教会が取り戻さなければならないものは殉教者の心構えです。私はいつも次の様に人々に伝えます。「もしあなたが死ぬに値する福音を見つけていないなら、まだ生きるに値する福音を見つけてはいません。」ムスリム達の自らの道の為の熱心な清めと献身は私達に恥の心を抱かせる程です。しかも、私達には真理の道があります。彼らにとっては信じている道の為に死ぬ事は最高の栄誉です。しかし、私達クリスチャンはどうにかして死なずに、長く生きようといつも奮闘しています。病気や患いでは死なないで下さい。もし人々があなたをイエスキリストの為に殺そうとするような事をすれば、賛美を歌い、イエスキリストの御腕の中に入っていく事を知りながら、司令官であるイエスキリストに栄光をもたらす為に栄誉の死を遂げるようであって下さい。それをただ栄誉と誉れだけを持って成し遂げて下さい。いくじなしの様には振舞わない事を願います。
では、引き続き癒しは贖いに含まれている事についてです。ヤコブ書5章13節~20節です。ヤコブ書は新しいクリスチャン達の為に書かれたものです。ヤコブ書は、成熟した人ではなく幼子にとっての内容です。例えば、成熟したクリスチャンは癒しの為に油を塗られる必要はありません。逆に、他の人達に油を塗って祈る必要があります。こう書いてあります。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは…。」この信仰による祈りは、長老による祈りですが、これは、病む人を回復させます。「主はその人を立たせて下さいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます(ヤコブ5:13-15)。」ここより、全ての病気は罪の結果ではない事が分かります。何故なら、その罪は赦されると書いてあるからです。ここで幾つか注目して欲しい点があります。まず、「苦しんでいる人がいますか?」その人は何をしますか?「祈りなさい」とあります。次の節にはこう書いてあります。「病気の人がいますか?」これよりここでの苦しみは、病気ではない事が分かります。何故なら、神はここでは癒しの為に2つの選択肢を与えませんでした。片方は、もし苦しんでいる人がいるなら、祈りなさい。もう片方は、病気の人がいるなら、誰か他の人を呼んで祈ってもらいなさいと書いてあります。苦しみには外部的と内部的なものがあります。刑罰というと行き過ぎですが、外部的な苦しみは、誰かが外から苦しみを与えているようなものです。例えば迫害などです。内部的な苦しみは、例えば、断食です。私達が断食をする時には魂を苦しめます。断食は魂を懲罰するか、鍛錬します。それが断食の目的です。でも苦しみは病気ではありません。次に、ヤコブ書には、教会の長老達を呼んで祈ってもらいなさいと書いてあります。呼んだ本人は祈りません。
これがヤコブ書は初心のクリスチャンの為であると言った理由です。何故なら、病人は自分の為に祈らないからです。長老達がそれをしています。そして彼らが来た時には、彼らが病人にオリーブ油を塗り、主の御名によって祈ります。ここで注目して下さい。彼らは信仰による祈りをします。そして、信仰による祈りは病人を回復させます。ここでは、もし神の御心なら癒されるとは書いてない事に注目して下さい。私達は、癒しは神の御心であるのを知っています。彼らが祈り、もしそれが神の御心なら病人は癒されるとは書いてはありません。そこには、長老の信仰による祈りは病人を回復させますと書いてあります。この箇所によると、癒しは長老達の祈りによって起こります。彼らを呼んだ病人自身の信仰は必要ありません。病人がする事は長老達を呼ぶだけです。長老達が信仰による祈りをします。それなら誰が信仰を持っていますか?長老達です。病人ではありません。もし病人が癒される為の信仰を持っているなら、長老達が来て祈る必要はありません。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせて下さいます」と書いてあります。次の節に注目して下さい。「また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」罪についてどのタイミングで書かれていますか?病人が癒された後です。癒しと罪の赦しはどちらが先に起きていますか?癒しが最初です。そうですよね?もしあなたが「癒される為には、まず罪を犯すのを止めないといけません。祈っても癒されないなら、あなたの生活の中に罪があるからです」と言うなら、聖書とは反対の事を言う事になります。今からは、その様な事を言えば、あなたは聖書の言葉にそむく事になります。もし、それでもそう言い続けるなら、あなたにはその病人を癒すだけの力がないから、その様な宗教的な言い訳をしているだけでしょう。聖書に従って下さい。病人を責めるような事はしないで下さい。
癒しが起きる時には2種類の人がいます。信じる人と病人です。信じる者の役割は病人に手を置く事です。そして、主が病人を癒します。次は4つ目のポイントです。癒しは贖いの中に含まれているでしょうか?ヨハネの福音書3:14を読んでみましょう。ヨハネの福音書3:16はよく知られていますが、その前後の節でイエスが何を話したかはあまり知られていません。ヨハネの福音書3:14では、イエスはこう言っています。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つ為です。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる事なく、永遠の命を持つ為である。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である。」ここに書いてある事に注目して下さい。次のように書いてあります。「モーセが荒野で蛇を上げたように、」「~のように」という事は~と同じ目的と同じ結果を伴うという事です。そして「人の子もまた上げられなければなりません」と書いてあります。モーセが蛇を上げた事については、民数記21章に書いてあります。
民数記21章4節にはこう書いてあります。「彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢できなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。」神は彼らの言った事を神に逆らったと見なしました。彼らは言いました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」ですから、神の動機を疑ったり、何故自分をこんな不幸な状態にしたのかと神を非難したりする事が神に逆らう事です。私は別に誰も非難しません。でも神の赦しがある事に感謝します。彼らはこう言いました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」それから、こう書いてあります。「そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈って下さい。」彼らが罪を犯した事に気が付いたのは、賢かったと思います。続けてこう書いてあります。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈って下さい。」モーセは民の為に祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。全てかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」ここには、「それを仰ぎ見れば、生きる」とあります。続けて読みます。「主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。全てかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」この民数記21章とヨハネの福音書3章14節は同じ出来事について書いてあるのでしょうか?そうです。よく考えてみて下さい。青銅の蛇が旗に付けられて上げられたのは、それは誰でもその蛇を見た者の罪は赦されて癒される為でした。彼らは神のもとに行きました。それは罪悪感が強かったというよりも、むしろ死にかけていたからです。これより、蛇を上げた目に見えない背景的な理由は罪の赦しですが、目に見える理由は身体的な癒しでした。彼らは死にかけていたからです。蛇が上げられる事はキリストの十字架の型です。ですから、キリストの十字架にあって罪の赦しと癒しが一つに関連付けられている事が分かります。
これは以前には二重の治癒と呼ばれていました。それは罪の赦しと病気の癒しです。聖書はイエスの打ち傷によって私達は癒されたと言っています(Iペテロ2:24)。イエスはいつその打ち傷を負ったのでしょうか?十字架につけられる前です。そうですよね?私達の癒しは、私達の救いの為の代価が支払われる前に支払われた事が分かります。昨日言ったように、イエスがむちで打たれ、十字架に付けられなかったら、私達の癒しは買い取られますが、救いは買い取られないという事になります。
聖書には罪がある所にはいつも病気や患いが伴い、癒しが罪の赦しの前に起こったと書かれているのに注目して下さい。とても興味深いです。神はいつも罪を赦す前に癒しました。その反対も可能ですが、今から私達が学ぼうとしている例を見てもそれは同じです。それにも関わらず私達はいつも言います。「罪をやめて神と正しい関係を持ちなさい、そうすればあなたは癒されます。」ヤコブ書では罪の赦しの前に癒しが起きると書いてあります(ヤコブ5:13-15)。まず、イエスの打ち傷によって私達は癒されました。そしてイエスの血が十字架の上で注がれた事によって、私達の罪は赦されて、救われました。しかし、イエスはある時に弟子達に、「行って、福音を宣べ伝えて、病人を癒しなさい」とも言いました(ルカ10:9)。また他の時には「癒して、福音を宣べ伝えなさい」とも言いました(マタイ10:7)。よく「先に癒すべきですか?それとも福音を宣べ伝えるべきですか?」と質問されます。関係ありません。都合の良い方を選んだらいいと思います。人々に宣教する機会があれば神の国はここにあると伝えて下さい。その時に何を宣べ伝えるかに注意して下さい。神学的な説教ではありません。基本的にイエスは私達に「神の国は近づいたと伝えて、病人を癒しなさい」と言いました。すごく短いです。ただ神の国はここにあると宣べ伝えて、その事を人々を自由にする事によって証明して下さい。何故でしょうか?それは神の国には抑圧はないからです。癒される為の信仰を持っていない人もいます。罪を犯し続けている人もいます。クリスチャンでもない人もいます。その様な人は癒されるでしょうか?はい、癒されます。クリスチャンでない人々は、キリストの贖いによって与えられる特権を持ってはいません。しかし、クリスチャンとして私達に与えられた神との契約の特権の内の一つは、全ての虐げられている人々を自由にする事です。ですから、たとえ彼らが信仰を持っていなくても、贖いによる特権について知らなくても、私達には人々を自由にする為の神との契約があります。だから彼らも私達が持っている神との契約に基づいて癒されます。私達の神との契約に基づいてです。
ある人は、「本当ですか?私はその様な事は信じません。彼らが神との関係を持っていなければ癒されないと思います」と言うかもしれません。本当ですか?ではアブラハムの場合はどうですか?ロトは、アブラハムが持っていた神との関係の故に救われました(創世記19:29)。ロト自身が持っていた神との関係によったのではありません。そうですよね?事実、ロトには問題がありました。ロトはソドムには元々いるべきではありませんでした。彼は自分の道を求めてソドムへ行き、その町の事件にかかりきりになりました。よくソドムが神によって滅ぼされた理由は、「神がソドムを憎んだ理由は同性愛であった」と言われます。しかし、聖書はそうは言っていません。本当の理由は人々が貧困者や弱いものを不当に扱い、彼らを抑圧したからでした(エゼキエル16:49-50)。誰でもその様な事を続けていると道徳が崩壊して放蕩が蔓延り、同性愛などの様な事も生じてくるでしょう。一般に教えられている事は必ずしも全ての真理とは限りません。
次です。どの様にしてイザヤ53章とIペテロ2:24の2つの聖句が同じ癒しに関連している事が分かるでしょうか?その決め手はマタイ8:16-17です。「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大勢みもとに連れて来た。そこで、イエスは御言葉をもって霊どもを追い出し、」ここでは、手を置いてと書いてない事に気がついて下さい。イエスは御言葉をもって悪霊を追い出しました。「また病気の人々をみな癒された。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就する為であった。」では、何故彼は病人を癒したのでしょうか?イエスはただ病人を癒しただけでなく、全ての病人を癒した事に注目して下さい。それは預言者イザヤが言った事が成就する為でした。それは、「彼が私たちの患いを身に引き受け、私たちの病を背負った。」このマタイ8:17の聖句は神によるイザヤ53章についての注解です。英語の聖書でイザヤ53:4を読んでみると、このマタイ8:17とは少し違う言葉が訳に使われているのが分かります。
残念ながら、旧約聖書と新約聖書を英訳した時に、欽定訳でも同じ英語の単語を使わなかった所もあります。イザヤ53章に書いてある「痛み」は精神的な苦悩や悲しみ等と考えられがちです。しかし、それは文字通りには弱さや病気や疾病を意味します。それは人間を苦しめる全てのものを意味します。それから、このマタイ8:17節には書いてあります。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就する為であった。「彼が私たちの患いを身に引き受け、私たちの病を背負った。」ある人々は、「イエスはその当時にその預言を成就したので、もうイエスは誰をも癒す事はしない」と言います。でも同じ理屈に基づいて考えると、それは馬鹿げた事です。何故なら、「イエスは既に十字架に付けられてしまったので、イエスが救う事ができたのはその当時に彼と共にいた人々だけです」ともなるからです。もしイエスがその当時にした事が現在まで影響していないなら、イエスの十字架の死もその後には何の力もありません。ですから、その成就した事がそれ以降は無効になったという事ではありません。その預言された事が達成されたという事を意味します。私は病人に手を置いて癒すたびに、毎回預言を成就します。何故なら、聖書には「信じる者は病人に手を置けば、彼らは癒されます」と書いてあるからです。この言葉は預言でした。私が病人に手を置くたびに、これは成就されます。これはただ一回成就されて終わるものではありません。毎回手を置くたびに成就されます。マタイは神の霊感によってマタイ8章16-17節で起こった癒しとイザヤ53章を関連付ける聖書の注解をしました。何故イエスが癒しを行ったかが分かりましたか?それは預言が成就する為です。イエスはそれが成就する為に癒しを行いました。言い換えると、イエスは神が預言者イザヤを通して預言したイザヤ53:4を知っていて、それを成就する目的でその癒しを行いました。ですので、イエスは意図的にそのイザヤ53章の内容を身体的な癒しと関連付けました。Iペテロ2:24でもイザヤ53章にある成句が引用されています。
この成句についてある人は言います。「これは霊的な病気について言っているのであって、身体的な癒しについてではありません。」しかし、イエスはマタイ8:16-17を引用する事でイザヤ53章の内容は身体的な癒しについてである事を証明しました。ですから、Iペテロ2:24は身体的な癒しについてです。それを霊的な癒しと言う人はその箇所を理解していません。もし癒しが贖いの内に含まれているならそれは事実です。それは既に完了した事です。恐らく、これが私達のしなければいけない思考変化の中で一番大きなものです。私達は、神が誰かを癒すように願う事をやめて、神の言葉はとこしえから天において定まっている事を認識しなければいけません。そして神は人々を既に癒して自由にして、リンカーンが奴隷解放宣言を宣言したように、人々の自由を宣言した事を信じなければなりません。
奴隷の実際の解放には100年かかってしまいました。同じように、私達もある時点で神に癒してもらおうとする事をやめて、神は既に癒しと自由を宣言した事を確信しなければいけません。奴隷達は1863年にその奴隷解放宣言が宣言された時点から自由になりました。その宣言がなされた当時にはまだ奴隷はいましたか?当然いました。それは合法でしたか?いいえ、違法でした。ある人々は言います。「でも、私は理解できません。あなたは癒されていても私はまだ病気です。」そんな人に私は答えます。「神は、あなたは既に自由だと宣言しました。」神は私達を自由する法律を確立しました。悪魔はその法律を見てその法律に従い、「分かりました。ごめんなさい。あなたは既に自由でしたね。もうこれ以上はあなたを煩わす事はしません」なんて言いません。何故なら、彼は犯罪者だからです。悪魔は神の法律に背いています。悪魔は病気など様々な形で私達に近づこうとします。しかし、それは違法です。全ての病気や患いは違法です。それが、私が癒される人を目の前にした時にその人に何故その病気にかかったのかなどを尋ねない理由です。世代の呪いなど、どの様な罪がその問題を引き起こしているかなどについては何も尋ねません。私は神の国の警官として働きます。私の前に誰かが立っている時には、いちいち神とは話しません。その人の問題が何なのかは尋ねるかもしれません。しかし、それは犯罪者に対してどの様な問題の為に訴訟を起こしたいのかを知りたいからです。一旦その問題の名前が分かれば、私は病人に意識を集中する事を止めます。そして、その犯罪者に向かって何でも私が望む事をするように命令します。私はよく、「お前は今この体を去れ。全ての症状よ、去れ。お前と一緒に連れてきた他の者と一緒に今去れ!!」と命令します。この様に私がする事は基本的に立ち退きの命令を与える事です。神は2000年以上も前に、病気や悪魔に対して立ち退き命令を出しました。私は今それを敵に強制する為にここにいます。分かりますか?それが私達の仕事です。これは法律的には正しい事でないかもしれません。多くのクリスチャンは時々次のように考えます。
例えば、警官がある地域に呼ばれたとします。そして、警官はそこの家の中にいる人々を以前から知っていて、彼らが麻薬密売者であるとします。けれど彼らが密売者である事を知ってはいるけれども、それを証明するだけの十分な証拠はありません。でも、何かの理由で彼らの家に誰かが押し入って争いが起きたので、通報を受けました。麻薬密売者達は通報する事はしませんが、今回は彼らが通報したとします。その警官はその家に入り、押し入った人を逮捕して出てきます。私達クリスチャンのよくする間違いはその家に入り込んで、そこに侵入した人を捕まえて自分の仕事を終えて出てくるよりも、その家に住んでいる密売者達を責め立てる理由をできるだけ多く見つけようとする事です。法律によると、その家に入って彼らを責める証拠を見つけたからといって、彼らを逮捕する権利は与えられません。何故なら、それは本件とは外れた状況の下に自分を置く事になるからです。分かりますか?その様に他人の間違いを見つける為には別の法的な許可が必要です。もちろん、私達がその様な家に行くまでに、彼らは全て麻薬などを片付けてしまうでしょう。しかし、クリスチャンとしてやりがちな事は、助けを呼んだ人達の問題を最初に見つけようとする事です。そうではなくて、ただ最初に彼らを自由にして、その後でその人が正しく生きる事ができるようにして下さい。他人を責める理由を見つけて、それに対して指をさす事をやめて、人々を自由にして下さい。私達は裁く者ではありません。私達が選ぶ立場は2つしかありません。へりくだるか、自分を高くする事です。もし私達がへりくだるなら、神は私達を高くして下さいます。自分でへりくだる方が、神が私達をへりくだらす事よりも良い事です。私達は人を裁く者ではありません。裁く者の立場をとる事をやめて下さい。私達は警官です。警官として行動して下さい。警官は裁く者ではありません。捕らわれた人々を自由にして下さい。
一旦彼らが自由になれば、それから弟子訓練が始まります。多くの人々は言います、「では、何処でカウンセリングなどが必要になるのですか?」カウンセリングはいわゆる弟子訓練の一貫です。自由が先に来て、それから弟子訓練です。大半の人達は弟子訓練を通して、人々を自由にしようとします。そうではありません。何故なら、多くの病人は弟子訓練される前に死んでしまうからです。彼らを自由にして、それから弟子訓練をして下さい。癒しは贖いの中に含まれています。癒しは確立された事実です。神は私達に十字架において罪の赦しと癒しを喜んで提供してくれました。人々は言います。「でも、それらの2つの片方の方がより重要です。」そうかもしれません。しかし、私達はそれらの2つのどちらか一つを選ぶ必要はありません。それでもある人は言うかもしれません。「私がどちらかを選ぶなら、私は癒しよりも救いを選びます。」癒しと救いの両方を選んで下さい。何故なら、癒しは救いの一部だからです。妥協はしないで下さい。私は人々の為に祈っていて驚かされます。彼らは言います。「これらが深刻な問題です。」私は訊きます。「それでは他にも問題があるのですか?」
彼らは言います。「はいそうですが、それらを抱えていても、まだ生き続ける事ができます。」私は言います。「もし私達が深刻な方の問題を解決する事ができるなら、そんなに深刻でない問題も解決する事ができます。」どうして妥協する必要があるでしょうか?イエスは癌も、関節炎も負ってくれました。それらを妥協する事はしないで下さい。私達は実際に行動を起こしていく事によって多くの事を学んでいきます。私が癒しを行うに連れて学んだ事は、攻撃的な人と消極的な人の2種類の人がいるという事です。一般に消極的な人も訓練されて攻撃的な人に変わる事ができます。私はいつも人々を攻撃的になるように訓練しようと心がけています。その様にした方が癒しの成功率も上がります。一般に教会は攻撃的な人々を消極的になるようにしてきました。それは東洋の哲学が教会に入り込む事によって始まりました。教会の受身的な姿勢はそこから始まりました。私達がその様な哲学を受け入れ始めた理由は、東洋哲学やその様な考え方をした人をまるで霊的な人であるように見てしまうからです。
東洋の哲学を受け入れる人々は、彼らをまるで調和や平和などを持っている様に見るからです。現実はそうではありません。彼らは霊的ではあるかもしれませんが、敬虔ではありません。世間には沢山の霊的な事がありますが、それらは敬虔ではありません。そして、知性を無にするというような考えは敬虔ではありません(エペソ4:17-19)。聖書は決して私達に知性を無にするようには教えていません。聖書は思考を一新しなさいと教えています(ローマ12:1-2)。もし、私達が知性を無にしようとするなら、悪魔が入り込んできます。単純ですね。人々は、「私はクリスチャンなので悪魔が入り込む事はありません」と言います。分かりました。しかし、もしあなたが知性を無にするなら、問題を抱える事になるでしょう。はっきり言うと、そうすると悪魔と問題を抱える事になります。
例えば、ある人がアルコール依存症であって、それは悪魔によるものだとします。もしその人が教会にやって来たら、その教会にいる人々もアルコールによる問題を持ち始めるとします。それならその人々のアルコールの問題は悪魔によるものではないでしょうか?人々はすぐに何でも判断を下そうとします。教会の外であったら悪魔の働きと言い、教会の中では同じ問題であってもそうは言いません。それでもある人は、「教会の中での問題が悪魔によるものなんて納得いきません」と言うかもしれません。私は、問題は私達の霊にあるとは言っていません。悪魔がその人を乗っ取ると言っているのではありません。私達の霊は新生した時に神より生まれましたが、私達の知性や魂はまだ混乱して、問題だらけのままです。その様な魂の領域において悪魔は働くので、聖書は要塞を打ち壊すように教えています(IIコリント10:3-5)。その要塞は考え方の中にあります。今は力や主権などについて話しているのではありません。聖書は私達の武器は肉によるものではなく、神の御前にあって要塞をも破る程に力があるものですと言っています(IIコリント10:3-5)。
その事について話しています。その要塞は私達の考え方です。力や主権についてはエペソへの手紙に書いてあります。IIコリントでは、間違った教え、間違った教義、間違った考え方、間違ったアイデアなど全て神の知識に逆らって立つものについて話しています。その様なものの中に悪魔はいます。そして、その様なもののうちにあって働いています。悪霊は身体や魂などの領域に住みつく事ができます。でも、もし私達が病気などその様な悪魔的なものを持って死んだとしても、天に行かないというわけではありません。何故なら悪魔は私達の霊を所有する事はできないからです。しかし、身体の部分には影響できます。癌は身体にあります。それは霊の域にあるのではありません。もし癌が霊であるなら、ある人は、「霊は身体に住まう事はできないと思うのですが?」と考えるかもしれません。しかし、私達は身体に住まう事ができます。私達は霊です。私達は身体に住んでいます。そうですよね?
サムラル氏の下で仕える事ができた事は私にとって祝福でした。彼の教えはとても単純で、分かりやすいものでした。彼の教えの中に「完全な人」というものがあります。それは霊、魂、体、についてそれぞれがどの様なもので、どの様に機能するかを説明します。
私はそれを聞いて思いました。「これはとても単純だ。それぞれ異なる部分で、それらは互いに重なり合っている。」それで、霊、魂、体は一つとして働きます。そして、この教えは私が特に病の霊やトラウマ的な体験をした人達の為に祈り、彼らを扱う上でとても役に立ちました。1つの例を話したいと思います。例えば、ある女性が子供の頃に乱暴されたりレイプされたりしたとします。性欲の霊はその乱暴をする人(その人がどの様な年齢にしろ)を通して、そのレイプや乱暴の行為を通して自分を現そうとします。そのトラウマ的な出来事の時に何が起きるかを説明しましょう。まず聖書には神の言葉は生きていて、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊の分かれ目をも刺し通し、と書いてあります(へブル4:12)。魂と霊はそれぞれ異なるものですが、それらは重なりあって相互に影響し合います。トラウマ的な出来事の時に何が起きるかをもっとよく理解する為にもう一つ、車の事故の例を取り上げます。
例えば、ある人が車に衝突されたとします。それは一瞬の出来事ですよね?その一瞬に、その人は硬直します。その硬直時に多くの人は頭痛の様なものを経験します。それはただ血圧だけから来るものではありません。それはその瞬間にその人の魂と霊が裂けるからです。それはまるでひどく緊張するようなものです。それは強い恐れの様なものです。その恐怖の瞬間にその強い恐れが魂と霊を開きます。通常、車の事故の場合には病の霊がその魂と霊の間に入り込みます。時には同時に恐れの霊も入り込みます。その極度の緊張が終わると、魂と霊は閉じます。
聖書を見てみるとギリシア語の違いにより悪霊について2通りの表現方法があります。
「私の娘が悪霊を持っています(KJV使徒16:16)」と、「ある人は悪霊に憑かれている(KJVマタイ12:22)」と書いてあるのがあります。通常、私達はこの2つは同じ事だと考えますが、それは違います。ある時には、人が悪霊を所有していたり、またある時には、悪霊が人を所有していたりします。悪霊が人を所有している場合は、例えば、ガダラ人の男に見る事ができます(マタイ8:28)。悪霊が彼を所有していました。彼は自分を傷つけたり、鎖を破ったりしていました。でも、ツロフェニキヤの少女の場合には、「私の娘は悪霊に取り付かれています(ギリシア語では、悪霊を持っている)(マルコ7:25)。この場合には、彼女が悪霊を持っています。人が悪霊を持つなんて、どうしてその様な事が起きるのかと思うでしょう。通常、それはトラウマ的な経験によって起きます。その時には魂と霊が開けて、そこに悪霊が入り込み、それが閉じた後には悪霊は去る事ができなくなります。その悪霊はそこに捕らわれた状態になります。ですから、その人は悪霊を持っています。これで悪霊に所有される事と、悪霊を所有する事の違いが分かったと思います。
私はこの事を人々の為に祈る事を通して学びました。その時には御霊に導かれていたと思います。多くの場合には、私は祈っている最中に自分が、「今、イエスの御名によって去れ、今!!(大声で)」と言っている事に気がつきました。私がこの様に叫ぶと、祈られている人は痙攣したような動きをして、それから自由になります。この時に私は何をしたのでしょうか?私はその人に逆トラウマ的な経験を引き起こしました。それによって、魂と霊を再び開き、その間に捕らわれていた悪霊が出て行きました。例えば、病の霊が働く場合には車の事故などが起こった時に、その後には何も気が付きませんが、数日、数週間、数ヶ月経つと、鞭打ちのような痛みを感じますが、身体的な原因は何もありません。それは悪霊が魂と霊の間にいるからです。ですから、私達はその霊を追い出す必要があります。大声で追い出す必要はありません。普通に追い出す事ができます。乱暴を受けた場合に戻ります。ここでも同じような事が言えます。私は人々を解放する為に祈ります。
今から話すのは乱暴を受けた女性の例ですが、これは男性の場合にも同じ事が言えます。ただ男性の例は少ないだけです。女性が乱暴されたりレイプされたりすると、その人の年齢に関係なく次の様な事が起きます。その悪霊は乱暴をしている人の行為を通して、自分を現そうとします。いつでも乱暴には開始時と終了時があります。その乱暴が終わる時、その悪霊は被害者に移ります。そして、被害者はその同じ性欲の霊を受取ります。その乱暴を引き起こした同じ性欲の霊です。性欲の霊は次に説明する2種類の形をとって自分を現します。特に女性においてです。男性の場合もそうですが、特に女性の場合にそうです。私達が経験して(特に女性の間で)見てきた性欲の霊の2種類の現れ、一つは極端な形を取ります。
私達は、もし女性が男性に乱暴を受けたなら、その女性に移った性欲の霊は男性に反対するようになると考えます。何故なら、男性が彼女にその様な行為をしたからです。多くの場合にはその女性は男性を避けてレズビアンになります。その一方で、もう1つその性欲の霊が自分を現すパターンは、多くの男性とやたらと体の関係を持つようになります。いいですか?彼女達も何故その様な事をするのかを知りません。しかし、その様な事をする理由は、乱暴を行った男性の中にいて、今はその女性に移った性欲の霊が今度は彼女を通して男性との関係を持つ事で自分を現そうとするからです。普通なら、私達はもし女性が男性に乱暴されたなら逆に男性を嫌うようになると考えます。しかし、その様な事が起きる理由は男性の中にいた性欲の霊が女性に移ったからです。ここで重要な事は、性欲の霊を追い出す事です。いいですか?乱暴されている人の同意もなくその霊はその人に入り込みます。ですから、その人にとっては不公平です。しかし、その霊は乱暴を受けている人に対して強制されました。誰も何もしなければ、その人はその悪霊から一生解放されないまま歩み続けます。しかし、その様な人も私達は自由にする事ができます。
では、男性の場合について考えてみましょう。同性愛者が教会に自由を求めてやって来るとします。教会での問題はその悪霊を彼らの中から追い出しても、悪霊はある特徴をその人に残していきます。私達がこの人から悪霊を追い出すなら、彼らは自由になりますが、特に教会では、他の男性達はその人を避ける傾向にあります。その人が以前に同性愛者だったからです。もし彼が男性達の周りにいる事ができないなら、女性の周りにいるようになります。何故なら、彼は以前からより女性のような性格を持っているからです。ですから、私達は彼らから悪霊を追い出して自由にし、その後にその人を弟子訓練ができなければなりません。彼らを弟子訓練する為には、男性達の周りに置かなければいけません。何故なら、悪霊はその人から去っても、戻ってくる事もあるからです。悪霊がある特定の人の特徴を探します。例えば、男性の同性愛者はいつも女性のような特徴を持っています。ですから、彼らが自由になった後も、筋肉には記憶というものがあるので、彼らの身体は以前にしていたある特定の事をしようとします。
別の話で説明します。私は一年間の間コーラを飲む事を止めました。それは私がそれに捕らわれないで、いつでも辞める事ができるか確認する為でした。面白い事に、コンビニに入ると、私は自然とコーラが置かれてある所へ足を運びました。何故でしょうか?それは、私はコーラを買うように長年の間、自分を訓練して来たからです。そして、コーラの前に立った時点で、私は別の物を買おうとしていた事に気が付きます。その様に、筋肉には記憶があります。これは全ての罪に関しても同じです。全ての私達の癖についても同じ事を言う事ができます。訓練が可能な敬虔についても同じです。逆に、私達は訓練と経験によって、敬虔に生きる事ができるようになります(へブル5:13-14)。
典型的に話しますが、同性愛者は多くの場合には、何か特定の事をします。例えば、彼らの手首はひ弱です。彼らは手をお尻の方に持って行くしぐさをします。これらが典型的な特徴です。彼らが自由になったとしても、彼らの筋肉は記憶しているので、同じ男性の周りにいても無意識にその様なしぐさをします。筋肉が記憶しているからです。彼らが笑う時には、その人は女性の様なしぐさをして女性の様な笑い方をします。でも、その様な時には言うべきです。「いいえ、違います。男は手を振らないで、指を指します。そして、男は深い声で笑います。」その様にして、その人を自由になった後も訓練するべきです。女性のしぐさをする手を叩いてもいいかもしれません。何故なら、ある一定の特徴は悪霊を招く為の信号を与えるからです。
ヨガの型も信号を与えます。ヨガの全ての型はそれぞれのヒンドゥー教の神への祈りです。クリスチャンはヨガとは何の関わりも持つべきではありません。ヨガは、「神との一体」という意味です。それは聖書の神ではありません。ヒンドゥー教の神々です。私が武術をしている時には、4段の黒帯を取る為に、私はある技術を習得して、その歴史を勉強しなければいけませんでした。相手をブロックする為に、トンサウという技を学びました。この技はどの様なパンチも防ぐ事ができます。私がそれを勉強し始めた理由は、誰もその技を習得する事ができなかったからです。でも、私はそれを練習しました。そして、私が勉強するにつれて、その技の中国語での名前は「仏陀に助けを求める」という事が分かりました。誰もその様な事は教えてくれませんでした。彼らは、ただこの技はトンサウだと言いましたが、それはその技の本当の名前ではありません。本当の名前は仏陀に助けを求める、仏陀の手の平という名前です。ですから、私がその技をするたびに、知らずに私は悪霊に向かって助けを求めていました。その技は私に力を与え、私を強くしてこの不可能な技をする事ができるまでに力を与えました。私は以前、よく実演をして見せました。一番体格のいい男の人達を呼んで、私は彼らに言いました。「では、腕を伸ばして下さい。」そして、彼らの腕が私を殴る事ができるだけ十分な距離にあるのを量り、その場に立って用意して彼らに言いました。「私がGOと言ったら、あなた達は私の腹に向かってパンチをして下さい。」彼らがパンチをしても、私はノックダウンも息を切らす事もしませんでした。彼らが体格のいい人達でも関係ありませんでした。私は悪霊によって強くされていたからです。私はそれよりも更に悪霊の力を明らかに見る事のできる技の実演もしていました。それは「根を張る」という技です。私はただ立って、「誰か来て私を持ち上げて下さい。」私は身体の大きい人を選びました。大きければ大きいほど、技の実演の効果が出るからです。そして、彼らはやって来て私を持ち上げます。その当時、私の体重は58キロ程でしたので、彼らは簡単に私を持ち上げる事ができました。私は彼らに言いました。「では、30秒数えて下さい。30秒数え終わったら、また私を持ち上げて下さい。」彼らが数えている間に私はリラックスして、根を張りました。
彼らは数え終わった後に、私を前回のように簡単に持ち上げる事ができると思いましたが、持ち上げる事はできませんでした。彼らは持ち上げようとしましたが、私の足は決して地面を離れる事はしませんでした。それは根を張るという技です。どの様にして、そんな事が可能だったのでしょうか?悪霊の力によってです。もし、私がその様な事を行っている間に、私はクリスチャンだったかと聞かれたら、私はクリスチャンですと答えた事でしょう。しかし、私は完全に悪霊に取り付かれていました。私が武術をやめた時に、私は神にこれらの悪霊から解放して下さいと願いました。27日間の間に、22の悪霊が私を去りました。私はどの悪霊が去って、それらの悪霊がどの様な能力をもたらしていたのかも分かりました。武術が約束する良いものは全て偽者です。武術は平安を約束しますが、それは偽の平安です。武術は安全を約束しますが、それは偽の安全です。武術は力を約束しますが、それは偽の力です。
武術と教会の成長は似通っています。両者とも、ある人がある新しい戦い方を始めた事から始まりました。その人は弟子達を集めて、彼らを訓練して教えました。彼が死んだ時には、それらの弟子達が他の弟子達に教えるようにして続いて行きました。そして、それから様々のグループに分かれて行きました。イエスの場合も、彼には弟子達がいて、彼が去った後には、それらの弟子達が弟子達を作るようにして、それが様々な教派になっていきました。分かりますか。これらは全く同じパターンです。これは霊的です。しかし、クリスチャンは武術と一切関わるべきではありません。
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