2019年1月31日木曜日

DHTT セッション1

*ここに紹介されているセミナーのセッションは、セミナーの中でカリー・ブレイク氏が語った全ての言葉を訳したものではありません。一部省略したものや訂正されたものがあります。省略したものは、教えの内容とは殆ど関係のない余談、各種のアナウンスや祈りなどがあります。訂正されたものには、同じ言葉の繰り返しや、遠回しな表現を簡潔に言い換えたものがあります。このDHTT(神癒技術者訓練)セミナーの完全版は、www.divinehealing.jp にて読む事ができます。


DHTT セミナー  2006年アメリカミネソタ州ダルース市にて


ある人々には、DHT(神癒技術者)の訓練は少し受け入れにくいかもしれません。何故なら、これから教える訓練はとても好戦的だからです。「好戦的になる」という事は「大胆になる」という事です。乱暴になるのではなく大胆になるのです。乱暴になる事は聖書的ではありません。しかし、大胆になればなる程、より好戦的になります。そして、好戦的になればなる程、より癒しが起きます。私はイエスが戦士である事を学びました。一般に、私達が抱くイエスのイメージは弱々しいものになっています。多くの教会は、子羊としてのイエスが再び戻って来るのを待っていますが、イエスは子羊としては戻って来ません。彼は鉄の杖を持って、戦士として支配する為に戻って来ます。私達は彼が現われた時には、彼に似た者になると聖書は言っています。それなので、私達は戦士になります。単純ですね。癒しについて学んだ事のある人はご存知の様に、出エジプト記15:26には神様が癒し主である事が書いてあります。しかし、同じ出エジプト記の15:3で、「主はいくさびとである」と書いてあるのを知っているでしょうか?ある聖書の訳では「主は戦う者」です。私達が理解しなければいけない事の一つは、イエスのした事は始めから終わりまで戦いだった事です。彼の行った癒しは戦いでした。それは神の国が暗闇の王国を攻めたものでした。私達が学んできた事は、私達が好戦的になればなる程、戦士の様になり、より癒しの結果が出ます。私が伝えたい戦士のイメージを説明する為に、少し私の経験をシェアしたいと思います。ある集会で一人の赤ちゃんがいました。その両親と話していて、その子を抱いても良いかと尋ねました。彼らは「いいですよ」と言ったので、その子を抱きました。私がその子を抱いている間に、その子は寝てしまいました。そうこうしていると、説教をする為に戻る時間になりました。その子をどこかにおいて寝かせようとすると泣き出したので、私はその子を抱いたまま歩きながら、45分間の間、教えました。その後に私は神と話しました。「どこまで、私はこの様に好戦的なスタイルで教えるべきでしょうか?どこまで、その様な強い姿勢で教える事ができますか?」私は、普段は幻などを与えられる人ではありませんが、主は私に一瞬幻を見せてくれました。

それは、主が私にどこまでそのスタイルを持って進んで欲しいかについてでした。どの様に、キリストの福音を宣べ伝えて欲しいかについてでした。神が私に与えた戦士のイメージは、片手には剣を持ち、もう片方の腕では赤ん坊を抱きかかえているというものです。主は「バランスを保ちなさい。そのバランスとは誰も傷つけないで、赤ん坊を抱きかかえる事ができるくらいに柔軟であり、それでもって剣を自由に振り回す事ができるものです」と私に言いました。それ以来、私はそのバランスを保とうと苦労して来ました。私の話を聞いて、そのバランスを見る事ができる事を願います。では、まず私達がどの様にしてミニストリーを始めたかについて話したいと思います。多くの人々が、私達がどの様にしてジョン・G・レイクミニストリーを知り、それを引き継いだのかを知りたがります。このミニストリーは 1987年にレイク氏の娘の夫、ウィルフォード・レイドから渡されました。その当時に彼と関わっていた多くの人々は、ジョン・G・レイクミニストリーが私達に渡された事を気に入りませんでした。そのうちの何人かはそれについて議論しようとしましたが、私達にミニストリーが渡されたのはレイク氏の預言があったからです。その預言は彼の死後、彼のミニストリーを受け継いで続けていく人についてでした。ところで、もし私達の集会に来た事がある人やメッセージなどを聞いた事がある人は、私はレイク氏の油注ぎを主張しないと知っていると思います。それを主張しない理由は、私はそれを欲しいと思わないからです。それが第一の理由です。次に、私はそれを必要としないからです。私はイエス・キリストの油注ぎを持っています。彼の油注ぎは、誰の油注ぎにも勝っています。ある人々はレイク氏が住んでいた家を訪れます。彼の家は未だに残っていますが、それは何度も売られたり買われたりしてきました。その家の中を歩いて、木の板などをこすって、ジョン・G・レイクがそこにいた頃から残っている油注ぎを取ろうとする人達もいます。それは馬鹿馬鹿しい事です。ジョン・G・レイクの後にも他の人がその家に住んでいたのです。だから油注ぎがあったとしても、どの様な油注ぎを得るか分からないでしょう。私は油注ぎに焦点をおき、それを強調はする事はしません。むしろ、責任を強調したいと思います。虐げられている人達を自由にする為の責任を強調します。何故かというと、もし私が行う癒しが特別な油注ぎによるものなら、皆さんは私と同じ事はできません。しかし、私は信仰と神の言葉によって癒しを行っているので、皆さんも同じ事をする事ができます。私にとって祝福だったのは、数年間レスター・サムラル氏のもとで学べた事です。サムラル氏はりんごの木がりんごの木であると知る為には、名札や肩書きは要らないと言いました。では、どの様にしてりんごの木が、りんごの木であるのを知る事ができるのでしょうか?その木の実を見れば一目瞭然です。多くの人々は、肩書きを付けて歩きます。ダラスにいる時に、友人がやって来て言いました。「カリー、私と一緒に来て下さい。預言の集会があります。一緒に行きましょう。」私は彼の誘いに同意して、ハイキングシューズとジーンズをはいて、セーターを着てその集会に行きました。人々に好印象を与える為のドレスアップはしませんでした。

その集会には、私の車よりも高価なスーツを着ている人達がいました。彼らの胸には「預言者~、使徒~」という様な肩書きがありました。ある人が私に握手して言いました。「私は預言者~です。あなたの名前は何ですか?」私は彼の顔を見て言いました。「もしあなたが本当に預言者なら、私の名前を当てる事ができるでしょう。」私の友人はそれを気に入らなかったようです。彼がこう言ったのを覚えています。「カリー、お前とは何処にも行けないよ。」私が興味があるのは、肩書きよりも実力です。誰でも名札をつける事はできますが、神の御霊は実を実らせます。私達は、よく教会でもてはやされる油注ぎについては細かく教えません。私は責任について語ります。私は誰かに手を置いて何かを分け与えるような事はしません。何故なら、私はもう既に皆さんが持っているものを与える事ができないからです。これから私のしようとする事は、全てイエスを信じる皆さんが既に持っているものが何であるかを気付かせる事です。油注ぎを売ろうとする人も沢山います。私はそんな事はしません。ある人は、何故私がこんな事を最初に話しているのかと疑問に思うでしょう。それは、皆さんが時間を無駄にして欲しくないからです。もし、私の話している事が気に入らないなら、無理にこの訓練を受ける必要はありません。私は神の御言葉を求め、それを実行し、捕らわれている人を自由にする人を捜しています。新しい組織やプログラムには興味はありません。どれだけ私達は、それらの為に気が散らされたり横にそれたりしてしまっている事でしょう。実際そんなものは全く重要ではないのです。それらは全て私達を高ぶらせて、自分は誰か特別でもないのに、特別な人の様に思わせたりします。


聖書は言っています。賜物を持っていると言って誇っていても、それを実際に持っていない人は雨を降らさない、雲や風のようだと。誰でも舞台に立って上手い話をして聴衆の反響を起こす事はできます。しかし、実際には雨だけが命を生むのです。誰でも口先だけの人にはなれますが、その人は本当に実を結ぶでしょうか?それが重要な事です。ジョン・G・レイクはよく、神の人は自分の意志によって、いつでも、どこでも、神の御霊の力を現す事ができるべきだと言いました。私はよく人々が「私は神が現われるまで、座って待ちます」と言うのを聞きます。そんな人にお知らせがあります。神は彼らが待つ前から彼らの内にいます。イエスは、癒しを行う上での失敗の理由は2つしかないと教えています。一つ目は不信仰で、もう一つは人による言い伝えです。多くの人が、何故、癒しを受取る事ができないのかと考えます。答えは簡単です。私達自身が、癒しには障害があると信じているからです。私達は人生の中で罪があっても癒されます。それは私が経験済みです。又、私達が罪を犯していても他の人を癒す事もできます。よく、どの様な癒しの方法が一番良いかと質問されます。答えは、あなたが信じる方法が一番良いのです。私も以前は油注ぎについて勉強していました。他の人々が油注ぎにとても重点を置いているのを聞いていたからです。彼らはよく言いました。「その分野の油注ぎは私にはありません。」 

私がサムラル氏と一緒にいる時に、スミス・ウィグルワースについての幾つかの話を聞きました。そのうちの幾つかの話の中で、彼は病人を癒す為に病人にパンチをしたという事です。時には彼は人々を蹴りました。彼は一度、赤ん坊を講壇から蹴り落としました。人々がその子を受け止めた時には、その子は癒されていました。こういう話を聞いて多くの人は言います。「彼の油注ぎは特別なものでした。」いいえ、違います。それらの方法は、彼が信仰を持っていた癒しの方法でした。ある人は、「では、どの様にして彼みたいに、そんな暴力的な方法の信仰を持てるんですか?」と聞きます。それは、彼が若い頃に盲腸炎を患っていた話から来ています。ある女性と男性がスミス・ウィグルワースの為に祈っている間に、突然、その男性はウィグルワースの腹を、盲腸のある所を殴りました。そうしたら、彼は瞬間的に癒されました。それ以来、腹の病気や問題がある場合、彼はおなかを殴りました。そして病人は癒されました。それは油注ぎではありません。神は腹にパンチするようにウィグルワースの耳元でささやきはしませんでした。それは彼が信仰を持っていた方法でした。彼がパンチした時に彼は信仰を働かせて、力が解放され人々は癒されました。もし、その様な信仰を持っているならすばらしい事です。スミス・ウィグルワースの例は私達の思考、つまり、考え方の重要性について教えてくれます。この事については後でもっと詳しく話していきたいと思います。


セッションを教えていくにつれて、私の人柄についてもっと分かってくると思います。私がこの様に好戦的である理由は、今まで多くの人々が死んで行くのを見て来たからです。多くの病人を見て来ました。私自身の人生でもそうでした。私には血管腫を持って 1978年に生まれた娘がいました。血管腫とは、沢山の大きな血管から成る塊です。その腫瘍は私の拳の大きさでした。普通でなかった事は、今日に至るまでも彼女だけが唯一、舌に血管腫を持って生まれてきた子でした。その腫瘍は、まるで蛇の入った袋のようでした。血管が中に透けて見え、それらの血管は心臓の鼓動に反応して震えました。それは深い紫色でした。彼女が生まれた時、私達は驚きました。彼女が生まれる前には、それは彼女の舌にはありませんでした。彼女が生まれるまでは、全てが完璧でした。しかし彼女が生まれた瞬間、その腫瘍はそこにあったのです。彼女が生まれた時、彼女の舌は口から飛び出していました。彼女は舌を口の中に戻す事は出来ませんでした。それは見るにも酷いものでした。彼女は私達の娘だったので、もちろん愛していました。それでも、一般の人には、とても酷いものでした。私の妻の祖母は、彼女の舌を隠す事ができる、留め具のついた小さな帽子を作りました。それは彼女を公共の場でも、人々がじろじろ見ない為です。それでも、人々は彼女に眼をやりました。私達がモールに彼女を連れて歩いている時には、彼女はその帽子を取る時がありました。その時には、人々が反応するので分かりました。正直言うと、人々は時にはとても残酷になります。私達はいつも彼女の舌を潤していなければいけませんでした。もし舌が乾くと、それが割れて出血するからです。

医師は、彼女は病院を離れて5分も生きる事はできないと言いました。一度出血したら、全ての血液を失ってしまうからです。その当時、私達は田舎に住んでいました。彼女が成長するにつれて、歯は生えないだろうと思いましたが、歯は生えました。その歯は舌を切ってしまい、彼女は出血死してしまいそうになる事がよくありました。私達が朝起きた時には、彼女の部屋が血に染まっていました。それは歯が舌を切ってしまい、血を吐き出していたからです。私はあれだけ出血してまだ生きている人を見た事がありません。彼女を掴んで、タオルか何かを彼女の舌に当てて病院へ向かいました。その間ずっと異言で祈りました。病院に着く前にまだ傷の様なものは残っていましたが、血は止り癒されていました。3回程、この様な事がありました。腫瘍は小さくなっていましたが、決してそれを取り除く事はできませんでした。2歳3ヶ月になった途端に彼女は両方の肺の肺炎を発症しました。その晩、医師を呼んで何が起きているのか聞きました。彼は言いました。「心配しなくてもいいでしょう。恐らく、舌を噛んでいるのでしょう。熱を下げる為に、温度を低くしてあげて下さい。そうすれば良くなるでしょう。明日の朝に、病院まで連れて来て下さい。」しかし、次の日の朝に娘は亡くなりました。私は全ての著名なミニストリーに電話をしました。多くの人が知っている癒しで有名なミニストリーです。彼女が亡くなったのは1981年でした。私はそれらの人たち全てに電話しましたが、誰とも話す事さえできませんでした。彼女は1981年の2月13日に亡くなりました。私達は次の日に彼女を埋葬しました。彼女をすぐ埋葬した理由は、医師達はその腫瘍がどんな影響を及ぼすか分からなかったからです。その次の日、バレンタインデーにテキサス州のマッキニーに埋めました。それはダラスの北にあります。その時、私は墓の前に立って彼女の小さな白い棺桶が埋められるのを見ながら、神に誓いを立てました。私は言いました。「神よ。私が必要とした時には、助けてくれる人は誰もいませんでした。でも、もしあなたが私に教えてくれるなら、私は他の人たちの為にその様に助ける事ができる人になります。」その日以来、私は癒しをさらに学び求め始めました。私はその当時のベストな人達から学び、スミス・ウィグルワースやジョン・G・レイクといった人々を見つけました。スミス・ウィグルワースは興味深い人でした。何故なら、彼には奇跡や超自然的な現れ等があったからです。しかし、彼は決して自分と同じような弟子を生み出す事はしませんでした。癒しを学ぶにつれ、何事についてでも一番良く知っている人は、自分自身と同じような人を訓練して、輩出できる人だと気がつきました。それで、ジョン・G・レイクについて勉強し始めました。私は彼について見つけ出せる事は何でもしました。そして、彼の娘と娘の夫がまだ生きている事が分かりました。それがウィルフォードとガートルード・レイドです。実際、彼らはある程度はミニストリーを続けていました。私は終に彼らを見つけました。それから7年間の間、彼らとコンタクトを取り続けました。その7年間、毎週月曜日に電話をかけました。私はテキサス州のダラスに住んでいて、彼らはワシントン州のケナワックに住んでいました。私は、毎回質問のリストを作ってから電話をかけました。

私は質問をし、彼はできるだけ質問に答えてくれました。それから次回までに一週間かけて、それらの答えが聖書に沿っているかを調べました。週末までには、新しい質問のリストが出来上がっていました。この様に7年間電話し続けると、毎月の電話料は4万円分にもなりました。私の妻はそれを気に入りませんでした。私は彼女に言いました。「いつの日か、これは報われる。何故なら、いつの日か私は病人に手を置いて、そして、彼らは癒される様になる。その為にはこれは価値がある事なんだ。」私がそうして学ぶにつれ、彼はジョン・G・レイクの下で訓練された人々の名前のリストをくれました。彼ら全てを捜しましたが、多くの人は亡くなっていました。それでも、まだ生きている人達もいました。私は彼ら全員に連絡を取り、ビデオやレコーダーや電話を使って彼らに質問をしました。レイクの娘、ガートルードは1986年の11月に亡くなりました。ウィルフォードも、もう長くは生きないと私は知っていました。彼は妻を恋い慕っていたからです。1987年の6月までに彼は亡くなりました。1986年の11月から1987年6月の間に、彼は全てのものを私に託しました。彼は私の証しについて尋ねました。私は不思議に思いましたが、自分に起こった事を彼に話しました。私は1959年の4月に生まれて、1960年の9月に車に引かれました。父は私を見ないまま、車でバックしながら私を引いてしまいました。父は私を引いた後に、私が車の下で倒れているのを見つけました。私は動いていなかったので、彼は私が死んだと思いました。私の右耳は、はげ落ちてしまいました。その傷を今でも見る事はできます。その事故で、私の左耳の周りの頭皮は完全に剥げ落ちました。顔の前の頭皮はまるでマスクのようにめくれました。未だに傷は残っています。私の祖父は私と私の耳を抱えてトラックに載せて、病院へ行きました。手術は6時間かかり、合計172針縫いました。私の頭はバスケットボールの様に張れ上りました。彼らが手術を行っている間に、医師は度々出て来て報告しました。初めに彼が出て来た時に言いました。「望みはありません。彼は亡くなるでしょう。手の施しようがありません。彼を埋葬する為の心の準備をして下さい。」私の母は祈り、神に言いました。「彼はあなたの子です。彼をあなたに捧げます。もし彼を生かしてくれるなら、あなたの為に育てます。」それから、1時間半程経って医師は出てきて言いました。「彼は生きれそうです。脳への損傷が酷いので一生植物状態になるでしょう。望みはありません。」彼が手術に戻って行き、母は祈りました。「神様、これではまだ十分ではありません。もし彼を生かすのなら、普通にして下さい。」それから、彼はまた戻って手術を続けました。また1時間半して、医師は来て言いました。私は普通に生きる事ができたとしても、右耳は聞こえないし髪の毛も生えてこないだろうと言いました。しかし、その両方とも外れました。その当時、私の両親はとても若く、私をすぐに学校には送りたがりませんでした。母は欽定訳の聖書を使って私に教えました。何年もの間、父は警察官で夜に働きました。彼女は寝る前に私に本を読まないで、逆に、彼女が寝るまで、私が聖書を読むようにさせました。母はその様にして私に読む事を教えてくれました。 

私は冗談でよく言います。「私は7、8歳になってやっと、聖書で使われていた「汝」という単語が普段使われない事に気が付きました。」なので、子供の頃から、神は私の内に御言葉を蓄えていました。それによって、今では、時には自分では記憶した覚えもない聖書箇所を思い出す事ができます。私が車に引かれた日付は1960年の9月16日でした。私がウィルフォードにその証した時、それが何日かは知りませんでした。彼はそれが何日だったのか聞きました。私は言いました。「分かりません。」彼はその日にちを確かめるように言いました。私はそんな事誰も気にしないのにと思いました。母にその事故の日は何日だったかを聞くと、それは9月16日でした。それを聞いて、ウィルフォードは言いました。「そうだと思いました。」彼は言いました。「ジョン・G・レイクは1934年の5月24日にある預言をしました。」その預言は「彼の亡くなる日から25年後に、サタンはそのミニストリーを受け継ぐ人の命を奪おうとする」というものでした。レイク氏は1935年の9月16日に亡くなりました。それから25年後の1960年の9月16日に、サタンは私の命を奪おうとしました。それらは全て一致していました。ウィルフォードは言いました。「私達はあなたがその預言された人だと信じます。」私は彼の書いた手紙などを持っていますが、それにはこう書いてあります。「私達に連絡してきた全ての人達の中で、あなただけがどの様にミニストリーをするかについて聞きました。他の人達は、どの様にしてレイク氏の油注ぎを得る事が出来るのかを聞きましたが、あなたはミニストリーの本質を求めました。」彼は他にもレイク氏が言った事も検証して、私がその預言で示された人である事を確信しました。これがジョン・G・レイクのミニストリーが私達に渡された経緯です。ウィルフォードは私達に多くのレイク氏が持っていた手紙、文書、写真、日記、などをくれました。それらの幾つかを私達は初めて公に公開し始めました。彼がレイク氏から訓練を受けた人達のリストをくれた時に、それらのものをくれました。私は彼らに話を聞きました。1987年から1995年までの間、私は主に言いました。「私がレイク氏と同じ力と効果でミニストリーを行う事ができるようになるまで、ミニストリーは始めません。そうでないとミニストリーも絶えてしまいます。もし、私が彼と同じ結果を出す事ができないなら、ミニストリーを続けません。」何故なら、私はミニストリーを通して誰かの記念碑を建てて、レイク氏と同じ様な人生を歩もうとする事や、彼の過去の経験を通して生きたくはないからです。私の人生を通して神の御霊を働かせて下さい、私達はレイク氏と同じ結果を出す必要があります。そうでなければ、このミニストリーもすぐに衰えてしまいます。」神の御霊はどこでも、いつでも、どの様な状況下でも働きます。御霊が働く事ができる状況を私たちが準備する必要はありません。私の内にいる御霊は嵐の中でも、混乱の中でも、全てが悪い方向に向かっている中でも働きます。神の御霊が働く為に、毎回何か適切な条件は必要はありません。もし、病人が目の前にいるなら御霊は働きます。何故なら、神は彼らの事を気遣っているからです。私達がまだスポーケンにいる間に、私は他の女性とも話しました。

彼女は1995年の時点で90歳くらいでした。彼女は神癒技術者の息子と結婚していました。レイク氏によって次々と癒しの結果が出てきて、人々が祈ってもらう為に押し寄せてきたので、彼は病人を癒す人々を訓練する必要がありました。彼は「神の癒しのしるし」というタイトルの教えで訓練しました。それは単純に聖書に戻って、御言葉の通りを実行するだけの事でした。数年後に、私はパーハム氏に会いに行き、彼女と話しました。当時、彼女は90歳でした。私は他の全ての人達にも質問したのと同じ質問をしました。もし、同じ質問を沢山の人達にして、数人から同じ答えがでてくれば、それが真理である事が分かります。私はそれらの全ての質問をしましたが、彼女が質問に答えるのに面倒くさくなるまでに時間はかかりませんでした。彼女が私の質問にイライラしているのを見て取る事ができました。彼女は終に言いました。「あなたの質問はマニュアルがあれば全て答えられますよ。」私は言いました。「そう。ですけど、何処でそのマニュアルは手に入れる事ができるんですか?」彼女は言いました。「私は一つ持っています。」私は言いました。「本当ですか?読んでもいいですか?」彼女は言いました。「見てもいいし、読んでもいいですけど、私が死ぬまであなたにはあげません。」彼女は私とウィルフォードとガートルードとの関係の事を知っていました。私は言いました。「分かりました。」私はそのマニュアルを読んでメモを取らなければいけませんでした。彼女は1997年に亡くなるまでは、それを手放す事はしませんでした。そして、私達はマニュアルを手に入れました。私は驚かされました。それは、私が今まで学んで来たことを全く打ち壊しました。それについての全てが間違っていました。癒しが行われる方法も間違っていたし、癒しの為の前提も間違っていました。その時に、私は今まで学んできた事を全て捨てて、また一から癒しを学び直す決心をしました。レイク氏のマニュアルを勉強して、最初に私が変えた事は祈り方でした。神に向かって、癒してくれるように話すのを辞めて、病気や患いに向かって私達のして欲しい事を命令するようにしました。聖書には、特に新約聖書には、どこにも癒しの為に神に向かって話している例はありません。一つもないのです。私達には大きな責任がある事を、この神癒技術者訓練の教えから学ぶと思います。私達は、霊的領域において警察と兵士の合体したような者であるべきです。病気、わざわいや悪霊、神の知識に逆らって立つあらゆるものは、私たちの敵です。そして私達の仕事はそれらの犯罪者を見つけ出して、打ち壊す事です。私達はそれらの犯罪者を見過ごして、それらを大目に見て、はびこらせる事ではありません。私達の仕事はただそれらを打ち壊して、真理を語る事です。まず、私は祈り方を変えました。お願いする事から命令する事に変えました。それによって、瞬く間に癒しの成功率が上がりました。マニュアルを学びつつ、私のしていた事を変えて行きました。祈り方を変えた後に、私は信じている事を変えました。何故なら、祈った時に得る結果は、私達がその時に信じている事だからです。もし、ゆっくりとした癒しを信じているなら、段階的な癒しが起きるでしょう。しかし、瞬間的な癒しを信じるなら、瞬間的な癒しが起きるでしょう。

もう一つ私が変えた事は、私は他人の信仰を見る事でした。イエスは時には他人の信仰を認める事もありましたが、決してそれに頼る事はしませんでした。他の人が信仰がない時は、イエスは彼らの為に信仰を持ちました。私がその事について学んだのは、レイク氏の話しからです。ある日、松葉杖をついている男の人がレイク氏の所にやって来ました。彼は言いました。「私は忠実なカトリックで、私の宗教の悪口は何も聞きたくありません。私は癒しの為に人にも、医者にも、神にも信仰はありません。私を助ける為に何ができますか?」普通、この様な事を聞くと、大半のクリスチャンは言うでしょう。「私にできる事は何もありません。あなたは癒される為には自分の信仰を持つ必要があります。」それが一般的な教えです。でもレイク氏の教えは違いました。彼は笑って言いました。「大丈夫です。私は私達2人の為に信仰があります。」そして立ち上がり、その男の隣へ行き、彼と話し始めました。彼はこの時の出来事を思い返して、書き残しています。「私は彼の為には祈りませんでした。私はただ命の御霊が私から彼へと流れ出て、彼の内にある病気や患いを追い払わせました。」その男はレイク氏が、そっと松葉杖を取ってしまった事にも気が付きませんでした。その男としばらく世間話をした後、「では、良い一日を」 と言って握手をして別れました。その男は振り返って歩き去りました。彼は癒されて、松葉杖なしでも歩いている事にも気が付きませんでした。病気や患いは神からのものではありません。病気や患いは私達の教訓の為に与えられるものではありません。私達を良い人にする為に与えられるものではありません。それらは私達を滅ぼす為のものです。クリスチャンよりも、大半の医者の方が神の心に近い心を持っています。それは、彼らの仕事が病気や患いを根絶する事だからです。大半のクリスチャンは病気を受け入れ、神は病気を使って私達の為になる何かを教えようとしていると考えます。病気による苦しみは私達を良くする事はありません。ただ病気や患いがそこにあるという証拠があるだけです。私達がプレッシャーを受ける時に、私達の内にあるものが表に出てきます。敵の攻撃に、どれだけ我慢して苦しみ続けられるかを見せる事によって、指揮官に栄光をもたらす兵士などいません。兵士は敵を征服する事によって指揮官に栄光を帰します。私達の仕事は敵を征服する事です。神に病気や患いの下で、どれだけ苦しみ続けられるかを見せる事ではありません。私達の困難や苦しみは病気であるべきではないのです。私達の経験する苦しみや困難は、福音を宣べ伝える事を選択する時に経験するものです。パウロはコリントの人達へこう言いました。「私は川の難、海上の難、偽兄弟の難、や盗賊の難に会いました。私は断食もしたし、むちでも打たれたし、殴られもしました」と言いました。これらの全ての困難は使徒として、神からの務めを受けて福音を宣べ伝える者である事を証明するものでした。パウロは「私の新しい車を見て下さい。神が私をどれだけ祝福しているか見て下さい。私の新しい家を見て下さい。私の新しいジェットスキーを見て下さい」とは言わないでしょう。私は、人々がこの様に言うのを聞いた事があります。「私は神が新しいジェットスキーを与えてくれると信じます。」

私は彼に言いました。「あなたがそのジェットスキーを火の海でも使える事を願います。恐らくそのジェットスキーの為の欲が導く所は火の海なので。」 私は、休暇には何をしますかとよく聞かれます。私の休暇は神の言葉を読むか、病人を癒す事です。私は休暇を取りません。何故なら、病気や患いは休暇を取らないからです。大半のクリスチャンはクリスマスの時期に2週間休みを取り、色々飾ったりして楽しみます。しかしその2週間の間にも、癌は人々の体をむしばみ続けます。クリスマスの後に戻ってくると、2週間不在の間に癌はその人の体を蝕んでいるので、本当に神に対して真剣になる必要あります。しかし、その病人はもう瀕死の状態です。皆さんが理解するべきもう一つの事は、私たちの教えが単なる癒しのセミナーではない事です。これは生きるか死ぬかについてです。人々の生と死は私達がこれから学ぶ事とによって左右されます。一度あなたが手を置いた人は、死ななくても済み、手を置かなかった人は死ぬという事を本当に理解した時、自分の手を今までとは違った視点で見ると思います。そうしたら、もう油注ぎについて話す事はなくなり、むしろ神にこう言うでしょう。「神様、あなたが私をもっと用いる事ができると見せて下さい。私の邪魔をしている罪を見せて下さい。私がもっと早く競争を走る為に、その罪を見せて下さい。それらを取り除きます。今何が一番重要なのかを見せて下さい。」 今日の教会が持っている小細工は長くは持ちません。新しい流行が来ると、それらは廃れて人々は新しい流行に移ります。その繰り返しです。多くの人がその様に考えます。多くの教会は新しい本や、流行を追い求めています。私はいつもその様な人々にこう言います。「大半の教会は神の御霊ではなく出版会社に導かれています。」何か新しい本が出てくると教会はそれに飛び乗りますが、それが流行るのは次の流行がやって来るまでです。もしあなたが癒しをこう考えているなら、時間を全く無駄にしています。何故なら癒しは生きるか、死ぬかについてだからです。癒しは新しい流行ではありません。何か聞こえの良いものではありません。癒しは手品の様なものではありません。癒しは指を鳴らすだけで起こるものでもありません。あなたが有名になるという為ではありません。癒しを行っていくとは、こういう事です。例えば、朝の2時や3時に電話がかかって、最初の10分はその人をなだめます。彼らは泣き叫んでいるからです。彼らの赤ちゃんが突然死にかけているか、死んだからです。過去の10年間で、恐らく私の睡眠時間は合計30日以下です。私の電話は四六時中、鳴るようになっています。もし、誰かが非常時の番号に電話をかけて緊急時ボタンを押すと、私の電話にかかるようになっています。それは私が決めた事でした。私の電話番号はいつも電話帳に載っています。私は集会に行って、誰かが、「私は墓を作らなければなりませんでした。それはあなたに連絡を取る事ができなかったからです」と言うのは聞きたくないと決心したからです。私はその様な経験がどの様なものかを知っています。それは私も同じような経験をしたからです。私はいつでも皆が私にコンタクトが取れるように決心しました。誰かが私の所に来た時には、私は隠れる事はしません。

誰かが私を急に連れて行くからと言って、私の油注ぎをいちいち増す努力をする必要なんかありません。油注ぎはそんなものではありません。実際には、同じ興味を持っている人達と一緒にいる事により私は建て上げられます。神の言葉を話せば話す程、私は強くなります。私が彼らの周りにいて、彼らが私達に質問をすればする程、私は強くなります。私はすり減りません。私はよく考えました。「主よ。もし私が彼と5分間話して、質問を2つする事ができるなら、もっと早く成長する事ができるのに。」集会に座って、私は神に誓いを立てました。「神様、もし私があの様な人の立場に立つなら、誰でも私に質問できるようにします。」私はよく誰かの為に祈ったり、誰かからの電話を取る為に出て行かなければいけない時もありますが、基本的にはいつも連絡が取れるようにしています。もし私と話したいなら話せます。今から、私の教えようとしている事は、恐らく、今まで聞いた教えとは完全に違うものだと思いますが、私達のしている癒しは現実です。私達のする事は、もし聖書に沿っているなら、いつも、どこでも働く必要があります。そうでないなら、それは福音ではありません。今日の教会の癒しの教えでは、人々の過去の罪などを扱わないといけないと言います。彼らは私達の世代の呪いの源を見つけようとします。どうやってこんな悪魔の教えが入り込んだんでしょうか?その為には歴史を学ぶ必要があります。私達クリスチャンには世代の呪いは当てはまりません。私達の世代はイエス・キリストだけです。全てのクリスチャンが抱える問題は2つの事が原因です。彼らは新しい契約による特権を知らないか、彼らは新生の特権にあって歩んでいないかです。全ての問題がそれらに起因します。私の地上の父親は酒飲みでした。私が小さい時には、彼は酒をよく飲んでいました。私は酒が人に何をするかを見てきたので、9歳の時にアルコール飲料には触らないと誓いました。それ以来、一度も触れていません。一度もタバコを吸った事はありません。ドラッグもした事もありません。でもそれ以外の罪は犯したので、別に良い子であった訳ではありません。ただ、私は神に誓いを立てて、それを破る事はしませんでした。世代の呪いの教えによると、私だけが一人の子供なので、父親の呪いは私に継がれるはずです。でも酒を一度も飲みませんでした。私の世代はイエスだけです。そして、彼には呪いなんてありません。むしろ、彼は私が祝福を受取れるようになる為に呪いになってくれました。私には世代の呪いではなく、世代の祝福があります。インドに行ったら世代の呪いを扱う事はできません。彼らの世代の呪いを捜すなら、それはずっと昔に遡るでしょう。彼らは偽りの神や偶像などに仕えてきました。もし私達が彼らの所へ行くなら、一人一人の過去を穿り出している時間なんてありません。私達の仕事は捕らわれ人を自由にする事であり、他人の欠点を指摘する事ではありません。私達は彼らを裁く者になる事ではなく、彼らを解放する者になる事です。これは単純な事です。兵士になるだけです。兵士は、誰を自由にして誰をしないかは選びません。実は、自由になれるという資格は誰もありません。しかし、イエス・キリストのおかげで私達は自由になれます。癒しは戦いです。今私達がする事はサタンのしわざを見つけ出し、打ち壊す事です。

彼らを追い出し、打ち負かす事です。その為には今私達は愚かな考えを全て捨て去る必要があります。愚かな考えとは「聖書はそう言っていますが、でも...」という様なものです。私が一番良く聞く事は「そうだけど、でも...」という言葉です。神の力を止めるものは何もありません。もし罪が神の力を止める事ができるなら、私達は救われていません。何故なら、まだ私達が罪の中にあった時に神は私達を救ったからです。私達は聖書については何も知りませんでした。多くの人は、救われた後は悪魔を打ち破る為に聖書に書いてある全ての事を知らなければいけないと考えます。病の霊や病気、患いを打ち負かす為に、神学を完璧に学ぶ必要があると考えます。私は言いますが、「私達に必要な事は、敵が諦めるまで諦めないという堅い決心です。」その様な根性を身につけたら、癒しは働きます。その様な根気で歩むなら、敵は私達がその場に着く前に逃げ去ります。敵はその様な人と関わりたくありません。何故でしょうか?それは、彼らにはその様な時間は無いからです。敵にとっては、クリスチャンが「この病気は私のとげです。私の背負うべき十字架です」と言う様な人の所へ行った方が楽だからです。しかし、イエスが病気の為に十字架にかかりました。私達の背負うべき十字架は人々を解放していく責任です。もしミニストリーをしていくなら、私の言っている事が真実であると分かるはずです。

2019年1月30日水曜日

DHTT セッション2

もう気づいているかもしれませんが、私は肩書きを重要視しません。私が武術をしていた時、十段で黒帯を持っていても路上の喧嘩に勝てない人達がいました。肩書きや帯、階級などは重要ではなく、どの様な実を結ぶ事ができるかです。私の証を少しずつシェアしていきます。何故なら、もし私が実を結ぶ事ができないなら、私の話を聞いていても時間の無駄だからです。私の意図と動機の誤解を避ける為に言っておきます。ある事を学ぶ上で取るべき姿勢は、私達はそれについて何も知らないとして、全てを一から始めるという事です。何故なら、もし既存の考えをもって学ぼうとするなら、いつも「どうして、あれやこれは私が今まで学んだものと一致しないのか?」と疑問を抱くでしょう。もし今まで学んだ事が本当なら、皆さんはこのDHTTのセミナーには来なかったでしょう。何故、このセミナーに来たのでしょうか?私自身は癒しのセミナーには行きません。その理由は私のしている事は結果を出しているからです。私は色々な事を学んでも、何も結果を出せない人達を見てきました。皆さんがここに来たのは、もっと人の役に立つようになりたいと思っている事を証明しています。

さて、食事療法は教会の中で神になってしまいました。人々は神の力に頼って健康でいるよりも食事療法に頼るようになりました。私は、神の癒しを信じないと生きていけないような生活をしています。私はファースト・フードやコーラ、ポテトチップスなどを食べて生活しています。他の人がそれについてどう思うか関係ありません。私の癒しの集会だからです。それを食べていても私は健康です。私に完璧な栄養を取る必要がある等とは言わないで下さい。それに、今日では完璧な栄養をとる事は不可能です。たとえ栄養ある食事をしてもです。私は一度も野菜を食べた事はありません。ジャガイモは食べます。ジャガイモはマッシュしても揚げても焼いてもおいしいです。緑や黄色などの野菜などは健康にいいですが、私は一度も食べた事はないし、食べる気もありません。私がこの様な事を話す理由は、皆さんが信頼するものはいつか期待を裏切る事になるからです。

適度な運動には反対ではありません。私も運動をします。運動が役に立つと信じていますが、運動は訓練の為にしますが、運動をしている人でも突然心臓発作で死んでしまう人もいます。運動するからいつも健康でいるという訳ではありません。食事療法は全ての問題を癒す事はできません。食事療法をしていても栄養失調の病気で死ぬ人もいます。私は神が私を生かしてくれる事を信じます。ちゃんと食べて栄養を取り、運動をするべきである事には賛成します。しかし、これは食事療法のセミナーではありません。私達が食事療法の事について話し出すと、全ての話はそちらに向かってしまいます。確かに、栄養が足りない為に起きる病気もあります。壊血病はビタミンCの不足によって起きます。

他にも栄養が足りない事によって引き起こされる病気はあります。人々は、「栄養の話と病気が悪魔からである事とどう関係があるんですか?」と聞きます。人間の体の滅びと、死や病気は、全て悪魔の分類に入ります。病気であろうと悪霊であろうと、大気汚染や食物などによって引き起こされる害も全て悪魔からのものに分類にされます。ヨハネ10:10

には、「盗人がやってくるのは、盗み、殺し、滅ぼすためである。しかし、私が来たのは羊が命を得、それを豊かに持つためです」とあります。盗人が来るのは、盗み、殺し、滅ぼす為です。私が病気に向かって話す時、全ての病気を悪魔と同じように扱います。人に話しかけるようにそれらに向かって話します。もし皆さんが癌を持っているなら、「悪魔よ。今、去れ!」と私は言います。悪魔の代わりに癌や他の名前で呼ぶ事もできますが、とにかく、私は病気も悪霊も、盗み、殺し、滅ぼす事は悪魔の分類である事を知っています。「効果的に祈る為にはどの様に祈ったら良いか?効果的な癒しをする為には何と言ったら良いか?」と考えるかもしれませんが、何を言うかよりも、誰として言うかの方が重要です。悪霊は、正しい言葉を使うから聞き従うのではありません。悪霊が私達に聞き従うのは、私達の名前が天に記されているからです。彼らが聞き従うのは、私達が誰であって誰と繋がっているかを知る時です。正しい言葉を使うからではありません。


私達は、祈りの正しい型を使って癒しを行いましたが、効果がない事を学びました。時には、型にはめた祈りが上手く働いている様に見えた時もありましたが、多くの場合は失敗しました。ですから、DHTTの教えは、祈りの型についてではありません。一般的な祈りの手段はありますが、祈りの型はありません。その症状や病気が去るように命令するだけです。神に願う事はしません。例えば、誰かが私の前に立って癒してくれるように頼む時には、私は神とは話しません。「彼のうち傷によって私達は癒された」という御言葉があります。「神様、この人を癒す事はあなたの御心ですか?」と聞く必要もありません。全ての人を癒す事や救う事が神の御心です。重要な事は、イエス・キリストにあって私達が誰であるかを知る事です。このセミナーは癒しについてですが、他の癒しの教えとは異なった視点から学びます。それは、私達がキリストにあってどの様な者であるかについての視点です。癒しについて具体的な事柄よりも、私達がキリストにあって誰であるかについてもっと学んでいきます。私が武術を通して学んだのは、見栄えの良い動きはただの見せかけだという事です。実践的で敵を倒し勝利をもたらす動きは、全て基礎的なものです。動きが複雑になればなる程、敵により多くの邪魔する隙を与えます。しかし、動きが単純であればある程、より直接的であればある程、簡単であればある程、より基本的であればある程、素早ければ素早い程、勝率は上がります。癒しについて色々な教えを聞いた事があるかもしれません。しかし、真実はとても単純で基礎的な事です。もし、私たちが悪霊を追い出すのに6時間もかかるなら、私達は使い物にならないでしょう。聖書は、悪霊にカウンセリングをして去らせるようには教えていません。

追い出すように言っています。カウンセリングは弟子訓練をする時です。しかし、弟子訓練が始まるのはその人が自由になった後です。まず、人を自由にしなければいけません。その後で、その人を弟子訓練する方がよっぽど簡単です。一声「悪霊よ!出て行け!」と言うほうが、何時間もカウンセリングをするよりも、よっぽど簡単です。私達も疲労する事はありません。教会が教えている事は、多くの場合、専門家になる事です。クリスチャンは何か専門家として見られようとします。それで私達は学説や~主義などを探求して、それらを学んだので何か重要な者であるかの様に考えます。ただ単純に考えようとはしません。ある時、一人の人が私に頼みました。「私達は神癒技術者訓練(DHTT)に一度参加した事がありますが、もっと上級のDHTTを教えてくれませんか?」私は答えました。「いいですけど、でも、教えはもっと単純になるだけですよ。」聖書は単純です。聖書には、隠された事は多くはありません。人々は言います。「でも、私はその言葉の背後にある隠れた意味を探っています。行間を読もうとしています。」行間には何もありません。多くの人は「聖書の堅い食物について学びましょう」と言います。でも堅い食物は、私達が考えている様なものではありません。堅い食物は深い隠された意味などではありません。多くの人々は聖書の教えをナルシズムに変えました。私達は何か秘密を知らなければならず、その秘密を知っている、秘密のグループの仲間に入らなければならないという様なものです。しかし、そんなものは聖書の教えではありません。

私は普通、教会に招かれて説教をする前には誰とも話しません。その教会で何が起こっているか知りたくないからです。もし何が起こっているか知っていると、その問題について話す事になります。なので、私は集会の前には誰とも話さない事にしました。それで、もし私がその教会で起こっている事について説教の中で話すなら、それは神の御霊によってした事だと分かります。誰かが耳元で、「この問題に対して説教して下さい」と言ったからではないからです。私は私の口から出てくる言葉そのままを話します。これが私の説教の仕方です。そうすれば何も先入観を持たなくて済みます。セミナーの最終日の癒しの聖会の時に、音楽を流す時があります。癒しを行う時にもしワーシップミュージックがあるなら、それはそれで構いません。しかし、音楽は癒しの為に必要不可欠な物ではありません。癒しを行う上で幾つかの事を学ぶ必要がありますが、その内の一つは、癒しの為の雰囲気は必要ないという事です。ある人々は、癒しの為にはそれにふさわしい雰囲気が必要であると言います。もし、癒しにふさわしい雰囲気がその場にあるのなら、それは良い事です。しかし、イエスは、その様なものを必要とはしませんでした。イエスは、ガリラヤを周る時にアメイジング・グレイスの曲を使ってはいませんでした。「皆さん、賛美をして下さい。油注ぎを感じます。癒しの為に雰囲気を作る必要があります。もう少し歌えば、神の御霊が下ると思います。」そんな風にイエスはしませんでした。

ショッピングモールで癒しをしに行く時、お客様用のカウンターに行って癒しのCDを手渡して、「これをかけて下さい。癒しを行う雰囲気を作る為に音楽が必要です」とは言いません。私達自身がその場の雰囲気そのものです。私達がある場所に歩いて入る時、その場の雰囲気が変わるべきです。それは私達がその場所に入る時、自分が誰であるかを知っており、悪霊もそれを知る事になるからです。そして、私たちがその場所で最高の霊的権威を持つので、その場の雰囲気は変わります。実際に、私達がその場所に入ると多くの人々はそこから出て行くでしょう。何故なら、病気や悪霊は私達に捕えられたくないからです。私達は、教会の中で建て上げられてきた人の教えを見てきました。その様な教会の中での伝統の教えに反しても、癒される場合も見てきました。例えば、ある人々は「皆さんが罪を犯す事を辞めて神に立ち返らない限り、神は癒しません」と言います。それは真実ではありません。私達はクリスチャンよりも、罪人の方が早く癒されるのをよく見ます。それはクリスチャンが自分の良い行いに頼るからです。「神様、私は十分の一献金をしました。日曜学校の先生をしました。礼拝に毎週出ています」等です。しかし、それらは癒しとは何の関係もありません。罪人はやって来て「私は何も持っていません。神様、もし私を癒してくれるのなら、あなたが良い神である事を知ります。何故なら、私は癒される値のない者だからです。」そして彼らは癒されます。何故でしょうか?それは誰も癒されるに値しないからです。この事を私達は理解しなければなりません。私達は誰が癒されて、誰が癒されないかを選びません。イエスは言いました。「病人を癒し、死人を蘇らせ、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」誰でもどこでも、いつでもどんな病気でも癒しなさいと言いました。ですから、私達は「神は今この人を癒そうとしているんだろうか?この人の病気は自分で蒔いた種からなのか?」と考える必要はありません。

私はいつも移動しているので家を留守によくしますが、もし私だったら、聖霊に満たされていると主張する、一般的なクリスチャンに警備の為に私の家を見張らせません。もしその様な人に警備をさせて、泥棒がステレオを持って私の家の窓から出てくるのを目撃したとすると、彼が最初にする事は本部に連絡する事でしょう。そしてこう言うでしょう。「こちら現場で警備についている者です。いまカリー・ブレイクの家からステレオを持った男が出てくるのを見ました。私は何をするべきでしょうか?」本部は「あなたは何をするべきだと思いますか?」と尋ねます。そして彼は言います。「まず本部からの許可を待っています。」本部:「あなたは法律の権威を守ると誓いませんでしたか?」彼:「はい、そうです。」本部:「確か法律によると他人のステレオを盗む事は犯罪になりますよね?」彼:「そうですがカリーの事を知っていますか?彼は何かステレオが盗まれるような悪い種を蒔いたかもしれません。」この様な感じになるので、私は一般のクリスチャンに私の家を見張らせません。

法律は言います。「あなたは首です。警備として働くには愚か過ぎます。」さて、もし今日も世代の呪いが真実なら、イエスが歩いた当時も適応されたと思いませんか?では、何故イエスは世代の呪いを扱わなかったのでしょうか?イエスは誰よりも大きな癒しを行いました。イエスには群集がつきまとっていました。群衆が男だけで5千人いた事がありました。私達はクリスチャンであり健康で、病人であるべきではありません。いつも健康で病人を癒しているべきです。私はクリスチャンを癒す為に多くの時間を費やしてきました。私はわざと出て行って病気である罪人を見つける必要がありました。それが、聖書がするように言っている事です。しかし、イエスには2万人の群集が付き従っていました。私が発見した事は、私がセミナーを行う中での人達の90%は癒しを必要としているという事です。クリスチャンでも、そうでなくても同じです。教会でも、教会の外でも同じです。

聖書には5箇所ほどに、「彼は全ての病人を癒された」とあります。例えば、もし2万人の群衆がいてその内の90%が病気なら、病人は1万8千人です。もし病人が1万8千人だったならイエスが彼らを全て癒しました。もし癒される為には病人は信仰を持つ必要があったなら、イエスは世界一運の良い人でした。2万人のうち、1万8千人癒しが必要だったからです。そしてそれら全ての人達が癒されました。その理由は、その1万8千人は癒される為に自分で信仰を持っていたか、イエスは癒しをしるしとして行ったかのどちらかです。それとも、それはたまたま神がその全ての人達を皆癒そうと決めた日だったのでしょうか?そこにいた人達はたまたま世代の呪いを持っていなかったので、いちいち過去の罪を調べる必要が無かったのでしょうか?考えてみて下さい。イエスは世代の呪いについて教えたとか、病人は信仰を持たなければいけないとか、一切扱う事はしませんでした。それなら、私達の場合はそれらを扱う必要はあると思いますか?私達はキリストを代表する者として彼がしなかった事や、言わなかった事について何かを言う権利はありません。ある人は言います。「あなたが癒されるのに十分な信仰を持てたら戻ってきなさい。」しかし、もしその人が癒される為に自分で信仰を持つなら、その人は戻ってくる必要はありません。自分で癒しを受取る事ができるからです。

私はよく人々がこの様に言うのを聞きます。「私にはもっと信仰が必要だと言われました。」イエスは誰にもその様に言いませんでした。彼らに必要だった信仰は、イエスの所に来る事だけでした。それでも人々は言います。「自分の癒しの為に自分で信仰を持たなければません。」本当ですか?ではラザロは信仰を持っていましたか?もし、彼が信仰を持っていたなら癒されていたはずです。死ぬ必要はなかったはずです。彼は信仰を持っていなかったので死にました。誰が、彼が蘇る為の信仰を持っていましたか?イエスです。多くの人は知りませんが、ウィリアム・ブースが救世軍を始めた時には病気が癒されるだけでなく、死人も蘇った記録があります。

救世軍は昔歩んでいた道から少しそれましたが、まだいい仕事をしています。ジョン・ウェスレーのミニストリーでは247の癒しが起こった例が記録されています。彼にはハンクと呼ばれる馬がいました。彼はその馬に乗って何処にでも行きました。彼は馬で4万km走り回りました。ある日、彼の馬が足を怪我しました。馬の為に祈り、馬は癒されました。私はいつも人々にこう言います。「ハンクが癒される為に信仰を持っていたのはよかった事です。」人々は、癒される為にはその病人の信仰が必要だと考えるからです。もちろんハンクは信仰を持っていませんでした。これが私達には大きな責任があると言った理由です。何故なら、癒しの為の信仰を持つ事は癒す者である私達の責任です。病人が他の病人を癒すようにという命令ではないのです。イエスは、もし病人が信仰を持っているなら癒しなさいとは言いませんでした。彼は病人を癒す様に言いました。何故なら、癒しは戦いだからです。癒しは悪魔の仕業を打ち壊す事だからです。私達は他人の為に信仰を持つ事ができます。一度、癒しは戦いだという事を理解すると、癒しはとても単純になります。私達は目の前にいる人をどうこう扱うのではありません。私がこの様に言う意味を理解して下さい。私が病人の前に立つ時には彼らの状況を見て、私の哀れみと愛は彼らに注がれます。そういう意味では彼らは重要です。しかし、癒しとなると私は彼らがいる事も意識しません。私が病人の前に立った時に私が見るのは悪魔です。人に対する気遣いは大事ですが、彼らが何を信じ、何を信じないかは関係ありません。重要な事は悪魔が私に聞き従う事です。何故なら、イエスは彼には悪魔に対しての一切の権威と力が与えられていると言ったからです。イエスは弟子たちに彼の持っていた全ての権威を与えました。彼は2つの事をしました。一つは福音を宣べ伝えるように、そして、全ての悪霊と病気に対する権威と力を与えました。聖書によるとイエスは病気や患いを癒す為の権威と力を与えましたが、それは福音を宣べ伝える目的の為でした。ルカ10:19には蛇やさそりや敵のあらゆる力に打ち勝つ権威があると言っています。

もし私に全ての悪霊に対しての権威があるなら、悪霊は私に従わなければいけません。彼らが誰であるかは関係ありません。彼らが人の内にいるからといって、例外ではありません。彼らは私に従わなければなりません。ある人は言います。「もし、その人がその悪霊を引き留めていたらどうですか?」それでも追い出して下さい。私達はその悪霊を追い出す事ができる事を証明します。ここで言おうとしている事は、その人は自由になるに値する人であるか、その人は本当に自由になる事を望んでいるのかです。皆さんがその人に尋ねるとします。「あなたを自由にした後に、あなたは自由の中に生きますか?」彼は何と答えると思いますか?もし彼が「いいえ、私は再び元の状態に戻っていきます」と答えたとしても、どの様にしてそれが悪霊ではなくてその人が答えたと判断できますか?大半の人は自由になる事について知りません。ある人が「神はある人の足を癒す事はない。その人は癒されたらすぐにクラブにいって酒を飲み、踊るだろうから」と言ったとします。

しかし、神はその様な人でも癒します。私達はどうやって救いを受けましたか?救われた日でも、罪を犯す事を止めませんでした。その後も間違いを犯しています。神は、私達がすぐに罪を犯すのを止めなかったのに私達を救いました。私達が今まで教会で学んだ教えはイエスの教えに基づいて考えてみれば意味が通りません。人々は言います。「もし私達の間に不信仰があるなら、神は働かないので私達は一致を保たなければいけません。」しかし、それはただの言い逃れです。何故なら、イエスはいつも人々の不信仰の中で癒したからです。ある男はイエス達の所まで来て言いました。「主よ、私は信じます。不信仰な私を助けて下さい。」この場合、彼の不信仰にも関わらずその人の子供は癒されました。それでもある人は言います。「でも、イエスは人々の不信仰の為に何一つ力あるわざを行う事ができませんでしたと書いてありませんか?」その聖句の残りはこう言っています。「そこでは何一つ力あるわざを行う事ができず、少数の病人に手を置いて癒されただけであった(マルコ6:5)。」従って、不信仰の人々がいた中でも病人は癒されました。この様に私達が教会で学んできた事は意味が通らない事ばかりです。それらの教えが驚くほど私達を役に立たない人にしてしまいました。私達はそれらの教えを作り出し、神が働く為には全てが整っていないダメだと信じる様になりました。私達は10人祈り1人でも癒されたら興奮します。確かにその癒された人にとっては嬉しい事です。しかし、残りの9人はどうなりますか?イエスは全ての病人を癒しました。私達がイエスのように癒しを行う事ができる様になるまでは、この世にあってイエスを完全に正しく代表する事はできません。私が、どの様にしてDHTTのマニュアルを手に入れたかは話しました。そのマニュアルを勉強して祈り方や信じる事を変えました。それ以来9ヶ月の間、多くの人達が私達の家に定期的に癒しの為にやって来ました。

その中には、プロのビリヤードプレイヤーがいました。彼は水銀の毒から癒されました。その毒の為に、彼はエイズにかかったように見えました。実は、彼を嫌いな人達が彼の飲み物に水銀の毒を入れたのでした。それを飲んでから、4~5年くらいかけて彼は次第に弱っていきました。彼の体は食べ物を保っておく事ができなかったので、彼は一定の食べ物しか食べる事ができませんでした。彼は本当に死人のように青ざめていました。私達が祈っていると彼が来て言いました。「私の為に祈ってくれますか?私はこの病気から癒されたいです。」私は聞きました。「何が問題ですか?」私達はしばらくの間はなして、その水銀の毒について知りました。私は祈る事さえしませんでした。彼に聞きました。「その毒の影響はどのようなものですか?」彼は答えました。「私はほとんど何も食べる事ができません。」私は聞きました。「それなら、もし何でも食べる事ができるとしたら何を食べたいですか?」彼は言いました。「そうですね。バニラミルクシェイクです。」私は彼を見て言いました。「行って、それを飲んで下さい。」彼は言いました。「分かりました。では、さようなら。」彼はその様にして集会の途中で去りました。

それから2週間後に、彼をショッピングセンターで見かけました。彼はちょうどレストランから出てきたところでした。私は言いました。「元気ですか?」彼は答えました。「最高です。何でも食べられるようになりました。」ある人は言うかもしれません。「彼にミルクシェイクを飲みなさいと言ったのは、神の霊が何を言ったらいいか言葉を与えたからです。」いいえ、神は何も言いませんでした。そしたら、「では、何でその様に言ったのですか?」と聞くでしょう。私はスミス・ウィグルスワースの話を覚えていました。それは片足の無い男の人についてでした。ウィグルスワースは彼に言いました。「行って、靴を一足買いなさい。」人々は、ウィグルスワースは気が狂っていると思いました。しかし、この片足の無い男の人は考えました。「彼は神の人なので、言った通りにしよう。」

そこで彼は靴屋に行き、店の人に言いました。「私に合うサイズの靴を見たいのですが、持って来てもらえますか?」その人は彼の足を見ていいました。「何でそんな事をするのですか」片足の無い男は言いました。「いいから、言ったようにしてくれますか?」店の人は靴を持ってきました。彼は足首から下の足はありませんでした。彼がその足を靴に入れた途端に彼の足は伸びて完全な足になりました。何故でしょうか?それは彼が神の人が言葉に従ったからです。その時、神はウィグルスワースに何と言ったらいいか、言いませんでした。それが、私達が理解しなければいけない事です。私達はいつも「これをするように」と言う神の声を聞く必要はありません。それを理解するべきです。もし、神の声を聞くならそれは素晴らしい事ですから、その通りにして下さい。しかし、もし聞かないなら、聖書の言う事を行って下さい。人々はいつも導きを待っています。聖書は私達がいつも導かれていると言っています。ローマ8:14では神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子達ですとあります。御霊に導かれるとは、ギリシャ語では絶えず御霊に導かれるという意味です。この箇所は文脈から外れてよく引用されます。新約聖書は、私達が何かする為には神の導きを待てとは言っていません。聖書は私達が自分自身を聖霊で満たし、そうすれば、神は私達を導くと言っています。私達が御霊に満たされていない限りは、神は私達が導かれているようにする事はできません。私達の仕事は常に聖霊に満たされ続ける事です。それが重要な事です。よく見落とされている事は、ローマの8章は私達が聖霊に導かれた後で外に出て行って、病人を癒すようには言っていないという事です。そうではなく、肉の行いを殺して、御霊に導かれて歩む事について書いてあります。新約聖書の何処にも、聖霊の導きを待ってから人を癒しなさいとは言っていません。新約聖書に基づく理由は、今私達は新しい契約の下にいるからです。私達は新しい契約を持っています。それは以前の契約よりも優れたもので、さらに優れた約束を伴っています。古い契約は私達には適用されません。問題は、ほぼ全てのクリスチャンは新しい契約の考え方ではなくて、古い契約の考え方をしている事です。古い契約に基づいて行動する限り、私達はしもべでしかありません。

しかし、私達が新しい契約の下にある聖徒として行動すれば、神様の子供のように歩む事ができます。種蒔きの法則を信じますか?それは変わる事の無い法則です。私達は自分が蒔くものを刈り取っています。この法則は創世記の頃から存在していた事を知っていましたか?種蒔きの時期と刈り取りの時期についての事です。神はしもべ達を刈り取る為に子供を蒔く事はしませんでした。神は子供達を刈り取る為に子供を蒔きました。聖書にはイエスは多くの子供達を栄光に招き入れると書いてあります。しもべ達ではありません。私達の問題はしもべの考え方をしている事です。いつまでも何を、どこで、いつ、どのようにしたら良いかをするように言われる事を望んでいます。それは子供の考え方ではなく、しもべの考え方です。

ガラテヤ4:7では「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」と書いてあります。何故でしょうか?それは、私達は子供だからです。父なる神は、アバ、父と呼ぶ御子の御霊を私達に遣わして下さいました。ここで問題なのは、私達はしもべになりたがる事です。イエスは言いました。「しもべは主人のする事を知りません。」しかし、神の子はそれを知っていて、そのように行動します。この訓練で学ぶ事は驚くほどの「自由」です。私達はいつも自分が正しいかどうかについて確かめなくてもいいからです。ただ私達が持つ必要があるのは正しい心と正しい動機だけです。


私の父は警察官でした。最近、私は権威について教えました。それは「偉大な信仰の秘訣」についてです。イエスは2人だけを偉大な信仰持った人として賞賛しました。その一人はローマの百人隊長でした。称賛した理由は、百人隊長が権威を理解していたからです。「ただ、お言葉を下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」このローマの百人隊長はイエスの言葉には権威があると信じていました。そしてイエスは「私はこのように偉大な信仰はイスラエルの内にも見た事がありません」と言ったのです。ローマの百人隊長は大半のクリスチャンよりも大きな信仰を持っていた事が分かるでしょうか?私達はイエスが現われてくれるように願っています。「イエス、降りてきて下さい。あなたの栄光を見せて下さい。主よ、力を注いで下さい。現われて下さい。」もし、主が今現われたら「ここで何をしているのですか?」と言うでしょう。イエスが来る時には全ての人の働きを裁きます。主はそれぞれの人の報いを持ってやって来ます。こう言う人達がいます。「私達は祈っています。主が早く来られるように。」それに対して私は言います。「私はその様には祈っていません。」私はこの様に祈ります。「主よ。もう少し待って下さい。まだ病気の人達が、救われていない人達がいます。だから、もう少し待って下さい。」私は携挙をこの地上から逃げ去る為の手段とは見ていません。私達には成すべき仕事が、任務があります。私は、イエスが来る時には準備ができています。マタイの25章21節ではこう言っています。

その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。皆さんは、わずかな物に忠実だったから、私は皆さんにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」イエスが来る時には、忠実な人々を捜しに来るのです。マタイの24:46にはこう書いてあります。「主人が帰って来た時に、その様にしているのを見られるしもべは幸いです。」その様にしている、とは文脈から判断すると、神の働きに忙しくしているという事ですよね?私達は全ての預言の聖書箇所を考慮しなければいけません。私はいつイエスがやって来るか分かりません。何故なら、主はいつ戻って来るとは言いませんでした。主は忙しくしている人達に、忠実な人達に、仕事をしている人達に「よくやった」と言うのです。ジョン・G・レイクは言いました。「人々は私に、よく祈って答えを得てから、走り出しなさいと言いました。しかし、私は神の御霊によって、祈りながら走る事を学びました。」私がミニストリーを始めた時に、ある神の人が、アーカンソー州の山にこもった話を聞きました。彼は小さな山小屋を所有しいて、そこにこもって30日の間断食して祈りました。彼はそこへ神の力を得る為に行ったのでした。この人には神の力が強く働いていました。それで私も「山小屋に行って断食して、聖書をひたすら勉強しよう。私がそこから出てきた時には内側から光を発して浮いて歩くかもしれない。私が戻ってくる時には、神の力に満ちているでしょう」と考えていました。私は山小屋に泊まる準備をしました。しかし、行こうとした時に、神の御霊が話しました。「あなたが山で私を見つけようとしている間に、何人の人達が死ぬ事になりますか?もしあなたがここにいて、人々に手を置く事ができるなら、何人の人が生きる事ができますか?」主は続けて言いました。「実際に、もしあなたがそこに行って私を見つけて帰ってきたとしても、どうやって私をそのまま留めておく事ができるのですか?」それで、私は人々の中で主が生きられないなら、それは正しい教えではない事を理解しました。

どこかの修道院の僧侶になるのは楽な事です。一人で生活して清くある事は簡単です。周りの人達と一緒に生きるからそれは難しいのです。私達が必要なのは、人々の中で働く事です。もし私達が周りから孤立して一人だけなら、何の役に立ちますか?神様との親密な時間は大切です。大半の場合には、私達はそれを言い訳にします。もう一つ皆さんが知るべき事は、私達はもう既に与えられているものを、一生懸命捜しているという事です。「私は力を得る為に祈ります」というかもしれませんが、イエスは聖霊が私達の上に臨む時力を受けますと言いました。聖霊を受けたのなら私達は力を受けました。「でも、力があるようには感じない」と言うかもしれません。しかし、聖書には私達が聖霊を受けた後に「力を感じる」とは書いてありません。御言葉は「力を受けます」とだけ言っています。力を持っているのを感じる事と力を持っているのを知っている事は全く違います。力を持っていると感じる人の大半は、実際には力を持っていません。本当に力を持っていると知っている人は、実際に力をもって歩んでいます。

レスター・サムラルはまさにその様に神の力を知っていた人でした。私は彼から学びました。彼は私達が霊的でいながら実践的でいる事ができる事を教えてくれました。彼は私達は人々の周りにいながら霊的でいて、そして、大半の時間を祈って断食をして過ごす必要はない事を教えてくれました。実際に、新約聖書では主が私達に待てと言ったのはたった一度だけです。「あなたがたは父の約束を受けるまで、エルサレムにとどまりなさい。」これを聞くとある人たちは、「ほら、私達は待つ必要があります」と言います。しかし、もし私達がその言葉に忠実に従うのなら、エルサレムに行ってそこで待たなければいけません。エルサレムまで行かなければいけません。待つように指示されたのはその時だけです。それ以外、イエスはいつも言いました。「出て行きなさい。」しかし、私達はいつも「待ちなさい」に捕らわれています。何故でしょうか?それは、私達は出て行きたくないからです。大半のクリスチャンは勉強に殆どの時間を費やす事を知っていますか?私達はいつも新しい教えを学んでいます。テモテへの手紙で言われているように、私達は学んではいるが決して真の知識には至らない人々になってしまいます。何故でしょう?それは、私達が外には出ないで中でただ学び続ける限り、安全で成長していると考えるからです。私達は言います。「私はまだ準備ができていません。まだ神に成長させられています。」私達は実際に何かをしたがりません。私達は学んだ事を、私達の好きでない人々の周りで実行したくはないので、仲のいい人々とだけ座り、自分を受け入れてくれる人々の周りで学び続けます。学びは必要ですが、それだけで良いという考えが間違いなのです。ある時、私はある教会にいました。ある男の人が入って来て、前列の席に座りました。そして、案内人の人が来て彼を他の場所に移しました。彼がきれいな服を着ていなかったからです。

彼は路上に住んでいる人でした。その教会はテレビの収録をしていたので、彼がカメラに入らないように彼を動かしました。それが、私がその教会にいた最後の時でした。聖書ははっきりと私達は人々を服装によって差別はしてはいけないと書いてあります。彼らは聖書の教えを破っていました。彼は耳が悪かったので近くに座って聞く必要があったのかもしれません。もしかしたら彼が前に座ったのは、宗教的な人達を苛立たせるためだったのかもしれません。もしかしたら神がその人をそこに送ったのかもしれません。私達はなんで今ここにいるのかを理解する必要があります。このDHTTを学んでいるのは、それは皆さん自身の為だけでなく、それは助けを必要としている人達の為です。ある時、私と子供は軍の新兵を募集している人達の側を通りかかり、彼らと話しました。彼らは見栄えのいいパンフレットを持っていました。当時、私達は彼らと同じような事をしようと思っていました。神が腕の良いリクルーターである事に気づいた事はありますか?神は私達に、全ての祝福を約束して下さいます。神はその願いを叶えてくれます。しかし、一旦神の軍隊の中に入ると、「あなたはもう軍にいます。今は、軍があなたに何をして欲しいか指示します」となるのです。

私達の最後の自由意志の選択は、軍に入隊する時の決断だけです。その後は、私達は全ての事を命令されます。選択の余地はありません。これが御国の教えです。私達の最後の意志選択は、私達が「私はイエスを主として受け入れます」といった瞬間まででした。一度彼が私達の主になったら、私達には勝手に振る舞う事はできません。ある人は、「癒しの務めは私のものではありません」というかもしれません。その解決を教えます。新生して下さい!イエスは癒しの務めを持ってはいませんでした。事実、パウロは癒しの務めについては何も言いませんでした。パウロただはこう言いました。「神は私達に和解の務めを与えました。」皆さんも私も癒しの務めではなく、和解の務めを持っています。私は人の霊を神と和解させます。それは救いです。私は人のたましいを神と和解させます。それは解放です。私は人の体を神と和解させます。それは癒しです。これらは全て和解です。もし誰かが私の目の前に来て、「私は助けが必要です」と言うなら、私は聞きます。「問題は何ですか?」もしその人が、「私は霊的な問題を持っているのです」と言うなら、「すみません。私は悪霊を追い出すミニストリーはしないのです。私はただ病気を癒すだけです。でも、~さんなら助ける事ができると思います」とは言いません。イエスは決してその様な事はしませんでした。彼は言いました。「全て求めるものには与えなさい。」私達の仕事は何でしょうか?しいたげられている人達を自由にする事です。一般に、教会は次のように考えます。「私達は癒しを行う為の油注ぎ、悪霊を追い出す為の油注ぎ、死人を蘇らせる為の油注ぎ、或いは、福音を宣べ伝える為の油注ぎを得る必要があります。」しかし、そうではありません。私達にはそれぞれの得意な分野はあるかもしれません。それには何も問題はありません。誰もが癒しを行なう事に問題はありませんが、全ての人が癒しだけしかしないなら、その教会は偏っています。

もし私が癒しだけを教えていたら、それは自動的に偏ったメッセージになってしまいます。しかし、私の教える癒しは悪霊追い出しの為にも働きます。その原則は同じです。私が今教えている癒しの原則は悪霊追い出しにも適用する事ができます。何故なら神の原則はどの領域でも働くからです。だから、私達は癒しと悪霊追い出しを細かく区別して学ぶ必要はありません。イエスは全て同じように行いました。彼は「何をして欲しいのか?私に何をして欲しいのか?」と聞きました。病人は「癒しを受け取りたい」と言いました。イエスは「癒しを受け取りなさい」と答えました。イエスは同じ事を、悪霊を追い出す為にもしました。私も全く同じ事をした事があります。癒しを求めている人々が私のもとに来て言いました、「癒されたいです。」そして私は彼らに「では、皆さんは私が癒す事ができると信じますか?」と聞きました。これ聞くと恐らく大半の人は拒絶反応をします。何故なら人々は「あなたには癒す事はできないけど、イエスはできます」と言うからです。では、何で私の目の前に癒される為にいるんですか?何で神はその人を家にいる時に癒さなかったのですか?何故、わざわざ私の所にまで来たのでしょう?

これは、癒しには人が関わっているという事ですよね。私はこの癒しを行う事ができる理由を「御言葉の従順」と言っています。しかし、多くの人は油注ぎと呼びます。これが私と一般のクリスチャンとの違いです。私は油注ぎを求めません。私は自分を兵士とみなします。私はキリストの為の兵士です。私には果たすべき仕事があります。敵を打ち負かす事です。私の司令官は敵を倒す為の全ての武器を与えてくれました。ある人々は癒す力を油注ぎと呼ぶかもしれません。その力を聞こえの良いように油注ぎと呼んで、何か特別な物の様に考えるかもしれません。私はそんな事は無視して人々を癒す為に専念します。私達は、ベストな礼拝はそこにいる全ての人達が礼拝していると考えます。そして、突然何かが起こり全ての人達が地面に倒れ、そのまま45分間過ぎる様なものです。神の御霊がそうして現われた時には人々は倒れます。それが本当の時もあるし、そうでない事もあります。時にはそれはただの心理的な時もあります。人々は他の人によって感情的、心理的に反応するように駆り立てられます。それが、私達が普段は音楽を使わない理由です。また、私が興奮してメッセージを話さない理由でもあります。私は常に同じように教えます。私はリバイバルを求めません。大半の人が言っているリバイバルは、ただの良い音楽と感情を高ぶらせるようなものが伴った礼拝です。しかし、神の御霊が私に教えてくれた事は聖霊が現われる時はいつも信者と共に働こうとする事です。聖霊は人を通して他の人々を自由にしたいと思っています。それが聖霊の現われる理由です。聖霊は自由の御霊です。もし御霊が現われるなら人々は自由になるはずです。大抵、聖霊が現われた時には人々は地面に倒れます。聖霊は彼らと共に働く準備ができていますが、クリスチャンは床に倒れているので使い物になりません。何故こうなのでしょうか?それは、私達はいつも誰かに祝福を与えるよりは、祝福を受取りたがるからです。私も神の力を感じる時はあります。それは私の神との個人的な交わりの時に起こります。人々は言います。「私達は神の臨在を感じる為には特別な礼拝に行かなければいけません。」

あなたが手を置いた人が倒れるのを見た事がありますか?あなたは倒れなかったと思います。何故ですか?もし神の力が彼らを倒す程に力強いものなら、何で倒れなかったんですか?倒れる事が嘘であると言っているのではありません。私達は、神の力に圧倒されずにそれを保つ事ができる必要があります。大半のクリスチャンはその様なレベルにまで達しません。多くのクリスチャンは力によって倒れるレベルに留まります。彼らは倒れたがります。彼らは祝福されたがります。土曜日の癒しの集会に何人の人がやって来るか分かりませんが、全ての人が癒しの為の祈りを受けます。しかし、私は部屋の隅から隅まで歩いて、その途中にいる人の頭にだけ手を置いて祈る事はしません。私は癒しが必要な全ての人達の為に祈ります。私は、イエスは誰かを癒して、別の人を癒さないとは思いません。しかし、私は、牧師達自身が疲れてしまうので、相手を選ぶのを見てきました。私は神の御霊は何人かだけを癒すとは思いません。

別に彼らが神の御霊を持ってはいないと言っているのではなく、誰を批判している訳でもありません。しかし、私達は成長しなければいけないのです。私は、イエスは癒しの必要な人を残して去ったと考える事ができません。イエスが神の御霊の力を強く感じたので、それに圧倒されて癒しを行い続ける事ができなくなったとは思いません。イエスは人々と普通に話し、普通に癒しを行ったと信じます。イエスは一般的な教会が言う霊的な存在ではなく、おかしな行動もしませんでした。これを理解するべきです。この事実は癒しを行う事を簡単にします。私が癒しを始めた頃は汗をかいて努力しました。祈る時によく力を振り絞りました。今はもうその様な事はしません。私は両手を前方にまっすぐにして彼らの手を取ります。それは祈りながら彼らと話す事ができるからです。私は彼らと話している間に、御霊の命を彼らに向けて流します。多くの人は癒しの油注ぎが病人の内に入っていくのを待っています。しかし、全ての癒しは神の命が病人の内に流れ込むので、病気や死が出て行くのです。十分な御霊の命が彼らの内に入った時に彼らは癒されます。皆さんの仕事は人々に十分な御霊の命が病気や死が追い出すように管の役目をする事です。私は癒しを与えるというよりも命を与えます。命は死に打ち勝つからです。神の命は病気や患いに打ち勝ちます。

癒しは私達が行っていく事によって簡単になっていきます。詳しい事は知る必要はありません。例えば、「どの様にして、この問題は起きましたか?」などです。イエスはそんな事はしませんでした。私も実際に行うまで、癒しを理解できませんでした。このセミナーで学ぶ大半の事は実践するまでは本当に理解できません。それらについて聞く事もできるし、考える事もできるし、分析する事などは幾らでもできます。しかし、私が初めてある人に、「どれくらいの間彼はこの問題を抱えていますか?」と聞いたのは、ある両親が大切な子供を連れてきたからです。私はその状況を見て、心が痛くなりました。私は彼らを見て聞きました。「どれだけの間ですか?」彼らは言いました。「彼が五歳の頃からです。」私はその子供に手を置いて、両親に返して言いました。「この子はもう大丈夫です。」そして、その子は完全に癒されました。神は「彼らに、どれだけの間その問題を持っているのか聞きなさい」とは言いませんでした。私がその様に尋ねたのはその子に対して哀れみを持つ為でした。その悪霊はその子を強く縛っていたので、その霊を追い出す為により強い攻撃態勢に入る為でした。ナインのやもめの事を覚えていますか?人々は死んだ子供を担ぎ出していました。イエスはそのやもめの母親を見て彼女を哀れみました。聖書にはイエスは彼女を可哀そうに思ったと書いてあります。イエスは死んだ子供ではなく母親を可哀そうに思いました。イエスは母親を可哀そうに思ったから子供を生き返らせました。考えてみて下さい。この教えは「蘇ったら、残りの人生をどの様に生きるつもりですか?何故、死んだのですか?何故、この様な病気を持っているのですか?」などの詮索好きな質問は全く無益である事を教えます。

イエスはやもめの女を見て、その子がただ一人の彼女の子である事を見て、彼女を可哀そうに思ったので、子供を蘇らせました。私達は死者を蘇らせるには、正しい言葉や、預言、特別な油注ぎが必要であると考えます。違います。皆さんが必要なのは哀れみだけです。私達は悪霊を追い出す為に、断食をして祈る必要はありません。私は断食も、祈る事もしないで、悪霊を追い出します。私はそれらをしないでも、てんかんの霊を追い出した事があります。でも、人々は言います。「イエスは、この種のものは断食と祈りによってしか追い出せませんと言っています。」しかし、古い写本にはこの箇所はありません。その聖句は、後で付け加えられたものです。それでもある人は言います、「何でそんな事が言えるのですか?」このマタイ9:14-15を見ましょう。「ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。その当時は、イエスはまだ彼らと共にいました。イエスは弟子達に「悪霊を追い出せなかったのは、断食をしなかったからです」と言う事は出来ませんでした。何故なら、イエスは彼らに断食をしなくてもよいと言ったからです。イエスが彼らを曲がった世代と呼んだ時には、イエスは彼らが物事を曲げていると言いました。彼らは何をしていたのでしょうか?「主よ。誰が罪を犯したのですか?その子ですか?その子の父親ですか?」同じような事を私達は今でも言っています。「それは父親の罪ですか?母親の罪ですか?その子の罪ですか?」しかし、イエスは言いました。「どちらでもありません。」この会話が、イエスが世代の呪いについて語った一番近い所でした。彼は言いました。「神のわざがこの人に現われる為です。」私達は、「遣わした方のわざ」を行わなければなりません。イエスは人々を責める事に焦点を当てず、神のわざを成す事に集中していました。人々は言います。「あなたが癒されないのはあなたの罪のせいか、神の御心ではないからです。」イエスは病人を責める事はしませんでした。もし誰かが癒されなければ弟子達を責めました。イエスは唯一宗教的な人々を批判しました。彼らは見えるところは敬虔であっても、その力を否定したからです。イエスの姿勢は今日も全く同じものです。イエスは決して宗教を作る為にこの地上に来ませんでした。イエスが来たのは、聖霊を持って歩む事がどの様なものか、神との関係をもって歩む事がどの様なものかを見せる為にやって来ました。聖書の教えがイスラエルから始まった時には、それは神との関係として始まりました。それがギリシャに渡り哲学になり、ローマに渡り宗教になりました。アメリカに来た時にはビジネスの様になりました。全ての外見だけの飾りを捨てて、私達は神との関係に戻るべきです。人々は宗教が好きです。何故なら、宗教はこぎれいで整理整頓されているからです。ある事柄をある規則に沿ってするなら良しと見なされますが、もしその様な規則に沿ってしないなら問題と見なされます。

しかし、それは人の見方です。私の父は警察官であると言った事を覚えていますか?警官は誤って人を逮捕する事があると教えてくれました。例えばある人が18年の禁固刑を終え、釈放された後にDNA 検査で彼は無罪であると証明され、彼が政府検察を訴えたとします。驚く事は、政府がその賠償金を払うという事です。その人を間違って逮捕した警官はお金を払いません。父は答えました。「もしその警官が正しい情報に基づいてその人を逮捕したなら、その人が無実だと後に証明されても、その警官は咎められる事はない。もしその警官の意図が法の支配を守るものであるなら、彼は咎められる事がない。」私は聞きました。「誰がその様に人々を逮捕する権威を与えるんですか?」彼は答えました。「警官の権威は地元の政府や、法機関からのものではない。彼らの権威は国の司法長官からのものなんだ。彼は国で一番の警官なんだよ。」この事を理解して下さい。新しい契約の中にいる私達にとって、新約聖書に書かれている事が私達の行動の基準です。もし私達が誠実に御霊と御言葉に基づいて人を助ける為に働いているなら、間違いを犯したとしても、神は私達の間違いも修正してくれます。何故なら、方法は間違っていても私達はそれらの事を正しい良心と動機からしているからです。ある大きな集会で人々の為に祈った事があります。その時は、音楽がうるさくて殆ど何も聞こえませんでした。頭痛の問題があると言って来た人がいました。私は頭痛と聞こえましたが、実際には心臓の問題でした。

私は言いました。「イエスの御名によって、今、この頭痛よ、去れ!イエスの御名によって命じる。私はこの人を自由にします。」そかれら、2週間後にその人がやって来て言いました。「私を覚えていますか、祈ってくれましたよね?」私は答えました。「はい、覚えていますよ。確か頭痛の為に祈りましたよね?」彼は言いました。「いえいえ、違います。私の心臓が癒されたんです。」何故、彼は癒されたのでしょうか?それは私の意図した事は、彼が自由になる事だからです。人々は完璧な型を追い求めます。正しい言葉を語り、正しい方法で正しい手段で、完璧でないといけないと考えます。癒しを行う時、人は持っている病気の一つを教えてくれるかもしれませんが、全ての病気や問題を教える事はしません。多くの場合、彼らは自分がどの様な問題を持っているのかも知りません。ある人は恥ずかしくて問題を伝えません。なので、祈る時はできるだけ「包括的」に祈って下さい。必要である時には具体的に祈って下さい。例えば、私は人の手を取り「イエスの御名によって自由になれ。癒されよ」と言います。この様に言えば、たとえその人が10の問題を持っていても、それらを全て言う必要はありません。私が「癒されよ」と言えば、それは全ての問題がなくなり、その人が完全に癒される事を意味します。私は人々が不完全に癒される事にうんざりしました。人々は言います。「私達はこれもあれも打ち負かしました。でも、この問題はまだ残っている。」その様な事が起きるのは、具体的な部分にこだわるからです。私達が具体的になる時、悪魔も具体的になって、正確な言葉を言わないと出て行かないように抵抗します。私達はイエスのように包括的になる必要があります。イエスは単純に「癒されよ」と言いました。

2019年1月29日火曜日

DHTT セッション3

ある方の質問です。「ある人が自分は癒されたと言うなら、その人に薬を取り続ける様に言いますか?」アメリカの法律によると、私達は他人に薬をどの様に扱うかについて言及する事はできません。彼らに薬を止める様に言う事は法律上できないのです。それは許可なしで薬を扱う事になります。薬についてコメントする事さえできません。なので、ベストな事は薬についての言及は避ける事です。教会では「あなたが祈ってもらった後に薬を飲み続けるなら、それは信仰を持っていない事を証明している。信仰を持っている事を証明する為には、薬を止めるべきです」と過去に教えられてきました。もし私達がその病人の信仰により頼むなら、病人が薬を取るかどうかを決めるでしょう。病人の信仰に頼るならです。しかし、私達は癒しの為に他人の信仰には頼らない事を学ぶべきです。他人が何をしようが、私達が癒しを行う事には影響はしません。これで薬の問題は解決します。もし薬が癒しを妨げる事ができると信じるなら、それはその薬は神の力よりも強いと信じている事と同じです。私は、神より強いものは他に何も存在しない事を発見しました。神よりも強いものは何もないと信じる限り、神は私達を通してそれを証明する事ができます。しかし、神よりも強いものがあると信じるなら、神は何よりも強くても、私達を通してそれを証明する事はできません。この真実を私達は理解するべきです。


メガネをかけていた人達が祈ってもらった後に、そのメガネを取って壊すのを見た事があります。しかし、その様な行為はまるで私達が神の腕をひねって、「今、何かしなさい」と強制している様なものです。それは信仰とは言い難いものです。よく私が癒しの為に祈ると質問されます。「メガネを取るべきですか?メガネをかけ続けると癒しを妨げたりしますか?」私はこう答えます。「あなたが癒されたら、メガネは外さなければいけなくなります。視力が良くなるので、メガネをかけていると見る事ができなくなります。その時にメガネを取ればいいです。別に眼科に行って癒してもらってもいいと思います。あなた次第です。」他人に何をして、何をしないように言う事が私の仕事ではありません。私の仕事は助けが必要な人達を、どの様に助ける事ができるかを教える事です。大抵、癒しが起きた時には他人に何か質問する必要はないからです。人はよく非現実的な質問をします。しかし、実際には癒しを行う時に多くの問題を扱う必要はありません。


幾つかの証をシェアさせて下さい。私達はちょうど「神の国を証明する事によって、大宣教命令を成就する」というタイトルの教えを作りました。イエス様は私達に命じました。福音を宣べ伝え、病人を癒し、死人をらせ、悪霊を追い出し、異言を語り、毒を飲んでも害を受けない、などです。ダラスにあるバイブルカレッジでこれら一つ一つのトピックについて詳しく教えました。

私自身の人生の中での証と、私の聞いた証を交えて教えました。私達は今まで、それらの命令の全てを行って成功してきました。9人死人が蘇るのを見たし、何千人と癒しを見てきました。一番新しい統計によると、過去4年間で、私が個人的に手を置いて癒された人々の数は7万位です。これは私個人だけの統計です。しかし、驚くべき事はこの訓練を受けた人々から証が届く事です。彼らは手を置いて癒された証や死人が蘇った証など様々な事を手紙に書いて送ってくれます。私にとって一番嬉しい事は、他の人が癒しを行っている証を聞く事です。


ある時、ペンシルベニア州のハリスバーグに一週間いて、そこで癒しをしていました。それはブレザレンの教会で、彼らは元気のいい礼拝ではなく、おとなしい事で知られていました。私達がそこを去ってから2週間後、礼拝中に突然女性が倒れて死んでしまいました。礼拝中に皆の目の前でです。彼らは緊急の911番に電話しました。彼らがいた所は田舎だったので、救急車が到着するまでに時間がかかりました。彼らは言いました。「彼女は死んでいるので、カリー・ブレイク氏が教えた様に彼女をらせませんか?学んだ事を実践できるから!」それで、彼らは彼女を取り囲んで祈り始めました。彼らによると、15~20分経った後に彼女はひょこっと顔を上げて、あたりを見回しました。その後、救急車が到着して救急士らは彼女を診察したがりました。その時には、彼女は病院に行く事はありませんでしたが、彼らは後で診断をしたがりました。そのまま彼らは礼拝を終えました。それが起こった後は、彼らの神に対する信仰は以前より強くなりました。他にも死人が蘇った証を知っています。私の息子はタイへの宣教師でしたが、彼も死人をらせました。私達は津波の災害が起きた翌年にタイに行きました。ある女性は癌を患っていたので彼女の家に行き祈りました。彼女は回復しましたが、その後に何かの呼吸関連の問題の為に病院に行く事になり、彼女はその病院で死にました。彼らは彼女を死体保管所に連れて行き、カバーをかけました。死体保管所はまるで、ただの開けた部屋でした。タイの病院はアメリカの病院とは違います。医師が死亡証明書を書いている間に、彼女は天へ行きました。彼女は仏教徒でした。医師達が死亡証明書を書いている間、彼女の体はそこにありました。その間に彼女は天へ行き、イエス様に会いました。主は彼女に言いました。「家に帰って、きれいにしなさい。」彼女はり、体を起こしました。医師達はビックリしました。その出来事は、その村と周辺が福音宣教の為に開かれるきっかけとなりました。


イエス様は仏教徒も死人の中かららせます。私は神がエホバの証人を死人の中かららせるのを見た事があります。彼は雪の中、道路脇に横たわっていました。心臓発作で亡くなり車を衝突させました。これはメンフィスの郊外で起きた事です。私達は車から出て彼の所まで行きました。私は手を彼の胸に置き言いました。「イエスの御名によって、あなたは死なずに、生きる。」2分間程たって、それから歩き去りました。

その時に、ゲップの様な音を聞きました。振り返ると、その男は頭を上げ、目を開けて動き出しました。彼の周りには、8~10の人達が彼を囲んで集まっていました。それから、救急車と警察が到着して人々を追い返しました。彼と一緒に救急車に乗って行った一人の女性が後で私に電話をして、彼はエホバの証人だったという事を教えてくれました。死人をらせた証の一番のものは、自分の娘をらせた時です。彼女は7歳の時に、2階の窓から落ちました。コンクリートの中庭に打ち付けられて死にました。その時、私は死人をらせる準備などできていませんでした。一般的に死人をらせる為に必要と言われている断食も祈りもしていませんでした。彼女が地面に落ちた音を聞いても、何が起きたか分かりませんでした。外に出て行き、そこに彼女が横たわっているのを見つけました。彼女を抱き上げた時、彼女の鼻は折れていて、歯は歯茎に刺ささっていて、彼女の頭皮はめくれていました。最初に私の頭によぎった考えは、最初の娘の葬儀でした。一瞬で全ての葬儀が頭によぎりました。それから、頭の中でこういう声を聞きました。「お前はまた娘を失う。」私は一瞬のうちに最初の娘が亡くなるのと、彼女の葬儀の全てを幻で見ました。そして、悪魔は私の頭の中で言いました。「お前はまた娘を失う。また娘を失う。」それで、私は叫びました。「イエスの御名によって、あなたは生きる、死なない!イエスの御名によって、あなたは生きる、死なない!」私は私の頭の中の声をかき消す為に、より大きな声で叫び続けました。その中庭で彼女を抱えながら、20~25分間の間歩きながら、腹の底から叫び続けました。「イエスの御名によって、あなたは生きる、死なない。」終に、私は家の中に行き、壁を背にして彼女を座らせると、彼女の頭は胸につく位に垂れ下がっていました。家族は降りてきて、パニックになっていました。私は彼女の正面に行き、彼女の胸を指差して言い始めました。「イエスの御名によって、あなたは生きる、死なない。」私はその同じ言葉だけを繰り返し言い続けました。それから20分ほど経つと、突然、まるで誰かが彼女の腹を殴った様でした。彼女はぐいっと引っ張られた様で、まるで電気ショックを受けた様でした。彼女は引きつって血を吐きました。彼女の目は開け目の焦点が戻ってくるのを見ました。彼女が生き返ってくるのを見る事ができました。彼女が最初に言った言葉は「お父さん、お腹すいた。」でした。私達は彼女を車に乗せて病院に連れて行きました。アメリカで死人が蘇るのをあまり見ない理由は、誰かが死ぬとすぐにその体を取り去ってしまうからです。海外では死人の体を火葬まで家族や親族と一緒に置きます。私達には死人の体を他の人に預けてしまう習慣があります。


私達は愛する人を他人に渡してしまいます。私は最初の娘を医師に任せましたが、彼女を埋葬する事になりました。それ以来、私は決してそうしないと決めました。しかし、色々な事が家族に起きました。数えればきりがありません。私の2番目の娘は3回も肺炎になりました。それは私の最初の娘を殺したものと同じでした。最初の娘を殺したものが、2番目の娘を襲う時には、彼女も失うかもしれないという恐れがあります。

私達は祈って神を信じました。機会があれば彼女の話もしますが、彼女は癒されたという事だけ言っておきます。私の息子は、以前の家で重い窓に腕を挟みました。その窓は彼の腕の上に落ちて、彼の腕の骨を折りました。私達は彼の腕を固めて祈りました。彼は癒されました。私達は家族や愛する人々が癒される事を見てきました。


コロラド州にいた時の事です。そこには双子の子供を妊娠していた女性がいました。医師はその双子が死んでいると診断しましたが、まだその子達を取り出してはいませんでした。死んでから2週間ほど経っていました。医師は自然と流産するか、腐敗してくると言いました。女性は流産を望んでいたので待っていました。そして、この女性は私達の集会に来て、9ヶ月妊娠していて既に出産しているべきでした。そして、彼女のお腹に彼女の手を置いてもらい、私は彼女の手の上に私の手を置きました。私達はいつもこの様にして女性の為に祈ります。私達は女性の体には手を置きません。彼女の手を取るか、問題のある場所に手を当ててもらいます。そして、彼女の手の上に私達の手を置きます。そうすれば何も問題は生じません。癒しのミニストリーは、ただでさえも多くの人が批判します。私達は賢く、正しい方法で癒しを行う事ができます。なので、私は彼女の手の上に私の手を置いて、命を与えて、エホバの証人や私の娘に言った様に同じ事を言いました。「イエスの御名によって、あなたは生きる、死なない!」私も彼女も何も感じませんでした。ただ信仰のみでした。彼女は戻って行って座りました。それから、集会が終わり彼らは帰って行きました。彼女は家に帰る途中にお腹の中で動きを感じましたが、彼女は流産が起こっているのだと思いました。彼女は病院に行きました。すると、双子が生きている事が分かり、彼女は彼らを出産しました。ダニエル、エレミヤと名づけられました。


私達は9人が死人からるのを見ました。そのうちの一つは、2005年にイタリアでの事でした。「アンジェロの為に来て祈ってもらえますか?」私は答えました。「いいですよ。」それで私達は病院へ行きました。集中治療の病棟に大きな部屋がありました。その部屋には一度に一人しか入る事が許されていませんでした。彼らは私を連れて行き、マスクやガウンや手袋などいろいろなものを着せました。そして、私はその部屋に入りました。アンジェロは叔父に撃たれましたが、何故撃たれたのか、それが事故だったのか、それとも意図的に撃ったのかは分かりませんでした。彼は3月に昏睡状態になり私は6月に彼の所に行きました。なので、それだけの間、彼は脳死の状態でした。彼は生命維持装置をつけていて、喉には管がつけられていました。彼の意識はありませんでした。彼の目は開いたままでした。彼らは彼の両目を閉じておく事ができなかったので、目が乾かない様に、ジェルをぬっていました。私はその部屋に入りました。アンジェロは目を開いたままじっと上を見ていました。彼の脳は死んでいました。彼らは医師によると望みはないと言いました。彼は、感染症を起こして熱を出していました。

私は彼の元に行って彼に触る為に手を伸ばしました。手袋とマスクを外して彼に手を置きました。そして私は彼に言いました。「アンジェロ、私はあなたの目を覚ます為にここに来ました。目覚めなさい!」私は言いました。「イエスの御名によって、あなたが目覚めた時には全てが完全に働きます。脳は完全に機能し、体も完全に機能し、そして完全に癒されます。あなたは全てを覚えていて全ての事はうまくいきます。」私は彼の上に手を置いて命を彼のうちに流して、そしてその場を去りました。私がその部屋から出てきたときには、多くの人々が私の周りに集まって聞きました。「神は何と言いましたか?どう思いますか?彼は良くなりますか?」私は答えました。「はい、彼はよくなります。」彼らは言いました。「じゃあ、神は何と言いましたか?」「病人に手を置けば、癒されます。」そして、彼らは言いました。「だけど、神は何かあなたに言いましたか?」私は言いました。「はい、マルコ16章、あなたは病人に手を置けば、彼らは癒されます。」彼らは言いました。「分かりました。でも、神はあなたに何か言いましたか?」私は言いました。「はい、彼は言いました。私が病人に手を置けば、彼らは癒されます。」彼らは言いました。「では、神はあなたに何も言わなかったんですね?」私は言いました。「今あなた達に言ったでしょう。神は言いました。病人に手を置けば、彼らは癒されます。」そして、彼らは言いました。「では、彼は良くなると思いますか?」私は言いました。「はい、私は彼が良くなると知っています。」そして、私達は車に乗ってそこを去りました。その日の夜、私達を連れて来てくれたセビという人がインターホンで私を呼びました。「カリー兄弟、今から話せますか?」私は言いました。「いいですよ。」彼は言いました。「伝えたい事があるんですが。」彼はためらっているのが分かりました。彼は言いました。「アンジェロは亡くなりました。」私は言いました。「亡くなったんですか?」彼は言いました。「はい、彼は亡くなりました。」私は言いました。「それは驚きです。」それ以外、私は何も言いませんでした。彼は私が何かを言うのを待っていましたが、こういう気まずい瞬間には私は何も言わない方が良い事を知っていました。私は黙っていました。彼は私を見て、私も彼を見ました。それから、彼は言いました。「では、私は帰ります。又、明日会いましょう。」彼は下に行きました。私はエレベーターで上に行きました。エレベーターはしっかり閉まっているので、外から聞く事はできません。そこで私は話し始めました。普段はこの様には話しません。その時は、私は神にぶっきらぼうに話しました。「私は時間を無駄にして福音を宣べ伝える為にここまで来ませんでした。この福音は、行って彼らに手を置いて彼らは死にます、なんて言っていません。アンジェロは生きるか、私は家に帰るかです。彼は生きるか、そうでないなら私は福音を宣べ伝えるのを止めます。どちらかです。私は人々に大丈夫だと言っておいて、彼らが死ぬ為に出て行って宣教するのではありません。」私は言いました。「こんな結果は受け入れる事はできません。彼を生き返らせるか蘇生させるか、どんな形でも構いません。彼は生きます。彼は生きるか、そうでないと私は明日飛行機に乗って帰ります。」私は大きな声で話していました。それから、1階に着いて扉が開きました。

私の話は終わり、散歩に出て行きました。美しい地中海を眺めました。私は歩きながら祈っていました。すると「アパートに帰りなさい」という声を聞きました。翌朝、私達は神癒技術者訓練を教えに戻りました。セビとアンジェロの叔父がやって来て言いました。「カリー兄弟!聞きましたか?」私は言いました。「何についてですか?」彼は言いました。「アンジェロ!アンジェロの事です。」私は言いました。「彼は亡くなったと聞きました。」彼は言いました。「違います。彼は生きています。アンジェロは生きています。」私は言いました。「本当ですか?いつですか?」彼は言いました。「彼は目を覚ましました。今朝、彼は目を覚ましたのです!彼は全ての事を覚えています。彼は今は完全に元気です。感染症は死んで、彼は生きています。」アンジェロの叔父はとても興奮していました。

彼がアンジェロを撃った本人です。だから、興奮するのもよく分かります。彼は殺人の罪を着せられていたかもしれません。セビは言いました。「私はあなたに一つ質問があります。」私は言いました。「何ですか?」彼は言いました。「昨日の夜、私がアンジェロが死んだと伝えた時に、何故「それは驚きです」と言ったんですか?」私は答えました。「それは、私は負ける事に慣れていないからです。私は勝つ事に慣れているからです。」言うまでもありませんが、その後の癒しの集会は全く違ったものになりました。その知らせはその地域に広まりました。全ての人達がアンジェロについて知っていました。私達は地中海を見渡せる山の上にいました。そこには冷房がなかったので、彼らはできる限り風が入ってくる様に窓や扉を開けていました。その教会は木の床などがあり美しいものでした。その教会は白い石や大理石からもできていて、ギリシャ様式の美しいものでした。アンジェロの知らせはその地域全体に広がって、その夜の集会は満員になりました。教会の周りには庭がありました。人々が集まりすぎたので、人々はその中庭の隅の暗がりまで立たなければなりませんでした。私は一番遠くの人まで見る事はできないくらいでした。彼らは押し合いへし合い、集会を見ようとしていました。


私達が癒しの為に祈ると、もっと多くの人達がやって来ました。私達は車椅子に乗った2人の人達の為に祈り、二人とも車椅子から立ちました。多くの人達が癒されました。祈っていたのは私だけではありませんでした。私が教えた人達も一緒に祈っていました。それが一番な重要な事です。彼らは私と同じ癒しの結果を出していました。瞬時の癒しなど、色々な事が起こっていました。「私は特別な人です!油注ぎを受けた者です。病人を私のもとに送って下さい。彼らを癒します」とは言いません。私はむしろ彼らに言います。「キリストが油を注がれた者です。私達は神のわざを行っています。私達は神の言葉を語ります。福音こそが人々を救う神の力です。」福音こそが人々を救う事ができる神の力です。あなたが福音を宣べ伝えて、あなたが福音を宣言して下さい。私は病が既に癒されている事を宣言する為にいます。私の任務は悪霊を人々から追い払う事です。何故なら、彼らは既に癒されているからです。私は捕らわれている人達に宣言します。

「捕らわれている人達、あなたは癒されています。」癒しとは、私がこれからあなた達を癒そうとする事についてではありません。私達は既に癒されています。2000年以上も前に十字架の約束により全ての病は癒されました。しかし、病気は私達と私達が癒された状態を目で見る時点の間にあります。従って、私達の仕事は権威を行使し、その間にある病気が去る様に命令する事です。その間にあるものがなくなった時、何が起きますか?私達は癒されます。この様に癒しは単純な事です。どこに行っても私達がする事は捕らわれ人に自由を宣言する事です。次の様に言う事です。「捕らわれ人よ。イエス様はあなたの為に2000年以上前に死にました。あなた方は解放されています、という良い知らせを私は持ってきました。」なので、癒された様に行動して下さい。私の手は特別なものではありません。私は特別な賜物を主張しません。もし私が賜物によってこれらの事をしているなら、あなた達にも同じ賜物がない限り、私と同じ事はできないからです。

2019年1月28日月曜日

DHTT セッション4

癒しについての質問の幾つかに答えていきます。まず、死から生き返らせる事のできない年齢はありますか?いいえ、ありません。ここに私達の癒しの教えと、一般の癒しのミニストリーの教えの違いがあります。彼らによると、私達は70歳、健やかであっても80歳まで生きられると教えます。詩篇90:10に基づいています。ウィグルワースは何歳まで生きる予定かと聞かれた時に答えました。「私は70歳まで生きると約束されています。」彼が70歳になった時に、彼らは言いました。「では、今からはどうするのですか?」ウィグルワースは言いました。「健やかであっても、80歳までです。」そして、彼が80歳を超えた時には、彼らは言いました。「今はどのような聖句を信じているんですか?」彼は言いました。「詩篇91章です。私は、彼を長い命で満ち足らせるとあります。私が満足した時にこの世を去ります。」癒しの年齢制限は、詩篇90章によるなら、私達は70歳から80歳生きるでしょう。創世記の6章2節には120歳と書いてあります。120歳は私達の寿命の限界として考えられています。科学者達はなぜ私達が120歳より長く生きられないのか証明できません。ある一定の年齢まで生きる事を約束されている事と、私達が死人を生き返らせるように命令されている事とは何の関係もありません。イエス様はただ「死人を生き返らせなさい」と言っています。聖書は80歳前に死んでしまったら生き返らせ、80歳後は死なせなさいとは言っていません。次は、人が死んでから数週間経った後、埋葬や火葬された後に生き返らせる時についてです。この様な質問をされた経験もあります。そんな時はいつも「あなたの信仰の通りになれ」と答えます。アブラハムはイサクが灰になっても彼を取り戻すつもりでした。何故なら、アブラハムはイサクをいけにえに捧げるつもりだったからです。それはただのいけにえではなく、全焼のいけにえでした。だから、アブラハムはイサクが灰の中から生き返る事ができると信じていました。もし私達がアブラハムと同じ信仰を持つのなら、それは可能だと信じるべきです。「癒しの祈りが必要な人が高齢で、もう生きる気力がない時にはどうしたらいいでしょうか?」大抵、高齢の人達の癒しの為に祈る時は、年齢は問題ではありません。私達が変えるべき事は彼らの意志です。何故なら、長い間痛みや苦しみ、病気を経験してきた多くの人達は、殆ど諦めて死んだ方がましだと考えるからです。多くの人達は身体的には健康であっても自分はいつも病気であると考え、憂鬱になります。医師達は彼らに何の問題も見つけられません。生きる気力の無い人達を扱う時には癒しに加え、彼らがまだ人生の目的を達成していなくて、成すべき事があると説得します。その様に説得し始める事から、弟子訓練につながります。弟子訓練は自分自身の時間と力を他人の為に捧げる事です。生きる気力のない高齢の人を説得して、彼らの意志を変える必要があります。私達は彼らを癒す事ができますが、その後に彼らは、また病気になってしまいます。私達は、人々が力と神による健康を所有して歩む事ができる様に訓練しなければいけません。攻撃的に生きるべきです。

私達は長い間守備的に生きてきました。聖書には「ハデスの門も教会には打ち勝つ事はできない」とあります。これは、私達は攻撃的であるべき事を意味します。私達はこの世界を勝ち取っているべきです。聖書は「悪魔に機会を与えないように」と書いてあります。この「機会」とはギリシャ語で「Topos」と言い、「土地」という意味です。私達は敵に土地を与える事はしません。私達は町を勝ち取る事を学ぶ必要があります。私達は「どうやって霊的に町や都市を勝ち取るか」という教えを持っています。それは単純で実践的なものです。次です。多分、多くの人は答えを気に入らないと思いますが、幾つかシェアします。私が40歳の時だったと思います。私はトランポリンの上で飛び跳ねていて、そこにいる子をよけようとして隅の金具に足を乗せた時に骨が折れた音を聞きました。それから、隅の方に逃げた時に、その足が地面に着いた瞬間に完全に折れたのを聞きました。私はブーツを履き直す事ができなかったので、家に帰らなければいけませんでした。足は大きく紫色に腫れ上がり、私は歩く事ができませんでした。そして私は、車椅子に座り、足をそれに乗せたまま家中を移動していました。妻や他の人達は医者に行くべきだと考えました。彼らは言いました。「医者に行かなかったら、足が不自由になってしまうよ。」私は決断をする必要がありました。私は人々に同じ決断をする様に言っているのではありません。でも、私は私の置かれている立場から決断しなければなりませんでした。私は医者に行くべきかどうか言う事はできません。それは個人的な選択で、その人次第です。毎日人々が私達の所に来ます。大抵の場合、彼らの問題は小さなものではなく、生きるか死ぬかの本当に土壇場の状況です。ですから、他の人達を癒すなら私は自分自身の癒しの為にも信仰を持つべきだと考えました。私は小さな問題がある度に、医者の所に行く事はできませんでした。自分の為に戦う事を学ばなければなりませんでした。私はもし他の人達を癒すなら、私自身は癒しの為に誰の元にも行かない事に決断しました。それはプライドではない事を理解して下さい。私はその癒しを自分で得なければいけないと分かっていました。もし私が自分の足を骨折してすぐに医者に行くなら、どうして私が他の人の癒しの為に祈る事ができるでしょうか?皆さんが私と同じ立場に立って考える様に言っているのではありません。私の決断は、私自身の立場からのものです。最初にした事は自分の体に向かって「足よ。神の言葉と一致しなさい。イエスの御名によって癒されよ。今、癒されるように命令する!」それから、私は声を大きくして足を叩いて命令しました。足を叩く度に激痛が走って意識を失いそうになりました。目の前が真っ黒になりました。それを繰り返しました。痛かったです。その様な状態が3~4日続きましたが、それ以来、歩く事ができるようになりました。まだ少し痛みましたが、ブーツを履く事はできました。その時は、まだどうなるか分からなかったので、その足にあまり体重はかけませんでした。2週間かかりましたが癒されました。他にも同じ様な決断をした事があります。ある時、私は夜のコンビニで働いていました。虫歯で腫れ上がっていました。普段薬を取る事はしませんが、その時は痛み止めを飲んでいました。

それは4~6時間おきに2錠を飲んで下さいと書いてありましたが、私は毎時間4錠飲んでいました。それは絶え間ない痛みでした。私は歯医者に行く事もできないと知っていました。それで、真夜中にトイレに行き鍵を閉めました。ポケットナイフを取り出してその歯を抜きました。その様に、私は思い切った決断をしてきました。私は皆さんにも同じ事をする様には言いません。でも、私はやるべき事は何でもするように自分自身に言い聞かせてきました。ウィグルスワースは「疑いながら生きるくらいなら、信じながら死ぬほうがましだ」と言いました。私も決断を下す時にその様に考えていました。人々は私に薬を飲むべきかと聞きます。「それに関してはコメントできません。」そうすると、彼らは言います。「では、あなただったらどうしますか?」それは、遠まわしに何をしたらいいかと聞いている事と同じです。その様な時、私は言います。「もし薬か何かが必要なら、医者の所に行きます。でも、薬が必要な時には私は医者に行けるような状態では無くなっていると思います。だから、あの時も私はトイレに行く事に決めました。」さて、私は歴史家だと思います。ペンテコステ派の歴史、世界の戦争史や軍隊の歴史も含めてです。ストーンウォール・ジャクソンはある時、仲間の兵士と一緒にいました。彼らは周りで爆弾が爆発して弾丸が飛び交っている戦場にいました。ジャクソンのユニフォームには弾丸の穴が開いていましたが、彼は無傷でした。人々は彼に聞きました。「皆が爆弾や弾丸を避ける為にかがんだり、地面に伏せているのに、あなたはどうして尻込みもせずに戦場を歩き回れるんですか?」彼は言いました。「私の信仰は、もし私が神の御心を行っているなら、戦場でもベッドで寝ている時と同じ様に安全だと教えてくれるからです。」私達もそう考えるべきです。彼は最終的には死にましたが、もし彼が死ななかったなら恐らく南軍が勝っていたと思います。その時点までは彼は負けた事がなかったからです。もし彼がゲティスバーグの戦いに参加していたら、彼の軍は勝っていたでしょう。彼がその戦いにいなかったのは、北軍の勝利に貢献した一つの要因だったでしょう。とにかく彼は自分自身を全て神の御手に委ねていました。私達はこの事についてバランスの取れた考えをする必要があります。私達の命は神の御手の内にあって、何処に行っても安全である事を理解しなければいけません。私達は火の燃える炉の中に投げ入れられたへブルの子達の様でなければいけません。「私達の神は私達を助け出す事ができる事を確信しています。そうでなくても、私達の神以外は拝みません。」はっきりしている事は誰も私を打ち負かす事はできないという事です。何故なら、何が起きようと私はそれを克服するからです。何故でしょうか?私は神と正しい関係を持っているからです。神と共に歩いているからです。私は神の仕事をしているからです。誰でも私を倒そうとして私を傷つけ、打ったり、殺そうとすればする程、私はより強く成長します。ですから私は何も恐れません。でも、傷跡を持っていない訳ではありません。ただ、傷跡は勲章になるべきです。私達が勉強するべき人物の一人はウィリアム・ブースです。ぜひ彼の人生の話を学んで下さい。彼は救世軍を作りました。


彼は日記にこの様に記しています。「今年だけでも私達に対して690の襲撃がありました、その為に法廷に行かなければいけませんでした。」ウィリアム・ブースは人々が彼らに向かって投げたものについても書いています。「私達はレンガ、腐ったトマト、死んだ猫の体の一部などを当てられました。」でも、彼らはそれらの迫害を勲章として受けました。彼らはその様な経験をしました。ある人々は言います。「イエスの御名を公の場で口にするべきではありません。私達に宗教を押し付けるべきではありません。」でも、人々に福音を知らせる必要があります。今日、私達は常識や礼儀正しさを失いつつあります。男も女も悪口を言い、以前は公の場では言わなかった様な言葉を平気で口にします。もし悪口を言っている人の隣である人が「神に感謝します」と言うと、人々はその人をおかしい人のように見ます。それなら、私達は他人と違う人になるべきです。今こそ私達の信じている事を人々に知らせる時です。何故なら、彼らはその日には神の前で「何故あなたは私にイエス・キリストの事を知らせてくれなかったのですか?」と言うでしょう。少なくとも「私は伝えようとしましたが、あなたは聞きませんでした」と言える様になるべきです。神は立ち上がる人々を捜しています。聖書には「主はその御目を持って、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現して下さるのです」とあります。あなたが他人より目立つ事で神はあなたを見つける事が出来ます。私達が信仰を持って立ち上がり、真理を語り出す時に神は私達を見つけるでしょう。1997年に南アフリカで教えていて、昼食から帰ってくると会堂の人々は2倍に増えていました。朝のセッション後に私が牧師達と食事に行っている間に人々は出て行って祈り、癒された人々が来たからです。昼食は短いものでした。私は驚いて牧師に尋ねました。「どうして人々がすぐに出て行って癒しを行うようにできたのですか?あなたが一度言っただけで、彼らはそれに従って癒しを行いました。アメリカでは人々が癒しを行うようになる為に、ギリシャ語やヘブル語、神学などを用いて細かく説明して説得しなければなりません。」私は決して彼の答えを忘れる事ができません。「カリー兄弟、あなたには分からないでしょう。ここにはあちこちに病院はありません。ここでは私達は神を信じるか死ぬかの選択しかありません。」その時、私達の持っている祝福が私達にとって呪いとなってしまっている事に気が付きました。何故なら、私達は生活の中で他の多くの神々を持っているからです。私達はもしお金が必要なら、備えて下さる主の代わりに銀行でお金を借ります。もし心配事や問題があるなら、平和の神の代わりに精神科医から安定剤や薬を貰います。もし癒しを必要としていたら、癒す神の代わりに医師に頼ります。医師は痛みがあればそれを取り除くか、痛みを消す為の何かをくれます。私達には多くの神々がいます。ですから、ある時点で誰が私達の神なのか決めなければなりません。最終的にはその様な神々はあなたを失望させるでしょう。だから、今のうちに本当の神を選んでおいた方が賢明です。私は9歳の時にアルコールを飲まないと決めました。誘惑の戦いの最中は何か決断をする時ではありません。何でも前もって決断をして、制限範囲を作っておいて下さい。

私は何年も前に神に言いました。「もし私がミニストリーの立場に立ったなら、誰にもお金を頼む事はしません。誰にも私達の必要については言いません。私達はただ神を信頼します。いつもこの法則に従います。」これが、私達がDHTの訓練に参加する為にお金を取らない理由です。自由献金は集めますが、何もなくても気にしません。何も与えたくないのなら、それはそれで構いません。もしそれがここで満たされないのなら、神は私達が帰った時に郵便受けに必要な分を与えてくれます。いつもそうして成功してきました。それは私達が神を信頼するからです。もし私が他人にお金を頼るなら、私は彼らが気に入るメッセージをする事になるでしょう。そうでないとお金をもらえないからです。私は神を信頼するから自分が信じる真理を語る事ができます。私は他の人達がそのメッセージを気に入ろうが気にしません。これはうぬぼれの強い人の様に振舞っているのではありません。神が私の全ての源です。神はそれを証明してくれています。私はただテキサス州で生まれた者に過ぎませんが、神は私を世界中に連れて行ってくれています。私には他の人達が持っている様な資格はありません。私の持っている唯一の強みは、諦めない、止めない、引き下がらない、何が起きようと前進し続ける事です。神学校で学んだ資格もありません。ただインディアナ州のサウスベンにあるサムラル氏の学校に行きました。結局は全ての時間をサムラル氏と過ごす事になりましたが、それは神学校よりも益になりました。座っているだけのアカデミックな学びではありませんでした。でも神は私に神学校を与え、色々な神学校で教える事を許してくれました。私達はマイケル・ブラウンと友好関係があります。彼は私達を支持してくれました。彼は、私達の教えは神学的にも正確で、聖書的にも間違いはないと言ってくれました。マイケル・ブラウンの資格は素晴らしいものです。神がテキサス州出身の私のような者を用いてこの様な事を行う事をできる事に神に栄光を帰します。何故なら、私一人ではこの様な事は到底できないからです。それで、神が私を用いる事が出来るなら、あなたも用います。私は物事を行う時によく間違いを犯します。私は全ての事の順序を逆から行ってしまいます。ミニストリーを建て上げる為に、何でも一般に行うべき手順では行いません。私はミニストリーを建て上げるつもりはありませんでした。ただ役に立つものを求めていました。そして、今はそれをシェアしています。重要な事はミニストリーを立ち上げる事ではありません。重要な事は世界を変える事です。このメッセージには力があります。私達は今まで2万人以上の人達にこれを教えてきました。私は今まで誰からも、メールや電話や手紙などを通して 「あなたの教えた事を試してみたけども効果はありませんでした」という返事を受け取った事はありません。もう一つの証をしましょう。ある80歳後半の夫婦がいました。女性の方から一年ほど前に手紙をくれました。「カリー兄、私は今まで神に用いられる事などないと思っていました…」この様に手紙は始まりました。ある日、ある女性が糖尿病を持っていたのでその為に祈るように電話を受けて病院へ行きました。彼女がそこに着いた時には、患者の女性の片足は既に切断されていました。そして、もう片方の足も血塊の為に切断する所でした。

彼女がその場に着いて自己紹介をしました。その女性は言いました。「何故あなたはここにいるんですか?」彼女は言いました。「私はあなたの為に祈る為に来ました。でも、最初に謝らなければいけません」その横たわっている女性は言いました。「何の為にですか?」彼女は言いました。「もっと早くここに来なかった事です。もっと早く着いていたら、足を切断しなくても良かったからです。」彼女は教会に50年間もただ教会に集っているだけでしたが、私たちのメッセージを聞いてそれを理解して、現在は外に出て行って癒しの為に祈っています。それで、彼女はその女性の為に祈りました。その女性が病院に運ばれたのは、彼女が摂取していたインスリンに体が過剰反応した事が原因でした。彼女は癒されました。それで彼らは彼女に検査を受けるように言いました。血塊は無くなり、彼女は足を失くさずに済み、糖尿病からも癒されました。医師もそれを認めました。この様な事は日常茶飯事のように起こっています。別の証をシェアします。ある退職した夫婦がいました。彼らは少し前に私に手紙を書いてくれました。それにはこう書いてありました。「カリー兄弟、私達はタイの南部にあなたの息子が宣教師としている事を知っています。でも、タイの北部にも、JGLMの宣教師がいる事を知って欲しいと思います。」彼女と夫の子供達が大きくなって、孫達と共に全員でタイに行きました。彼女は言いました。「私達は皆座って神癒技術者訓練のセミナーに参加してそしてその後もCDを何度も聞きました。」彼らは一般的な夫婦です。誰も彼らをサポートしていないし、誰もお金を払っていません。彼らは退職して年金をもらっています。彼女は言いました。「私達の前回の旅では、数百人の救いが起きました。それと同時に2週間の間に600の癒しが起き、記録されました。それらの大半には私達の9歳と12歳の孫達も携わりました。私達にはすでに3世代目の神癒技術者達がいます。」癒しを行う上で年齢は関係ありません。私のクラスで8歳の少女が癒しを学んでいました。彼女自身が癒しを必要としていました。彼女は家での学びにやって来て願いました。「私は食物アレルギーがあります。祈ってくれますか?」私は尋ねました。「何が食べられないのですか?」彼女は答えました「魚介類を食べる事ができません。」私は言いました。「分かりました。では行って、それらを食べなさい。」夜の11時だったので、どこで魚介類の食べ物を見つける事ができるだろうかと考えていました。その家の人がたまたま冷凍された魚介類の食べ物があったので、彼女はそれを食べました。

少女はこう言いました。「あなたがここに一緒にいるから、これを今から食べます。」彼女はそれを食べました。その後に私が他の人と話していると、ある人が言いました。「少女がその魚介類を食べていると、アレルギー反応を少し起こし始めました。しかし、彼女は「イエスの御名によって、反応よ、去れ」と命令し、その反応は去りました。そして現在、その少女は他の人々の為に祈っています。もう一度言います。年齢は関係ありません。今から私の言う事を聞くとあなたは怒るかもしれません。でも、それらの事について聖書を勉強すれば、それらは真理だと分かると思います。一つ目は、神の力は機械的である事です。私達は通常その様な事を好みません。

何故でしょうか?私達は神の力が怪奇で、神秘的である事を好むからです。神が信頼できる方であればある程、私達に責任が伴います。私達は曖昧な神秘的な事を好みます。「神は~できない。神は~をしないでしょう」という様なものは人の教えです。神は信者・未信者に問わず、全ての人を癒しました。神には限界はありません。限界は私達が決めたものです。もしあなたが、神が癒しの為には断食しないといけない等、神のつけなかった条件をつけるなら、神は私達を癒しの為に用いる事はしないでしょう。もしそう教えるなら、偽りの教えを広める事になります。神は本当に癒します。その人が罪を行っていても、その人を癒します。もちろん、神は人の人生に罪がある事は望みません。私は罪を犯し続けてもよいと言っているのではありません。私達が罪を犯していても、神は私達を通して人々を癒します。しかし、神様は私達が罪から離れる事を望みます。神はあなたを本当に愛しています。もし私達がこのメッセージを真に理解し神の心を理解したら、それはこの世界を変えます。神の心を真に理解する為には古い契約の考え方から、新しい契約の考え方に移る必要があります。古い契約の考え方は、私達はしもべで、神は私達から離れていると考えます。神は怒っていて、私達が少しでも間違いを犯すと激しく打つか、私達に差し伸べた助けの手を引っ込めると考えます。その様なものは私達自身を神から離す考え方です。しかし、新しい契約の考え方は、神は私達と共にいるというものです。神は私の内にいて、私の本来正しく機能する感情は神からのものです。何故なら、もし私が人々への哀れみを感じるなら、神はどれだけの哀れみを感じる事でしょうか?私がこの場に立って「神様、どうかこの人を癒して下さい」と言うと、それはまるで私は神よりも哀れみがあるように聞こえます。癒しは私達の行いとは関係ない事を覚えていなければなりません。癒しは私達が思いついた事ではありません。私達が聖書を書いたのではありません。私達が病人の為に祈り始める事を決めたのではありません。癒しは神の計画でした。神が癒しを聖書に書きました。神はそこに「信じる者が病人に手を置けば、彼らは癒されます」と書きました。神がこれを決めました。私達が思いついた事ではありません。でも、私達はそれをまるで自分が思いつた事のように振舞います。私達は神が癒しを行うように神を説得しようとします。しかし、神が癒しを思いつき、神が私達を癒しを行うようにしているのです。でも、目の前の病人を見て「神よ。あなたはこの人を癒す事ができます。もしこの人を癒してくれるなら、癒して下さい」と言うなら、それは神に対して最悪な言葉です。親は自分の子が何とか困難を乗りきる事ができるように手助けをしたいと思うでしょう。私達は親の心を知っているのに、父なる神は冷たい心を持った人のように考えます。しかし、現実には、私達はよく神の力は疑わずに、彼の御心を疑います。この様な考えは古い契約の考え方からです。しかし、私達はさらにすぐれた新しい契約を授かっています。新しい契約の中心は神の御霊が私達のうちに住む為に来たという事です。私達が至聖所になります。私達が神の幕屋となります。古い契約の考え方はいつも、「神はどこか離れた所にいます。神を見つけに行きましょう。神の御顔を求めに行きましょう。

神の御心を見つけに行きましょう。神様、私のもとに来て下さい。私達に現われて下さい。主よ、あなたの栄光が下りますように」と言います。多くの人々はこれらの言葉を唱える事で、自分達が霊的であると勘違いしています。彼らは霊的ではなく宗教的です。私はアイダホ州のチャリスにいて、ある有名な奉仕者達といました。私は2つのDVDを作りました。一つは「神の国の福音」と言うもので、もう一つは「悪魔の教え」というものです。その内の幾つかは今このセミナーで教えています。正直に言うと、私達は彼らを怒らせました。実際に、私が去った後に彼らは集会を持ちました。本当の話です。彼らは私の話した事を検討していました。この人達は話しました。「私達はこの集会をもっと霊的にしなければいけません。」私がそこにいた時に、大きな看板がありました。それには「もしあなたの臨在が行かないのなら、私は行きません。」と書いてありました。私は彼らに言いました。「でも、ダビデ自身が言いました。私はあなたの御霊から離れてどこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。たとい、私が天に上ってもそこにあなたはおられ、私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」私は続けて言いました。「私の行く所は何処でも、神の臨在も共に行きます。」この新しい契約の考え方のメッセージを真に理解するなら、それは人生を変え、完全にあなたを変えます。何故なら、これからは神に乞い願う事をやめて神と共に支配する事になるからです。高慢な視点ではなく、人々を助ける事ができるものを自分の内に持っているので、神と共に支配する事を決心するようになるからです。人々を助ける事ができるようにいつも準備していて下さい。ある人たちは、「天が開くように祈っています。」と言い続けます。でも、私達自身が開いた天ですから、開いた天を求める必要はありません。もし部屋に罪人とクリスチャンがいるなら、そこには開いた天と閉じた天があります。罪人は祈りますが、彼らの祈りは多くの場合、聞き入れられません。でも、私達は開いた天です。天につながっている管です。天に届くように祈り続ける必要はありません。私達が一言「イエスの御名によって」と言えば天に届きます。何故でしょうか?それは、神は私と共にいて、私達が行く所には何処でも神も私と共に行くからです。人々は「主よ。どうかあなたの臨在を私達に現して下さい」と言います。聖書は「しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、誰が天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろす事です。また、「誰が地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げる事ですからす。では、どう言っていますか。「御言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰の言葉の事です」と言っています(ローマ10:6-8)。神は私達の内にいます。神は人となった言葉です。その御言葉をあなたの内に蓄えて下さい。そして御言葉を語って下さい。そうすればそこに神はいます。私の教えている事はとても単純です。聖書の教えは難しくされてきました。単純に、神はいつも私達と共に働こうとしているのを信じる事が必要です。神は私達と共にいます。毎朝起きた時に、神を探しに行く必要はありません。

古い契約の考え方の本質は、私達は満たされていないというものです。それは、何かがもっと必要であり、何かをもっと得なければならない、私はまだ準備ができていない、という様なものです。私達は満たされていないと考えるのなら、それは古い契約の考え方です。でも、新しい契約の考え方は「私はキリストによって、何でもできるのです」というものです。何でもできるのなら、死人を生き返らせ病人を癒す事も含まれます。新しい契約の考え方は、私は既にキリストにあって全てを持っているというものです。ですから、何故、まだ他に私達に何か加えられる必要があるでしょうか?何故、未だに油注ぎを求めるのでしょうか?新しい契約の下のクリスチャンとして、私達には何か欠けた所があると考える必要はありません。聖書を読む時に、私達はいつも自分自身を次のうちの誰かの立場に置きます。例えば、私達がイエスが群集の中を歩いていくのを見ているとします。そこには、イエスと弟子達と病人がいます。もし私達がいつも病気なら、自分自身を病人の立場に置きます。そして、病人が癒される為にしようとする事と同じ事をします。イエスが地上を歩いていた時の人々は、古い契約の下にいました。彼らはしもべの考えを持っていました。彼らは新しい契約を理解していませんでした。福音書の病人は私達の見本ではないので、病人は私たちの姿ではありません。「誰でもキリストのうちにいるなら、古いものは過ぎ去りました」とありますから、私達は新しく造られた者です。「古いものは過ぎ去り、見よ、全てが新しくなりました。」次の節には「全てのものは神から出たものです」とあります。「全てのもの」とは何でしょうか?それは、「私達の内にある全てのものです。私達が成長する時には、私達はキリストの様になります。キリストが私達の見本です。弟子達は私達の見本ではありません。イエス様を見本にして下さい。イエス様の行った事を見て下さい。そして、彼のしなかった事にも注目して下さい。イエス様は始めに人を集めて「皆さん、並んで下さい。今から手を置いて信仰と油注ぎを与えます」とは言いませんでした。私達はその様にします。もし私達がいつも私たちの進むべき道について語るなら、私たちは前進し続ける事になります。私達がなるべき姿を語るべきです。私達は自分がなるべき姿を知り、それについて語りそのレベルにまで達するべきです。いきなりそのレベルにまで達する事はありません。間違いも犯します。それでも私達は前進し続けます。私達は「頭での知識を得ました。あとは頭の知識が心の知識になる必要があります」と考えます。でも、そうではありません。私達は真理の知識に従って一新された考えと完璧な心を得る必要があります。もし、いつもこの心の声を聞くならば問題は起こりません。問題はこの新しくされた(思考と)心の代わりに、一新されていない考えに従う事です。これは、古い契約の考えの罠です。一新されていない考えは古い契約の考えです。人々は真理の知識があると言いますが、まだ新しい契約に従って一新されていない部分の考えに沿って歩んでいる限り、古い契約の考え方に基づいて歩むのです。人々は頭に知識があると言いますが、それだけではまだ古い契約の考え方、つまり一新されていない考え方に基づいて歩んでいます。

人は、新しい契約の考え方に基づいて考えが一新されていない限り、古い契約の考え方に基づいて歩んでいます。たとえ間違えを犯しても、決して自己卑下をしないで下さい。何故なら、私達にはキリストの考えがあると書いてあるからです(1コリント2:16)。癒しを行うときに、私が人々に、「行って、食べなさい。これをしてみなさい」と言うと、彼らは聞きます。「カリー兄、その言葉は聖霊からですか?それともあなたの言葉ですか?」私の答えはいつも同じです。「はい、そうです。」(笑)それで、彼らは私を見て言います。「私の質問を分かっていません。その言葉を話したのは聖霊ですか?それともあなたですか?」私は答えます。「はい、そうです。」このような答えは、彼らを苛立たせます。特に宗教的な人達をです。そして、彼らは言います。「あなたは自分を何様だと思っているんですか?」私は自分が誰であるかを知っています。私は私が誰であるかは関係ありません。でも私は神が造ってくれた自分を知っています。神は私のうちやって来てくれました。私が神に代わって物事を行うときには、私は神の言葉を話す事ができて、それは力を持ちます。まず私達の心が正しくならなければいけません。それから、その心が私達の考えを一新するように教えます。ローマ12:1-3では「この世と調子を合わせてはいけません」と書いてあります。この世に従って、自分を型にはまった人になるようにさせてはいけません。今日の教会を見て下さい。それらの多くはこの世のものを成功の動機としています。神は私達に成功して欲しいと願っています。疑いの余地はありません。成功とは他の誰もできない事をする事です。もし私達が神の御霊を持っているとしたら、私達がイエスのした事ができるはずです。もし、私達がイエスのした事と同じ事ができないなら、どの様にして私達が神の御霊を持っている事を知る事ができるでしょうか?彼は同じ御霊です。ですから、彼と同じ事を行うべきです。聖書が教える通りの事をするのを私達は認識するべきです。聖書は、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ思考の一新によって自分を変えなさい」と言っています。何故でしょうか?それは「神の御心は何か、何が神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知る為に」 です。私達が新生した時には、完全な霊は持っていますが、考えは完全ではありません。考えを聖書の御言葉と一致させる時、神の御心をわきまえ知る事ができます。私達の考えが御言葉と一致するまでは、多くを語るべきではありません。何故なら、御言葉と一致しない事を語ると他の人々を困惑させる事になるからです。ローマ12:1-2は私達がどの様に変えられるかについて言っている事に注目して下さい。それは考えを一新する事によってです。多くの人は新しい目的を決意をしたり、新しい事に専念する事によって変わろうとします。その様に試みますが、それで私達は変わりません。全てを理路整然とさせようとしますが、それは一新する事ではありません。私達は考えを一新する事によって変わります。考えを御言葉に従って変えて下さい。御言葉をただ記憶する事ではありません。私は文脈に沿って、正確に聖書の御言葉を解釈する事について言っています。私はいつもこの様に教えます。「もし癒しを行いたいなら、大半の教会が教える事と全く反対の事をしなさい。

そうすれば聖書の教えている事ともっと近い事を行う事ができます。」多くの教会は神が私達を癒せるようになる為に、まずその人の罪を見つけ、生活の中から取り除く必要があると言います。聖書にはそのような事は書いてありません。私達は生活の中で罪を犯しているべきでしょうか?もちろん、そんなはずはありません。神の御前で、聖く正しく生きているべきです。他の人達をもその様にするよう導くべきです。でも、もし神が私達を用いる前に私達が完璧になる様に待つ必要があったのなら、聖書自体が書かれていなかったはずです。何故なら、聖書に書いてある人々と、聖書を書いた人々は誰一人として完璧ではなかったからです。最初の使徒達でさえも完璧ではありませんでした。ペテロは口の悪い漁師でした。ヤコブとヨハネは天から火を呼んで町を焼き尽くすつもりでした。ユダは盗人でした。トマスは大抵の事を疑いました。私達はよく次の様に考えます。「私達が全ての事を整え全てのものが統一されている時に、全ての事が完璧になった時に、神は現われます。」しかし、全てが完璧な時には、私達には神は必要ありません。全てが問題だらけの時に神が必要です。私達はいつも全ての事を完璧に行おうとします。ペテロを見て下さい。パウロはペテロについて言いました。「あなたはエルサレムからの人達がいない時には、異邦人とも仲良くやっていたが、エルサレムから有名な人達が来ると、いきなりあなたは異邦人達と食事をしなくなる。あなたは偽善者だ。パリサイ人のようなものだ。自分でも人の負えない重荷を人に負わせている。」パウロとバルナバは喧嘩をしました。それは激しいものだったので、結果的に二人が別れる事になりました。使徒的なチームも分裂して、互いに違った方向に向かいました。しかし、神はパウロの手によって素晴らしい奇跡を行いました。議論や喧嘩が起こっていても、神の奇跡は起こります。パウロはコリントの教会の人達に言いました。「あなた方は肉的で、あなた達の間には分裂があります。私はパウロ、私はアポロにつくと言っています。」彼らは肉的でしたが、それでも、聖霊の賜物は働いていました。私達は考えます。「もし私達が十分断食するなら、十分祈るなら、私達が十分霊的になるなら、神は私を用いる事ができます。」しかし神は、肉的で多くの問題を抱えていたコリントの教会の人々も用いました。そこには、一人の自分の父の妻と寝ている人がいました。パウロは言っています。「あなた方の中には、異邦人の中にも見られないような罪があります。」それでも、その罪は聖霊の賜物の働きを止める事はなかったようでした。不思議ではないですか?私達はもし罪があるなら、だめだと考えます。何故ダメだか知っていますか?それは、私達がダメだと信じるからです。私達がだめだと信じる時、思い切って事を行う事ができません。ある人が私に言いました。「私が世界に出て行き多くのたましいを勝ち取る前に、神は私が全てを彼に明け渡す事を願います。」その様な考えをする人は、相当自分が重要であると思っています。その様な人は、他の人々よりも自分が重要だと思っています。それはパウロが言った事とは一致しません。彼は「私は自分の体を打ちたたいて従わせます。それは、私が他の人に福音を述べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならない為です」と言いました。

今日教えられている神学によると、神はパウロをきちんと正すまで、ミニストリーをさせないでしょう。しかし、パウロは「私が正しくあり続けるのは、私自身の責任です」と言いました。何故でしょうか?何故なら、イエスは全ての人の為に死なれたからです。イエスは人々を解放にする為に死なれました。それが、私達が理解しなければならない事です。最近、私は一人の人がこの様に聞いたのを覚えています。「私は異教の人達を救おうと考え、アフリカに行きました。それは彼らが地獄に行くには値しないと思ったからです。」そして彼は続けて言いました。「アフリカに行き、イエス・キリストを証していて、彼らが神を望んでいない事に気が付きました。彼らは神とは一切関わりたくないと思っていました。そして、突然私は思ったのです。彼らは確かに地獄に行くに値する。」それで私はアフリカから帰ってくるつもりでしたが、神が私に話しかけました。「あなたは彼らの魂を勝ち取る必要があります。何故なら、イエスは彼らの為に死に、イエスは彼らが救われるに値するからです。」私達は焦点を間違えてきました。私達はまるで神よりも哀れみがあるように振舞ってきました。私達は自分の子を他の人々が救われる為にいけにえとして捧げていません。あなたの子は人々の罪の為に死ぬ為にこの世にはやって来ませんでした。もし、あなたの子が死んだなら、それは何人分の価値がありますか?その子の死はどれだけの価値がありますか?その子の死は一人の人が救われるだけの価値ですか?あなたは次のように言うと思います。「私の子の死は、全ての人が救われるだけの価値があります。」神もその様な気持ちです。神はご自分の子の命を与えました。それによって全ての人が救われて、全ての人が癒される為です。彼らは癒されれば、本当に神がいる事を知ります。私達は神の慈愛を人々に見せる必要があります。この事に気付く必要があります。神の慈愛が人々を悔い改めに導きます。

2019年1月27日日曜日

DHTT セッション5

質問です。「離れていて距離があっても癒されますか?」癒しの為に私達が人に触る必要はありません。イエスは何人かの人達を、言葉によって癒しました。私はオーストラリアから電話を受けた事があります。その人の為に祈ると、私が話している間に癒されました。また、ある男の人が心臓発作で突然死んだ事がありました。私の携帯が鳴り、電話の女性は夫が死んだと言いました。彼女は、彼は床に横たわっていて、緊急医療班が彼を連れて行く所だと言いました。彼女は彼らに言いました。「私が電話でこの人と話し終わるまでは、夫を連れて行かないで下さい。」私は彼女に「彼らを引き止めていて下さい。あなたの電話を夫の胸に当てて、30秒間待って下さい」と言いました。それで彼女は電話を彼の胸の上に置きました。その様な音が聞こえたら、私は言いました。「あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって!」私はいつもこう言います。「あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって!」しかし、これは型ではありません。おまじないの言葉でも、魔法の言葉でもありません。私の経験からそれは結果を出すのでいつもそれを使うだけです。スワケの7人の息子達の様にはならないで下さい。「カリーが言ったので、あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって」とは言わないで下さい。祈る時には、皆さんの内にある言葉を外に出して下さい。それが私とは違う言葉でも、働き結果を出します。「イエスの御名によってあなたは生きる、死なない」と私が言ってから30秒ほど経って、彼女は言いました。「彼らが夫を連れて行きます。」彼らは夫を救急車の中に入れて病院へ向かいました。彼女は車で彼らについて行きました。私は後になって彼女が電話と手紙で連絡して来た時の事を覚えています。彼女は、「私は車で救急車の後を追いましたが、彼が生き返った時がみてとれました。救急車の後ろで混乱が起こったからです。慌ただしくしていたので分かりました」と教えてくれました。ジョン・レイクがこの時代に生きていたら、電話やEメールで癒しを行う事ができる事をすごく楽しんだと思います。


次に、毎回癒す為に人に触れる必要はあると思いますか?という質問に答えます。いいえ、ありません。その他に「祈る時に何と言うべきか?」という質問があります。聖書は祈る時には何を言うかは教えていません。ヤコブ書では「長老を呼んで…」と書いてあります。(ヤコブ5:15)聖書が祈るように教えているのは長老達だけです。マルコ16:18には「祈りなさい」とは書いてありません。そこにはただ「信じる者は病人に手を置き」とだけしか書いてありません。何故、私達は癒しの為に祈らなければいけないと自動的に考えるのでしょうか?私達が勝手にマルコ16:18に「祈る必要がある」と付け加え、「私達は手を置いて祈る必要がある」と思い込んだのでしょう。聖書は「手を置いて祈る」とは書いてありません。ただ「手を置く」とだけ書いてあります。私達が手を置くと神の御霊の流れが病人に流れます。これによって病人は直接神の力によって癒されます。

しかし、その為には私達が手を置く必要があります。葬儀に出席した事がありますか?亡くなった人の親族に対して、私達は何とかして慰めたいと思いますが、どんな言葉が愛する人を亡くしたばかりの人を慰める事ができますか?できる事は彼らに気遣っている事を見せる事だけです。私達は彼らに「お悔やみ申し上げます。もし私達に何かできる事があれば…」と言うだけです。それ以外に何ができますか?彼らを見つめ、手で軽く触る事によって彼らを愛している事を伝える事はできます。私達は触る事によって、言葉よりも多くの事を伝える事ができます。何故でしょうか?それはその触れる事によって、愛と哀れみが彼らに流れるからです。これと同じ法則を癒しにも用いて病人に手を置いて下さい。私達は同じ様にして哀れみを病人に対しても持つ事ができます。私にもその経験があります。私には奇形を持って生まれてきた子がいました。私は人々がその子に対してどの様な反応をするかを知っています。自分の子供が、病院で管につながれ、残りどれだけ生きるか分からないかを告げられる事がどの様なものかを知っています。そんな状況では、皆さんも私と同じように「ああ神様、この子と私の立場を取り替えて下さい。私はどうなってもいいですから」と祈るでしょう。これが親の心ですよね?神も人を見る時、この様に感じています。神様は考えたのです。「もし私が彼らの代わりになれるのなら...」それで、神は何をしたでしょうか?ご自分の一人子を遣わしました。何故でしょうか?それは彼が私達の身代わりになる為です。


イエスがやって来た事は、父の愛による事でした。神は御自分の唯一の子を私達の為にささげました。自分の子の命を他の人が苦しむ必要がなくなる為にささげる人の事を考えてみて下さい。ある子供たちは手も足もなく生まれてきます。足がなくて生まれてきた子供達は人口器具によって普通の子供達と同じくらい早く走る事ができるようになります。もし子供達がその様な環境に子供の頃からいるのなら、それに順応して障害によって心が傷つく事はありません。幾らかの不備な事はありますが、今日のアメリカ社会では彼らは大半普通の生活を送る事ができます。成長する上で幾らか不利な事があっても乗りこえる事が出来ます。多少の不備があっても普通の暮らしが出来ますが、覚えておいて下さい、その子自身は他人と違う事は気にしません。生まれつき手足がないので、手足を失った経験がないからです。手足を持つ事がどの様なものであるかを知りません。そういうわけで、彼らを見た時には哀れみはどこに向けられますか?まさにイエスがされたように、ナインのやもめである母親の場合と同じように、母親に向けられると思います。多くの場合、両親は子供よりも心を痛めています。自分の子供がその様な状態であるのを見るほど心を痛める事はありません。その状況を変える事ができるなら何でもするでしょう。これを理解する時、両親に対して哀れみを持ちます、そして、彼らの子供を癒す為には何でもするでしょう。それが哀れみです。その哀れみが病気を癒し全ての状況を変えます。この憐みが世界を変えます。

私達は癒しを行う時、いつもその時に必要なものは全て持っていて、この病人を癒すのは神の御心にかなっていて、その病人がその癒しの為に必要な信仰を持っていなければと考えます。それはまるで税金の書類の様なものです。私達は多くの規則を作り、癒しを行う事がまるで税金の書類を記入する事よりも難しくしてしまいました。イエスはその様な多くの規則は作りませんでした。彼は簡単に癒しました。では、長血を患った女を見てみましょう。長血を患った女の人の話は神学では説明できません。その話は現在の神学を打ち壊すものです。その当時、イエスはこの地上においての言葉でしたよね?イエスは神の御心、言葉、心の完全な現われではありませんでしたか?彼は神の完全な本質の現われでした。このイエスが群衆の間を歩いている時に、長血を患っている女性は彼の着物のふちをさわりました。そして、イエスは振り返り「誰かが私にさわりました」と言いました。彼は誰がさわったかさえ知りませんでした。しかし、その女性は癒されました。これはどういう意味でしょうか?神は癒したい時にだけ、「では、あなたを癒しましょう」と言って癒しのスイッチを押して誰がいつ癒されるかを決めるのではありません。この女性はイエスのみもとにやって来て心の中で言いました。「もし彼のお着物の縁にでも触る事ができれば…」この場合、誰が癒されるための条件を決めましたか?彼女が決めました。イエスは振り返り、誰が彼に触ったかさえも分かりませんでした。私達は、イエスは神の力が彼女の中に流れていった事を知っているに決まっていると考えます。この箇所より誰が神の力をコントロールしていたかが分かります。イエスが人々への神の力であり、その女性がその時に神の力を引き出して癒されました。私がこう言うと人々は怒りますが、私はそれが真実である事を発見しました。


色々な例で説明できます。例えば、今朝起きた時も時間はいつも決まっています。太陽の事です。神は毎朝起きて、「日よ昇れ」と言う必要はありません。何故でしょうか?それは、太陽は軌道に乗せられているからです。神が一度言ったので、彼がそれを変えるまでは太陽は同じように働きます。神は毎朝起きて太陽に向かって、「日よ昇れ」と言う必要はありません。それは今も一定して変わらずに働いています。神は毎朝起きて同じ事をする必要はありません。イザヤ書では神は彼の言葉を送って、彼の言葉は成就すると書いてあります。神は彼の願う事を成し遂げる為に神は言葉を彼の口から送り、その言葉は彼の言った事を成し遂げます。彼の言葉はむなしく彼の元には帰ってきません。他の例を使っても説明できます。もし古い契約が好きなら、古い契約からの例を使って反対する人達に説明しましょう。聖書は、「文字は殺します。」と言っています。私達は文字で肉的な考えを断ちます。モーセを例に取ります。彼は最初に岩が割れて水が出てきた時に、その場にいました。それから、彼は戻って岩を二度打ちました。彼は水を得ようとしていました。では、彼が岩を打った時には、どんな代価を支払いましたか?神は言いました。「あなたは約束の地には入れません。」

この様に、モーセは神に背いて岩を打ち、罪を犯し、それには代価が伴いました。私達が一般に受け入れている神学は、神の御心に従わないと何も起こらない、と言います。私達はそう考えますが、モーセは罪を犯したにも関わらず奇跡を行いました。それは神の力は機械的であるのを証明します。何故でしょうか?それは彼が杖を持っていたからです。しかし、彼のした事には代価が伴いました。私は神の御心に従わない事をするように言っているのではありません。私が言いたい事は、私達はモーセよりも偉大だという事です。理解しなければならない事は、私達の任務は真理を語る事によって天国を地上にもたらす事です。ある人はそうは思わないでしょう。しかしイエスは彼らに、「あなたの御心が天国で行われるように地でもなされますように」と言いました。天国には病人や肢体不自由な人、死にそうな人々はいません。病気はこの地上にあるべきではありません。今から幾つかの聖書箇所を見せます。それによってもし病人が私達の町にいるなら、それは私達の失態である事を証明します。癒しを行う為に何が必要かを知る事は皆さんの責任です。この神癒技術者訓練でそれらを凝縮して教えています。幾つかの事は実際に癒しを行うにつれて学んでいく事ができます。大半の問題と向かい合っても、皆さんがそれらに対処できるように訓練する事はできます。しかし、私達は決心をして癒しの義務を負わなければなりません。何故なら、何でも始めた事は最終的に私達自身にのしかかってくるからです。癒しを成し遂げる為にやるべき事を学ばなければなりません。それには責任も伴います。もし皆さんがどの様に人々に仕えて癒すかを学び、同時に癒しを神に頼る事ができないのなら、今から一年以内には、私が皆さんの神経衰弱の為に祈る事になるでしょう。


私は神経衰弱になりました。全てを負いすぎて、目を閉じると祈っている全ての人達の顔が見えました。店の中を歩いていて、途端に泣き出したり、時には震え出したりしました。その経験を他のスタッフに話しました。私は言いました。「何故この様な事が起きているのか分かりません。何で体がこの様に反応するのか分かりません。」ある時にはレストランに入った途端に泣き始めました。その時には立って誰にも見られないようにトイレに行き、そこで泣いて考えていました。「このまま泣いていたらだめだ。そうしたら、もう正気には戻れない。」私はそのトイレの隅に座って震え泣きながら神経衰弱になっていました。こうなった理由は、私がその様な煩いをイエスに委ねるのか知らなかったからです。私は病人達の癒しの責任を負っていました。癒しを行う上で、私達は際どいラインの上を歩かなければなりません。全ての責任を取りつつ神に全ての煩いを任せなければなりません。それは際どいラインですが、その上をどう歩くか学ばなければなりません。もしその歩き方を知らないなら、誰の助けにもなる事はできないからです。その歩み方は、もし病人が癒されたらそれはただ神の栄光と見なし、癒されなかったら私達の失敗と見る事です。しかし、ある時点で、過去の失敗などの苦い経験から自分自身を解放する必要があります。


例えば、モーセとイスラエル人はエジプト軍から逃げ、紅海までやって来ました。その時モーセはエジプト軍を背にし、紅海を前にしました。イスラエル人とエジプト軍の間には神の火の柱が立っていました。それなのに、イスラエル人は、自分達は死ぬと言いました。イスラエル人と全く同じ様な事を私達もします。神は私達を様々な困難から救い出し、助け出し祝福してくれました。しかし、新しい問題が起こると私達は「神様、何故この様な状況に私を置くのですか?何故この様な問題を許すのですか?」と弱音を吐いて泣きます。何故神はこの様な事を許したのでしょうか?それは私達が許したからです。これは単純な真理です。聖書には「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」と書いてあります。つなぐ事と解く事は何処で始まりますか?この地上で始まります!天ではありません。この地上でつなぎ、この地上で解かれるので全ては私達次第です。これが新しい契約のキリスト教です。イエスはこの様に考えました。イエスのみが私達の見本です。弟子達や病人は私達の見本ではありません。私達は聖書によれば新しい創造なのであって、その新しい創造としての歩みはイエスが見本となっています。


これを聞いてある人達は言うでしょう。「まるであなたは自分が何か特別で、異なった人間であると言っているようです。」そうです。私達は特別です。イエスは私達の内におられ、私たちとともに生き、歩み、話します。油注がれたイエス様は私達から去る事はしません。多くの人々は油注ぎについておかしな考えを持っています。ある人々は、油注ぎは増すものだと考えます。人々は「神は新しい油注ぎを注ごうとしている」などと言います。そうであるなら、神がその油注ぎを引き止めていたので私達は何もできなかった。これは神のせいだ。」といって、私達は全てを神の責任にするでしょう。神はキリストという油を既に注ぎました。神が今教会に何を言うか知っていますか?神様は「目を覚ましなさい」と言っているのです。パウロを通して「義に目覚めなさい。立ち上がって、あなたのうちにある聖霊の賜物を奮い立たせなさい」と言いました。新約聖書を読んで下さい。何事でも責任は100%クリスチャンにあります。決して神ではありません。そうでないのなら、いつの日か私達は神の御前に立って、「あなたは私が必要なものを与えてくれなかった」と言う事になるでしょう。しかし、誰も神の御前に立ち、まるで自分の方が神よりも一所懸命で人々を愛しているかの様に非難する事はできません。神は既に私達にイエスの御名、言葉、御霊を与えてくれました。もし、何か欠乏があるのなら、それは私達が受けたものを用いる為の従順です。


私達のバイブルスクールやチームでは、いつも私達が電話を切る時や、さよならを言う時には同じ事を言います。その時にはこう言います。「栄光と自由!」どういう意味かと言うと、「神には栄光を、人には自由を!」という意味です。

何故なら、私達はしいたげられている人達に自由を与える為にこの地上にいるからです。私達はよく言います。「私は油を注がれています。主の御霊が私の上にあるからです。」

それはイエスの言った事と正反対です。イエスは言いました。「主の御霊が私の上にあります。神が私に油を注がれたからです。」神の御霊が私達の上にあるのは、私達が油を注がれたからです。油を注がれるとは、ある事柄を行う為に指名されるという事です。サウルは油を注がれた王でした。彼は王となるように任命されたからです。分かりますか?油注ぎは任命される事です。私達はよくこの言葉を間違って使います。油注ぎは外から私達の上に注がれるものだと考えます。それは違います。油注ぎは私達が新生した時に受け取ります。そして、神の御霊が私達の上に留まります。私達は油を注がれて、そして神の御霊が私達の上に留まります。何故、御霊は私達の上に留まるのでしょうか?神は言いました。「あなたがたは子であるゆえに、神はアバ、父と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣わしました。」神は聖霊を遣わす事によって、私達を子供達にはしませんでした。私達が神様の子供達であるから、御霊を遣わしてくれました。私達は既に油を注がれています。


レイク氏は聖霊のバプテスマを受ける前に今日の大半の聖霊のバプテスマを受けた人々よりも素晴らしい癒しのミニストリーを1891~1907年にかけて行いました。彼は1907年までは聖霊のバプテスマを受けませんでしたが、それでも彼は顕著な癒しを行いました。ジョン・アレクサンダー・ダーウィも聖霊のバプテスマなしで大きな癒しを行いました。彼は癌をある人の顔から引き剥がし、その人は癒されました。何故彼はその様な事ができたのでしょう?それは私達が新生した時に私達には権威が与えられるからです。新生は神の子となる権威を信じる者に与えます。聖霊のバプテスマは神の子供の様に歩む事を可能にします。それが新生と聖霊のバプテスマの違いです。レイク氏は聖霊のバプテスマについて理解していました。これが、私が教えようとしている事です。これが、レイク氏が10万人の癒しを5年間に見る事ができた秘訣です。その秘訣は、神の霊は私達が彼を神の為に用いる為に与えられたものである事を理解する事です。大きな橋を制御する機械を見た事がありますか?その機械を操作する人は制御塔に座って、目の前にあるとても小さなハンドルを動かします。彼がそのハンドルを引くと、その大きな橋は持ち上がります。しかし、もしその操縦士が橋まで行き、両手でその橋を持ち上げようとしても決して持ち上がりません。そうですよね?そんな事は明らかですがもう少し聞いて下さい。その人は両手で橋を持ち上げる事はできませんが、もし、制御塔まで行って小さなハンドルを引きさえすれば、橋を持ち上げる事ができます。現在では、小さいスイッチさえ押せばその様な事ができます。それはどういう意味でしょう?橋が持ち上がるのは、その人のハンドルを上げたりスイッチを押したりする力の故でしょうか?それとも、その機械の構造によって力が急激に増幅されたからでしょうか?神から生まれた霊的な者としての私達の力は神の御霊によって急激に増大されます。神の御霊は私達から離れてはいません。

聖書は「主と交わる者は一つ霊です」と書いてあります。誰かが私に「それはあなた自身かそれとも神が言った事ですか?」と尋ねるなら、私の答えは「そうです」です。何故でしょうか?それは私達です。分かりますか?二人は一体になります。パウロは言います。「あなたに奥義を話します。それは男と女が一体になる事と同じ事です。」それは教会についても同じ事です。私達はキリストと一体となります。思い、方向、目的において一つです。これが、大半の、新生しているという人々が実は新生していない理由です。彼らはイエスを付随的に自分の人生を良いものとして、問題を修正して、汚い人生をきれいにする為に信じようとします。問題は現実には人々は真に古い人に死ぬ事なく、復活した者として歩もうとする事です。死ぬ事なしに復活する事はできません。多くの人は自分に死ぬ事は望まず、イエスを傷の上につけるバンドエイドとして欲しがります。自分の命を交換する対象としては求めません。パウロは言いました。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」これこそが私が今話している事です。イエスは、「もしあなたが私を遣わした人を受け入れるなら、あなたは私を受け入れます」と言いました。私はイエスではありませんが、彼の言葉を語り、彼の霊は私のうちにいます。天にいた神の御霊と私の中にいた私の霊は一つ霊となりました。そして今神の御霊は私のうちに充満しています。いつ、どこで御霊が動き出し止るか、いつ、どこで私が止まり、御霊が動き出すのを見分ける事はできません。私達は一体だからです。私達の考えが一新されればされるほど自分と御霊との見分けはよりつかなくなります。私達はキリストのように話し、行動するまで考えを一新し続けます。人々は皆さんを避け出し、遠ざけて言うかもしれません。「あなたは一体何様だと思っているのか?自分を誰か特別だと思っているのか?」いいえ、そうではありません。私達は何者でもありません。私達が自分は何者でもない事を知れば知るほど、イエスは私達のうちにより強く生きる事ができます。


人々はジョン・G・レイクについて言いました。「彼はこの様な事やあの様な事ができる。何故なら、彼は油が注がれており賜物が与えられているから。」彼は笑ってこう言いました。「もし妻のジェニーがそれを聞いたならきっと笑うでしょう。何故なら、彼女は私の間違いや欠点をよく知り尽くしていたから。」そして、続けて言いました。「人々は私が特別な人なので今私のしている事ができると言います。しかし、秘密はこれです。私が癒しなどを行う事ができる理由は、自分自身が誰であるかよく知っているからではなく、むしろ、私は自分自身が誰であるかを忘れる事ができるからです。」この様に、私達の問題は私達自身です。私達は「私はまだ準備ができていない、まだ~できない」と考えます。そうです。私達は決して準備万端にはならず、決して何も行う事はできません。ですから、さっさと自分に死んで、キリストが皆さんを通して生きる事ができるようにして下さい。そうする時、私達は自分自身について何も考えません。私は何年も無駄にしてきたので、今は時間を無駄にする事が嫌いです。今は穴埋めをしようとしています。

私は数年前にジョージア州にいました。私は少しの間そこに移って、教会を建てるのを手伝いました。ある時、私の妻と子供たちとモールに行きました。妻と娘は服を返品していました。私はよく本を持って出かけますが、その時は何も持っていませんでした。それで、その場にいたくはありませんでした。彼らは列に並び、長い時間が掛かっていたので、私は機嫌が悪かったです。霊的でもなかったし、異言で祈ってもいませんでした。ぶつぶつ文句を言ってその場に立って待っていました。「何の為にここにいなければいけないんだ。」私はついに妻に言いました。「私は本屋に行って本を買ってくる。そうすれば待っている間、立って本を読めるから。」彼女達はしばらくの間話していました。そうこうしていると、二人の女性達と若い女の子が近くにやって来たのを見ました。私は注意を払っていませんでしたが、何かを感じました。それは私の手のサイズでした。何かが私から彼女達の方向に向かっていくのを感じました。その当時、私は祈っていました。「神よ。何か変わった事、普通でない事をして下さい。何か奇跡的な事を行って下さい。」しかし、本当にその様な事が起きた時には「何だ?」と驚きます。この何かが出て行くのを感じた時に、その方向を向きました。私が振り向くと、それはその若い女の子がいた方向でした。彼女はお母さんにしがみついていたので、気分が良くない事が見て分かりました。何が起こっているか知っていましたが、私はただ眺めていました。ある人は訊くと思います。「彼女に手を置いて祈りましたか?」いいえ、私は皆さんのようでした。私は彼女達を助けたかったけどそこまで行きたくありませんでした。私は他の人達と同じ様に拒否される事は嫌いです。私達は他人がどう反応するか分かりません。2分程すると彼女は言いました。「お母さん、気分が良くなった。」私は「よしっ」と思っていました。


それから、私は家に帰ってその体験について考えていました。数日後に、ビデオをテレビで見ながらパソコンを使って働いていました。人々は私に世界中から様々なビデオテープを送ってくれます。その内の一つはアフリカからの癒しの集会のビデオでした。その中には、実際に癒しが起きている映像がありました。癌などが剥げ落ちていました。私はそれらの癒しを見ながら、つぶやいていました。「すごいな」と。そのビデオを見ているうちに、私はモールで起きたと同じものが私の内からテレビに向かって出て行くのを感じました。このビデオは1年以上も前に録画されたものだったので、もう既に起きた事です。もうその場面で神は働く必要はありませんでした。私がそのビデオの中の人達に何かする必要もありませんでした。私は仕事を一旦とめて、言いました。「神よ。これは一体何ですか?意味が分かりません。」彼は私に訊きました。「今まで経験した命が危うかった状況を覚えていますか?」「はい、今までに何回か経験した事があります。」彼は言いました。「あなたがそれについて話す時には何が起きますか?」私は考えました。「その経験を再び体験します。より詳細について考えれば、考えるほど、それを再び体験します。詳細について思い起こせば思い起こすほど、心臓の鼓動は早くなります。

血圧が上がり呼吸も苦しくなります。私はそれを再び体験するからです。」神は言いました。「それが今起こっている事です。」私は答えました。「どういう事ですか?」神は言われました。「聖霊はその人を癒した時の事を覚えています。」聖霊はビデオの中で人を癒した時の事を覚えていて、私は聖霊がその時に感じていた事を感じていたのです。私は何年もの間、次の聖書箇所を宣べ伝えてきました。「もしイエスを死者の中かららせたのと同じ御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら、イエスキリストを死者の中かららせた方は、あなたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたの死ぬべき体をも生かして下さるのです。」私はいつも癒しについての箇所でもある 「あなたの死ぬべき体をも生かして下さるのです」という部分を強調して来ました。その時、神の御霊は、その聖書箇所を繰り返し始められました。「もしイエスを死者の中かららせた方の御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら…」私は考えました。聖霊は繰り返して言われました。「もしイエスを死者の中かららせた方の御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら…」私は言いました。「はい、分かりました。」聖霊は答えられました。「違う、違う。もしイエスを死者の中かららせた方の御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら…。」その時、私はついに理解できました。私達は違う御霊を持っていないのです!


考えてみて下さい。私達の内にイエス・キリストを死者の中かららせたのと同じ御霊が宿っているのなら、「私は何をしたら良いか分かりません。その様な状況を経験した事はありません」などと、どうして言えるでしょうか?もちろん私達はその様な状況を経験した事はありません。しかし、私達の内に宿る聖霊は経験した事があります。全ての死者をらせた場面に聖霊はいました。全ての癒しの場面に彼はいました。聖霊なしでは奇跡は起こらなかった事を知っていますか?しかしある人は、「私は用意ができていません」と言います。そうですね。しかし、聖霊は用意ができています。ある人は、「私はこの様な状況を経験した事はありません」と言うでしょう。しかし、聖霊は経験した事があります。私達が用意万端になる事は決してありません。用意できないのは、人は様々で、全ての癌も異なっているからです。いつも変わらず同じものは解決策である聖霊です。彼だけがいつも変わらず同じです。もし私達が十分な御霊の力を病人に与えれば、その人はどんな問題からも癒されます。何故、他人の生死は私達の準備次第だと考えるのですか?私達はそんなに重要でしょうか?ある人は言います。「神が彼らを癒さなかったのは、私が高慢だから。」そう考えるならその人は既に高慢です。それはイエスに「主よ。迷える人々の為に重荷を下さい」と言う様なものです。そう祈っているなら、既にその重荷を持っている事を意味します。ある人は「私が癒しを行う事ができる前に神は私を正してくれます」と言います。しかし、私達はそんなに重要ではありません。イエスは全ての人が癒される為に死なれました。私達が問題だらけだからと言ってその病人を癒さない事があるでしょうか?癒しを行う為に皆さんは自分が完璧でないといけないと考えていますか?

その様な考えは、この宇宙や全ては私達を中心に周っているという考えです。しかし、全ては神を中心に周っています。私達の仕事は出て行って病人を癒し、死人を生き返らせて悪霊を追い出す事です。私達はより多くの油注ぎが必要だと考え、ここやあそこで少しずつ油注ぎを得るなら、そのうちに油注ぎは増えて溢れ出るようになると考えます。しかし、私達は既に神から全て受け取りました。問題は何か知っていますか?それは私達の自己中心さです。キリストは既に私達の中にいるので、新しい油注ぎを得る事はありません。私達が自分の皮を一枚一枚脱ぎ捨てていき、ほんの僅かな自分しか残らなくなるまでそれを続けると、神の全てが私達を通して流れ出て放射する様になります。分かりますか?私達は玉ねぎの様なものです。私達の人生での仕事は自分の皮を剥いていく事です。皮を剥けば剥くほど、神は表面に出てきます。そして、人々が私達を通して神を見ます。ですから、私達の仕事は全ての自己中心の皮を剥く事です。それは、「自分に死ぬ」事です。自分の肉に死ねば死ぬほど、神はより表に出てきます。これによって油注ぎは増えますか?いいえ、そうではありません。しかし、私達が小さくなります。バプテストのヨハネは言いました。「あの方は盛んになり私は衰えなければならなりません。」聖霊は増えますか?いいえ。しかし、私達が小さくなればなる程、神は大きく見えます。それは私達が小さくなり、神の事をもっと見る様になるからです。より多くの聖霊や油注ぎを得ようとする事をやめて下さい。皆さんが既に受けているものを用いて下さい。種蒔きと刈り取りの法則について考えて下さい。皆さんが受けたものを使い、それが空になる時、神はその空になった部分を満たして下さるでしょう。そうしていけば、神はより多くのもので最初の頃より皆さんを満たして下さるでしょう。

2019年1月26日土曜日

DHTT セッション6

このセッションを次の質問に答える事から始めます。「どの様にして癒しを保ちますか?」第一に、例えば、健康だったけど病気になったとします。これは癒しを失ったのではなく健康を失いました。祈ってもらって良くなり、あなたは癒されました。それからまた病気になったとしたら、それは「癒しを失った」と言うかもしれませんが、それは健康を失ったという事です。私達は同じ病気が戻ってきた時には「癒しを失う」と言って、それは同じ病気が再び戻ってくる事ですが、私はそれが実際に起きている事なのか疑います。それが同じ病気でもです。例えば、通りを歩いていてギャングの集団を見たとします。彼らの中には異なった階級があり、親分がいてその弟子達がいます。最初の日に、親分が飛び掛ってきてあなたを叩きのめしたとします。一週間して回復してからまた戻り、今度は親分の補佐役が来てあなたに殴りかかります。これと同じ様に、あなたは健康を失いますが、あなたを襲った人は違う人達です。同じギャングの集団からでも、違う人が襲い掛かって来ます。


例えば、癌を持っていたとします。そして、祈ってもらって癒されました。多くの場合には別の種類の癌が体の別の部分にやって来ます。人々は言います。「見て下さい。癒しを失いました。癌が戻って来ました。」私は多くの人達を扱ってきたので、確信しています。それは違う癌、違う悪霊とも言えます。私達の集会にやって来る30%位が医療関係の人達です。看護師、医師、医療従事者などです。私の個人的な意見と思うかもしれませんが、多くの場合には、医療関係で働いている人達が癒しの集会に行く理由は、彼らが霊的な召しを人間的な方法によって成就しようとしていると思います。あなたが医療関係の職についているなら、あなたは癒しへの思いがあるでしょう。私が9歳から12歳の子供だった時に、航空軍医としてアメリカ空軍に行くと確信していました。医療関係で働くつもりでした。最終的には空軍の護衛隊として法執行の専門家になりました。それから、パラシュート救助隊になり神は私に言いました。「違います。私はあなたにこれをして欲しいのです。」そして私はその道を選びました。多くの場合、私達は神が霊において約束してくれた事を人間的な方法で成就しようとします。それはアブラハムに起きた事と同じです。私達はイシュマエルを生もうとします。人々が医療関係で働くなら、彼らはその知識を使って人々を助ける事ができます。しかし、最終的にはそれはイシュマエルになります。その知識は逆に彼らを苦しめる事になります。何故なら、彼らは生物学や物理学について知り過ぎているからです。ある特定の事について話す時には言い方に注意して話さなければいけませんが、例えば、あなたは医師が化学物質の不安定によって起きる病気を持っているとします。うつ病だとします。私はうつ病などの病気に関しては気を配ろうとしていますが、うつ病を持っていても癒す事はできるので心配しないで下さい。

医師達はうつ病は脳の化学物質の不安定によって引き起こされると言います。ある一方の脳が正しい化学物質を作らなかったり、正しい量を作らなかったりという事があるようです。彼らはそれが原因だと言いますが、私はそれを足跡だと言います。もしある人が統合失調症だとすると医師は彼らに薬を与えますが、その薬は統合失調症を治す事はしません。ただコントロールするだけです。どの様にしてコントロールするのでしょうか?大抵は、それらの薬がどの様に働くかというと(これは専門的な定義ではありませんが、理解できると思います)、その薬はその病気に影響されているからだの部分を麻痺させます。その問題を引き起こしている部分を麻痺させます。彼らはその問題を起こしている部分を麻痺させる薬を与えます。その体の部分は正常に機能ができなくなります。この様に、化学物質の不安定自体はその問題の原因ではありません。化学物質の不安定自体は問題がそこにあるという証拠です。例えば、もしあなたがうつ病を持っているとしたら、あなたは時には気分がよく、ある時には悪くなります。もしそれが本当に医学的な問題なら、症状はいつも一定であるはすです。それは来たり去ったりするべきではありません。しかし、多くの人達は、「そうですね。この病気は来たり去ったりします」と考えます。それは違います。それは私達が決めた定義です。その来たり去ったりするのは悪霊です。それがその問題を引き起こすのです。化学物質の不安定は問題自体を引き起こしはしません。それは、悪霊がそこにいる時に正しい量の化学物質を作り出す体の部分をめちゃくちゃにして残した足跡です。


糖尿病も似た様なものです。これが悪魔のする事です。悪魔は私達の弱さを利用します。糖尿病のような病気は、初期段階から始まる遺伝性のものがありますが、多くの人々は栄養摂取の問題によって体を壊します。もし多くの糖分を持っているなら、私達の体はインスリンやグルコースといった形での糖分を作る事をやめます。何が起きるかというと、体の内で作られるものが体の外から摂取されると、体はそれを作る量を少なくする事によって調整します。それを摂取し続けると体はそれを作る事をやめます。何故なら、体は言うからです。「あなたがそれを摂取し続けるので、私はそれを作り出すのをやめます。」こうして免疫システムに弱い所を作ってしまいます。ここで、敵である悪魔はこの弱みを利用してそこから病気を引き起こそうとします。


私達には3つの免疫力があります。感情的な免疫力、身体的な免疫力、霊的な免疫力です。強い身体的な免疫力を持っている人は病気になりにくいです。強い身体的な免疫力と弱い感情的な免疫力を持つ場合は、時が経つにつれて弱い感情的な免疫力は身体的な免疫力を弱めていきます。何故なら、階級的には感情的な(魂の領域の)免疫力は身体的な免疫力よりも上だからです。又、私達が身体的にも感情的にも強い免疫力を持っていても、霊的な免疫力が弱いと病気になります。

オーラル・ロバーツ大学のピーターソン氏は異言で祈る人々の免疫力を調査しました。彼は、異言で毎日30分祈る人の身体的な免疫力が、通常時よりも30%上昇する事を発見しました。30分で30%上昇するのなら、毎日100分異言で祈れば100%上昇するのではないかと思います。このように免疫力には階級があります。何故、霊的な免疫システムはそこまで重要かと言うと、霊が階級的に上だからです。霊、魂、体の順です。ですから、弱い身体的な免疫力を持っていても、強い霊的な免疫力を持っているなら病気にはなりません。何故なら、霊が体を所有しているからです。敵は様々な病気を用いて私達の弱点を通して攻撃してきます。自分の弱点を作る時、敵はそれを踏み台にします。敵はその踏み台を通して攻撃し始めます。


ある人々は、「私は悪魔に扉に開いたので、彼は私を攻撃する権利があります」と言います。これについて考えてみます。第一に、私達は2種類の人、クリスチャンとノンクリスチャンを扱っています。私の癒しの列に並んでいても、私はどちらであるかは尋ねません。何故なら、その人が真理を私に話すかは分からないからです。その人の実を見るなら分かります。その実が証明します。その人の言葉は信じません。鍛えられた強い霊的な免疫力を持っている人は、大抵多くの事をしてもそれは身体的に影響しません。しかし、ずっとその様な状態でいる事ができると言っているのではありません。サムラル氏は肉的な領域からではなく、霊の領域から活動できるように教えました。牧師達は大半の場合、肉的に良くても魂の領域から活動します。それが、彼らが牧会をしていて燃え尽きる理由です。彼らは霊ではなく魂や体の領域から活動します。私達が霊の領域から活動する時、毎日遅く寝て早起きしても、負担にはならず多くの仕事を成し遂げる事ができます。年齢は関係ありません。サムラル氏は83歳でしたが、20歳の人をスタミナで負かす事ができました。それは、サムラル氏は肉的な領域からではなく、霊の領域から活動していたからです。彼は長い時間働き続ける事ができました。ろくに食べなくても彼には影響しませんでした。サムラル氏がこの様にできたのは、霊の領域から活動する方法を修得からです。それで、何も彼を傷つける事ができない領域に達しました。霊の領域から活動すればする程、私達に悪影響を及ぼす事ができるものは少なくなり、私達の内の霊は強く働きます。私達は考え方を一新しなければいけません。それによって霊は全ての領域で働き、五感で感じる外の状況が私達の内で信じている事に一致する様に変わっていきます。こうなればなる程、私達に悪影響を及ぼす事ができるものは少なくなり「悪い者は私に触れる事はできません」と言える様になります。罪やその他の悪いもの全てです。霊の領域から活動する事を修得して下さい。これを知らないから、多くの牧師達は疲れ果てて、少し運転しただけでも、直ぐに苛立ってしまいます。霊の領域から活動すれば多くの事をする事ができます。サムラル氏は常に霊の領域から活動する事を教えていました。鍛えれば霊の領域から活動する事ができ、肉に従ってではなく霊にあって歩む事ができます。

ここで私達が霊の領域でしている事は、軍隊が肉的な領域でしている事と同等の事です。私達は内にいる霊から始めて外に向かって訓練していきます。軍隊は肉体から始めて内に向かって訓練していきます。軍は訓練生を身体的にも精神的にも追いやり、ある極限の時点まで追いやります。彼らはその時点で身体的から霊的に切り替わります。「それは軍隊の例であって、霊的ではないでしょう」と人々は言います。全てが霊的です。全ての人は霊的です。私は霊の力によって様々な事を行う事ができる人々を知っています。


例えば、シャック・オーニールがバスケットボールをする時に何が起こると思いますか?彼のプレーは霊的です。何故でしょうか?それは「ゾーン」と呼ばれます。その「ゾーン」に彼が入ると全てのシュートが決まります。その領域に入ると失敗をする事ができません。その領域、またはゾーンとは実際には何でしょうか?それは「霊の中にいる事」です。クリスチャンとそうでない人の違いは、私達はイエスの御名によって霊的領域に踏み入る権利があるという事です。誰でも、イエスという扉を通して霊的領域に入る者は合法です。もしあなたがイエス以外の他の手段で霊的領域に入るなら、それは違法です。この世のアスリートや軍隊の人々は、イエスの御名や血によってではなく、それ以外の手段で非合法に霊的領域に入り込もうとします。魔女はタロットカードや魔術や麻薬や様々な非合法な手段を使って霊的な領域に入り込みます。しかし、それらは非合法な手段です。クリスチャンだけが合法的に霊的な領域で働く権利があります。


では、霊的領域に入る事がどうやって起こるのかを説明しましょう。子供の時に靴の紐を結ぼうとしていた時の事を覚えていますか?上手く結んだと思っても数分後にはすぐ紐はほどけてしまいます。どの様に靴紐を結んだらいいかを知らなかったからです。しかし、今では意識して靴紐を結ぶ必要はありません。今は紐が解けない様にどれくらいきつく結べば良いかも知っていて、話しながらでも、靴紐を結ぶ事ができます。何故でしょうか?それはその動作は意識を通り越したからです。それは霊的です。その動作は完全に無意識によるものです。ある人は、「その人は無意識にできる能力を得たのだ」と言います。違います。私達は訓練する事のできる体と魂と霊を持っています。細かく言うと、霊が私達を訓練します。私達は体と考えを霊に従って訓練する必要があります。軍隊も同じ事をします。レンジャー部隊や海軍やネイビーシールズなど他の特殊部隊の訓練は驚くべきものです。軍は彼らをウェイトルームなどに入れて、筋肉など身体をトレーニングさせます。しかし、軍の目的は身体的なトレーニングではありません。その目的は身体的にも精神的にも負荷をかけて、身体的にも精神的にもその人を完全に壊す事です。それが、海軍などが彼らに告げる事です。軍は「私達は皆さんを建て上げる事ができるようになる為に、まず皆さんを壊します」と伝えます。彼らは何をしようとしているのでしょうか?彼らは私達の失敗を知らしめて、どん底まで落とします。

それによって、肉的から、身体的から、自然的なものから霊的にスイッチを切り替えるように強制します。これが軍隊のする事です。私達は、時には軍人を指して「それこそ、強い海兵隊の精神だ」と言います。その海兵隊の精神とは彼らの内の霊の事です。私達はその精神を壊す事はできません。軍隊はその人の内に目的を達成する為には何でもする能力を鍛え上げます。霊において働く人だけが、目的達成の為に何でも行う事ができます。肉体的な手段によって霊の領域に入ろうとする事は非合法です。クリスチャンとして私達がなすべき事は、常に霊において働く事ができるレベルに到達する事です。私達がその様なレベルに到達する時、キリストの様に歩みます。それは、やるべき事を何でもするという事です。イエスは決して欠乏を見せなかったし、認めませんでした。イエスは水の上を歩き奇跡を行いました、彼はこれらの事を、肉によってではなく聖霊によって行いました。彼は身体を癒したにも関わらず、目に見える自分の体の事は気にも留めませんでした。何故なら、イエスはその様に霊において働くべき事を知っていたからです。


体は私の愛車のようなものです。道具です。その車は私の神ではありません。使い古した後は、新しいものと取り替えます。もちろん自分の体は大切にしますが、重要な事はそれが私を行く必要のある所に連れて行く事です。車はただの道具です。ある牧師が言いました。彼は飛び回って説教をする為に飛行機が必要でした。終に飛行機を手に入れ、彼は神に言いました。「何故、飛行機を手に入れる為に8年もかかったのですか?」神は彼に答えました。「飛行機をあなたに与える為に8年もかかりませんでした。ただ、飛行機があなたの立場を誇示するものから道具になるまでに8年間かかりました。」これが私達の気が付くべき事です。お金が神ではなくなった時に、それを道具として使う事ができます。お金が同時に、神と道具である事は不可能です。お金が道具になると、それを蓄積する事はしないで、それを道具として使います。ですから、私達にとってお金も、車も、建物も、何でも道具となる必要があります。その時には真に重要なものは人々の魂となります。


私達は霊的な戦いについて学んでいます。それに関して様々な教えがあります。実際に、何が一番役に立つか、何が霊的な戦いなのか教えましょう。もし私達が行っている事が罪を少なくして、霊的な事を増やすなら私達は霊的な戦いを行っています。もし私達のしている事が私達の生活の中での罪を減らさず、霊的な事を増やしていないなら、何か宗教的な遊びをしているだけです。ある時点で、私達は教会で旗を振って踊る事を止めて、福音の為に路上に出て行く必要があります。霊的な戦いは教会で行われる為のものではありません。霊的戦いは教会で起きないと言っているのではなく、教会だけで起きるものではないという事です。これは衝撃的な事かもしれませんが、ある時点で、教会はキリストの兵士を送り出して家々を回る必要があります。それが町での戦いです。この様な精神面を持つ必要があります。

では、大分話がそれましたが、どの様に癒しを保つかについてです。現実では、癒しを保つ方法は癒しを受取る方法と同じです。もし私が悪魔を追い払う事ができるなら私が周りにいる時には彼は何処かへ逃げます。ちょうど、警察の様なものです。私はあなたの周りにいる限りは敵を引き止めますが、私がいなくなると敵はそれを知って、あなたの所に帰ってきます。ですから、ある時点で私達は自分自身を守る事ができるくらいに強くなる必要があります。第二次世界大戦では、誰もが自分自身だけを守りたがりました。ユダヤ人は思いました。「誰かが私達を守ってくれるだろう。」しかし、敵は彼らを少しずつ減らして、もう抵抗できないまでにしてしまいました。これが悪魔のやり方です。敵は私達の関係を少しずつ断っていき、敵に対抗する十分な力が無くなるまでにします。ですから、私がここにいる間、2つのセッションで「神の癒しの秘訣」を教えていきます。癒しの一番の秘訣は何か知っていますか?もう嫌だと思う事です。うんざりだと思うまで何も変わりません。我慢をする余裕がある限り、嫌だと思いません。


私達は、罪に対して嫌だと思わなかった限り、罪からは抜け出しませんでした。そして、病気が嫌なものとしてそれを憎んでいる人の様に扱い始めるまでは、病気からは解放されません。私達は病気に向かって話し、私達の望んでいる事をするように命令し、病気に対して私達は権威持っている事を知って下さい。その為に15のポイントを見ていきます。それらはとても単純です。それと同時に、「霊的な力への秘訣」の7つのポイントを教えます。それらは自分だけではなく他人の為に強くなり、その強さに留まり続ける事を教えます。第一の鍵は、私達が聞く全ての事は私達の口で語られるべきです。それがまず強くなり強くあり続ける鍵です。異言も重要な鍵ですが、第一の鍵は、聞いた事を口で語りシェアし始める事です。どうして私はこの様に神癒技術者訓練を教える事が好きだと思いますか?それは毎回私が教える度に私は強くなるからです。私は御言葉を語る時に弱くはなりません。強くなります。何故でしょうか?それは語る事は、建て上げる事だからです。語る事によって新しいブロックが積み上げられ、そして、私はより強くなります。私がこの神癒技術者訓練マニュアルを作った理由は、皆さんが自分達のいる所で集まって神癒技術者訓練で学んだ事を教える為です。そうする事によってより強くなり、実際に学んだ事を生活の中で真に経験していく事ができます。全ての中で最も重要な鍵は学んだ事を実行する事です。多くの場合は、誰も学んだ事を行動には移したがりません。この教えを聞いて一番しなければならない事は、実行するという決心です。何故なら、その決心をしない限り何も変わらないからです。もし、その決心をしないなら私達は聞くだけの人になり、御言葉を行う人にはなりません。聖書は、もし私達が御言葉を聞くだけの人で行う人ではないのなら、自分自身を欺く事になると言います。



次の質問です。「ワーシップリーダーが癒しに関する歌を歌っていない時にも、同じ神の癒しの力の原理を使う事はできますか?」はい、できます。神は言葉を送って彼らを癒されたと書いてあります(詩篇 107:20)。ですから、癒しは言葉により引き起こされます。癒す為に癒しについて歌う必要はありませんが、私達の言葉は癒しになるという事です。私があるアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会で癒しの教義を教えていて、幾らかの結果を出していました。しかしその後、ある時点で癒しを教えるというよりも、私自身が癒しと一体になりました。そのある時点とは、私が神の心を真に理解した時でした。


よく人々は、「愛は多くの罪を覆う」と言います(Iペテロ4:8)。私達はただそれらの言葉を語るだけでなく実際に信じなければなりません。大半の人は間違いを犯す事を恐れるので何もしようとはしません。しかし、何もしない事が一番の間違いです。よく「神はその状況を変える事ができます」と言います。また、「悪魔が悪の為に作った状況も、神は神の栄光の為の状況に変える事ができる」とさえ言います。よく「神が全ての事を働かせて益として下さる(ローマ8:28)」と言います。しかし、全ての事が働いて益とはなりません。何故なら、聖書は「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の為には、神が全ての事を働かせて益として下さる事を、私たちは知っています」と言っているからです。これより、神を愛さないで神のご計画に従って召されていない人々の為には、全ての事は働いて益にならない事が分かります。そうですよね?そうでなければ、神は聖書に書いてあるような条件を付けませんでした。私達が悟らなければならない事は、ある御言葉には条件が伴うと言う事です。しかし、多くの人は起こる事は全て神の御心であるというアウグス・ティヌスによる神の主権の考えを持っています。それは真実ではありません。もしそれが真実なら、イエスが「あなたの御心が天でも行われるように地上でも行われますようにと祈るように」と教える必要はなかったでしょう。もし神の御心がいつも成されるのなら、その様に毎回祈る必要はありません。聖書には、神は一人でも滅ぶ事を望まず、全ての人が救われる事を望んでいると書いてあります(IIペテロ3:9、Iテモテ2:4)。今日、多くの人々は死に地獄に向かっていますか?もし、それが本当なら神の御心はいつも達成されてはいません。


それならいつ神の御心は成されるのでしょうか?それは私達がそれを行う時です。事実、イエス自身が「私が来たのは、私を遣わした方の御心を行う為である」と言いました(ヨハネ6:38)。しかし、イエスは何をなされましたか?彼は巡り歩いて物事をあるべき状態に修復していました。それは、イエスが修復した事は神の御心ではなかったという事になります。神様の御心が人の救いであったのに、イエスは物事をあるべき秩序に戻していました。イエスが行った全ての事は、実は、アダムや私達がもし堕落していなかったなら本来しているべき事でした。

何故なら、全ての被造物は正常な状態から外れてしまったからです(ローマ8:20-22)。今私達がするべき事は、全ての被造物を再び正常な状態に戻す事です。そして、私達にはキリストにおいて、それをする権威と力が与えられました。私達のするべき事は、何が神の御心で神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知る事です。その為には、考えを一新する必要があります。


私が引用した全ての聖書箇所について考えてみて下さい、それらを自分で調べて勉強して下さい。私はこれらの聖書箇所を文脈に沿って説明しようとしています。しかし多くの場合、聖書箇所は文脈に沿っては理解されていません。私は聖書の言葉の意味を変える事はしてはいません。しかしその結果、多くの神学を壊す事はしています。何故なら、神の言葉は自由の為にあるからです。何故か私達は、神は私達に敵対していて、善が起きる事を引き止めていると考えます。そして、それが神の御心だと考えます。そうではなく、神の御心が成されていないのは、私達がそれを行っていないからです。私達は、私達を遣わした方のわざを行わなければなりません(ヨハネ9:5)。神は聖霊の賜物を燃え立たせなさいと言います(IIテモテ1:7)。神は、「あなたは構えて下さい。そして私があなたの内の聖霊の賜物を燃え立たせます。それで、あなたはその賜物で働く事ができます」とは言われませんでした。神は、私達が聖霊の賜物を燃え立たせるように言いました。イエスはマタイの福音書7章22節で言いました。「私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行う者が入るのです。」ここより、改めて、何でも起こる事が神の御心ではない事を証明します。


考えてみて下さい。主は24節でこう言っています。「だから、私のこれらの言葉を聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べる事ができます。」風や、嵐や、それら様々なものが打ちつけましたが、その家は倒れませんでした。何故でしょうか?それは岩の上に建てられたからですよね?それからイエスは言われました。「また、私のこれらの言葉を聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べる事ができます。」何故でしょうか?イエスがそう言われたのは、風や嵐が打ちつけた時には家は倒れてしまうからです。それが岩の上に建てられていないからです。では、質問させて下さい。その人の家が倒れたのは神の失態ですか?嵐はそれら両方のグループの人達にやって来ましたか?そうですね。イエスは何と言いましたか?私達はこの世にあって困難があります(ヨハネ16:33)。そうですよね?しかし、それは神の御心であるとは限りません。それはハリケーン・カトリーナの様なものです。多くの人達が言いました。「あれは神の裁きでした。神の裁きがやって来ます。」それについて、最悪な事は、一人の人がその様な事を言い出すと、他の全てのクリスチャン達も一緒になって「それは神の裁きだ」と言い出す事です。

もし、それが神の裁きなら、神の命中力はとても悪いものです。何故なら、神はバーボン・ストリートを打つ事をしなかったからです。そこはまだ残っているからです。旧約聖書時代には、神の裁きでは町が丸ごと消滅しました。ソドムとゴモラはもうありません。神は旧約の時代の方が今の新約聖書の時代よりも命中力が良かったのでしょうか?神は年を取ったので、命中力が悪くなったのでしょうか?考えてみて下さい。それは神の裁きだったのでしょうか?それとも、ローマ8章にあるような全ての被造物の産みの苦しみの為のうめきでしょうか?それは何をしているのでしょうか?神の息子達の現われを待っています(ローマ8:19-22)。人々が立ち上がって言うのを待っています。「いや、ハリケーンよ。聞け。お前はここまで来れない。お前は沖で消滅する。ここに来て、損害を与えない。」それでも、人々は反論しようとして「でも…」と言うでしょう。では、ニューオリンズだけが滅ぼされるべき所だと思いますか?カリフォルニア州の海岸沿い全体もそれに値するのではないですか?神はそれらの都市も簡単に破壊できたはずですよね?しかし、何故神はニューオリンズだけを壊そうとするのでしょうか?ある人は言うかもしれません。「それは神の忍耐が切れたからです。」どれだけ軽率に他人を批判するかには驚かされます。むしろ立ち上がって言うべきです。「災害よ、去れ。静まれ。」それが私達の見本です。


イエスはこの様な裁きが来るように言われてはいません。私達は、その様な災害が自分達に起こらなかった事で、自分達が無実だと証明しようとします。しかも、ある人は言います。「あんな裁きがあるから敬虔に生きる方がいいです。」そう言うなら、ニューオリンズにいたクリスチャンは誰一人として怪我をしなかった、家を失ったりもしなかったという事ですか?一人として怪我をした人はいなかったという事ですね?もしそう言うなら、私達は他人を裁いている事になってしまいます。私ならその様な事は言いません。自分こそ裁かれるからです。それに壊されなかった家も知っています。ある人達の家々は守られました。私達の仕事は他人を非難する事ではありません。私達の仕事は人々を自由にする事です。助けて、励まして、建て上げる事です。サタンは私達の敵です。私達は血肉に対しては戦いません。聖書はそう言っていますよね?(エペソ6:12)。


では何故、私達はいつも人々を非難するのでしょうか?むしろ私達は敵を攻撃して、悪魔を敵として扱うべきです。悪魔が滅ぼし殺す者です。ヘブル5:12-14にはこう書いてあります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神の言葉の初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。」著者は、その当時のヘブル人達に対して言っていました。彼はヘブル人達の事を幼子で肉的であると言いました。それから、彼は言います。「しかし、堅い食物は大人の物であって。」大人とは誰であるか彼は言います。しかし、ここで注目すべき事は、彼は堅い食物は大人に属するものだけではなく、大人である事の定義を書いています。

彼は言います。「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」大人とは、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人達です。しかし、大半のクリスチャン達は、何が良いもので何が悪い物であるかを見分ける事はできません。何故でしょうか?それは経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練していないからです。私には「誰も傷つけないで、人の喜ぶ事をするように努めたいな」というような中途半端な姿勢はありません。もし私が誰かを不快にするなら、それは御言葉による事である事を願います。私は神の言葉が良い行いに導く為に、良い意味で皆さんを不快にし、刺激する事を願います。それが今私のしようとしている事です。皆さんを刺激する事、怒らせる事です。もし、それがあなたに必要なら、私は躊躇しません。どうせここには住んでいないからです(笑)。


私がビリヤードをしていた時に通っていたバーには、いつも常連の男達がいました。彼らは嘘を吹聴していました。「M16ライフルは見事な武器です。素晴らしいです。毎分3000発も撃つ事ができます。私は実際にM16を撃ちました。」私は言いました。「それは嘘です。」彼らは言いました。「何で嘘だと分かるのですか?」「私は実際にそれを撃った事があるからです。」まず、2回に1回はマガジンは詰まります。それがアメリカ兵もベトナム戦争でM16を捨てて、AK47を使い出した理由です。それにM16は毎秒3000発も撃ちません。彼らがその様な事を話しているのを聞いた時には、彼らは一度もそれを撃った事が無く、本当は何も知らない事が分かりました。恐らく、誰かが彼らにその嘘を教えたのでしょう。私達は一度もそれを経験した事なければ、聞いた事をそのまま信じてしまいがちです。しかし、一度出て行って聞いた事を実行すると、全ての理屈は崩れ去り何が真実かを見分ける事ができます。私達が実際にそれを実行して経験したからです。


誰かが「癒しはなくなりました」と言うなら、私はその人を見て思います。「みじめな、可哀そうな人だ。」何故なら、私は知っているからです。実際に経験しているからです。私は癒しを毎日見ています。癒しはなくなっていません。それでも、ある人は言います。「神は、あなたの人生に罪があるなら癒しません。」それは間違いです。私は毎日見ています。

人々は、自分の生活の中に罪があると認めても神に癒されます。私達は実際に出て行ってそれを行うまでは、他人から聞いた理屈を他の人に伝えます。しかし、私達が一旦それらを実行し始めると、全ての理屈は崩れ去ります。それで何が真実であるかを見分ける事ができます。それは武術でも同じです。ある時に、ある人が私に電話して、私達は違う流派であると言ってきました。彼は自分の流派がどれだけ素晴らしく美しいかを語り、私の流派はそうでないと言いました。ですから、私は終に彼に言いました。「いいですか、要するにはっきりさせるには、あなたが私の道場まできてリングの上に立って、拳と拳を合わせてどちらが本物か証明しましょう。結局、そういう事になりますよね。

誰でも話すだけならできます。しかし、拳を合わせてみれば、真実が分かります。」彼は言いました。「でも私達は、実際のスパーリングはしません。私達は歴史を学びます。」私は言いました。「でも、これは武術です。武術は戦いなのに戦う事ができないなら、あなたが持っているのはただの芸術です。」私達は彼らの様な人達をよく「こけおどし」と呼びました。彼らは様々な証書を持っていますが、それを証明する事はできません。教会も全くそれと同じです。博士号や修士号や学士号はどうでもいいです。私は、肩書きだけの人達を沢山見てきました。もし私達が虐げられている人達を自由にできないなら、何の役にも立ちません。何も変える事はできません。何故なら、私達は理屈など、どうにでも作り上げる事ができるからです。


私達は理屈から実際に役に立つ聖書の現実に戻る必要があります。イエスの行った事には力がありました。今では様々な癒しについての教え、様々な学校やクラスなどがあります。もし、それらの学校やクラスが本当に効果的なら、まず、皆さんがここにいて学んでいる必要はありません。効果的な癒しを行う為に知るべき事は、イエスの行わなかった事は、私も行わないという事です。私達はイエスを代表する者です。彼は、カウンセリング、指圧、水晶占いなどはしませんでした。彼はただ御言葉を語り権威を行使して病人を癒し、悪霊を追い出し神の国を実践しました。それはこういう意味です。


イエスは弟子達に「行って、神の国の福音を宣べ伝えなさい」と言われました(マタイ10:7)。そして、弟子達は行って「イエスがもうすぐやって来て、あなたの罪の為に十字架に架かり、死者の中からられる」と宣べ伝る事はしませんでした。彼らは、イエスの死と復活についてさえ知りませんでした。イエスは弟子達に彼の死と復活について説明しましたが、彼らは理解しませんでした。イエスが実際に復活した直後も、彼らは理解しませんでした。(後の宣教において)、弟子たちは神の国の福音を宣べ伝えました。イエスの死と、埋葬と、復活は福音ですが、神の国の福音ではありません。それは私達が、神の国の福音を宣べ伝える事ができるようになる為の福音です。「神の国の福音」という言葉の意味は、文字通りには「神の絶対的な支配権の良い知らせ」です。これを弟子達は出て行って宣べ伝えました。彼らは全ての町々に行き「私達は、神は全てに勝って偉大であるという良い知らせを伝える為に来ました」と言いました。そして、病気を見つけた時は、「その良い知らせを証明します。神は癌よりも大きなものです。癌よ、去れ」と言い、その病人は癒されました。この様にして彼らは、その福音を証明しました。これが宣教する為に召された全ての人々が宣べ伝えるべき福音です。


全てのクリスチャンは、イエスの死と埋葬と復活による神の絶対的な支配権を宣べ伝えるように召されています。私達にはこの福音を実践する権威を与えられています。これが私達の仕事です。もし私の言う事に賛成なら、 私と一緒に声に出して言って下さい。皆さんが考える事ができるようにゆっくりと言いますね。では、祈りましょう。イエスの名によって、父よ、あなたの御言葉を信じます。私は御言葉を行う者であると信じます。私は御言葉を行っていない生活の領域にあっても、御言葉を行う者になります。父よ。あなたにお願いします。今、この御言葉を私にとってリアルなものにして下さい。この御言葉を歩んでいける道を見せて下さい。私はあなたの御言葉だけを受け入れます。私は人間の言葉を受け入れません。私は神の御霊による言葉を受け入れます。今日、ここで神の御霊により語られた言葉を私は保ちます。そうでない言葉は拒否します。だから、イエスの名によって私はあなたの言葉を成就させます。あなたの神の性質にあずかる者にしてくれた事を感謝します。そして今、私は新しい契約の下にある神の子であるクリス チャンである事を認めます。私は古い契約の下にいる聖徒でも、古い契約の下にいるしもべでもありません。私は新しい契約の下にいて仕える神の子です。アーメン。