質問です。「離れていて距離があっても癒されますか?」癒しの為に私達が人に触る必要はありません。イエスは何人かの人達を、言葉によって癒しました。私はオーストラリアから電話を受けた事があります。その人の為に祈ると、私が話している間に癒されました。また、ある男の人が心臓発作で突然死んだ事がありました。私の携帯が鳴り、電話の女性は夫が死んだと言いました。彼女は、彼は床に横たわっていて、緊急医療班が彼を連れて行く所だと言いました。彼女は彼らに言いました。「私が電話でこの人と話し終わるまでは、夫を連れて行かないで下さい。」私は彼女に「彼らを引き止めていて下さい。あなたの電話を夫の胸に当てて、30秒間待って下さい」と言いました。それで彼女は電話を彼の胸の上に置きました。その様な音が聞こえたら、私は言いました。「あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって!」私はいつもこう言います。「あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって!」しかし、これは型ではありません。おまじないの言葉でも、魔法の言葉でもありません。私の経験からそれは結果を出すのでいつもそれを使うだけです。スワケの7人の息子達の様にはならないで下さい。「カリーが言ったので、あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって」とは言わないで下さい。祈る時には、皆さんの内にある言葉を外に出して下さい。それが私とは違う言葉でも、働き結果を出します。「イエスの御名によってあなたは生きる、死なない」と私が言ってから30秒ほど経って、彼女は言いました。「彼らが夫を連れて行きます。」彼らは夫を救急車の中に入れて病院へ向かいました。彼女は車で彼らについて行きました。私は後になって彼女が電話と手紙で連絡して来た時の事を覚えています。彼女は、「私は車で救急車の後を追いましたが、彼が生き返った時がみてとれました。救急車の後ろで混乱が起こったからです。慌ただしくしていたので分かりました」と教えてくれました。ジョン・レイクがこの時代に生きていたら、電話やEメールで癒しを行う事ができる事をすごく楽しんだと思います。
次に、毎回癒す為に人に触れる必要はあると思いますか?という質問に答えます。いいえ、ありません。その他に「祈る時に何と言うべきか?」という質問があります。聖書は祈る時には何を言うかは教えていません。ヤコブ書では「長老を呼んで…」と書いてあります。(ヤコブ5:15)聖書が祈るように教えているのは長老達だけです。マルコ16:18には「祈りなさい」とは書いてありません。そこにはただ「信じる者は病人に手を置き」とだけしか書いてありません。何故、私達は癒しの為に祈らなければいけないと自動的に考えるのでしょうか?私達が勝手にマルコ16:18に「祈る必要がある」と付け加え、「私達は手を置いて祈る必要がある」と思い込んだのでしょう。聖書は「手を置いて祈る」とは書いてありません。ただ「手を置く」とだけ書いてあります。私達が手を置くと神の御霊の流れが病人に流れます。これによって病人は直接神の力によって癒されます。
しかし、その為には私達が手を置く必要があります。葬儀に出席した事がありますか?亡くなった人の親族に対して、私達は何とかして慰めたいと思いますが、どんな言葉が愛する人を亡くしたばかりの人を慰める事ができますか?できる事は彼らに気遣っている事を見せる事だけです。私達は彼らに「お悔やみ申し上げます。もし私達に何かできる事があれば…」と言うだけです。それ以外に何ができますか?彼らを見つめ、手で軽く触る事によって彼らを愛している事を伝える事はできます。私達は触る事によって、言葉よりも多くの事を伝える事ができます。何故でしょうか?それはその触れる事によって、愛と哀れみが彼らに流れるからです。これと同じ法則を癒しにも用いて病人に手を置いて下さい。私達は同じ様にして哀れみを病人に対しても持つ事ができます。私にもその経験があります。私には奇形を持って生まれてきた子がいました。私は人々がその子に対してどの様な反応をするかを知っています。自分の子供が、病院で管につながれ、残りどれだけ生きるか分からないかを告げられる事がどの様なものかを知っています。そんな状況では、皆さんも私と同じように「ああ神様、この子と私の立場を取り替えて下さい。私はどうなってもいいですから」と祈るでしょう。これが親の心ですよね?神も人を見る時、この様に感じています。神様は考えたのです。「もし私が彼らの代わりになれるのなら...」それで、神は何をしたでしょうか?ご自分の一人子を遣わしました。何故でしょうか?それは彼が私達の身代わりになる為です。
イエスがやって来た事は、父の愛による事でした。神は御自分の唯一の子を私達の為にささげました。自分の子の命を他の人が苦しむ必要がなくなる為にささげる人の事を考えてみて下さい。ある子供たちは手も足もなく生まれてきます。足がなくて生まれてきた子供達は人口器具によって普通の子供達と同じくらい早く走る事ができるようになります。もし子供達がその様な環境に子供の頃からいるのなら、それに順応して障害によって心が傷つく事はありません。幾らかの不備な事はありますが、今日のアメリカ社会では彼らは大半普通の生活を送る事ができます。成長する上で幾らか不利な事があっても乗りこえる事が出来ます。多少の不備があっても普通の暮らしが出来ますが、覚えておいて下さい、その子自身は他人と違う事は気にしません。生まれつき手足がないので、手足を失った経験がないからです。手足を持つ事がどの様なものであるかを知りません。そういうわけで、彼らを見た時には哀れみはどこに向けられますか?まさにイエスがされたように、ナインのやもめである母親の場合と同じように、母親に向けられると思います。多くの場合、両親は子供よりも心を痛めています。自分の子供がその様な状態であるのを見るほど心を痛める事はありません。その状況を変える事ができるなら何でもするでしょう。これを理解する時、両親に対して哀れみを持ちます、そして、彼らの子供を癒す為には何でもするでしょう。それが哀れみです。その哀れみが病気を癒し全ての状況を変えます。この憐みが世界を変えます。
私達は癒しを行う時、いつもその時に必要なものは全て持っていて、この病人を癒すのは神の御心にかなっていて、その病人がその癒しの為に必要な信仰を持っていなければと考えます。それはまるで税金の書類の様なものです。私達は多くの規則を作り、癒しを行う事がまるで税金の書類を記入する事よりも難しくしてしまいました。イエスはその様な多くの規則は作りませんでした。彼は簡単に癒しました。では、長血を患った女を見てみましょう。長血を患った女の人の話は神学では説明できません。その話は現在の神学を打ち壊すものです。その当時、イエスはこの地上においての言葉でしたよね?イエスは神の御心、言葉、心の完全な現われではありませんでしたか?彼は神の完全な本質の現われでした。このイエスが群衆の間を歩いている時に、長血を患っている女性は彼の着物のふちをさわりました。そして、イエスは振り返り「誰かが私にさわりました」と言いました。彼は誰がさわったかさえ知りませんでした。しかし、その女性は癒されました。これはどういう意味でしょうか?神は癒したい時にだけ、「では、あなたを癒しましょう」と言って癒しのスイッチを押して誰がいつ癒されるかを決めるのではありません。この女性はイエスのみもとにやって来て心の中で言いました。「もし彼のお着物の縁にでも触る事ができれば…」この場合、誰が癒されるための条件を決めましたか?彼女が決めました。イエスは振り返り、誰が彼に触ったかさえも分かりませんでした。私達は、イエスは神の力が彼女の中に流れていった事を知っているに決まっていると考えます。この箇所より誰が神の力をコントロールしていたかが分かります。イエスが人々への神の力であり、その女性がその時に神の力を引き出して癒されました。私がこう言うと人々は怒りますが、私はそれが真実である事を発見しました。
色々な例で説明できます。例えば、今朝起きた時も時間はいつも決まっています。太陽の事です。神は毎朝起きて、「日よ昇れ」と言う必要はありません。何故でしょうか?それは、太陽は軌道に乗せられているからです。神が一度言ったので、彼がそれを変えるまでは太陽は同じように働きます。神は毎朝起きて太陽に向かって、「日よ昇れ」と言う必要はありません。それは今も一定して変わらずに働いています。神は毎朝起きて同じ事をする必要はありません。イザヤ書では神は彼の言葉を送って、彼の言葉は成就すると書いてあります。神は彼の願う事を成し遂げる為に神は言葉を彼の口から送り、その言葉は彼の言った事を成し遂げます。彼の言葉はむなしく彼の元には帰ってきません。他の例を使っても説明できます。もし古い契約が好きなら、古い契約からの例を使って反対する人達に説明しましょう。聖書は、「文字は殺します。」と言っています。私達は文字で肉的な考えを断ちます。モーセを例に取ります。彼は最初に岩が割れて水が出てきた時に、その場にいました。それから、彼は戻って岩を二度打ちました。彼は水を得ようとしていました。では、彼が岩を打った時には、どんな代価を支払いましたか?神は言いました。「あなたは約束の地には入れません。」
この様に、モーセは神に背いて岩を打ち、罪を犯し、それには代価が伴いました。私達が一般に受け入れている神学は、神の御心に従わないと何も起こらない、と言います。私達はそう考えますが、モーセは罪を犯したにも関わらず奇跡を行いました。それは神の力は機械的であるのを証明します。何故でしょうか?それは彼が杖を持っていたからです。しかし、彼のした事には代価が伴いました。私は神の御心に従わない事をするように言っているのではありません。私が言いたい事は、私達はモーセよりも偉大だという事です。理解しなければならない事は、私達の任務は真理を語る事によって天国を地上にもたらす事です。ある人はそうは思わないでしょう。しかしイエスは彼らに、「あなたの御心が天国で行われるように地でもなされますように」と言いました。天国には病人や肢体不自由な人、死にそうな人々はいません。病気はこの地上にあるべきではありません。今から幾つかの聖書箇所を見せます。それによってもし病人が私達の町にいるなら、それは私達の失態である事を証明します。癒しを行う為に何が必要かを知る事は皆さんの責任です。この神癒技術者訓練でそれらを凝縮して教えています。幾つかの事は実際に癒しを行うにつれて学んでいく事ができます。大半の問題と向かい合っても、皆さんがそれらに対処できるように訓練する事はできます。しかし、私達は決心をして癒しの義務を負わなければなりません。何故なら、何でも始めた事は最終的に私達自身にのしかかってくるからです。癒しを成し遂げる為にやるべき事を学ばなければなりません。それには責任も伴います。もし皆さんがどの様に人々に仕えて癒すかを学び、同時に癒しを神に頼る事ができないのなら、今から一年以内には、私が皆さんの神経衰弱の為に祈る事になるでしょう。
私は神経衰弱になりました。全てを負いすぎて、目を閉じると祈っている全ての人達の顔が見えました。店の中を歩いていて、途端に泣き出したり、時には震え出したりしました。その経験を他のスタッフに話しました。私は言いました。「何故この様な事が起きているのか分かりません。何で体がこの様に反応するのか分かりません。」ある時にはレストランに入った途端に泣き始めました。その時には立って誰にも見られないようにトイレに行き、そこで泣いて考えていました。「このまま泣いていたらだめだ。そうしたら、もう正気には戻れない。」私はそのトイレの隅に座って震え泣きながら神経衰弱になっていました。こうなった理由は、私がその様な煩いをイエスに委ねるのか知らなかったからです。私は病人達の癒しの責任を負っていました。癒しを行う上で、私達は際どいラインの上を歩かなければなりません。全ての責任を取りつつ神に全ての煩いを任せなければなりません。それは際どいラインですが、その上をどう歩くか学ばなければなりません。もしその歩き方を知らないなら、誰の助けにもなる事はできないからです。その歩み方は、もし病人が癒されたらそれはただ神の栄光と見なし、癒されなかったら私達の失敗と見る事です。しかし、ある時点で、過去の失敗などの苦い経験から自分自身を解放する必要があります。
例えば、モーセとイスラエル人はエジプト軍から逃げ、紅海までやって来ました。その時モーセはエジプト軍を背にし、紅海を前にしました。イスラエル人とエジプト軍の間には神の火の柱が立っていました。それなのに、イスラエル人は、自分達は死ぬと言いました。イスラエル人と全く同じ様な事を私達もします。神は私達を様々な困難から救い出し、助け出し祝福してくれました。しかし、新しい問題が起こると私達は「神様、何故この様な状況に私を置くのですか?何故この様な問題を許すのですか?」と弱音を吐いて泣きます。何故神はこの様な事を許したのでしょうか?それは私達が許したからです。これは単純な真理です。聖書には「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」と書いてあります。つなぐ事と解く事は何処で始まりますか?この地上で始まります!天ではありません。この地上でつなぎ、この地上で解かれるので全ては私達次第です。これが新しい契約のキリスト教です。イエスはこの様に考えました。イエスのみが私達の見本です。弟子達や病人は私達の見本ではありません。私達は聖書によれば新しい創造なのであって、その新しい創造としての歩みはイエスが見本となっています。
これを聞いてある人達は言うでしょう。「まるであなたは自分が何か特別で、異なった人間であると言っているようです。」そうです。私達は特別です。イエスは私達の内におられ、私たちとともに生き、歩み、話します。油注がれたイエス様は私達から去る事はしません。多くの人々は油注ぎについておかしな考えを持っています。ある人々は、油注ぎは増すものだと考えます。人々は「神は新しい油注ぎを注ごうとしている」などと言います。そうであるなら、神がその油注ぎを引き止めていたので私達は何もできなかった。これは神のせいだ。」といって、私達は全てを神の責任にするでしょう。神はキリストという油を既に注ぎました。神が今教会に何を言うか知っていますか?神様は「目を覚ましなさい」と言っているのです。パウロを通して「義に目覚めなさい。立ち上がって、あなたのうちにある聖霊の賜物を奮い立たせなさい」と言いました。新約聖書を読んで下さい。何事でも責任は100%クリスチャンにあります。決して神ではありません。そうでないのなら、いつの日か私達は神の御前に立って、「あなたは私が必要なものを与えてくれなかった」と言う事になるでしょう。しかし、誰も神の御前に立ち、まるで自分の方が神よりも一所懸命で人々を愛しているかの様に非難する事はできません。神は既に私達にイエスの御名、言葉、御霊を与えてくれました。もし、何か欠乏があるのなら、それは私達が受けたものを用いる為の従順です。
私達のバイブルスクールやチームでは、いつも私達が電話を切る時や、さよならを言う時には同じ事を言います。その時にはこう言います。「栄光と自由!」どういう意味かと言うと、「神には栄光を、人には自由を!」という意味です。
何故なら、私達はしいたげられている人達に自由を与える為にこの地上にいるからです。私達はよく言います。「私は油を注がれています。主の御霊が私の上にあるからです。」
それはイエスの言った事と正反対です。イエスは言いました。「主の御霊が私の上にあります。神が私に油を注がれたからです。」神の御霊が私達の上にあるのは、私達が油を注がれたからです。油を注がれるとは、ある事柄を行う為に指名されるという事です。サウルは油を注がれた王でした。彼は王となるように任命されたからです。分かりますか?油注ぎは任命される事です。私達はよくこの言葉を間違って使います。油注ぎは外から私達の上に注がれるものだと考えます。それは違います。油注ぎは私達が新生した時に受け取ります。そして、神の御霊が私達の上に留まります。私達は油を注がれて、そして神の御霊が私達の上に留まります。何故、御霊は私達の上に留まるのでしょうか?神は言いました。「あなたがたは子であるゆえに、神はアバ、父と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣わしました。」神は聖霊を遣わす事によって、私達を子供達にはしませんでした。私達が神様の子供達であるから、御霊を遣わしてくれました。私達は既に油を注がれています。
レイク氏は聖霊のバプテスマを受ける前に今日の大半の聖霊のバプテスマを受けた人々よりも素晴らしい癒しのミニストリーを1891~1907年にかけて行いました。彼は1907年までは聖霊のバプテスマを受けませんでしたが、それでも彼は顕著な癒しを行いました。ジョン・アレクサンダー・ダーウィも聖霊のバプテスマなしで大きな癒しを行いました。彼は癌をある人の顔から引き剥がし、その人は癒されました。何故彼はその様な事ができたのでしょう?それは私達が新生した時に私達には権威が与えられるからです。新生は神の子となる権威を信じる者に与えます。聖霊のバプテスマは神の子供の様に歩む事を可能にします。それが新生と聖霊のバプテスマの違いです。レイク氏は聖霊のバプテスマについて理解していました。これが、私が教えようとしている事です。これが、レイク氏が10万人の癒しを5年間に見る事ができた秘訣です。その秘訣は、神の霊は私達が彼を神の為に用いる為に与えられたものである事を理解する事です。大きな橋を制御する機械を見た事がありますか?その機械を操作する人は制御塔に座って、目の前にあるとても小さなハンドルを動かします。彼がそのハンドルを引くと、その大きな橋は持ち上がります。しかし、もしその操縦士が橋まで行き、両手でその橋を持ち上げようとしても決して持ち上がりません。そうですよね?そんな事は明らかですがもう少し聞いて下さい。その人は両手で橋を持ち上げる事はできませんが、もし、制御塔まで行って小さなハンドルを引きさえすれば、橋を持ち上げる事ができます。現在では、小さいスイッチさえ押せばその様な事ができます。それはどういう意味でしょう?橋が持ち上がるのは、その人のハンドルを上げたりスイッチを押したりする力の故でしょうか?それとも、その機械の構造によって力が急激に増幅されたからでしょうか?神から生まれた霊的な者としての私達の力は神の御霊によって急激に増大されます。神の御霊は私達から離れてはいません。
聖書は「主と交わる者は一つ霊です」と書いてあります。誰かが私に「それはあなた自身かそれとも神が言った事ですか?」と尋ねるなら、私の答えは「そうです」です。何故でしょうか?それは私達です。分かりますか?二人は一体になります。パウロは言います。「あなたに奥義を話します。それは男と女が一体になる事と同じ事です。」それは教会についても同じ事です。私達はキリストと一体となります。思い、方向、目的において一つです。これが、大半の、新生しているという人々が実は新生していない理由です。彼らはイエスを付随的に自分の人生を良いものとして、問題を修正して、汚い人生をきれいにする為に信じようとします。問題は現実には人々は真に古い人に死ぬ事なく、復活した者として歩もうとする事です。死ぬ事なしに復活する事はできません。多くの人は自分に死ぬ事は望まず、イエスを傷の上につけるバンドエイドとして欲しがります。自分の命を交換する対象としては求めません。パウロは言いました。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」これこそが私が今話している事です。イエスは、「もしあなたが私を遣わした人を受け入れるなら、あなたは私を受け入れます」と言いました。私はイエスではありませんが、彼の言葉を語り、彼の霊は私のうちにいます。天にいた神の御霊と私の中にいた私の霊は一つ霊となりました。そして今神の御霊は私のうちに充満しています。いつ、どこで御霊が動き出し止るか、いつ、どこで私が止まり、御霊が動き出すのを見分ける事はできません。私達は一体だからです。私達の考えが一新されればされるほど自分と御霊との見分けはよりつかなくなります。私達はキリストのように話し、行動するまで考えを一新し続けます。人々は皆さんを避け出し、遠ざけて言うかもしれません。「あなたは一体何様だと思っているのか?自分を誰か特別だと思っているのか?」いいえ、そうではありません。私達は何者でもありません。私達が自分は何者でもない事を知れば知るほど、イエスは私達のうちにより強く生きる事ができます。
人々はジョン・G・レイクについて言いました。「彼はこの様な事やあの様な事ができる。何故なら、彼は油が注がれており賜物が与えられているから。」彼は笑ってこう言いました。「もし妻のジェニーがそれを聞いたならきっと笑うでしょう。何故なら、彼女は私の間違いや欠点をよく知り尽くしていたから。」そして、続けて言いました。「人々は私が特別な人なので今私のしている事ができると言います。しかし、秘密はこれです。私が癒しなどを行う事ができる理由は、自分自身が誰であるかよく知っているからではなく、むしろ、私は自分自身が誰であるかを忘れる事ができるからです。」この様に、私達の問題は私達自身です。私達は「私はまだ準備ができていない、まだ~できない」と考えます。そうです。私達は決して準備万端にはならず、決して何も行う事はできません。ですから、さっさと自分に死んで、キリストが皆さんを通して生きる事ができるようにして下さい。そうする時、私達は自分自身について何も考えません。私は何年も無駄にしてきたので、今は時間を無駄にする事が嫌いです。今は穴埋めをしようとしています。
私は数年前にジョージア州にいました。私は少しの間そこに移って、教会を建てるのを手伝いました。ある時、私の妻と子供たちとモールに行きました。妻と娘は服を返品していました。私はよく本を持って出かけますが、その時は何も持っていませんでした。それで、その場にいたくはありませんでした。彼らは列に並び、長い時間が掛かっていたので、私は機嫌が悪かったです。霊的でもなかったし、異言で祈ってもいませんでした。ぶつぶつ文句を言ってその場に立って待っていました。「何の為にここにいなければいけないんだ。」私はついに妻に言いました。「私は本屋に行って本を買ってくる。そうすれば待っている間、立って本を読めるから。」彼女達はしばらくの間話していました。そうこうしていると、二人の女性達と若い女の子が近くにやって来たのを見ました。私は注意を払っていませんでしたが、何かを感じました。それは私の手のサイズでした。何かが私から彼女達の方向に向かっていくのを感じました。その当時、私は祈っていました。「神よ。何か変わった事、普通でない事をして下さい。何か奇跡的な事を行って下さい。」しかし、本当にその様な事が起きた時には「何だ?」と驚きます。この何かが出て行くのを感じた時に、その方向を向きました。私が振り向くと、それはその若い女の子がいた方向でした。彼女はお母さんにしがみついていたので、気分が良くない事が見て分かりました。何が起こっているか知っていましたが、私はただ眺めていました。ある人は訊くと思います。「彼女に手を置いて祈りましたか?」いいえ、私は皆さんのようでした。私は彼女達を助けたかったけどそこまで行きたくありませんでした。私は他の人達と同じ様に拒否される事は嫌いです。私達は他人がどう反応するか分かりません。2分程すると彼女は言いました。「お母さん、気分が良くなった。」私は「よしっ」と思っていました。
それから、私は家に帰ってその体験について考えていました。数日後に、ビデオをテレビで見ながらパソコンを使って働いていました。人々は私に世界中から様々なビデオテープを送ってくれます。その内の一つはアフリカからの癒しの集会のビデオでした。その中には、実際に癒しが起きている映像がありました。癌などが剥げ落ちていました。私はそれらの癒しを見ながら、つぶやいていました。「すごいな」と。そのビデオを見ているうちに、私はモールで起きたと同じものが私の内からテレビに向かって出て行くのを感じました。このビデオは1年以上も前に録画されたものだったので、もう既に起きた事です。もうその場面で神は働く必要はありませんでした。私がそのビデオの中の人達に何かする必要もありませんでした。私は仕事を一旦とめて、言いました。「神よ。これは一体何ですか?意味が分かりません。」彼は私に訊きました。「今まで経験した命が危うかった状況を覚えていますか?」「はい、今までに何回か経験した事があります。」彼は言いました。「あなたがそれについて話す時には何が起きますか?」私は考えました。「その経験を再び体験します。より詳細について考えれば、考えるほど、それを再び体験します。詳細について思い起こせば思い起こすほど、心臓の鼓動は早くなります。
血圧が上がり呼吸も苦しくなります。私はそれを再び体験するからです。」神は言いました。「それが今起こっている事です。」私は答えました。「どういう事ですか?」神は言われました。「聖霊はその人を癒した時の事を覚えています。」聖霊はビデオの中で人を癒した時の事を覚えていて、私は聖霊がその時に感じていた事を感じていたのです。私は何年もの間、次の聖書箇所を宣べ伝えてきました。「もしイエスを死者の中から蘇らせたのと同じ御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら、イエスキリストを死者の中から蘇らせた方は、あなたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたの死ぬべき体をも生かして下さるのです。」私はいつも癒しについての箇所でもある 「あなたの死ぬべき体をも生かして下さるのです」という部分を強調して来ました。その時、神の御霊は、その聖書箇所を繰り返し始められました。「もしイエスを死者の中から蘇らせた方の御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら…」私は考えました。聖霊は繰り返して言われました。「もしイエスを死者の中から蘇らせた方の御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら…」私は言いました。「はい、分かりました。」聖霊は答えられました。「違う、違う。もしイエスを死者の中から蘇らせた方の御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら…。」その時、私はついに理解できました。私達は違う御霊を持っていないのです!
考えてみて下さい。私達の内にイエス・キリストを死者の中から蘇らせたのと同じ御霊が宿っているのなら、「私は何をしたら良いか分かりません。その様な状況を経験した事はありません」などと、どうして言えるでしょうか?もちろん私達はその様な状況を経験した事はありません。しかし、私達の内に宿る聖霊は経験した事があります。全ての死者を蘇らせた場面に聖霊はいました。全ての癒しの場面に彼はいました。聖霊なしでは奇跡は起こらなかった事を知っていますか?しかしある人は、「私は用意ができていません」と言います。そうですね。しかし、聖霊は用意ができています。ある人は、「私はこの様な状況を経験した事はありません」と言うでしょう。しかし、聖霊は経験した事があります。私達が用意万端になる事は決してありません。用意できないのは、人は様々で、全ての癌も異なっているからです。いつも変わらず同じものは解決策である聖霊です。彼だけがいつも変わらず同じです。もし私達が十分な御霊の力を病人に与えれば、その人はどんな問題からも癒されます。何故、他人の生死は私達の準備次第だと考えるのですか?私達はそんなに重要でしょうか?ある人は言います。「神が彼らを癒さなかったのは、私が高慢だから。」そう考えるならその人は既に高慢です。それはイエスに「主よ。迷える人々の為に重荷を下さい」と言う様なものです。そう祈っているなら、既にその重荷を持っている事を意味します。ある人は「私が癒しを行う事ができる前に神は私を正してくれます」と言います。しかし、私達はそんなに重要ではありません。イエスは全ての人が癒される為に死なれました。私達が問題だらけだからと言ってその病人を癒さない事があるでしょうか?癒しを行う為に皆さんは自分が完璧でないといけないと考えていますか?
その様な考えは、この宇宙や全ては私達を中心に周っているという考えです。しかし、全ては神を中心に周っています。私達の仕事は出て行って病人を癒し、死人を生き返らせて悪霊を追い出す事です。私達はより多くの油注ぎが必要だと考え、ここやあそこで少しずつ油注ぎを得るなら、そのうちに油注ぎは増えて溢れ出るようになると考えます。しかし、私達は既に神から全て受け取りました。問題は何か知っていますか?それは私達の自己中心さです。キリストは既に私達の中にいるので、新しい油注ぎを得る事はありません。私達が自分の皮を一枚一枚脱ぎ捨てていき、ほんの僅かな自分しか残らなくなるまでそれを続けると、神の全てが私達を通して流れ出て放射する様になります。分かりますか?私達は玉ねぎの様なものです。私達の人生での仕事は自分の皮を剥いていく事です。皮を剥けば剥くほど、神は表面に出てきます。そして、人々が私達を通して神を見ます。ですから、私達の仕事は全ての自己中心の皮を剥く事です。それは、「自分に死ぬ」事です。自分の肉に死ねば死ぬほど、神はより表に出てきます。これによって油注ぎは増えますか?いいえ、そうではありません。しかし、私達が小さくなります。バプテストのヨハネは言いました。「あの方は盛んになり私は衰えなければならなりません。」聖霊は増えますか?いいえ。しかし、私達が小さくなればなる程、神は大きく見えます。それは私達が小さくなり、神の事をもっと見る様になるからです。より多くの聖霊や油注ぎを得ようとする事をやめて下さい。皆さんが既に受けているものを用いて下さい。種蒔きと刈り取りの法則について考えて下さい。皆さんが受けたものを使い、それが空になる時、神はその空になった部分を満たして下さるでしょう。そうしていけば、神はより多くのもので最初の頃より皆さんを満たして下さるでしょう。
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