2019年1月24日木曜日

DHTT セッション 8

神の言葉は確かな契約です。私は預言的な事や預言的なミニストリーに賛成です。それらに反対しているとは思って欲しくはありません。御霊によって導かれる事にも賛成します。注意するべき事は、私達はこれらの事に関しての先入観を持っている事です。多くの人々は預言の言葉を受取るまでは何もしようとしません。人々は預言の言葉と神からのその預言の確認を受取るまでは何もしない状態になっています。人々は言います。「でも、私達が御霊に導かれるまで待つ必要がありませんか?」それは「御霊に導かれる」という言葉の定義によります。もし私達が何か外部からの、気まぐれな感覚について話しているなら、その様な導きは必要ありません。すぐに宣教を始めるべきです。でも、もし私が外からの気まぐれな感覚を受けて、それが聖書の言葉と一致するなら、それを実行して下さい。御霊の導きはいつも御言葉と一致します。考えてみて下さい。もし、その御霊の導きが聖書の言葉と一致するなら、私達は御言葉をいつでも行う事ができます。導きがあっても無くてもです。新約聖書には導きを得るようには書いてありません。それを証明できます。使徒の働きでは、パウロは大宣教命令に従って行動していた事が分かります。御霊の導きによってではありませんでした。彼は福音を宣べ伝えて、人々に救いをもたらしました。彼らはアジアに行く予定だったのに、聖霊がそこには行かないように言った箇所があります。その後に、パウロはマケドニアについての幻を受け取り、そこにいるある人が言いました。「ここに来て私達を助けて下さい」(使徒16:9)。パウロは既にアジアに向かっていて、宣教活動を始めていました。彼が御霊の導きを待っていたのなら、御霊が彼に「アジアに行ってはいけません。向きを変えてこっちへ行きなさい」と言う必要はありませんでした。もし彼が導きを受け取ってから行動していたのだったら、彼は既にアジアに行くように聖霊の導きを受け取っていたという意味になります。聖霊は「私は考えを変えました。ここへ行って下さい」と言って、そんなに簡単に考えを変えたと思いますか?それとも聖霊は全てを前もって知っていたと思いますか?聖書は言います。聖霊は私達を全ての真理に導きます(ヨハネ16:13)。しかし同時に、聖霊は私達にやがて起ころうとしている事を示します。使徒パウロは、今日一般的に理解されている様な導きに従って行動してはいませんでした。彼が幻を受けてマケドニアに行った時には、彼は聖霊の導きによって行動していました。私は導きに反対ではありません。聖書の大宣教命令は私達に全世界に出て行って宣教しなさいと言っています。私達が出て行くにつれて特別な導きを受け取るでしょう。もし特別な導きを受けたならそれに従って下さい。でも、特別な導きを受け取るまでは聖書の言葉に従って下さい。ただ出て行って聖書の言葉を行って下さい。これについては、聖書でも最近の歴史でもたくさんの例があります。



T.L.オズボーン氏は私が今話している事についての典型的な例です。彼は妻のデイジーとインドに行きましたが、何の結果も力もありませんでした。彼らは何をすれば良いのか分からず、結局アメリカに帰ってきました。彼は言いました。「私達がサンフランシスコの港に着いた時には、私はその船の舳先に立ってデイジーに、もうあなたをアメリカの外には連れて行きませんと伝えた事を覚えています。」それは60年前の事で、それ以来、彼らは200カ国以上の国に行きました。明らかに彼はその約束を守りませんでしたが、それはこの後何が起きるのかを知らなかったからです。彼は出て行って神を知り、しるしと奇跡を伴った宣教をするべきだと気が付きました。それはパウロが言った事です。「私はしるしと奇跡を伴って、福音をくまなく宣べ伝えました」(ローマ15:18-19)。


私達は福音を宣べ伝える事はできますが、しるしと奇跡を伴うまでは、それをくまなく宣べ伝える事はできません。しるしや奇跡は神の言葉に伴うものです。私は御霊の現われとしての、しるしや奇跡が実在するかについて話すつもりはありません。皆さんは、既にしるしや奇跡は今日の為にある事を認識していると私は思っています。それを想定の上でそれらの事が皆さんにとって、日常的な出来事になるレベルになるように手助けしようとしています。癒しは「普通」のものだからといって、それらをないがしろにするのではありません。ただ、それらの事が私達の日常の中で常に起こるようになるべきです。聖霊の力にあって働き始めるまでには、いくらかの運動量が必要になります。初めの頃には多くの運動量でも僅かな結果しか得る事ができません。例えば、車を押し始めた時には多くの力が必要ですが、一旦、それが動き始めると加速がかかり、どんどん速くなっていきます。悪魔は、私達が最初の幾つかの戦いに勝利する事を妨げようとします。何故なら、私達が一度その勝利を経験すれば、その後に敗北しても前に進み続けるからです。もし、敵が私達の初めの幾つかの戦いの勝利を妨げる事に成功すれば、私達の頭の中にはいつも僅かな疑いの念が残るからです。それによって、私達はいつも「癒しは本当に私の為だろうか?私のしている事は正しいのだろうか?癒しは本当に今日も起きるのだろうか?」などと考えるからです。これらの考えは頭の中をめぐるので、克服しなければなりません。想像してみて下さい。聖霊があなたに話しかけて、「今から私はあなたを癒しの為に用います。大きな力が働き始めます。でも、あなたの最初に祈る21人は癒されません。何の結果も見ないでしょう。その内の何人かは死ぬかもしれません」と言ったとします。さて、あなたはどうしますか?どの様な反応をしますか?21人の為に祈り22人目を癒し、そしてまた1番目の人に戻って過去に祈った全ての人達を癒すべきです。最初の21人を放って置かないで下さい。幾らか癒しの結果を得た後に、初めの人々の元に戻って彼らを癒して下さい。


以前に私は、コロラド州のデンバー市にあるアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会にいました。幾つかの素晴らしい事をそこで経験できました。

それはニューエイジを信じる人達が多くいる地域です。毎回私がそこに行くたびに、魔女や魔術師やニューエイジの人達がやって来ました。多くの場合、魔女達は間隔を空けて会堂の椅子に座ります。彼らは集団でやって来ますが、なかなか見分ける事ができません。散らばるからです。前回にそこにいた時に私は、集会前にスタッフ達とその会場の後ろ側にいました。彼らは言いました。「いいですか、集会の中に魔女達がいる事を知っています。私達は彼女達を知っています。以前にも彼女達を見ました。ですから、今は何をするかの準備ができています。だから、あなたは何も心配しないで下さい。」私は分かりましたと答えて、彼らが何をするか興味津々でした。礼拝が進むにつれて彼らは、教会の若者達を呼びました。そのグループは特別な名前を持っていました。そのグループはMaster’s Commission というクループの一部でした。彼らは教壇から言いました。「では、配置について下さい。」私は考えていました。「配置とは何だろう?」若者達が群集から出てきてそれぞれ壁に沿って扉のそばに立つのを見ました。それで彼らは言いました。「それでは始めて下さい。」彼らは異言で祈り始め祝福し、悪いものを縛り始めたりしました。その時の魔女達の反応は忘れる事ができません。彼女達は完全に困惑しました。そして、その何人かは去り始めました。私達は誰もその場に強制的に留めて置く事はできません。彼女達が出て行くにつれて、何人かの若者達も一緒に出ていって、彼女達が扉に着く前に彼女達と話して証をしたり祈ったりしていました。彼らが組織だっていたのには驚かされました。組織化はいつも、一度誰かに会って2回目からできるものです。一回目は混乱です。何故なら、私達は何も予期していないからです。でも、2回目からは私達は準備して少しでも、ましになるように組織化します。その様な経験があったので彼らは組織化し始めました。私達も何回かそうした経験がありました。魔女達はただ力を求めている人達の事です。残念な事に、大半の教会は力を見せていないので、彼女達は他の所へ行ってしまいます。


私がいつも祈っている事はこれです。私は神に3つのタイプの人達を私達のミニストリーに導いてくれるように祈っています。それらは、元バプテストの人達、元軍人、元カルト信者の人達です。元バプテストの人達は何をするのにも導かれる必要はありません。彼らは福音を証する事は正しい事だと知っているので、誰にでもいつでも、どこでも証をします。少なくとも伝統的なバプテストはそうです。2つ目には元軍人達です。彼らは命令を受取って、それを成し遂げる事がどの様な事であるかを知っています。彼らは新しい命令を受取るまでやめません。3つ目は元カルトの信者人達です。彼らはカルトに入っていたので、完全に自分を捧げて目的を成し遂げる事を知っているからです。多くの場合には、彼らは不当に扱われて悲惨な目にあっています。でも、私の求めているのは彼らのその姿勢です。私は簡単に元バプテストを力にあって歩ませる事ができます。一度彼らに神の力を見せれば彼らはその力にあって歩み始めます。彼らは神の力を聖書での中に見てそれを経験すれば、彼らはそれにあって歩み始めます。問題は聖霊派の人達です。

何故なら、彼らは他の人達と同じ様に多くの伝統などを持っているからです。ですので、それらを壊していく必要があります。では、セッション2の17ページです。書き記された御言葉は天からの声よりも確かなものです。もし聞こえてきた声か聖書の言葉かを選ぶなら、聖書の言葉を信じて下さい。何故なら、殆どのカルトは誰かが何かの声を聞く事から始まったからです。何かの声を聞く事はそんなに重要ではありません。しかし、聖書に書かれた御言葉が最も権威のあるものです。それは、御言葉が最も確かなものであるという意味です。声といえば、例えば、預言の言葉も良いものです。聖書も預言する事をないがしろにしてはいけません(Iテサロニケ5:20)。又、預言によって勇敢に戦い抜くように言っています(Iテモテ1:18)。預言は勇敢に戦い抜く為に役立つものです。神は前もって預言を与えてくれます。神は私達の経験する事を全て知っていたので、預言の言葉を通して教えてくれます。私達が戦い始めて、戦いの最中で神の語った事を思い出すのです。しかし、もし神が戦いの最中にその事を告げるなら、それは本当に神からのものなのかを疑います。もしそれが戦いの前の事なら、戦いの最中に「神は前もって語ってくれました」と言う事ができます。ですから、預言は良いものです。戦いの最中に預言を受ける事もできますが、その預言の正当性が命を左右する事があるので、いつもそれは本当なのかと考えてしまいます。でも聖書の言葉はいつも堅く定まっています。私達が今日読んでも、20年後に読んでも同じ事を語っています。そうですよね?預言は来たり去ったりします。でも、聖書の言葉はいつまでも堅く立っています。神の言葉はより確かな契約であり、私達の最高の権威です。私達の経験が御言葉を評価するべきではありません。御言葉が私達の経験を評価するべきです。この考え方によると、建て上げられてきた教会の伝統の大半は打ち壊されます。私達は御言葉に従って自分の経験を判断するべきです。教会で教えられている大半の神学は、私達の失敗に基づくものです。私達が失敗を犯す時、私達は聖書を読んでその失敗を正当化する為に、その失敗を説明する聖書箇所を見つけようとします。ですから、大半の神学は勝利や成功ではなく失敗に基づいています。


ここで大胆に言わせてもらいます。教会で謳われる大半の信条は、異端などの問題が持ち上がった度に、その問題に応じて修正されてきたものです。自分達の信仰を主張して確立されてきたものではありません。一般的に、信条を作成する時に、人々は、「これらが私達の信じる事です。書き記しましょう」とは言いません。異端や異なる信条が発生すると突然に、次の様に言い出します。「ちょっと、私達は今の信条に同意しないので、私達の信条を修正する必要があります。」そうして、人々は今の大半の信条に付け加えてきました。それが全く間違っているという訳ではありません。私がここで言いたいのは、私達は何が真に重要であって妥協するべきでなく、何が重要でないかを見分ける必要があるという事です。何が神の言葉と一致していて従うべきか、何が一致しないで従うべきでないかを知らなければなりません。詩篇119:89で神の言葉は永遠に天において定まっています。

私達は御言葉を地上でも定めなければいけません。どれだけの間天で定められていますか?永遠にです。神の言葉が天において定まっていなかった時はありますか?いいえ、ありません。御言葉は天で定まっていて決して変わりません。ですので、その御言葉通りに神は物事を見て語ります。そうですよね?神は、私やあなた方、又、状況に応じて変わりはしません。神の言葉は、天において定まっています。この聖書箇所は、「神の御言葉は天と地において定まっている」と言っていない事に注目して下さい。その理由は、神の御言葉は、地においては定まっていないからです。分かりますか?それは私達の仕事です。それがイエスは、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈るように教えた理由です(マタイ6:9-10)。何故でしょうか?何故なら、神の御心は神の言葉であり、神の御心は天において定まっています。私達の仕事は神の御心を地で定める事です。私達は、神の御心を自分の心とします。そして、それを地で成し遂げます。ですので、この地は、神の御心が行われていない混沌とした場所である事を意味します。私達の仕事はこの地上の事柄を正しい状態に戻す事です。私達の仕事は、地を修理するのではく天のようにする事です。ある人は言うでしょう。「私達がその仕事を全て成し遂げる事ができないかもしれないのに、神は本当に私達がそれに挑戦する事を望みますか?」はい、そうです。何故でしょうか?それは全ての人を助ける事ができないからと言って、誰も助けないのではないからです。そうですよね?道の隅に立って看板を掲げている人は、「どうか助けて下さい。私達は食べ物の為に働きます」と書いていますが、でもそれは本当ではありません。彼らが本当に意味している事は、「私にお金を下さい」です。彼らはそれを看板には掲げたくないので書きません。クリスチャンがこう言うのを聞いた事があります。「彼らにお金を上げる時に、彼らや他の人達が、あなたがお金を上げるのを見たら、彼ら全員にお金を上げる事になります。」そうですが、それが何ですか?でもある人は議論します。「でも、誰にでもお金を上げるなら、私が家に帰るまでには、財布の中にはお金はなくなってしまいます。」だから何ですか?私達は、神を知っていますが彼らは知りません。私達はどこからもっとお金を得るかを知っています。しかし、彼らは神を知りません。何故こう言うかというと、私も同じ経験してきたからです。確かに、私達は論理的に考えようとします。彼らは、神の与えたお金をドラッグや、お酒や、タバコなどに使うかもしれません。しかし、本当にそうするかは分かりません。もし、本当にそれを心配するならお金を上げないで、彼らの為に何か食べ物を買ってあげたら良いです。道端の隅にお金や食べ物を求めている人達がいる時の、人々の反応は面白いものです。何故なら、突然、彼らは携帯や他の物をいじくり始めます。そして、赤信号なのでそこで立って待っています。そこに彼らがいる事を無視しようとします。しかし、聖書には「全ての求める者に施しなさい」と書いてあります(マタイ5:42)。しかし、人々は言います。「でも、それは私達がその人がドラッグや酒を買う事を助けている事ではないですか?」違います。もし聖書が言うのなら、それに従うべきです。そうですよね?

ある人はまた言います。「一度彼らに食べ物を与えたら、もっと多くの人が集まってきます。」私達は実際にそれを行いました。何人かの人達に食べ物を与えて、彼らは戻り続けました。そうしているうちに、彼らはもっと多くの人達を連れてきました。それで、私は神の御前へ行って話しました。「神よ。どうしたらいいですか?彼らは私に頼ってきます。私が彼らの助けです。私が彼らの源です。」そして、神は答えました。「知っています。彼らは私の事を知りませんが、あなたは私の事を知っています。あなたの源は誰ですか?」私は答えました。「もちろん、あなたです。」神は言いました。「それなら、何を心配しているのですか?あなたは何か持っていないものはありますか?お金ですか?食べ物ですか?」そして、私は言いました。「そうです。それらは決してなくなりません。」神は言いました。「では、何を心配しているのですか?」そして、私がその様にすればするほど、何も欠乏しない事に気が付きました。


私がダラス市に住んでいる時に赤信号で止まっていると、ある男が車の窓まで来ました。私は窓を開けてポケットに手を突っ込んで、そこに入っていた1000円札を取り出して彼に渡しました。それは5千円札でも、1万円札でもありませんでした。1000円札です。それを渡した時には彼はそのお金を見て、驚いて言いました。「神の祝福があるように。」私は言いました。「彼は私を祝福してくれます。だから私はこの様な事ができるんです。」そして彼は続けて言いました。「私はいつもでもこの様な状態のままでいる気はありません。」そして、その男の人は色々と話し始めました。彼は何年も前には億万長者だったのに、突然にしてそれを失ってしまった、という事です。彼は続けて言いました。「でも、私はいつまでもこのままではいません。私はこの状況を克服します。」それに対して私は答えました。「私はそれを信じます。信じますよ。」そうして話している間に信号が変わり、去らなければならなくなりました。その場を去ってすぐに道の脇に駐車して妻に言いました。「もしもっとお金があったら、あの人に上げたいです。あの人を助けてあげたいです。」これを聞いてある人は「それは愚かな事です。彼がそのお金を何に使うか分かりません。」それは重要な事ではありません。例えば、私が元々神のものであるお金をその人に上げるとします。そして、その人はそのお金を何か悪い事に使うとします。しかし、それは彼と神との間の問題ですよね?神と私の間では、私は彼に従順です。それが大切な事です。そうですよね?人助けはいつも正しい事です。聖書は私達の敵が腹を空かせているなら、食べ物を与えなさいと言っています(ローマ12:20)。その男の人は、私の敵でありませんでした。多分、クリスチャンでもなかったかもしれません。敵は一人だけです。それは悪魔です。彼らは、助けが必要な人達です。良きサマリア人のたとえ話を思い出して下さい。教会には、祭司の様な彼らの前を通り過ぎていく人達も多くいます。しかし、サマリア人はその様な人達の所に来て言います。「私には多くのものはありませんが、でも、これが私の持っている分です。」

私は、ただ聖書を読んでそれを文字通りに理解して、それを行う事について話しています。私達が御言葉を行う時にそこには力が働きます。私は何も特別な人ではありません。全く普通の人です。でも、私は諦めません。諦める事を拒否します。私は聖書の語っている事を見つけて、それを行って歩んでいこうとし続けるだけです。そして、神は真実な方です。神は私よりも真実な方です。私にも浮き沈みはありました。私は長い間、不安定なクリスチャンでした。本当です。その様な事を経験してきました。私が癒しの為に祈り始めた時、私は罪を犯していた期間がありました、罪です。あからさまな罪でした、自分でも分かっていたし、周りの人々も知っていました。それでも人々は癒されました。それにはショックを受けました。それは、私がその当時教えられた事に全く反したものでした。罪を犯していたのに人々は癒されました。その時は理解できませんでした。そして終に神の御前に行き、「神よ。何故ですか?私は罪を犯しているのに何故私を用いて人を癒すのですか?気にしないのですか?」と訊きました。神は答えました。「知っています。あなたの事は後で清算します。」それはまるで、ある人が校長室に呼ばれた様なものです。分かりますか?その後、私の内に聖くなりたいという願いが起きました。そして、私の行っていた罪は減りました。私は、「何故私には罪があると知っているのに、彼らを癒すのですか?」と神に尋ねました。神は言いました。「私は彼らを愛しているので、私が用いる事のできる人は誰でも彼らを助ける為に用います。しかし、私がその人を用いるからといって、私はその人に何をしても良いと許可を与えるのではありません。その人達の罪は後で清算します。」分かりますか?神には物事の清算の仕方があり、私達が思いつく様なものではありません。私達はもし生活の中で罪を行っているなら、その罪は神が私達を人助けの為に用いるのを妨げると考えます。


神は異邦人を用いてイスラエルの民を救った事を知っていますか?神が彼を信じない異邦人を用いるのなら、神は問題を抱えた罪を犯しているクリスチャンは、なおさら用いるはずです。そして、神は彼に向かって心の正しい人ならなおさら用いるでしょう。そうですよね?でもある人は「私は準備ができていないし、十分な知識もありません。」と言うかもしれません。どれだけの事を知る必要がありますか?私達の今知っている知識のレベルで、私達は誰かを助ける事ができます。例えば、あなたが新生した時にヨハネ3:16を知っていたか分かりません。もし知っていたら、ヨハネ3:16の聖書箇所を学んだ時点で伝道する資格を得るのです。全ての聖書箇所を学んだ後ではありません。私達が救われた時には、ほぼどの聖書箇所も知りませんでした。でも、それでも悪魔を打ち負かしました。その聖書箇所以外は全く知らなかったのに悪魔に打ち勝ちました。たとえ話で説明しましょう。1943-44年に戻ったとします。第二次世界大戦の時にはあちこちに強制収容所がありました。多くの強制収容所には機関銃を持った番兵と見張りの塔や番犬がそこら中にいました。でも、門は開いたままでした。あなたは強制収容所に収容されているとします。

あなたはその門の前後を歩き、毎日他の収容された人と共にその開いた門の前を歩いて、兵隊や車がその門を行ったり来たりしているのを見ています。そして、この様に考えます。「恐らく、ここから門を通して歩き出る事ができる。」これを他の囚人に話すと、「やめなさい。彼らはあなたを殺します。機関銃を持った人を見て下さい。あの見張りの塔を見て下さい。それは馬鹿げている」と言うでしょう。あなたはためらいますが、一息ついて「いや、やっぱりできると思う。シャベルを肩に置いて歩いていけば、私を、労働をしている囚人だと思うでしょう。むしろ、ここにいて一人一人殺される事を待っているよりは、失敗して死んだとしても、一発この機会を試してみた方がましです」と言います。彼らは引き下がって「やめろ」と言います。しかし、あなたはシャベルを肩に置いて、まるでどこに行くか知っている様なふりをして門に向かって歩いていきます。門に近づいていきますが、周りは見渡しません。しかし、見張りの塔の上にはナチスの兵士が機関銃を持っているのを知っています。そして、彼らにその銃口を向けられた音を聞きます。あなたの心臓の鼓動は大きくなり、冷や汗をかいてきます。しかし、構わず何処に行くのかをまるで知っている様に歩き続けます。兵士達が何か話しているのが聞こえます。すぐに、銃口は上げられ、兵士達は元の見回りに戻ります。そして、あなたはそのまま門を歩き過ぎます。その門を出てその陣地を横切った所に茂みがあり、なんとそこにある切り株が開いて、その中にいる人が「こっちに来い」と手招きしているのを見つけます。そして、彼はフランスのレジスタンス集団である事に気づき、彼と共に脱出します。


そして一ヶ月後、朝起きて、「神に今ここにいられる事に感謝します。ここミネソタは最高です。私がいた強制収容所の外にいる事ができる事は感謝です」と言う事ができます。すると、突然電話が鳴ります。その受話器を取り「もしもし」と言うと、受話器の向こうの声が、「朝だ。起きろ、外に出ろ。点呼を取るまで立っていろ。分かったか?」と言いますそれを聞いてとっさにあなたは、「この声はあの強制収容所の司令官の声だ」と考え、数秒の間考えたまま止ります。何故なら、あなたはまるでその強制収容所に戻ったかのように感じるからです。そしてこう考えます。「外に出て司令官が言うように、点呼を取るまで並んで立つべきだろうか?」しかしあなたは、「いや、神に感謝します。私は今ミネソタ州にいます」と言って電話を切ります。では質問です。次のうちどちらを行う事により大きな信仰が必要だったでしょうか?その門を歩き過ぎる事か、その電話を切る事かどちらでしょうか?もちろん門を歩き過ぎる事です。その門を歩き去る事ができたなら、その電話を切る事はさらに簡単な事のはずですよね。では、私達の話していた事に戻ります。聖書によると私達は、罪と罪過の中にあって死んだものである間に(エペソ2:1)、私達はまだ悪魔に属していた時に私達は決断を下し、神は私達を暗闇の圧制から救い出して愛する御子の支配の中に移されました(コロサイ1:13)。そうですよね?まだ、悪魔に属している間、悪魔の支配下にいる間に、私達は自分で決断してその支配下から抜け出しました。

そうですよね?では、もし悪魔が私達を所有していた時にその様な事ができたなら、悪魔が電話の受話器を通して「あなたは病気です。あなたは癌になりました。あなたは死にます。あなたを殺します」と言うと、その受話器を置いて電話を切る事はどれだけ簡単な事でしょうか?むしろ私達は、手にある受話器を見て「バカじゃないの」と言い、電話を切る事ができるべきです。そうですよね?今では、悪魔が私達に対して力を持つ事を許す方が、むしろ信仰が必要なくらいでしょう。何故なら、以前は悪魔に属していましたが、今では彼には属してもいないからです。何故、悪魔なんかの言う事を聞く必要があるでしょうか?何故、私達は悪魔に向かって「私はお前には属していない。お前は私を支配する事も、命令する事も、何をするようにも、その様な権威はない」と言わないのですか。ある人々は、「問題は私が悪魔に扉を開けた事です。ですので、今は、悪魔は私に入ってくる権利を持っています」と言います。


法律上の義務について話しましょう。第一に、それはモーセの律法に基づいています。聖書は、悪魔は初めから盗人であり、殺人者であり嘘つきであると書いてあります(ヨハネ8:44)。そうですよね?初めからです。ある人々は、悪魔は私達に対して権威を持っていると考えているようです。彼は権威なんて持っていません。悪魔は裏切り者であり、犯罪者です、彼は「私は高く上り、神を打ち倒し、私が神になろう」と考えた瞬間からその様な者です(イザヤ14:13-14)。そうですよね?それが、悪魔がアダムに近づいてきて、「このエデンの園は私のものです。ここから去りなさい」と言わなかった理由です。彼は権威や力などは全く持っていませんでした。彼はアダムとエバを欺かなければなりませんでした。不幸にも、アダムとエバはその神から与えられた権威と力を悪魔に与えてしまいました。聖書は、特にクリスチャンに向かって、「あなたは自分のものではありません」と言っています。私達の体は私達のものではありません。代価を支払って、買い取られたものです(Iコリント6:19-20)。皆さんは私の車は私の名義で登録され、私のものである事を知っています。


もし、私がその車の鍵をここに置いておいたら、誰でもその鍵を取って車を運転する事が許されると思いますか?「ここにカリーの車の鍵があります。あなたのものです。好きなように運転して、好きなように使っていいです」と言う事はできません。そうですよね?私達の身体は、私自身のものではありません。それは誰に属するものですか?イエスにです。だから、私達は自分の身体を悪魔に渡す権利はありません。分かりましたか?私達は、決して悪魔が私達の身体に影響を及ぼす事を許可する権利はありません。私達の身体はイエスのものだからです。新約聖書には、私達が悪魔に権利を与えるので悪魔が病気を与えるとは書いてありません。聖書には、罪を犯したら悪魔に機会を与える事になると書いてあり(エペソ4:25-32)、病気についてではありません。

病気がやって来るのは2通りあります。まず、種蒔きと刈り取りの法則です。私達は、自分自身に害のある事をしてそれを通して悪魔が影響する機会を与える事ができます。自分で自分の身体を壊して悪魔に機会を与えてしまいます。これが種蒔きと刈り取りの法則です。それから、敵からの攻撃があります。敵が私達を攻撃するのは私達を憎んでいるからです。私達が何もしなくても敵は攻撃します。私達を憎んでいるからです。問題はそれを認識しない事です。だから私達は神学を作り出したのです。それは、「もし私達が病気を持っているなら、私達のうちに何か解決されていない深い悲しみや何か赦せない人がいるからだ。もし私達が関節炎を持っているなら、苦い霊を持っているに違いない」というものです。何かしら霊的な原因を見つけようとするものです。この対処法の問題点は、いつも正しい原因を見つけなければいけない事です。毎回100%正しいものです。それらの原因を診断する事は病人達を裁く事になります。私達は原因を見つけようとして言います。「あなたがこの病気を持っている理由は、霊的な問題を持っているからです。」


聖書は言っています。「さばいてはいけません。さばかないためです。あなた方が裁くとおりに、あなた方もさばかれるからです」(マタイ7:1)。聖書は実を見分ける事も語っています(マタイ7:16)。しかし、病人をさばいて、こう言うべきではありません。「あなたは罪の中にあります。この様な問題を持っているので罪を犯しているに違いありません。」もしある人が罪を犯しているのを目撃するならそれは別の事です。私達は、「あの行動は罪です。だからあなたは罪を犯しています」と言う事はできます。しかし、病人に、「あなたは罪を犯していますか?この様な病気を引き起こす為に何をしたんですか?」と言うなら、毎回正しくさばかなければいけません。何故なら、自分を裁く者としているからです。分かりますか?聖書のどこにもイエスは「人をさばきなさい」とは言っていません。こうやって私が話してきた神学は教会の中で築き上げられてきました。でも、これらはどれも聖書的ではない事が分かりますか?私達はよく病人を見たときに、自動的にその人は何か罪を犯したのではないかと考えがちです。私達は赦したくなければ赦さないでいいでしょうか?もちろん、赦す必要があります。多くの人が、「ある人が罪の赦しを得たら、罪を告白したら、その人は癒されました」と言う理由を知っていますか?答えは簡単です。それは、もし私達に罪があり、そしてそれを知っているなら、私達は神に対しての癒されるための確信も信仰も持てないからです(ヤコブ1:6-8)。面白い事に、その様な問題を抱えてしている人々が私のもとに癒しの為にやって来ます。彼らは病気などの問題については話しますが、彼らの罪については話しません。しかし、彼らは私が彼らの病気を癒す事ができると信じます。そして、私は彼らを癒します。私が彼らに対して決してしない事が何か知っていますか?彼らの私生活に関して質問しない事です。まず、いちいち私生活の話を聞いて、一つ一つ罪を見つける時間はありません。イエスは決してその様な事はしませんでした。


もし私達の生活の中に罪があるなら、良心が自分を非難するので、神に対して確信を持つ事はできません。神に対して信仰を持つ事はできません(Iヨハネ3:19-22)。だから、自分の為に祈っても癒されません。何故なら、私達は自分が癒されるべきでない理由を知っているからです。これで愛する人の癒しの為に祈る事が難しい理由が分かります。それは、私達がお互いの事をとても良く知っているからです。私達が神に用いられるべきでない理由や、愛する人たちが癒されるべきでない理由を考えつくからです。これが、愛する人の癒しの為に祈るのが難しい理由です。癒される事は、罪とは何の関係もありません。イエスの癒した人達は全て罪人でした。誰一人として聖くなく、新生しておらず、純粋ではありませんでした。そうですよね?それが、イエスが彼らを癒して「行きなさい。もう罪を犯してはなりません」といった理由です(ヨハネ5:14)。でも、多くの人は病人に向かって、「あなたが罪を止めたら神はあなたを癒します」と言います。イエスは、「行きなさい。もう罪を犯してはなりません。でないともっと悪い事が起こります」と言いました。教会が作り上げてきた神学は聖書的ではありません。イエスは、「行って、全ての人の問題を見つけなさい」とは言いませんでした。イエスは言いました。「行って、捕らわれ人達を自由にしなさい。」もし、全ての人の問題を見つけようとするなら、ただ社会の中で専門家を形成する事になるだけです。


それが理由で、皆がカウンセラーになろうとします。聖書は、聖霊が私達のカウンセラーであると言っています。人々の人生を覗いて問題を見つけ出すようには言いませんでした。世代の呪いを見つけようとする事もこれと同じです。人々は言います。「でも、私の祖父は世代の呪いを持っているに違いありません。何か罪を犯したに違いありません。」もし、私達が問題を持っていたらそれは世代の呪いではなく、ただの罪です。もし、私の父がアルコール中毒だから私もアルコール中毒になったのなら、それは世代の呪いではありません。それは、ただ私が、父の飲酒を見たから、私も酒を飲む決断をしただけです。もし、私がその様になったとしても、それは世代の呪いというものではありません。それはただの罪です。酒を飲むのを止めればいいだけの事です。問題は次の様なものです。ある人は言います。「でも、私はどうしようもできません。」それは嘘です。実際、私達は自分で罪を止める事ができます。自分がその罪を楽しんでいる事を認めて、それに対して責任を取って下さい。興味深い事に人々は自分の犯している罪を憎む事をしません。何故この様な世代の呪いを持っている人達は自分の罪をいつも楽しむのでしょうか?何故彼らはそれらの罪を望むのでしょうか?彼らはよく言います。「私はいい人になりたいです。」それは本音ではありません。そういう人は、ただ地獄に行きたくないだけです。彼らはその罪は好きですが、地獄には行きたくないだけです。それが問題です。問題は世代の呪いではありません。この世全体は呪いのもとにあります(ガラテヤ1:4、1ヨハネ5:19)。それでも、人々は「でも、これは世代の呪いです」と言います。でも違います。

人々は世代の呪いを使っての金儲けの方法を作り上げてきました。世代の呪いについての本やセミナー、その他のものが出回っています。それらのセミナーの参加費は何万円にもなります。それらのセミナーでは、座り、目を閉じ、イエスのイメージを想像し、その問題の原因に戻ろうとします。それが何処から始まったかを見つけようとします。イエスは決してその様な事をするようには言いませんでした。彼は言いました。「病人を癒し、悪霊を追い出しなさい」(マタイ10:8、ルカ9:1、マルコ16:15-18)。それだけです。ある人は言います。「でも、私には恐れがあります。私が3歳の頃に、私はブランコに乗っていました。誰かが私を押したので、地面に落ちました。それ以来、恐れがあります。」それを聞いて、カウンセリングをしようとする人達は言います。「分かりました、では、その時点に今から戻りましょう。目を閉じて下さい。今ブランコのある所にいますか?いいですか?周りを見渡して下さい。イエスがそこにいるはずです。」それを聞いてその人は言います。「本当です。彼がそこにいます。」こうして、その人はイエスをそこに見ますが、残念ながらそれは違います。それは心霊術です。その様な人は悪霊を扱っています。その様な事には関わるべきではありません。今まで、その様な事を行ってきて、分裂しなかったり問題を抱えなかったりした教会を私は見た事がありません。確かに、何人かは助けられるかもしれませんが、数人なら催眠療法や精神分析などによっても助けを得る事ができます。でも、だからといってそれらのものが神からのものであるとは限りません。


神の祝福そのものが人を富ませ、労苦を増し加える事はしません(箴言10:22)。それらの様々な教えは人々を富ませはしないし労苦を加えるだけです。私達はイエスの言った事を理解しなければなりません。イエスは、「癒すか追い出しなさい」と言いました。パウロは、「私は後ろのもの、過去の事を忘れ、ひたむきに前に向かって進みます」と言いました(ピリピ3:13)。彼はいちいち過去の事を堀り出すとは言いませんでした。考えてみて下さい。どれだけ、過去に向かって掘る事ができますか?私達はもう既に死んでいます。そうですよね?ある人はまだ「でも私の過去は…」と言うでしょう。しかし、もう私達は死んでいます。古い私達は存在しません。全てのクリスチャンの抱える問題は新生において起きた事を理解していない為に起きます。その「私達」はもう存在しません。既に死んだ人をよみがえらせる事をやめて下さい。その人を死んだままにしておいて下さい。「でも私は抑えられません」と言わないで下さい。それは言い訳です。私達にはそれができます。もし私達が古い自分を死んだままに抑えておく事ができないのなら、神はあなたを地獄に送る事はできません。そうですよね?私達が罪の為に地獄に行くのは、地獄行き以外を選ぶ事ができないからではありません。


それは、チャールズ・フィニ-が、「それはあなたができないのではなく、ただしようとしないだけです」と言ったようです。分かりますか?これは心の問題になります。

ですから、非難する事を見つける事をやめて、人々を自由にしようとして下さい。人の問題を見つけなくてもよくなったら、癒しはすごく単純になりました。私はもう問題の原因などは見つけようとしないで、ただ人々を自由にします。私達は毎日何千もの証を受け取ります。私が祈った人達だけからのものではなく、訓練を受けた神癒技術者達からもです。中には、ある分野の癒しにおいて秀でている人達もいます。


例えば、アーカンザス州にはある夫婦がいます。彼らは臓器が再創造される奇跡において大きな結果を出しています。人々は病気などの為に臓器を取り去られました。彼らはその様な人々の為に祈り多くの新しい臓器が造られています。彼らにとっては、それは普通の事になっています。だから私は、彼らはその為に賜物を持っていると言います。今は賜物については教えません。でも、彼らは今私が教えている基礎的な事を行っていて、自分がどの分野で賜物を持っているかを認識しました。でもだからといって、彼らはその事の為だけに祈るわけではありません。どの様にしてある分野において特定の賜物があるか見つける事ができるか知っていますか?それは次の様にです。私達が人々の為に祈っていて、病人は言います。「この為に祈って下さい。」私達は答えます。「分かりました。では、祈りましょう。」それで、私達が頻繁に癒しの結果を出している問題を聞くとこう答えます。「問題ないです。見ていて下さい。」その反応の違いが分かりますか?それはまるで、「問題ないです。それが癒されるのはいつも見ています」というものです。そういう反応を見る時には、大抵私達はその分野において賜物を持っています。だからといって、賜物がある分野だけで祈りなさいという意味ではありません。全ての人達の為に祈って下さい。その中で賜物は働いていき、その賜物をより用いていく事ができるようになります。


では、詩篇119:89-92です。「主よ。あなたの言葉は、永久から天において定まっています。あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。それはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。全ては、あなたのしもべからです。もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。」神の言葉は永久から天において定まっている事に注目して下さい。そのページの下の所を見ると、ヘブル語の「定める」という言葉が書いてあります。それは「natsab」と言い、配置する、境界線として定めるという意味です。ここでは、境界線として定めるという意味である事を覚えておいて下さい。神の言葉は私達の境界線として定められています。だからイエスのしなかった事は、私達もするべきではありません。そうすると、私達が教会で聞いた90%の癒しについての教えは聖書的ではない事が分かります。何故なら、イエスは人々を分析したり、詮索したりしませんでした。彼はただ人々を赦しました。彼は人々に信仰を持つように言わなかった事にも気が付きましたか?彼は信仰については殆ど話しませんでした。

しかし、もし人々が癒される為に信仰を持っていたら、それを認めました。彼は言いました。「あなたの信仰があなたを救いました。癒しました」(マタイ9:22)。時には、彼は言いました。「私にそれができると信じますか?」彼らは言いました。「はい、信じます。」そして、イエスは言いました。「では、癒されなさい」(マタイ9:28-29)。それだけです。例えば、ある腰の曲がった女が会堂にやって来て、イエスが彼女を見た時の話を覚えていますか?その話に従うと、大半の癒しの教えは成り立ちません。イエスが彼女を見た時、彼女を呼び寄せました(ルカ13:10-12)。ここで、イエスは次の様に言わなかった事に注目して下さい。「今日はあなたにとって運のいい日です。」「どれだけの信仰を持っていますか?」「今日はあなたの癒される日だと思いますか?」などと言いませんでした。また、イエスは彼女を見て「あなたの腰は曲がっていますね、それは背骨が弱いからです。それは背骨の痛みからです。それは何か解決されていない悲しみや、誰か許す事ができない人がいるからです。もしそれらを解決したら、神はあなたを癒します」とは言いませんでした。私達は自分達の解放する者としての役割を、医者のようにして来た事に気が付くべきです。私達がする必要のある事はただ人々を自由にする事だけです。それがイエスのした事です。イエスは彼女を呼び寄せて、言いました。「女よ。あなたは病から解放されました」(ルカ13:12)。イエスは、「あなたは自由になりたいですか?」と聞かなかった事に気が付いて下さい。何故なら、まともな人なら誰でも自由になりたいからです。そうですよね?次のように考える人が多くいます。「イエスは何処に行っても、夜、祈る為に山に登り、神と時間を過ごして神が次の日にするべき事を全て教えられた。そして、イエスは次の日にその教えられた全ての事を行いました。」まず、もし彼がその様にして歩んだなら、信仰を持って歩まなかった事になります。何故なら、信仰にあって歩む事は、御言葉以外には保証なしで何事でも行う事だからです。より保証があればあるほど信仰は必要なくなります。そうですよね?神が現れるなら物事を行う事は簡単になります。


癒しを行う時に、多くの人々は、神が現われて「この人を癒し、あの人に手を置きなさい」と言ったと想像します。人々は、「イエスは、私は父がしている事だけを見て行う、と言いました」(ヨハネ5:19)と言うでしょう。だとすると、イエスは盲人の所まで行き、父が天から下ってきてその盲人を癒すのを見たので、その盲人の所へ行き、そして、彼を癒したという事になります。それは真実ではありません。何故なら、もし父が盲人を癒したのを見たのなら、もうその盲人を癒す必要はないからです。だからイエスは父が盲人を癒すのを見ませんでした。もし仮にイエスがその様に父の行う事をいちいち見て事を行ったのなら、私達はイエスのしたわざを行う事はできません。何故なら、私達はいつもその様に物事を見る事はできないからです。分かりますか?では、どの様にしてイエスは癒しなどの事を行ったのでしょうか?「イエスは御霊に導かれて事を行いました」と言うかもしれません。でも、恐らくそれは、私達の考える様な導きではありません。

何故なら、聖霊が私達を導いて何かを行わせるとは新約聖書には一切書いてないからです。聖霊は、私達を真理に導き入れると書いてあります(ヨハネ16:13)。そうですよね?聖霊は導いて行動させるとは書いてありません。例えば、よく次のように考えます。スーパーでカートを押している時に、病人が目の前を通り過ぎようとしていたとします。すると突然神が私達の手を動かしてその病人に置かせ、そして私達は、「ああ、神がこの人の為に祈るように私に言っている」というように考えます。この様な場合には信仰は必要ない事が分かりますか?徳も必要ありません。何故なら、徳とは正し事をしようとする、私達の道徳的な決断だからです。私達は、信仰も徳も持たなければなりません。こう考えると教会の教える大半の教えは聖書的ではなくなってくるでしょう。質問です。イエスは偽善者でしたか?もちろん、違います。もちろん彼が偽善者であるはずはありません。イエスは偽善者の定義を言いました。今から言う事をよく聞いて下さい。それはあなたの人生を変えます。イエスはパリサイ人達の事を説明したときに偽善者の定義を言いました。イエスはパリサイ人達を偽善者と呼びました。それはふりをする人という意味です。それが偽善者の実際の意味です。それは本当の自分ではない人のように振舞う人の事を意味します。イエスは言いました。「パリサイ人達、偽善者達の言う事は聞いて、それを行いなさい」(マタイ23:3)。イエスはその様に言いましたよね?弟子達にも言いました。「パリサイ人達の言う事は行いなさい。」何故でしょうか?それは、彼らはモーセの座に座っているからです。彼らは権威を持っているからです。だから、彼らの言う事は行いなさいと言われたのです。何故でしょうか?


正直に言って、パリサイ人達は現在のカリスマ派や聖霊派のクリスチャン達のようです。彼らは聖書の言葉の文字通りの翻訳にこだわり、神の言葉を文字通りに解釈していました。彼らは復活も信じていました。サドカイ人達は復活を信じていませんでした。私達は復活を信じています。ですので、私達はパリサイ人に近くなります。このように言っているのは、パリサイ人達が集団として悪かったのではなく、ただ悪かったのは彼らの行動でした。イエスは言いました。「彼らの言う事は聞きなさい、そして行いなさい。でも、彼らのしている事はまねをしてはいけません。」ですから、偽善者は何かをするように言っても、自分はその基準に従って生きていない人達の事です。そうですよね?それが偽善者です。では、質問です。イエスは偽善者でしたか?違います。イエスは自分が教えた事の基準に従って生きたという意味でしょうか?それを信じますか?これについてはよく考えてみる必要があります。何故なら、私はあなた達を隅に追い込もうとしているからです。


いいですか?チャールズ・フィニーも同じ事を言いました。「私はクリスチャン達が隠れ家にしている岩を全て見つけて、それらを壊します。そして、言い訳なしに神の御前に裸にして立たせます。」私も今から同じ様な事をしようとしています。

これは聖霊の導きの問題を解決すると思います。マタイの福音書7章13節で言いました。「狭い門と、広い道があります。」そして私達は、イエスは狭い道であると教えてきました。彼は言葉なので彼は狭い道です。そして、狭い道はこれです。「何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもその様にしなさい」(マタイ7:12)。イエスは人々にそう言いましたよね?考えてみて下さい。彼は言いました。「何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもその様にしなさい。そうしたら、律法も預言者も成就する事になります。」それが彼の言った事ですよね?つまり、次のように言ったという事です。「聞いて下さい。私はあなたたちに何をすればよいかを簡単に教えてあげます。これはいつも正しい事です。神学を知る必要も、全ての御言葉を知る必要もありません。それはこれです。あなたのいる全ての状況において、他人に自分にしてもらいたい事をしなさい。もしそれを行うなら、律法と預言者を成就する事になります。」言い換えると、私達がそれに従って生きる限り、聖書に従って歩みいつも聖書を成就する事になります。それが彼の言った事ですよね?イエスはそうするように言いました。もし彼がその基準に従って歩まなかったら、彼は偽善者になります。そうですよね?イエスを偽善者扱いするのはいい気分ではないと思います。彼は自分の教えた基準に従って歩みました。それが私の伝えたい点です。イエスは何か天から垂れ下がっている糸に操られて人形のように地上の様々な所には行きませんでした。


ある人は言います。「私はただ聖霊に流されて歩みます。」第一に、そう言う人はそれを実行はしません。彼らは、自分の考えやむなしい考えに従って歩みます。彼らは霊的になっていると思うかもしれませんが、実際には、聖霊に導かれる事は聖書の言っている事に従う事です。何故なら、神の御霊が聖書を書いたからです(IIテモテ3:16、IIペテロ1:20-21)。そうですよね?ですから、私達が聖霊に導かれて進む時には聖書の言っている事をします。使徒の働き10章38節によるとイエスは巡り歩きました。「それはナザレのイエスの事です。神はこの方に、力と聖霊を注がれました。彼は巡り歩いて、良いわざをなし、悪魔に制せられた全ての者を癒されました。」何故でしょうか?「神が共におられた」からです。それだけです。その「巡り歩いて」という言葉の意味は、「目的地もなしに歩き回る」という意味です。


もしかしたら過去に、イエスは神と毎日会って何処に行くべきかを全て告げられて、彼の人生は全てその様であったと教えられたかもしれません。また、イエスは夜になると父に会う為に山の上に行き、次の日に何をするべきかを告げられ、次の日の予定表を持って来て、「では、父よ。明日は何をしますか?」と尋ねると、御父が言います。「息子よ。聞きなさい。ヤコブの井戸にいなければいけません。朝にそこにいなさい。そこに一人の女がいるでしょう。私達は彼女に会う必要があります。

それをノートに書いておく必要があります。彼女はそこに10時位にいるでしょう。そこにいて下さい。いいですね。この様な事が起きます。これが彼女に言う事です。」それか、神が次の様な事を言ったと想像します。「(イエスに向かって)では、百人隊長が現れたら、彼はしもべを癒して欲しいと願うでしょう。でも、行かないで、ただ言葉を言いなさい。」そして、イエスがこう言ったと想像します。「でも、父よ。百人隊長といっても沢山います。どうして、その人だと分かりますか?」神は答えます。「~の様な人です。」こんな風に、私達は考えたりしますが、こんな事は起きませんでした。私達の考える様な形でイエスは御霊に導かれてはいませんでした。


では、イエスは全ての律法と預言者を全うしましたか?はい、そうです。彼は全ての義を成し遂げましたか?はい、そうです。イエスは全ての律法と預言者を全うし全ての義を成し遂げたので、彼は自分の教えるように何事でも自分にしてもらいたい事を、他の人にもそうしたに違いありません。これらの事は学校で教えられていました。それは黄金律というものです。他人に自分のして欲しい事をしなさいというものです。問題は、私達はこの黄金律を人間的な考えで理解している事です。これに従って人々は、もし病人がいるならスープを作って持って行きなさい、困っている人がいるなら助けなさい、お年寄りの為に扉を開けなさい、優しくしなさい、礼儀正しくしなさいと考えます。イエスはただ「礼儀正しくしなさい」とは言いませんでした。正直に言うと、イエスは私達が親切に礼儀正しくなる事はあまり気にしませんでした。イエスは宮に入ってむちを振るった事を覚えていますか?彼は台を倒し人々を追い出しました(マタイ21:12、ヨハネ2:13-15)。彼らは逃げ去りました。何故なら、イエスにむちで打たれる事を恐れたからです。では、それらの収税人達が慌ててイエスから逃げる為に、宮から走って出てくる光景を想像できますか?しかし、一般的なイエスのイメージを持つ人々は次のように言うでしょう。


「何が起こっているのですか?」

「あのイエスと言う男がむちを手に持って、私達を追い払いました。」

「あなたのお金は何処ですか?」

「床に置いてきましたよ」

「このイエスという男についてどう思いますか?」

「えーと、彼はとてもいい人ですよ。彼はとてもやさしくて、礼儀正しい人です。」


そんなはずないですよね?彼らはその様には言うはずがありません。彼らは、「あのイエスと言う男は狂っています。」彼らはありとあらゆる事をイエスに対して言うでしょう。ですから、イエスは私達をやさしく、礼儀正しい人にしようとしたのではありません。別に失礼な人になるように言っているのではありません。

しかし、イエスのようになる事はただやさしい人になる事ではありません。正しい事を行う人になる事です。分かりますか?イエスが実践した原則はイエスが彼の弟子に実践するように言った原則です。イエスは全ての原則を成し遂げましたか?はい、その通りです。これについて考えてみて下さい。イエスは旧約聖書の全ての御言葉を見て、それら全てを正確に実行する事によって全ての御言葉を成し遂げましたか?それとも、イエスは自分にして欲しい事を他人にもしようとしたので巡り歩いて良いわざをなし、悪魔に制せられている全ての人々を癒す事によって全ての御言葉を成し遂げましたか?私達はよく人間的な標準で見て神の標準で見ようとしません。しかし、私達が認識しなければならないのは、私達はもうただの人間ではないという事実です。私達は新しく造られた者です。新しい創造です。ある聖書では「かつて一度も存在した事のない種」と訳されています。それが私達です。私達だけが唯一神の御霊を持っている者です。私達には神の力があります。ですので、私達が他の人に自分にして欲しいよい事をしようと考える時、それは人間性から出たものではありません。それは私達の内にいる神の性質から出たものです。そして、私達にはそれを成し遂げ巡り歩いてよいわざをなし、悪魔に制せられている全ての人を癒す力が与えられています。


私達がスーパーで人を見た時には、その人が病気だったり傷ついていたりするのが分かります。その時私達は、「私は今何をするべきか?」「今、癒しをするべきでしょうか?」と考えるでしょう。その様な考えは聖霊が思い起こさせるものです。何故なら、彼の仕事はイエスの教えた全ての事を思い起こさせる事だからです。イエスが私の引用している人ではありませんか?神が私にこの病人に手を置いて欲しいのかと考える時、聖霊が与える言葉はイエスの話した言葉です。それは、私があなた方に話している言葉です。そこで思い浮かぶ考えは、「何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもその様にしなさい」である事を保証します(マタイ7:12)。これは、神にとって完璧なシステムだと思いませんか?神はいちいち私達を監督する必要はありません。神は私達に従うべき原則を与えるだけで、後は私達がそれに従うだけです。そして、神の御前に立った時には私達はその原則に従って裁かれます。どの様に人生を生きてきましたか?自分のして欲しい事を他の人にしてきましたか?神は曖昧な基準で私達を裁く事はしません。神は御言葉に従って私達をさばきます。ヤコブ書には自由の律法に従ってさばかれる者らしく話して、生きるように書いてあります(ヤコブ2:12)。ヤコブ1:25では御言葉である自由の律法を一心に見て、それに従って生きるように書いてあります。だから、私達はこの御言葉によって裁かれます。曖昧な御霊の導きではありません。


言わせて下さい。私は過去に、「神は、私にこれをするように導きました」と言う人々を見てきました。しかし、神は彼らをその様には導きませんでした。

人々は宗教的になってくると、「神は私にこう言いました…」という様な言葉を使い始めます。しかし、彼らの言う事はよく聞くと、聖書の言っている事と正反対である場合が多いです。彼らはこう答えます。「でも神様が私にそう言いました。」それはまるで、「私の言う事に反論するな。何故なら、神様が私にそう言いました。私が神様から何を聞いた事について、あなたは何も言う事はできない」と言っている様なものです。しかし、導きが御言葉と一致しないなら、それは神からのものではありません。要点は、どの様な霊的な感覚を得るかではありません。たとえ私達の人生で神が語らなくても、私達はその神の原則に従って生きる責任があります。これは完璧なシステムなのが分かりますか?神は私達に話さなければいけない理由はありません。


でもある人は言うでしょう。「神様、私は何もあなたから聞きませんでした。」神の語るべき事は既に聖書に書かれています。イエスが悪魔に試みにあわせられた時に、こう言わなかった事に気が付きましたか?「悪魔よ、聞け。父は、私に話して、私は彼の息子だと言った。」悪魔が、「もしあなたが神の息子なら、ここから飛び降りてみよ」と言った時には、彼は、「悪魔よ。父は言われた」とは言いませんでした。イエスは言いました。「悪魔よ。言っておくが、こう書かれている。」分かりましたか?イエスは「書かれている」と言いました(ルカ4:3-12)。私は人生の全てを、ミニストリーを、する事全てをこの書かれた御言葉に頼ってきました。だから神は多くの扉を開けてくれました。私達は世界中を周ります。何処に行っても同じ結果を見てきました。会った事のない人達も私達の教える事を聞いて、同じ癒しの結果を得て、私達に手紙を書いて知らせてくれます。「この神癒技術者訓練は結果を出します。」既にあなた方が過去に学んできた事は、めちゃめちゃにされたと思います。私はいつも手紙を受け取ります。それにはこう書いてあります。「カリー兄弟、私達の伝統的なキリスト教をめちゃめちゃにしてくれて、ありがとう。」何故だか分かりますか?それは伝統的なキリスト教は結果を出さないからです。私は人々がこう言うのを聞いた事があります。「でもこれは普通ではありません。」普通ではないのは知っています。普通というのは過大評価されています。分かりますか?愛する人が死んでいくのを見るのが普通になってしまっています。周りに聞いてみて下さい。それが普通です。私は普通にはなりたくありません。私は普通でいる事にうんざりしました。私は多くの人達を埋葬してきました、傷ついて死んで行くのを見てきました。そして、普通でいる事をやめる決心をしました。ですから、普通とは違う人になる事に決心しました。神は決して私達に普通になるようにと言いませんでした。

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