が、神よりも人間の方が約束を守ると考えてしまうのは悲しい事です。



ある人は、「神は全能だから、彼は自分の言葉を破る事もできます。神は主権者だから自分の言葉を破ったとしても問題ないです。彼は何でもできます」と言うかもしれません。いいえ、それは神の主権ではありません。神ができる事は、ご自分でそれをすると言われた事です。私が契約に署名するなら、私はその契約を守らなければいけません。もし私がその契約を守らないなら、私は嘘つきであり、契約を破る事になります。私は信頼できない人になってしまいます。人も神も、その人が良い人であるかどうかは、その人がどれだけ自分の言葉に忠実であるかにかかっています。誰でもその人が良い人であるかどうかは、その人がどれほど自分の言葉を守るかによります。神がどれほど良いお方であるかどうかは、彼が自分の言葉にどれだけ忠実であるかによります。神の主権とは、「誰かに対して約束を守るか、守らないかを選べる」というようなものではありません。もしそれが本当であれば、私達は救われているという信仰の土台を持つ事はできず、「救うと言いましたが、ただのジョークでした」と神が言う事になってしまいます。



神の言葉は真実であるか、そうでないかしかありません。神は神であるか、神でないかしかありません。神の主権は、「永遠に変わらない真実のみを書く事ができる予知を持っていた」という事です。それが神の主権です。そして、それらの事柄を聖書に書かれました。ある時点で「契約を更新します」と神が言わない限り、それらの言葉を破る事はできません。神がそのように契約を更新した時には、その契約を縮小せずに拡大させました。



例えば、イエスがガリラヤやユダの町々を巡っていた時に、一人の女性がイエスのみもとに来た時、「子犬に子供達のパンを与えるのは良くない」と言われました(マタイ15:26)。その時点では、イエスはイスラエルの失われた羊の所にしか遣わされていない、と言いました(マタイ15:24)。考えてみて下さい。もしその時に言った事が今もそのままなら、私達はイスラエルの失われた羊ではないので、救われる事はできません。しかし、その時点では、イエスの地上でのミッションは始まったばかりでした。十字架にかかり、復活した後には、彼は弟子たちに、「全世界に出て行き、あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えて、彼らを弟子としなさい」と言われました(マルコ28:18-20)。



イエスがその時にした宣教活動の規模は最小限のものでした。後に、宣教活動の規模を拡大しました。彼が古い契約を新しい契約に更新した時に、宣教活動を一部の特別な人だけにしないで、規模を拡大して、多くの人々が参加できるものにしました。何故でしょうか?それが神のやり方だからです。アブラハムの頃からそれは変わりません。神は契約をまず一人のアブラハムから始め、彼の一人の子孫(キリスト)へと拡大して、それから最後には、この世の全ての人達が新しい契約にあずかる事ができるようにしました。何故でしょうか?それは神はそのように偉大で心の広い方だからです。物事を排他的には行いません。より多くの人が参加できるようにするのです。人々を切り捨てるのではなく、包括的に扱うお方なのです。



しかし、神の用意した者にあずかる為には、人々は神に同意して、神の元に来なければいけません。これから皆さんは気づくでしょう。神が成された事は、この世の基の置かれる前から、既に定められていた、既に成されていたという事です。ですから肝心な事は、神の力、神の御言葉、神の御心にあって歩むという事は、皆さんの肉的な部分とは何の関係もないという事です。つまり、皆さんは自分自身の肉において死に、キリストの内に隠されて、もはや自分が生きているのではなくて、キリストが皆さんのうちに生きるという事です(コロサイ3:3₋4、ガラテヤ2:20)。皆さんの命はキリストの内に隠されています。そして、皆さんの外側に見えているのはキリストです。それは思考(知性)の一新により可能になります。神は思考の一新について、ローマ12:1₋3で、はっきりと語っています。そこでは「この世と調子を合わせてはいけない。」つまり、この世に皆さん自身を形造らせてはいけませんと言っており、「思考の一新により、自分自身を変えなさい」と言っています。


このポイントは最も重要な所です。皆さんが変わるのは、按手によるのでもなく、祈りによってでもなく、祝福などのようなものによってではないという事です。皆さんの人生、皆さん自身が変わる唯一の方法は、思考の一新であると言っています。それがただ一つの方法です。他にはありません。ここ以外の聖書個所で、自分自身が変わる事に関しては、どこにも書いてありません。それが理由で、皆さんの人生は、新生する前とあまり変わっていないのです。つまり、皆さんの思考は、「地獄に行かないでもいい為の保険」として、イエス・キリストを救い主として受け入れた程度にしか、一新されていないのです。


しかし、思考がさらに一新されれば、もっとキリストのように歩むようになり、キリストにあって与えられている特権に、もっとあずかっていく事になります。いいですか、よく聞いて下さい。このセミナーの要点は「キリストの内にあって」という言葉にまとめる事ができます。どれだけ断食するか、祈るか、などに力があるのではありません。それらをしないように言っているのではなく、それらは皆さんが自分自身の肉に死ぬ事を助けます。自分自身の肉に死ぬ事が秘訣です。キリストが盛んになる為に、私達は衰えなければならないのです(ヨハネ3:30)。


断食や祈りは自分自身の肉に死ぬ事を助けてくれますが、「おお神よ、私はあなたが~を私に注いで下さるまで、~を下さるまで断食や祈りなどをします」というようなものではありません。何故なら、今、全ての必要、命と敬虔に関する全ての事はあなたの内に既に与えられているからです(2ペテロ1:3₋4)。ですから、皆さんの内にあるものが外側で見えるようになる為に、思考の一新があります。それにより、まだ残っている肉の自分をたまねぎの皮のようにどんどんむいていく必要があります。そして、十分に自分の肉がむけると、キリストだけが外側に見えるようになります。キリストがあなたの内において解放される度合いに応じて、外側にも見られるようになります。分かりますか?ですから、これら全ての事は「キリストのうちにある」という点に戻って来るのです。


イエスは命を得る為の唯一の方法は、自分の命(psuche=人生)を捨てる事だと言いました(ルカ17:33、マタイ10:39)。しかし私たちはこう言ってきました。「もし問題があるなら、イエスのもとに来なさい。私達があなたの人生を立て直してあげましょう」それは反キリスト的な事です。わかりますか?誰も自分の人生を直す事はできません。もしそうであったなら、イエスは死ななくても良かったはずです。psucheの命(人生)が直される必要があるのではなく、肉の自分に死ぬ必要があるのです。それを聞くと大半の人々は、「しかし、それは既に私が新しく生まれた時に起きました」と言うでしょう。確かに、自分に死ぬという事が、新生した時に起きる必要がありますが、多くの人々は、自分に死ぬ事はしません。それが、教会にいる多くの人々は新生していないという理由です。彼らはキリストにあって生きてはいません。彼らはただ自分の努力によって、天国に入ろうとしている罪人だと自覚してる人達です。彼らがそのような事をしている理由は、自分の罪を自覚しており、自分の努力によってその罪を取り除こうとしているからです。


それを取り除く事はできないと知りながらも、自分の良い行いによって罪を軽くしようとしているのです。彼らは神の御前に立つ時に、自分の良い行いによって、罪が軽くなり、神が憐れみを示して、天国に入れてくれる事を期待してるのです。これが大半の偽の宗教の基盤です。殆ど全ての東洋宗教の基盤はこのようなものです。神は、この点を本当に明確にされています。エゼキエル書、民数記、出エジプト記で言われました。後でそれを見せましょう。それはDHTT(神癒技術者訓練)マニュアルでは家系の呪いのセクションにあります。出エジプト記37章に書いてあります。そこで神は、罰すべきものは必ず罰する(KJVでは、有罪宣告を取り去る事はない)と言っています(出エジプト記 34:7)。


多くの場合、人々はキリスト信じた時に、神はその人の罪を取り去って、その人自身を無罪にしたと考えます。しかし実際には、神はその人の有罪宣告を取り去る事はしませんでした。キリストのうちに入る為に皆さんは死にました。それがパウロがもはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのですと言った理由です。(ガラテヤ2:20)有罪宣告を受けた人は、死ななければいけません。死ぬという事です。第二コリントの5章17節には、「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と書いてあります。何故でしょうか?古い人は過ぎ去ったからです。パウロは言っています。「全てのものが、全ての古いものが、過ぎ去りました。見よ全てのものが新しくなりました。そして、それらの全てのものは神から出ているのです。」有罪宣告を受けた皆さんの一部は死にました。何故でしょうか?それは、有罪宣告を受けた人は死ななければならないからです。皆さんが自分の罪にあって死ぬのなら、確かに自分の罪にあって死にます。しかし、もしキリストを信じる事によって死ぬのなら、皆さんは死んで、キリストが皆さんのうちに生まれるのです。そして皆さんは新しい人なので、過去の罪との関わりはありません。皆さんは全く新しい人なのです。有罪宣告を受けた人(古い人)は死にました。皆さんはもはや有罪ではありません。何故なら、皆さんはキリストのうちにおり、もはや皆さんが生きてるのではなく、キリストが皆さんのうちに生きているからです。そして皆さんは新しい創造だからです(ガラテヤ6:15)。キリストにあって生まれ、キリストのうちに、全ての勝利があります。キリストのうちにあって、全てのものが与えられています。全てのものは、彼のうちにあるのです。

 

ですから、皆さんが自分自身になろうと、注目を浴びる為に誰か特別な人になろうと、今の時代の油注がれた者になろうとして、キリストのうちから頭を出してしまうなら、その時、悪魔は皆さんを非難して打とうと待っています。何故そうなるのでしょうか?それは、皆さんの(古い人)は未だに有罪宣告を受けてるからです。分かりますか?重要な事は、キリストのうちに隠されて留まっている事、自分の名声を建てるのではなく、イエスの名を高く上げる事です(コロサイ3:3)。皆さんがする事は、自分のわざではなく、キリストのわざです。ですから、どれだけの信仰を持っているかは関係ありません。重要なのは、その信仰が皆さんをキリストのうちに入れたという事です。そしてキリストのうちにあって、全ての神の約束は、病人に手を置く事、異言で話す事など全ての約束は「しかり」となり、アーメンとなりました(2コリント1:19-20)。分かりましたか?


今私は、皆さんにこのセミナーの要約をしました。ですから、帰っても大丈夫です(笑)。もし、もっと明快に理解する必要があるなら、これから三日間のセミナーの中でそれを説明していきます。私たちは、キリストにあって皆さん何が与えられているのかを説明していきます。今私は、外見は落ち着いてるように見えると思いますが、私の霊のうちでは、燃えています。それは、これから皆さんが、私が話そうとしている事を理解する事になるからです。これを理解する時に、よりキリストのように歩むようになり、そのように歩んでいく事によって、人々は皆さんのうちにキリストをもっと見ていく事でしょう。そして、様々な事が容易になっていくと思います。皆さんがキリストにあって歩み始める時、神の性質が支配し始めます。皆さんは御言葉にあって歩み始め、これらの約束(御言葉)によって神の性質にあずかるものとなっていくでしょう(2ペテロ 1:1-4)。 


平安、恵み、力など全てのものはキリストのうちにあります。「キリストのうち」にです。誰か特別な人になるのでもなく、何か新しく得るのでもありません。重要なのは、自分(古い人)に死んでいく事、そして、キリストが皆さんを通して生きる事です。そして実際に、これからどのように皆さんの人生のうちでそれを実践していくか説明して行きます。では休憩にして、10分後に戻って来ましょう。

New Man セッション3

 セッション3


さて、最初の質問からいきましょう。聖霊のバプテスマについて、その全てを持っていますか?ジョンG.レイクが見たり経験したような、聖霊のバプテスマを求める必要があるのでしょうか?それとも私たちは、既に全てイエスキリストにあって持っているのでしょうか?全ては与えられています。重要なのは、もっと力が放たれるという事であり、もっと与えられるという事はないのです。


聖霊のバプテスマについて語る時には、いつでも一つの事を意味します。よく言われるように、より多く満たされる度合いはありますが、聖霊のバプテスマというのは1つです。確か、デイクだったと思いますが、彼が言っているように、聖霊のバプテスマを受けるという意味はずっと聖霊の中に留まっているという事なのです。


「バプテスマを受ける」は「浸かる」という意味があり、満たされて溢れて、そして浸かったという事なのです。ですから、「聖霊によって満たされる、浸かる、バプテスマを受ける」は全て一つの事なのです。


常に聖霊のバプテスマの中に留まるというのは別の事です。それはちょうど、川の中に入って、水の中にいるようなものです。その中に浸り、同時に水に満たされている状態であり、それが続いている状態なのです。そこから出てしまうと、もう水に浸かってはいません。それで秘訣となるのは、常に聖霊のうちに留まるという事です。


自分に死ぬ(古い人に死ぬ)という事が聖霊の満たしに関わっています。自我に死ぬほど満たされる。それが最適な表現でしょう。それは多くの場合、強い願いから来ます。単に「欲しい」という願いではなくて、私たちがキリストにあって何者か、そして私たちのうちにいるキリストがどういうお方なのかという知識によってです。それと、キリストにあって私たちが何を持っているか、そして皆さんがその持っているもので満たされているという知識でもあります。


実際に、多くの人が聖書を読んで中途半端に引用して「全てこの世は主の栄光によって満たされる」と言っていますが、それはその節の一部分です。聖書は「全てこの世は主の栄光の知識で満たされる」と書いてあります。主の栄光に満たされるにしても、それは主の栄光の知識がこの地上を満たす事がもたらすのです(イザヤ11:9、ダニエル12:4)。この事から知識は常に経験に先立ちます。


もしそうでなかったなら、熱心だけで知識のないままになり、それは通常問題を引き起こします(ローマ10:2)。熱心さだけを持つ事はできるのですが、それが知識と一緒ならば、単なる気持ちが高揚するだけに終わらないのです。その事については後でもっと話していきます。


さて、第二ペテロでした。ペテロは4節でこう書いています。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束(複数)が私たちに与えられました。それはあなた方が、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる為です。」


5節、「あらゆる努力をして、信仰には徳を」加えるという語は「成長させる」という意味が適切です。単に増し加えるのではありません。発展させる、成長させるという意味です。「知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、」と続く事から明らかです。「自制」は「行動などが一貫性、安定している、一定である」という意味を持ちますが、これは多くの人が欠けているものですね。これは単に我慢するという意味ではありません。安定的なものですから、土台がしっかりしたという感じです。「敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と続きます。最後の愛は、「見返りを考えずに与える」という愛です。


それでは見て下さい。8節からです。「これらがあなた方に備わり、ますます豊かになるなら、あなた方は、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になる事はありません。」9節「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられた事を忘れてしまったのです。」10節「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなた方の召された事と選ばれた事とを確かなものとしなさい。これらの事を行なっていれば、つまずく事など決してありません。」


「召された事と選ばれた事」に注目して下さい。ペテロは教会で一般的に言われているような「召し」の事を指してはいません。新約聖書で「召し」という語が使われているのは、キリストの元へと呼ばれたという意味をもっており、「使徒として召された」のような使い方ではないのです。


確かにパウロは「使徒に召された」として彼のミニストリーの使命について言いう事もありました。ところが、その他の聖書の箇所の「召し」というのは、救いの為にキリストのうちにあるように呼ばれたという意味を持つのです。何か特殊なケースでの「召し」ではありません。


実際に、「召し」という語は常に単数形になっています。例えば「神の賜物と召命とは変わる事がありません」の箇所は賜物が複数形ですが召命は単数形です(ローマ11:29)。これは各自の召し(その場合は複数形)ではないという事です。


「ますます熱心に、あなた方の召された事と選ばれた事とを確かなものとしなさい。これらの事を行なっていれば、つまずく事など決してありません」と書いてあります。聞いていますか?「信仰には徳を、徳には知識を」から始めて、これらの事をやっていれば「つまずく事など決してありません」と書いてあります。


それで、もしがつまずくなら、皆さん自身の問題です。それは、皆さんがこれらのものを加えなかったから、或いは、これらを人生に発展させていかなかったからです。ある人は「私がつまずいたのは、神なしでは堅く立つ事はできない事を、教えている為なのです」と言うかもしれません。


確かに、私たちはイエスなしで一人でやっていけるものではありません。しかし、新生しているクリスチャンなら、イエスと共にいるのです。ですから、信者であるなら、イエスと離れていると思わないで下さい。神が結び付けたものを引き離さないで下さい。皆さんがつまずく時に、そのつまずいた理由が、「神が何かしたから、しなかったから」ではない事に気づいて下さい。私達がここに書かれている事をしないから、つまずくのです。


このセミナー全体を通して皆さんは聖書を信じるかそうでないかの選択をする事でしょう。何故なら、私がする事は皆さんが注意を払うように御言葉を持ってきてその一つ一つを読んで聞かせるからです。そして、皆さんはそれらの書かれている事を信じるか、信じないかの選択をする事になります。


次に、これがどの様になっているか示したいと思いますが、ピレモンへの手紙6節を開いて下さい。6節です。皆さんの信仰が失敗したのなら、この節が答えになっています。とてもシンプルです。「もし」、「でも」の言い訳はありません。たった一つの答えが問題解決になっているケースは多いものです。ここを何回も読めば分かってきます。ほぼ全ての問題は、皆さんが信仰を保つ為にやらなかった一つのものに帰ってきます。


ピレモン6節(以下は、より正確な日本語訳に訂正)、後ろの方から「皆さんの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように」の部分の「生きて働く」が重要です。私達の信仰が生きて働くのは、「私たちの中にいるキリストのうちにある全ての良いものをよく知る事によって」です。


皆さんのうちにあるもの全てが良いものとは限りません。「でも、私は人を助けるので良い人だと思います」というかもしれませんが、その様な事とは関係ありません。何が皆さんの信仰の交わりを「生きて働く」ものにするかと言うと、皆さんの中にいるキリストにある全ての良いものを知る時です。


というわけで、秘訣となるのはキリストのうちに何があり、キリストにあって皆さんに何が与えられていてるかを御言葉を通して学ぶ事です。そして、与えられているものを知る事、皆さんがそれを知る時にそれらのものは活性化されるのです。この活性化の方法をセミナーの中で教えていきます。


これはとても重要です。クリスチャンは皆、毎日するべきです。それはプロセスですあり、簡単な事です。一つだけ、皆さんにとって大きな誘惑になるものがあります。それは、あまりにも簡単すぎて、皆さんがこんな事で何かが変わるはずはないと考える事です。まさかそれが重要な事とはと思うでしょう。素晴らしい事には、福音というのはそれ程シンプルだと言う事です。神は一つの事だけに簡略化したのです。私たちは信じるだけです。それが、私たちをキリストに導いたのではないですか?キリストを信頼したのではないですか?皆さんの自由意志の働きによって、神の御心に自分自身に委ね、皆さんの人生の全てのコースを永遠に変える一つの決断をしたのではないですか?


そういうわけで、神がその様に簡単にしているのなら、他のものに対しても「そんなに簡単な事が変化をもたらすだろうか?」と思わないようにするべきです。もし神が、最も小さい事によって、最も大きくな変化をもたらす事ができるのなら(信じるだけにしてしまった事)、その他の全てはもっとシンプルにであるべきです。そういうわけで、決して物事を複雑にしようとする考えに陥らないで下さい。私たちは思いの中で、効果があるものは複雑なものだと考える傾向があります。福音に関して、私たちはそのような事は言えません。


例を一つ挙げましょう。スティル・フォンティン市に私たちがいた時の事です。少女が一人按手して祈ってもらう為に連れて来られました。ドラマチックな大きな出来事ではなかったです。女の子は10~13歳くらいでした。頭に按手する事もその他の事もしませんでした。私たちは、ただ信じたのです。その問題が去るように命じて祈っただけです。大きな声を出したり叫んだり、その様にしなかったのは、相手が子供だったからです。そして私たちはそうする必要もありません。叫ぶ必要があると思うなら、自分自身(の霊、又は聖霊)を奮い立たせる為(2テモテ1:6-8、2ペテロ1:13)、そして神の力を放つ事ができる為です。毎回、そうしなければいけないわけではありません。最初は大きな声を出して学ぶのは良いでしょう。時には自分を奮い立たせる必要があり、一般的には大きな声を出してそうするからです。それが分かれば、今度は神の事を考えるだけで、自分を奮い立たせる事を学びます(2ペテロ1:12₋15)。それができたら素晴らしいです。そして、同じ様にする事で神の力を放つ事を学ぶのです。大声を出す必要はありません。最初はそれで神の力を放つのが容易であるかもしれません。ただ状況によっては、病院などは、適切ではないでしょう。病院で大声を出すものなら、外に追い出されるでしょう。分かりますか?単純な事です。


子供に対してミニストリーをする時も同じです。私たちは子供に対して大きな声を出しません。解放しようとしているのであって、恐れを入れているのではありません。誰かが大声でやっているのなら、それは自制心を失っているからです。率直に言いますが、子供に対して叫んでいるのなら、自制を欠いてのです。そういうケースになると、人々はリスペクトしなくなり、皆さんの単純な指示に従わなくなります。そうなると統制を立て直す必要があり、大体、恐れが関わってきます。その様にして子供をしつける、恐れを子供に教えるという事です。ここでは詳細には触れません。とにかく、彼らは従わなければ、それなりの結果があるというのを知っておかなければなりません。悪魔に対して大声を出さなければならないのなら、コントロールを失っているというのが一般的です。もちろん、最初の頃は声を大きくしても良いでしょう。ただ、大きな声に力があるのではありません。大きな声を出すのは、うちにある力を解放する為です。それが出来る事を学べば、大きな声を出さずとも、力を放てるようになります。手を置くだけでも力を解放できるになります。


マルコ16章では祈りについて何も言っていません。「信じる人々が手を置けば病人が癒される」のです(マルコ 16:18)。信者が祈るという事は一言も言っていません。祈らなくても良いのです。これに驚く人は多いです。もし皆さんが私の所に来て癒しのリクエストをしても、私は祈る必要はありません。私はただ信じる、信者であるというだけで良いのです。マルコ16章にあるように、私が手を置けば皆さんが癒されるという事を信じるだけなのです(マルコ 16:15-18)。一言も言わないでいいのです。ただ皆さんに触れるだけです。重要なのは祈る事ではなくて、信じる事です。ですから、信じる事を学んで下さい。そうすれば、力を解放する事を学ぶ事ができます。


手を置いて(神の)力を出す事もできれば、言葉や命令によっても可能です。「行って、シロアムの池で洗いなさい(ヨハネ 9:7)」とイエスに言われた人がそうしたらどうなりましたか?彼は癒されたのです。イエスが命令したからです。また、イエスが悪霊に「この人から出ていけ」と命じたらどうなりましたか?悪霊はその命令によって出て行ったのです(ルカ 4:35)。イエスは命令によって力を解放したのです。見るだけでも力を解放する事ができます。


自然にやる例は他にもあるのですが、見る事だけでも同じように力を出す事ができるのです。その他にも方法があります。皆さんが来ていた服などでも力を放つ事ができます。その服を誰かに持たして病人に置く様に言う事もできます。それを病人に置けば癒されるのです。分かりますか?使徒の働き19章に書いてありますね。


癒しの布と私たちは呼んでいます。パウロは彼の服に対して祈ったという証拠はないのですが、彼の前掛けや手ぬぐいを取って病人に置くと、何処ででもそれによって病人が癒された、悪霊が出て行ったと書いてあります(使徒 19:11-12)。パウロは、「これは病気の癒しの祈り」、「これは悪霊からの解放の祈り」のように細かく指定しませんでした。ただ力が働いたのです。それは命です。命は死を追い出します。病気を追い出します。神は光であり、命であり、愛です(1ヨハネ1:5、ヨハネ14:6、1ヨハネ4:8)。それらの性質が現れたのが癒やしや解放です。誰かにミニストリーをする時、使徒19章にあるように皆さんの触れた布を置けば悪霊が出て行くでしょう。どうしてでしょう?それは光が闇を追い払うからです。病気であればそれは出て行くのです。どうしてそうなるでしょう?それは命が死を追い払うからです。分かりますか?


私の仕事は2つの面があります。まず一つに、皆さんが神の言葉を信じるように助ける事です。書いてある御言葉を書かれている通りにそのまま読んで下さい。二つ目には、いかに神が偉大であり、ある人達の尺度によって小さくなったりするお方ではない、というのを皆さんが信じるように助ける事です。神はどの人たちを通しても働かれるのであり、私たちのやり方でも働かれます。しかし、小さくされてしまう(制限されてしまう)事はありません。ある人たちが信じているやり方と、別の人たちが信じているのと違いはあっても、両方のグループで神は働かれるのです。


神はあるグループの人たちの中である制限内の範囲で働く事があります、その制限の度合いは彼等が神がその度合いで働くと信じているからです。もちろん、その人たちの信仰だけに神が制限されているのではありません(エペソ 3:20)。つまり、神は他の方法でも事をなさるのです。神がどの様にして働くかについて私たちが持っている考え、それが唯一の方法ではないですが、そのやり方で私たちを通して、神は事をして下さっています。ですから、私たちが神に制限をかけるのが、神にとっての唯一の制限となるのです。それで私のすべき事は、皆さんが神に制限をかけないようにする事であり、神をありのままの神であるようにしておく事です。もし神が癒すのなら、私たちが手を置く時に癒せます。祈らなくても、或いは、言葉を発して手を置かなくても良いわけです。アーメンですか?


次に行きましょう。第二コリントの1章13節です。「私たちは、あなた方への手紙で、あなた方が読んで理解できる事以外は何も書いていません。」パウロは各教会によって違う事を書いたのではありません。パウロの書いた内容は、手紙を宛てた教会で起きていた問題や、教会全体に影響していた大きな問題に関係しているのですが、この事に気づいている人はいますか?彼が大きな問題に対する返事を書いた時はいつでも、事前にその事を教会の人たちから知らされていたので、彼は返事をしたのです。さて、そういった返事をパウロが書いた時、驚く事に、その返事には二つの面があります。非常に実践的である部分、例えば、皆が一斉に異言を話すならそれは訳の分からない事をしている事。そうではなくて、二人か三人が異言を話し、しかも誰かが解き明かす人がいるべきです。何故でしょう?何が起きているか分かる為であり、それが適切であり秩序なのです(1コリント14章)。彼はこのような実践的なアドバイスを書きました。


一方で、パウロが答えたもの、全ての教会にあったそれぞれの問題に答えたものは、一つでした。それは「イエスがあなた方にされた事はこれです」という答えです。毎回そうでした。これがイエスが皆さんのうちにおいてした事、これが皆さんの為にイエスが成し遂げた事です。「聞いて下さい。あなた方が抱えている問題は、神についての知識、つまりイエスが十字架でなさった事と蘇った事に関して十分な知識がないという事なのです。」パウロはその様にコリントの人たちに言ったのではないでしょうか?彼は知恵と優しい言葉を持って彼らを訪れたのではないと言いました。彼は目的をもって来たのです。「私は、あなた方の間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない事に決心したからです」とパウロは言いました(1コリント 2:1-2)。


考えてみて下さい。パウロは博学でした。当時、彼は最も頭のいい人の一人だったでしょう。神学的にはパリサイ人でした。律法をよく理解していました(ピリピ 3:4-5)。彼のような人なら、旧約聖書を暗唱できたでしょう。彼がその様だったのは私たちが知っている通りですし、異邦人の書いた詩なども引用したくらいです。当時の文学にも詳しい人でありました。「彼らの中でもこれは正しい」と引用して書いた通りです(使徒 17:28)。


それで、パウロは無知な人ではなかったのです。彼は言いました。「いいですか。私があなた方の所に来る時、私はこの知識を持って来ます。あなた方が知るべき事は、イエスキリストと彼が十字架に掛かった事です(1コリント 2:1-2)。」

考えてみて下さい。パウロは色んな事を教える事ができたのです。しかし、その他の物は全て塵あくたと彼は考えたのです(ピリピ 3:1-8)。当時の表現において、それはとても強い言葉でした。彼はその他の事は全て損だと言いました。キリストにおいて捕らわれてしまう事が唯一の大切な事なのです。今一番大事な事は、イエスとイエスの十字架なのです。アーメンですか?


パウロにとって、それだけが重要であるなら、私たちもそうであるべきでしょう。アーメンですか?13節です。「私たちは、あなた方への手紙で、あなた方が読んで理解できる事以外は何も書いていません。そして私は、あなた方が十分に理解してくれる事を望みます(2コリント 1:13)。」つまりパウロは、あなた方に新しい事を書いているのではなく、まだ説教をしていない事でもなく、まだ聞いた事のない様なものとか、まだ他の教会に書いていないものではないと言っているのです。これが重要だと分かりますか?それが重要だと今から分かります。


私がクリスチャンになる前、しかもクリスチャンと自覚していた後でも、私は格闘技を教えていました。格闘技は私の人生でした。そればかりをしていましたし、その事ばかりを考えていました。皆さんが賢い格闘家なら、常に一つの技を見つけようとするはずです。あらゆるものに対する防御の技です。もし全ての攻撃に対応できる様々な技を知ろうとすれば、皆さんは、残りの人生全てを掛けてトレーニングして習得しなければならないでしょう。


だいたい36種類の攻撃パターンがあります。人生全ての時間を掛けて、攻撃#1に対する防御はこれ、攻撃#2なら別のやり方など。それで最低でも36のパターンを知る必要があり、しかも異なる対応のレベルも知っていなければなりません。相手が殺すつもりで攻撃しないのなら、殺すつもりで対応しないという理由です。コントロールしたり、控えめにしたりできますが、それには相手の攻撃の強さに対してきちんと対応できる能力が必要になります。


人生の全ての時間を掛けてトレーニングしても、相手がどの様な攻撃を仕掛けてくるか、或いはどのようなディフェンスが必要なのかは分からないのです。でも、もしあらゆる攻撃に対して有効なディフェンス、いつでも使えて誰に対しての攻撃であっても、大きさ、強さ、速さなどに関係なく、そういった全てのものに対応できる一つの答えを見つける事ができるなら、それはベストだと思いませんか?それなら、全ての人生をその一つの事のトレーニングだけに時間を費やせば良いわけで、しかも(一つなので)上達する事が可能です。攻撃の大きさ、強さ、速さ、その他のもの一切関係なく自分を守る事が正確にできるのです。アーメンですか?それで、そのようなものを求めるべきです。全てに対応できる一つの事。これがパウロがやった事なのです。パウロはこの一つの事を見つけたのです。


時間があればコンコーダンスを使って是非調べて欲しいものがあります。ストロングのコンコーダンスでそれを調べる事ができます。ウェブ上でも「一つの事」を検索すれば探せます。検索結果などで最初に出てくるのが、イエスとマルタとの会話のものです。マルタは、「妹に手伝うように言って下さい。妹はただ説教を聞いているだけで座っているだけです。私はここで色々と忙しくしているのに」とイエスにいました。イエスはマリアに、「お姉さんを助けてやりなさい」とは言いわず、マルタに対して、「あなたは、色々な事を心配して、気を使っています」と言いました。イエスは必要な事はただ一つだと言いました。そしてマリアはその一つの事を選んだと言いました。その一つの事とはイエスの説教の言葉です(ルカ 10:38-42)。



パウロも同じ事をしていたと気づくと思います。彼が教えたのは同じものでした。誰にでも、どこへ行っても同じ事を彼は教えたのです。彼はある時に、サタンからの使いを与えられたのですが、それはパウロが多くの啓示を与えらえたからです(2コリント 12:1-9)。しかし、彼の全ての啓示は一つの事であると分かります。彼の持っていた啓示はたくさんあったかもしれませんが、それらは皆、ある一つの事を指しているのです。その一つの事は何かを皆さんとシェアしたいと思いますが、それはランチの後にしましょう。


使徒の働き3章に、ペテロとヨハネはある一つの事を示しています。ペテロが足が萎えていた人を癒したのがきっかけで、全員が彼に耳を傾けました。「何故、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」とペテロは言いました(使徒 3:12)。使徒であるなら、賜物を持っている、癒しの賜物がある、と言う事もできたのですが、彼はそういうものではないと言いました。彼らの聖さ、十分な断食や祈り、善い行い、などをしたわけでもないのです。ペテロのこの発言は、今日の教会でどうやって力を得るかという教えを、全て無力である事を証明するものです。彼は、自分たちの力とか聖さとかがこの人を歩けるようにしたのではなく、イエスの名とその名を信じる信仰によってだと言いました(使徒 3:16)。この箇所を読んだ時、私は格闘技をやっていた頃の事を思い出しました。ペテロは一つの技を見つけたと思うのです。彼は常に通用する一つのものを見つけたのです。


一つの事ですが、二つの部分があります。まず、イエスの御名です。その御名だけではないというのは明らかで、その御名の背後に働くものもあります。つまり、イエスの御名とそれを信じる信仰の事です。ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たち、彼らはユダヤの魔よけ祈祷師だったのですが、自分たち方法で結果を出していました。彼らは悪魔を追い出す事ができたのです。何故なら、旧約聖書の時代でも悪霊を追い出す事はできたのです。イエスもパリサイ人にこう言っています。「悪霊を追い出している私が悪霊を持っているのか。もし私がベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなた方の子らは誰によって追い出すのですか?(マタイ12:27)」彼らは悪霊を追い出していたのです。どうやってでしょう?イエスがそうするのは正しく、イエスがそうなさるのであれば、「悪魔によって」というのはどういう事でしょう?


それで彼らは、悪霊を追い出していて成功していたのですが、ここに問題出てきました。スケワの七人の息子たちが出て行って、彼らはそれまでは悪霊追い出しを成功させていたのですが、今回は新しい方法でやってみたのです。彼らはイエスの名によって悪霊を追い出すというのを聞いたので、試しに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみたのです(使徒 19:13)。


彼らはイエスを知らず、パウロの成功を見ただけです。それで彼らは、パウロの宣べ伝えているイエスの名によって命じたのです。彼らは悪霊を追い出す事はできました。ところが、その悪霊は彼らを襲って追いかけました。彼らは悪霊を追い出したのですが、彼らが望んだ通りの形ではありませんでした。彼らが新しい啓示を混ぜようとしたのに気づいて下さい。彼らはテクニックを混ぜようとしたのです。違うメッセージを混ぜる試みは失敗に終わりました。もし皆さんが何かをやるなら、結果が出せるものを見つけてそれを追い求めて下さい。「全ての中から、それぞれベストのものを取れば、全体的にベストを持つ事ができる」のであれば、それはフランケンシュタインなのです。それらのものをまとめても、何一つ結果を出す事はありません。「このメッセージ(純粋な福音)は何か違う」と言って、他のものと混ぜる人がいます。メッセージはそれ自体でこそ働くのです。混ぜてしまうとダメになります。石油を車に入れる時のようなものです。それだけなら良いのですが、水を加えてしまえばダメになります。混ぜものになると使えません。純粋なものが通用するのです。


分かりますか?それで、混ぜたらだめなのです。福音はそれだけで良いのです。例えば心理学と混ぜてしまうと...心理学の起源は私たちが想像しているようなものではありません。それは悪魔からの知恵であり神からのものではないのです。単純に言えばそうなのです。それがどこから来たのかたどれば、人から、悪霊に取りつかれた人から、ドラッグ漬けや精神異常の人からなのです。それで、(それを混ぜると)神からのものではないものを混ぜようとする事になるのです。私たちはそのようにする必要はありません。私たちは神からの知恵が与えられており、それだけで十分なのです。


コロサイ人への手紙4章に行きましょう。16節を見ていきます。パウロはこの様に言っています。「この手紙があなた方のところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにして下さい。あなた方のほうも、ラオデキヤから回って来る手紙を読んで下さい。」パウロはここで、「この手紙があなた方の所で読まれたなら」と言いました。つまり、彼らがこれを受け取った時、それはただの手紙であって、パウロは4章を何か特別なものとして書いたわけではないのです。彼は手紙が読まれるようにと書いたのです。


誰かから手紙をもらった時、三行だけ読んでそこで止めてしまい、それらの事を考える事はしないでしょう?手紙全部を読むはずです。何故なら、手紙全部を知りたい(と思う)からです。家族や友人からの手紙だったら、皆を呼んで、「~さんから手紙があったよ」と言って皆の前で全部を一気に読むはずです。何回かに分けて読む事はしません。


「次の四週にかけて、毎週月曜日にビルおじさんからの手紙を読む事にします」などという事はしないはずです。手紙全てを読むはずです。コリント人への手紙やへブル人への手紙は(長いので)別としても、パウロの手紙を一気に、5分くらいで読む事はできます。ただ通読するだけです。10分くらいで全部読めます。分ける事はしません。後でそうしたとしても、最初読む時は一気に全部読むでしょう。そして、全ての書簡は単純にキリストが皆さんの内にあって、皆さんを通して、皆さんの為にした事を伝えているのです。それらの殆ど全ては、十字架によってなのです。そして、更にここが重要な箇所ですが、パウロはこの手紙が読まれる時、それを声を出して読まれる事を期待しました。もし、セミナーの時に私がコロサイ人への手紙1章1節、という様にしてただ聖書を読んだだけなら、「それで?」と言って、殆どのクリスチャンは怒るでしょう。教えるというのは必要であり、神は教師を教会に置いていますが、単に聖書を読むだけでは無駄な時間だと考えているのです。


でも例えば、ヨハネによる黙示録を読んだとしても、それには読むだけでも祝福があると言っています(黙示録1:3)。ある人たちは、「でも理解できない」と言うのですが、ヨハネは読んで理解できるから祝福されているとは言っていません。もちろん、理解はできないでしょうけど、分からなくても、読むだけでも祝福されるのです。ですから、皆さん自身や皆さんのうちに既にあるものについて書いてある箇所を読むなら、どんなに祝福される事でしょうか。暑い日に外で冷たい水を見つけた時、それを飲むなら皆さんの体、全体にその冷たさを感じる事ができるでしょう?神の御言葉もその様なものです。皆さんの霊と御言葉は一致しています。皆さんの霊は御言葉の通りに信じますが、時には、ただ御言葉を聞くだけでも「その通りだ」と言って満足するのです。御言葉を聞いて色々と考えるのではなく、ただ皆さんの霊が聞きたいだけなのです。


私はテキサス州で生まれ、そして世界中に行くようになりました。色々なアクセントを聞きます。時には聞き慣れたテキサス州のアクセントを耳にする事もあります。聞き慣れたアクセントは何だか落ち着きますね。どうしてでしょう?それはちょっと自分の故郷を思うからでしょう。知らない所へ出て、別に家に帰りたいわけではないのですが、家のような慣れた環境は良いものです。それと同様に、皆さんの霊が御言葉を聞くと、慣れた家のようなものを感じる、そういう効果があるのです。


そういうわけで、パウロは「この手紙があなた方のところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにして下さい」と言ったのです。これらの手紙はただ勉強する為ではなく、その全体を声を出して信者に読まれるようにという意図があったのです。もし私がここに来て癒しについて教える、癒しを必要としているなら祝福となるでしょう。でも、癒しを必要としていない人なら、癒しについて関心もありません。彼らにとってはただ教会の礼拝に来ただけになるのです。彼らにしてみれば、「私は健康で周りには特に病気の人もいないので、私にはそれ程の事でもない」となり、強く印象づけるものにはならないでしょう。


しかし、もし皆さんが御言葉をただ読むのであれば、ここにいる皆が良い影響を受けます。何故なら、御言葉は全ての人にとって良いものだからです。キリストにあってどこにいようとも、皆さんが人生のどこにいようとも、皆さんの問題がどの様なものでも、御言葉を聞く事によっていつも祝福を受ける事ができるのです。御言葉をただ読む、ストレートに読むというような事が、例えメッセージの前でも、或いはメッセージ以外の事でも、そういった教会の礼拝というのがあるべきだと私は考えます。


第一テモテの5:27を見て下さい。ここでもパウロは教会に次のように書いています。「この手紙が全ての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」この聖書の箇所を読んだ事がないとしたら、皆さんは兄弟だと思いますか?もし新生したのなら、もちろんそうです。例え、この手紙を知らなかったり、一度も読まれなかったとしたら、誰かが聖書通りにきちんとしていない事になるのです。「この手紙が全ての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます」と書いてありますから、もし誰かが立ってこの手紙を読んだなら、神に従っている事になるのです。そうして手紙を読んだ人は、「私は神の御心を行っている」と言えるのです。アーメンですか?


それではエペソを開いて見ましょう。このセミナーの中心的な内容について詳しく話していきます。3章です。皆さんによく分かってもらえる為に、ここからはゆっくり話します。正直に言いますと、マニュアルにある全てをカバーできないと断言できます。多くの事をカバーしていきますが、もしそうでなかったとしても、皆さんがそれらを学び始める事ができるように方向づけます。これから何をどうするかについて教えますが、私が去った後でも自分で調べて、私がしている事をどうしたら良いか分かるようになり、また私がした事を皆さんも同じようにできるようになります。


それを証明しましょう。私がこれを読んだ時、非常に驚きました。そのいきさつを先に言います。いいですか?第一コリント人への手紙は存在しないのです。彼らはパウロに書き、パウロは返信しました。私たちはその最初の手紙を知らないのです。第一コリント人への手紙は、実は二番目の手紙なのですが、最初の手紙がないので、それを第一としたのです(1コリント5:9)。ですから、第二コリント人への手紙は本当は第三コリント人への手紙なのです。エペソ人への手紙は2つあります。私たちが持っているのは、実は第二エペソ人への手紙です。第一エペソ人への手紙が存在しないのに、第二エペソ人への手紙とするのはおかしな話なので、そういう事になっているのです。


エペソ人への手紙3章の1節から3節。「こういうわけで、あなた方異邦人の為にキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。あなた方の為にと私が頂いた、神の恵みによる私の務めについて、あなた方は既に聞いた事でしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。」3節を見れば、彼が手紙を書いた事について言及しているのが分かります。彼が先に書いた事は奥義についてではなく、彼がその奥義をどのようにして受けたかです。それで、第一エペソは恐らく、彼がどの様にしてキリストについての奥義の啓示を受けたかについての証だったと思います。それについては、後ですぐに見ていきます。


4節を見て下さい。「それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。」パウロが何を言っているか分かりますか?パウロは、「私はどのようにして啓示によってこの奧儀受けたかについて前に手紙を書きました。そして私はこの奥義を理解しています。私が書いた手紙を読めばそれを理解でき、私の奥義についての知識が分かるはずです」と言っているのです。分かりますか?私たちは神が啓示を与えて下さるのをいつも待っています。でもパウロが持っていた奥義をただ読むだけで、手に入れる事ができる事に気づいていますか?それがいかに単純であるか分かりますか?私たちは聖書を読むだけでは十分でないと思いがちです。「何かをしなくてはいけない、そしたら神は私たちに啓示を与えて下さる」と考えているのです。しかし、啓示は聖書なのです。啓示が欲しいなら、聖書を読む事です。神がパウロに与えた同じ啓示を与えて下さるようにずっと祈るか、その啓示をパウロの書簡で読んでゲットするかなのです。分かりますか?ですから、何十年もかけて啓示を得るという事をしなくて良いのです。この様にして神が私たちに与えたのであり、これらの約束を通して私たちが神の性質を共有する者となれるのです。


どのようにしてそうなるのか?それは、パウロに与えた啓示を読む事によってです。ヨハネの黙示録も、「ヨハネを通してキリストについて啓示された」という意味があります。啓示の本であるのに、多くの人は理解できないと言います。隠されたではなく、啓示(明らかにされた)の本なのです。キリストについて啓示されている本です。イエスについて明らかにされている本であると、ヨハネは言っています。イエスが隠れているという意味ではなく、隠された知恵、隠された奥義でもありません。イエスを啓示している本なのです。ですから、奥義が隠されているからという前提でそれを探すかのようにする必要はありません。イエスを見つけるだけに焦点を当てれば、イエスを見いだす事ができます。黙示録の中にイエスが見えれば、ヨハネが言おうとしている事が明らかになります。アーメン?これは奥義が隠された本ではなく、啓示の本なのです。


それで、黙示録を読むと啓示を得る事ができるのです。混乱してはいけません。啓示と悟りを得る事ができるのです。しかし、間違ったものを探しているなら、そこにないものを探している為に、回り道をしてあるものが見えなくなってしまいます。そこにあるものを見ようとするなら、見つけられます。混乱していない事を願います。さて、私たちは3節と4節を見ました。ここで鍵となるのは、パウロがこれを読めばキリストの啓示についての私の知識を理解できるという箇所です。次の数日にかけて、エペソ、コロサイ、ピリピを読んで、神が皆さんの中で何をしてくれたのかを見ます。ローマやコリントなども読んでいきますが、主にこれらのパウロの書簡から学びたいと思います。マニュアルの中に入れてあるのですが、一字一句を見るようにして見ていきます。全ての箇所をそうすると時間がないのですが、「新しい人」に関して、正しい方向に進む事ができるようにしたいと思います。


では、ローマの16章の20節を見て下さい。「平和の神は、すみやかに、あなた方の足でサタンを踏み砕いて下さいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなた方と共にありますように」サタンの力は既に打ち破られています。イエスが死んで十字架で犠牲になられて、死人のうちから蘇りました。パウロは「平和の神は、すみやかに、あなた方の足でサタンを踏み砕いて下さいます」と言っています。


ですから、ローマ教会のクリスチャン達が、彼らの足でサタンを踏み砕くという様な事をしていた事が分かります。しかし、これは彼らのした事です。そして最後に25節、「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなた方を堅く立たせる事ができる方」ここでパウロは「私の福音」と言っています。パウロの福音には奥義についての啓示、或いは、啓示についての理解が書かれていると知る事ができます。この奥義という単語は、(ある特定の奧義)(The mystery)という単語です。それは、世の初めから隠されていました。パウロは奥義についての情報を知っていました。それは世の初めから隠されていたのですが、「世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導く為にあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示」なのです。


パウロは、奥義の啓示を与えられたと言いました。世の始めから誰一人としてその奧義を知りませんでした。それが理由で、パウロはそれを宣べ伝えるように命令されたのです。そして、奥義は全ての人に明らかにされました。私たちは奥義が教会を通して知らされ、現れたという事を見ていきます。休憩から戻ってきたら、奥義が何かを見ていきます。強調し過ぎる事も、それ以上大きくする事もないのですが、これは隠されていた奥義なのです。パウロが説教していたのはこの奥義であって、私が皆さんに知らせたいのはこの事です。次の事を最後に、休憩に入りましょう。


これについては、後にまた見ていきますが...ヨハネの福音書で、イエスが「話す事はまだたくさんありますが、今、あなた方はそれに耐えられません」と言っています(ヨハネ16:12)。ですからイエスは、それについて何も言いませんでした。本当は奥義を明かしたかったのです。そして十字架に付けられ、処刑されて墓に入れられました。三日目に蘇って、それからだいたい14年後に、或いは、17年から20年頃でしょうか、最初の弟子たちが耐える事ができなかった為に伝えれなかった奥義を、パウロに明らかにされたのです。イエスがパウロに啓示されたのは、(最初の弟子たちに)教えたかったものでしたが、できなかったものです。その時には、イエスはできなかったのです。それはパウロに示されたのですが、パウロの教えではありません。パウロの教えはイエスの教えの続きなのです。イエスが言いたかったけれども言えなかった、世の初めから隠されていたもの。そして、十字架の後になってからでないと啓示する事ができなかった理由も後で説明します。十字架に掛かって天に昇って行った後では、イエスは地上にはいなくなりました。ですから、それらの教えを誰かを通して教えなければならなかったのですが、これらについても説明していきます。休憩から戻って来たらそれらについて説明します。

New Man セッション4

 セッション4



マニュアルを持っているなら、9ページを開いて下さい。9ページまでのものは殆ど話しました。直接マニュアルからは読んではいませんが、その少し前の...イエスが言った事について、ヨハネの16章にあります。イエスは言いました。「私には、あなた方に話すことがまだたくさんありますが、今あなた方はそれに耐える力がありません(ヨハネ16:12)。」これについては既に話しましたね。


8ページの下についても触れます。ヨハネの福音書 8:12です。「イエスはまた彼らに語って言われた。「私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩む事がなく、命の光を持つのです。」それから9ページ。ヨハネの福音書9章の4節です。既にだいたい話したものです。「私たちは、私を遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。誰も働く事のできない夜が来ます。」5節では「私が世にいる間、私は世の光です」と言っています。マタイ5章13-14節でも、「あなた方は、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなた方は、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」と言いました。



イエスは、私たちを含む彼の弟子は世の光ですと言いました。また、彼自身が世の光ですとも言いました。ここを通してある事が分かります。幾つかの事を明確にします。まず、イエスが彼自身について言った事は、文字通り私たちについても同じ事を言ったという事です。唯一の違いは、彼の人生と私たちの人生、それもだいぶ似ているのですが、皆さんは十字架に掛からないという部分です。イエスは十字架に掛かりました。命を買い取ったので、イエスの命は今私たちの命なのです。私達は彼の命にあって生きているのです。イエスは世を救う為に死にました。私たちは世を救う為に生きます。それが全ての目的です。


それでは、二、三質問を見ていきましょう。これらを一緒につなげたいと思います。良い質問がここに幾つかあります。「こんにちは、カリー。癒しやその他の為の油注ぎを流す目的で、手を置く事についてどう思いますか?」私たちはもっと(その事を)特定しないといけませんが、そうする必要はなく、聖書も癒しの油注ぎの転移の為に手を置くとは言っていません。二つ目に、その必要があるとは私は思いません。全ての信者は病人を癒すようにと言われています。全ての信者は病人に手を置けば彼らは回復するのです(マルコ16:15-18)。油注ぎの転移は必要ないのです。皆さんは既に必要なものを持っています。



一般的に、皆さんが持っていないのは経験です。これは、誰かが与える事はできません。皆さんは他人の話や証しを聞く事はできます。そしてそれは、きっと皆さんを燃え立たせる事でしょう。しかし、誰かの証しに励まされて実際に歩み、皆さん自身が自分でやらなければいけません。そういう事です。その一方で、唯一の受け取る賜物があります。それは聖霊です。使徒たちが手を人々の上に置いて、彼らは聖霊という賜物を受け取りました(使徒8:17、19:6)。聖書は、悔い改めるなら聖霊の賜物を受けるとあります(使徒2:38-39)。そこには油注ぎの転移について何もありません。多くの人たちは旧約聖書の事を考えます。旧約時代には、預言者、祭司、王の上にしか聖霊は働いていませんでした。そのような人々は、その時代に数人しかいませんでした。



新約聖書では、神はまだ聖霊を預言者、祭司、王の上に注ぎますが、唯一の違いは、今では私たち全員が神に対する王であり、祭司となっているのです(黙示録1:5-6、5:9-10、1ペテロ2:9)。それで、今はたくさんの預言者、祭司、王がいます。そして、神は直接私たちと関わります。私たちはいつも仲介者のような者、神との仲介者を持つ事に戻りたがりますが、神はそれを望んではいません。新しく生まれ変わる事の目的は、誰かを通して神に近づくようにする必要が無い為です。


皆さんは神と直接的な関りが持てます。ある人たちは言うでしょう。「それでは、『長老たちによる按手を受けた時、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません(1テモテ4:14)』と言っている箇所はどうですか?」パウロが言及している賜物は聖霊ご自身の賜物です。それは疑う余地がありません。



それは特別な一つの賜物ではありませんでした。パウロはあなたのうちにある唯一の賜物を軽んじるのではなく、燃え立たせなさいと言いました(2テモテ1:6-7)。これはまた別の質問を生み出すでしょう。ペテロは使徒の働き10章38節で、「神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神が共におられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられている全ての者を癒されました」と書いています。聖霊が与えられたのは、イエスが生まれた時でしょうか?それともヨルダンの向こう岸のベタニヤでバプテスマを受けた時でしょうか?



イエスは神の子として生まれたのですが、ピリピの手紙では、ご自分を神とならせたる全ての力と特権を無にしてこの地上に来られたとあります(ピリピ2:6-9)。つまり、神としてのご自身の力を一切行使しませんでした。イエスは人として歩みました。古い契約の下での預言者として、そして、聖霊という油を注がれた者として。神から、神の子として生まれたのですが、聖霊のバプテスマを受けられました。それは、私たちが福音書の中で見る彼のバプテスマです。ただ、イエスはこの事の前には一つも奇跡を起こしませんでした。仮に奇跡を起こす力を持っていたとして、そうしなかったのなら、彼は罪を犯している事になります。何故なら、もし良い事と知っていてそれを行なわなかったら、それは罪だと聖書にあるからです(ヤコブ4:17)。ですから、何年もの間、イエスは人を助ける事ができると分かっていながら、そうしなかったという事で、罪を犯していた事になってしまいます。



ですから、明らかに、イエスは力を持っていなかったのです。これは、私たちが多くの新約聖書の外典について同意しない理由の一つです。何故なら、その中には、「子供のイエスが土から鳩を作って、それを空中に投げると生きた鳩になった」などと書かれてあるからです。あらゆる奇跡が聖書に書かれています。カナの結婚式で、イエスが水をぶどう酒に変えた事が最初の奇跡だったという風に細かくあります(ヨハネ2:1-11)。それが最初の奇跡なので、その他の全ての奇跡はその前に起こっていないという事になります。外典は偽の記録であって、聖書的ではありません。私たちはそれらの書物を聖書として使いません。それが聖典から除外された理由です。それでは、「ペンテコステの時に上から来た力はヨルダンの向こう岸のベタニヤでのものと同じでしょうか?」私はこれらは同じだと考えます。イエスは私たちが経験したのと同じ事を通りました。私たちが経験する聖霊のバプテスマはイエスが経験したものです。人々がペンテコステに経験した事は、イエスもしたのです。



次の質問に、「十二弟子を送り出した事、つまり、主が彼らに力と権威を与える事についてです。十字架前の癒しと十字架後の癒しはどう違いますか?」とあります。DHTTで殆どカバーしている内容ですね。私たちが知るべき事は、イエスはクリスチャンを相手にしていなかった事です。十字架に掛かる前には、イエスはクリスチャンを相手にしていませんでした。相手にしていたのは生まれ変わっていない人たちです。十二弟子やその他の七十人などは、全て生まれ変わっていない人たちでした。しかし彼らは、イエスの権威で働いていたのです。



人々は二つの契約の違いが分からないので、新約聖書から多くの誤解があるのです。人々は新しい契約に生きる事をせず、古い契約の下に生きようとします。それが理由で、十字架の前とその後の違いが分からないのです。新しい契約は福音書の最後から2つめの章から始まっているのです。つまり、新しい契約はマタイの1:1 からスタートしていません。イエスが生まれた時でもありません。イエスは旧約聖書の預言者として働いていたのですから、彼のした事は古い契約にいる者としてです。それから主の晩餐で、「これは私の血による新しい契約です。」と言いました(マタイ26:27-28、マルコ14:23-24など)。その時から、イエスはご自分の復活の時までを移り変わりの時としているのです。そこが、新しい契約が実現した時なのです。この違いの言及は一般的になされていませんが、私たちには、古い契約と新しい契約(遺言)があるのです。



古い契約は同意でした。新しい契約はイエス・キリストの意思と遺言です。遺書は誰かが死んだ時に受け取るものです(へブル9:15-17)。違いが分かりますか?相続者となる為に、誰かと契約を結ぶ必要はありませんよね?もし相続者なら、相続する者なのです。遺言とはそういうものです。殆どの人は、イエスの言葉を新しい契約とします。当時の人々が新しい契約の下にいたとしたら、イエスは生まれ変わっていない人たちに対して、新しい契約の言葉によって生きるようには要求できなかったのです。何故なら、それは彼らにとって不可能だからです。しかし、新しい契約では全てが異なります。イエスが十二の弟子たちを送り出した事は、皆さんを送り出すようなものとは違います。イエスは十二人や七十人を送り出したように、皆さんを送り出されませんでした。皆さんが送られたのは、マタイ10章や9章、ルカ10章などではありません。



皆さんが送られたのはマタイ28章の第宣教命令においてです(マルコ28:18-20)。全く違います。最終的な結果は似ているべきでしょう。しかし、私たちはより幅広い権限が与えられています。決定的な権限です。イエスが弟子たちを送った時は、委任された(制限された)権威でした。残念な事に、人々はその時を振り返って見て、十字架の前だった事に気付いていません。気づいていても、その意味を理解していないのです。それで、彼らが権威を教える時、委任された(制限された)権威について教えるのです。それは真実ではありません。皆さんはクリスチャンとして、委任された(制限された)権威を持っていません。私たちは相続した権威を持っています。それが違いです。当時のイエスの弟子たちは、霊的な親子の関係を持っていませんでした。分かりますか?私達はその関係を持っています。私たちは、霊においてイエスと一つです(1コリント6:17)。彼らはそうではありませんでした。彼らはただ言われた通りにやっていたのです。


人々はマタイの17章に関して質問があります。弟子の所に自分の息子を連れてきた男がいましたが、弟子たちは悪霊を追い出す事ができず、イエスの所に来て、「その子をお弟子たちの所に連れて来たのですが、直す事ができませんでした」とその男は言い、イエスは言いました。「いつまであなた方と一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなた方にがまんしていなければならないのでしょう(マタイ17:14-20)。」イエスは「その子を私の所に連れて来なさい」と言いました。弟子たちがその子をイエスの所につれて来ると、イエスは悪霊を追い出しました。その子の親でさえ、「主よ。信じます。私の不信仰をお助け下さい」と言いました(マルコ9:24)。彼自身、信じる事が出来なかったので、私たちは彼は二心のある人だから、何も得る事はないだろうと考えます。しかしイエスは、その男が頼んだから癒したのではありません。それよりも、その子は解放される必要があったからです。その男が信仰を持っていたから、。その男が頼んだからでもありませんでした。単純に、悪霊に取りつかれたその子には自由が必要だったからでした。そして、イエスは彼を自由にしました。



信仰を働かせていたのはイエスだけでした。イエスの所に来た弟子たちは言いました。「何故、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは、「あなた方の不信仰の為です(直訳)。」と言いました。これがイエスの答えでした。マタイ17章の21節は別の訳では存在しません。「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」とイエスが言っているので、断食して祈らなければ悪霊を追い出せないというのですが、これは元々の福音書にはありません。ある人々が後で付け加えたのです。



パリサイ人とバプテスマのヨハネの弟子たちは「どうしてあなたの弟子たちにはバプテスマのヨハネの弟子たちが断食するように教えないのですか?」と言いました。イエスは「私が彼らといる間は彼らは断食はしません」と言いました(マタイ9:14-15)。そういうわけで、彼らが断食をする必要がないと言っていたのなら、彼らが断食をしていなかった事について叱る事はできなかったのです。ですから、このマタイ17章21節は元々の聖書には含まれていないのです。彼らがもし信仰を持っていたら悪霊を追い出す事ができたという意味です。分かりますか?祈りや断食、その他の事なしにです。彼らが信仰さえあれば、彼らは対処できたのです。これはマタイの17章で起きた事実ですが、イエスは既に彼らをマタイ10章で送り出しています。



マタイ10章です。話の内容はご存知かと思われます。マタイ17章は10章の後に来ますよね?ですから、彼らは既に病人を癒す為に、悪霊を追い出す為に遣わされていて、彼らが戻って来た時には「悪霊でさえあなたの名に服従します」と言いました(ルカ10:17)。それで、悪霊に憑かれた子が現れた時、イエスの弟子たちは悪霊を追い出す事が出来ませんでした。しかし、それ以前には、彼らは悪霊を追い出してはいたのです。この事から、私たちは何故イエスが次の様に言ったのかを理解できます。「いつまであなた方にがまんしていなければならないのでしょう。」「あなた方はそれまで悪霊を追い出していたではありませんか?それなのに、今は不信仰になっているのですか?」イエスは彼らにそう言ったのです(マタイ17:17)。



イエスは「あなた方は断食をしていないので霊的に十分ではありません」とは言っていませんでした。イエスは「私はあなた方を送り、人々を解放していました。前回はどの様にしたのですか?あなた方が言った事を覚えていますか?悪霊さえも私の名に服従すると言いました。それなら、どうして不信仰になっているのですか?何故、疑うのですか?」と言った事でしょう。弟子たちは、マタイの10章では一つの宣教の為に送られたのです。彼らは言われて出て行き、その伝道を終えて戻って来ました。彼らはどこに行っても全ての悪霊を追い出すようには言われていませんでした。それはマタイ28章になってからの話です。弟子たちは福音の為に遣わされました。二度三度は彼らだけで遣わされ、その度に戻ってきました。その時の彼らの仕事は病人を癒す事であり、彼らが戻って来たという事は、委任された権威だったので、任務が終わった事を意味します。それで、厳密に言えば権威も止んだのです。



分かりますか?それが理由で、マタイの17章では失敗したのです。彼らは伝道に出て、イエスと一緒にいた事を理解していたので、自動的に同じ事ができると期待してその様に試したのですが、不信仰ゆえにできなかったのです。この時の話を聖書でよく読むと、イエスが山にいた事がわかります。山で姿が変わった時に、三人の弟子たちはイエスといました。彼らが山から下りたという事は、九人の弟子たちは山のふもとにいたのです。イエスは三人と一緒に山から降りてきました。そして皆が集まった時に、弟子たちは誰が一番偉いかという事で議論していました。そうした状況をイエスに見られるのはまずいと思いませんか?考えてみて下さい。



でも、彼らがその様にしている中で、ペテロは考えていた事でしょう。「私たちは山に行っていました。知らせて上げましょう。誰が偉大なのかを。誰がイエスと山に行っていたのか知っていますか?それは私です。」ペテロはきっと、ヤコブとヨハネの事を忘れていたに違いありません。その様な事が起きていたと思います。ただ違いは、皆さんの場合は委任され、限定された権威を持ってはいません。委任による権威はお互いに血の繋がりがない人たちに与えられるだけです。私たちの場合は、イエスと親類関係を持っています。私たちの権威は委任によって与えられたものではありません。皆さんの持っている権威は委任によるものだと言わせないで下さい。そうであったなら、委任が終わる時が来る事を意味しているのです。人々の問題は、上手くいかないと直ぐに「委任が終わった」と考える事です。そして敵は彼らを打ち負かすでしょう。何が事実かと言えば、皆さんは相続した権威を持っているという事です。この事について、学び全体から見ていきましょう。


警察官が立って手を挙げ車を止める時、どうしてあなたは車を止めますか?それはあの人を見て、「あの人を知っている。あの人は狂っているから、もし止まらないと撃たれるかも知れない」などと考えるからですか?その様に考えますか?その人を知っているから止める事もあるでしょうが、それが車を止める通常の理由ではありません。彼のバッジ、拳銃、そして、彼が政府の権威を代表するのであなたは車を止めるのです。そうですよね?警察官の名前とは関係ありません。彼は「ビルの名によって止まりなさい。私はビルです」とは言いません。彼はそんな事はしませんよね?何故かと言えば、ビルは権威を持たないからです。政府が権威を持っています。彼は政府の一部であって、政府を代表しています。



ですから、何でも政府ができる事は、彼は代表します。そうですよね?そしてもし、「私は止まりません」と言って彼を引いて殺してしまったなら、政府による全ての圧力と力がかかる事になります。何故なら、その襲撃は政府に対するものであって、個人へのものとは見なされないからです。ビルは違反の切符を与え、その事を訴える為に裁判所に持って行きます。ビルとその人との間に問題はありません。政府との間にあるだけです。ビルは関りがなく、単に証人というだけです。彼は政府の為の証人です。



今私が言った事を、皆さんの状況で当てはめてみて下さい。つまり、厳密には、皆さんには何の権威もありません(マタイ28:18)。人々の為に祈る時や彼らに手を置く時、悪霊に対して去る様に命じる時、最後にあなたは「イエスの名によって」と言います。どうしてですか?それは、皆さんは自分の名前では言わず、自分の名前には権威が無い事を知っているからです。イエスの名において権威がある事を皆さんは知っています。そうですよね?皆さんはイエスを代表します。悪霊はその権威を認識するので、従います。彼が従わない時は、神の国の全ての力がその悪霊に降りかかってきます。分かりますか?皆さんは言うでしょう。「どうして毎回そうならないのか?」それは皆さんが信じていないからです。


信じる事は神の内にある全てのものを働かせます。信仰なしには何も起こりません。皆さんはこの事を知ったので、信じる事を決断をして下さい。次に悪霊を追い出す時にはどうなるか見て下さい。ただ信じて下さい。そして悪霊に言って、「今からお前に行けと命じる」と言って下さい。分かりますか?神の国という政府を代表する者としての自信が必要です。私は神の為に福音を語り、神は私を支援して下さいます。聖書では、「何でもあなた方が地上で繋ぐなら、それは天においても繋がれており、あなた方が地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」とあります(マタイ16:19、18:18)。つないだり解いたりする場所はどこですか?地上です。どこで始まりますか?皆さんの口です。


人々は「私たちは何をするべきか見つけるべきです。何が繋がれているのかを知れば、解く事ができます」と言います。なるほど、確かに幾らかの真理がそこにはあります。しかし、それはまだ違った方向を見ているのです。天において繋がれているのは、それがこの世界の基の置かれる前から繋がれているからなのです。私は物事は既に完了していると言いました。物事は、皆さんがその様に言う事を待っているのではありません。「私たちは自分たちのやる事を神が祝福してくれるようにしています」と人々は言います。


もし私たちが、神が何をしているか、何をするのかを見つけるのなら、それは祝福となります。そこには真理がありますが、問題は、皆さんが自分自身を神から離してしまい、あたかも、この場合には神が何をするのかを見つけなければ、という考えです。イエスは次の事を明確にしました。「あなた方が私の名によって求める事は何でも、それをしましょう」とイエスは言いました(ヨハネ14:13-14)。もちろん、主の御心に沿うものに限ります(1ヨハネ5:14-15)。人々は「神の御心に沿ってのみ」と言います。その通りです。それ以外をどうして考えるでしょうか?何故、主の御心に沿っていないものを頼もうと考えるのでしょう?つまり、皆さんの思考は、神の言葉と一致するように一新させられなければいけないという事で、そうすれば求めるものが神の御心と一致するのです(ローマ12:2)。アーメンですか?私たちはイエスの様に考える人について話しています。皆さんは言うでしょう。「それは不可能です。」いや、それは命令なのです。


私たちはキリストの思考があります(1コリント2:16)。(日本語で「心」と訳されている語はギリシャ語の「nous=思考」)私たちは思考の霊(気質)を一新させる必要があります(エペソ4:22-24)。私たちはイエスが考えるように考えるという意味です。「神の考えは私たちの考えよりも高いです」と言うかもしれません(イザヤ55:8-9)。皆さんが生まれ変わるまではそうでした。生まれ変わったら、神の考えは皆さんの考えになるのです。アーメン?ただし、神の御言葉に皆さんの思考を一新させる事が、神の考えが皆さんの考えになる唯一の方法です。それは神の御心が何であるかを見つける為に、神の御言葉を学ぶ事を意味しています。主の御心は一つ一つの状況に置いて異なるのではありません。主の御心はいつでも同じです。あなたの全ての咎を赦し、あなたの全ての病を癒します(詩編103:3)。そのように単純です。


神は虐げに反対します。それを憎んでいます。虐げるものを全て憎んでいます。主は自由を支持します。解放を支持します。それで皆さんは、いつもその方向に行くべきです。もし、殺したり、盗んだり、破壊したりするのなら、私たちは反対方向に行く事になります。そうですよね?主は私たちが命を得て、それを豊かにする為に来たのです(ヨハネ10:10)。そして命が豊かになる事と殺す事、盗む事、破壊する事とは関係ありません。もし誰かが、殺し、盗み、破壊しているなら、それは命ではありません。私たちの仕事はむしろ、殺し、盗み、破壊を打ち壊す事です。分かりますか?単純な事だと思いませんか?


ですから私は言ったのです。この神の命にあって生きて行く事は難しくないと。宗教は難しくします。何故なら、それはいつも、あれこれをするように、しないようにと言い、「神が何をするか決して知る事はない」と言います。


宗教、特に歴史を通してキリスト教と呼ばれているもの、人々が言う「キリスト教」、それが宗教として行われているものは、ただ昔からの異教にしか過ぎません。その教えはいつも、「怒っている神をなだめなければいけない」というものです。人は神をいつも喜ばそうとし、神が下って来るように試みます。神はいつも不機嫌で意地悪だと考えます。いつも、何かで打つ準備ができていると考えます。しかし、それはキリスト教ではありません。キリスト教の最初の言葉は「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」でした(ルカ2:14)。神の御心は人々に対して良いものです。アーメン?


神は私たちを愛していて、御子を私たちの為に、死ぬ為に送ったのです。私たちの為に神が御子を送り死に渡したのは、癌で打ったり、何かで私たちを殺す手段を見つける為ではありません。神は私達の見方であり、敵ではないのです(ローマ8:32)。これらの事は幾らでも言い変える事ができますが。私はその気になれば、一日中ここで神の愛について、神が良いお方である事、どれだけ皆さんを愛しているかなど語る事ができます。しかし、それはもう既に皆さんは聞いている事でしょう。しかし、何かの理由で、皆さんはまだそれを理解しなかったのです。もし神の愛がよく分かるなら、愛は決して絶える事が無いと知るでしょう(1コリント13:8)(KJV訳:愛は決して失敗する事はない)。それが分かるなら、皆さんはこのセミナーにはいません。それほど単純です。


私たちは数々の賜物について知りたい、力について知りたいと願っています。しかし、神は言います。「賜物について、それらがどの様について働くかはこれです。しかし、更に良い道があります。愛です(1コリント13:1)。」愛は決して絶える事がありません。愛とは何でしょうか?神は愛です(1ヨハネ4:16)。神のうちに留まるなら、愛のうちに留まります。単純ですね?それで、道を歩いていたとして、誰かを見るなら、その必要が何であっても愛は与える事ができます。つまり、ある人を見て、愛がする事は何でもあなたがする事です。シンプルではないでしょうか?


人々は言います。「それが神の御心だとどうして分かるのですか?」何故なら、神は愛だからです。愛による行動が神の御心でない事はありません。もっと易しい解説を求めているのなら、マタイの7章にあります。そこを開いている間に、似たような箇所の1ヨハネの4:17を読みます。「この事によって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、裁きの日にも大胆さを持つ事ができる為です。何故なら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」残り三日にかけて、皆さんに教えたい事がその聖句にあります。


「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」次の世ではなく、この世です。キリストのようにです。それで私たちは審判の日にも大胆なのです。何故かというと、皆さんは主のようであるからです。審判を恐れません。アーメン?もし皆さんの命がキリストに隠されている(コロサイ3:3)のなら、どうして審判を恐れるでしょうか?そうですよね?もし審判を恐れないのなら、何を持っていると思いますか?大胆さです。何故なら、失敗を心配していないからであり、失敗したら神が打つなどという事を恐れていないからです。愛によって行動するのです。アーメン?シンプルではないでしょうか?この事は全て繋がっているのです。



この箇所を再び読みましょう。「この事によって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、裁きの日にも大胆さを持つ事ができる為です。」分かりますか?裁きの日はありますが、今日ではありません。ある人は言います。「ああ、それは神の裁きです。」いいえ、違います。イエスは言いました。「また、父は誰をも裁かず、全ての裁きを子にゆだねられました(ヨハネ 5:22)。イエスはまた、「私は誰も裁きません」と言われました。またイエスは未来を指して「その日にはあなた方を裁くものがある」と言いました。「それはあなた方に話した私の言葉です(ヨハネ12:48)。」ですから、もし何の基準によって裁かれるのかを知りたいのなら、ここで言っている事がそうなのです。イエスの言葉と新約聖書の言葉です。皆さんはその様にして裁かれます。それの良い所は、皆さんが安息を得る事ができる事であって、審判の日にも大胆になれて恐れる事がないのです。何故なら、私たちはキリストと同じような者であるからです(1ヨハネ4:17)。


もし、イエスが私たちを否定的に裁くなら、彼自身を否定的に裁く事になります。素晴らしい事には、イエスは裁きを受けたのです。十字架での刑罰です。裁きが存在しないという事ではありません。私が言いたい事は、イエスの中にいるなら、主の通った苦しみの裁きは皆さんにも適応されるという事です。もし、イエスの中に留まらないのなら、皆さん自身の裁きがあるという事です。アーメン?ですから、イエスの中に入って下さい。中に入って隠れて下さい。そこに留まり、話し、その中で歩いて下さい。彼の中にあって、私たちは生きて行動し、私たちの存在があるのです。単純な事ではないでしょうか?世界一単純な事です。シンプル過ぎて宗教ではないみたいですよね?実際に、それは宗教ではないです。それは関係性の事なのです。


質問をまた読みます。「十字架前の癒しと十字架後の癒しの違いは何ですか?」違いは、十字架前にあった癒しは全て信仰によるものだったという事です。全ての癒しです。何故なら私たちは、ただキリストの打ち傷により癒されたという事だからです。私たちの癒しが保障されている唯一の事、それはイエスの受けた打ち傷によって私たちは癒されたという事です(1ペテロ2:24)。それだけです。皆さんの信仰でもありません。聞いて下さい。皆さんの信仰さえでもないのです。良い行いでもありません。ただ、主の受けた打ち傷によってです。それが唯一のものです。全ての癒し、創世記20章からゲッセマネに至るまで、それについては後に話しますが、というのは、別の側面から言いたい事があるからです。それはそうと、創世記20章では、アブラハムはアビメレクという神を知らない異邦人の王の為に祈り、癒しました。



神はアブラハムの祈りで異邦人を癒しました。「他の人を通して」という事なので、他の誰かの為に信仰を持つ事ができるのです。その時のアブラハムの信仰、彼の神との関係のゆえに、アビメレクは癒されました。そこからゲッセマネでイエスが十字架に掛かる前の最後に行ったマルコスの耳の癒しに至るまで、これらは全て旧約聖書、古い契約の下です。これらの癒しはイエスがまだ代価を払っていない、これから代価を払おうとするという事実、キリストの打ち傷に信仰を置いたものです。ですから、(ある意味)信仰がなければいけませんでした。そうですよね?何故なら、まだ代価を支払っていなかったからです。



例えて言いましょう。もし私が、「そこに行って何か欲しいものを取って」と私が言うとします。100ドル札をデスクに私が置き、その値段までなら何でも買えるとします。それで皆さんは、何か買う物を取ってレジで言います。「こんにちは。カリー・ブレイクという人がこの物の支払いを済ませたんですけど。」そうするなら、あなたは少しは信仰を持たなければならない事になりますよね?皆さんは私が事前にお金を払ったという事を信じなければいけません。そうでないなら、その人たちに私が後で払う事になっているのを知らせないといけないでしょう。皆さんの信仰か、彼らの信仰かになるのです。彼らは皆さんが品物を持って出て行く事を許すなら、私が後で支払うという事を信じなければなりません。



イエスにとって古い契約での癒しの全てはその様な感じでした。イエス自身の癒しも含めてです。後で清算するという事だったのです。何故なら、全てが彼の打ち傷によって癒されたからです。全ての死人の蘇りや全ての癒しもそうです。全てはまだ受け取っていないものに対する信仰でした。しかし、私たちの場合は違います。私はよく人々に言います。皆さんの信仰と癒しとの直接的な関係ではなく、信仰が癒すのではないという事です。イエスが「これから打ち傷を受けようとしていた時」には、そうなる事を信じる必要がありました。しかし、私たちはそれが起きた事を振り返るのです。当時の人たちは信仰によってこれから起こる事を期待しました。私たちは「事実」を振り返って見ます。イエスは病を担いました(イザヤ53:4、マタイ8:16-17)。


そうですよね?彼は打ち傷を受けました。神によると、信仰によってではなく、「イエスの打ち傷という事実」によって私たちは癒されているのです。という事は、信仰が問題ではなく、事実がポイントになります。それでは、イエスが実際に肉において打ち傷を受けたと信じますか?そうです。それなら、あなたが癒されるのに必要な事はそれだけです。それだけです。何故かと言うと、既に癒しの代価は支払われたからです。アーメン?



素晴らしい事には、もしあなたがキリストの中に入るのなら、キリストの中にあるものに対して信仰を持つ必要がない事になります。何故なら、それはあなたの物だからです。ただ、主を信じる信仰は必要です。主が身代わりになったという事、そして彼の中に入るという事に対する信仰は必要です。しかし、一度イエスの中に入るなら、全て彼の中にあるものはあなたの物になります。宗教はこの事を教えません。宗教は全ての事を得るには行いが必要だと教えます。しかし、聖書はもし神が私たちにイエスを与えたのなら、彼と共に命に関わる全ての事を与えない事があるでしょうかとあります。ここの言葉に気付いて下さい。もし、神が私たちにイエスを与えたのなら、「彼と共に」となっています(ローマ8:32)。



皆さんはいつ命に関わる全てのものを受け取りましたか?それは、イエスを受け取った時です。何故なら、全てのものは彼と共に来たからです。分かりますか?区別してはいけません。神はイエスを私たちに与えて、その後で必要なものを後で与えるでしょうとは言っていません。神はその様に言ってはいません。神は私たちにイエスを与え、イエスと共に命に関する全てを与えると言っているのです。それが鍵です。もし私たちが、彼の中にいるなら、全ては彼の中にあって、彼と共にあるので、私たちはその中で必要なもの全てのものと共にいます。全ては私たちのものです。この知識と理解によって目が開けて、恵みと平安が増す事になるでしょう。何故なら、完了したという事実に安息を得るからです。キリストの打ち傷によって私は癒されています。主は打ち傷を受けました。私は癒されています。もう既に事は終わっています。その様に単純な事です。そうすると、あなたの体に変化が起きます。分かりますか?


つまり、癒される為に踏まなければいけないステップがあるのではなく、ただ悟るだけ、イエスがあなたの内で、皆さんの為に、今皆さんの中で働いているという事を悟る時に癒しが起こります。究極的にはそういう事です。それは理解するという事です。それは啓示です。それでパウロは、「祈っています」と言いました。「あなた方の為に祈っています。あなた方の目が開けて知る事ができるように(エペソ1:18)。」どうしてでしょうか?それは、皆さんがイエスにあって何が与えられているかを知る為です。そうして皆さんが光の中にある、聖徒の相続分にあずかる豊かさを知る事ができる為です。驚く事ですね。神はその全てが皆さんの内にあると言っているのです。私たちの肉体のうちに、それらの宝を私たちは今、持っていると言っているのです。それで、鍵となるのは、皆さんは既に持っているという事です。



でもまず、この事について知っていて下さい。イエスの血によって私たちは彼にあって罪が赦されているという事です(コロサイ1:14)。そうですよね?もし、私たちの罪が赦されているのなら、私たちの全ての咎を赦して下さったのであれば、私たちの全ての病いも癒しているのです(詩篇103:3)。この二つは、本の最初と最後のページの様に重要で、皆さんが既に持っているものです。皆さんは、新生による霊的な命と癒しによる肉の命を持っています。二つの最も重要なものです。その他のものは、この二つの間にあります。これらの間に何があるかを知れば良いのです。それらは、エペソ、コロサイ、ガラテヤ、ピリピ、の手紙に主に書いてあります。ローマ書やコリント人への手紙、また、最も重要な聖句はヨハネの3:16 であり、ニコデモにいった言葉で、「新しく生まれなさい」というものでした。



「新しく生まれる」という表現はそこだけです。似たようなものは第二コリント5:17 から21節にあります。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」別の訳では、「以前に存在していない新しい種」となっています。考えてみて下さい。皆さんが、以前には存在していない者に新生したという意味は、どういう事なのでしょう。それは、古い契約の下の人たちには戻れないという事です。十字架以前の福音書に出ている人たちでもありません。へブル人への手紙は信仰と忍耐と受け継ぐべき約束を通して旧約時代の人々から学ぶようにと言っています(へブル13:7)。そして、私たちは彼らの信仰を模範にするようにと言っています。彼らの行動を真似するという事ではありません。私たちは信仰と行動は同じ事だと勘違いして、彼らのした事をすれば信仰を生み出す事が出来るとしますが、行動と信仰は(必ずしも)同じものではありません。ポイントは、行動は信仰の表れだという事です。信仰は行動に先立つものです。アーメン?


それで、エリヤを参考にして、クリスチャンになるにはどうするか、などと考える事はできません。何故なら、エリヤはクリスチャンではなかったからです。アブラハムに戻る事もできません。彼が旧約聖書の中でも模範とするべきだとしてもです。イエスも「アブラハムは私の日を見る事を望んでいた」と言っています(ヨハネ8:56)。アブラハムは、私達の今日に生きていたいと願ったのです。私達の問題は、「アブラハムの時代に生きて、アブラハムのようになりたい」と願う事です。彼は私達の持っているものを持ってはいませんでした。それはちょうど、ジョンG・レイクが1908年~1913年に、南アフリカで見て来た奇跡等を語る時のようなものです。人々は、驚くばかりの神の霊が現れたなどと話し、(私たちもその事について話たいと思います)「すごいですよね。覚えていますか?彼が菌を手に乗せてそれが死んだ事を顕微鏡で見せた奇跡の事を!」しかし、皆さんには気づいていない事があります。ノアの話に戻ります。



聖書によれば、ノアは洪水が起こると言われた神の啓示に対する信仰によって、箱舟を作っていましたが、周りの人々はただ見ているだけだったので、ノアは人々を叱責し、非難しました(へブル11:7)。彼の信仰が箱舟を作ったのでした。そうですよね?彼は信仰によってそれを作りました。もし、彼の信仰がその時代の人々を責めたのなら、ジョン・レイクはどうでしょう。私たちは、彼の奇跡を模範にして生きる事を望み、神が彼を通してやった素晴らしい事を語りたいと思います。しかし今日では、私たちはもっと聖書にアクセスでき、より多くの翻訳を参考にできたり、あらゆる方法による聖書の読み、様々な形での携帯する事もできます。多くの人は、スマホで聖書を持っているという事です。何時でも、何処にいても聖書を読む事ができます。iPad、PC、iPodにもありますね。毎日どの時間でも聞けます。私のiPadとiPhoneには旧約聖書と新約聖書が全てあり、違う訳の聖書もあります。ストロング・コンコーダンスもあり、新約聖書でも旧約聖書でも、知りたい語の定義を見つける事もできます。


私には全てのテクノロジーが手に入ります。インターネットは言うまでもなく、テレビ、ラジオ、メールもあります。これらのツールを通して、世界とコンタクトを取る事や福音のメッセージを語る事が出来ます。それなのに、私たちはジョン・レイク氏がやった事などを話したいのです。外に行って自分でそれを行おうとはしません。誰よりも私はその事について話したいのですが、同時に、彼が制限されたリソースとアクセスの中でも彼がした事をやっていたのなら、私の知識、理解、そして、こうしたツールを知っている私には、もっと大きな責任があるのだと思うのです。皆さんは、ジョン・レイク氏よりももっと輝く事ができます。他の国々にいる人たちの為に祈ったり、宣教も禁止されている閉鎖的な国の人に手を差し伸べたり、実際に、私たちは常にそれらの人々と連絡を取っています。サウジアラビア、インド全体、パキスタン、アフガニスタン、イェーメン。行って福音を宣べ伝える事が死を意味する様な所です。しかし、私たちは絶えず連絡を取ったり、メールを送ったり、色々なものを届けています。彼らはMP3をダウンロードできます。こうした福音に対して閉鎖的な国々にメッセージを、今この瞬間もやっているのです。皆さんもそれと同じ事ができるのです。


私は何人かと話したので知っていますが、皆さんの多くが、アウトリーチの為に外に行っています。でも、私は言います。ジョン・レイク氏のした事を振り返って、「凄い。彼が生きていた時代に戻ってみたい」とするべきではないのです。どうしてその様な考えを持つか分かりますか?それは、ただそばにいて、彼がするのを見たいからです。しかし、本当は皆さんが今日それをやっているべきです。もし、彼の時代に戻るのなら、皆さんは今日と何も変わりません。「やって見せて下さい」と言って立っているだけでしょう。しかし、「ではやりましょう」と言っているべきです。どの様な心構えであるかという事を理解していますか?どこかで、皆さんは決断をしなくてはいけません。ジョン・レイク氏の名前は奇跡を呼ぶ為の呪文などではありません。彼の名前、或いは、何であっても、それを理由として油を注いだのではありません。ジョン・レイク氏はただ、普通でいる事が嫌になっただけです。愛する人が死んで行くのを見るのが嫌になって、それで追求したのです。その経験がきっかけで、彼は後ろに戻らず前進し続けて行く事を決めたのです。もし、皆さんが「ああ。あの時に戻って住んでいたら」と言うなら、ジョン・レイク氏は喜んで交換すると思います。彼はきっと今日の時代に生きたいと思うでしょう。



何年か前、確かテキサスかどこかで、座って執り成していた時、オーストラリアから電話がありました。誰からかは分かりませんでした。電話に出ると、その男性は病気で、祈って欲しいとの事でした。彼の為に祈ると、彼は瞬時に解放されました。彼は瞬時に良くなったのです。電話を切って、私はそこに座りました。癒しが起きた事に関しては感謝の気持ちがありましたが、それよりも驚き気づいて考えたのが、「ジョン・レイク氏なら、世界のどこでも届く今日の時代に生きている事を喜ぶだろう。」その当時には、南アフリカからアメリカに手紙を書いて届くまで、六週間もかかったのに、今日ではメールを送れば、一瞬にして届きます。驚くとは思いませんか?それで、私たちはそうしたツールを使う機会を利用するべきです。今週、皆さんは多くの情報を得ますが、より重要な事はDHTTの時と同様に、大きな責任を得る事です。知識は責任を伴います。知識を得て、その道に歩む事は皆さんの責任です。アーメン?そして人々の人生に触れて下さい。そして、どの様にしてそれをやるかについて話して行きます。その前に休憩です。


New Man セッション5

 セッション 5



引き続き質問に答えていきましょう。あと二つほど質問をもらっており、この主題について、ここで少し説明しておかなければなりません。マニュアルの9ページを開いて下さい。またこの箇所を取り上げたいと思います。先ほど読んだヨハネ9:5 で、イエスは言われました。「私が世にいる間、私は世の光です。」それから、目の不自由な人を癒されたのです。そして、マタイ5:13から19 でこう言われました。「あなた方は、地の塩です。」ここは先ほども読みましたが、主は14節でこう言われています。「あなた方は、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなた方の光を人々の前で輝かせ、人々があなた方の良い行ないを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。」それから、「私が来たのは律法や預言者を廃棄する為だと思ってはなりません。廃棄する為にではなく、成就する為に来たのです。まことに、あなた方に告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれる事はありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」



要は、主が言われる通りにしなければならない、という事です。ここには実質上、教え全体が集結されており、一般に殆どの人々が、「聖書の代名詞」として用いる言葉であると考えています。人々がそれを用いるのは、おもに新生について語る時だけです。そして敵である悪魔は長年の間、実際は何一つ存在せず、新たに生まれ変わる必要もなく、癒しの時代は過ぎ去ったなどといった考えを、人々に信じさせる事に成功してきました。力は失われ、全てが消え去ったと。そして奇妙な事に、教会が奇跡を信じなくなればなるほど、この世はますます奇跡を渇望し、他の方面でそれを探し求めるようになりました。それが理由で数々のカルトが、現在のように増え広がり、ニューエイジが爆発的な人気を博しているのです。それは彼らが、必要を満たしてはくれないながらも、ある種の答えは与えてくれるからです。お分かりでしょうか? そして、クリスチャン・サイエンスや、その類の領域においてさえ、様々な事が起こっています。彼らは何らかの成果を上げていますが、私に言わせれば、それは聖書から生じた成果ではありません。ですからどんな国においても、そこに問題があるなら、責められるべき者(そう呼びたければですが)は、そこの教会です。結局はそういう事なのです。そして神は、その御名で呼ばれる民がへりくだってご自分に呼ばわるなら、それを聞いて彼らの地を癒すと、はっきりと言われました(2歴代誌7:14)。ですから、その地が癒されていないなら、神の民に非があるのです。今日において、病人を癒す事について神が私たちに言われた事についても、同じ事が起こっています。「ある町に入ったなら、その町にいる病人を癒しなさい」と言われたのであり、癒す相手を選びなさい、とは言われませんでした。それが教会のしてきた事です。


私たちの教えの大半は、とりわけ癒しや神の御力に関するものはそうですが、失敗の神学です。私たちはその神学を、失敗の上に確立しました。神学は、「上手く行く」より、「上手く行かない」と言う事をベースにしたものが多いのです。ですから、私たちは単純な御言葉に、それが正確に何と言っているかを説く事に、立ち帰らなければなりません。さて、そのような例は幾つかあります。例えば、癒しが簡単であると私が言うなら、それは実際にそうだからです。気が散らされないでいる事が重要です。そして実際の所、私たちは今回の旅で、よくこの事を話題にしています。望むような成果が見られない主な理由の一つは、大抵の場合、日常生活の事に掛かり合っているからです。それだけの事です。パウロもテモテにそう言いました。立派な兵士は苦しみを耐え忍ぶが、兵役に服していながら、日常生活の事に掛かり合っている者は誰もいないと(2テモテ2:1-4)。そしてペテロの手紙には、実際に神を知っており、神と共に歩んでいる人々が脱落して、再び日常生活の事に掛かり合ってしまう事について書かれています(2ペテロ2:20-22)。ですから、失敗の大半、特に神の御言葉の真理と単純さを知った後で失敗するのは、ただその人があまりにも、他の物事に掛かり合っているせいなのです。それほども単純な事です。ケーキを持っていたいけれども、同時にそれを食べたいとも考えている、(食べたら、持っている事はできない)言わばそんな矛盾した態度なのです。


さて、私たちが気づかなければならないのは、もしそれが簡単であったなら、誰もがやっているはずであるという事です。そうでしょう? つまり、ただ神の主権によって、自動的に癒しが起こるなら、皆がそうしている事でしょう。しかしそこには、私たちが果たすべきある役割があって、その役割とは信じる事なのです。そうではありませんか? 私たちは神を信じ、神にあって休息し、これらの御言葉に休息して留まり、神に信頼し、そして神が自分たちに、すべきであると言われた事をするのです。そうすれば、これらの事ができるようになるでしょう。



人々の為に祈って、即座の成果を目にした時もあれば、人々の為に祈っても、徐々にしか成果が表れなかった時もあり、また人々の為に祈っても、何の成果も表れない時がありました。さて、私は癌が癒されたケースも、自分たちが祈った相手が癌で亡くなったケースも見ました。癒しを目にする時、私たちは当然、常に神に感謝します。しかし同時に、普通は、その件についてあれこれと分析しません。大抵の場合、分析するのは、自分たちが失敗したケースであり、どこがいけなかったのかを知ろうとしてなのです。そして実際に殆どの場合、そこから判明するのは、祈る側があまりにも日常の事に掛かり合っており、あまりにも多くの事が起こっていて、集中(もっと良い言葉が見つからないのでが)できていない、という事なのです。集中といっても、気を張り詰めているとかそういう意味ではありません。ただ相手の人に関心を払い、その人を助け、癒す事ができる、という意味です。そんなにも単純な事なのです。


そして、DHTTでもお話したように、自宅に居る時でも、他の場所に居る時でも、私たちは過去に9か月以上、人々がどんな病気にかかっても癒されるのを、何度も繰り返し見てきました。知っている人の全員が癒されたのです。実に素晴らしい事です。全員といっても、「9ヶ月間」という事です。恐らく、100人ぐらいでしょう。ですから、スピリットワード教会の集会に行って癒しの礼拝に参加し、大勢の人が一度に癒された、などのようなものではありません。その類のものとは少し違うのです。その違いというのは、病人たちが私たちの家にやって来た時、他に誰もいなかったという点です。彼らは通常、一人ずつやって来たのです。予約を取る事もあれば、予約なしにふらりとやって来る事もありましたが、私たちはその時、その人一人だけに関心を払っていました。そのように集中して関心を払う事を保つ事が、重要な鍵であるように思われます。誰かの為に祈っている時、他の人々が列をなして待っていたとしても、皆さんが関心を払うべき唯一の相手はその人がであり、横に見えている次の人でも、つい先ほど祈ってあげて、まだ心に残っている前の人でもありません。


皆さんは一人の人と繋がり、その後その接続を断って、次の人に移行しなければならないのです。接続を断つ事ができないなら、相手を見て、その人の為に祈っていても、その祈りは別の人の方に行ってしまいます。まだそちらの人と繋がっているからです。そのような事が実際に起こるのです。人々は言います。「イエスはそんな事はされなかったです。」そして皆さんも、イエスがそんな事はされないと分かっています。そして私たちが目指しているのはそこです。それを(つまり、祈りにおいて、人との繋がる事に振り回されない事を)目標としているのです。しかし同時に私達は、成長段階にあるので、それに応じて話そうとしています。


正直言って、皆さんの大半が、絶対的で厳しい真理を望まないのは、それを実践しようとしないからです。ですから、私たちがDHTTを教えた時、その背後にある意図とは、平均的なクリスチャンを彼らの快適ゾーンから出て行かせ、人々の為に祈らせる事なのです。DHTTは最重要事項や、最終段階でもありません。それは始まりなのです。それは皆さんを始動させ、送り出す為のものです。そして出て行くなら、皆さんは主がされた事をもっと上手くできるようになり、すればするほど、さらに多くを学ぶのです。使徒たちや初期の弟子たちや、2世代目や3世代目の弟子たちでさえもそうですが、彼らの人生について読んでみると、自分が救われた土地に留まっていたケースは、一つとして見られません。聖書の中で、奇跡やしるしや様々な事を起こしたと言われている人々は全て、最初に居た場所ではなく、必ずどこか他の場所に落ち着いています。何故でしょう? それは彼らが、イエスがされたように、そこの人々を離れたからです。「預言者は誰でも、自分の郷里では歓迎されません(ルカ4:24)。」故郷に留まり、普通に暮らしたい人たちは、9時から5時まで仕事をし、夕方に帰宅して、テレビの前にどかっと腰を下ろし、二、三のくだらない番組を見るなどして、死人を生き返らせてくれという電話がかかって来るのを待つのです。そして、そのままずっと待ち続ける事になるのです。そんな機会が訪れるかもしれませんが、その人に死人を生き返らせる備えができているとは限りません。要するに、福音に則した生き方についてです。


イエスは非常に多くの例を挙げられましたが、私たちはそれらを、ただの好ましい見解であるとしか考えません。主は私たちに、ある種の人々について、非常に多くの例を挙げられています。ある一区画の土地で良いものを見つけて、そこを買う為に、何もかも売り払った人の話です(マタイ13:44)。それなのに、私たちはそれを欲しがりません。このように考えるのです。「そうだな、ローンでその土地を買おう。それを買いに行く為に、全ての持ち物を売り払うなんてごめんだ。何とか別の方法でやってみよう」と。ところがイエスは、ご自分が唯一の道であると言われたのです(ヨハネ14:6)。主以外に何も道がないわけですから、この事は、心底真剣に受け止めなければなりません。真剣にならなくても、奇跡は目にし、癒しも目にするでしょう。DHTTセミナーを受けた人々の殆どは、癒しを行う事ができます。彼らは一ヶ月に平均、25件から30件の癒しを目にするでしょう。彼ら全員が、一日に最低でも一人の為に祈っており、実際に癒しが見られるでしょうから。しかし、さらなる高みの生き方があります。


ヘブル書には、一切の「重荷」とまとわりつく「罪」とを捨てる事について話しています(へブル12:1)。全部が罪というわけではありません。中にはただの重荷もあります。中には、皆さんにまとわりついて、進歩を遅らせるものもあり、それらは益になりません。ですから、中には捨てなければならないもの(重荷)もあります。余計なものを取り除くという事です。皆さんは今週の終わりまでに、DHTTで気づいた以上に多くの事に気づく事になり、言い訳ができなくなるでしょう。全てが(イエスによって)なされたのです。全てが成し遂げられました。皆さんには、全てのものが与えられています。今皆さんは、それを用いて、何をするのでしょうか?


第2コリント5章を読んでいきましょう。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です (2コリント5:17-18)新しい創造、新しい種(しゅ)です。聞いて下さい。「古いものは過ぎ去って、見よ」は見なさい、注目しなさい、という意味です。「誰でも」とは、皆さんや私、あるいはどんな人でもという事です。「キリストのうちにあるなら」は、キリストと一体となっているならという事です。キリストの成し遂げられた事を、自分の為であったと考えているなら、その人は新しく造られた者です。つまり、新種の生き物なのです。以前の皆さんや、以前の行動様式といった古いものは過ぎ去りました。人が死んだ時と同じように。それは死に等しいのです。それらはもはや、彼らの一部ではなくなりました。今私たちは、皆さんの内面や、特徴の全てがすっかり新しくなり、それは皆さんが新生する前にはそこに存在しなかったものであると見なし、考えなければなりません。そして「これらの事は全て、神から出ているのです。」皆さんの中にある、それらの新しいものの事です。皆さんの中の全てが、今や神のものなのです。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ...」つまり、皆さんは神の方に向き直ったから和解したのではないという事です。イエスが皆さんの為に、和解への道を切り開き、向き直る機会を与えて下さったのです。皆さんが神の方を向いたからそうなったのではありません。お分かりでしょうか、もしイエスが十字架の上で死んで下さらなかったとしたら、皆さんが神の方に向き直ろうとしても、和解して頂けなかった事でしょう。それが事実です。もしイエスの死なしに、神と和解できていたとしたら、私たちをただ、神に向き直るよう人々を説得するだけで良かったのであり、イエスの死は必要なかった事でしょう。しかし、私たちはイエスが死ななければならなかったと知っています。ですからイエスは、皆さんが和解を得られるよう、皆さんに代わって罪の代価を支払わなければならなかったのです。そうではありませんか?


さて、パウロはこう述べています。「また和解の務めを私たちに与えて下さいました。」ですから、今私たちの仕事は、ある意味、人々がキリストに目を向けて、和解できるように、何をして下さったかを人々に知らせる事なのです。その節は新生の際に、新しいものが私たちの中に置かれたと告げています。私たちは自分自身のものではありません。実際に神ご自身によって造られた者であり、神は私たちの中に全く新しいものを置き、私たちを全く新しい者にされ、私たちの中の全てが、神のものであり、また神によるもので、神から来ているのです。今や皆さんの中で、皆さんから出ているものは何一つなく、それらは神のものです。神ご自身が、イエス・キリストによって私たちをご自身と和解させて下ったのであり、そしてイエスが持っておられたのと同じ務めを、私たちに与えられたのも、神ご自身です。それは人々を神と和解させ、再び神と一つにするという務めです。ここが重要な鍵です。今私たちが話しているのも、この事についてです。そして、ここでのセミナーを終える前に、その事について詳しくお話したいと思います。


皆さんは霊であり、魂を持っており、体の中で生きています(1テサロニケ5:23)。皆さんは男性でも、女性でも、人と呼ばれる、3つの異なる部分が一体となった存在です。創世の時、彼らは人と呼ばれました。すなわち、霊と魂と体です。さて、私たちが今ここで話しているのは、新生した時に生まれ変わったのは、皆さんの霊だけだという事です。霊は人の一部に過ぎません。それによって、新生が起こりました。今、かつてそこにいた古い皆さんはいなくなり、新しくなった皆さんは、今や神のものです。そして神は、ご自分を皆さんの中に置かれました。ですから、皆さんの中の全てが正しく、善であり、神と正しい関係にあるのです。さて、問題は、皆さんの思考が新しくなっていない事です。ですから、大切な鍵とは、霊と一致するように、思考を一新する事です。霊は常に神の言葉と一致しています。そこで、皆さんの体はただ、何をすべきかを教わり、訓練されなければならないだけです。体は基本的に、それ自体、心を持っているようなものですが、「感覚上の記憶」とも呼ぶべきもので、皆さんはこれまで、体が特定の行動を取るよう訓練されてきたのです。その体は、再訓練されなければなりません。


ここで気づいてほしいのは、霊と魂と体について話している時、私たちは救いと解放と癒しについても話しているという事です。私たちが永遠の命として捉えている救いは、厳密に言うと霊に関する事だからです。解放は魂の解放であり、癒しは体の解放です。人々はよくこんな事を言います。「皆さんは癒されました。イエスを受け入れた時、皆さんの霊は癒されたのです。」或いは、昨今ではこんな事さえ言います。「そうですね、皆さんには霊の癒しが必要です。」いいえ、皆さんの霊には何も悪い所はありません。新生したのなら、皆さんの霊は完全な状態です。キリストにあって完全なのです(へブル10:14、12:23)。それほど単純な事です。皆さんの霊には、何一つ手を施す必要がありません。皆さんの霊は癒しを必要としていませんでした。皆さんの霊は罪や違反行為にあって死んでいたのです(エペソ2:1)。そうでしょう?死人は癒しを必要としません。必要なのは蘇りです。ですから、皆さんは霊が癒されたのではなく、霊が蘇ったのです。


イエスが十字架に架かられたのがいつであれ、その時、皆さんも十字架にかかりました。イエスが埋葬された時、皆さんも埋葬されたのです(ローマ6:3-5)。また洗礼についても、ある程度同じような事を示している、象徴的な言葉があります。しかし、主が死から蘇られた時、皆さんも又、死から蘇りました。そして主が死から蘇られた瞬間に、皆さんに新生する機会が与えられたのです。言わば、主の命が皆さんの霊の中に入って、皆さんを造り替えてくれたようなものです。では2コリント5章19節です。「知りなさい。」これはKJV訳では「to wit」です。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせられませんでした。そして、和解の言葉を私たちに委ねられたのです(2コリント5:19)。」さて、この節が、神がキリストの内におられ、神と人とを和解させるという目的を果たす為に、イエスを通して働かれ、イエスと連携しておられた事を、私たちが知って(wit)いるべきであると言っている事に注目して下さい。また、それを既になされた、つまり神と人との和解の言葉を私たちに委ね、割り当て、私たちの管理下に置かれたのは、神であると言っています。


20節でパウロはこう言っています。「こういうわけで、」ここで彼が皆さんに、そこに至るまでの過程を思い起こさせているのが分かります。新生し、古いものが過ぎ去り、全てが新しくなりました。神はキリストの内におられ、今や主は、皆さんの内におられます。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。」聞きましたか?「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。」それは、皆さんの口から出る音が、まるで皆さんが話しかけている人々に向けて、神ご自身が発しておられる言葉のようだという事です。お分かりでしょうか?「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなた方に願います。神の和解を受け入れなさい。」ここから、私たちがキリストにあって使節、すなわち、キリストの法的代理人として、正式な使命を帯びて派遣された使者である事、そして神が私たちを、神と和解するよう、人々に文字通り乞い求め、嘆願し、呼びかける為に用いられる事が分かります。そして今私たちは、キリストに代わって嘆願しているのです。21節です。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは私たちが、この方にあって、神の義となる為です。」(注:英語では「神の義とされる(made)」とあります)この「される」という言葉に注目して下さい。


イザヤ書を開いて下さい。54章を読みましょう。ここでは、二、三の箇所にしか触れません。イザヤ54章14節にはこうあります。「あなたは義によって堅く立ち、虐げから遠ざかれ。恐れる事はない。恐れから遠ざかれ。それが近づく事はない。」ここで言われている事が、お分かりでしょうか?皆さんが義によって堅く立つと言っているのです。そして義によって堅く立つ時、虐げから遠ざかると。聞きましたか?要するに、義によって堅く立つならば、虐げから遠ざかると言う事です。別の言い方をすれば、義によって堅く立つと同時に、虐げを受ける事はあり得ないと言う事です。いいですか、全てを知っている必要はないのです。ただ二、三の事を知っていれば、それが皆さんの中で爆発的なインパクトを与えるでしょう。この新約聖書の中には、リバイバルや、わくわくさせるような物事や、建物といった事については、何一つ書かれていないからです。実際、新約聖書の中で一番リバイバルを説いているのに近い箇所は、パウロが次のように言っている箇所です。「義に対して目を覚ましていなさい(正しい訳)(1コリント15:34)。」パウロは、それこそが人々の問題であると言っているのです。堕落し、神に対して心が冷えている事が。それは義を理解していないからです。自分に何が起こったのか分かっていません。それが分かっているなら、つまり自分がキリストにあって、神の義とされた事が分かっており、それがどういうものであるかが分かる程度にまで、それに対して目を覚ましているなら…。堕落ですって?冗談でしょう。堕落する理由などあるでしょうか? 何もありません。何故でしょう?もうそこにいないからです。生きているのはもはや皆さんではなく、キリストが皆さんの中に生きておられるのです(ガラテヤ2:20)。皆さんは死んでいるのです。古い皆さんはいなくなりました。そして、自分が誰であるかに気づき始めるのです。新約聖書のメッセージ全体、新約聖書の全目的が、私たちがキリストにあって、神の義とされている事であると、覚えていなければなりません。


それでパウロは、こう述べています。「義に対して目を覚ましていなさい。」この義が全てなのです。そしてこうも言っています。「義によって堅く立つ時、皆さんは虐げから遠ざかる。」この義ゆえに、悪魔は皆さんに触れる事もできないという事です。皆さんが義の中にいるからです。皆さんはそれに包まれています。さて、ここで主が次のように言われている事に注目して下さい。「あなたは恐れる事はない(イザヤ54:14)。」それにどんな効果があるか分かりましたか?何故恐れないのでしょう?それは、正しい人は若獅子のように頼もしいからです(箴言28:1)。つい先ほども、第1ヨハネで読みませんでしたか?「この事によって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、裁きの日にも大胆さを持つ事ができる為です(1ヨハネ4:17)。」何故、私たちは大胆さを持つのでしょう? それは恐れないからです。恐れと大胆さが共存する事はできません。大胆であるか、恐れているか、二つの内のどちらかなのです。お分かりでしょうか?「しかし正しい人は若獅子のように頼もしい。」そして彼は言います。「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかるでしょう。」何故でしょう?「あなたは恐れないからです。」それが理由です。虐げは近づきません。何故でしょう? 皆さんが恐れないからです。そして虐げから遠ざかるのです。何故でしょう?「それは近づく事がない」からです。聞きましたか?私がただ皆さんに言葉を読んで聞かせているだけだと思っている人も大勢いるでしょうが、これらはただの言葉ではなく約束です。これらは霊の世界の事実であり、現実であり、皆さんがそれに目を留めて、それに同意しようと決意し、それが霊の世界の事実であると言ったその瞬間に、実際に起こっているのです。これが霊の世界の「本来の私たち」であり、それによって突然に霊にあるものが、物質の世界にもたらされます。それを信仰から事実にするには、信じる心です。信じてこそ、霊のものが目に見える形で現れるのです。そうではありませんか?


皆さんはそのような存在なのです。さて、よく聞いて下さい。主は言われます。「見よ、攻め寄せる者があっても、それは私から出たものではない(イザヤ54:15)。」聞きましたか?「神よ、何故こんな事をされたのです?」と言う必要はありません。恐れ、虐げ、怖いもの…「それらが攻め寄せて、あなたを狙っても、成功しないだろう。私がそれらをもたらしているのではないからだ。」主がそう言われている事が分かりますか?ローマ人への手紙には何と書いてあるでしょう?「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対し、害をもたらせるでしょうか(ローマ8:31)。」誰が私たちに敵対できるでしょう? 私たちには神がついておられるのですから、神が味方であられるなら、敵である悪魔が自分たちに何一つ手出しできない事に気づかなければなりません。いいですか、敵は、皆さんができると信じている事しかできないのです。敵が自分に触れる事ができると信じるのをやめるなら、敵はもう皆さんに触れられなくなります。皆さんが神の守りを信じ、神の御言葉を信じているならば。とは言え、世俗的なものを追い求めている人が「いや、私は自分が触れられると信じませんよ」と言う事とは違います。敵が皆さんに触れられないのは、皆さんが信じているからというだけではなく、皆さんが義とされたという事実によるのです。しかし、義人の中にも、敵に触れられている人々が大勢いる事に、気づいているでしょうか。何故でしょう?それは彼らが、自分が触れる事のできない存在であると信じていないからです。いったん義とされたなら、キリストの中に置かれるなら、全てが変わります。問題は、キリストの中に入った時、皆さんは全てが変わると教えられ、それを聞いておきながら、全ての恐れや自我や疑いといった、あらゆるものを引っさげてくる事です。自分のあらゆる罪さえも。そしてこう言います。「私の罪は赦された。」しかし、まだ自分のした事を思い出すのです。自分のした事を思い出す限り、悪魔はやって来て皆さんの耳にささやきかけ、ある考えを吹き込もうとします。


肉の思いは死であると言われている事に気づいていますか?(ローマ8:6)言い換えると、肉的な事で頭が一杯で、話し方や生き方や行動までも、それに左右されてしまうほど、そればかり気にかけている状態の事です。そのようにしている限り、肉の思いは死なのです。私たちの武器は肉のものではありません(2コリント10:4)。いいですか、肉の思いを抱く事は死ですが、私たちの武器は肉のものではないのです。何故でしょう?それは悪魔の武器が肉的なものだからです。それらを用いて皆さんに、何か肉的な事を信じさせようとするのです。


道を歩いている時、悪魔が皆さんに突き刺す痛みの一撃を食らわせたとします。その時に、「ああ、癌になった時を思い出す。あの時も同じような痛みを感じた」と言ったとしたら、敵はそんな考えで皆さんを攻撃しています。「ああ、きっとまた癌かもしれない」と同意してしまえば、敵としては、それだけ十分なのです。敵は皆さんをそのような考えで攻撃し、そのような考えに皆さんを誘惑します。しかしイエスはこう言われました。「そういうわけだから、~と言って、心配するのをやめなさい…(マタイ6:31)。」では、皆さんはどうするでしょうか?実際に口に出すまでは、心配している事にはなりません。考えているだけなら、一方の耳から他方へと抜けて、出て行ってしまう事もあります。しかし、癌かもしれないというような思いを口に出すなら、そのような思いを抱いている事になるのです。そして、原因は他に幾らでもあり得るのに、その痛みが走った時に、悪魔は即座に皆さんの思考をこんな言葉で攻撃するでしょう。「あの時の癌が再発したんだ。」そしてそのような思いが、皆さんの脳裏をよぎるのです。聖書は私たちの戦いの武器は肉のものではないと言っています。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです(2コリント10:4-5)。」そしてその要塞とは、誤った思考や誤った教え、誤った教義の事であり、それらはどんどん積み重なって、今や害をもたらす要塞となり、皆さんはこれらのものを信じ始めるのです。聖句は私たちに、「全てのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」るよう説いています。「神の知恵に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き」なさいと。


そういうわけで、敵がする事とは、神の知識を否定し、神の御言葉に反するような思いを送る事です。皆さんは大抵の場合、口に出す事によってその考えを受け入れ、それを発言し始めます。「そうなんだ、癌になった時感じたような痛みを感じてね。それでちょっと、医者に診てもらいたいと考えているんだ。」そしてその「そうなんだ」という言葉により、要塞が築かれ始めます。そして驚くべき事に、それを野放しにして置くと、皆さんがテレビをつけた時、突然、何かの医薬の宣伝が流れてこう言います。「痛みがありますか?それは癌の兆候かもしれません。」皆さんは考えます。「そうだ、今日痛みを感じた。」それからそれをすっかり信じ込んでしまい、他のあらゆる人々の証言が、耳に入って来ます。「ああ、私は普通に暮らしていました。何もかも順調だったのです。ところが脇腹に痛みを感じて、あっという間に死の床に直行です。」そして、他にもあらゆる話が聞こえてくる事でしょう。これらは実際、少しずつ折り重なって、徐々に形成されてゆく要塞なのです。そして皆さんはそれらを受け入れます。「そうだな、自分もそうだ。」それによって、同意の力を発動させているのです。二人がどんな事でも地上で心を合わせる(同意する)なら、それはキリストの内にあっての事でも、神の事柄以外についても実現します。皆さんはこれらの考えを受け入れ始めるのですが、肉の思いは死です。ですから敵の企みに引っかからないよう、この事を話しているのです。敵はただ入ってきて、皆さんを命を奪う事はできません。そうできたなら、皆さんは今頃死んでいるでしょう。ですから、敵がそうしていないという事は、皆さんの同意を得る必要があるという証拠なのです。


エデンの園で、敵がエバに「さあ、これを食べなさい」と言わなかった事に気づいているでしょう。そこでエバが、「まあ、そう言うなら」となったわけではありません。敵は彼女を誘惑してこう言ったのです。「神は本当にそう言われたのですか? 本当にそのような事を?」それが敵の常套手段です。今日では、皆さんにこんな風に言います。「神は本当に信者たちが病人に手を置けば、と言われたのですか?本当にそういう意味で言われたのでしょうか?」そして皆さんに、疑わせようとします。そこで皆さんを弱める事ができるなら、さらに引き下げる事ができると知っているからです。敵は、今日や明日の事など考えていません。来週や来月や来年の事を考えているのです。そしてどんどん、皆さんを弱めていこうと、働きかけるのです。皆さんを鈍感にし、弱めてしまう事が、この世の娯楽システムの目的です。それが唯一の目的です。それらは、神を敬わないあらゆる思想を持ち込み、最も効果的な方法です。罪深い行為を扱ったドラマを放映するなら、まだそれに抵抗を感じる人々もおり、あまりに強烈すぎると、視聴者は見るのをやめてしまうでしょう。しかし、彼らがホームコメディーにそれを織り込んで、笑い事にし、冗談にしてしまうなら、皆さんはただ笑ってそれを見続け、番組の間中、そこに座ってこう考えるでしょう。「ああ、あれはひどいな。ハハハハ。」そしてそのようにして、ただそれを自分の中に取り入れているのです。そして間もなく、ひどく嫌悪すべきものとは感じなくなる程度にまで、弱められてしまいます。「ああいうのは、ただ…面白いだけじゃないか」と。そして神の目を通してではなく、それを違った目で見るようになるのです。自分と同じ種を世に送り出したり、成果を生み出す事ができないどんな歩みも神に栄光を帰す事はなく、神のものではありません。そうでしょう?それが最初の命令だったのですから。「生めよ。ふえよ。地を満たせ(創世記1:28)。」そうではありませんか?それらを見て私たちは笑い、別に構わないと感じます。それを笑い飛ばしてしまうなら、次には強く迫り、皆さんはそれを受け入れざるを得なくなります。最初に拒む事をしなかったからです。それが娯楽システムの目的です。それは楽しませるためではなく、洗脳を施すための宣伝行為なのです。そして皆さんを洗脳している教義はこの世の教義であって、神のものではありません。


またイザヤ書(54章)に戻りましょう。この15節で、神はこう言われています。「見よ。攻め寄せる者があっても、それは私から出たものではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。」見て下さい。神は、ご自分の管理下にあるものをいかに世話されるかを話しておられます。人々はこの聖句を、「見なさい、これが本来私が意図した姿である。それが本来あるべき姿である」という言い方に見いだすでしょう。神はただ、「見なさい。私は自分が造った地球の責任を取る。たとえ人が堕落しても」と言っておられるのです。人が堕落した事は、驚きではありませんか?神はその時、去ったりはされませんでした。こんな風に言う事もおできになったでしょう。「いいや。それは私の計画した事ではない。そんな事は意図していなかった。あなたが私の計画を成就しなかったから、私は代わりにどうすればいいだろう?」神はただ歩き去って、このように言う事もおできになりました。「よし、プランBでいこう。ここにもう一つ地球を造り、何か他の事をしよう。」神は容易にそうする事がおできになったはずです。神なのですから。そうでしょう?


けれども、良き父であられる神は、子どもを生み出した後にそこから去ったりはされません。どんなに長くかかろうと、状況を修復する為に必要な事は何でもするという責任を負っておられるのです。いいですか、もし皆さんの子どもが誰かの家の窓に石を投げたら、誰がガラス代を弁償するでしょう?神様の場合も同じです。人の堕落ゆえに、これら全ての事が地上に起こり始めました。人々は言います。「はて、何故この人は生まれつきこんな風なのでしょう?」それは私たちが、堕落した世界に暮らしているからです。それには疑いの余地がありません。何故人々は盗みを働いたり、一生の大半を死にそうな体で過ごすのでしょう?それは私たちが、堕落した世界に住んでいるからです。人々は言います。「何故こんな病気にかかるのでしょう?」しかし私たちは、それら全てを霊的に捉えたがり、彼らが死んだり病気になるなら、それは罪を犯したからだと言います。そうではありません。それは皆さんが、邪悪な人々が大半の世界体制を、世の中の仕組みを支配している世界に住んでいるからです(1ヨハネ5:19)。そして病原菌その他のあらゆるものが、空気中に漂っていますが、それは神のせいではありません。神はそれを考案されませんでした。けれども私たちは、自分たちがこのような世界に暮らしている事に、気づかなければなりません。この世は暗闇に包まれています。私たちの仕事は光となる事です。私たちの仕事とは、このような光となり、暗闇を一掃する事です。私たちは、行く所どこでも、暗闇のある所どこでも、光をもたらすべきです。そうでしょう?皆さんが行う全ての事において、天の御国を反映するのです。実際私たちの仕事は、天の御国で生きる事が、どのようなものであるかを示す事です。それは私たちが、癒してもらう側の人になるべきではないという事です。どういう事か分かりますか?私たちが神について語っている時に、人々の目に映るものこそが、神がどんな方であるかを表しているという事です。神のようなお方は、他に一つも存在しません。神は何でもおできになります。神は全能であられます。私たちの神はそのようなお方です。それが人々の目に、どのように映るか分かりますか? 私たちはこれまで殆どの地域に対して、良い宣伝となっていませんでした。


いつも人々にこう話しています。「この国には色々な車があるけれど、私は決してレクサスに乗っている人からベンツを買わない。」どういう事か分かりますか?相手が信用できないからです。ベンツを売るつもりなら、その人はベンツに乗っているべきです。お分かりでしょうか?通常皆さんは、自社の製品を使いもしない人から物を買いません。「ああ、これは市場でも最高の車ですよ。」「本当に?ところであなたの車は?」「ええと、私のはあちらです。」お分かりでしょうか?私たちは神の広告にならなければなりません。さて、そのように、命であられる神の広告となるつもりであれば、神の命を宿している必要があります。そうでしょう?病気であったり、死にかけていてはいけないのです。皆さんは言います。「いいでしょう。それは分かりますが、私は今病気で、死にかけているのです。」教会は、これまでずっとそんな風でした。私の仕事の一つは、教会を成長させて、神の命の内に歩めるようにする事です。私たちは、神による健康の内に歩むのです。病気にかかっている側の人にならないように。皆さんは尋ねます。「それではあなたは、決して病気にかからないのですか?」これまで何度か病気にかかった事はありますが、今は以前よりも、ずっと少なくなりました。そして実をいうと、病気になりそうな時は、大抵、自分でもそうと分かるのであり、その45分後には、本当にかかっています。病気と二日ほど戦っていた事もあるので、これまで一度も病気になった事がないと言っているのではありません。実際にそういう事が起こったからです。最近は、病気になっていません。かかったとしても、しばらくすると治り、大抵は神によって健康に保たれています。それは実際、神の保護に他なりません。これまで私は、感染性であれ非感染性であれ、ありとあらゆる病気や疾患を持った人に触ってきたからです。全員病気にかかっている部屋に居た事もあります。私は彼らが呼吸しているのと同じ空気を呼吸していましたが、病気を移されませんでした。何故でしょう? 移される為ではなく、その病気を消滅させる為に行ったからです。そうでしょう?


いいですか、イエスの人生もそんな風でした。イエスもそのように生活されたのです。ジョン・レイクもそのように生活しました。様々な人々がそのように生活しました。しかし、一人の平均的な人間の証言だけに基づいて判断する事はできません。もし私が、「聞いて下さい。私は1984年頃から概ねずっと、神の健康の内に生きて来ました」と言ったとしたら、それは事実です。その通りなのですから。しかし同時に、それを信仰の拠り所とすべきではありません。人の経験は決して、信仰の拠り所となってはならないのです。そのようにしているなら、決して前の世代以上に進歩を遂げる事はできません。常にそれらに目を留め、それらに照合しようとするからです。聖書こそが私たちの基準です。そうではありませんか?


さて、神はこのイザヤ54章で、次のように言われています。また戻りましょう。17節です。「あなたを攻める為に作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、裁きの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、私から受ける彼らの義である。――主の御告げ。――」 聞きましたか? 皆さんの義は神によって与えられるのであり、自分自身から出たものではありません。それは皆さんとは何の関係もないのです。しかしだからといって、出て行って世の人々のように生きるべきだというのではありません。私たちは自分たちが説いている事に、まず自分自身があずかっているべきなのです。御霊を持っているなら、皆さんの人生は少なくとも神聖さの方向に動いているべきであり、反対方向に動いているべきではありません。新生の時、皆さんは御霊によって新しく生まれ変わります。この世の霊によって生まれ変わったのではありません。こんな風に言う事はできないのです。「ああ、今なら他の全ての人のように罪を犯しても、赦してもらえる。」いいえ、そうではありません。今もなお、罪の支払う報酬が死である事に変わりはありません。それほど単純な事です。


さて、人はその生き方を見ていると、本当に新生したかどうかが分かるものです。問題は、殆どの人々にとって、自分が本当に新生したのかどうかの境界線が、かなりあやふやになってきているという事です。「私は通路を歩いて行って、手を握りました。そして祈りを唱えました。」とある人は言いますが、大切なのは、祈りを唱える事ではありません。イエスは言われました。「あなたは口先では私を敬うが、その心は、私から遠く離れている。」祈る事ではなく、人生の変化について私は話しているのです。ですから、好き放題に生きろと言っているのではありません。違います。言っておきますが、私は好きなように生きています。しかし、私は御霊を持っているので、清い生き方をしたいのです。そしてそれこそが私の「好きな生き方」なのです。過ちを犯さないというわけではありませんが、つまずき倒れても、過ちを犯しても、そのままではいないという事です。そのままでいたせいで、実に大勢のクリスチャンが駄目になってしまいました。彼らはそれが気に入らなかったのです。「過ちを犯しておきながら、どうやってまた立ち直って、進み続ける事ができるのですか?」それは私が聖書の言葉を信じているからです。そして過ちを犯したなら、最善の方法は、神の方に向き直り、聖書に書かれているような清めを受け入れ、真っ直ぐに歩む事です。そして自分がそれを信じていると証明する最善の方法は、その後即座に、一度も罪を犯した事がない人のように振る舞う事です。罪が清められたと知っているがゆえに、それらの罪が一度も犯されなかったかのように振る舞うのです。その後にできる最善の事は、祈ってあげられる誰かを、即座に見つけに行く事です。即座にです。義に対して目を覚ましていない限り、そのような事はできないからです。まだ罪の意識を感じていたなら、人々の為に祈ったりはしないでしょう。ですから、清められ、義とされ、正しい生活をしましょう。簡単な事です。大抵の人が正しい生活を送らない最大の理由は、そうしたくないからです。それを望んでいないのです。自由にやりたいし、イエスを火災保険の代わりにしたいのです。しかし主は、その為に来られたのではありません。皆さんに命を与える為に来られたのであり、主が火災保険よりはるかに良いのです。そしてその命は、一歩踏み出せば直ぐそこにあります。


正直言って、今でも私が分け合うのをためらってしまう事が幾つかあります。「新しい人セミナー」をしている今でさえも。中には話しにくい事柄があり、それにはわけがあります。長い事。フォルクス・ワーゲンをベンツだと教え込まれていて、その後に誰かが来て、こう言ったらどうでしょう。「それはベンツではないよ。」皆さんは最初、こんな風に言うでしょう。「馬鹿言うな。それがベンツだって知ってるよ。パパが教えてくれたんだから。おじいちゃんも、僕が生まれてからずっとそう教えてくれた。それはベンツに決まってる。ああ、VWはベンツのドイツ語表記なんだ。それはベンツの事なんだよ。」違います。彼らに真実を言わざるを得ません。「残念だけど、そうじゃないんだ。それは真実じゃない」と。それを言うのは、時に辛いものです。何故なら人々は…。聞いて下さい、十中八九そうだと思いますが、皆さんはこれまでに一度も、クリスチャン生活を送っている人を見た事がないでしょう。罪を赦されて生きている人を見た事はあるかもしれませんが、クリスチャン生活を送っている人は、恐らく見た事がないはずです。


クリスチャン生活とは、新しい創造物として生きる事です。さて、皆さんがこれまでで一番その姿に近づいたのは、福音書を読んでいる時でした。何故なら、この地上を歩んでおられた時のイエスは、神の霊に満たされて、何の罪悪感も劣等感も抱かずに、完全な自由と、父なる神の愛への完全な信頼の内に歩む神の子どもの姿を、最も身近な形で表しているからです。けれども大抵の場合、皆さんはそれを分かっていません。皆さんは人々が宗教的に生き、宗教の制限内に留まろうと苦労しているのを見ます。ここにやって来たなら、二つの内どちらかが起こると確信しているからです。つまり、神に捕まってしまうか、悪魔に捕まってしまうかのどちらかであると(笑)。それが皆さんの見方です。そうではありませんか? 私は、主から与えられた務めを果たし、主が示された事を行うよう召されているので、願わくはそんなにも長くかからないよう、今よりも速いペースで、本題まで進めていく事ができると思います。そして今お話しているこれらの事は、皆さんをそこに向けて備える準備段階なのです。これらの書簡、特にパウロによる書簡の中の神の御言葉は、実に驚異的な言葉だからです。そこから、ほんの基本的な事柄について少しお話しましょう。


私たちは、神が驚くべき神であられる事についてお話しました。その通りではありませんか? 何といっても、神なのですから。そうでしょう?神のような方は、他におられません。誰一人として。そうですね?そしてその驚異的な点とは?私たちに神が見えるという事です。考えてもみて下さい。私たちは神ご自身についてお話しているのです。父と子と聖霊からなる、三位一体の神全体について。それら3つをまとめにして扱いましょう。その神は、今私たちの目に映る全てのものを創造されました。そうですね?山々や、全てのものを神が造られたのです。そして驚異的なのは、神がこれらのものを、ただ言葉を語る事によってお造りになったという点です。神がお語りになると、それらが存在するに至ったのです。神は言われました。「光あれ。」すると光がありました。あらゆる事が起こっていました。あらゆる事が。神がこれら全てをされたのです。天地を造られた神が、私たちの目に見える全てのものを造られました。これまでに起こった全ての奇跡をなされたのもまた、それと同じ神です。蘇った全ての死人も、神によって蘇ったのです。そうでしょう?これまで死から蘇り、癒された人々の中で、神によってそうされたのではない人など、一人もいませんでした。ですから、神がそれら全てを取り仕切っておられるのです。