では、癒しは贖いに含まれている事を学んでいきます。必要な事は2つだです。一つは、癒しは神の御心であるという事。2つ目は、癒しはキリストによる贖いの中に含まれているという事です。もし、癒しは贖いの中に含まれている事を知っていたら、癒しはいつも神の御心である事が分かります。とても単純です。もし癒しが御心でないなら、神は癒しを贖いの中に含む事によって、全ての人に与える事はしなかったでしょう。贖いの中に含まれているものは何でも、いつも神の御心です。私達は既に贖いの中に含まれているものを神に願う必要はありません。それらのものを神に求める必要はありません。ただ何が贖いに含まれているかを知り、それが現実になるように強く主張する必要があるだけです。サムラル氏はいつも人々に、「これをする必要があります」や「これをして下さい」と伝え、もしある人が「ではその為に祈ってみます」と言うと、サムラル氏は「祈る必要はないです。私はもう祈り、主はそれをしなさいと言いました。行ってそれを行いなさい」と答えました。彼が事を行う時はこの様でした。
私達は聖書より神の御心を知り、一度それを知ればその御心を行います。一度決めたら後戻りする事はしません。スロフェニキア人の女性の話(マルコ7:24-30)を覚えていますか?その女性は悪魔に憑かれた娘を持っていて、イエスの所にやって来ました。しかし、イエスは子犬にパンを与えるのは良くないと言いました。イエスは地上において神の本質の完全な現われでしたので(へブル1:3)、その当時の地上においての神の声でした。彼が言った事は全て神の言葉でした。なので、イエスがその女性に子犬に子供たちのパンを与えるのはよくありませんという言葉により、彼女の願いを拒否した事を意味します。イエスがそう言ったのは理由があります。イエスは、神がアブラハムと結んだ契約を、罪のいけにえと、福音を通して最初にユダヤ人にもたらし、それから異邦人達にもたらす事によって成就しようとしていたからです。それが、イエスが異邦人の所へ行く事ができなくて、弟子達にも「異邦人の道に行ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい(マタイ10:5)」と言った理由でした。これが、イエスはあの時にその女性の願いを拒否した理由です。この事について考えてみて下さい。イエスは地上においての神の声であって、その神の声が彼女の願いに否と言いました。もし今の大半のクリスチャン達が彼女の立場であったら、恐らく、「神が否というなら仕方がない、それが神の御心です」と諦めるでしょう。そして、振り返って去って行った事でしょう。しかし、彼女はその様にはしませんでした。代わりに彼女は、「その通りです。しかし、子犬でさえもパンくずは頂きます」と言いました。それは彼女が、「あなたは否と言いますが、私は娘が癒されるまでは去りません」と言った事と同じです。そうですよね?つまり、彼女はイエスの言った事と反対の事を言いました。
彼女は「あなたは否と言いますが、私は娘を癒してもらいます」と言いました。これについて考えてみて下さい。彼女は、「私は神の言葉の否を否として受取りません。神の言葉を否としては受取りません。私はその否を答えとしては受取りません」と言いました。そしてイエスは、「女よ、あなたの信仰は偉大です」と賞賛しました。何故でしょうか?彼女は否と言う事によって、偉大な信仰を持ちました。多くの人は、病気や患いに苦しむ事によって偉大な信仰を持つと考えます。ある人達は、祈っても癒されなかった経験を理由に、病気や患いといった苦しみに耐える事が偉大な信仰であると考えます。祈っても癒しが起きないので、それが神の御心だと考えるのは大した高慢です。また、ある人が悪霊を息子から追い出してもらう為に、弟子達の所に来た話を覚えていますか(マタイ17:14-20)?しかし、弟子達はその子から悪霊を追い出す事はできませんでした。イエスは「その子を私のもとへ連れてきなさい」と言いました。そして、イエスはその子から悪霊を追い出して、その子を癒しました。これより癒しは神の御心であった事が分かります。弟子達はその子を癒す事はできませんでしたよね?ですから、祈っても癒しが起きないからと言ってそれが神の御心であると言う事はできません。
時には癒される為に戦い、何でもする必要があります。私達と癒しの実現との間に割って入ってくる様な、その約束の成就を邪魔しようとする問題を取り除こうとする時、「否」を答えとして受け入れない姿勢を持つ事が必要です。福音書の時代は理由があってイエスは「否」と言わなければなりませんでした。しかし、今は違います。神はキリストの贖いに含まれている約束には「否」と言う事はできません。キリストにあっての全ての約束は「しかり」です(IIコリント1:20)。「否」はありません。「待て」もありません。「待て」と言うのは悪魔だけです。何故なら、悪魔は人々を待たせば、彼らは大抵諦める事を知っているからです。なので、何でも神の約束に「否」というものは、それは神からのものではありません。ある人は、「では、どの様にして神の約束だと知る事ができるのですか?」と尋ねます。それが贖いの中に含まれているなら、それは神の約束です。ある人が電話で、「カリー兄弟、~に来てくれませんか?神癒技術者訓練を行ってくれませんか?その為に祈って下さい」と言うと、私は答えます。「いいえ、私は祈りません。私は祈らずに行きます。」人々はそれに対して言います。「祈らなくても大丈夫ですか?」私は言います。「はい、大丈夫です。行きます。」それでも彼らは言います。「でも、祈ってみたらどうですか?」私は答えます。「聖書には全世界に出て行けと書いてありますが、あなたが招いてくれた所には、私はまだ行った事はないので、今招かれるなら行きます。もし私が自分から行くなら、私がその費用を払います。招いてくれるなら、あなたが払って下さい。あなたが私を招いたのなら行かない事があるでしょうか?それはあまり意味が通りません。」この様に私の人生は祝福されています。私は全世界に出て行く事ができます。通常は彼らが私の為にお金を払ってくれます。それに多くの良い証を得る事ができます。
最近、私は妻と車でカンザス州にある高速道路70号線を走っていました。そこで「カンザス州、ドッジ市、出口まで7マイル」という看板を見ました。私はその看板を見て言いました。「あの看板が見える?」彼女は言いました。「見えますよ。」私は言いました。「あそこにある道はドッジ市に繋がっています。」彼女は答えました。「そうですね。」私は言いました。「ドッジ市で何が起きたか知ってる?」彼女は言いました。「何ですか?」そして、彼女に様々な証を伝え始めました。すると彼女は言いました。「その証はもう知っています。」私は言いました。「それでもいいよ。素晴らしい証だから。それが好きなんだ。」そして私は同じ証しをしました。それから、彼女に言いました。「殆どの高速道路を知っているから、地図は必要ないよ。どの州の高速道路でも私は証しを語る事ができる。あの道を行き、その出口を出てこの町に行き、そこで足の曲がった子供が癒されました。そこの町に行けば、そこでは癌を持っていた人が癒されました。」そんな風に私は証を話す事ができます。どの州でも、どの高速道路でも証を思い出せないような所などないと思います。私は最高の人生を歩んでいます。ですから、電話が来て、「来てくれませんか?」と頼まれれば、私達は行きます。私は聖書に書いてある事ならいちいち祈りません。ただそれを行います。しかし、いつそこに行くかなど計画を立てる事については祈るかもしれません。行く事については祈る事はしません。私は何処に行こうと気にしません。どの州であろうと、モーテルは何処も同じです。今泊まっているホテルは古い建物なので好きです。私達が車で移動していて、自分で費用を払う時にはモーテル6によく泊まります。私は床で寝ようが気にしません。重要なのは私達のしている事です。私達が何処で寝ようが、何を食べようが、誰の周りにいようが、大切な事は何が達成されるかです。
では、神の癒しは贖いに含まれている事について見ていきます。セッション3、24ページです。まず、罪も病気も同じ木からの2つの実です。癒しに関しての問題の一つはそれらを分け離そうとする事です。それらは同じ死という源を持っています。その死から枝が出て、そのうちの一つは罪になり、もう片方は病気になります。単純ですね。そして、死のカテゴリーに属するものは何でもサタンのカテゴリーに入ります。ですから、私達は罪も病気も打ち負かし、打ち壊し、追い出します。聖書では、罪や病気はいつも対になって書かれているのを見つける事ができます。詩篇103篇の2節にはこう書いてあります。「わが魂よ。主をほめたたえよ。主の良くして下さった事を何一つ忘れるな。主は、あなたの全ての咎を赦し、あなたの全ての病を癒し、あなたの命を穴から贖い、あなたに、恵みと憐みとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」6節にはこう書いてあります。「主は全て虐げられている人々の為に、正義と裁きを行われる。」詩篇103篇の2節、「わが魂よ。主をほめたたえよ。主の良くして下さった事を何一つ忘れるな」と書いてあります。これを簡単に言うと、「神のしてくれた良い事をどれも忘れるな」です。
3節はその良い事が何であるかについて書いてあります。「主は、あなたの全ての咎を赦し」神はどれだけの私達の咎を赦して下さいましたか?全てです。神の赦さなかった咎はありますか?ありません。私達は神の赦さなかった咎の為に罰を受けなければなりません。そうですよね?しかし、もしイエスが私達の咎を負ってくれたなら、私達はそれらの為に罰を受ける必要はありません。次に「あなたの全ての病を癒し」とあります。神の癒さなかった病気はありますか?ありません。イエスの負われなかった病気は、何でも私達が負わなければなりません。神が全ての病気を癒されなかったなら、この聖書の言葉は真実ではない事になります。もし神が私達の全ての病気を癒されなかったと考えるなら、どうして神が私達の咎を全て赦して下さったと考える事ができるでしょうか?咎の赦しと病の癒しが同じ聖句の中に書いてあります。私達は決断をしなければいけません。神はそれら2つの事を全てなさったか、全くしなさらなかったかです。この様に私達が白黒と絶対的な考え方をし始めると、それが神の考え方であると分かってきます。神はえこひいきな考え方はしません(ローマ2:11)。
神について理解するべき事は、神は完全であって、私達も完全である為には絶対的な考え方をして、その様に行動しなければならないという事です。驚くべき事は、神は人と共に働くという事です(Iコリント3:9、2コリント6:1)。神は完全であり、完全である事を要求します(マタイ5:48)。神は、人間は完全でない事を知っていたので、その不完全さに解決策を与えて下さいました。その解決策によって、私達が自分の不完全さにあって間違いを犯しても、神はそれを修正され、その瞬間から、私達は再び完全な者として神と共に働く事ができます。それで、神が私達の為に解決策を与えなければなりませんでした。それは、神はいつも私達に完全さを要求しなければならないからです。もし神が私達に完全さを要求しないなら、それは完全である神の性質に反するものです。分かりますか?ですから、神は自身が完全である為に、私達にも完全さを期待しなければいけません。そして完全な事を語ります。人々はよく言います。「新約聖書ではイエスは信仰から離れて堕落していく人々の事について殆ど言及しませんでした。」それは、神はとても楽天家だからです。神は人が一度素晴らしい神の約束を受けたら、誰がそれから離れたいと思うかと考えるからです。そうですよね?その約束からは普通なら誰も離れたいとは思いません。神は私達が間違いを犯した時の為に解決策を与えました。しかし、神は完全さを要求しなければいけませんでした。神は私達が完全な者として歩む事を期待しなければなりませんでした。もし私達が罪を犯したなら、私達には父の前で弁護する方がいます(Iヨハネ2:1)。ですから、私達は罪を犯しても完全さに戻る道が与えられています。私達が人生を歩む中で間違いを犯しても、神は私達を完全な者として扱う事ができます。それは私達の不完全さにも関わらず、神が私達を通して人々を助け続ける事ができる完璧なシステムです。
私達が間違いを犯して、「神様、立ち直る少し時間を下さい」と言う時、「いいえ、あなたはもう終わりです」と神は言わず、私達に立ち直る時間を与えて下さいます。「どの様な生き方をしても良い」というのが恵みではありません。恵みは「私達が好き勝手にして生きても良い」というものではありません。恵みとは「私達に神に立ち返る時間がある」というものです。それが恵みです。言い換えると、「あなたが間違いを犯しても、その為にあなたを責めて批判する事はしません。今は、正しく立ち直る時間を与えます」という様なものです。
6節を見て下さい。「主は全て虐げられている人々の為に、正義と裁きを行われる。」裁判について少し話しましょう。2種類の裁判、裁判官による裁判と陪審員による裁判があります。私達は陪審員による裁判を飛ばして、直接裁判官による裁判を受ける事ができます。そして、裁判官は申し立てを聞き判決を下して、私達の運命が決まります。法廷では原告と被告がいます。被告は申し立てを受けた人です。原告は申し立てをする人です。私達が聖書を読む時には、聖書は法律的な視点から書かれている事に気がつきます。聖書がどれだけ司法的であるかは驚くべきものです。私達がこの地上の司法制度に従って、法廷に入るとします。例えば、私達が陪審員による裁判を飛ばして裁判官の前に立つとします。裁判官は両者の申し立てを聞きます。原告は私達を非難します。そしてある時点で、弁護する人である弁護士が立ち上がって、何故罰を受けるべきでないか、有罪に定められるべきでない理由を説明します。ここで聖書との関連が見えますか?そして、裁判官は、「それでは判決を下します」と言います。そして、小さなハンマーのような物を手にして、数回机を叩いて言います。「静粛に、では判決を下します。この法廷は・・・」何故、「この法廷」なのでしょうか?それは、彼は法廷を代表するからです。その法廷は彼の権威です。彼は言います。「この法廷は被告に賛成します。」では、もし彼がその様に言うなら、それはどういう意味でしょうか?被告の正当さは証明されて自由になりました。また、裁判官はこの様に言う事もできます。「私達は被告の為に裁きを言い渡します。」では、彼が被告の為に裁きを言い渡すとはどのような意味でしょうか?被告が勝った事ですよね?裁判官は「私達は原告に反対して裁きを言い渡します」とは言いませんでした。それに気がつきましたか?裁判官は決してその様には言いませんでした。彼は、「私はあなたに反対して判定を下します」とは言いませんでした。彼は「あなたの為に判定を下します」と言いました。そうですよね?原告であろうと被告であろうと、彼はその人の為に判定を下します。彼は、「彼らに反対して判定を決めません」と言い、私は、「あなたの為に判定を下します」と言います。神はこの法廷の例と同じように裁きを下します。これが、神がこの6節の聖句でした事です。イエスは黄金律に従って生きられました。その法則を宣べ伝え、それによって生きられました。もちろん、時には御霊はイエスに特定の事をするように導いた時もありました。
しかし、私達が「導かれる」という言葉を調べると、新約聖書ではその言葉は2か3回しか使われていません。Iコリント人への手紙には偶像や神でない神々に導かれる事について書いてあります(Iコリント12:1)。しかし、私が話しているのは聖霊によって導かれる事についてです。マタイの福音書では、イエスは誘惑に遭われる為に聖霊に導かれて荒野に行かれた、と書いてあります(マタイ4:1)。しかし、私達にはその様な導きは必要ありません。私達は勝手に誘惑に遭う為に荒野への道を見つけてしまう事ができます。それが、イエスが誘惑に遭わないように神に祈りなさいと言った理由です。それは、もし私達が誘惑に遭う時には、誘惑に導くのは神でないのが分かる為です(ヤコブ1:13-15)。
それ以外で、「導かれる」と聖書に書いてあるのはローマ8章14節です。こう書いてあります。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」導かれる事について、聖書には聖霊に導かれた事例があります。イエスも御霊に導かれて特定の事を行った事も書いてあります。でも、その時の導きは私達が考える様なもの、常にあれやこれをする様に導くものではありませんでした。何故なら、その様な導きにより歩むなら、行動の責任は全て導いた人が取る事になるからです。それなら、導かれた人の徳も信仰も何も必要になりません。私達は何か気ままな感情や気持ちではなく、神の性質に導かれる事を学ぶべきです。いいですか?人々が気ままな感情に従う時には、大抵その人は肉の思いに従います。彼らはこう言います。「イエスを証するようには感じません。今夜は、神は私がイエスを証するように導いてはいません。私はここからあなた達全ての為に祈っています。」分かりますか?私達はこんな態度を受け入れるようになって来てしまいました。その原因は、私達は神の言葉と一致する神の御霊による導きではなく、気ままな感情によって導かれる事が導きであるという考えを受け入れてしまって来たからです。神の言葉と御霊は一つなので互いに一致します(ヨハネ6:63、KJV 1ヨハネ5:7)。
聖書が何かをするように言っているなら、御霊がそれをしないように導いていると私達は言う事はできません。もし私達がそう言うなら、私達は他の霊に導かれている事になります。聖書の言葉と聖霊は一致します。もし、導かれている事が分からなかったり、導かれようと葛藤していたりするのなら、ただ聖書を読んで、そこに書かれている事を行って下さい。聖書の言葉を行うなら、導かれている事が分かります。どうしてでしょうか?それは神の御霊を持っていなければ、御言葉を行わないからです。前にも説明したように、人が私に、「それはあなたが語っているのですか?それとも、神の御霊ですか?」と尋ねられる時には私はこう答えます。「はい、そうです。」その答えを聞くと彼らは苛立ちます。ピリピ4:13には、「神は御心のままに、あなた方のうちに働いて志を立てさせ、事を行わせて下さるのです」と書いてあります。私達が新しい契約の教えに基づく行いをしたいと考える時には、それは神の御霊がそれらを行うように導いています。分かりますか?
それは私達ではありません。私達の思いが神の言葉に従って一新される程、神の言葉を行いたいと願うようになります。それは私達の自己が小さくなり、神の御言葉に対して議論しなくなるからです。ですから、私達の考え方が神の言葉と一致すればする程、私達の考え方は神の言葉に従って一新されます。古い自分の考え方は少なくなり、私達は御言葉と一致してきます。キリストの様になればなる程、神の御霊は私達を導き易くなります。これは聖書の言葉を行う事により起きます。「神は、御心のままに、あなた方のうちに働いて志を立てさせ、事を行わせて下さるのです」と書いてあるように、私達に意志とそれを成し遂げる能力を与えてくれます。神は私達に意志を与えておいて、それを成し遂げる為の能力を与えないでおく事は決してありません。何故なら、もし意志だけ与えるなら、ひどい挫折感を引き起こす事になるだけだからです。
私達は、よく自分の子供に彼らは何でも成し遂げる事ができると言います。そして彼らに、「大きくなったら、あなたはこんな事、あんな事ができるよ」と伝えます。しかし、彼らが成長すると最終的には「いや、そんな事はあなたにはできないよ」と言います。それは彼らに挫折感を与えるだけですが、神はそうではありません。神は聖書の御言葉を読んで、ご自分が誰であるかを見つけて、その様に歩みなさいと言われます。そして、この聖書に書いてある事は何でも行う事ができます。私達は本当にその通りである事を知っています。過去に、神がある事をする様に導いてくれた時がありました。その瞬間は本当に神からであるか半信半疑です。後で振り返ると神であった事が分かります。私が今までしてきた事は、聖書を勉強して、神の御心を神の御言葉に見つけて、出て行ってそれを行いました。その時にはいつも、「これはただ単に私が願っているだけの事かもしれない」という思いがありました。しかし、私は出て行ってそれを行いました。そして、それらは実を結んできました。ただ、私達は全ての事を成功に基づいて考える事はできません。聖書には私達が福音を宣べ伝えに行く町々で、ある人々は私達を受け入れないでしょうと書いてあります(マタイ10:14、ルカ10:10)。ある町は私達を受け入れないかもしれません。現代の神学は小綺麗な考え方をします。それは、私達がある町に行き、多くのしるしや奇蹟を伴って多くの群集を救いに導いて成功するべきであるという様なものです。しかし、私達を受け入れない町もあります。私達が全世界に出て行くという神の御心に従って、ある町に行ってそこで神の御心を行ったとしても、町の人々はなおも神の御心を行わない場合があります。彼らは福音を受け入れません。彼らが福音を受け入れないのを見てその町を去る時に、よく私達は、「私は失敗しました。多くの人は集会に来なかったし、しるしや奇蹟も起きませんでした」と考えます。そうではありません。その人々が福音を受け入れなかったのです。たとえ人々が福音を受け入れないとしても、私達は聖書に従って、しるしや奇蹟を行い彼らに神の国が来た事を証明するべきです。
町々がイエスを受け入れなかった時には、「もし他の町々がお前達の間で起こった力あるわざを見たなら彼らは悔い改めたであろう」と言いました(ルカ10:13-15)。そうですよね?福音を受け入れなかった人々は、神による明らかなしるしや奇蹟を見たにもかかわらず福音を受け入れませんでした。それが、彼らが罪に定められる理由です。彼らは、神のしるしや奇蹟を見て、神が明らかにそこにいる事を目の当たりにしました。しかし、神の国がそこにある事を見たのに、神の国は証明されたのに、彼らは神を受け入れませんでした。彼らに弁解の余地はありません。しかし、私達が福音をしるしと奇蹟を伴ってくまなく宣べ伝えるまで(ローマ15:19)、彼らは、「私達は神がいるか確信できませんでした。何故なら、先週エホバの証人達がやって来て、彼らも神から遣わされたと話していました。彼らもしるしも奇蹟も行いませんでした。なぜ、彼らよりもあなた達を信じなければならないのですか?彼らの方が聖書の御言葉を良く知っていました」と言い訳をする理由があります。
ですから、私達は神が私達と共にいるという事を証明できなければいけません。聖書ではいつも誰かが神が共にいると認められる理由は、その人の人生の中で起きるしるしと奇蹟です。そうですよね?私達は否応なしに、その事実を変える事はできません。私もただ聖書の真理を伝えているだけです。では、詩篇103篇6節の法廷の制度の話しに戻ります。その法廷の制度では判事は被告の為に裁きを言い渡します。裁きを言い渡す時には、それは勝利した側の為に裁きを言い渡すという事です。彼らは自由な人としてその法廷から出て行きます。6節に戻ります。「主は全て虐げられている人々の為に、正義と裁きを行われる。」この聖書箇所は真実ですか?そこに書いてある事は、そのままの事を意味します。何も深く隠された意味はありません。この聖句には、「神は全ての虐げられている者の為に裁きを行われる」と書いてあります。数人だけの為ではありません。全ての人の為にです。イエスは聖書を知っていたと思いますか?恐らくそうですよね?イエスは肉となった言葉でした(ヨハネ1:14)。ですから、イエスは御言葉についてよく知っていたと思います。実際に、イエスは人々が聖書を書くのを聖霊によって助けられました。ですから、イエスが聖書なら、詩篇を知っていたはずです。イエスいつも詩篇から聖句を引用されました。イエスは詩篇103章も知っていたので、次に説明していくような歩みをしました。使徒の働き10章38節にはこう書いてあります。「それは、ナザレのイエスの事です。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられている全ての者を癒やされました。」イエスは誰を癒しましたか?イエスの癒した全ての人達は、悪魔に虐げられた人でした。そうですよね?父なる神ではなく、悪魔が虐げる者です。悪魔が病気や患いをもたらす者です。天にいる父ではありません。でもある人は言います。「でも、旧約聖書には神があれや、これや色々なものを下したと書いてあります。」
しかし、ヘブル語を見てみると、「私はあなたにこの様なものをもたらします。私はあなたの間にこの様な事を引き起こします」と言う時には、神は実際には、「私はあなた達の間に種蒔きの法則を働かせます」と意味していました。神は、古い契約の下では、人を堕落した者としてしか扱う事ができなかった事を覚えていますか?でも、新しい契約の下では、神は人を本当に彼が願うように扱う事ができます。新しい契約には存在しない障害が古い契約の下では、神と人との間にありました。古い契約下では人々が律法を破ったなら、彼らはその結果を刈り取りました。それは種蒔きの法則です。彼らが古い契約を破りその外に出るなら、その違反の罰を受けました。そうですよね?神はその様な罰を毎回彼らの上に下す必要はありませんでした。神は違反を犯した人は自動的に罰を受けるように律法を確立しました。それでもある人々は、「判事が私を牢屋に入れました」と言います。それは違います。自分で罪を犯して、自分で自分を牢屋に入れる事にしたからです。判事がする事はただ犯罪の上に適当な判決を下すだけです。もちろん、人間の判事は時には間違いを犯してしまう事があるかもしれません。今だけは完璧な世界を仮定して話しています。神は誰も地獄に送る事はしません。そうですよね?人々が福音を拒否する事によって、悔い改める事を拒否する事によって、罪の中に歩む事によって自分で地獄を選びます。同じように、神は私達に病気やわずらいを与える事はしません。病気になる理由は、多くの場合、種蒔きの法則によります。何故なら、病気は様々なものがありますが、大半の場合、種蒔きの法則や私達の生活習慣などによって引き起こされます。
私がダラスにいた頃に、テレビ番組に出演しました。番組の終わりに、それまでした事のない事をしました。番組の人も驚いていました。その番組の終わりに、彼らは私に訊きました。「聴衆たちの為に祈りますか?」私は答えました。「もちろんです。」そして、私はテレビカメラに向かって言いました。「あなたが何処に住んでいても、ダラスの周りにいるなら、今このテレビ局に電話して、名前と住所を私達に教えてくれるなら、私は家まで行ってあなたの為に祈ります。」それを聞いた彼らの驚いた顔を忘れる事ができません。彼らは、「信じられない」というような感じでした。その後30分間の間に彼らは何千もの電話を受けました。その後、6週間の間、私は一人で毎日家々を周って、人々の為に祈って周りました。大抵、一人の人から電話を受けましたが着く頃には20人位の人が集まっていました。私が来る事を知って集まって来たからです。それは素晴らしい6週間でした。私は家々を周る事が好きです。その6週間の間にある女性の家を訪れました。彼女の家に着いた時には、多くの人達が集まっていました。彼女は肺気腫を患っていました。それは彼女が喫煙していた為でした。大半の病気は自分で自分自身にもたらされるものです。そのうち、幾らかのものは過度による心配やストレスによって引き起こされるものです。ストレスに長い間さらされると私達の身体的な免疫システムは弱り、病気になります。心配は罪です。いいですか。
イエスに思い煩いを一切委ねて、心配しないで下さい(Iペテロ5:7)。私はそれを学びました。私は今まで人生の中で持っていた財産の全てを3度失いました。全てをです。ある時、フロリダ州のペンサコーラにいました。全ての所有物が車の中にありました。それが私の持っていた全ての物でしたが、その全てを失いました。その車は何かの理由で牽引されてしまい、戻った時には全てがなくなっていました。その様な事が3度私の人生で起きました。それで、私が得た教訓は何か分かりますか?それは、私はその3度も生き延びた事です。私はどこにいても、いつも生き延びます。誰が私に何をしようとも、私は勝利します。それだけです。何故でしょうか?何故なら私は諦めないからです。いつか他の人々は諦めます。私は勝利します。私達が一度この様な姿勢を見につけ、「全てのものは神から来るのであり、神が共にいる」という確信を得れば、世界中の何処に行っても繁栄します。もしかしたら、いつもとは違うものを食べなければいけないかもしれません。しかし、私は繁栄します。何故なら、神が私と共にいるからです。神が共にいて神に対して信仰を持っているなら、誰もあなたを止める事はできません。悪魔も、病気も、貧困も、お金も、何も私達を止める事はできません。私は収入の大きさに従っては生きません。ただ必要に応じて事を行います。時には快適な経験もします。今回のように旅をする時には特にそうです。
要点は、何が起きようと私は前に進み続けるという事です。誰も私を負かす事はできません。私達はこの事を学ばなければいけません。これは単なる心構えではありません。誰でも心構えだけなら持つ事はできます。人々はその様な信仰は気持ちが高まる事だと考えますが、そうではありません。信仰は気持ちが高まる事ではなく、落ち着く事です。神にあって落ち着く時に、私達は、「何が起きようと、嵐や、暴風や、洪水や、火や、何が起きようと、関係ありません。全てが終わった時には、私はまだこの岩の上に立っています」と宣言できるでしょう。パウロはどんな状況にいようと満足するように言いました。でも彼は、「もしあなたが病気を抱えているなら、それを受け入れて、満足しなさい」とは言いませんでした。彼は、「私は裕福でもあったし、貧困の中にもいました、卑しめられた事もありました。しかし、私は富んでいます。良い事も、悪い事にも遭いました。しかし、私は全ての中にあって、神は私と共にいる事を知りました。ですから、私は何が起きようと、それを克服します」と言いました(ピリピ4:10-13)。この様な心構え、つまり、神がいつも私達と共にいるという事を悟れば、何も私達を止める事はできません。私達が一度その様な心構えを身に着けるなら、それは素晴らしい事です。生きるか死ぬかは関係ありません。そんな事は気にしません。使徒パウロはその様な心構えを持っていました。パウロが教会に次のように書いた事を信じる事ができますか?彼は、「聞いて下さい。私は今このまま死んで、主と共になろうかと思っています。しかし、あなた達は私を必要としていると思うので、このまま生きようかと思います」と書きました(ピリピ1:21-25)。
彼はこの様な事を手紙に書いている時には、牢屋につながれていました。その時パウロは打ち首になる直前でした。ローマの兵達はパウロを打ち首にする事を話している時にパウロは座って、「少し考えさせて下さい。今この地上を去る必要はあるだろうか?私はもう去りたいけど、まだ私を必要としている人がいるので、まだ生きて地上に留まる事にします」というように考えました。恐らく兵士達は、「この男は気が狂っている。彼は自分がここで全てを仕切っていると考えている」と考えていた事でしょう。事実、パウロは全てを仕切っていた事に気が付きませんでした。伝統によると、パウロは全てを成し遂げた後には首をはねられたと書いてあります。それは素早くこの世を去るには良い手段です。他の多くの人々は拷問のような、もっとひどい死に方をした事を私達は知っています。私達がヘブル書を読み、信仰の勇士達について話すなら、彼らの何人かはのこぎりや剣で殺されたりしました。ある箇所では、彼らは釈放される事を願わないで、さらに優れたよみがえりの為に拷問を受けたとも書いてあります。これがどういう意味か分かりますか?それは、彼らは自由になる事はできたけれども、あえてそれを選ばなかったという事です。何故でしょうか?それは書いてある通りに、彼らは優れたよみがえりを得る事を望んだからです(ヘブル11:33-39)。彼らの持っていた考え方について考えてみて下さい。彼らは、「もし私が神に願うなら神は私を救い出してくれます。でも、今ここで死ねばより優れたよみがえりを得る事ができます。なので、敵にベストを尽くさせましょう」と考えました。彼らはこの様な考え方を持って生きていました。
この様な心構えは現代の教会には欠けています。それが、私が一昔前の人達の書いた本などを読むのが好きな理由です。多くの神学者は実質的なものに欠けています。昔の信仰者達が書いたものを読むと、それは私達の心を掴むものがあります。レイク氏の書物を読むと、その中には何か実際に人生で体験する事によってしか得られないような真理を見る事ができます。それが違いです。誰でも説教はできます。大半の説教は既に誰かが説教した事を繰り返しただけのものです。私達は彼らの説教している事を聞いて、それは素晴らしい教えだと思います。それは違います。大半の場合、ある一人の人がその事を説教して、その次の週にはそれを聞いた人達が同じ事について説教します。しかし、彼らは啓示を持っていません。彼らは真にその教えを理解しません。彼らはただその説教を聞いて、「これはいい話だ。献金を募る事ができるだろう」と考えて、それを説教するだけです。彼らは実質的なものを持っていません。私達が語る事を実践して生きる時には、その言葉には説得力が伴います。たとえそれを聞いた人達には、それが今まで学んできた事に反対する事であったとしても真実だと分かります。それがこの教えを聞いた事のない人達が体験している事だと思います。それがこの教えを聞いている間に、「これは私が今まで学んできた事とは違う。今まで教えられてきたものに全く反対するものだ」と考える理由です。そして頭の中ではこう反論します。「いや、そうでもないかも。」
しかし、あなたの霊は言います。「そうです。それは聖書の教えです。」すると頭の中で「この聖書箇所はこれと一致して、これを意味して…」という感じで考え始めると思います。何故なら、私は聖書の言葉を間違って解釈していないからです。ですから、他で学んだ教義が、聖書の言葉に実際は反している事が分かってきます。それは私達の新しい霊の言う事は正しいからです。私達の新しい霊は新生時に与えられました。それが私達の知性(考え方)が心と一致していかなければいけない理由です。その一致がこの教えを聞く事で起こってきたと思います。私達がしようとしている事は知性と心を一致させる事です。
では、先ほどの続きに戻ります。使徒の働き10:38のイエスが全ての虐げられた人々の為に裁きを行った事についてです。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に制せられる全ての人々を癒しました。どうやってイエスは悪魔に制せられた全ての人々を癒す事ができたのでしょうか?それがどういう意味か分かりますか?それは彼の元にやって来た人を一人残らず全員癒したという事です。もしその人が病気なら、彼は癒しました。聖書にはイエスは彼らを全て癒したと書いてあります。何度も、「多くの群集がイエスの下に来て、イエスは彼ら全てを癒された」と書いてあります(マタイ8:16、12:15、ルカ4:40、6:19)。彼らのうちの数人だけを癒す事はしませんでした。彼は癒す人をいちいち選ぶ事はしませんでした。それは彼にはその様な事はできないからです。何故でしょうか?それは、イエスは弟子達に「ただで与えられたから、ただで与えなさい」と教えたからです。それはどの様な意味でしょうか?それは、いちいち選択しないで誰にでも与えなさいと言う意味です。それは献金についての教えではありません。イエスは病人を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさいと言いました(マタイ10:8)。イエスはただで病気を癒して、悪霊を追い出して、死人を生き返らせるように言われました。それらは自由にただで与えられるべきです。
それが最初に祈り始めた頃に、私が格闘していた事でした。私は癒しを行うときに力んで、緊張していました。誰かの為に祈る時にはその人に手を置いて力を振り絞っていました。何故なら、私は癒しを引き起こそうと押していたからです。血管が浮かび上がり、顔は真っ赤になっていました。その様な癒し方は努力が要るものでした。顔が赤くなり汗をかいていました。癒しが終わると疲労していました。それは癒しを人々に向けて強引に押し出そうとしていたからです。病人にどうしても癒しを受け取って欲しいので、そうやって力を振り絞って強引に押し出そうとしていました。以前は、そうやって人々は癒しを受取ると考えていました。ある時、私はある男の人をテレビで見ました。その人は背が高く、痩せていて、バスケットボール選手のようでした。彼は人々に、「こちらに来なさい」と言い、そして彼らが近くにやってくると、「ただ私に抱きついて下さい」と言いました。彼らがその人に抱きつくと、途端に彼らは倒れました。
そして彼は、「今どのように感じますか?」と訊きました。その人はその瞬間に癒されていました。また、ある人々は彼に向かって歩いて行きました。そして、彼もその人々に向かって歩いて行き、彼らがぶつかるとその場で倒れ、癒されました。そしてある時は、彼は言いました。「私を見なさい。私の目を見なさい。私は、『一体何が起きるのか?』とは思っていません。ただこの油注ぎを受取りなさい。そうです。受取りなさい。」そして、その場でその人は癒されました。またある時は、彼はただ人の手を取って歩きました。そして、少し歩くと、「では今どのように感じていますか?」と訊きました。その人は「何も感じません」と言い、彼は「私も力も何も感じません」と言いました。それは感じる事が重要ではないからです。そのまま手を取り少し歩き、息を吹きかけました。その人はその場で倒れて起き上がった時には癒されていました。毎回そんな感じでした。何故でしょうか?それは、彼は(神の)命を解放したからです。私はそれを見ていて思いました。この癒しのやり方は簡単だ。癒しが終わった時には、彼はリフレッシュして、またいつでもスタートできる準備ができていました。「私もこうなるべきだ」と思いました。そして、次に癒しを行う機会があった時には、その人を真似ました。どうなったと思いますか?癒しは彼が行ったように起きました。
また、ある時、私はデイビッド・ホーガンのビデオを手に入れて見始めました。そのビデオは私を勇気付けました。私は2週間の間それをソファー上で見ながら泣き続けました。妻は言いました。「一体どうしたの?ここに座ったままでビデオを見ながら動かずに泣き続けて。」それらのビデオが磨り減るまで見続けました。彼女はまた訊きました。「本当に一体どうしたの?」そして私は答えました。「彼は僕の説教してきた人生を歩んでいる。僕もあのような人生を歩みたいんだ。」2週間位の間、彼のビデオを見続けて言い続けました。「あれが欲しい、あの度胸が欲しい、あの粘り強さが欲しい。あの何にも動じない力が欲しい。」
ある時、人々の前でデイビッドのふりをする機会がありました。その当時は、人々は私について何も知りませんでした。まだテープやCDも何も出していなかったからです。私は説教する場所に向かう間に考えていました。「この人達は私について何も知らないから、誰か自分の好きな人のように振舞える。彼らは私が真似をしている事にも気がつかないだろう。好きなように説教しても、彼らにはそれが真似をしていると気がつかないだろう。彼らは私が話すのを聞いた事がないから。」そして私は彼の真似をしました。彼の様に話しました。何が起きたと思いますか?彼が行っていた事と同じ事が起きました。最初に私がそれをした時には、私はただ真似をしていました。しかし、その夜以降は真似をする必要はもうありませんでした。何故なら、今ではそれは私にとって現実だからです。一度それを経験したからです。一度経験すると次回からどのようにすれば良いかが分かります。私は気がつきました。強く大胆になればなる程私は力強くなり、その力はより効果的に働きます。私はその力の限界をまだ見てはいません。未だにその限界に挑戦し続けています。では、先ほど話していた事に戻ります。全ての悪魔に制せられている人々の為の裁きです。全ての人の為のです。神はこの裁きをイエスがやって来る前にダビデに神の御霊によって伝えた事を知っていますか?イエスはまだ地上にやって来てはいませんでしたが、神は全ての虐げられている人々の為に裁きを下しました(詩編103:6)。全ての虐げられている人の為に勝利と自由を宣言しました。ダビデに語られたその瞬間にです。神自身が、ダビデに「神は全ての虐げられている人々の為に裁きと正義を行われる」と言った時にです。イエスが「読んだ」という言い方は好きではありません。でもイエスが地上でミニストリーを行っていた時に、彼はその聖書箇所を読んで、「ここで私の父は全ての虐げられている人々の為に裁きを行われました。だから、私の仕事は虐げられている人々を自由にする事だ」と考えた事でしょう。神の言葉はとこしえから天において定まっています。この聖書箇所はもう読みましたよね?神の言葉が天で定まっているなら、その御言葉は確かに定まっています。神は全ての虐げられている人々の為に裁きを下しました。それは、神は全ての虐げられている人々は自由であると宣言したという事です。
神はどうやってその裁きを実際に行いましたか?神はイエスを遣わしました。イエスは死にました。むちで打たれて、十字架に付けられました。そうですよね?それによって彼は代価を払いました。そして、虐げられている者は自由になりました。ですから、イエスは地上にいる時には、巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に制せられている人々を全て癒しました。彼は全ての人々の為に死ぬという目的を成し遂げるつもりだったからです。イエスが癒しなどを行った時には、信仰によって行っていました。イエスはまだ死んでいなかったからです。私が説明したように十字架の張り付け前の癒しや罪の赦しなど、全ての事は信仰によるものでした。それはイエスはまだ全てを完了していなかったからです。しかし、イエスはちゃんと代価を払い、虐げられている人々の為に自由を買い取りました。
それは事実です。確立された事実です。実際に起きてしまった事実に対しては、信仰は必要ありません。イエスが十字架に掛かったという出来事は聖書だけに書いてある事ではなく、地上の歴史上にも記録されている事実です。イエスが死んで、よみがえった事は事実です。そうですよね?彼がよみがえった時に、全ては完了しました。その時点から、私達は既に勝利した者として戦っています。勝利を得ようとしているのではありません。敵は私達の勝利の立場を奪おうとしています。それに気づかなければなりません。軍隊の専門用語で言うと、私達は優勢な立場を持っています。私達は山の頂上にいるようなものです。簡単に言えば、イエスはヘリコプターで私達を山の頂上まで連れて来て下さいました。私達は有利な立場から戦っています。私達のする事は、ただ敵をその山に近寄らせないようにするだけです。私達が優勢の立場にいる時には、敵を近づけない事は簡単です。聖書には「神は全ての虐げられている人々の為に裁きを行う」とあります。イエスが現われた時、イエスは言われた事でしょう。「あなたは虐げられています。でも今はもうあなたは自由です。」何故でしょうか?それは私の父が全ての虐げられている人々の為に裁きを行われたからです。彼は全ての虐げられた人々は自由になると宣言したからです。でも反論する人は言います。「私は、神は虐げられている人を自由にしたとは思いません」そうですか?古い契約の下では、神はそれを恵み(ヨベル)の年と呼びました。それは何でしょうか?それは将来にやってくるものの影でした。恵みの年は1年だけですが、イエスにあってはイエスご自身が恵みです。私達は絶え間ない恵みの中にいます。永続する自由の中にいます。ですから、私達はこの自由の中に生きています。それは、イエスは安息の年だからです。それは自由の年という意味です。人々は、「私は束縛の中にいます」と言いますが、その束縛は敵からの攻撃です。それでもその人が、「私が敵に対して扉を開けたままにしたからです」と言うなら、法律的な視点で考えて見ましょう。一つの例で説明してみましょう。
あなたが家の扉の前に立っているとします。そして、家の近くにあるコンビニを見て言います。「そこまでいって、飲むものを買ってこよう。5分で戻れるから、その為に家全体を閉めて鍵をかけたくはない。」そして、あなたはドアに鍵をかけないで出かけますが、強盗が木の陰に隠れていたとします。彼はあなたが去ったのを見て、入り口の扉まで来て周りに誰もいない事を確認します。彼は扉をノックして、誰の応答もないので1分ほど待ち、扉を開けて言います。「誰かいますか?」誰からの答えもないので彼は中に入ります。そしてカバンを掴み、銀のネックレスなど、あなたの持ち物を片っ端からバッグに入れます。その様な事をしているうちにあなたが帰ってきます。ここで、もしあなたが善良なクリスチャンなら、こう言うでしょう。「私が扉を開けたままにしました。だから、あなたはここに入る権利があります。あなたの欲しい物を持って行って下さい。私はこれで教訓を学びました。」これがどれだけ間抜けな事か分かりますか?現在の教会はこの様な状態です。イエスは私達を羊と呼びました(ヨハネ10:1-27)。私達はイエスを優しい人だと考えますが、羊はのろまで、盲目で愚かな動物である事を知っていますか?イエスは優しくしようとしていたのではありません。私達は、「ああイエス様が、私達を小さな羊と呼んでいます」と感動します。しかし、私は「愚かな羊よ」と言っていたのだと思います(笑)。これは少し言い過ぎかもしれませんが、要点は分かったと思います。考えてみて下さい。あなたは、その様な強盗に入られた時にはどうしますか?警察に電話しますか?もちろんそうです。もしそれが愚かな人なら、警察が来るまでその場に立ったままでいるでしょう。では、この強盗は家の中にいて、あなたは警察を呼ぶとします。もしあなたが彼を家から追い出す事ができなければ、警察がそれをします。そうですよね?ここで考えてみて下さい。
たとえ扉を開いたままにしたとしても、もし誰かがあなたの所有物に入るなら、それは侵入した事になります。何故なら、あなたは彼を招きもしなかったし、彼に向かって、「入ってきていいですよ」とも言いませんでした。もしあなたが扉に鍵をかけずに、彼が扉を壊して入ってきたら、それは破壊行為と侵入です。もし扉を開けたままにしておいて彼が入るなら、それは不法侵入です。これらの両方の場で、もし彼が家の中にいる間にそこにあるものを持ち去ろうとするなら、それは窃盗になります。実際には住居侵入は建物侵入よりも重い犯罪です。そこで警官がやって来て言います。「強盗に家の中にいて欲しいのですか?」あなたは答えます。「もちろんそんなわけありません。」彼は言います。「分かりました。でも、あなたは扉を開けたままにしておきましたか?」あなたは答えます。「はい、開けたままでした。」それに対して警官は言います。「そうですか、すみませんが、それなら、あなたが扉に鍵をかける事を学ぶまでは、私達には何もできる事はありません。」警官がその様な事を言うはずがありませんよね?もし彼がその様な事を言うのなら、そんな警官の事を警察に通告するべきです。そうですよね?何故なら強盗をそのまま見放しておく事などしないからです。強盗にその場にいて欲しくなければ、去るように命令します。そして、彼は去らなければなりません。たとえ私達が扉を開けておいたとしてもです。分かりますか?
私達の体は私たち自身のものでない、と(パウロが)言った事を覚えていますか?私達の体は代価を払って買い取られてキリストのものとなりました(Iコリント6:19)。私達にはその体を何者にも明け渡す権利はありません。私達には悪魔を招く権利はありません。それは私達の権利ではありません。私達は私達自身のものではありません。私達はイエスに属する者です。イエスは悪魔を招くと思いますか?私達はイエスの所有物です。もしサタンの奴隷だと思うなら、そう考える人もいるかもしれません。知っていましたか?古い契約の下でも、律法を読めば分かりますが、奴隷を打つならその人は奴隷の主人を打ったとみなされて、責任を取り殺されなければなりません。これについて考えてみて下さい。それなのに、私達はいつも敵が私達を攻撃できるような、霊的に聞こえる細かい理由を勝手に作り出します。私達がいつも忘れている事はこれです。悪魔は始めから犯罪者だという事です(ヨハネ8:44)。彼は私達の家に侵入する前から、犯罪者だという事です。あなたが何をしようが関係ありません。
私が話していた肺気腫を伴っていた女性に戻りますが、彼女は呼吸機器を付けていて、その音はまるでダースベーダーのようでした。そして彼女の為に祈りました。彼女はその機器を外しました。彼女はとても興奮していました。完全に癒されていました。私がそこにいる間に彼女は癒されたのを見ました。彼女は何年もの間呼吸をする事ができませんでした。でも彼女は呼吸できて自由になりました。
私は残りの20人の為に祈り、それが終わった時に私は彼女を探しました。私は訊きました。「彼女は何処ですか?」彼らは言いました。「彼女は外にいます。」私が家の表に出た時には、彼女はそこで喫煙していました。私は彼女に言いました。「あなたは自由なりました。今、何をしているんですか?」正直に言って、私は苛立っていました。それは彼女の人生ですが、彼女に言いました。「私がその病を癒しました。」彼女は言いました。「でも、喫煙は楽しみなんです。」そして、私は言いました。「では、またやって来る肺気腫を楽しんで下さい。何故なら、それはまたやって来るからです。私はあなたを自由にする事はできますが、もしあなたがまた昔の癖に戻り続けるなら、それはまた戻ってきます。」彼女は癒されました。しかし、彼女は同じ習慣に戻り続けたので、より悪いものがやって来ました。もし彼女が変わらないなら、彼女は死ぬでしょう。話そうとしている要点が分かりますか?私達は誰でも自由にする事ができます。しかし、私達は彼らを自由のうちに保っておく事はできません。私達は神の国を彼らにもたらす事はできます。古い事わざがあります。私達は馬を水場まで連れてくる事はできますが、それに水を飲ます事はできません。それは同じ事です。私達は人々を自由にする事はできますが、自由にしておく事はできません。
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