もう気づいているかもしれませんが、私は肩書きを重要視しません。私が武術をしていた時、十段で黒帯を持っていても路上の喧嘩に勝てない人達がいました。肩書きや帯、階級などは重要ではなく、どの様な実を結ぶ事ができるかです。私の証を少しずつシェアしていきます。何故なら、もし私が実を結ぶ事ができないなら、私の話を聞いていても時間の無駄だからです。私の意図と動機の誤解を避ける為に言っておきます。ある事を学ぶ上で取るべき姿勢は、私達はそれについて何も知らないとして、全てを一から始めるという事です。何故なら、もし既存の考えをもって学ぼうとするなら、いつも「どうして、あれやこれは私が今まで学んだものと一致しないのか?」と疑問を抱くでしょう。もし今まで学んだ事が本当なら、皆さんはこのDHTTのセミナーには来なかったでしょう。何故、このセミナーに来たのでしょうか?私自身は癒しのセミナーには行きません。その理由は私のしている事は結果を出しているからです。私は色々な事を学んでも、何も結果を出せない人達を見てきました。皆さんがここに来たのは、もっと人の役に立つようになりたいと思っている事を証明しています。
さて、食事療法は教会の中で神になってしまいました。人々は神の力に頼って健康でいるよりも食事療法に頼るようになりました。私は、神の癒しを信じないと生きていけないような生活をしています。私はファースト・フードやコーラ、ポテトチップスなどを食べて生活しています。他の人がそれについてどう思うか関係ありません。私の癒しの集会だからです。それを食べていても私は健康です。私に完璧な栄養を取る必要がある等とは言わないで下さい。それに、今日では完璧な栄養をとる事は不可能です。たとえ栄養ある食事をしてもです。私は一度も野菜を食べた事はありません。ジャガイモは食べます。ジャガイモはマッシュしても揚げても焼いてもおいしいです。緑や黄色などの野菜などは健康にいいですが、私は一度も食べた事はないし、食べる気もありません。私がこの様な事を話す理由は、皆さんが信頼するものはいつか期待を裏切る事になるからです。
適度な運動には反対ではありません。私も運動をします。運動が役に立つと信じていますが、運動は訓練の為にしますが、運動をしている人でも突然心臓発作で死んでしまう人もいます。運動するからいつも健康でいるという訳ではありません。食事療法は全ての問題を癒す事はできません。食事療法をしていても栄養失調の病気で死ぬ人もいます。私は神が私を生かしてくれる事を信じます。ちゃんと食べて栄養を取り、運動をするべきである事には賛成します。しかし、これは食事療法のセミナーではありません。私達が食事療法の事について話し出すと、全ての話はそちらに向かってしまいます。確かに、栄養が足りない為に起きる病気もあります。壊血病はビタミンCの不足によって起きます。
他にも栄養が足りない事によって引き起こされる病気はあります。人々は、「栄養の話と病気が悪魔からである事とどう関係があるんですか?」と聞きます。人間の体の滅びと、死や病気は、全て悪魔の分類に入ります。病気であろうと悪霊であろうと、大気汚染や食物などによって引き起こされる害も全て悪魔からのものに分類にされます。ヨハネ10:10
には、「盗人がやってくるのは、盗み、殺し、滅ぼすためである。しかし、私が来たのは羊が命を得、それを豊かに持つためです」とあります。盗人が来るのは、盗み、殺し、滅ぼす為です。私が病気に向かって話す時、全ての病気を悪魔と同じように扱います。人に話しかけるようにそれらに向かって話します。もし皆さんが癌を持っているなら、「悪魔よ。今、去れ!」と私は言います。悪魔の代わりに癌や他の名前で呼ぶ事もできますが、とにかく、私は病気も悪霊も、盗み、殺し、滅ぼす事は悪魔の分類である事を知っています。「効果的に祈る為にはどの様に祈ったら良いか?効果的な癒しをする為には何と言ったら良いか?」と考えるかもしれませんが、何を言うかよりも、誰として言うかの方が重要です。悪霊は、正しい言葉を使うから聞き従うのではありません。悪霊が私達に聞き従うのは、私達の名前が天に記されているからです。彼らが聞き従うのは、私達が誰であって誰と繋がっているかを知る時です。正しい言葉を使うからではありません。
私達は、祈りの正しい型を使って癒しを行いましたが、効果がない事を学びました。時には、型にはめた祈りが上手く働いている様に見えた時もありましたが、多くの場合は失敗しました。ですから、DHTTの教えは、祈りの型についてではありません。一般的な祈りの手段はありますが、祈りの型はありません。その症状や病気が去るように命令するだけです。神に願う事はしません。例えば、誰かが私の前に立って癒してくれるように頼む時には、私は神とは話しません。「彼のうち傷によって私達は癒された」という御言葉があります。「神様、この人を癒す事はあなたの御心ですか?」と聞く必要もありません。全ての人を癒す事や救う事が神の御心です。重要な事は、イエス・キリストにあって私達が誰であるかを知る事です。このセミナーは癒しについてですが、他の癒しの教えとは異なった視点から学びます。それは、私達がキリストにあってどの様な者であるかについての視点です。癒しについて具体的な事柄よりも、私達がキリストにあって誰であるかについてもっと学んでいきます。私が武術を通して学んだのは、見栄えの良い動きはただの見せかけだという事です。実践的で敵を倒し勝利をもたらす動きは、全て基礎的なものです。動きが複雑になればなる程、敵により多くの邪魔する隙を与えます。しかし、動きが単純であればある程、より直接的であればある程、簡単であればある程、より基本的であればある程、素早ければ素早い程、勝率は上がります。癒しについて色々な教えを聞いた事があるかもしれません。しかし、真実はとても単純で基礎的な事です。もし、私たちが悪霊を追い出すのに6時間もかかるなら、私達は使い物にならないでしょう。聖書は、悪霊にカウンセリングをして去らせるようには教えていません。
追い出すように言っています。カウンセリングは弟子訓練をする時です。しかし、弟子訓練が始まるのはその人が自由になった後です。まず、人を自由にしなければいけません。その後で、その人を弟子訓練する方がよっぽど簡単です。一声「悪霊よ!出て行け!」と言うほうが、何時間もカウンセリングをするよりも、よっぽど簡単です。私達も疲労する事はありません。教会が教えている事は、多くの場合、専門家になる事です。クリスチャンは何か専門家として見られようとします。それで私達は学説や~主義などを探求して、それらを学んだので何か重要な者であるかの様に考えます。ただ単純に考えようとはしません。ある時、一人の人が私に頼みました。「私達は神癒技術者訓練(DHTT)に一度参加した事がありますが、もっと上級のDHTTを教えてくれませんか?」私は答えました。「いいですけど、でも、教えはもっと単純になるだけですよ。」聖書は単純です。聖書には、隠された事は多くはありません。人々は言います。「でも、私はその言葉の背後にある隠れた意味を探っています。行間を読もうとしています。」行間には何もありません。多くの人は「聖書の堅い食物について学びましょう」と言います。でも堅い食物は、私達が考えている様なものではありません。堅い食物は深い隠された意味などではありません。多くの人々は聖書の教えをナルシズムに変えました。私達は何か秘密を知らなければならず、その秘密を知っている、秘密のグループの仲間に入らなければならないという様なものです。しかし、そんなものは聖書の教えではありません。
私は普通、教会に招かれて説教をする前には誰とも話しません。その教会で何が起こっているか知りたくないからです。もし何が起こっているか知っていると、その問題について話す事になります。なので、私は集会の前には誰とも話さない事にしました。それで、もし私がその教会で起こっている事について説教の中で話すなら、それは神の御霊によってした事だと分かります。誰かが耳元で、「この問題に対して説教して下さい」と言ったからではないからです。私は私の口から出てくる言葉そのままを話します。これが私の説教の仕方です。そうすれば何も先入観を持たなくて済みます。セミナーの最終日の癒しの聖会の時に、音楽を流す時があります。癒しを行う時にもしワーシップミュージックがあるなら、それはそれで構いません。しかし、音楽は癒しの為に必要不可欠な物ではありません。癒しを行う上で幾つかの事を学ぶ必要がありますが、その内の一つは、癒しの為の雰囲気は必要ないという事です。ある人々は、癒しの為にはそれにふさわしい雰囲気が必要であると言います。もし、癒しにふさわしい雰囲気がその場にあるのなら、それは良い事です。しかし、イエスは、その様なものを必要とはしませんでした。イエスは、ガリラヤを周る時にアメイジング・グレイスの曲を使ってはいませんでした。「皆さん、賛美をして下さい。油注ぎを感じます。癒しの為に雰囲気を作る必要があります。もう少し歌えば、神の御霊が下ると思います。」そんな風にイエスはしませんでした。
ショッピングモールで癒しをしに行く時、お客様用のカウンターに行って癒しのCDを手渡して、「これをかけて下さい。癒しを行う雰囲気を作る為に音楽が必要です」とは言いません。私達自身がその場の雰囲気そのものです。私達がある場所に歩いて入る時、その場の雰囲気が変わるべきです。それは私達がその場所に入る時、自分が誰であるかを知っており、悪霊もそれを知る事になるからです。そして、私たちがその場所で最高の霊的権威を持つので、その場の雰囲気は変わります。実際に、私達がその場所に入ると多くの人々はそこから出て行くでしょう。何故なら、病気や悪霊は私達に捕えられたくないからです。私達は、教会の中で建て上げられてきた人の教えを見てきました。その様な教会の中での伝統の教えに反しても、癒される場合も見てきました。例えば、ある人々は「皆さんが罪を犯す事を辞めて神に立ち返らない限り、神は癒しません」と言います。それは真実ではありません。私達はクリスチャンよりも、罪人の方が早く癒されるのをよく見ます。それはクリスチャンが自分の良い行いに頼るからです。「神様、私は十分の一献金をしました。日曜学校の先生をしました。礼拝に毎週出ています」等です。しかし、それらは癒しとは何の関係もありません。罪人はやって来て「私は何も持っていません。神様、もし私を癒してくれるのなら、あなたが良い神である事を知ります。何故なら、私は癒される値のない者だからです。」そして彼らは癒されます。何故でしょうか?それは誰も癒されるに値しないからです。この事を私達は理解しなければなりません。私達は誰が癒されて、誰が癒されないかを選びません。イエスは言いました。「病人を癒し、死人を蘇らせ、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」誰でもどこでも、いつでもどんな病気でも癒しなさいと言いました。ですから、私達は「神は今この人を癒そうとしているんだろうか?この人の病気は自分で蒔いた種からなのか?」と考える必要はありません。
私はいつも移動しているので家を留守によくしますが、もし私だったら、聖霊に満たされていると主張する、一般的なクリスチャンに警備の為に私の家を見張らせません。もしその様な人に警備をさせて、泥棒がステレオを持って私の家の窓から出てくるのを目撃したとすると、彼が最初にする事は本部に連絡する事でしょう。そしてこう言うでしょう。「こちら現場で警備についている者です。いまカリー・ブレイクの家からステレオを持った男が出てくるのを見ました。私は何をするべきでしょうか?」本部は「あなたは何をするべきだと思いますか?」と尋ねます。そして彼は言います。「まず本部からの許可を待っています。」本部:「あなたは法律の権威を守ると誓いませんでしたか?」彼:「はい、そうです。」本部:「確か法律によると他人のステレオを盗む事は犯罪になりますよね?」彼:「そうですがカリーの事を知っていますか?彼は何かステレオが盗まれるような悪い種を蒔いたかもしれません。」この様な感じになるので、私は一般のクリスチャンに私の家を見張らせません。
法律は言います。「あなたは首です。警備として働くには愚か過ぎます。」さて、もし今日も世代の呪いが真実なら、イエスが歩いた当時も適応されたと思いませんか?では、何故イエスは世代の呪いを扱わなかったのでしょうか?イエスは誰よりも大きな癒しを行いました。イエスには群集がつきまとっていました。群衆が男だけで5千人いた事がありました。私達はクリスチャンであり健康で、病人であるべきではありません。いつも健康で病人を癒しているべきです。私はクリスチャンを癒す為に多くの時間を費やしてきました。私はわざと出て行って病気である罪人を見つける必要がありました。それが、聖書がするように言っている事です。しかし、イエスには2万人の群集が付き従っていました。私が発見した事は、私がセミナーを行う中での人達の90%は癒しを必要としているという事です。クリスチャンでも、そうでなくても同じです。教会でも、教会の外でも同じです。
聖書には5箇所ほどに、「彼は全ての病人を癒された」とあります。例えば、もし2万人の群衆がいてその内の90%が病気なら、病人は1万8千人です。もし病人が1万8千人だったならイエスが彼らを全て癒しました。もし癒される為には病人は信仰を持つ必要があったなら、イエスは世界一運の良い人でした。2万人のうち、1万8千人癒しが必要だったからです。そしてそれら全ての人達が癒されました。その理由は、その1万8千人は癒される為に自分で信仰を持っていたか、イエスは癒しをしるしとして行ったかのどちらかです。それとも、それはたまたま神がその全ての人達を皆癒そうと決めた日だったのでしょうか?そこにいた人達はたまたま世代の呪いを持っていなかったので、いちいち過去の罪を調べる必要が無かったのでしょうか?考えてみて下さい。イエスは世代の呪いについて教えたとか、病人は信仰を持たなければいけないとか、一切扱う事はしませんでした。それなら、私達の場合はそれらを扱う必要はあると思いますか?私達はキリストを代表する者として彼がしなかった事や、言わなかった事について何かを言う権利はありません。ある人は言います。「あなたが癒されるのに十分な信仰を持てたら戻ってきなさい。」しかし、もしその人が癒される為に自分で信仰を持つなら、その人は戻ってくる必要はありません。自分で癒しを受取る事ができるからです。
私はよく人々がこの様に言うのを聞きます。「私にはもっと信仰が必要だと言われました。」イエスは誰にもその様に言いませんでした。彼らに必要だった信仰は、イエスの所に来る事だけでした。それでも人々は言います。「自分の癒しの為に自分で信仰を持たなければません。」本当ですか?ではラザロは信仰を持っていましたか?もし、彼が信仰を持っていたなら癒されていたはずです。死ぬ必要はなかったはずです。彼は信仰を持っていなかったので死にました。誰が、彼が蘇る為の信仰を持っていましたか?イエスです。多くの人は知りませんが、ウィリアム・ブースが救世軍を始めた時には病気が癒されるだけでなく、死人も蘇った記録があります。
救世軍は昔歩んでいた道から少しそれましたが、まだいい仕事をしています。ジョン・ウェスレーのミニストリーでは247の癒しが起こった例が記録されています。彼にはハンクと呼ばれる馬がいました。彼はその馬に乗って何処にでも行きました。彼は馬で4万km走り回りました。ある日、彼の馬が足を怪我しました。馬の為に祈り、馬は癒されました。私はいつも人々にこう言います。「ハンクが癒される為に信仰を持っていたのはよかった事です。」人々は、癒される為にはその病人の信仰が必要だと考えるからです。もちろんハンクは信仰を持っていませんでした。これが私達には大きな責任があると言った理由です。何故なら、癒しの為の信仰を持つ事は癒す者である私達の責任です。病人が他の病人を癒すようにという命令ではないのです。イエスは、もし病人が信仰を持っているなら癒しなさいとは言いませんでした。彼は病人を癒す様に言いました。何故なら、癒しは戦いだからです。癒しは悪魔の仕業を打ち壊す事だからです。私達は他人の為に信仰を持つ事ができます。一度、癒しは戦いだという事を理解すると、癒しはとても単純になります。私達は目の前にいる人をどうこう扱うのではありません。私がこの様に言う意味を理解して下さい。私が病人の前に立つ時には彼らの状況を見て、私の哀れみと愛は彼らに注がれます。そういう意味では彼らは重要です。しかし、癒しとなると私は彼らがいる事も意識しません。私が病人の前に立った時に私が見るのは悪魔です。人に対する気遣いは大事ですが、彼らが何を信じ、何を信じないかは関係ありません。重要な事は悪魔が私に聞き従う事です。何故なら、イエスは彼には悪魔に対しての一切の権威と力が与えられていると言ったからです。イエスは弟子たちに彼の持っていた全ての権威を与えました。彼は2つの事をしました。一つは福音を宣べ伝えるように、そして、全ての悪霊と病気に対する権威と力を与えました。聖書によるとイエスは病気や患いを癒す為の権威と力を与えましたが、それは福音を宣べ伝える目的の為でした。ルカ10:19には蛇やさそりや敵のあらゆる力に打ち勝つ権威があると言っています。
もし私に全ての悪霊に対しての権威があるなら、悪霊は私に従わなければいけません。彼らが誰であるかは関係ありません。彼らが人の内にいるからといって、例外ではありません。彼らは私に従わなければなりません。ある人は言います。「もし、その人がその悪霊を引き留めていたらどうですか?」それでも追い出して下さい。私達はその悪霊を追い出す事ができる事を証明します。ここで言おうとしている事は、その人は自由になるに値する人であるか、その人は本当に自由になる事を望んでいるのかです。皆さんがその人に尋ねるとします。「あなたを自由にした後に、あなたは自由の中に生きますか?」彼は何と答えると思いますか?もし彼が「いいえ、私は再び元の状態に戻っていきます」と答えたとしても、どの様にしてそれが悪霊ではなくてその人が答えたと判断できますか?大半の人は自由になる事について知りません。ある人が「神はある人の足を癒す事はない。その人は癒されたらすぐにクラブにいって酒を飲み、踊るだろうから」と言ったとします。
しかし、神はその様な人でも癒します。私達はどうやって救いを受けましたか?救われた日でも、罪を犯す事を止めませんでした。その後も間違いを犯しています。神は、私達がすぐに罪を犯すのを止めなかったのに私達を救いました。私達が今まで教会で学んだ教えはイエスの教えに基づいて考えてみれば意味が通りません。人々は言います。「もし私達の間に不信仰があるなら、神は働かないので私達は一致を保たなければいけません。」しかし、それはただの言い逃れです。何故なら、イエスはいつも人々の不信仰の中で癒したからです。ある男はイエス達の所まで来て言いました。「主よ、私は信じます。不信仰な私を助けて下さい。」この場合、彼の不信仰にも関わらずその人の子供は癒されました。それでもある人は言います。「でも、イエスは人々の不信仰の為に何一つ力あるわざを行う事ができませんでしたと書いてありませんか?」その聖句の残りはこう言っています。「そこでは何一つ力あるわざを行う事ができず、少数の病人に手を置いて癒されただけであった(マルコ6:5)。」従って、不信仰の人々がいた中でも病人は癒されました。この様に私達が教会で学んできた事は意味が通らない事ばかりです。それらの教えが驚くほど私達を役に立たない人にしてしまいました。私達はそれらの教えを作り出し、神が働く為には全てが整っていないダメだと信じる様になりました。私達は10人祈り1人でも癒されたら興奮します。確かにその癒された人にとっては嬉しい事です。しかし、残りの9人はどうなりますか?イエスは全ての病人を癒しました。私達がイエスのように癒しを行う事ができる様になるまでは、この世にあってイエスを完全に正しく代表する事はできません。私が、どの様にしてDHTTのマニュアルを手に入れたかは話しました。そのマニュアルを勉強して祈り方や信じる事を変えました。それ以来9ヶ月の間、多くの人達が私達の家に定期的に癒しの為にやって来ました。
その中には、プロのビリヤードプレイヤーがいました。彼は水銀の毒から癒されました。その毒の為に、彼はエイズにかかったように見えました。実は、彼を嫌いな人達が彼の飲み物に水銀の毒を入れたのでした。それを飲んでから、4~5年くらいかけて彼は次第に弱っていきました。彼の体は食べ物を保っておく事ができなかったので、彼は一定の食べ物しか食べる事ができませんでした。彼は本当に死人のように青ざめていました。私達が祈っていると彼が来て言いました。「私の為に祈ってくれますか?私はこの病気から癒されたいです。」私は聞きました。「何が問題ですか?」私達はしばらくの間はなして、その水銀の毒について知りました。私は祈る事さえしませんでした。彼に聞きました。「その毒の影響はどのようなものですか?」彼は答えました。「私はほとんど何も食べる事ができません。」私は聞きました。「それなら、もし何でも食べる事ができるとしたら何を食べたいですか?」彼は言いました。「そうですね。バニラミルクシェイクです。」私は彼を見て言いました。「行って、それを飲んで下さい。」彼は言いました。「分かりました。では、さようなら。」彼はその様にして集会の途中で去りました。
それから2週間後に、彼をショッピングセンターで見かけました。彼はちょうどレストランから出てきたところでした。私は言いました。「元気ですか?」彼は答えました。「最高です。何でも食べられるようになりました。」ある人は言うかもしれません。「彼にミルクシェイクを飲みなさいと言ったのは、神の霊が何を言ったらいいか言葉を与えたからです。」いいえ、神は何も言いませんでした。そしたら、「では、何でその様に言ったのですか?」と聞くでしょう。私はスミス・ウィグルスワースの話を覚えていました。それは片足の無い男の人についてでした。ウィグルスワースは彼に言いました。「行って、靴を一足買いなさい。」人々は、ウィグルスワースは気が狂っていると思いました。しかし、この片足の無い男の人は考えました。「彼は神の人なので、言った通りにしよう。」
そこで彼は靴屋に行き、店の人に言いました。「私に合うサイズの靴を見たいのですが、持って来てもらえますか?」その人は彼の足を見ていいました。「何でそんな事をするのですか」片足の無い男は言いました。「いいから、言ったようにしてくれますか?」店の人は靴を持ってきました。彼は足首から下の足はありませんでした。彼がその足を靴に入れた途端に彼の足は伸びて完全な足になりました。何故でしょうか?それは彼が神の人が言葉に従ったからです。その時、神はウィグルスワースに何と言ったらいいか、言いませんでした。それが、私達が理解しなければいけない事です。私達はいつも「これをするように」と言う神の声を聞く必要はありません。それを理解するべきです。もし、神の声を聞くならそれは素晴らしい事ですから、その通りにして下さい。しかし、もし聞かないなら、聖書の言う事を行って下さい。人々はいつも導きを待っています。聖書は私達がいつも導かれていると言っています。ローマ8:14では神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子達ですとあります。御霊に導かれるとは、ギリシャ語では絶えず御霊に導かれるという意味です。この箇所は文脈から外れてよく引用されます。新約聖書は、私達が何かする為には神の導きを待てとは言っていません。聖書は私達が自分自身を聖霊で満たし、そうすれば、神は私達を導くと言っています。私達が御霊に満たされていない限りは、神は私達が導かれているようにする事はできません。私達の仕事は常に聖霊に満たされ続ける事です。それが重要な事です。よく見落とされている事は、ローマの8章は私達が聖霊に導かれた後で外に出て行って、病人を癒すようには言っていないという事です。そうではなく、肉の行いを殺して、御霊に導かれて歩む事について書いてあります。新約聖書の何処にも、聖霊の導きを待ってから人を癒しなさいとは言っていません。新約聖書に基づく理由は、今私達は新しい契約の下にいるからです。私達は新しい契約を持っています。それは以前の契約よりも優れたもので、さらに優れた約束を伴っています。古い契約は私達には適用されません。問題は、ほぼ全てのクリスチャンは新しい契約の考え方ではなくて、古い契約の考え方をしている事です。古い契約に基づいて行動する限り、私達はしもべでしかありません。
しかし、私達が新しい契約の下にある聖徒として行動すれば、神様の子供のように歩む事ができます。種蒔きの法則を信じますか?それは変わる事の無い法則です。私達は自分が蒔くものを刈り取っています。この法則は創世記の頃から存在していた事を知っていましたか?種蒔きの時期と刈り取りの時期についての事です。神はしもべ達を刈り取る為に子供を蒔く事はしませんでした。神は子供達を刈り取る為に子供を蒔きました。聖書にはイエスは多くの子供達を栄光に招き入れると書いてあります。しもべ達ではありません。私達の問題はしもべの考え方をしている事です。いつまでも何を、どこで、いつ、どのようにしたら良いかをするように言われる事を望んでいます。それは子供の考え方ではなく、しもべの考え方です。
ガラテヤ4:7では「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」と書いてあります。何故でしょうか?それは、私達は子供だからです。父なる神は、アバ、父と呼ぶ御子の御霊を私達に遣わして下さいました。ここで問題なのは、私達はしもべになりたがる事です。イエスは言いました。「しもべは主人のする事を知りません。」しかし、神の子はそれを知っていて、そのように行動します。この訓練で学ぶ事は驚くほどの「自由」です。私達はいつも自分が正しいかどうかについて確かめなくてもいいからです。ただ私達が持つ必要があるのは正しい心と正しい動機だけです。
私の父は警察官でした。最近、私は権威について教えました。それは「偉大な信仰の秘訣」についてです。イエスは2人だけを偉大な信仰持った人として賞賛しました。その一人はローマの百人隊長でした。称賛した理由は、百人隊長が権威を理解していたからです。「ただ、お言葉を下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」このローマの百人隊長はイエスの言葉には権威があると信じていました。そしてイエスは「私はこのように偉大な信仰はイスラエルの内にも見た事がありません」と言ったのです。ローマの百人隊長は大半のクリスチャンよりも大きな信仰を持っていた事が分かるでしょうか?私達はイエスが現われてくれるように願っています。「イエス、降りてきて下さい。あなたの栄光を見せて下さい。主よ、力を注いで下さい。現われて下さい。」もし、主が今現われたら「ここで何をしているのですか?」と言うでしょう。イエスが来る時には全ての人の働きを裁きます。主はそれぞれの人の報いを持ってやって来ます。こう言う人達がいます。「私達は祈っています。主が早く来られるように。」それに対して私は言います。「私はその様には祈っていません。」私はこの様に祈ります。「主よ。もう少し待って下さい。まだ病気の人達が、救われていない人達がいます。だから、もう少し待って下さい。」私は携挙をこの地上から逃げ去る為の手段とは見ていません。私達には成すべき仕事が、任務があります。私は、イエスが来る時には準備ができています。マタイの25章21節ではこう言っています。
その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。皆さんは、わずかな物に忠実だったから、私は皆さんにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」イエスが来る時には、忠実な人々を捜しに来るのです。マタイの24:46にはこう書いてあります。「主人が帰って来た時に、その様にしているのを見られるしもべは幸いです。」その様にしている、とは文脈から判断すると、神の働きに忙しくしているという事ですよね?私達は全ての預言の聖書箇所を考慮しなければいけません。私はいつイエスがやって来るか分かりません。何故なら、主はいつ戻って来るとは言いませんでした。主は忙しくしている人達に、忠実な人達に、仕事をしている人達に「よくやった」と言うのです。ジョン・G・レイクは言いました。「人々は私に、よく祈って答えを得てから、走り出しなさいと言いました。しかし、私は神の御霊によって、祈りながら走る事を学びました。」私がミニストリーを始めた時に、ある神の人が、アーカンソー州の山にこもった話を聞きました。彼は小さな山小屋を所有しいて、そこにこもって30日の間断食して祈りました。彼はそこへ神の力を得る為に行ったのでした。この人には神の力が強く働いていました。それで私も「山小屋に行って断食して、聖書をひたすら勉強しよう。私がそこから出てきた時には内側から光を発して浮いて歩くかもしれない。私が戻ってくる時には、神の力に満ちているでしょう」と考えていました。私は山小屋に泊まる準備をしました。しかし、行こうとした時に、神の御霊が話しました。「あなたが山で私を見つけようとしている間に、何人の人達が死ぬ事になりますか?もしあなたがここにいて、人々に手を置く事ができるなら、何人の人が生きる事ができますか?」主は続けて言いました。「実際に、もしあなたがそこに行って私を見つけて帰ってきたとしても、どうやって私をそのまま留めておく事ができるのですか?」それで、私は人々の中で主が生きられないなら、それは正しい教えではない事を理解しました。
どこかの修道院の僧侶になるのは楽な事です。一人で生活して清くある事は簡単です。周りの人達と一緒に生きるからそれは難しいのです。私達が必要なのは、人々の中で働く事です。もし私達が周りから孤立して一人だけなら、何の役に立ちますか?神様との親密な時間は大切です。大半の場合には、私達はそれを言い訳にします。もう一つ皆さんが知るべき事は、私達はもう既に与えられているものを、一生懸命捜しているという事です。「私は力を得る為に祈ります」というかもしれませんが、イエスは聖霊が私達の上に臨む時力を受けますと言いました。聖霊を受けたのなら私達は力を受けました。「でも、力があるようには感じない」と言うかもしれません。しかし、聖書には私達が聖霊を受けた後に「力を感じる」とは書いてありません。御言葉は「力を受けます」とだけ言っています。力を持っているのを感じる事と力を持っているのを知っている事は全く違います。力を持っていると感じる人の大半は、実際には力を持っていません。本当に力を持っていると知っている人は、実際に力をもって歩んでいます。
レスター・サムラルはまさにその様に神の力を知っていた人でした。私は彼から学びました。彼は私達が霊的でいながら実践的でいる事ができる事を教えてくれました。彼は私達は人々の周りにいながら霊的でいて、そして、大半の時間を祈って断食をして過ごす必要はない事を教えてくれました。実際に、新約聖書では主が私達に待てと言ったのはたった一度だけです。「あなたがたは父の約束を受けるまで、エルサレムにとどまりなさい。」これを聞くとある人たちは、「ほら、私達は待つ必要があります」と言います。しかし、もし私達がその言葉に忠実に従うのなら、エルサレムに行ってそこで待たなければいけません。エルサレムまで行かなければいけません。待つように指示されたのはその時だけです。それ以外、イエスはいつも言いました。「出て行きなさい。」しかし、私達はいつも「待ちなさい」に捕らわれています。何故でしょうか?それは、私達は出て行きたくないからです。大半のクリスチャンは勉強に殆どの時間を費やす事を知っていますか?私達はいつも新しい教えを学んでいます。テモテへの手紙で言われているように、私達は学んではいるが決して真の知識には至らない人々になってしまいます。何故でしょう?それは、私達が外には出ないで中でただ学び続ける限り、安全で成長していると考えるからです。私達は言います。「私はまだ準備ができていません。まだ神に成長させられています。」私達は実際に何かをしたがりません。私達は学んだ事を、私達の好きでない人々の周りで実行したくはないので、仲のいい人々とだけ座り、自分を受け入れてくれる人々の周りで学び続けます。学びは必要ですが、それだけで良いという考えが間違いなのです。ある時、私はある教会にいました。ある男の人が入って来て、前列の席に座りました。そして、案内人の人が来て彼を他の場所に移しました。彼がきれいな服を着ていなかったからです。
彼は路上に住んでいる人でした。その教会はテレビの収録をしていたので、彼がカメラに入らないように彼を動かしました。それが、私がその教会にいた最後の時でした。聖書ははっきりと私達は人々を服装によって差別はしてはいけないと書いてあります。彼らは聖書の教えを破っていました。彼は耳が悪かったので近くに座って聞く必要があったのかもしれません。もしかしたら彼が前に座ったのは、宗教的な人達を苛立たせるためだったのかもしれません。もしかしたら神がその人をそこに送ったのかもしれません。私達はなんで今ここにいるのかを理解する必要があります。このDHTTを学んでいるのは、それは皆さん自身の為だけでなく、それは助けを必要としている人達の為です。ある時、私と子供は軍の新兵を募集している人達の側を通りかかり、彼らと話しました。彼らは見栄えのいいパンフレットを持っていました。当時、私達は彼らと同じような事をしようと思っていました。神が腕の良いリクルーターである事に気づいた事はありますか?神は私達に、全ての祝福を約束して下さいます。神はその願いを叶えてくれます。しかし、一旦神の軍隊の中に入ると、「あなたはもう軍にいます。今は、軍があなたに何をして欲しいか指示します」となるのです。
私達の最後の自由意志の選択は、軍に入隊する時の決断だけです。その後は、私達は全ての事を命令されます。選択の余地はありません。これが御国の教えです。私達の最後の意志選択は、私達が「私はイエスを主として受け入れます」といった瞬間まででした。一度彼が私達の主になったら、私達には勝手に振る舞う事はできません。ある人は、「癒しの務めは私のものではありません」というかもしれません。その解決を教えます。新生して下さい!イエスは癒しの務めを持ってはいませんでした。事実、パウロは癒しの務めについては何も言いませんでした。パウロただはこう言いました。「神は私達に和解の務めを与えました。」皆さんも私も癒しの務めではなく、和解の務めを持っています。私は人の霊を神と和解させます。それは救いです。私は人のたましいを神と和解させます。それは解放です。私は人の体を神と和解させます。それは癒しです。これらは全て和解です。もし誰かが私の目の前に来て、「私は助けが必要です」と言うなら、私は聞きます。「問題は何ですか?」もしその人が、「私は霊的な問題を持っているのです」と言うなら、「すみません。私は悪霊を追い出すミニストリーはしないのです。私はただ病気を癒すだけです。でも、~さんなら助ける事ができると思います」とは言いません。イエスは決してその様な事はしませんでした。彼は言いました。「全て求めるものには与えなさい。」私達の仕事は何でしょうか?しいたげられている人達を自由にする事です。一般に、教会は次のように考えます。「私達は癒しを行う為の油注ぎ、悪霊を追い出す為の油注ぎ、死人を蘇らせる為の油注ぎ、或いは、福音を宣べ伝える為の油注ぎを得る必要があります。」しかし、そうではありません。私達にはそれぞれの得意な分野はあるかもしれません。それには何も問題はありません。誰もが癒しを行なう事に問題はありませんが、全ての人が癒しだけしかしないなら、その教会は偏っています。
もし私が癒しだけを教えていたら、それは自動的に偏ったメッセージになってしまいます。しかし、私の教える癒しは悪霊追い出しの為にも働きます。その原則は同じです。私が今教えている癒しの原則は悪霊追い出しにも適用する事ができます。何故なら神の原則はどの領域でも働くからです。だから、私達は癒しと悪霊追い出しを細かく区別して学ぶ必要はありません。イエスは全て同じように行いました。彼は「何をして欲しいのか?私に何をして欲しいのか?」と聞きました。病人は「癒しを受け取りたい」と言いました。イエスは「癒しを受け取りなさい」と答えました。イエスは同じ事を、悪霊を追い出す為にもしました。私も全く同じ事をした事があります。癒しを求めている人々が私のもとに来て言いました、「癒されたいです。」そして私は彼らに「では、皆さんは私が癒す事ができると信じますか?」と聞きました。これ聞くと恐らく大半の人は拒絶反応をします。何故なら人々は「あなたには癒す事はできないけど、イエスはできます」と言うからです。では、何で私の目の前に癒される為にいるんですか?何で神はその人を家にいる時に癒さなかったのですか?何故、わざわざ私の所にまで来たのでしょう?
これは、癒しには人が関わっているという事ですよね。私はこの癒しを行う事ができる理由を「御言葉の従順」と言っています。しかし、多くの人は油注ぎと呼びます。これが私と一般のクリスチャンとの違いです。私は油注ぎを求めません。私は自分を兵士とみなします。私はキリストの為の兵士です。私には果たすべき仕事があります。敵を打ち負かす事です。私の司令官は敵を倒す為の全ての武器を与えてくれました。ある人々は癒す力を油注ぎと呼ぶかもしれません。その力を聞こえの良いように油注ぎと呼んで、何か特別な物の様に考えるかもしれません。私はそんな事は無視して人々を癒す為に専念します。私達は、ベストな礼拝はそこにいる全ての人達が礼拝していると考えます。そして、突然何かが起こり全ての人達が地面に倒れ、そのまま45分間過ぎる様なものです。神の御霊がそうして現われた時には人々は倒れます。それが本当の時もあるし、そうでない事もあります。時にはそれはただの心理的な時もあります。人々は他の人によって感情的、心理的に反応するように駆り立てられます。それが、私達が普段は音楽を使わない理由です。また、私が興奮してメッセージを話さない理由でもあります。私は常に同じように教えます。私はリバイバルを求めません。大半の人が言っているリバイバルは、ただの良い音楽と感情を高ぶらせるようなものが伴った礼拝です。しかし、神の御霊が私に教えてくれた事は聖霊が現われる時はいつも信者と共に働こうとする事です。聖霊は人を通して他の人々を自由にしたいと思っています。それが聖霊の現われる理由です。聖霊は自由の御霊です。もし御霊が現われるなら人々は自由になるはずです。大抵、聖霊が現われた時には人々は地面に倒れます。聖霊は彼らと共に働く準備ができていますが、クリスチャンは床に倒れているので使い物になりません。何故こうなのでしょうか?それは、私達はいつも誰かに祝福を与えるよりは、祝福を受取りたがるからです。私も神の力を感じる時はあります。それは私の神との個人的な交わりの時に起こります。人々は言います。「私達は神の臨在を感じる為には特別な礼拝に行かなければいけません。」
あなたが手を置いた人が倒れるのを見た事がありますか?あなたは倒れなかったと思います。何故ですか?もし神の力が彼らを倒す程に力強いものなら、何で倒れなかったんですか?倒れる事が嘘であると言っているのではありません。私達は、神の力に圧倒されずにそれを保つ事ができる必要があります。大半のクリスチャンはその様なレベルにまで達しません。多くのクリスチャンは力によって倒れるレベルに留まります。彼らは倒れたがります。彼らは祝福されたがります。土曜日の癒しの集会に何人の人がやって来るか分かりませんが、全ての人が癒しの為の祈りを受けます。しかし、私は部屋の隅から隅まで歩いて、その途中にいる人の頭にだけ手を置いて祈る事はしません。私は癒しが必要な全ての人達の為に祈ります。私は、イエスは誰かを癒して、別の人を癒さないとは思いません。しかし、私は、牧師達自身が疲れてしまうので、相手を選ぶのを見てきました。私は神の御霊は何人かだけを癒すとは思いません。
別に彼らが神の御霊を持ってはいないと言っているのではなく、誰を批判している訳でもありません。しかし、私達は成長しなければいけないのです。私は、イエスは癒しの必要な人を残して去ったと考える事ができません。イエスが神の御霊の力を強く感じたので、それに圧倒されて癒しを行い続ける事ができなくなったとは思いません。イエスは人々と普通に話し、普通に癒しを行ったと信じます。イエスは一般的な教会が言う霊的な存在ではなく、おかしな行動もしませんでした。これを理解するべきです。この事実は癒しを行う事を簡単にします。私が癒しを始めた頃は汗をかいて努力しました。祈る時によく力を振り絞りました。今はもうその様な事はしません。私は両手を前方にまっすぐにして彼らの手を取ります。それは祈りながら彼らと話す事ができるからです。私は彼らと話している間に、御霊の命を彼らに向けて流します。多くの人は癒しの油注ぎが病人の内に入っていくのを待っています。しかし、全ての癒しは神の命が病人の内に流れ込むので、病気や死が出て行くのです。十分な御霊の命が彼らの内に入った時に彼らは癒されます。皆さんの仕事は人々に十分な御霊の命が病気や死が追い出すように管の役目をする事です。私は癒しを与えるというよりも命を与えます。命は死に打ち勝つからです。神の命は病気や患いに打ち勝ちます。
癒しは私達が行っていく事によって簡単になっていきます。詳しい事は知る必要はありません。例えば、「どの様にして、この問題は起きましたか?」などです。イエスはそんな事はしませんでした。私も実際に行うまで、癒しを理解できませんでした。このセミナーで学ぶ大半の事は実践するまでは本当に理解できません。それらについて聞く事もできるし、考える事もできるし、分析する事などは幾らでもできます。しかし、私が初めてある人に、「どれくらいの間彼はこの問題を抱えていますか?」と聞いたのは、ある両親が大切な子供を連れてきたからです。私はその状況を見て、心が痛くなりました。私は彼らを見て聞きました。「どれだけの間ですか?」彼らは言いました。「彼が五歳の頃からです。」私はその子供に手を置いて、両親に返して言いました。「この子はもう大丈夫です。」そして、その子は完全に癒されました。神は「彼らに、どれだけの間その問題を持っているのか聞きなさい」とは言いませんでした。私がその様に尋ねたのはその子に対して哀れみを持つ為でした。その悪霊はその子を強く縛っていたので、その霊を追い出す為により強い攻撃態勢に入る為でした。ナインのやもめの事を覚えていますか?人々は死んだ子供を担ぎ出していました。イエスはそのやもめの母親を見て彼女を哀れみました。聖書にはイエスは彼女を可哀そうに思ったと書いてあります。イエスは死んだ子供ではなく母親を可哀そうに思いました。イエスは母親を可哀そうに思ったから子供を生き返らせました。考えてみて下さい。この教えは「蘇ったら、残りの人生をどの様に生きるつもりですか?何故、死んだのですか?何故、この様な病気を持っているのですか?」などの詮索好きな質問は全く無益である事を教えます。
イエスはやもめの女を見て、その子がただ一人の彼女の子である事を見て、彼女を可哀そうに思ったので、子供を蘇らせました。私達は死者を蘇らせるには、正しい言葉や、預言、特別な油注ぎが必要であると考えます。違います。皆さんが必要なのは哀れみだけです。私達は悪霊を追い出す為に、断食をして祈る必要はありません。私は断食も、祈る事もしないで、悪霊を追い出します。私はそれらをしないでも、てんかんの霊を追い出した事があります。でも、人々は言います。「イエスは、この種のものは断食と祈りによってしか追い出せませんと言っています。」しかし、古い写本にはこの箇所はありません。その聖句は、後で付け加えられたものです。それでもある人は言います、「何でそんな事が言えるのですか?」このマタイ9:14-15を見ましょう。「ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。その当時は、イエスはまだ彼らと共にいました。イエスは弟子達に「悪霊を追い出せなかったのは、断食をしなかったからです」と言う事は出来ませんでした。何故なら、イエスは彼らに断食をしなくてもよいと言ったからです。イエスが彼らを曲がった世代と呼んだ時には、イエスは彼らが物事を曲げていると言いました。彼らは何をしていたのでしょうか?「主よ。誰が罪を犯したのですか?その子ですか?その子の父親ですか?」同じような事を私達は今でも言っています。「それは父親の罪ですか?母親の罪ですか?その子の罪ですか?」しかし、イエスは言いました。「どちらでもありません。」この会話が、イエスが世代の呪いについて語った一番近い所でした。彼は言いました。「神のわざがこの人に現われる為です。」私達は、「遣わした方のわざ」を行わなければなりません。イエスは人々を責める事に焦点を当てず、神のわざを成す事に集中していました。人々は言います。「あなたが癒されないのはあなたの罪のせいか、神の御心ではないからです。」イエスは病人を責める事はしませんでした。もし誰かが癒されなければ弟子達を責めました。イエスは唯一宗教的な人々を批判しました。彼らは見えるところは敬虔であっても、その力を否定したからです。イエスの姿勢は今日も全く同じものです。イエスは決して宗教を作る為にこの地上に来ませんでした。イエスが来たのは、聖霊を持って歩む事がどの様なものか、神との関係をもって歩む事がどの様なものかを見せる為にやって来ました。聖書の教えがイスラエルから始まった時には、それは神との関係として始まりました。それがギリシャに渡り哲学になり、ローマに渡り宗教になりました。アメリカに来た時にはビジネスの様になりました。全ての外見だけの飾りを捨てて、私達は神との関係に戻るべきです。人々は宗教が好きです。何故なら、宗教はこぎれいで整理整頓されているからです。ある事柄をある規則に沿ってするなら良しと見なされますが、もしその様な規則に沿ってしないなら問題と見なされます。
しかし、それは人の見方です。私の父は警察官であると言った事を覚えていますか?警官は誤って人を逮捕する事があると教えてくれました。例えばある人が18年の禁固刑を終え、釈放された後にDNA 検査で彼は無罪であると証明され、彼が政府検察を訴えたとします。驚く事は、政府がその賠償金を払うという事です。その人を間違って逮捕した警官はお金を払いません。父は答えました。「もしその警官が正しい情報に基づいてその人を逮捕したなら、その人が無実だと後に証明されても、その警官は咎められる事はない。もしその警官の意図が法の支配を守るものであるなら、彼は咎められる事がない。」私は聞きました。「誰がその様に人々を逮捕する権威を与えるんですか?」彼は答えました。「警官の権威は地元の政府や、法機関からのものではない。彼らの権威は国の司法長官からのものなんだ。彼は国で一番の警官なんだよ。」この事を理解して下さい。新しい契約の中にいる私達にとって、新約聖書に書かれている事が私達の行動の基準です。もし私達が誠実に御霊と御言葉に基づいて人を助ける為に働いているなら、間違いを犯したとしても、神は私達の間違いも修正してくれます。何故なら、方法は間違っていても私達はそれらの事を正しい良心と動機からしているからです。ある大きな集会で人々の為に祈った事があります。その時は、音楽がうるさくて殆ど何も聞こえませんでした。頭痛の問題があると言って来た人がいました。私は頭痛と聞こえましたが、実際には心臓の問題でした。
私は言いました。「イエスの御名によって、今、この頭痛よ、去れ!イエスの御名によって命じる。私はこの人を自由にします。」そかれら、2週間後にその人がやって来て言いました。「私を覚えていますか、祈ってくれましたよね?」私は答えました。「はい、覚えていますよ。確か頭痛の為に祈りましたよね?」彼は言いました。「いえいえ、違います。私の心臓が癒されたんです。」何故、彼は癒されたのでしょうか?それは私の意図した事は、彼が自由になる事だからです。人々は完璧な型を追い求めます。正しい言葉を語り、正しい方法で正しい手段で、完璧でないといけないと考えます。癒しを行う時、人は持っている病気の一つを教えてくれるかもしれませんが、全ての病気や問題を教える事はしません。多くの場合、彼らは自分がどの様な問題を持っているのかも知りません。ある人は恥ずかしくて問題を伝えません。なので、祈る時はできるだけ「包括的」に祈って下さい。必要である時には具体的に祈って下さい。例えば、私は人の手を取り「イエスの御名によって自由になれ。癒されよ」と言います。この様に言えば、たとえその人が10の問題を持っていても、それらを全て言う必要はありません。私が「癒されよ」と言えば、それは全ての問題がなくなり、その人が完全に癒される事を意味します。私は人々が不完全に癒される事にうんざりしました。人々は言います。「私達はこれもあれも打ち負かしました。でも、この問題はまだ残っている。」その様な事が起きるのは、具体的な部分にこだわるからです。私達が具体的になる時、悪魔も具体的になって、正確な言葉を言わないと出て行かないように抵抗します。私達はイエスのように包括的になる必要があります。イエスは単純に「癒されよ」と言いました。
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