2019年1月18日金曜日

DHTT セッション 15

それではこのセッションでも癒しは贖いの中に含まれている事を話していきます。よく、祈ってもらった時に何も変化が現われない場合には、薬を服用しているなら続けて飲み続けるべきかどうかと言う質問を受けます。薬の事に関しては個人的な事なので、私は何もアドバイスをする事はできません。薬に関してはその人が自分で扱わなければいけない問題です。私は神の導きがあるまで待つ人の気持ちも分かります。それはそれでいいと思います。私はそれに反対ではありません。しかし、私は自分で決断して前に進んできた事も覚えておかなければいけません。私は他の人には自分のしてきた事を勧めません。今まで私が行ってきた事も、最終的には、神は恵みによって良いものに変えてくれました。しかし、悪影響を及ぼした事もありました。一番大切な事は前に進み続ける事です。前進する事、成長したいという思いもいい事ですが、その為に誰かを危険な目に合わせる事は絶対にしないで下さい。
例えば、もし頭痛を持ちで頭痛薬を飲んでいるとします。それらの薬を飲むのを辞めて、神を信じる事にしたとしても死ぬ事はありません。もし糖尿病を患っていて、その為にインスリンを投与していて、そこで急にインスリンの投与を辞めて神を信じようとする人には、最初は頭痛のケースから神を信じる事を勧めます。私の言っている事が分かりますか?でないと、私があなたを死人からよみがえらせる事になるかもしれません。私達は分野別に成長して行くものです。でも私が最初に死人をよみがえらせた時には全く準備はできていませんでした。死んだのは自分の娘でした。私は何が何でも諦めない決心が出来ていました。ですから、多くの場合に重要な事は腰が据わっている事と諦めない事です。ここで伝えたい事は、私達が薬を飲み続けても神の癒しの力は止まらないという事です。薬は神の癒しの力よりも強くはありません。現実的に私達が癒しの為に祈っており、その人が癒されたらその人の体は薬に過剰反応するようになります。もし、その様に体が薬に反応するようになったら癒されてきた事が分かります。もし医者に通っているなら、彼らは、「もう薬は飲まなくてもいいですよ」と言うでしょう。癒されたなら、その人は薬の服用には関係なく癒されたからです。
私達は癒しが目に見えて現われる事を熱心に求めます。何故なら、癒しが現われる為に20年もの間待ったりしている人もいます。彼らは言います。「私は癒しの為に堅く立っています。」どれだけの間ですか?ある人は言います。「15年間です。」それは長すぎです。私達はもっと早く癒しが目に見えて現われる為に押す必要があります。前にも言ったように、消極的な人と攻撃的な人がいます。悪魔は私達がどのタイプの人か知っています。消極的なタイプの人なら、敵は死に至る様な急性の病気を持って攻撃してくる事はありません。そうです。私達は突然倒れて死ぬという事はありません。通常、私達が消極的な場合は、敵は慢性の長引いて死んでいく様な病気で攻撃をしてきます。逆に私達が攻撃的な人なら、つまり、攻撃的な個性や性格を持っているなら、敵は慢性のゆっくり働く様な病気で攻撃してくる事はありません。敵は、急性のすぐに殺す様な病気で私達を攻撃してきます。消極的な人に対して悪魔は長引く慢性の病気で攻撃します。何故なら、そのタイプの人は慢性の病に対して何もせず、時にはそれを受け入れそれに耐えるからです。悪魔はゆっくりと時間をかけて苦しめる事を好みます。悪魔は人々が痛みを経験する事を喜ぶからです。彼は人々が傷つく事に喜びを見つけます。苦しめる事は彼の最上の喜びです。しかし、もし私達が攻撃的な人々なら、悪魔は私達を素早く殺す事をしなかったなら、私達がカウンター攻撃をすると知っています。ただ病気で伏せているだけではないと知っているので、心臓病や脳卒中などによって私達を素早く殺そうとします。私の仕事は皆さんを攻撃的にする事です。それによって、悪魔は皆さんを慢性の遅い病気ではなく、急性の病気などによって攻撃してくる事になります。それの良い所は、皆さんがこれ以上病気や患いの等の悪魔の攻撃に我慢しない事です。もし攻撃的になるなら、悪魔は放っておく事はしないでしょう。でも同時に、悪魔が嫌がるようになるまで皆さんは成長する事ができます。そのうち悪魔は私達を避け始めるでしょう。実際に、私達はその様な状況を経験した事があります。
ある男性が癌の為に死にかけていました。彼は余命3ヶ月を告げられて、4ヵ月後もまだ生きていました。彼はいつ息を引き取ってもおかしくありませんでした。彼らはある家族に電話して、その家族が私に電話してきたので私はダラスのウェイコーに向かいました。彼の癒しの為に祈る為です。その時は私だけで向かいました。私が彼の家族と話した時には、彼は取り乱していました。私がこう言っていたからです。「あなた達は今からこの様な事が起こるでしょう。祈った後、彼の体温は少し上がりますが、それは熱ではありません。少し体温が上がるだけです。それは悪い事ではありません。良い事です。でも、もし熱が高くなりすぎるなら危険です。でも、急激な変化なら通常24から48時間以内に気が付くでしょう。その様な変化に気が付いたなら、私に電話して下さい。もし必要なら、また彼の為に祈ります。」私の話している女性は言いました。「変な事ですが、彼はこの癌を4年間体に持っていましたが、あなたがここに着く15分前、あなたが来る事について話している途中に、突然彼は緑色のべっとりとした塊を吐き出しました。」彼は今までその様な事を一度もした事はありません。看護婦もその場にいたので私は彼女に訊きました。その時の状況をもう一度説明してもらえますか。彼女は答えました。「こんな事が起きたのは初めてでした。とても驚きました。私達が、あなたがここに来る事について話し出すと、彼は意識はないのに突然起き上がってその緑色のべっとりとした塊を吐き出しました。看護師達はベッドシーツを変えなければならず、その塊を処理しました。」
私は訊きました。「彼らはその緑色の塊はどうしたんですか?」彼女は言いました。「トイレに流しました。」私は言いました。「分かりました。」彼女は、「何故そんな事を訊くんですか?」と言いました。私は説明しました。「それは、これでもう終わった事が分かるからです。彼はもう大丈夫です。」彼女は言いました。「何故ですか?それはどういう意味ですか?」私は言いました。「それはいつ起きたんですか?」彼女は言いました。「私達があなたがやって来ると言った。すぐ後です。」私は言いました。「だから、私はもう終わったと分かります。敵はまた後で戻って来ようとするかもしれませんが、今の時点では彼は癒されました。何故でしょうか?それは私達は地獄での評判を確立したからです。なので、私達がそこ場所に着く前に、その癌は去りました。」分かりますか?あなたも同じ事ができます。
同じ様な攻撃的な姿勢をレスターサムラル氏も持っていました。彼が海外に行く時に飛行機が着陸した後、飛行機から降りてアスファルトの上を通りターミナルまで行くまでに距離を歩きます。彼を先頭にして人々が飛行機から降りてくる時に聖書を飛行機の中に忘れてきた時がありました。彼はそばの人に、「戻って、聖書を取ってきなさい」と言いました。その男は何故サムラル氏が自分で取りに行かないのかは考えませんでした。サムラル氏の周りには色々な事を手助けする人がいました。その男はサムラル氏に、彼の持っていた聖書を手渡しまして、訊きました。「サムラル氏、どうして私を送り返して聖書を取ってくるように言ったのですか?聖書が何処にあるのか知りません。あなた自身が行って取って来る事ができたのではないですか?」サムラル氏は答えました。「それは、私は絶対に引き返す事をしないからです。」分かりますか?その様な心構えはサムラル氏の内にいつもありました。ある人々はその様な事をするのは大げさだと言うでしょう。それはただの彼のこだわりでもあります。しかし、私達もその様な姿勢を身につけるべきです。サムラル氏が毎回飛行機から降りて人々が彼の後ろに続いて待っている時に、彼はアスファルトに足を置いた瞬間に叫びました。「おい悪魔。ここにやって来たぞ。」彼が叫んだ時にはまるで天と地の注目が彼に集まる様でした。
天と地の注目が集まるとはどういう意味でしょうか。神の子供達が話す時には、天はそれを聞いて賛成します。地獄はそれを聞いて、従います。神の子供達が話す時には、天はそれを聞いて賛成します。何でも私達が地で縛るものは、天でも縛られます(マタイ16:19)。そうですよね?地獄はそれを聞いて、それに従います。サムラル氏がその様に叫ぶたびに、全ての霊的なものが彼の声に気が付くようでした。まさに軍隊の様なものです。例えば、軍隊の寮の部屋に位の高い、上級の士官が入ってきた時などには号令がかけられて、全ての人々が注目します。何故でしょうか?それは上級の士官が入って来たからです。それが、サムラル氏が地面に足をついた時にも霊的な領域で起きた事です。
クリスチャンがその部屋に入る時にも同じ事が起きます。分かりますか?それは私達の知っている事が私達の内から溢れ出てくるからです。私達が誰かと会い、握手をする時には霊的領域において瞬間的なチェックがあります。それはまるでお互いの内を読んでいるかの様です。私達の霊は彼らを読み、彼らの霊は私達を読みます。あなたの霊は階級を見定めようとします。私達が何処の階級に立っているかです。彼らよりも上にいるか、下にいるかです。そして瞬間的に私達の霊は相手が私達よりも霊的に強いか、それとも霊的に弱いかを見分けます。霊は自動的にそれを見分けます。一度この様な権威の構成を理解すれば、私達が部屋に入った時には誰が霊的に強くて、どの階級にいて自分がどこに当てはまるかを見分ける事ができます。その様な霊的な領域における階級づけが起きます。そして、私達はどの様に上の階級に上がるのかを知る必要があります。それは自分自身を売り込んだり、宣伝したりする事によってではありません。ただなすべき事をするだけです。単純に自分の仕事をこなしていくなら、昇級していきます。
例えば、仕事をこなすのは牛です。実際に結果を出すのは見栄えのいいだけのアラビアの馬ではなく、毎日、淡々と機械的に仕事をこなす牛の方です。この様に、霊的領域には階級があります。どの様にして私達が自分自身を昇級させるかについてではありません。私達は、宣伝も目立つ事もしません。ただ仕事を黙々と仕事をこなします。そうですよね?仕事を成し遂げるのは牛です。美しい、飛び跳ねているアラビア馬ではありません。計画的に毎日こつこつと耕し続ける牛です。その様な牛が仕事を成し遂げます。アーメン。
神が病気や災いを用いて何かを教えるという考えによると、聖霊は病気、聖霊は病の霊になります。何故なら、私達に全ての事を教えるのは聖霊だからです。ヨハネは(彼が教えた人たちはもう)誰からも教えを受ける必要がないと言っています(Iヨハネ2:27)。私達の内にはキリストの油注ぎがあり、彼は私達に全ての事を教えるからです。私達が神の御霊や神について学ぶ事は全て神の御霊によってですが、神の御霊は他の人を通して教えて下さる事もあります。ある意味、真理を学ぶ為に私は必要はありません。もし皆さんが、私と同じ熱心さや同じ状況に置かれているなら、私と同じ知識や成功を得る事ができます。そして同じ結論に至ったと思います。何故なら、私に色々教えてくれた同じ聖霊が皆さんの内にもいるからです。ある人は言うでしょう。「では、私はここで何をしているんですか?3日間もここに座って、あなたの言う事を聞いているんですか?」それは、私が30年勉強して学んできた事を3日間で皆さんに与える事ができるからです。もし自分でそれらを学ぼうとするなら、3日ではなく30年間かかるかもしれません。DHTTを教える事によって、皆さんを一気に学ばせてジャンプスタートさせます。それは,私が30年かかって経験してきた事を皆さんが経験しなくてもいい為です。聖霊が私達の教師です。私達が学ぶ事は全て聖霊によるものです。
私達は聖霊によって神や神の御霊についての全ての事を学びます(Iコリント2:11-14)。もし私達が病を持っていて「神はこの病によって私に何かを教えようとしている」と言うなら、私達は聖霊がその病気を与えたと言う事になります。私達がその様に言う時には、聖霊を冒涜する事に限りなく近い事をするのです。それはパリサイ人達がイエスに対して言った事と同じ論理です。ニコデモがイエスの所に来て、「私達はあなたが神から遣わされた者である事を知っています。神があなたと共にいるので、あなたは人にはできない事をします」と言いました(ヨハネ3:1-10)。ニコデモは個人的にイエスの所に来ました。しかし、他のパリサイ人達は公的に、「このイエスは悪霊を悪霊の頭であるベルゼバブによって追い出している」と言いました。それが、イエスが「あなたの罪は残ります」といった理由です。何故なら、真理を知っているのに自分の地位を守る為にそれに反する事を言うからです。
では、実際には病気を神の働きだと言うなら彼らは何と言っている事になるのでしょうか?彼らは悪魔の働きを神のわざであると言っている事になります。病気や患いを通して神は何かを私達に教えようとしているというなら、私達は悪魔の仕業を神のわざとみなしている事になります。これは逆の事ですが、パリサイ人達がしていた事と実は同じ事ではありませんか?ですから、これからは決して、神は病気や患いを送って何かを教えようとしているとは言わないで下さい。私がいつも驚く事は医療の進歩に従って人々が神の御心を変えようとする事です。何故なら、彼らは新しい病気の為の治療薬が開発されるとその病気の癒しは神の御心だと言い出します。「神はこの病気や災いを使って私達に何かを教えようとしている」と言って病気を神の責任にして、あなたの病気や災いからの現実逃避をする事を止めて下さい。確かに神はどの様な状況からも何かを学ぶ事ができる為にその状況を用います。ある人々は、「神は私が神に立ち返る為に、その前に私に心臓病を与えなければなりませんでした」と言ったりします。もしそれが真実なら、心臓病になって死んでいく人々は神のせいだという意味です。彼らは神に立ち返る事をしなかったからです。もし神が心臓病を与えるなら、全ての心臓病は神が与えたものです。何故なら、神はえこひいきをなさらないからです(ローマ2:11)。ですから、その様な論理に従って神が病気を与えると言うなら、私達は自分達の責任を回避してそれらの病気や患いを神のせいにする事になります。悪魔の教義や人の習慣や教えは、全て同じ結論に至ります。その結論は私達の責任を自分から取り除き、全ての事を神の責任にするものです。私の仕事は人々が被害者のように行動する事を止めて、勝利者として行動するようにさせる事です。人々が神の下に来て神の御心に賛同して、神は私達が勝利する為に全ての事を既に整えてくれている事を知る事です。神は全ての事を整えて下さいました。私達が居心地よく、くつろぐ事によって神に栄光が帰されるのではありません。良い時でも困難の中にあっても、病気や患いの中にあっても神に栄光を帰す事はできます。
病気の中にあっても堅く立ち神に栄光を帰す事はできますが、病気になる事は神の御心ではない事を知って下さい。病気に耐えて神に栄光を帰する事は、私達が自分の力によってその悪い状況を良いものに変える事です。でも人々はその様な状況を、「神がその様な病気の状況を良いものに変えてくれた」と言います。それは違います。それはその人々自身がしている事です。神はどの様な形にしろ、私達が神に栄光を帰する事を喜びます。でも私達が癒しなどの神が既に与えてくれた力にあって歩んでいないからといって、神を病気や患いや悪い事の為に責める事はしないで下さい。聖書には「主の良くして下さった事を何一つ忘れるな」と書いてあります(詩篇103:1-3)。それらの良い事は、「神は全ての咎を赦し全ての病を癒す」事です。それらは神が私達に与えてくれた事です。アーメン。
次は、神の癒しと主の聖餐についての聖書箇所です。主の聖餐はキリストの贖いについてです。これによって神の癒しと救いの2つが1つである事が証明されています。Iコリントへの手紙11章23節で、パウロが言っています。「私は主から受けた事を、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り感謝をささげて後、それを裂きこう言われました。」「これはあなた方の為の、私の体です。私を覚えて、これを行いなさい。」イエスは十字架に付けられる前に、むちで打たれて裂かれたように、最初にパンを裂いた事に注目して下さい。イエスはパンを手に取りそれを裂き、それから杯を取りました。次に注目して下さい。「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、私の血による新しい契約です。これを飲むたびに私を覚えて、これを行いなさい。」では、私達は初めに何をしますか?私達はまずパンを裂き、そして杯を取ります。続けて聖書はこう言っています。「ですから、あなた方はこのパンを食べこの杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」ここでもパンを裂く事と杯を飲む事が一緒になっている事に注目して下さい。その後に、「誰でも」と続いて書いてある事に注目して下さい。
TLオズボーンがよく言っていた様に、「誰でも」という事は「あなたも」なのです。それからこう書いてあります。「従って、(誰でも)もし、ふさわしくないままでパンを食べ主の杯を飲む者があれば、主の体と血に対して罪を犯す事になります。ですから、各自が自分を吟味して、その上でパンを食べ杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで飲み食いするならば、その飲み食いが自分を裁く事になります。」ここには「みからだをわきまえないで飲み食いするならば、その飲み食いが自分を裁く事になります」と書いてあります。「主の血をわきまえないで」ではありません。歴史を通して人々は教会の中で自分自身をよく吟味しなさいと教えてきました。何故なら、みからだをわきまえないで、と聖書に書いてあるからです。彼らは、それは他の人に対して何か悪い事を抱かない様に警告している意味だと理解してきたからです。
私達には罪はあるか、赦していない事があるか、教会の中で誰かに対して敵意はないか、自分自身を吟味する為に少しの間時間を取って考えてみる様に、それらのものが私達の内にない事を確認しなければいけないと教えられてきました。でも、そもそも私達は教会の中でも外でも、主の聖餐の時だけでなく、いつでも誰に対しても何も悪い事は抱くべきではありません。
ここでは「体」について話していますが、これは教会についてではありません。いいですか?この「体」が教会であると間違って教えられてきた事は知っています。この聖書箇所を通してパウロは、教会ではなくイエスの体について話しています。いつ教会が私達の為に裂かれましたか?教会は裂かれましたか?教会は私達の為に裂かれた事はありません。そうですよね?イエスの体が私達の為に裂かれました。この箇所では、イエスの体が私達の為に裂かれたと言っています。いつイエスの体が裂かれましたか?十字架の上ではありません。むちで打たれた時です。彼の血は十字架の上で注がれましたが、彼の体は裂かれました。そして、「彼の打ち傷によって私達は癒されました(Iペテロ2:24)」。パンが裂かれた時には、それはイエスの体が裂かれたという意味です。それはイエスの体であって、キリストの体の意味(教会)ではありません。聖書はイエスの物理的な体について話しています。今からそれを証明しましょう。聖書は言っています。「従って、もし、ふさわしくないままでパンを食べ」これはどういう意味でしょうか?もしこれがキリストの体(教会)をわきまえる意味だと考えて主の聖餐を行うなら、自分自身を裁く事になります。何故なら、主の体をわきまえないで、教会をわきまえる事をするからです。何故でしょうか?30節にこう書いてあります。「その為に、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います。」ここではパウロは、霊的な弱さについては話してはいません。彼はこう言っています。「皆さんが、イエスの体があなた達の為に裂かれた事を理解しないので、彼の打ち傷によって癒された事を理解しないので、あなた達の中に身体的に弱る人や病気になる人や死ぬ人が出てきます。何故なら、あなた達はイエスの贖いによって与えられた癒しの特権に預からないからです。」では、人々の言う事が正しいか確かめる為に、今日の教会を見てみましょう。もし彼らの言うように、私達が毎回聖餐式にあずかる前に「教会をわきまえる」為に、誰に対して何も悪い事を持っていないと吟味しなければならない、事が正しいとします。それなら教会の中で、弱い者、病気の者、寿命を全うしないで死んで行く人を見るべきではありません。もし彼らの言う通りに私達がしているなら、教会ではそれらの人々を見るべきではありません。でも、現実はどうですか?私達は教会の中で弱い人や早くに死んでいく人々を見ます。実際に、私達が病気や死亡率に関して教会の中で見る事はこの世の中で見る事と大して違いはありません。多少の違いがある理由も教会の中では通常の社会よりもストレスが少ないからです。人々はストレスを和らげる目的で祈るからです。医学的にもそれは証明されています。
実際に、弱っている人も病気の人も、早期に死んでいく人もいない教会を見た事がありますか?アメリカ中でも、恐らく世界中でも私はその様な教会をまだ見た事はありません。なので、この様な事が教会の中で起こっている事は私達が不正確にこの聖書箇所が罪の赦しについてだと教えられてきた事を証明しています。罪の赦しはキリストの血による事を覚えていますか?でも、もしパウロが罪の赦しについて話そうとしていたのなら、彼は、「主の血をわきまえないので」と言ったはずです。しかし、彼はそうは言いませんでした。何故でしょうか?それは、神は赦す方だと知っているからです。私達は神が罪を赦す事には何の抵抗もありません。そうですよね?問題が出てくるのは「神は癒すか?」についてです。面白い事に、それは当時のユダヤ人達にとっては全く逆でした。彼らはイエスが癒しを行う事ができると信じる事に何の疑問もありませんでした。しかし、イエスが罪を赦す事ができる事となると、それは彼らにとっては問題でした。これは現在の人々が信じている事と全く逆の事です。
その先も読んでいきましょう。「しかし、もし私たちが自分を裁くなら、裁かれる事はありません(コリント11:31)」。ここでは教会ではあなた方のうち多くの人達が弱く、病気で、主にあって眠っている人もいると言っています。何故なら主の体をわきまえないからです。主の血をわきまえないからとは書いてありません。主の体をわきまえない体と書いてあります。もし主の聖餐にふさわしくないままであずかる事で病気になるなら、必然的に主の聖餐に正しく預かる事によって癒しにあずかる事ができます。
主の聖餐と癒しに関連した実際の証をシェアさせて下さい。私達はバージニア州のキルマーノックにある教会にいました。そこは辺鄙な所だったので、携帯電話も使えずインターネットもありませんでした。まるで世界から切り離されたかのようでした。この事に関して、短い証を2つシェアします。私が今話してきた主の聖餐に関する事を教え終わると、友人の牧師は言いました。「もう少し留まって、教えてくれませんか、明日は日曜日なので聖餐式があります。あなたが教えてくれた通りに聖餐式を行って下さい。」私は答えました。「いいですよ。」それで、そこに留まり聖餐式を行いました。私は主の体が何を意味するのかなど説明してパンなどを配り終えました。そして言いました。「それではパンを手に取って下さい。」彼らはクラッカーを使っていました。彼らはクラッカーを渡し終えて私は言いました。「それでは、繰り返して言って下さい。キリストの打ち傷によって、私は癒された。主の体は私の為に裂かれました。彼の体が私の為に裂かれた事によって、彼の打ち傷によって私は癒された。イエスの御名によって私は癒しを今受け取ります。」「それでは、クラッカーを食べて下さい。」そして、皆がクラッカーを食べました。通常は、聖餐式はとても静かなものです。その時、驚くべき事が起こりました。
人々が自分自身の心の内を吟味して静まっている時に、突然、会衆席の2列目からある女性が血も凍る様な声を上げて叫びました。聖餐式の真っ只中でした。なので、皆ビックリしました。そこで、私は思いました。「これは悪魔が正体を現しているから追い出さなければいけない。」この女性は前かがみになって叫んでいました。しかし、彼女は叫ぶと同時に彼女の喉に何か詰まっているようで、何も話す事ができないようでした。彼女は甲状腺腫を持っていて、それは手のひら程の大きさの物でした。彼女は前にかがんで、喘ぎながら言っていました。「息ができない。息ができない。何かが私を息詰らせています。」その時までには、人々は彼女の周りに集まり言っていました。「私たちが今からその悪霊を追い出します。」そして、私達はそこに立って、その状況に対して何かする準備しようとしている寸前に、彼女は突然、空気を大きく吸い込み深呼吸ができるようになり立ち上がりました。そして、彼女が立ち上がった時には、その甲状腺腫はなくなっていました。そして、彼女は言いました。「イエス様。」彼女はイエスが彼女の甲状腺腫を取って、握りつぶすのを見ました。イエスがそれを握りつぶすと彼女の甲状腺腫は消えました。それは、彼女が「彼の打ち傷によって」といった瞬間に起きたのです。彼女はその時に始めて聖餐式に聖書的に正しく参加しました。その癒しの起きた後は皆とても真剣になっていました。私が前に戻って杯を取って、「これは、皆さんの罪の赦しの為に注がれたイエスの血です。飲みましょう」と言った時の彼らの真剣さは面白いくらいのものでした。何故なら、その様な事が起きたので、彼らにとって聖餐式が聖書に書いてあるように現実のものとなったからです。彼らにとって、それらはただのクラッカーとジュースではなくなりました。本当にイエスの血のように感じられました。実際にジュースがイエスの血となったという意味ではなく、彼らにとってそれらのものは単なる食べ物ではなくイエスの血と体としての現実味を帯びたという事です。それらの食べ物が本当のイエスの体と血になる事はありません。クラッカーとジュースは物理的なイエスの体と血になる事はできません。何故でしょうか?もし仮にそのクラッカーが祭司によって祝福されたとしても、それを放置しておいたら何が起きるでしょうか?それらは腐って行きます。聖書がイエスの体について何といっているか知っていますか?聖書には、彼は魂をハデスや墓場に残しておく事もせず、自分の体が朽ちていくのを見る事もないと書いてあります(使徒の働き2:31)。ですから、もしクラッカーが本当のイエスの体になるのなら、それは永遠に完全な状態で残るはずです。クラッカーがイエスの体になる事はありません。分かりますか?クラッカーはイエスの体が裂かれた事の、経験した事の象徴です。
次は28ページです。イザヤ53章です。もう癒しはキリストによる購いの中に含まれている事に納得する事ができましたか?イザヤ53章全体に関しては救世主であるイエスの苦しみについて書いてある事を知っています。その預言の通りにイエスはやって来ました。
イエスが、「これは預言者イザヤを通して言われた事が成就する為です」と言われた時に、イエスがイザヤ53章から成句を引用した事も知っています。では、イザヤ53章の4節を見ていきましょう。「まことに、彼は私たちの病を負い」と書いてあります。ここの「負う」という言葉はヘブル語では’Nasa’といいます。それから、私達の痛みを担ったと書いてあります。この「になった」とはヘブル語では’Sabal’ という言葉です。それで、ここにはこう書いてあります。「まことに、彼は私たちの病を負い(Nasa)、私たちの痛みをになった(Sabal)。 だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」では、私がマタイ8:16-17について言及した時に、何と言ったか覚えていますか?そこには、彼は私達の患いを身に引き受け、私達の病を背負った、と書いてあります。イエスはここで、イザヤ53:4を引用していました。ですから、マタイ8:17は、彼は私たちの病を負い、’Nasa’、私たちの痛みをになった、’Sabal’、と言い換える事ができます。イザヤ53:5にはこう書いてあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪の為に刺し通され、私たちの咎の為に砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」では、11節と12節を見て下さい。「彼は、自分の命の激しい苦しみのあとを見て、満足する。私の正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう、’Sabal’。それ故、(何故なら彼は私達の咎をになうから)私は、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物として分かち取る。彼が自分の命を死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、’Nasa’、そむいた人たちの為に通りなしをする。」
この様に11節12節でも、同じ’Nasa’と’Sabal’という言葉が使われています。そして、これらの言葉はこれらの節では、彼が私達の咎や罪を負う事、又は、担う事に対して使われている事注目して下さい。では質問です。イエスは私達の咎や罪を負いましたか?負いましたよね?これらのNasa’と’Sabal’という言葉を辞書で調べると、それらは文字通りには、「他人がある事を罰として受けなくてもいいように代わりのその人の為にその罰を負う」という事を意味します。なので、イエスは私達の罪や咎を代わりに「負ってくれた」Nasa、「担ってくれた」Sabal、という事です。そのおかげで私たちは自分の罪や咎を負う必要はありません。そうですよね?イエスが罰として私達の為に罪と咎を負ってくれました。私達がそれらをもう負わなくてもいいように。Nasaと’Sabalはこの様な事を意味します。私達は咎や罪の事になるとイエスがその様な事をした事を信じます。しかし、マタイ8:6-7によると、これらの同じ単語が私達の病気と患いの為に使われています。なので、イエスは私達の罪や咎の為にした事と全く同じ事を私達の病気と患いの為にもしてくれました。同じ単語が使われているからそうですよね?イエスは私達が咎と罪を罰として負わなくてもいいように、それらを罰として負ってくれました。また、彼は私達が病気や患いを罰として負わなくてもいいように、それらを罰として負ってくれました。
そうですよね?そうすると、私達のジレンマは次の様なものです。私達は、イエスが私達の病気や患いを私達の罪と同じ様に負ってくれた事を信じる決断をするか、私達の罪を負わなかったと信じる決断をするかです。何故なら、イエスが十字架に掛かり死んでよみがえられた事は、罪と病気が取去られる為にした事だからです。私達は、イエスは罪か病気の片方だけを取り去ったと選ぶ事はできません。私達は、イエスは私達の為に罪と同じ様に全ての病気を取り去ったという事実を信じるか、イエスは私達の罪を負わなかったという事を信じなければなりません。もし私達が、イエスが私達の病気や患いを負わなかったと信じるなら、イエスは私達の罪を負わなかったと信じなければなりません。どちらを信じますか?イエスは私達の全ての罪を負ってくれたように、病気も負ってくれた事を信じますか?では、私達の罪が取り除かれる事はどれくらい簡単でしたか?とても簡単でしたよね?私達は罪を犯した時には、どうしたらいいと聖書は言っていますか?私達は父に弁護してくれる方がいます(Iヨハネ2:1)。もし私達が罪について聖書の言葉を告白するなら、彼は何をしますか?神は正しく真実な方なので、私達の罪を赦してくれます。そうですよね?そして私達を全ての不義から清めてくれます(Iヨハネ1:9)。癒しもそれと同じように簡単なものです。何故なら、イエスは罪と同じ様に病気も負ってくれたからです。イエスは病気も罪も十字架の上で死に、よみがえられる事によって取去ってくれました。病気が始めに取去られ、次に罪が取去られました。癒しはキリストの贖いの中に含まれているでしょうか?はい、含まれています。私は、癒しは贖いの中に含まれている事を証明する聖書箇所を説明して来ました(イザヤ53:4-5、マタイ8:17、Iペテロ2:24)。
T J Macrossanは彼の本の中で、「誰でも癒しはキリストによる贖いには含まれてはいないという人は、学者でないか嘘つきです」と言いました。イエスを信じる者である私達は嘘つきにはなりません。私達は神の言葉に賛成して、御言葉通りに話して御言葉を行います。イエスは私達の全ての病を負って下さったでしょうか?はい、イエスは私達の病気を罰として負ってくれました。ですから、もし私達が病気や患いを持っているなら、それはイエスと私達の両方がそれを負っている事になります。それは偽の正義です。二人の人が同じ一つの罪の為に罪に定められる事は、一人の人を二度も同じ罪の為に罰している事になります。私達が既に他の人が負った罰を受ける事は正しい裁きではありません。しかし、私達がひねくれた弁護士(悪魔)を許す限りは、私達は病気を負い続けるでしょう。しかし、私達が父から与えられた弁護者を選ぶ事によって、私達は病気を負う必要はなくなります。
考えてみて下さい。この神癒技術者訓練の始めに、法廷の制度について学んだ事を覚えていますか?私達は裁判官の前に出て行き、彼が判決を下すと説明しました。私達を罪に問う検察官と私達を弁護する代理人がいます。そこで、私達の弁護者が立って言います。「これが私の依頼人が罰せられるべきでない理由です。」そうですよね?私達の弁護者には道理にかなった理由があります。それに実はその法廷の裁判官は実は彼の父親(父である神)です。だから法廷では私達は有利な立場にあります。そして、弁護者(イエス)は言います。「父よ。この人はこの病気を罰として受けるべきではありません。何故なら、私が既にそれは負ったからです。もし私が病気を負ったなら、彼らの病気と罪を罰として受けたのなら、この人が罪に定められるべきではありません。私がそれらを代わりに受けたからです。誰でも罰をうけるべきなら、それは私でなければいけません。」イエスはこの様に言わないでしょうか?それに対して、御父は言うでしょう。「そうですね。あなたが代わりに罰を受けました。その人は自由です。」それから被告人にはこう言うでしょう。「あなたはもう自由です。」そうですよね?ですから、捕らわれ人を自由にして下さい。
考えてみて下さい。癒しがキリストによる贖いの内に含まれているのなら、癒しが既にイエスの打ち傷によって与えられたものなら、癒される為の理由は私達に必要でしょうか?病気の人が癒されない理由を探す必要はあるでしょうか?そんな必要はありません。それなのに検察官(悪魔)が何か病人が癒されるべきでない理由を主張する事ができるでしょうか?それでも検察官は裁判官に向かって言うかもしれません。「その病人はどれだけひどい事をしたか知っていますか?」でも、弁護者(イエス)は言います。「父よ。ちょっと待って下さい。私はそれに異議があります。私がその人の罪も病気も既に負いました。その人の罰を負いました。」そうですよね?検察官である悪魔は言います。「でも、その人は彼の犯した罪によって私を招き入れました。」それに対してイエスは言います。「父よ。待って下さい。異議があります。私が十字架にかかった時に全ての人の罪を負いました。彼の罪も負いました。」裁判官である父は言います。「検察官の主張を破棄します。」単純ですよね。天の法廷では既に神は全ての人の為に自由を宣言しました。神は私達がこれから自由にする人達を既に天において自由にしました。私の言っている事が分かりますか?神は既に全ての人々の自由を宣言しました。ですから、私達の仕事は彼らの所へ行き、神の既にした事に賛成して彼らの自由を宣言する事です。
神は全ての虐げられている人達の為に自由を宣言しました。それが、イエスが背の曲がった女の人に向かって彼の元に来るように呼んだ理由です。そこで、イエスは次の様に彼女に言いませんでした。「自由になりたいですか?」「あなたは悪魔に扉を開けましたか?」しかし、イエスは言いました。「女よ。あなたの病気は癒されました」(ルカ13:12)。彼女に何も問う事はしませんでした。彼女の信仰についても訊く事はしませんでした。彼は天からの警察官のように、自由を宣言して命令しました。「悪魔よ、下がれ。彼女から去れ。」彼女は瞬時に癒されました。ルカ17章を見てみましょう。人々を自由にする事には責任も伴います。5節から見てみましょう。
5節には、「使徒たちは主に言った。「私達の信仰を増して下さい」と書いてあります。これについては前にも少し説明しましたが、今回はもう少し細かく見ていきます。6節には、「しかし主は言われた。「もしあなた方にからし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」と書いてあります。6節を読むと、イエスは突然議題を変えたように思えますが、そうではありません。弟子達は信仰について心配をしました。彼らは、「主よ、私達の信仰を増して下さい」と言いました。この後のイエスの返答は議題を変えた様に聞こえますが、そうではありません。彼は信仰については話していません。彼の話している事に注目して下さい。信仰は全ての基礎となるものですが、彼の話している事を信仰が何かについてと考えないで下さい。信仰がどのように働くかについて話しています。7節には、「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野から帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。」あなたは主人であって、しもべがいるとします。そして、そのしもべに向かって、「畑からやって来なさい。ここに座って下さい。今からあなたの為に食事を用意します」と言うでしょうか?イエスは主人はしもべに対してその様な事は言わないと言っています。聖書には、しもべが一日の厳しい仕事を終えて、帰ってきた時には、主人は、「よくがんばりました。ここに座って下さい。私があとは食事を整えましょう」と言うとは書いてありません。しかし、聖書には、ルカ17:8節には、主人はしもべに「かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。後で、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか」と書いてあります。言い方を変えると、主人はしもべに、「あなたは一日中働いていて、やっとその仕事を終えました。では、ここに新しい仕事があります。」と言っているという事です。「では、私の為に食事を整えなさい」と言っています。そして、主人は続けて、「かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』」と言います。しもべは一日の仕事を終えて、帰ってきたけれども、まだ他の仕事があります。そして、その仕事を終えた後に、やっと食事を取る事ができます。しもべは主人が必要な事を全て終えた後に自分の事をする事ができます。
大半のアメリカ人はそれを聞いて、「それは正しくない」と言うでしょう。それは彼らが主人としもべがどの様なものかを理解していないからです。「 しもべが言いつけられた事をしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか?(ルカ17:9)。」この節の意味は、主人はしもべが言いつけられた事をしたからといって、そのしもべには感謝はしない、という意味です。そうですよね?言い換えると、しもべがそれらの仕事をしたからといって、主人はしもべを家の中に連れてきて、あなたは良い仕事をしました、とは言わないという事です。10節で聖書の言っている事に注目して下さい。
「あなたがたもその通りです。自分に言いつけられた事をみな、してしまったら(ここでの「いいつけられた」という言葉に注目して下さい)、『私たちは役に立たないしもべです。なすべき事をしただけです』と言いなさい」と書いてあります。これは命令です。これを読むと私達は、「役に立たないしもべ?」と思うでしょう。「私は言いつけられた事を全て終えたのに。私は役に立たないしもべですか?」と思うでしょう。役に立たないしもべは、外に投げ出されて何度もむちで打たれる者です。そうですよね?ですから、私達は言いつけられた事をみなしてまったら、私達は役に立たないしもべです、と言うだけです。何故でしょうか?何故なら、私達は言いつけられた事をしただけだからです。言い換えると、私達は命令された事をしただけだからです。では、役に立たないしもべの定義は何でしょうか?それは、言いつけられた事だけをするしもべです。
では、現代の教会は何と言っていますか?「主よ、あなたの言う事は何でも行います。もしあなたが私に言いつけるなら、もし私を導いてくれるなら、もし私に言葉を与えてくれるなら...」と言います。言い換えれば、「主よ、もし私に命令してくれるなら、私は出て行ってそれを行います」という意味です。聖書によると、たとえ私達が命令された事を行ったとしても、私達は役に立たないしもべですと言うべきです。ですから、たとえ残りの人生を毎日神からの言葉を待って、それを行っても、全てを終えた後には私達はまだ役に立たないしもべです。何故でしょうか?それは、私達が何かする為に、言いつけられなければならなかったからです。なので、もし役に立たないしもべが言いつけられた事を全てする人なら、役に立つしもべはどの様な人でしょうか?その人は言いつけられていない事もする人です。言いつけられていなくても必要な事をする人です。ごく普通の事に置き換えましょう。
私はレストランのマネジメントの経験があります。私は大抵一番初めに職場に来る人でした。職場に来る時に、私より先に来ている人は私の行動を伺います。もしあなたが店長なら従業員達はあなたの車が到着したらすぐに気が付きます。そして、突然彼らは忙しく仕事をし始めます。その様な人達は、店長がサプライズで入って来た時にはただ立って片手にほうきを持ったままおしゃべりをします。そして、彼が入って来たのに気がつくと突然忙しくします。私がレストラン従業員の訓練のコーディネーターとして働いていた時、私の仕事は人々を従業員にする事でした。私がよくしていた事の一つは、誰よりも先に職場に着いた時にわざと紙くずなどのゴミを床に置く事でした。それをドアとカウンターの間に置いて、近くに立って人々が入ってくるのを観察しました。大半の人達はタイムカードを入力して、そして仕事を始めました。でも私が観察していた事は、入って来て最初にその床にあるゴミを拾って捨ててからタイムカードを入力して仕事に取り掛かる人達です。その様な人達を昇進させようかと考慮に入れます。何故でしょうか?
何故なら、彼らは言われた事以上の仕事をするからです。彼らは仕事外の時間でゴミを拾って清掃しました。彼らは自分の前に見つけた仕事を率先して行いました。これは何を意味するでしょうか?彼らをいちいち監督しないでもいい事が分かります。彼らが誰にも見られていないのにそれだけ良心的なのなら、彼らの下にいる人達にもその様な影響を及ぼすでしょう。私は彼らをリーダー的な立場に置きます。何故なら、私がレストランを去った時でも安心して彼らに管理を任せる事ができるからです。でも、いちいちするべき事を言わなければならない人は違います。いつも週末が忙しいものでした。その週末明けの月曜の朝に水曜日までに必要な食材などを注文しなければいけません。もし注文をしないと水曜日までには食品がなくなってしまいます。それが金曜まで続くと大変な問題です。なので、毎週月曜日の朝に私は食材を注文していました。週末を通して得た領収書を元に、何が、どれだけ必要なのかを計算して割り出していました。机の上にお金を広げて作業をするので、通常は見られないように扉は閉めていました。
ある時、新しい制服を着た新人が働いていました。彼はいつもとても緊張した様子でした。私が彼のそばを通り過ぎると、彼は言いました。「ブレイク店長、おはようございます。」私は彼の名前すら知りませんでした。恐らく彼は10日で辞めてしまうだろうと思い、名前を覚える必要はないと思いました。アルバイトの出入りは頻繁でした。彼らが1ヶ月その職場に留まるなら名前を覚えるようにしました。彼らはしばらくの間はいるかもしれないからです。私は彼のそばを通り過ぎて、部屋に入り扉を閉めました。数分後、彼がやって来て扉を叩きました。私はそれが誰か分からなかったので、扉は開けずに言いました。「何の用件ですか?」彼は言いました。「ブレイク店長、他に何かやる事はありますか?」ここで私は、数字を扱っていた業務から彼との会話に注意を向けなければいけません。私は考えます。彼は新人なので何をやらせようか?そして、言いました。「じゃあ、キッチンをチェックしてくれ。」彼は分かりましたと言って去りました。それから数分後、私は計算の作業に戻って忙しくしていました。しかし、すぐに又彼がやって来て扉を叩きました。彼は言います。「ブレイク店長、キッチンの作業が終わりました。次は何をしたらいいですか?」ここで、また作業から彼に注意を向けなければなりません。そして、ゴミ箱の事を考えて言いました。「ゴミ箱はチェックしましたか?」彼は「分かりました」と言い去ります。そして、すぐに彼は又帰って来て扉を叩きました。今度は私の声のトーンも違います。何ですか?と答えましたが、心中では一人にしてくれと思っていました。彼は言いかけました。「何か他にする事が…」そこで、私は言いました。「駐車場はチェックしましたか?」彼は言いました。「いいえ。まだです。」私は言いました。「それをする前に、タイムカードを押して下さい。そして、家に帰る途中の全ての駐車場を調べなさい。もう戻って来なくていいです。あなたは必要ありません。」何故でしょうか?何故なら、彼は最低賃金しか稼いでいません。私は3倍、4倍の賃金を稼いでいます。
彼の無駄な行動のせいで、会社は彼に無駄に払っているのです。いちいち彼にしなければいけない事全てを告げなければならないからです。彼は役に立つしもべですか?いいえ、違います。彼は役に立たないしもべです。役に立たないしもべは長続きしません。自分からするべき事を見つけて忙しくしている人達が役に立つしもべです。そうですよね?彼は会社に訓練されて、その目的も何を目標にしているかも知っています。私が良いマネージャーならその様な役に立たない人をクビにします。何故なら、私の仕事は会社に利益をもたらす事だからです。彼は利益をもたらしません。私の仕事は誰か会社に利益をもたらす人々を見つける事です。いちいち何をするべきか言われる様な人ではありません。役に立つ働き人はするべき事を自分で見つけてそれを行う人です。成長し拡大して利益を上げ、人々を助け社員と顧客の為に最善を尽くすという会社の目的に行動する人です。
何故教会はこの事に気がつかないのでしょう?私達は救われてすぐに、人々に福音の事を宣べ伝えたくて、証がしたくて、祈りたくてうずうずします。全て新鮮で皆に救われた事を伝えたいと思います。しかし、一度クリスチャン達の間に入り込んでしまうと、彼らは私達を見下げて言います。「今は生き生きして活発でも、そのうちあなたも私のように落ち着いて、静かになりますよ。」神はその様な事は望んではいません。それでも、彼らは言います。「あなたもそのうち私のように信仰が死んだ者のようになりますよ。」私達が救われてすぐの頃に考えている事は、人々に証したり宣教したりする事です。福音を宣べ伝えなければと考えます。導かれる事など考えません。そうですよね?ところが、長くクリスチャンでいればいる程、何故かクリスチャンとして歩むなら、いちいち何をどのようにするべき事を全て言われなければならないと考え始めます。
それでは、目に見える自然界の事に置き換えて考えてみましょう。あなたに2歳の子供がいるとします。その子供の靴紐を結んであげなければいけません。常にそうしてあげなければいけません。しかし、5分後に靴紐がほどけてしまって戻ってきます。その子供は、靴紐を結んでもらう為に足を差し出します。そしてあなたはその子の靴紐を結び直してあげます。でも、又すぐに戻ってきます。あなたは、小さな子供はどのように靴紐を結ぶか知らないので気になりません。しかし、もしその子が20歳にもなったのにやって来て、「靴紐を結んで」というならそれは問題です。そうですよね?それは歳を取るにつれて面倒を見てもらう為の監督は必要なくなるべきだからです。それは成熟するという事です。私達は教会ではその逆の考えをしていないでしょうか?何故キリストにあって歳を取ればとるほど監督が必要になり、より詳細な指示が必要になると考えるのでしょうか?私達は何故このよう考え方をするのでしょうか?

あなたに12歳~15歳の子供達がいるとします。あなたは過去何年もの間、ゴミの日に道路に出すゴミ箱を家の外に置くように子供達に言い続けてきました。しかし、それは道端に置いたままになっている事が殆どです。そしてある日、ゴミ箱が外に出ているのを見つけて、子供達に向かって「ゴミ箱を移動しなさい」と言おうとします。でも、彼らは既にゴミ箱を移動し始めています。それを見たあなたは驚きます。それを見て、彼らは「どうかしたの?」といいます。あなたは、感動して言います。「神に栄光があれ。この家に救いがやってきました。私の子供達はついに成長しました。」その様な例えを思い浮かべて下さい。その例えのポイントは、彼らの成長のしるしはゴミ箱を家の敷地に入れた事ではありません。そうではなくて、あなたが彼らに何も言わなくても彼らがその様にした事です。そうですよね?何故それが成熟する事なのでしょうか?それは彼らがゴミ箱を移動する仕事の責任を担ったという事だからです。言われなくてもそれを実行しました。それが成熟する事です。それはキリストにおいての成熟も同じです。
イエスが、「あそこにいる病人が見えますか?あの人の為に祈りに行きなさい」と言わなくてもいい時が私たちの成長です。私達はもう既に神からの手紙を受け取っているのに、神からの電話を待っています。毎回目に見えたり、耳に聞こえたりする様な、はっきりとした導きを必要としない事、それが成熟です。何故なら、もし神が私達にするべき事を全て伝えるなら、全てを成し遂げた時も、私達は役に立たないしもべだからです。でも、もし私達が役に立つしもべになりたいのなら、神の国に従って、何が成される必要がある事なのかを探して見つけるでしょう。そして、私達がその見つけた仕事をする時に成熟した者となっていきます。その様な事をしていくと宗教的な人々は怒り出します。彼らは私達が何様のつもりであるかと考えます。彼らは訊くでしょう。「あなたは一体何様のつもりですか?誰があなたを殿様にしたのですか?」その時には私達は答えます。「それはイエスです。」また、彼らは言うかもしれません。「あなたは自分を他人よりも何か敬虔な人だと思っているんですか?」いいえ、違います。しかし、もしかしたらそんな事を言う人よりも、ただ従順なだけかもしれません。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。