ヘブル1:1-2にはこう書いてあります。「(1節)神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、色々な方法で語られましたが、(2節)この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」1節では、昔は神がどのようにして人々を通して語ったか書いてあります。2節には、今日、神はどのようにして人々に語りかけるかについて書いてあります。これが、私達が考え方を変えなければならない点です。1節の言う考え方に留まって、神が誰か他人を通して語りかけると期待する限り、私達は古い契約の下での仕える者の考え方をし続けます。新しい契約の下での神の子としての考え方ではありません。確かに神は誰かを通して私達に語りかける事もあります。それを受け入れないように言っているのではありません。神は教会に使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を与えなかったと言っているのではありません。ただ、私達と神との一番の会話の手段は御子を通してのものです。例えば、人々は教師のいる学校に行きます。学校に教師はいますが、教師は両親に取って代わる事ができません。神は預言者を通して、人々に語りかけました。神は人々に直接話しかける事はできなかったからです。しかし、今はその壁は取り除かれ、神は人々に直接話しかける事ができます。神は、各人にいつも話しかけられます。これが、私達が最初に覚えておくべき事です。ここでは、終わりの時には、とあります。今は終わりの時ですか?はい、そうです。私達は、今が終わりの時である事を知っています。何故なら、ペテロが、今は預言者ヨエルが語った神が彼の霊を全ての人に注ぐと言った終わりの日である、と言ったからです(使徒2:17-21)。ペテロがその様に言った時以来、終わりの日は始まりました。ですから、今も終わりの日である事が分かります。今日のこの終わりの日に神は私達に語られました。しかし、昔は父祖達に語られました。終わりの日には御子を通して私達に語られました。
ヘブル書は、イエスは全ての点においてモーセに勝っている事を説明する目的で書かれました。それは、新しい契約は古い契約よりも優れたものであり、モーセの律法に従っての祭司職よりもイエスを通しての祭司職の方が優れている事を説明するものでした。これが、パウロがヘブル書を書いた目的です。またパウロはガラテヤの信徒への手紙も書きました。ガラテヤの信徒への手紙はガラテヤにある教会に向けて書かれたものです。ヘブル書は、各地に散ったヘブル人へ書かれたものです。これらの2つの手紙は一つに編集されてまるで一つの書物であるかのように人々の間で回されて読まれました。書いてある内容には違いがありますが、一つの書物として回されました。ある人々は言います。「でも本当にパウロがヘブル書を書いたかなんて分かりません。」二つの手紙を一つのものにするなら、2番目の手紙には著者の名前を記す必要はありません。
それがヘブル書には著者の名前が書いてない理由です。2つ目の理由としてパウロはヘブル人、特にクリスチャンの間では、評判が悪かったので名前を書かなかったのは妥当な事です。もし私達がこれらの手紙の書かれた歴史的な背景を知らないのなら、ヘブル書に著者名が書かれていない事などは説明が付きません。でも、もしそれらの背景を知っていたら全てが明確になってきます。それらの手紙は新しい契約が古い契約よりも優れている事について書いてあります。そして、神と人とのコミュニケーションのあり方が全く変わった事について書いてあります。いいですか。私達の考え方を古い契約的なものから新しい契約的な考え方へ変える事は完全な変化です。私達が古い契約的な考え方をしている限り、私達は決して自分から率先して物事をする事はしないでしょう。私達が古い契約的な考え方をしている限りは、神が私達に何かをするように語るまで待つ事でしょう。全ての事が整うまで、いつまでも待ち続けるでしょう。古い契約的な考え方は羊の毛を地面に置こうとします。ギデオンがした様な事をしない事を望みます(士師記6:36-4)。私達は羊の毛を置く必要はありません。私達の内には神の御霊が留まっています。確かに、神は時々何かを証明や承認する為にしるしを与える事はするかもしれませんが、私達はまず御言葉を行うべきです。御言葉を行う為に神からの許可は必要ありません。
軍隊の経験がある人はいますか?一般的に、軍隊経験者はその他の人よりもこの神癒技術者訓練の原理を早く理解する事ができるようです。何故なら、彼らは命令が何であるかを理解しているからです。私達は次の事を理解していなければなりません。それは、命令を実行する為にはいちいち導きは必要ないという事です。そうですよね?命令の中に既に導きが含まれています。命令にはそれ以上の外部からの導きは加えられる必要はありません。もし、何かを実行する為に導きが必要ならそれは命令ではありません。それはただの提案です。しかし、その言葉自体に導きが含まれているなら、その言葉は命令です。大宣教命令は命令です。イエスは、「あなた達がもしその様な気持ちになったら、全世界に出て行きなさい」とは言いませんでした。でも、イエスは、「あなたは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えて、病人を癒しなさい」と言いました(マタイ28:18-20、マルコ16:15-20)。イエスの命令は「もし」の付いたものではありません。ですから、私が皆さんに全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさいと言わなくても、皆さんはすでに命令を受けています。私にその様に言われる必要はありません。私達にはどの御言葉を実行して、どの御言葉を実行しないと選択する権利はありません。もし選ぶ事ができると考えるなら、私達は救われていません。クリスチャンになる初めのステップは私達の意志を神の御心に従わせる事です。私達はイエスを主として受け入れました。彼は私達の友とは告白して救われはしませんでした。主です。彼は私達の王であり司令官でもあります。そして、私達の友です。私達の問題は「親しみ易さ」からイエスとの深い関係を軽いものにしてしまう考えです。これは人間同士の関係でもありがちな事です。
私達が相手を知れば知る程、お互いの欠点や間違いが見えてきます。そして、時々、何故私達はその人を知る事になったのかを忘れてしまいます。それは、私達はその人の中に何か求めているものがあったからです。ですから、イエスとの関係を軽いものにしないように気をつけて下さい。
問題は次の様なものです。例えば、もし私が自分は普通の人ですと言うとします。すると人々は私を持ち上げようとします。そして、私を謙遜な人であると思うでしょう。皆さんが私をただの普通の人間として見るなら、そのうち、他の人の方に向いてしまうでしょう。そして私の言う事に耳を傾けなくなります。それが人間的な問題です。しかし、気づかなければいけない事は、私達は人間ですが、神からの命令を受けている事です。神からの戒めを預かり、神から成し遂げるべき任務を預かっている事です。軍隊の大佐も一般兵と同じように人間です。しかし、彼の欠点と間違えや人間性にも関わらず、彼には権威と成し遂げるべき任務を与えられています。そして、人々が彼に与えられた権威を認めて、彼の下に来てチームとして共に働こうとする時に彼らは何かを成し遂げる事ができます。しかし、それを成し遂げるまでは共に働き続けなければいけません。もし彼らが共に働く事を止めるなら、チームはバラバラになってしまいます。
教会でも同じ事です。私達はお互いに平等であるけれども、教会内での受け入れるべき権威もある事に気が付かなければいけません。神は人々にビジョンや任務や目的を与えます。もしあなたが他の人々の人生の中にあなたの抱いている目的と一致する目的を見つけ、彼らがその働きをしているなら、その人達とつながり彼らと共に学んで下さい。彼らの持っているビジョンに反対しない限り、そうする事は悪くありません。何故なら、もし私達が彼らのビジョンに反対するなら、分裂を生んで問題を起こし、人々を傷つけてしまうからです。以前、こう質問した人々がいます。「もし自分の教会があなたの教えているような事を教えていないなら、私は何をどうするべきですか?」その教会を去って下さい。単純です。でも人々は言うかもしれません。「でも、私は彼らを導く為にここに留まっています。牧師を説得しようとしています。」それは間違いです。いいですか。その牧師は説得してくれるように頼みましたか?もし牧師が頼んでもいないのにその様な事をしているなら、牧師の立場を覆そうとしている事と同じです。その様な人は、密かにやって来て秘密に何かをしようとしています。それは間違いです。同じような信仰を持っている人々を見つけて、彼らと一緒に歩んで下さい。彼らのビジョンに乗って下さい。もしそのビジョンについていく事ができないのなら、離れて下さい。このどちらかの選択しかありません。それでもある人々は言うでしょう。「でも、その教会を去る事なんてできません。だって40年もの間そこにいるのですから。私の母も、叔父も叔母もその教会に通いました。」それなら、彼らが死んだら、そこを去って下さい。
それでもある人は言います。「でも私の友人がその教会にいます。」友人関係の為に私達は地獄に落ちてしまう事もあり得るのです。もし友人が間違った道を歩み始めたら、彼らを残して去って下さい。ただ一緒に集まる仲間ではなく、「これが正しくて、あれは間違っています」と真実を言ってくれる友人を持つ方がましです。私達は決心をしなければいけません。何が真理であるかを決断しなければいけません。聖書では聖霊は私達を真理のみに導くと言っています(ヨハネ16:13)。もし私達が聖霊に導かれるなら、真理に導かれるべきです。
何故この様な事について話したのでしょうか?それは次のような質問があるからです。その質問は、マタイの福音書で、もし私達に赦していない事があるなら、天にいる父は私達を赦さないのですか、というようなものです(マタイ6:15)。まず、私達の大半はユダヤ人ではありません。もし私達がユダヤ人なら、私達は会堂に行かなければいけません。でも、ある人は、「私はユダヤ人クリスチャンです」と言うかもしれません。いいえ、その人はクリスチャンです。分かりますか?私達はユダヤ人ではありません。クリスチャンです。ユダヤ人とクリスチャンは同一ではありません。ユダヤ人かクリスチャンのどちらかを決めなければいけません。もしユダヤ教の事柄に従うなら、ユダヤ教の事柄に従いなさい。もしクリスチャンになろうと決めるなら、クリスチャンにはその様な文化はありません。そうですよね?キリスト教にはタリートを着なければいけないような掟はありません。ユダヤ教はその様な様々な掟を持っています。神はユダヤ教にあるような様々な習慣や掟を決める事はしませんでした。それらはただの文化でした。アブラハムは異邦人である事を知っていましたか?彼はユダヤ人ではありませんでした。アブラハムは今のイラクに住んでいました。私は多くの人々がユダヤ教に戻ったり、ユダヤ教の祭りを行なおうと努力したりするのを見てきました。しかし、私の聖日、つまり、どの日にイエスに仕えるか、などの事柄について私を裁く事はできません。私にとっては毎日が聖なる日です。私は毎日を同じように扱います。キリスト教に文化があるなら、それは聖さでしょう。それは身なりとか、言葉使いについてではありません。これが新しい契約の根本です。私達はこれを理解しなければいけません。
では、私が旧約聖書と新約聖書を持ってクリスチャンを見た事のない人々が住んでいるどこかの島の上空を飛んだとします。そして、旧約聖書と新約聖書を落としていって5年後に戻ってきたとします。そこで、恐らく2つのグループを見つける事ができるでしょう。彼らは完全に分裂していて、神が何を要求していて、何を求めているのか分からないので困惑しているでしょう。何故なら、片方の聖書は古い契約の下で歩むように教えていて、もう片方は新しい契約の下に歩むように教えているからです。これら2つの契約はお互いに調和する事はありません。それが古い契約と新しい契約がある理由です。
新しい契約があるという事は、古い契約はもう適用しないという事です。問題は多くの人々は古い契約の規則の下で、新しい契約に従って歩もうとしている事です。その様な事はできません。その様な事をすれば私達は困惑してしまいます。逆に、もし私が新約聖書だけをその島の上空からそれを落として5年後に戻って来たとします。そうしたら、新しい契約に基づいた教会を見つける事ができるでしょう。でも、その教会はアメリカ人のような人々ではありません。何故なら、アメリカの文化は聖書の文化ではないからです。私達は時には宣教師を送り出して、その派遣先の地元の人達をアメリカ人にしようとします。聖書のどこにもアメリカ人にしなさいとは書いてありません。ただ聖書は「弟子としなさい」と言っています(マタイ28:19)。イエスの弟子です。
もし古い契約の下に生きているなら、私達はいつも神が何かするのを待つ事でしょう。古い契約的な考え方はいつも、「私には十分なものがありません。私は良い人ではありません。もっと何かが必要です」と言います。人々が教会でその様な事を口にする事を見ます。教会では、よくその様な考え方を歌詞に含んだ歌が歌われています。私は決してその様な歌は歌いません。その様に自分を訓練しました。以前にも少し話しましたが、私がアイダホ州のチャリス市にある山の上にある施設で教えていた時、私の立っていた教壇の後ろの壁には、「私達はあなたの臨在無しでは何処へも行く事はできません」と書かれたバナーが掛けてありました。そして、そこには大きな契約の箱の複製が置いてありました。それは本物の金で装飾をされているかのようにきれいなものでした。私はそこにいた人々に言いました。「私はあの箱の後ろに立っては話しません。あれは古い契約の箱です。私自身が新しい契約の箱です。神の御霊が私の内に宿っています。神の御霊はもう人間の作った箱の中には宿っていません。だから、私はあの箱の後ろに立って、説教はしません。」続けて言いました。「彼らは私が前に言って話すまでに、あの箱をどける必要があります。」私は当事者には言いませんでしたが、人々にはあの箱の後ろでは話はしないと言いました。すると、前の人々が話し終わって、私の話す番になりました。すると突然、当事者が言いました。「えーと、皆さん、ちょっとこの箱を動かしましょう。」そして、彼らはその箱を持ち上げて扉の側に置きました。私は言いました。「箱は古い契約を象徴するものです。今は私達が神の御霊の宿る新しい契約の箱です。」いいですか、古い契約から完全に離れる必要があります。カトリック教会を見て下さい。あれはユダヤ教を複製したようものです。その規則、儀式、大聖堂などを見ても同じようなものです。法王は、ユダヤ教の大祭司のようなものです。聖書の何処にもあのような事をするようには書いてありません。
私達はキリストにあって自由です。全ての人は神に仕える者です。全ての人(信じる者)が神の御霊を持っています。私達は一緒にチームとして働きます。
軍隊の中では権威やそれぞれの立場がありますが、同時に、皆兵士である事も理解します(IIテモテ2:3-4)。大佐は、一般兵士と同じように兵士です。ただ負っている責任が違うだけです。大佐も一般兵士と同じように銃を撃てるようでなければいけません。海軍には、「全ての海兵は狙撃手である」という諺があります。彼らがどの階級にいるかなんて関係ありません。何故でしょうか?それは全ての人は兵士の仕事ができなければならないからです。あるクリスチャンは言います。「私はゴスペルフラダンスに夢中です。」それは良い事ですが、その人は病人を癒す事ができますか?その人は答えます。「いいえ、でも私はゴスペルフラダンスができます。」それではその人は兵士ではありません。クリスチャンになって下さい。イエスが私達に言わなかった事をする前に、イエスが命じた事を行って下さい。病人を癒し、死人を蘇らせ、悪霊を追い出して、福音を宣べ伝えて下さい(マタイ10:7-8)。それらの基礎的な事をまずできるようになって下さい。分かりましたか?何故、皆ゴスペルフラダンスの様な事をしたがるのでしょうか?それは、そうした事は神の御霊が無くてもできるからです。イエスが行うように命じた事以外は、神の御霊が無くてもできる事です。気が付きましたが?神の御霊が無くてもゴスペルフラダンスはできます。神の御霊が無くても旗を振る事はできます。それらの事は全て神の御霊が無くてもできます。私達はキリストの教えとは関係の無いものを建て上げ、そのまま横に反れ続けて行っています。ゴスペルフラダンスはキリストの教えとは全く関係ありません。人々を癒したり、自由にしたりするという様なものではありません。しかし、今の教会の中ではキリスト教とは全く関係のない事柄の上に全ての事が建て上げられています。そしてそれに疑問を持つ事をしません。何故なら、彼らは上手く納得させられているからです。
しかし、教会の外の人々から見れば、「あの教会の人々は何をしているんだ?」となります。その様な人々の大半は、「よい見世物を見たのでお金を払っていきます」という考えを持ってしまうのです。私達は基礎に戻らなければなりません。基礎に留まっているべきですが、この様に基礎に戻らなければならない事は悲しい事です。
さて、イエスは癒しを教える事はしませんでした。イエスは癒しを教えず、ただ癒しを行いました。何故なら、彼の教える事を証明する為です。私達は御言葉を使って癒しを証明しようとします。しかし、イエスは癒しと御言葉を証明する為に行いました。私達は本来、癒しのセミナーを開いているべきではありません。癒しは私達のライフスタイルの一部となるべきです。癒しは本当に私達の生活の一部となり、癒しについて考えたり、話したりする必要さえもなくなるべきです。今のこの現状を見ると、教会が最初に始まった頃からどれだけ後退してしまったのかが分かります。初代教会時代の全ての弟子達は癒しを行っていたからです。アナニアは有名な人ではありませんでした。突然死んだアナニアではありません。パウロに手を置いて、その目を開かせたアナニアについて言っています。ある記録によればアナニアはイエスの遣わした70人のうちの一人であって、後にエペソの教会の執事になったとも言われています。しかし、私達はある特定の人々を高みに上げる事を止めるべきです。全ての人々がイエスから与えられた仕事ができるようになるべきです。神の御霊によって実を実らせるべきです。私の教えている事が正しいかどうかを、聖書の言葉によって確認して下さい。旧約聖書は神の全ての性格は反映しないで、代わりに、神の正義と聖さを反映します。旧約聖書は神の完全な性格を表す事はしません。
自分の子供のおしりをたたいた事がありますか?それはあなたがしたくてした事ですか?それともしなければならなかったのでした事ですか?恐らく、あなたはその子にとって叩いた方が良いと考えたと思います。旧約聖書もそれと同じです。それが、神が旧約聖書で行った事です。旧約聖書の律法は、私達人間は律法を守る事ができないので、キリストによる救いが必要である事を悟らせる為に与えられたものであると、言っています(ガラテヤ3:21-24)。それが律法の目的です。キリストなしでは聖く生きる事ができませんよね?誰かキリストなしでも聖く生きる事ができると思う人はいますか?キリストなしでは私達は何にも値しませんよね?キリストなしでは私達は何もできません。キリストなしでは何事も上手くいきません。キリストなしの人生は問題ばかりのものです。ここにいる全ての人がこの事を知っていると思います。また、私達にはモーセの律法は必要ありません。何故なら、律法は私達が問題だらけである事を証明するだけだからです、しかし、今私達はキリスト共にいます。そうですよね?
ある人は言います。「知っていますか?私はキリストなしでは何もする事ができません。」でも、今私達はキリスト共にいます。それでも、ある人は言います。「そうです。キリストは私と共にいます。でも、私はキリストなしでは何もできません。」その人は訳の分からない事を言っています。それはまるで、次の様なものです。「車なしでは、ここまで来る事などできなかったでしょう。私には車があります。でも、その車なしでは私はここに着く事はできなかったでしょう。」もし私が、「車を持っていなかったなら、私はここに来る事はできなかったでしょう」と繰り返し言うなら、皆さんは、「彼は車が必要なのだろうか?何故彼はその様な事を言い続けるのか?彼は車を持っているのだろうか?」と思う事でしょう。私は車を持っています。それなら、私は車なしでは何もできないと言う必要なんかありません。分かりますか?私達はどうでもよくて重要ではない事ばかりに気を配ります。イエスなしでは何もできないなんて誰でも知っています。しかし、イエスが私達と共にいない訳ではありません。古い契約の考え方では、イエスなしでは何もできないと言う事ができます。新しい契約の考え方は、イエスと共に私達は全ての事をする事ができます(ピリピ4:13)。違いが分かりますか?古い契約の考え方では、私達のできない事、私達の必要なもの、私達に足りない事などを強調します。
しかし、新しい契約の考え方では、いつも神が私達に与えてくれたもの、その与えられたものを使って何ができるか、どの様に人々を助ける事ができるかを強調します。理解できましたか?これが2つの考え方の違いです。新しい契約の考え方は宗教的な人々を怒らせるものです。いつでも人々がこのメッセージを受取る時、そこには自由があります。このメッセージは(新約)聖書のメッセージだからです。それは、自分は特別な人というものではありません。もしあなたが自分は何か特別な者であると考えているなら、このメッセージを理解していません。何故なら、このメッセージは、誰でも癒しを行う事ができるなら、癒しを行う人は何ら特別ではないという事だからです。誰でもできる事なら、それは何もすごい事ではありません。しかし、古い契約の考え方のメッセージは、「ある人は癒しなどを行う事ができるから、その人は何か特別な人に違いありません」というものです。その様なメッセージがどれだけ人々を高慢なものにするか分かりますか?その様なメッセージは、どれだけ人々に自分が何か特別な者であるかと考えさせるものであるかが分かりますか?しかし、この神癒技術者訓練のメッセージは、「誰でもその様な事はできます。だから私達は癒しなどを行っていかなければいけません」というものです。実際に、私達がその様な事を行っていないなら、私達はなすべき事を行っていません。
私達の問題はジョン・G・レイクやスミス・ウィグルワースなどの特定の人々を「信仰の巨人」として見る事です。そうではありません。彼らは普通のクリスチャンでした。彼らが巨人のように見えたのは、教会が普通の基準以下を歩んで来たからです。彼らはただなすべき事をしただけの人達です。彼らは私達が本来しているべき事をしていただけです。全ての人がなすべき事を行う時には、私達の間には巨人に見える様な人々はいなくなるでしょう。私達は誰かを見上げて、「あの人はすごい」と高みに上げる事はしなくなるでしょう。何故でしょうか?それは、その様な人々自身が「私は何者でもありません」と言うからです。神は、「ウィグルワースの苗字を持つ人を見つけなければいけません。その苗字の人だけが奇蹟を行うからです」とは言いませんでした。奇蹟にふさわしいのはイエスの名だけです。そうですよね?そしてイエスはその名を受取る者には誰にでも彼の名を与える事ができます。アーメン。それが素晴らしい事です。知っていますか?もし私達が「油を多く注がれた」と呼ばれている才能を持った人達だけをミニストリーの舞台の上に立たせ、彼らを高く上げるなら、悪魔の格好の標的にしてしまいます。そして、悪魔が彼らをその地位から失脚させると、彼らに従っていた人達は言います。「彼のした事を見て下さい。私は以前から彼は誠実な人とは思っていませんでした。」いいえ、彼は私達が高く上げて悪魔の格好の標的にするまでは誠実な人でした。悪魔は彼に集中攻撃して、あらゆる圧力をかけます。私が人々から高く上げられたくない理由が分かりますか?悪魔の格好の標的にはなりたくありません。だから、私はあなた達に同じ所にまで上がってきて欲しいのです。そうすれば、私達全員が悪魔の標的になります。
私はその標的のグループの中に混ざる事ができます。私は敵が一人の人だけを集中して攻撃するよりは、私達100人を攻撃する事を好みます。私は悪魔に標的をたくさん持ってもらいたいのです(笑)。古い契約の下では人は堕落して、その性質は罪でした。神は聖く正義であるから、その基準に従って人を扱わなければいけませんでした。その頃は、罪が覆われる事によって、人は神との交わりが許されていました。しかし、神は人を御自分が本当に扱いたいようには扱う事ができませんでした。何故なら、人の罪が人を神から引き離していたからです。しかし、新しい契約(新しい遺言)の下では、神はイエスキリストを通して人を御自分の扱いたい様にする事ができます。また、イエスの行った全ての事は神との正しい関係を持つ人が、神の御霊に満たされた人がどのように歩むべきかの私達の見本でした。私達の問題は次のようなものです。新約聖書、特に福音書を読む時に人物が出てきます。イエスと弟子達、癒されたり、悪霊から開放される人達です。聖書を読む時には、自然と自分自身をその中の誰かの立場に置いて読みます。自分をその内の誰かになったつもりで読みます。
それは、例えば、ヒーローの映画を見た時のようです、もしあなたが男性なら、あなたは自分をヒーローの立場において、映画を見るでしょう。通常、自分を助けられる人の立場において見る事はしないでしょうが、女性なら、自分を助けられる立場に置くかもしれません。男性はいつも自分をヒーローの立場に置きます。何故、私達が映画を見る時に、その様なヒーローの立場に置くのに、聖書を読む時には、自分自身を助けを乞う人の立場に置くのでしょうか?何故でしょう?その理由は教会が私達を卑下し続けてきたからです。教会は私達を受身的な人にし続けてきました。教会は私達を女々しくしてきました。私達から雄雄しさを奪い、女々しさを教会に取り入れました。ある教会ではフェミニズムも取り入れました。その為に、私達は自分自身を弟子達の立場に置くようになりました。滅多に自分をイエスの立場に置く人はいません。イエスだけが唯一私達が見本にするべき人なのにです。私達は新しい創造です。新しく造られた者です(IIコリント5:17、ガラテヤ6:15)。天より生まれた、神の御霊に満たされた者です。福音書の中で私達に近い唯一の人物はイエスだけです。私達はツロフェニキアの女性のように神との契約を持っていない者ではありません。イエスの母であるマリアのような人でも、マグダラのマリアでもありません。私達の過去がその様であったとしてもです。私達はイエスのような者です。私達が自分自身を見る時にはイエスを見ます。そして、聖書を読む時には自分をイエスの立場に置きます。何故なら、彼だけが私達の見本だからです。
弟子達は私達の見本ではありません。ペテロは私達の見本ではありません。本当にイエスを3回も否定したいですか?それが彼のした事です。ですから、私達に一番似ている人を見本とするべきです。神の御霊に満たされて、神と完璧に歩んだ人はイエスだけです。
自分自身をイエスの立場に置いて下さい。他の人の立場に置く事をやめて下さい。例えば、マタイの福音書で、「しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなたがたの罪をお赦しになりません(マタイ6:14)」と書いてあります。それは本当ですが、私達の事ではありません。何故なら、もしそれが私達に当てはまるなら、私達はクリスチャンではありません。私達は新生してはいません。もし私達がクリスチャンなら、私達はキリストのうちにあり、私達の罪は赦されています(エペソ1:7)。誰かが私のもとに来て、過去の事を取り上げて、「知っていますか?過去に人々は私を傷つけました」と言うなら、私は言います。私も同じです。傷ついた事が無い人がいるでしょうか?あなたがその様な事を私に言う時には、あなたが何と言っているように聞こえるか知っていますか?「私はまだ自分に死んでいません」と言っているように聞こえます。あなたは私に自分はまだ死んでいないと言っています。誰かに傷つけられたと言う事は、自分はまだ死んでいないと言っているだけです。死んだ人は文句を言わないからです。死んだ人は、「私は傷つきました」とは言いません。私達が「傷ついた」と言う事は、「まだ私は死んでいない」と言う事です。私はそんな人に「可哀そうに」とは言いません。それが理由で、神は私を牧師になるように呼びませんでした(笑)。私は牧師に適した人ではありません。私は病で床についている人に対しても丁寧には接しません。あなたが病気の時に訪問を期待しているなら、尚更の事です。「ここにチキンスープがあります。これを飲めば気分も少しは良くなるでしょう」と言いながら、肩に手を置く事はしません。私はそんな人ではありません。私は病室に入り、「イエスの御名によって癒されなさい。手を貸して下さい、そして起き上がって下さい。起き上がって、今までできなかった事をして下さい」と言います。しかし、あなたは言うでしょう。「直ったようには、感じません。」私は気にしません。癒しは私達の感覚とは何も関係ありません。
誰が一番癒すのが難しい人か知っていますか?それは信仰を持っている人達です。一番癒すのが難しい人々です。何故でしょうか?何故なら、彼らからは決して明確な答えを得る事はできないからです。質問すると、彼らはうまい答えを思いつきます。例えば私が病人を前にして、「何をして欲しいですか?」と訊くなら、彼らは言います。「えーと、私は彼の打ち傷によって癒されていると信じています。」それは嘘です。その人は嘘をついています。しかし、その人は「いえいえ、私は癒されたと信じています」と言います。ではその様な人は私の目の前に癒しの祈りの為に並んで何をしているのですか?この列は病気の人の為のものです。その人は、「でも、私は…」と口を濁すでしょう。ちょっと待って下さい、その人は自分が癒されたと言いましたよね?それならここで何をしているのでしょうか?癒されたのではないですか?どちらですか?自分が癒されたと信じているのか、まだ病気だと信じているのか、どちらでしょうか?その人は、「私は信仰に立っています」と言うかもしれません。そんな言い方はただの聞こえのいいクリスチャン用語です。
それは、「私は癒されていないと言いたくはありません。でも、痛みを感じています」と言っている様なものです。ですから、多くの場合私は彼らに何も質問する事はしません。私が質問するなら、祈った後に「どうですか?良くなりましたか、それとも悪くなりましたか?」と訊きます。何故でしょうか?何故なら、ただ「どうですか?癒されましたか?」と訊くなら、その人は、「私は彼の打ち傷によって癒されたと信じます」と言うからです。もし自分が霊的だと思っている人なら、スミス・ウィグルワースが言ったように言うでしょう。「私は感じる事よっては動かされません。私は神の言葉によって動かされます。私は見る事によっても動かされません。私は神の言葉によって癒されたと信じます。」では、今ここで、私の目の前で何をしているのですか?私の目の前にいるという事は明らかに癒されたと信じていないからです。それだけ単純なものです。それで、私があなたの為に祈った時には、あなたが何を信じるか気にしません。何故なら、あなたが信じていると告白する事は、本当に信じている事と一致するとは限らないからです。もしあなたがキリストの打ち傷により癒されていると信じていると言うなら、私の目の前にいるはずはありません。あなたの信仰は働いてあなたを癒すからです。分かりますか?ですので、もし私の所に来るのなら、ただ質問に答えて下さい。もし私がどんな感覚かと訊くなら、何を信じているかは答えないで下さい。あなたが何を信じているかは知りたくありません。あなたが何を信じているかは訊きません。どんな感覚なのかを訊いたのです。もし、「何も変わっていません」と言うのなら、「では、もう一度その問題の解決の為に祈りましょう」と言います。そして、また同じようにどんな感覚か訊きます。もし、その人が、「私は~だと信じます」と言うのなら、「ちょっと待って下さい。私は何を信じているかは訊きませんでした。どのように感じているかを訊きました」と言います。彼らはどの様に感じるかを伝える事に慣れていません。彼らは何を信じているかを伝えたがります。
私はあなたが何を信じているかは分かります。あなたはクリスチャンなので、御言葉を信じています。御言葉を唱えないで下さい。私は御言葉を知っています。私が知りたい事は、何か変化があるかという事です。それが、私が信仰のある人々に「良くなりましたか?悪くなりましたか?それとも同じですか?」と訊く理由です。何故なら、もし私がただ単に、「どのように感じていますか?」と訊くなら、その人は全く見当はずれの答えを与えるからです。その人は、「私は悪くもないです」と答えるからです。だから代わりに私は、「祈りましたが、良くなりましたか、悪くなりましたか?それとも前と同じですか?」と訊きます。そして、完全に良くなるまでそれを繰り返します。
私は、人々が10年や15年も癒される為に信仰に立っていると聞く事に飽き飽きしました。今から話す事をよく理解して下さい。癒しの為に祈った時には、次のような事が起こります。癒しの為に祈るにつれて、私達の信仰の成長するレベルがあります。癒しの結果を見れば見るほど、私達の信仰はその癒しの結果を見た領域において成長します。
もしある領域において信仰を成長させたいと思うなら、その領域において成功している人を見つけて、その人と一緒に過ごして、その人のする事を観察して下さい。そうする事によって信仰は成長します。私達はその人がその領域においてどのように行動するかを見るからです。それが一番の近道です。今自分が立っている地点を認識して、そこから歩み始めなければいけません。自分には今私にどれくらいの信仰があるでしょうか?まず、病人の為に祈って下さい。
例えば、癌だとします。一度癌の為に祈って、何か変化はありましたか?何も変化はありませんでしたか?そして、何か変化を見るまで、祈り続けて下さい。何か変化を見た時には、その変化が起こるまでに、何回祈ったかを数えて下さい。例えば、もしその人が直るまでに10回祈ったなら、あなたは癒す為に10%の信仰で祈っています。何故なら、10x10 =100%だからです。そうですよね?では、癌の為に10回祈って、肺炎の為にも祈ったとします。肺炎の人が癒される為には4回祈ったとします。それならあなたは肺炎の為には25%の信仰で祈っています。また、これには相乗効果もあります。私達がある領域でより多い結果を得るにつれて、信仰はその領域において成長し、その成長は他の領域での信仰の成長に繋がる事もあります。例えば、ある人の癒しの為に祈りに行ったとします。何も変化は起きませんでした。そして、その人の為に再び祈る時にはまた一から祈り直している様に感じるでしょう。私達がどうして癒しの領域で多くの結果を出しているか知っていますか?それは、私達に癒しの祈りの為にやって来る人々は、既に何度も祈られている人々だからです。私達はクリスチャンが病人の為に手を置く時には、命がクリスチャンからその人に転移されると信じています。時には一度の手を置く時に与えられる命は僅かなものかもしれませんが、毎回手を置く度に私達は更に命を与えます。そして、もし命を十分に与えるなら、その命は病気やわずらいを身体から追い出します。大半の人々は私の所へ癒しの祈りの為にやって来るまでに様々な人々に祈ってもらい、癒されるのにとても近くなっています。彼らの中に命が他の人々に手を置いて祈ってもらった分だけ蓄積しているので、私が手を置いて少し足すだけで彼らは癒されます。
振り返ってみると、中には私達が4回、8回、10回と祈った人々もいます。ある男の子の為には2年間祈り続けました。年に3回ほど2年間祈り続けました。目に見えるような変化が出て来るまでには2年間かかりました。しかし、その変化が起き始めると、瞬く間に進展が起きて、その子は早く回復しました。癒しを行う上での打ち破りとは何でしょうか?それは私達が祈って癒しに向けて押し続け、命を加え続けてその人の内で大体70%まで癒しが起こった時に目に見えた形で変化が出てくる事です。70%の癒しが起きた時に目に見える形で変化が起き始めます。一度祈るだけでその人の内で70%の癒しが起きる時もあるし、その為には3回祈らないといけない時もあります。
その様な時は、私達は毎回癒しの為に25%の信仰で祈っている事になります。いつも毎回祈る度に、また始めから祈る事になると考えられています。しかし、私達は決して再び最初から始めません。毎回祈るごとに、命を足していきます。聖書は加えなさいと言っています。例えば、信仰には徳を、徳にはその他様々なものをなど、と書いてあります(Iペテロ1:5)。そうですよね。また、もし預言するならその人の信仰の量りに従って預言しなさい、とも書いてあります(ローマ12:6)。私達全てにはある同じ信仰の量りが与えられています。ある一定の信仰の量りが全ての人に与えられています(ローマ12:3)。私達は全て同じように、同じ数の筋肉を与えられている事を知っていますか?誰でも同じ数の筋肉を持っていますが、その発達具合はそれぞれ違うものです。もし運動をして、鍛えるなら、筋肉は大きくなります。マッチョな人もガリガリに痩せた人と同じ数の筋肉を持っています。彼らの違いは筋肉の発達具合です。信仰も同じ事です。
私達も、イエスも、パウロも、ジョン・レイクも全て同じ信仰の量りが与えられました。しかし、違いは各人の信仰の鍛錬の度合いと発達具合です。どの様にして信仰を成長させたら良いのでしょうか?それは与える事によってです。より与える事により、信仰はより強くなります。より与える事によって、より多くの抵抗を受けます。しかし、その抵抗は信仰を強めます。ですので、困難や抵抗から逃げないで下さい。ダビデも巨人から逃げませんでした。彼はその巨人に向かっていきました。だから、私達も問題や困難に立ち向かって行きましょう。その様にして少しずつ与え、訓練していきましょう。
私達が2年間祈り続けた男の子についての話を覚えていますか?2年間の間何の変化もありませんでしたが、2年後に突然変化が現れました。何故でしょうか?それは70%癒されたからです。彼の体の変化はDNAレベルのものでした。彼のDNAが変化しました。私達が彼に会った時には彼は重度のダウン症でした。今では彼の鼻の形も変わり、頭は後方へ引っ込みました。私が彼に最初に会った時に、人々が彼に質問しました。「カリー兄に将来あなたが何になりたいか教えてあげて下さい。」その当時彼は21歳でしたが、考えは8歳の子と同じものでした。彼は答えました。「大きくなったら、テキサスの武装パトロール隊員になりたいです。」私は、「分かりました。それでは祈りましょう。」と言って祈りました。その様に2年間祈り続け、前回私が彼に会った時、彼が「カリー兄に将来あなたが何になりたいか教えてあげて下さい」と質問された時に、何と答えたか知っていますか?彼は言いました。「私はカリー兄、あなたのように説教者になりたいです。」その彼が今はヒーリングルームの為に、ニュースレターを書いてタイプして、それを編集しています。考えてみて下さい。彼が2年前からどれくらい進展したのかを。大半の人々は一度祈って結果が出なかっただけで、「癒しも起きてはいないし、私には癒しの為には信仰はないんだ。諦めよう」と言うでしょう。しかし、私達はそこで諦めないで、祈り続けます。数年前のある映画の話をしましょう。本来は映画を使って何かを説明する事はあまりしません。それは、困惑する人もいるからです。その映画を勧めている訳でもないです。その映画は、「比類なき勇気」(Uncommon Valour)です。それはベトナムに戦争囚人として残された人々についてのものです。その中に、テックスという体格の良い人がいました。彼はベトナム戦争から帰国しましたが、再び仲間を救出する為に現地へ戻らなければなりませんでした。また、パトリックという人がいて軍には所属していましたが、戦闘の部署にはいなかったので、一度も戦闘の経験がありませんでした。それで、軍がパトリックスを戦闘の為に訓練するという内容でした。軍は、テックスとパトリックにそれぞれ斧を渡しました。彼らは体格が正反対でした。彼らは指示を受けました。「あなた達の目標はあれを切り倒す事です。そして、先に切り倒した方が勝者です。」そして、彼らが斧で木を切り始めます。テックスが先に彼の木を切り倒します。そして、パトリックは地面に倒れて、彼の木を切り倒す事を辞めます。すると、テックスはパトリックを押しのけて彼の木も切り倒してしまいます。そして、パトリックスを見て言います。「絶対に諦めるな。絶対に止めるな。絶対に退くな。」ここでの要点は、決して諦めない根性を鍛え上げる事です。私達がその根性を身につければ、決して負けなくなります。私達が戦いを楽しむ事を学ぶなら、敵は私達と戦う事を嫌います。私達がその様な姿勢を身につけるまでは、敵は私達と戦う事を好みます。ですから、私達のするべき事は戦う事を学ぶ事です。敵が私達と戦うのを嫌うくらい、戦う事を好きになって下さい。
では、本題に戻りましょう。ヘブル書の8章の6節です。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」さらにすぐれた約束・契約を持っていたら、まだ古い契約の下で歩もうとしますか?「このセミナーは癒しについてだと思ったのに、何故古い契約について話しているのだろうか?」という人もいるでしょう。そうです。今癒しについて話しています。古い契約に基づいた癒しは、新しい契約に基づいた癒しとは異なります。イエスがいた当時のユダヤ人達は古い契約の人達でした。今から言う事を理解して下さい。私達は、新約聖書というとマタイの福音書から始まるものだと考えます。しかし、福音書の中でイエスが扱った人々はクリスチャンではありませんでした。ですから、イエスの扱った人々は私達の様な者ではありません。自分を古い契約の下にいたようなユダヤ人の立場に置く事をやめて下さい。ある人は言うでしょう。「でも次の箇所も私達に言っていないのですか?他の人の罪を赦すなら、天の父も私達を赦して下さいます。 しかし、人を赦さないなら、父も私達の罪をお赦しになりません(マタイ6:13-14)。」それは真理ですが、これはある特定の約束に基づいた神との契約を持っていたイスラエルの人々に対してイエスが言った事でした。神は言いました。「もしあなたがこの道を選んで歩むなら祝福します。しかし、もしそうでないなら呪われます。」
この事については、申命記28章に明確に書いてあります。神は人々の前に命と死を置き、私達がどちらかを選びなさいと言いました(申命記30:19-20)。考えてみて下さい。ある人々は自分にわざわざ呪いを持ってこようとします。その様な人は言います。「私は神の守りの外にいるので、呪いの下にいます。」では、イエスが私達の為に呪いとなってくれた(ガラテヤ3:13)と言っているのはどう説明するのですか?実際には、約束の契約は神とアブラハムとの間で結ばれたものだという事を理解しなければいけません。アブラハムは人間の代表であり、その当時は、アブラハムは後に来るイエスを代表していて、約束の契約は父とイエスとの間で結ばれたものでした(ガラテヤ3:15-16)。アブラハムはイエスを代表していました。何故なら、イエスはアブラハムの血筋から生まれたからです。しかし、その日が来ると、イエス自身がやって来て、新しい契約が結ばれました。聖書にも「その日に私は彼らと結ぼうとしている契約を結ぶ」と書いてあります(ヘブル8:8)。そして、今新しい契約は父とイエスとの間で結ばれました。私達はイエスの中に入る(継ぎ合わされる)事によって、新しい契約にあずかる者となりました(ローマ6:3-6)。私達は神との契約を結びませんでした。イエスが神との契約を結びました。そうですよね?イエスは神と契約を結び、その契約を破る事なく死にました。その契約は破られなかったので、その契約の内には呪いはありません。そして、イエスは死んで復活しました。私達がその契約を破る事はできますか?いいえ、できません。私達は自分が結んでないものは破る事ができません。例えば、あなたは私が他の人と結んだ契約を破る事はできません。私しか破る事はできません。イエスは神と契約を結んで死にました。彼が一度死んだ以上は、もう決してその契約は破られる事はありません。何故なら、あなたが死んだ時点で、結んだ契約が破られなくなるからです。
新しい遺言が有効になるのは、誰かが死んだ時です。イエスが死んだ時に新しい契約は施行されました。そして、良い知らせは、イエスは死んで復活して、その新しい契約を施行する為に戻ってきました。ですから、私達はイエスと神である父との間に結ばれた契約を得ました。その契約は完全に結ばれ、完全に成就されました。その契約には呪いはありません。何故なら、呪いは契約を破る事によって伴うものだからです。新しい契約は破られる事はありませんでした。そして、今は決して破られる事はありません。だから、新しい契約には呪いがありません。ですから、今は、私達はキリストの内にあり、新しい契約の特権に預かっています。たとえ私達が失敗しても神の御前に行き、赦しを得て、新しい契約にあって歩み続ける事ができます。新しい契約には呪いの記述はありません。呪いは古い契約の下にあるものです。そうですよね?何故人々は呪いを新しい契約の中に持って来ようとするのか分かりません。呪いは取り扱わないで下さい。それは古い契約の下のものです。古い契約は新しい契約に勝りません。新しい契約はより優れたものであり、より優れた約束を伴い、呪いを伴いません。それでもある人々は言います。
「でも私は神の守りの下から外れました。」誰がその様な事を言ったでしょうか?イエスはあなたに害を加えるものは何もありませんと言いました(ルカ10:19-20)。あなたはどれだけの間、神の守りの外にいますか?3年ですか?それなら新しい契約の外にいます。もしそうなら、自分自身をクリスチャンと呼ばないで下さい。もしクリスチャンなら新しい契約の下です。新しい契約の下にあるなら、神の守りの下にあります。私の言っている事が分かりますか?呪いを持ってくる事をやめて下さい。私達はクリスチャンであるか、ないかのどちらかです。恐らく、ここでクリスチャンの定義について考えてみる必要があるでしょう。何故なら、多くの人が考えているクリスチャンの定義は、聖書的ではないからです。聖書の定義は、キリストのように歩みだして、最終的にあらゆる点において完全にキリストのように歩む者の事です(エペソ4:15)。私達はこの成長の過程にいなければいけません。キリストの内にあるという事は、以前と同じ生き方をして罪を犯しつづけて、軽率に「ああ、ごめんなさい。赦してね」と言うような事ではありません。何故なら、その様な人は本当に悔い改めてはいません。もし本当に悔い改める(考えを変える)なら、その罪をやめるはずです。
真の悔い改めは、何度も悔い改めが必要なのではありません。つまり、考え方を全く変えてしまう事です。いつも変えようと努力しないでもいいくらい、考えを一新する事です。その様に考えを一度完全に変えてしまえば、罪から完全に足を洗います。私達は罪を犯し続けるべきではありません。最低でも罪はライフルタイルではなく、一時的なイベントであるべきです。だから、自分に呪いをつけようとする事をやめて下さい。私達は新しい契約、さらに優れた約束に基づいたさらに優れた契約にあずかっています。この意味が分かりますか?私達は神の言葉を信じ、それに堅く立ってそれを実行する事により神の言葉を地上において確立します。御心はその人の性質と性格を表します。神の御心を知りたいと思いますか?聖書を読んで下さい。それが神の御心です。では、少し考えてみて下さい。「神は御自分の名にまさって、御自分の御言葉を高く上げられました(詩篇138:2)」とよく引用されますが、人は誰でもこれと同じ事をします。例えば、次のような会話を聞く事があります。「知っていますか?あの人の言葉は信頼できません。」「何故ですか?その人は誰ですか?」「彼の名前は~といいます。」「ああ分かりました。あの人ですよね。」何故この様な会話になるのでしょうか?それはその人は嘘つきとして知られているからです。ですので、その人の言葉はその人の名に優っています。その人の言葉がその人の人格の価値を決めてしまっています。これは全ての人に当てはまります。神にも当てはまります。神は、私達に16の異なるヤハウェから始まる名前を与えられました。それらの名前は神が私達にとってどのような方で、私達が彼とどのような関係を持って欲しいかを説明します。平和の神、万軍の神や正義である神などの名前があります。これらの名前は神が私達にとって誰であるかです(出エジプト記3:14)。その中の一つは、癒す神です。
もし神が私達を「癒す」方でないなら、「私はあなたを癒す者である」と言う事はできないでしょう(出エジプト記15:26)。ですので、神は自分自身を誰であるかと宣言する方である事を認識する必要があります。「癒す者」は神の名前であり彼の性質であり、彼の言葉はその性質を証明します。もし私達の言葉が私達のアイデンティティー(性質)と一致しないなら、嘘つきです。そうですよね。私達の言葉は、自分の性質と一致しなければなりません。人々は私達の言葉によって私達が誰であるかを知ります。真実であるか、嘘つきであるかです。だから、私達はどちらになるか決心しなければなりません。神は真実であって、「私はある、私は癒す者である」と言いました。たとえ、彼がどの様に癒しを行うのかを言わなくても、神は癒す者です。という事で、神の性質は神の言葉を表わします。同時に、私達が神の言葉を見ても、それは神の性質を表わします。そうですよね?もし古い契約に従って神の性質を見るなら、人々は、「神はあんな事やこんな事もします」と文句を言うでしょう。何故、私達はその昔の時の事を見て今の自分の事を心配するのでしょうか?その当時は、神は古い契約の下で人々を扱いました。しかし、私達はその当時の人々とは違います。私達は新しい契約の下にある人々です。分かりますか?いいですか?
これが、レイク氏が理解していた事です。その理解が、5年間に10万人の癒しを成し遂げる事に貢献しました。計算すると年間2万5千の癒しを彼と16人の仲間が見ていた事になります。そして、今まで私達はアメリカと世界中で2万人の人々を訓練してきました。そして、毎月平均1500から1800の癒しの報告を受け取ります(2017年時点では約24万人)。通常、神癒技術者達は25から30の癒しを毎月体験します。これは統計のうちのほんの僅かなものです。ですから、現在では毎月約3万の癒しを行っています。毎年2万の癒しではありません。神癒技術者達が癒しを行っているので、毎月3万の癒しが起こっています。その中には何百ものエイズが癒された例もあります。私達は今まで癒されなかった病気の名前を知りません。全て打ち破ってきました。それは神の言葉が真理だからです。私達はいつも同じ事を信じています。それは、私達はいつも勝つという事です。
癒しの為に祈る時には、「私達が祈りをやめるのは、いつどのようにして分かるのですか?」と疑問に思うかもしれません。それは私達が病気に勝った時です。いつ戦いが終わった事を知る事ができるのでしょうか?私達が勝つ時です。分かりますか?信仰は目的地を定めて、それに行き着くまでにたとえ何が立ちふさがろうとも、その目的に着くまで決して止りません。だから、私達がその目的地に着くまではやめません。では、どの様にしていつやめるか分かりますか?その目的地に着いた時です。目的地は神の言葉です。神の言葉を目的地に定めるべきです。私達と目的地である神の言葉の成就、神の御心、神の計画、神のミッションの成就と間に立ちはだかるものは悪魔からのものです。その立ちはだかるものを打ち破って下さい。追い出して下さい。蹴り飛ばして下さい。
何でも必要な事をして、その立ちはだかるものを取り除けて下さい。決して諦めないで立ちはだかるものを打ち砕いて下さい。しかし、ある人はこう言うでしょう。「そうは言っても、私は様々な方法で癒しを行った事があります。何が違うのですか?」今、あなたに言います。このセミナーが終わって、あなた達が癒しの為に祈りに行く時には結果に違いが出てくる事でしょう。以前とは違った祈り方をするでしょう。癒しの結果を出すのは祈り方の違いではありません。私が言った事を覚えていますか?重要なのは私達が何を言うかでではなく、誰として言うかです。今あなた達が行って癒しの為に祈るなら、同じ言葉で祈るかもしれませんが、癒しは起きるでしょう。何故でしょうか?それは人による教えが取り除かれたからです。私達がセミナーの中でそれらの教えを打ち壊しました。ですから、神の言葉が働いています。何故、人々が癒されるべきでないのか?何故、神が病気を与えるのか?今は神の癒しの時ではない、癒しの為に十分な信仰を持っていない、といった人による教えが取り除かれたからです。後は御言葉通りの結果が出るまで諦めない事です。それだけです。ですから、今あなたが依然と同じ様に祈っても違った結果が出てくるでしょう。
以前にこの様な質問をされた事があります。「このセミナーの教えは他で教えられている癒しの方法に応用する事ができますか?又、他の癒しの方法についてはどう思いますか?」この癒しの方法は他の癒しの方法には当てはまりません。逆に、このメッセージが神の言葉である事がはっきりと分かります。何故なら、本来神の言葉は決して他のものと混ざる事はしません。神の言葉はそれに絶対的に従う従順さと御言葉によって歩む為に他の一切のものをキリストの為に捨てる事を要求します。もし神の言葉とその他の教えを混ぜるなら、イエスの様な結果を出す事はできません。ですから、私達は何を求めるのかを決断しなければなりません。神の言葉以外にも、気孔、指圧、スピリチュアルなど様々なものがあります。それらのどれでも選ぶ事ができます。しかし、もし神の言葉以外を選んでもクリスチャンと言わないで下さい。何故なら、イエスは神の御言葉以外は何も選ばなかったからです。それでもある人は言うでしょう。「でもそれらの癒しを行って、助かる人もいます。」確かにそうです。
ハイチではブードゥーなどを行い、それによって必要な助けを得る人もいます。しかし、それが神からのものではありません。ただ単に人を助ける事ができるからといって、それは神からのものであるとは限りません。私がよく見かけるのは、人々は神の言葉とそれらのものを混ぜ合わせる事です。それは、聖書的な言葉では「異なった火」と言います。それは、人々が神とは全く関係の無いものを神の事柄に混ぜ合わせて、その為に死んでしまうという話です(レビ記10:1-2)。私は人々が祈ってもらい、その場では癒されたように見えますが、数ヵ月後には、不慮の事故などで死んでしまうという例を見た事があります。それは偶然ではありません。ヨガでも同じようなものを見る事ができます。本物のヨガの教師の為の参考書にはチャクラの事について書いてあります。ただのエクササイズのヨガではありません。本物のヨガです。チャクラとは体の霊的なつぼです。それを開く事で霊の領域の事に関して敏感になるというものです。その目的は、ヨガのマニュアルにも書いてあると思います。人は通常それらの6つのチャクラを開く事ができ、体を健康にする事ができます。外見上の害はありません。しかし、7つ目のチャクラを開かないようにと警告しています。8つ目を開くと、大半の人は精神が錯乱します。彼らが警告を与えるのは、ヨガを通して霊の領域に入る事は正しい方法ではないからです。イエスの御名以外の方法は全て正しくありません。それでも人々は何か新しいものを欲しがるのでヨガなどを試します。
何故クリスチャン達がそれらを試すか知っていますか?その理由はするべき仕事で忙しくしていないからです。彼らは手に暇を持て余しているので、座ってそれらのゴミのようなものを勉強して何か少しでも多く知った気になっているのです。はっきり言いますが、聖書には多くの事が書かれていますが、私はそれらの多くの事を知りません。私はただ役に立つ少しの事を知っているだけです。やり手の武術家やチャンピオンである格闘家はたくさんの技のレパートリーを持ってはいません。彼らは通常、いつも勝利をもたらす3つか4つの技を持っています。何故、彼らが強いかというと、彼らはいつもそれらの3つか4つの技を使える体制に自分を持って行くからです。何故それらの技がそんなにも効果的なのか知っていますか?それは、彼らはそれらの技が効果的な事を知っており、それらに完全な自信を置いて使っているからです。私達の問題は全ての技を会得しようとして、どれ一つとして会得できない事です。この技を2倍練習して、あの技も2倍練習して、これも試しに練習してみてなどと、多くのものを混ぜ合わせてしまいます。そして、最終的には全ての人の技が正しくなり、誰の技も間違っていないという結果になってしまいます。イエスは、「私が道である」と言いました(ヨハネ14:6)。イエスはとても狭い考え方をしていました。彼は言います。「私が道であり、私を通して出なければ誰も父のみもとにくる事はありません。」そうですよね?役に立つ方法は一つしかありません。それは聖書的な方法ですと言うといつも人々は腹を立てます。
他にも、よく次のような質問を受けます。「イエスの御姿を頭の中で思い描いて呼び出して、彼の御姿を頭の中で想像する事は安全な事ですか?」いいえ、安全ではありません。何故なら、誰もイエスがどの様な御姿であるかは知らないからです。仮に彼の正確な絵があるならそれを見て想像するなら良いかもしれません。誰もイエスの御姿は知りません。もしイエスの御姿を想像するなら、それは肉的なものか悪魔に影響をされて出てきたものです。
言っておきますが、もしその様な御姿を想像し続けるなら、その様な姿をした悪霊が現れて導こうとするでしょう。そして、あなたはそれをイエスだと思い込んでしまうでしょう。その悪霊の言う事は、始めは何も害のあるようには見えないでしょうが、最終的には私達を滅ぼすでしょう。
今有名になりつつあるジョン・G・レイクからの御使いを持っていると主張しているミニストリーのリーダーがいます。彼がその典型的な例です。その御使いは彼と共にいて、彼に何をすべきか指示するそうです。でも彼のミニストリーの重要なリーダー達は彼から離れて行っています。何故なら、彼がその御使いの様なものばかりを見て、導きを求めているからです。聖書の何処にも導きを得る為に御使いを見るようにとは書いてありません。私達は導かれる為に御言葉に基づいて神の御霊に従うべきです。私はとても考えの狭い人であると言うかもしれません。私は考え方が狭くても気にしません。私の考え方は正しいからです。単純です。
デイビー・クロチェットは、「あなたは自分自身が正しいかを確認して、もしそうなら、そのまま行って実行しなさい」と言いました。今の私達とイエスとの間に違いを生じさせている問題は次の様なものです。イエスがその当時の誰よりも卓越していた理由は、彼がパリサイ人や律法学者のようにではなく、権威のある者として話していた事です(マタイ7:29)。パリサイ人や律法学者は次の様に教えました。「この聖句は~と言っています。私は~を意味するように思います。しかし、ラビである~氏は~を意味すると言っています。しかし、私はそうは思いません。何故なら、その聖句は~にも解釈できるからです。ですから、自分で考えて何を意味するかを決めて下さい。」しかし、イエスは、「あなた達は~と言われていたのを聞いています。しかし、私はあなたに言います」というように教えました。イエスが毎回その様に教えた時には、彼はいつも彼らの教えを変えました。何故なら、彼らの教えはいつも間違ったものだったからです。イエスは彼らに向き直って、「あなた達は~と言われていたのを聞いています。しかし、私はあなたに言います」と言いました。そして、「~と書かれています」と言いました。いつもイエスは聖書の言葉に戻りました。また、彼は言いました、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、命はありません(ヨハネ6:53)。」そして、皆は腹を立てて、彼の弟子たちでさえもイエスを残して去りました。イエスは12弟子に向かって、「あなた達も離れたいと思うのですか?」と訊きました。ペテロは答えました、「主よ。私達が誰のところに行きましょう?あなたは永遠の命の言葉を持っておられます(ヨハネ6:53-69)。」少なくとも、ペテロは自分の言っている事は真理であると知っていました。キリスト教にはお金はかかりません。でも私達の命は捧げなければなりません(マタイ16:24、マルコ8:34、ルカ9:23)。
お金を出してキリストの中に入るような事はできません。しかし、ある団体は癒しのプログラムに参加する為に何十万円ものお金を要求します。いいですか。その様な人達はクリスチャンではありません。それが私達はこのセミナーの参加費を取らない理由です。何故なら、福音は無料だからです。しかし、ある人々は言います。「でもあなた達はCDや本などを売っているではないですか。」別にそれを買う必要はありません。もし私が、「本当に癒されたいなら参加費を払ってこのセミナーに参加する必要があります」と言うのならそれは間違っています。何故なら、真理は無料だからです。真理を売る事はできません。誰も真理を売る権利はありません。私が話している事の意味が分かりますか?それがイスラム教は偽りの宗教である事の理由です。何故でしょうか?それはイスラム教にはお金がかかるからです。
アメリカのテレビで見るキリスト教も偽りの宗教になってきています。それは多くの人々がキリスト教にはお金がかかると考えるからです。私達のミニストリーはパートナープログラムを持っていますが、5千円献金パートナー、1万円献金チャンピオンパートナー、2万円献金ヒーローパートナーというように格をつけるような事はしません。誰でもこのミニストリーを助けようと信じて献金してくれる人々がパートナーです。たとえ、千円献金するだけでも、十万円献金した人と同じCDを受け取ります。私達がこの様にしている理由は、キリスト教は無料であるべきだからです。前にも言ったように、キリスト教にはただ私達の命の代価が必要です。しかし、キリストに属する者となる為にはお金は必要ありません。分かりますか?イスラム教にはお金がかかります。それは全てのイスラム教徒は一生の間に一度はメッカに行かなければならないからです。航空機代にお金がかかります。他の人に代わりに行ってもらう事はできません。ですので、全てはお金の問題に戻ってきます。それが私達はお金に従って事を行わない理由です。キリスト教は私達自身の全てを要求します。もしお金が重要なら、誰でも$100を持っていて教会にそれを支払うならその人は救われますと神は言う事ができましたが、神はキリスト教において信仰を最も重要なものとしました。それは中世の時代に売られた免罪符です。マーチン・ルターは免罪符に腹を立てて、95ケ条を書いて改革を始めました。そのおかげで私達にはこの様な聖書の教えがあります。問題は、それは革命の代わりに改革であった事です。彼らは全てのものを何もない状態から始めるべきでした。でも私達教会はその改革された地点から始めました。だから、それぞれの教派がそれぞれ異なる事を教えて、その為にお金を取るようになってしまいました。大半の教会はお金中心になってしまいました。キリスト教は、お金は全くかかりません。私達は建物を持つ必要は全くありません。初代教会は、会堂などは300年間もの間持っていませんでした。むしろ会堂から追い出されました。基本的にキリスト教が堕落していった始まりは、会堂などの建物を持ち始めた時でした。そして、教会はユダヤ教的な説教的なものになっていきました。
これは癒しと何の関係があるのかと思うかもしれません。しかし、これは人々に対する神の愛をどの様に理解しているかと関係があります。神は宗教を望んではいません。神は人々と、「父と子の関係」を持ちたいと望んでいます。神は人々が奴隷の様に鎖につながれている事を嫌っています。神は人々が自由になるのを見たいと願っています。だから、問題の原因を忘れて人々を自由にして、自由になった人々を弟子訓練して、彼らが神との関係を持てるように訓練して下さい。そうすれば、問題の原因や発端などを探り扱う必要はありません。私達は多くの時間を、「それをしてはいけません。あれをしてはいけません」などと教える事に費やしてきました。それで、誰も何をするべきかを知りません。多くの人々はしてはいけない事は知っていますが、何をするべきかを知りません。それが理由で、「私達は病人を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせるべきです」と私は言うのです。人々は言います、「そうなのですか?悪口を言わない、酒を飲まない、タバコを吸わない、それらが私のすべきでない事だと思っていました。」
ある時、ジョン・G・レイクが浜辺を散歩している時にロブスターを見つけました。彼はそのロブスターの所まで歩いていって、それを見て言いました。「ロブスター君じゃないですか。あなたはタバコを吸いますか?ののしりますか?もちろんののしったりしませんよね?」そして、レイク氏は(皮肉って)言いました。「私と同じクリスチャンに会えて光栄です。」分かりましたか?大切な事は「何かをしない事」ではなく、「キリストの様な者でいる」事です。私達が、キリストの様な者でいる時には、その「行い」が伴います。私達は正しい行いによってキリストの様な者になる事はできません。でも、私達がキリストの様な者でいるなら、キリストの様な行動が伴います。最後に、ここにいる何人の人が聖書の天地創造や進化論を信じますか?多くの人は天地創造を信じると言います。でも皆さんの生活や生き方は進化論を信じている事を証明します。何故なら、多くの人は毎週教会に来るならどうにかして最終的には、なるべきクリスチャンに変身すると考えているからです。クリスチャンが生まれたのは進化によってではなく、神による創造によってでした。神の新しい創造は一瞬にして私達をなるべき人に造り変えました(IIコリント5:17)。だから、あなたがキリストの様になろうとしているならそれは問題です。重要なのは私達(の霊)が既にキリストの様な者である事を悟り(Iヨハネ4:17)、キリストの様に行動し始める事です。あなたはこれ以上キリストの様にはなりません。あなたは既にキリストの様な者になりました(ガラテヤ 3:27)。問題は、外側から内側に入ってくるこの世の影響に調子を合わせてしまっている事です。むしろ、内側から外側へと出てくる神の性質により内側から変えられるべきです(ローマ12:2)。それが鍵です。あなたはもう既になるべき人になっています。誰かになろうとせずに、歩むべきキリストの様な人生を生きて下さい。イエスの様に行動して下さい。イエスのように行動しだす時に、彼と同じわざを行い始めます。「本当に単純な事です」と人は言います。人々も同じ事をイエスにも言いました。そして、イエス自身も同じ事を言いました。「これらの事を、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現して下さいました(ルカ10:21)」と言いました。皆さんは、聖書の全ての真理の細かい知識を理解しようとして、キリスト教の基礎を逃してしまって神学者になろうとしてないですか?神は神学者になるようには言っていません。神学者は十分います。チャールズ・フィニーは言っています。「聖書はとても単純です。間違って解釈する為には手助けが必要です。不幸にも、私達は多くの助けを得てきました。」今私達はそんな助けから脱却する時です。幼子の様に素直になり基礎に戻りましょう。神を愛して神の戒めを守りましょう。隣人を自分自身のように愛し、自分にしてもらいたい事を他人にもしましょう。私達がその様にするなら、私達は病人を癒し、死人を蘇らせて、悪霊を追い出して福音を宣べ伝える事になるでしょう。
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