癒しについての質問の幾つかに答えていきます。まず、死から生き返らせる事のできない年齢はありますか?いいえ、ありません。ここに私達の癒しの教えと、一般の癒しのミニストリーの教えの違いがあります。彼らによると、私達は70歳、健やかであっても80歳まで生きられると教えます。詩篇90:10に基づいています。ウィグルワースは何歳まで生きる予定かと聞かれた時に答えました。「私は70歳まで生きると約束されています。」彼が70歳になった時に、彼らは言いました。「では、今からはどうするのですか?」ウィグルワースは言いました。「健やかであっても、80歳までです。」そして、彼が80歳を超えた時には、彼らは言いました。「今はどのような聖句を信じているんですか?」彼は言いました。「詩篇91章です。私は、彼を長い命で満ち足らせるとあります。私が満足した時にこの世を去ります。」癒しの年齢制限は、詩篇90章によるなら、私達は70歳から80歳生きるでしょう。創世記の6章2節には120歳と書いてあります。120歳は私達の寿命の限界として考えられています。科学者達はなぜ私達が120歳より長く生きられないのか証明できません。ある一定の年齢まで生きる事を約束されている事と、私達が死人を生き返らせるように命令されている事とは何の関係もありません。イエス様はただ「死人を生き返らせなさい」と言っています。聖書は80歳前に死んでしまったら生き返らせ、80歳後は死なせなさいとは言っていません。次は、人が死んでから数週間経った後、埋葬や火葬された後に生き返らせる時についてです。この様な質問をされた経験もあります。そんな時はいつも「あなたの信仰の通りになれ」と答えます。アブラハムはイサクが灰になっても彼を取り戻すつもりでした。何故なら、アブラハムはイサクをいけにえに捧げるつもりだったからです。それはただのいけにえではなく、全焼のいけにえでした。だから、アブラハムはイサクが灰の中から生き返る事ができると信じていました。もし私達がアブラハムと同じ信仰を持つのなら、それは可能だと信じるべきです。「癒しの祈りが必要な人が高齢で、もう生きる気力がない時にはどうしたらいいでしょうか?」大抵、高齢の人達の癒しの為に祈る時は、年齢は問題ではありません。私達が変えるべき事は彼らの意志です。何故なら、長い間痛みや苦しみ、病気を経験してきた多くの人達は、殆ど諦めて死んだ方がましだと考えるからです。多くの人達は身体的には健康であっても自分はいつも病気であると考え、憂鬱になります。医師達は彼らに何の問題も見つけられません。生きる気力の無い人達を扱う時には癒しに加え、彼らがまだ人生の目的を達成していなくて、成すべき事があると説得します。その様に説得し始める事から、弟子訓練につながります。弟子訓練は自分自身の時間と力を他人の為に捧げる事です。生きる気力のない高齢の人を説得して、彼らの意志を変える必要があります。私達は彼らを癒す事ができますが、その後に彼らは、また病気になってしまいます。私達は、人々が力と神による健康を所有して歩む事ができる様に訓練しなければいけません。攻撃的に生きるべきです。
私達は長い間、守備的に生きてきました。聖書には「ハデスの門も教会には打ち勝つ事はできない」とあります。これは、私達は攻撃的であるべき事を意味します。私達はこの世界を勝ち取っているべきです。聖書は「悪魔に機会を与えないように」と書いてあります。この「機会」とはギリシャ語で「Topos」と言い、「土地」という意味です。私達は敵に土地を与える事はしません。私達は町を勝ち取る事を学ぶ必要があります。私達は「どうやって霊的に町や都市を勝ち取るか」という教えを持っています。それは単純で実践的なものです。次です。多分、多くの人は答えを気に入らないと思いますが、幾つかシェアします。私が40歳の時だったと思います。私はトランポリンの上で飛び跳ねていて、そこにいる子をよけようとして隅の金具に足を乗せた時に骨が折れた音を聞きました。それから、隅の方に逃げた時に、その足が地面に着いた瞬間に完全に折れたのを聞きました。私はブーツを履き直す事ができなかったので、家に帰らなければいけませんでした。足は大きく紫色に腫れ上がり、私は歩く事ができませんでした。そして私は、車椅子に座り、足をそれに乗せたまま家中を移動していました。妻や他の人達は医者に行くべきだと考えました。彼らは言いました。「医者に行かなかったら、足が不自由になってしまうよ。」私は決断をする必要がありました。私は人々に同じ決断をする様に言っているのではありません。でも、私は私の置かれている立場から決断しなければなりませんでした。私は医者に行くべきかどうか言う事はできません。それは個人的な選択で、その人次第です。毎日人々が私達の所に来ます。大抵の場合、彼らの問題は小さなものではなく、生きるか死ぬかの本当に土壇場の状況です。ですから、他の人達を癒すなら、私は自分自身の癒しの為にも信仰を持つべきだと考えました。私は小さな問題がある度に、医者の所に行く事はできませんでした。自分の為に戦う事を学ばなければなりませんでした。もし他の人達を癒すなら、私自身は癒しの為に誰の元にも行かない事に決断しました。それはプライドではない事を理解して下さい。私はその癒しを自分で得なければいけないと分かっていました。もし私が自分の足を骨折してすぐに医者に行くなら、どうして私が他の人の癒しの為に祈る事ができるでしょうか?皆さんが私と同じ立場に立って考える様に言っているのではありません。私の決断は、私自身の立場からのものです。最初にした事は自分の体に向かって「足よ。神の言葉と一致しなさい。イエスの御名によって癒されよ。今、癒されるように命令する!」それから、私は声を大きくして足を叩いて命令しました。足を叩く度に激痛が走って意識を失いそうになりました。目の前が真っ黒になりました。それを繰り返しました。痛かったです。その様な状態が3~4日続きましたが、それ以来、歩く事ができるようになりました。まだ少し痛みましたが、ブーツを履く事はできました。その時は、まだどうなるか分からなかったので、その足にあまり体重はかけませんでした。2週間かかりましたが癒されました。他にも同じ様な決断をした事があります。ある時、私は夜のコンビニで働いていました。虫歯で腫れ上がっていました。普段薬を取る事はしませんが、その時は痛み止めを飲んでいました。
それは4~6時間おきに2錠を飲んで下さいと書いてありましたが、私は毎時間4錠飲んでいました。それは絶え間ない痛みでした。私は歯医者に行く事もできないと知っていました。それで、真夜中にトイレに行き鍵を閉めました。ポケットナイフを取り出してその歯を抜きました。その様に、私は思い切った決断をしてきました。私は皆さんにも同じ事をする様には言いません。でも、私はやるべき事は何でもするように自分自身に言い聞かせてきました。ウィグルスワースは「疑いながら生きるくらいなら、信じながら死ぬほうがましだ」と言いました。私も決断を下す時にその様に考えていました。人々は私に薬を飲むべきかと聞きます。「それに関してはコメントできません。」そうすると、彼らは言います。「では、あなただったらどうしますか?」それは、遠まわしに何をしたらいいかと聞いている事と同じです。その様な時、私は言います。「もし薬か何かが必要なら、医者の所に行きます。でも、薬が必要な時には私は医者に行けるような状態では無くなっていると思います。だから、あの時も私はトイレに行く事に決めました。」
さて、私は歴史家だと思います。ペンテコステ派の歴史、世界の戦争史や軍隊の歴史も含めてです。ストーンウォール・ジャクソンはある時、仲間の兵士と一緒にいました。彼らは周りで爆弾が爆発して弾丸が飛び交っている戦場にいました。ジャクソンのユニフォームには弾丸の穴が開いていましたが、彼は無傷でした。人々は彼に聞きました。「皆が爆弾や弾丸を避ける為にかがんだり、地面に伏せているのに、あなたはどうして尻込みもせずに戦場を歩き回れるんですか?」彼は言いました。「私の信仰は、もし私が神の御心を行っているなら、戦場でもベッドで寝ている時と同じ様に安全だと教えてくれるからです。」私達もそう考えるべきです。彼は最終的には死にましたが、もし彼が死ななかったなら恐らく南軍が勝っていたと思います。その時点までは彼は負けた事がなかったからです。もし彼がゲティスバーグの戦いに参加していたら、彼の軍は勝っていたでしょう。彼がその戦いにいなかったのは、北軍の勝利に貢献した一つの要因だったでしょう。とにかく彼は自分自身を全て神の御手に委ねていました。私達はこの事についてバランスの取れた考えをする必要があります。私達の命は神の御手の内にあって、何処に行っても安全である事を理解しなければいけません。私達は火の燃える炉の中に投げ入れられたへブルの子達の様でなければいけません。「私達の神は私達を助け出す事ができる事を確信しています。そうでなくても、私達の神以外は拝みません。」はっきりしている事は誰も私を打ち負かす事はできないという事です。何故なら、何が起きようと私はそれを克服するからです。何故でしょうか?私は神と正しい関係を持っているからです。神と共に歩いているからです。私は神の仕事をしているからです。誰でも私を倒そうとして私を傷つけ、打ち、殺そうとすればする程、私はより強く成長します。ですから私は何も恐れません。でも、傷跡を持っていない訳ではありません。ただ、傷跡は勲章になるべきです。私達が勉強するべき人物の一人はウィリアム・ブースです。ぜひ彼の人生の話を学んで下さい。彼は救世軍を作りました。
彼は日記にこの様に記しています。「今年だけでも私達に対して690の襲撃がありました、その為に法廷に行かなければいけませんでした。」ウィリアム・ブースは人々が彼らに向かって投げたものについても書いています。「私達はレンガ、腐ったトマト、死んだ猫の体の一部などを当てられました。」でも、彼らはそれらの迫害を勲章として受けました。彼らはその様な経験をしました。ある人々は言います。「イエスの御名を公の場で口にするべきではありません。私達に宗教を押し付けるべきではありません。」でも、人々に福音を知らせる必要があります。今日、私達は常識や礼儀正しさを失いつつあります。男も女も悪口を言い、以前は公の場では言わなかった様な言葉を平気で口にします。もし悪口を言っている人の隣である人が「神に感謝します」と言うと、人々はその人をおかしい人のように見ます。それなら、私達は他人と違う人になるべきです。今こそ私達の信じている事を人々に知らせる時です。何故なら、彼らはその日には神の前で「何故あなたは私にイエス・キリストの事を知らせてくれなかったのですか?」と言うでしょう。少なくとも「私は伝えようとしましたが、あなたは聞きませんでした」と言える様になるべきです。神は立ち上がる人々を捜しています。聖書には「主はその御目を持って、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現して下さるのです」とあります。あなたが他人より目立つ事で神はあなたを見つける事が出来ます。私達が信仰を持って立ち上がり、真理を語り出す時に神は私達を見つけるでしょう。1997年に南アフリカで教えていて、昼食から帰ってくると会堂の人々は2倍に増えていました。朝のセッション後に私が牧師達と食事に行っている間に人々は出て行って祈り、癒された人々が来たからです。昼食は短いものでした。私は驚いて牧師に尋ねました。「どうして人々がすぐに出て行って癒しを行うようにできたのですか?あなたが一度言っただけで、彼らはそれに従って癒しを行いました。アメリカでは人々が癒しを行うようになる為に、ギリシャ語やヘブル語、神学などを用いて細かく説明して説得しなければなりません。」私は決して彼の答えを忘れる事ができません。「カリー兄弟、あなたには分からないでしょう。ここにはあちこちに病院はありません。ここでは私達は神を信じるか死ぬかの選択しかありません。」その時、私達の持っている祝福が私達にとって呪いとなってしまっている事に気が付きました。何故なら、私達は生活の中で他の多くの神々を持っているからです。私達はもしお金が必要なら、備えて下さる主の代わりに銀行でお金を借ります。もし心配事や問題があるなら、平和の神の代わりに精神科医から安定剤や薬を貰います。もし癒しを必要としていたら、癒す神の代わりに医師に頼ります。医師は痛みがあればそれを取り除くか、痛みを消す為の何かをくれます。私達には多くの神々がいます。ですから、ある時点で誰が私達の神なのか決めなければなりません。最終的にはその様な神々はあなたを失望させるでしょう。だから、今のうちに本当の神を選んでおいた方が賢明です。私は9歳の時にアルコールを飲まないと決めました。誘惑の戦いの最中は何か決断をする時ではありません。何でも前もって決断をして、制限範囲を作っておいて下さい。
私は何年も前に神に言いました。「もし私がミニストリーの立場に立ったなら、誰にもお金を頼む事はしません。誰にも私達の必要については言いません。私達はただ神を信頼します。いつもこの法則に従います。」これが、私達がDHTの訓練に参加する為にお金を取らない理由です。自由献金は集めますが、何もなくても気にしません。何も与えたくないのなら、それはそれで構いません。もしそれがここで満たされないのなら、神は私達が帰った時に郵便受けに必要な分を与えてくれます。いつもそうして成功してきました。それは私達が神を信頼するからです。もし私が他人にお金を頼るなら、私は彼らが気に入るメッセージをする事になるでしょう。そうでないとお金をもらえないからです。私は神を信頼するから自分が信じる真理を語る事ができます。私は他の人達がそのメッセージを気に入ろうが気にしません。これはうぬぼれの強い人の様に振舞っているのではありません。神が私の全ての源です。神はそれを証明してくれています。私はただテキサス州で生まれた者に過ぎませんが、神は私を世界中に連れて行ってくれています。私には他の人達が持っている様な資格はありません。私の持っている唯一の強みは、諦めない、止めない、引き下がらない、何が起きようと前進し続ける事です。神学校で学んだ資格もありません。ただインディアナ州のサウスベンにあるサムラル氏の学校に行きました。結局は全ての時間をサムラル氏と過ごす事になりましたが、それは神学校よりも益になりました。座っているだけのアカデミックな学びではありませんでした。でも神は私に神学校を与え、色々な神学校で教える事を許してくれました。私達はマイケル・ブラウンと友好関係があります。彼は私達を支持してくれました。彼は、私達の教えは神学的にも正確で、聖書的にも間違いはないと言ってくれました。マイケル・ブラウンの資格は素晴らしいものです。神がテキサス州出身の私のような者を用いてこの様な事を行う事をできる事に神に栄光を帰します。何故なら、私一人ではこの様な事は到底できないからです。それで、神が私を用いる事が出来るなら、あなたも用います。私は物事を行う時によく間違いを犯します。私は全ての事の順序を逆から行ってしまいます。ミニストリーを建て上げる為に、何でも一般に行うべき手順では行いません。私はミニストリーを建て上げるつもりはありませんでした。ただ役に立つものを求めていました。そして、今はそれをシェアしています。重要な事はミニストリーを立ち上げる事ではありません。重要な事は世界を変える事です。このメッセージには力があります。私達は今まで2万人以上の人達にこれを教えてきました。私は今まで誰からも、メールや電話や手紙などを通して 「あなたの教えた事を試してみたけども効果はありませんでした」という返事を受け取った事はありません。もう一つの証をしましょう。ある80歳後半の夫婦がいました。女性の方から一年ほど前に手紙をくれました。「カリー兄、私は今まで神に用いられる事などないと思っていました…」この様に手紙は始まりました。ある日、ある女性が糖尿病を持っていたのでその為に祈るように電話を受けて病院へ行きました。彼女がそこに着いた時には、患者の女性の片足は既に切断されていました。そして、もう片方の足も血塊の為に切断する所でした。
彼女がその場に着いて自己紹介をしました。その女性は言いました。「何故あなたはここにいるんですか?」彼女は言いました。「私はあなたの為に祈る為に来ました。でも、最初に謝らなければいけません」その横たわっている女性は言いました。「何の為にですか?」彼女は言いました。「もっと早くここに来なかった事です。もっと早く着いていたら、足を切断しなくても良かったからです。」彼女は教会に50年間もただ教会に集っているだけでしたが、私たちのメッセージを聞いてそれを理解して、現在は外に出て行って癒しの為に祈っています。それで、彼女はその女性の為に祈りました。その女性が病院に運ばれたのは、彼女が摂取していたインスリンに体が過剰反応した事が原因でした。彼女は癒されました。それで彼らは彼女に検査を受けるように言いました。血塊は無くなり、彼女は足を失くさずに済み、糖尿病からも癒されました。医師もそれを認めました。この様な事は日常茶飯事のように起こっています。別の証をシェアします。ある退職した夫婦がいました。彼らは少し前に私に手紙を書いてくれました。それにはこう書いてありました。「カリー兄弟、私達はタイの南部にあなたの息子が宣教師としている事を知っています。でも、タイの北部にも、JGLMの宣教師がいる事を知って欲しいと思います。」彼女と夫の子供達が大きくなって、孫達と共に全員でタイに行きました。彼女は言いました。「私達は皆座って神癒技術者訓練のセミナーに参加してそしてその後もCDを何度も聞きました。」彼らは一般的な夫婦です。誰も彼らをサポートしていないし、誰もお金を払っていません。彼らは退職して年金をもらっています。彼女は言いました。「私達の前回の旅では、数百人の救いが起きました。それと同時に2週間の間に600の癒しが起き、記録されました。それらの大半には私達の9歳と12歳の孫達も携わりました。私達にはすでに3世代目の神癒技術者達がいます。」癒しを行う上で年齢は関係ありません。私のクラスで8歳の少女が癒しを学んでいました。彼女自身が癒しを必要としていました。彼女は家での学びにやって来て願いました。「私は食物アレルギーがあります。祈ってくれますか?」私は尋ねました。「何が食べられないのですか?」彼女は答えました「魚介類を食べる事ができません。」私は言いました。「分かりました。では行って、それらを食べなさい。」夜の11時だったので、どこで魚介類の食べ物を見つける事ができるだろうかと考えていました。その家の人がたまたま冷凍された魚介類の食べ物があったので、彼女はそれを食べました。
少女はこう言いました。「あなたがここに一緒にいるから、これを今から食べます。」彼女はそれを食べました。その後に私が他の人と話していると、ある人が言いました。「少女がその魚介類を食べていると、アレルギー反応を少し起こし始めました。しかし、彼女は「イエスの御名によって、反応よ、去れ」と命令し、その反応は去りました。そして現在、その少女は他の人々の為に祈っています。もう一度言います。年齢は関係ありません。今から私の言う事を聞くとあなたは怒るかもしれません。でも、それらの事について聖書を勉強すれば、それらは真理だと分かると思います。一つ目は、神の力は機械的である事です。私達は通常その様な事を好みません。
何故でしょうか?私達は神の力が怪奇で、神秘的である事を好むからです。神が信頼できる方であればある程、私達に責任が伴います。私達は曖昧な神秘的な事を好みます。「神は~できない。神は~をしないでしょう」という様なものは人の教えです。神は信者・未信者に問わず、全ての人を癒しました。神には限界はありません。限界は私達が決めたものです。もしあなたが、神が癒しの為には断食しないといけない等、神のつけなかった条件をつけるなら、神は私達を癒しの為に用いる事はしないでしょう。もしそう教えるなら、偽りの教えを広める事になります。神は本当に癒します。その人が罪を行っていても、その人を癒します。もちろん、神は人の人生に罪がある事は望みません。私は罪を犯し続けてもよいと言っているのではありません。私達が罪を犯していても、神は私達を通して人々を癒します。しかし、神様は私達が罪から離れる事を望みます。神はあなたを本当に愛しています。もし私達がこのメッセージを真に理解し神の心を理解したら、それはこの世界を変えます。神の心を真に理解する為には古い契約の考え方から、新しい契約の考え方に移る必要があります。古い契約の考え方は、私達はしもべで、神は私達から離れていると考えます。神は怒っていて、私達が少しでも間違いを犯すと激しく打つか、私達に差し伸べた助けの手を引っ込めると考えます。その様なものは私達自身を神から離す考え方です。しかし、新しい契約の考え方は、神は私達と共にいるというものです。神は私の内にいて、私の本来正しく機能する感情は神からのものです。何故なら、もし私が人々への哀れみを感じるなら、神はどれだけの哀れみを感じる事でしょうか?私がこの場に立って「神様、どうかこの人を癒して下さい」と言うと、それはまるで私は神よりも哀れみがあるように聞こえます。癒しは私達の行いとは関係ない事を覚えていなければなりません。癒しは私達が思いついた事ではありません。私達が聖書を書いたのではありません。私達が病人の為に祈り始める事を決めたのではありません。癒しは神の計画でした。神が癒しを聖書に書きました。神はそこに「信じる者が病人に手を置けば、彼らは癒されます」と書きました。神がこれを決めました。私達が思いついた事ではありません。でも、私達はそれをまるで自分が思いつた事のように振舞います。私達は神が癒しを行うように神を説得しようとします。しかし、神が癒しを思いつき、神が私達を癒しを行うようにしているのです。でも、目の前の病人を見て「神よ。あなたはこの人を癒す事ができます。もしこの人を癒してくれるなら、癒して下さい」と言うなら、それは神に対して最悪な言葉です。親は自分の子が何とか困難を乗りきる事ができるように手助けをしたいと思うでしょう。私達は親の心を知っているのに、父なる神は冷たい心を持った人のように考えます。しかし、現実には、私達はよく神の力は疑わずに、彼の御心を疑います。この様な考えは古い契約の考え方からです。しかし、私達はさらにすぐれた新しい契約を授かっています。新しい契約の中心は神の御霊が私達のうちに住む為に来たという事です。私達が至聖所になります。私達が神の幕屋となります。古い契約の考え方はいつも、「神はどこか離れた所にいます。神を見つけに行きましょう。神の御顔を求めに行きましょう。
神の御心を見つけに行きましょう。神様、私のもとに来て下さい。私達に現われて下さい。主よ、あなたの栄光が下りますように」と言います。多くの人々はこれらの言葉を唱える事で、自分達が霊的であると勘違いしています。彼らは霊的ではなく宗教的です。私はアイダホ州のチャリスにいて、ある有名な奉仕者達といました。私は2つのDVDを作りました。一つは「神の国の福音」と言うもので、もう一つは「悪魔の教え」というものです。その内の幾つかは、今このセミナーで教えています。正直に言うと、私達は彼らを怒らせました。実際に、私が去った後に彼らは集会を持ちました。本当の話です。彼らは私の話した事を検討していました。この人達は話しました。「私達はこの集会をもっと霊的にしなければいけません。」私がそこにいた時に、大きな看板がありました。それには「もしあなたの臨在が行かないのなら、私は行きません。」と書いてありました。私は彼らに言いました。「でも、ダビデ自身が言いました。私はあなたの御霊から離れてどこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。たとい、私が天に上ってもそこにあなたはおられ、私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」私は続けて言いました。「私の行く所は何処でも、神の臨在も共に行きます。」この新しい契約の考え方のメッセージを真に理解するなら、それは人生を変え、完全にあなたを変えます。何故なら、これからは神に乞い願う事をやめて神と共に支配する事になるからです。高慢な視点ではなく、人々を助ける事ができるものを自分の内に持っているので、神と共に支配する事を決心するようになるからです。人々を助ける事ができるようにいつも準備していて下さい。ある人たちは、「天が開くように祈っています。」と言い続けます。でも、私達自身が開いた天ですから、開いた天を求める必要はありません。もし部屋に罪人とクリスチャンがいるなら、そこには開いた天と閉じた天があります。罪人は祈りますが、彼らの祈りは多くの場合、聞き入れられません。でも、私達は開いた天です。天につながっている管です。天に届くように祈り続ける必要はありません。私達が一言「イエスの御名によって」と言えば天に届きます。何故でしょうか?それは、神は私と共にいて、私達が行く所には何処でも神も私と共に行くからです。人々は「主よ。どうかあなたの臨在を私達に現して下さい」と言います。聖書は「しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、誰が天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろす事です。また、「誰が地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げる事ですからす。では、どう言っていますか。「御言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちの宣べ伝えている信仰の言葉の事です」と言っています(ローマ10:6-8)。神は私達の内にいます。神は人となった言葉です。その御言葉をあなたの内に蓄えて下さい。そして御言葉を語って下さい。そうすればそこに神はいます。私の教えている事はとても単純です。聖書の教えは難しくされてきました。単純に、神はいつも私達と共に働こうとしているのを信じる事が必要です。神は私達と共にいます。毎朝起きた時に、神を探しに行く必要はありません。
古い契約の考え方の本質は、私達は満たされていないというものです。それは、何かがもっと必要であり、何かをもっと得なければならない、私はまだ準備ができていない、という様なものです。私達は満たされていないと考えるのなら、それは古い契約の考え方です。でも、新しい契約の考え方は「私はキリストによって、何でもできるのです」というものです。何でもできるのなら、死人を生き返らせ病人を癒す事も含まれます。新しい契約の考え方は、私は既にキリストにあって全てを持っているというものです。ですから、何故、まだ他に私達に何か加えられる必要があるでしょうか?何故、未だに油注ぎを求めるのでしょうか?新しい契約の下のクリスチャンとして、私達には何か欠けた所があると考える必要はありません。聖書を読む時に、私達はいつも自分自身を次のうちの誰かの立場に置きます。例えば、私達が、イエスが群集の中を歩いて行くのを見ているとします。そこには、イエスと弟子達と病人がいます。もし私達がいつも病気なら、自分自身を病人の立場に置きます。そして、病人が癒される為にしようとする事と同じ事をします。イエスが地上を歩いていた時の人々は、古い契約の下にいました。彼らは、しもべの考えを持っていました。彼らは新しい契約を理解していませんでした。福音書の病人は私達の見本ではないので、病人は私たちの姿ではありません。「誰でもキリストのうちにいるなら、古いものは過ぎ去りました」とありますから、私達は新しく造られた者です。「古いものは過ぎ去り、見よ、全てが新しくなりました。」次の節には「全てのものは神から出たものです」とあります。「全てのもの」とは何でしょうか?それは、「私達の内にある全てのものです。私達が成長する時には、私達はキリストの様になります。キリストが私達の見本です。弟子達は私達の見本ではありません。イエス様を見本にして下さい。イエス様の行った事を見て下さい。そして、彼のしなかった事にも注目して下さい。イエス様は始めに人を集めて「皆さん、並んで下さい。今から手を置いて信仰と油注ぎを与えます」とは言いませんでした。私達はその様にします。もし私達がいつも私たちの進むべき道について語るなら、私たちは前進し続ける事になります。私達がなるべき姿を語るべきです。私達は自分がなるべき姿を知り、それについて語りそのレベルにまで達するべきです。いきなりそのレベルにまで達する事はありません。間違いも犯します。それでも私達は前進し続けます。私達は「頭での知識を得ました。あとは頭の知識が心の知識になる必要があります」と考えます。でも、そうではありません。私達は真理の知識に従って一新された考えと完璧な心を得る必要があります。もし、いつもこの心の声を聞くならば問題は起こりません。問題はこの新しくされた(思考と)心の代わりに、一新されていない考えに従う事です。これは、古い契約の考えの罠です。一新されていない考えは古い契約の考えです。人々は真理の知識があると言いますが、まだ新しい契約に従って一新されていない部分の考えに沿って歩んでいる限り、古い契約の考え方に基づいて歩むのです。人々は頭に知識があると言いますが、それだけではまだ古い契約の考え方、つまり一新されていない考え方に基づいて歩んでいます。
人は、新しい契約の考え方に基づいて考えが一新されていない限り、古い契約の考え方に基づいて歩んでいます。たとえ間違えを犯しても、決して自己卑下をしないで下さい。何故なら、私達にはキリストの考えがあると書いてあるからです(1コリント2:16)。癒しを行うときに、私が人々に、「行って、食べなさい。これをしてみなさい」と言うと、彼らは聞きます。「カリー兄、その言葉は聖霊からですか?それともあなたの言葉ですか?」私の答えはいつも同じです。「はい、そうです。」(笑)それで、彼らは私を見て言います。「私の質問を分かっていません。その言葉を話したのは聖霊ですか?それともあなたですか?」私は答えます。「はい、そうです。」このような答えは、彼らを、特に宗教的な人達を苛立たせます。そして、彼らは言います。「あなたは自分を何様だと思っているんですか?」私は自分が誰であるかを知っています。私は私が誰であるかは関係ありません。でも私は神が造ってくれた自分を知っています。神は私のうちやって来てくれました。私が神に代わって物事を行うときには、私は神の言葉を話す事ができて、それは力を持ちます。まず私達の心が正しくならなければいけません。それから、その心が私達の考えを一新するように教えます。ローマ12:1-3では「この世と調子を合わせてはいけません」と書いてあります。この世に従って、自分を型にはまった人になるようにさせてはいけません。今日の教会を見て下さい。それらの多くはこの世のものを成功の動機としています。神は私達に成功して欲しいと願っています。疑いの余地はありません。成功とは他の誰もできない事をする事です。もし私達が神の御霊を持っているとしたら、私達がイエスのした事ができるはずです。もし、私達がイエスのした事と同じ事ができないなら、どの様にして私達が神の御霊を持っている事を知る事ができるでしょうか?彼は同じ御霊です。ですから、彼と同じ事を行うべきです。聖書が教える通りの事をするのを私達は認識するべきです。聖書は、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ思考の一新によって自分を変えなさい」と言っています。何故でしょうか?それは「神の御心は何か、何が神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知る為に」 です。私達が新生した時には、完全な霊は持っていますが、考えは完全ではありません。考えを聖書の御言葉と一致させる時、神の御心をわきまえ知る事ができます。私達の考えが御言葉と一致するまでは、多くを語るべきではありません。何故なら、御言葉と一致しない事を語ると他の人々を困惑させる事になるからです。ローマ12:1-2は私達がどの様に変えられるかについて言っている事に注目して下さい。それは考えを一新する事によってです。多くの人は新しい目的を決意をし、新しい事に専念する事によって変わろうとします。その様に試みますが、それで私達は変わりません。全てを理路整然とさせようとしますが、それは一新する事ではありません。私達は考えを一新する事によって変わります。考えを御言葉に従って変えて下さい。御言葉をただ記憶する事ではありません。私は文脈に沿って、正確に聖書の御言葉を解釈する事について言っています。私はいつもこの様に教えます。「もし癒しを行いたいなら、大半の教会が教える事と全く反対の事をしなさい。そうすれば聖書の教えている事ともっと近い事を行う事ができます。」多くの教会は神が私達を癒せるようになる為に、まずその人の罪を見つけ、生活の中から取り除く必要があると言います。聖書にはそのような事は書いてありません。私達は生活の中で罪を犯しているべきでしょうか?もちろん、そんなはずはありません。神の御前で、聖く正しく生きているべきです。他の人達をもその様にするよう導くべきです。でも、もし神が私達を用いる前に私達が完璧になる様に待つ必要があったのなら、聖書自体が書かれていなかったはずです。何故なら、聖書に書いてある人々と、聖書を書いた人々は誰一人として完璧ではなかったからです。最初の使徒達でさえも完璧ではありませんでした。ペテロは口の悪い漁師でした。ヤコブとヨハネは天から火を呼んで町を焼き尽くすつもりでした。ユダは盗人でした。トマスは大抵の事を疑いました。私達はよく次の様に考えます。「私達が全ての事を整え全てのものが統一されている時に、全ての事が完璧になった時に、神は現われます。」しかし、全てが完璧な時には、私達には神は必要ありません。全てが問題だらけの時に神が必要です。私達はいつも全ての事を完璧に行おうとします。ペテロを見て下さい。パウロはペテロについて言いました。「あなたはエルサレムからの人達がいない時には、異邦人とも仲良くやっていたが、エルサレムから有名な人達が来ると、いきなりあなたは異邦人達と食事をしなくなる。あなたは偽善者だ。パリサイ人のようなものだ。自分でも人の負えない重荷を人に負わせている。」パウロとバルナバは喧嘩をしました。それは激しいものだったので、結果的に二人が別れる事になりました。使徒的なチームも分裂して、互いに違った方向に向かいました。しかし、神はパウロの手によって素晴らしい奇跡を行いました。議論や喧嘩が起こっていても、神の奇跡は起こります。パウロはコリントの教会の人達に言いました。「あなた方は肉的で、あなた達の間には分裂があります。私はパウロ、私はアポロにつくと言っています。」彼らは肉的でしたが、それでも、聖霊の賜物は働いていました。私達は考えます。「もし私達が十分断食するなら、十分祈るなら、私達が十分霊的になるなら、神は私を用いる事ができます。」しかし神は、肉的で多くの問題を抱えていたコリントの教会の人々も用いました。そこには、一人の自分の父の妻と寝ている人がいました。パウロは言っています。「あなた方の中には、異邦人の中にも見られないような罪があります。」それでも、その罪は聖霊の賜物の働きを止める事はなかったようでした。不思議ではないですか?私達はもし罪があるなら、だめだと考えます。何故ダメだか知っていますか?それは、私達がダメだと信じるからです。私達がだめだと信じる時、思い切って事を行う事ができません。ある人が私に言いました。「私が世界に出て行き多くのたましいを勝ち取る前に、神は私が全てを彼に明け渡す事を願います。」その様な考えをする人は、相当自分が重要であると思っています。その様な人は、他の人々よりも自分が重要だと思っています。それはパウロが言った事とは一致しません。彼は「私は自分の体を打ちたたいて従わせます。それは、私が他の人に福音を述べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならない為です」と言いました。
今日教えられている神学によると、神はパウロをきちんと正すまで、ミニストリーをさせないでしょう。しかし、パウロは「私が正しくあり続けるのは、私自身の責任です」と言いました。何故でしょうか?何故なら、イエスは全ての人の為に死なれたからです。イエスは人々を解放にする為に死なれました。それが、私達が理解しなければならない事です。最近、私は一人の人がこの様に聞いたのを覚えています。「私は異教の人達を救おうと考え、アフリカに行きました。それは彼らが地獄に行くには値しないと思ったからです。」そして彼は続けて言いました。「アフリカに行き、イエス・キリストを証していて、彼らが神を望んでいない事に気が付きました。彼らは神とは一切関わりたくないと思っていました。そして、突然私は思ったのです。彼らは確かに地獄に行くに値する。」それで私はアフリカから帰ってくるつもりでしたが、神が私に話しかけました。「あなたは彼らの魂を勝ち取る必要があります。何故なら、イエスは彼らの為に死に、イエスは彼らが救われるに値するからです。」私達は焦点を間違えてきました。私達はまるで神よりも哀れみがあるように振舞ってきました。私達は自分の子を他の人々が救われる為にいけにえとして捧げていません。あなたの子は人々の罪の為に死ぬ為にこの世にはやって来ませんでした。もし、あなたの子が死んだなら、それは何人分の価値がありますか?その子の死はどれだけの価値がありますか?その子の死は一人の人が救われるだけの価値ですか?あなたは次のように言うと思います。「私の子の死は、全ての人が救われるだけの価値があります。」神もその様な気持ちです。神はご自分の子の命を与えました。それによって全ての人が救われて、全ての人が癒される為です。彼らは癒されれば、本当に神がいる事を知ります。私達は神の慈愛を人々に見せる必要があります。この事に気付く必要があります。神の慈愛が人々を悔い改めに導きます。
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