質問:「II歴代誌16:12でアサは両足共に病気になりました。そして、その病気は重かった。ところが、その病の中でさえ彼は主を求める事をしないで医者を求めたと書いてあります。これを説明してもらえませんか?医者に頼るのは間違っているように聞こえるのですが。」では、この質問に関した事をシェアします。私たちは、病気や、わずらいやその他の問題を抱えている人々を傷つけたり、落ち込ませたりしたくはありません。又、彼らが問題と向かい合う事を諦めたり、自分自身が十分に闘病の為に頑張っていないと思って欲しくはありません。私達は人を勧め、助け、彼らの徳を高める事をします。でも、同時に、福音を宣べ伝えなければなりません。レイク氏はこの質問に関して、とても明確な姿勢を持っていました。
1918年のインフルエンザ大流行の時を覚えていますか?その当時のインフルエンザは世界中に大打撃を与え、世界中で2000万人以上もの人々を殺しました。アメリカでも西海岸を中心に多くの被害をもたらしました。そして多くの人を殺しました。その当時、レイク氏はその地域で2000人以上の教会を持っていました。それはその地域で最も大きな教会でした。その間に、何度かインフルエンザの為にある家々は隔離されました。その様な隔離の法律を破り、レイク氏は人々の家にも入っていきました。その為にレイク氏は何度か逮捕されました。
ダーウィも逮捕された事があります。彼は癒しを行っていた事を理由に、ある年に100回以上も逮捕されました。彼の教会にとってそれは日常のことでした。ダーウィ氏が教壇の上に立って説教をしている途中に警察がよくやって来て彼を逮捕しました。彼らはわざとやって来てその様な事をしました。何故なら、ダーウィはシカゴ政府の罪や欲や腐敗について説教していたからです。彼らはダーウィを憎んでいました。その様な出来事は頻繁になったので、ダーウィが説教の途中に逮捕されると人々はそのまま教会の中に留まりました。そして、彼は釈放されて、戻って来て説教を語り終えました。彼らはその様な事を行い、歩み続けました。ダーウィがシオン市を建てた時には、彼はそこには薬も医師も許しませんでした。実際には、彼はさらに厳しく豚肉も食べてはいけない、旧約聖書の食物の律法に従うと言いました。彼は又、アルコールを触る事も、その当時にランプに使っていたアルコールを触る事さえも禁止しました。彼はそれほど厳格でした。彼は厳しすぎたので、それは過度に至る事もありました。私は神の心は人々を助ける事であり、彼らを愛して、傷を癒す事であると信じます。ダーウィは厳格すぎたので、彼の娘がアルコールランプの規則を破って、彼女の部屋でランプを倒して、彼女の長い髪に火がついてほぼ全身が焼けて死にかけている時に、彼は部屋に入っていって彼女に言いました。
「あなたが悔い改めた後にあなたの為に祈ります。あなたが規則を破った事を謝ったならです。」規律を守る事は大切だとは分かります。でも誰かが、特に自分の子供が苦しんで、やけどのように痛みを感じているのに、彼のような反応ができるなんて、信じ難い事です。想像するだけで心が痛みます。しかし、レイク氏は人を助けました。彼が隔離の法を破った時、つまり彼が祈る為に家に入って行った時、警察が逮捕する為に家の前に立っていた事もありました。レイク氏はそれを見て、裏庭を通って隣の家に入って逃げたりするような事が多々ありました。私はレイク氏の書いた説教を持っています。今までに出版された事のないものも持っています。私は殆ど全てのクリスチャン出版会社と話しました。全ての有名な大きな出版会社です。名前は言えませんが、彼らはそれらの説教を編集したがりました。もし内容に賛成するならいいのですが、もし賛成できるものでないなら、それらを編集したがるのです。今出版されているレイク氏による本は、収集されたと書いてありますが、同時に編集されたとも書いてあります。編集されたと書いてある理由は、多くの人々は、語られたままの状態では出版できないからです。私が語っている事柄は、レイク氏の説教にあったもので彼らが削除したものです。その理由は、今日教えられている主流のキリスト教の教えと一致しないからです。
多くの人々はウィグルワースの事が好きです。そして言います。「ウィグルワースは最高です。」私は実際にこのミネソタにいる、ウィグルワースの運転手であったジョージ・ストーモント氏と何年間か話しました。私はアルバート・ヒバート氏も追いかけました。エイミー・センプル・マクファーソンやジャック・コウやA・A・アランなど全て、彼らや彼らを知っている人達を追いかけました。彼らには多くの共通して行っている事がありました。その中でも、際立って目に留まるのは、その当時は、もし医者に行くならそれは罪だという認識です。初期の聖霊派の教会はそれを当然の事としていました。彼らは医者には行きませんでした。その後、もし医者に行く事ができるなら、別にそれは良いという考えになりました。それから、終に医者が神の手になってしまいました。考え方が変わってきたのです。医者と癒しに関して、人々は、「私はどうしたらよいでのしょうか?」と質問します。私の回答を教える事はできません。たとえ私が答えても、皆さんはその通りにしないでしょう。結局、皆自分の気に入る事をするでしょうから。私が何をするかを教える事はできますが、それは役には立たないと思います。人が死ぬ理由を知っていますか?それは、誰か他人の啓示に頼って生きようとするからです。私がインディアナ州のとうもろこし畑の中にある教会にいる時、そこにはある男の人がいました。彼は驚くべき癒しを行っていました。そして、信仰についての説教をしていました。しかし同時に、彼に関して多くの議論や、数人や幼児が死ぬなどの問題が起こっていました。もしあなたが自分の癒しの為に信仰を持ちたいならなら、それは良い事です。私は自分の為に信仰を持ちます。そして、もし助けが必要な時には誰かに助けを求めます。
しかし、もし子供がいるのならその子の為に祈り、その子の為に神に対して信仰を持ち、何でもできる事はして下さい。何故なら、私達大人はいつ助けが必要か選択する事ができますが、子供はそれができません。自分の力の不足を理由に、誰かを苦しませる事は決してしないで下さい。もしその子の為に祈っても結果がでないなら、その子が生き残る事ができるように助けを求めて下さい。これは弱々しく聞こえるかもしれませんが、私達は自分の信仰を証明する為の意地や名誉や誇りの為に、誰かが苦しみ傷つけられる事は見たくありません。そうですよね?その様な意地や誇りは捨てて下さい。必要な時には助けを求めて下さい。自身が歩む事のできない標準や規則を人に押し付けないで下さい。それは律法主義というものです。福音を宣べ伝えて下さい。医者と癒しに関しての事柄は、神と人々との問題です。単純ですよね?
ある説教でレイク氏は、「ここにいる何人の人達が錠剤飲みですか?」と訊きました。誰も手を上げませんでした。彼らはそれを認めたくなかったからです。ある時、彼は看板を掲げました。それには「神の癒しを見に来る全ての医者、悪魔、疑う者達」と書いてありました。彼は医者を悪魔と疑う者と同じ部類にしました。「疑う者」ならともかく、私は彼らがただ医者だからといって、悪魔と同じ部類にしようとは思いません。私達はフロリダ州にいる一人の医者を知っています。確か彼女は血管の外科医でした。彼女がこの訓練に来た後にも幾つかの集会に来て、彼女と何度か話しました。私は彼女をできるだけ助けました。一年後、彼女は許可証を維持しましたが、医療の仕事を辞めてヒーリングルームを始めました。何故なら、彼女は身体を切って手術する事よりも、祈りによって多くの成功を収め始めたからです。この様な話を他にも4つ程する事ができます。しかし、レイク氏は言いました。「聞きなさい。もし薬を持っているなら、これがあなたのする事です。家に帰って薬をトイレに流してトイレに向かって謝りなさい。」これが彼の薬に対する意見でした。しかし、私達はバランスを持って考えなければいけません。考慮に入れなければならない事は、その当時の医療は本当にひどいものであったという事です。正直に言って、今日でも、放射線治療、化学医療などは残酷です。それらは人々を殺しています。殺す事は神の道ではありません。それらによって生き延びる人もいるかもしれません。でも、それが神のやり方だとは言わないで下さい。神はイエスを通して行ったような完璧な癒しの方法を諦めて、不完全な方法を使う理由はありません。そうですよね?どうして神は彼の完全な癒しのシステムを不完全な人の医療に任せるでしょうか?この事は、贖いについて話す時に見ていきます。
それでは民数記21章に戻ります。そこでは、荒野でモーセが蛇を掲げた事について書いてあります。覚えていますか?イスラエル人達は罪を犯し、蛇が出てきて彼らに噛み付きました。彼らがモーセに助けを求めた時にモーセは神に祈りました。
そして、神は言いました。「これがあなたのする事です。あなたは青銅の蛇を作り、それを掲げてそれを仰ぎ見る人は全て癒されます。」それで、彼はその様にして、その青銅の蛇を仰ぎ見た人は全て癒されました。それを見た全ての人です。多くの人々は怒って言います。「何故、青銅の蛇なんですか?気に入りません。」それは、イエスが罪になったからです(IIコリント5:21)。蛇は罪を象徴します。イエスはそれになって、私達の為に呪いを受けてくれました。まだ十字架の刑は作られていなかったので、蛇を代わりに掲げました。もし私達がその青銅の蛇が掲げられたものを見るなら、それは蛇のついた十字架のように見えるはずです。医療も同じような象徴を使います。細かく言えば、モーセの青銅の蛇を見るとそれには一つの蛇しかありません。医療のシンボルには2つの蛇があります。聖書で2つの蛇を見る事ができる所は、ファラオの中庭だけです。モーセが彼の杖を投げるとそれは蛇になりました。そして、ファラオの魔術師達が彼らの杖を投げると、それらも蛇になりました。しかし、モーセの蛇は彼らの蛇を飲み込みました。そうですよね?ですから、私達が本当に聖書的に理解したかったら、そこまで細かく見る必要があります。
さて、もし私達が現代の大半の医療の起源をたどって行くと、それと同じ所にたどり着きます。それは魔術師の様なものです。彼らは色々な粉を混ぜたりします。現在の医療も同じような事をします。私達が行う癒しの40%は医者が行った間違いを直す事です。私は医者が意図的に間違いを犯したと言っているのではありませんが、医者の犯すミスの統計を見てみると、医者に行く時には信仰を持って行く方が良い事が分かります。12年間のベトナム戦争での死者の数よりも多くの人々が毎年医者の誤診によって死にます。統計を見る時に、医療がどれだけ危険であるか、私達がどれだけ医者に自分の命を委ねているかが分かります。多くの人々は神を最後の頼みの綱としています。医者に行って色々手を尽くしてどうにもならない時に、最後に神の助けを求めます。私達は神の民として、神を第一に頼る者とするべきです。もし私達が神を頼みの綱と呼ぶのなら、神は私達にとって最初から最後までの頼みの綱であるべきです。医者に行くなと言っているのではありません。助けが必要な時は助けを得て、闘う為に生き延びて下さい。しかし、医者などに通う間にも、信仰や癒しについて学んで下さい。私は、型にはまった「~しなければいけない」と教えているのではありません。医者に通うならそれは重い罪ですと言っているのではありません。しかし同時に、皆さんに成長して欲しいと思っています。医者よりも良いものがあります。前にも言ったように、私も助けが必要なら、医者に行った事でしょう。しかし、今ではそれよりも良いものを見つけました。レイク氏が医療に反対していた理由は、彼自身医者になる為に医学を勉強したからです。彼は医学校に通い、医療が人殺しを重ねて発展して来た事を知りました。彼は女王に仕える有名な医師を引用して、「全ての薬は人殺しによる実験と試作によって作られてきました」と言いました。これはその医師が言った言葉です。何故でしょうか?
それは、彼らは人で薬の実験をして、もしその人が死んでしまったら、その薬の問題を見つけて修正する事を繰り返してきたからです。もう一度言います。もし医者を信頼するならそれは構いません。しかし、もし信仰を持つ事ができるなら癒しの為に神を信頼して下さい。神は医者を用いる事ができますが、医療を神の癒しの方法にはしないで下さい。
私はある時ニューヨークにいて、その集会に座っていた女性と話しました。彼女は言いました。「私達はクリスチャンです。私達は患者の為に祈ります。」私は答えました。「それは良い事です。」しかし、中には「私はクリスチャンの空手インストラクターです」という人もいるでしょう。私が武術を教えていた時には、3人の教え子に洗礼を授けました。しかしその時、私はクリスチャンとして歩んでいませんでした。私は知っている聖書の箇所に関して実行していましたし、人々を助けたり教えたりしました。でも、信仰的には不安定な人でした。彼らが私の人生を見て新生した事は奇跡です。ある人達は都合がいい時だけ良い事をしようとします。そんな感じで、今では人々は「私はクリスチャン銀行員です。クリスチャンセールスマンです」と言います。銀行の業務やビジネスはクリスチャンではありません。クリスチャンは人々です。そして、もしそのビジネスがクリスチャンの原則に反するのにそれを続けるなら、その人はクリスチャンではありません。人々は言うかもしれません。「でも、もし反対して不正な請求書を書かなくて、彼らと仲良くしなかったら仕事を失います。」それなら仕事を失う必要があります。神が私達を正しく用いる事のできる新しい職場に移るべきです。もしかしたら、何処かの宣教師になるかもしれません。それでも、ある人は言うかもしれません。「給料のいい仕事を失います。」そんなにお金ばかり稼がなくてもいいんじゃないですか?それでも言うかもしれません。「私はあなたの意見には反対です。」そういう人は怠けた、気楽な人です。私達は時には、心地よい人生を揺さぶられる必要があり、何が真実かを知る必要があります。何故なら、この世の多くの事は崩れ去って行くからです。その様な時に、ただ残って立ち続けるのは神が結び合わせたものだけです。アーメン。では、説教する事をやめて教えに戻ります。
質問です。「骨折した足で歩きながら、自分は癒されたと言うべきですか?」いい質問です。というのは、この質問から幾つかの教訓を学べるからです。第一に、私はそれを実際にしました。告白(御言葉の宣言)する事に関しては、多くの議論があります。しかし、私達が告白していたとしても、それを信じていないなら嘘をついている事になります。もし信じているなら、嘘はついていません。ある人は「でも、足は骨折しているのに、あなたは癒されていると言っているじゃあないですか?」と指摘します。そうです。私は無いものをあるもののように呼んでいます(ローマ4:17)。これは原理です。もしその原理を信じるなら嘘はついていません。私達は信仰を得る為に、無いものをあるもののように呼ぶのではありません。私達は信じているが故に語ります(IIコリント4:13)。
その言葉を信じる事が出来るまで繰り返し言うべきではあります。何故なら、私達が何度も繰り返して言うならば、それを信じるようになるからです。しかし、骨折をした時などは信じる事ができるまで繰り返し言う時ではありません。骨折が起きる時までに、その様な信仰を持つように日頃から訓練しているべきです。何故なら、私達はどの様な事が起きていようと、いつもイエスの打ち傷によって癒されたと信じるべきです。この信仰の原理について説明したいと思います。
例えば車よりも重く、列車よりも大きな機械を持っているとします。その機械は飛びます。そう、飛行機の事です。飛行機は空気よりも重いので、重さからしては、飛行機は飛ぶはずがありません。考えてみて下さい。崖からその飛行機を押し出だすと、少しの間は翼の為に宙に浮くかもしれませんが、すぐに落ちていきます。何がその飛行機を地に引くのでしょうか?万有引力の原理です。では、引力は事実ですか?それは原理であり事実です。聖書は様々な事について書いてあります。そのうちの一つは信仰の原理です(ローマ3:27)。信仰が原理なら、それを破れば何かの結果が伴うものです。私達には万有引力の原理がありますが、空気力学の原理というものがあります。揚力の原理です。飛行機が滑走路を走り加速して、一定の速度に達して十分な空気が羽の上下を突き抜ける時、揚力の原理は飛行機を空中に持ち上げます。これは、空気力学の原理です。空気力学の原理は事実です。万有引力の原理がある事も覚えていますか?引力の原理も事実です。では、飛行機が飛んでいる時には、引力の原理は存在していませんか?そうではありません。引力の原理はまだ働いています。では、どうして飛行機は飛ぶ事ができるのでしょうか?それは、さらに強い原理である空気力学の原理が引力の原理に取って代わるからです。覚えておいて下さい。聖書に書いてある信仰の原理は、事実の原理に取って代わる事ができます。足が骨折している事は事実です。信仰の原理は、事実の原理に取って代わる事ができます。空気力学の原理が、引力の原理に取って代わる時、少しの間加速の時間を伴います。揚力の原理が万有引力の原理に取って代わり、飛行機は離陸する事ができます。でも、揚力の原理、又は飛行機の速度が落ちると、突然、引力の原理が揚力の原理よりも強くなり、飛行機は下降し始めます。信仰の原理は事実の原理に取って代わる事ができます。人生のある領域で信仰の原理に従って歩み始めると、信仰の原理が事実の原理に取って代わるまでには、しばらくの時間が掛ります。そのしばらくの間に、私達は滑走路を走っています。その間に何も起きてないわけではありません。私達は勢いを増し、ある一定の勢いに達する時に揚力の原理が引力の原理に取って代わるように、信仰の原理が事実の原理に取って代わります。通常、それが起こる時に癒しが起こります。私達が信仰の原理によって飛んでいても、私達が間違った仲間とつき合うなら私達は降下して行き、事実の原理が強くなってきて、信仰の原理に取って代わります。でも、信仰の原理に従って歩む正しい仲間とつき合うなら、再び仰ぎ風を受けて高く上がる事ができます。
この上がり下がりは、揺れ動く事です(ヤコブ1:6)。振動や電波や音波を見た事がありますか?それらは上がったり下がったり、前後に行ったり来たりします。私達が上に上昇している時には私達は信仰の原理に従って歩んでいます。私達が下降している時には事実の原理、目に見える事柄など、五感に従って歩んでいます。大抵、その様に下降していく原因は自分自身ではなく、私達の周りにいる人々にあります。これが付き合う人を選ぶ事が重要な理由です。
それはレイク氏が教えた霊的な力への7つの秘訣のうちの一つです。彼は同じ考え方を持つクリスチャンとの交わりを勧めました。私達の信じている事に反対する人々と付き合うよりは、一人で歩んだ方がましです。どちらにしろ、意見の一致しない人と歩む事はできません。ですから、私達は信じている事に同意する人と歩む必要があります。それは、その人といつも全ての事に関して100%同意するという事ではありません。何が重要で欠かせない事で、どの方向に歩んでいるのかを知らなければなりません。私達がそれらを知り、それらを守りながら歩んでいく事は大切な事です。
私は祈りや断食には反対ではありません。私が最初にミニストリーを始めた時には、祈りや断食が万能薬であると聞いていました。もし十分に断食して祈ったら、全てがうまく働くという考えでした。しかし、誰もどれくらい必要であるかを教えてくれませんでした。1日、3日、10日、40日間か、それとも、1時間か、2時間か、10時間か、どれくらいが十分であるかを教えてくれませんでした。ですから、「断食や祈りをしましょう」と言われても、私は何をするのか知りませんでした。
以前、私は路上で戦う為の武術の認定を得て、それを教えていました。私達は何か見栄えのいいユニフォームを着てはいませんでした。回し蹴りや飛び蹴りなど、見栄えのいい技は練習しませんでした。私達が学んでいたのは、目、膝、舌、股間などを攻撃するもので、どの様に間合いに入って出るか、どれだけ短い時間でどれだけ傷を負わないで多くのダメージを相手に与える事ができるかについてでした。相手に最大のダメージを与えながら、相手から離れる事などでした。それらは全て東洋の哲学ではなく、生理機能学に基づいたものでした。どの様に力を得るか、物理的な力を高めるか、拳に力を込めるかなどです。それらは全て論理と科学によるものでした。私はその様な考え方を持っていたので、神はそれを聖書の癒しの法則を見出す事に用いたのです。私はその法則を理解する為に、いらないものを捨てていく必要がある事に気がつきました。その過程は、誰と歩んでいくかに関係しています。何か見栄えの良い事を求めていたら、そんな人達は沢山いますが、私が欲しかったのは何か見栄えの良いものではなくて真理でした。何故なら、ただ見栄えの良いものは、赤ん坊が目の前で死んでいく時には、何も役には立たないからです。
そしたら、その人は周りの人に悲しく見られるだけで、周りの人もあなたに同情してもらうだけなのです。しかし、問題を解決するのは真理です。そして、私はどのようにして癒しの結果をだすのかを探し出さなければいけませんでした。私はそれを追求しました。私はいつもこう説明していました。第一に、私は武術を教える事を承認されています。その武術は、ナイフを使った格闘などを含んでいます。警察部署で教えた事もあります。それらの事の大半のものは自己防衛のものでした。それは基本的に科学的なデータに基づいた路上での闘いです。それはブルース・リーの武術に基づいて、見栄えの良いものでもなく、映画で見るようなものでもありませんでした。これらの事を話す理由はこうです。それは私に、見かけよりも結果の重要性を教えてくれました。私はそれを自分の中に組み込む事ができました。神は私に武術をする事を願っていたとは思いませんが、私はそれから役に立つ良い事を学びました。分かりますか?悪を善に変えるという事です。武術が神の御心だと言っているのではないです。神は私に何年もの間、武術から足を洗うように言い諭していました。
ある時、息子と一緒に新しい道場を開く為に、テキサス州の西に向かっていました。息子が車の中で昼寝をしている時に、神が私に話しかけました。「いつまで限りのある事を求め続けるのです?私を求めれば終わりはありません。」私はジョンを起こして、神が話した事を伝えました。彼は言いました。「じゃあ、今からどうするの?」私は答えました。「どうしようか。」武術は私の人生でした。ある時、私は妻に言いました。「僕は今まで全てをかけて武術を学んできたけれど、今では完全に使い物にならなくなってしまった。もう武術を用いる事はできないよ。」しばらく運転していると、神は再び私に話しかけました。「あなたは人を殺す事を教える為に自分の手を用いていますが、私はあなたの手を、人を癒す事を教える為に用います。」そこで私は止り、息子に言いました。「もう武術を続ける事はできない。」私達は全ての道場を閉めました。何の収入もなく、説教する所もなく、何も用意されていませんでした。私は武術からすっかり足を洗いました。そして神に言いました。「私に何をして欲しいのですか?」それから私はファーストフードで働き始めました。そこでマネジメントについての経験を得ました。私は歩く事が好きなので、毎日職場まで歩いていました。そんなある日に、元教え子が電話をしてきました。「私は今、新しい道場を開こうとしているのですが、全ての最新の道具もそろっています。私はあなたに給料を払います。」それは年収何千万円のようなものでした。彼は言いました。「それに加えて、いくらでも個人レッスンを教えてもらって構いません。」その当時、私は個人レッスンだけで自給1万5千円から2万円稼いでいました。彼は言いました。「あなたは全ての個人レッスンのお金をもらって構いません。」私はそれを聞いて、良い話だと思いました。その当時、私は破産していたからです。神と交渉しようとしていました。「神よ。私は闘いに行く訳ではありません。これはただの技術です。」
こうして自分なりに正当化しようとしていました。この人は、私が武術を教える事を辞め、もう教えたくない事を知っていたので、5年間の契約を要求しました。彼が道場を開いても、1ヶ月足らずで私が止める事を恐れていたからです。ある日、私は神に言いました。「神よ。今答えを知る必要があります。今教えて下さい。私に何をして欲しいのですか?もし私がこの契約にサインしたら、5年間はあなたに仕える事はできません。もし説教するようになってあなたに近づくなら、この契約を途中で破棄して去らなければならないからです。ですから、あなたが私に何をして欲しいか教えて下さい。」その時に、恐らく今までに無いくらい、私は神の声をはっきりと聞きました。神は言われました。「重要なのは私の為にあなたが何をするかではなくて、私があなたにどんな人になる事を望んでいるかです。私はあなたに私の息子になって欲しいと思っています。あなたに幸せになって欲しいと思っています。」
私は聖霊派の人々に囲まれて育ってきました。神が私達の幸せを思っているなどと考えた事もありませんでした。何故なら、私の見た大半の人々は神には仕えていましたが、幸せには見えなかったからです。神は言いました。「あなたが私の息子なら、何があなたを幸せにしますか?」私は思いました。「それはもちろん、私があなたの息子なら、福音を宣べ伝えて、病人を癒して、死人を生き返らせて、悪霊を追い出して、その様な事をしている時が一番幸せです。」神は言われました。「それでは、あなたは私があなたに何をして欲しいか分かりますね。」神は私の考え方を完全に変えられました。それから、私はすぐにその生徒に電話して伝えました。「その仕事を断ります。受ける気は毛頭ありません。もし今後その様な誘いを持ちかけるなら、覚えておいて下さい。私はあなたに全ての技を教えませんでした。だから、今度こんな話を持ちかける時には覚悟しておいて下さい。」私は、彼にもう決して誘惑してこないように、彼に言い聞かせようとしただけです。それは強い誘惑だったからです。それから、私は職場に行き伝えました。「私はこの仕事をしているべきではありません。」その仕事が悪いものではありませんでしたが、私はするべき事をしていませんでしたので、彼らに言いました。「私はこれをもって仕事を辞めます。」私は家に帰って妻に伝えました。「私は福音を宣べ伝えているべきだ。」
私達の事は誰にも知られていませんでした。誰も私達の電話番号も知りませんでした。何も先には用意されていませんでした。当時は彼女も働いていました。私は彼女に言いました。「私は仕事を辞めました。これから神が私に何処で、何をして欲しいかを見つける。」彼女は言いました。「仕事は辞めてもいいけれど、ただ家の中で寝転がる事はしないで下さい。ちゃんと神の用意している事を見つけて下さい。だから、私が朝起きる時にあなたも起きて、祈りや断食でも何でもして、やるべき事を成し遂げて下さい。」彼女の意見に賛成しました。
それから、彼女は朝起きて仕事に行き、私は賛美歌を流し、異言で祈りながら毎回2~3時間家の中を歩き回りました。私は神に言いました。「私は何をするべきですか?」それからすぐに、ある人から電話がありました。その時には、私達は、家で人々の為に祈っていて結果を出していました。この人は言いました。「私達はカロライナ州のアシュビル市に住んでいます。私には体が麻痺した息子がいますが、ここまで来て彼の為に祈ってもらえますか?」私は答えました。「いいですが、私の娘も連れて行っていいですか?」彼らは言いました。「いいですよ。」そして、私たちはそこへ飛んで行きました。1週間ずっと、その家は人々でいっぱいになりました。私はその男の子の為に祈りました。そこには、リック・ジョイナーのモーニングスター・ミニストリーの人々も私達の事を聞いてやって来たりして、その場はいっぱいになりました。私は朝の7時から12時まで癒しを教え、昼食を終えて次の家に移りました。私はそこで午後の1時から夜の7時まで教えました。それから、夕食を食べて7時半から次の家に移り、真夜中の午前1時まで教えて人々の為に祈りました。私達は200人の為に祈り、そのうち40人は末期がんの患者でした。その1週間が終わるまでには彼ら全員は癒され、ちゃんと確認されました。祈った200人のうち、知っている限りでは全ての人が癒されました。ただ2人の人達だけとは、その後連絡が取れませんでした。しかし、それ以外の人達の癒しは記録しました。
さて、当時私が武術を始めた頃は、栄養やフィットネスに通じていました。今の私の食生活を見ると信じ難い事ですが、その当時は人々に何をどれだけ食べれば良いか、どれくらい運動すれば良いかなどをアドバイスしていました。栄養サプリメントなどについてよく知っていました。私はウィンチャン・カンフーにおいて認定を受けており、帯の階級でも認定を受けていました。それに、中国の漢方薬や薬なども勉強しました。その結果、どの薬を呑むべきかまでアドバイスできました。しかし、私はそれらの全てを捨てて、この癒しを教える事にしました。それはこちらの癒しの方が遥かに勝るもの、頼れるものだからです。これらの事を話している理由があります。例えば、サプリメントを飲んでいて、どのような効果を発揮しているのか知りたいなら、一度に4つのサプリメントを飲んだりするべきではありません。何故なら、どのサプリメントがどのような効果を及ぼしているのか見る事ができないからです。ですから、通常、はっきりとした効果を見るまで1つのサプリメントを取り続けるべきです。そうすれば、何か変化が起きれば「このサプリメントは~の効果があります。」と言う事ができます。それからまた新しいサプリメントを付け足す事ができます。そうして、どのサプリメントがどの効果があるかを知る事ができます。この方法でそれぞれのサプリメントを調べる事ができます。それから、それぞれを混ぜて効果を試していきます。その様にすると、相乗効果を見る事ができます。それらが一緒に効果を増すか悪影響を及ぼすかを見る事ができます。私はそれと同じ考え方を祈りと断食に応用しました。何が真理なのかを考えました。
「もし祈りが真理なら祈るべきだし、断食が真理なら断食するべきです。」もし、それらをする事によって力を得る事ができるなら、それらをする事は良い事です。しかし、それらは本当に力を引き起こすものでしょうか?何故なら、祈りや断食によって力を得る事ができると言っているのに、未だに力を得ていない人達を知っていたからです。ですから、祈りや断食をする前に、信仰のみでどれだけの力が働くのかを試してみました。それで、私達は人々の為に祈り始めました。断食や長い祈りはしませんでした。ただ普通に歩き回って、時間も定めないで人々の為に祈りました。
ある女性が私達の家にやって来ました。彼女は悪霊追い出しが必要でした。彼女の事は以前から知っていました。私の妻は彼女の家族と話して言いました。「この女性の内には悪霊がいます。状態が悪いので、悪霊を追い出す事が必要です。」私は答えました。「分かりました。彼女を家まで連れて来て下さい。」全てが整うと、妻は私に聞きました。「祈って断食して、準備する必要はないの?」私は答えました。「いいえ、その様な事はする必要はないよ。」「何で?」と彼女は言いました。「祈りや断食をしないのは、それらは悪霊を追い出したりする為の、何か特別なものではない事を証明する為です。悪霊を追い出すのはただイエスに対する信仰です」と私は言いました。断食や祈りをすると、神の声を聞きやすくなり、神の為に働きやすくなりますが、それらは私達を霊的にする事も、より力を与える事もできません。分かりましたか?断食や祈りは肉的なものを殺す事を助けてくれます。それは自分に死ぬ事を助けてくれます。しかし、断食や祈り自体には力はありません。それらを通して私達はより霊的領域に対して敏感なります。それが魔女や魔術師も祈り、断食する理由です。
では、聖書が手元にあるなら、使徒の働き3章を開いて下さい。私が話している事を証明しましょう。聖書を開いている間に質問に答えます。「苦しんでいるのに祈りを断る人をどうやって助ける事ができますか?」彼らを通りすぎて、道の隅まで行って、彼らの為に祈って下さい。彼らのすぐ側にいる必要はありません。すぐその場で祈る必要はないです。何故なら、彼らが祈りなどを断る時、それはその人の本当の答えなのかは分からないからです。それは嘘つきの悪霊かもしれません。ですから、もし必要なら彼らの前から去って、そして、離れながらにして祈って下さい。大半の場合、離れていた方が彼らを愛する事が簡単です。そうですよね?祈りも同じような事です。以前も言ったように、多くの人達がウィグルワースやレイク氏の事が好きです。それは、彼らは既に死んでいるからです。ウィグルワースが生きている時には、ほんの僅か人達しか彼の事が好きではありませんでした。彼は厳格だったからです。私はサムラル氏の教会に数年間の間いました。興味深い事は、彼は人々を愛していましたが、時には人々が彼を好かない時がありました。人々は彼の説教ではなく、彼がある女性に言った言葉の為に腹を立てた事がありました。ある時、サムラル氏は言いました。「祈りが必要な人は前まで来て下さい。」そして、彼は言いました。「では、案内人の人はここで人々が来るのを止めて下さい。」しかし、この女性は打ち切られた後に列の後ろに忍び込みました。彼は順に祈っていき、彼女の番になった時に言いました。「あなたは何処から来たのですか?」彼女は答えました。「列の最後に入り込みました。」彼は言いました。「私はちゃんと招いた時に来るように言ったはずです。」彼女は笑いながら言いました。「そうですね。」それに対して彼は言いました。「座りなさい。あなたの為には祈りません。」彼女は彼を見て言いました。「冗談でしょう?」それで、その部屋の雰囲気が変わるのを誰もが感じました。途端に彼は、優しいおじさんから厳しい年寄りになりました。皆が彼を見つめていました。彼は言いました。「行って、席に座りなさい。」彼は案内人達の方を向いて言いました。「誰も入り込ませないように言いましたよね。」彼らを責めました。そこにいた人々は言いました。「それは厳しい。」彼は説教に戻って、言いました。「あなた達は私のした事は厳しいと言うかもしれません。しかし、言わせて下さい。もし彼女が招いた時に来ないなら、彼女は受けた癒しを保つ事はできません。あなた達は来る機会がある時には、走って来るべきです。」サムラル氏はこの様な人でした。この様な姿勢を私達も少しは見習うべきです。
サムラル氏のこの様な教えは何処から来たのでしょうか。スミス・ウィグルワースからです。彼がウィグルワースの家を訪れた時にはいつもそこには誰も来客はいませんでした。普通ならここに彼のような神の人がいて彼が何処に住んでいるか知っているのなら、若者たちや人々が列を作ってインタビューするのを待っていてもおかしくないと思うかもしれません。サムラル氏はその当時の事を思い返して言います。「数年間私は彼の家を訪れましたが、私だけが唯一の客でした。」あなたは思うかもしれません。「何故だろうか?それはおかしくないだろうか?」その理由は人々が彼を好かなかったからです。ウィグルワースは厳しい人でした。サムラル氏が初めて彼の家に行った時の事です。彼はさっぱりと着飾って、帽子をかぶり、傘を手に持ち、新聞紙を脇に挟んでいました。ウィグルワースは彼に言いました。「家の中に入ってもいいですが、その戦争のニュースについて書いてあるゴミを外に捨ててからにしなさい。ムッソリーニやヒトラーはもうすぐ地獄に行くだろう。私は家の中にその様なゴミは入れない。」サムラル氏は新聞紙を外に置いてこなければいけませんでした。
それとは正反対に、レイク氏は新聞を家まで届けてもらうように手配していました。日曜日の朝には教会に行く前には、彼の子供達は皆ベッドまで走ってきて、彼はその漫画の欄を彼の子供達に読み聞かせました。レイク氏はスミス・ウィグルワースの事も知っていました。こんな風に、神は様々な人達を用いる事を見る事ができます。私達はウィグルワースを理想として彼を基準にしようとします。
ある人々は、「私はウィグルワースのような人です。新聞さえも家に入れません」と言います。それは違います。21人の死人を生き返らせるまでは、ウィグルワースのようではありません。多くの人々は、ウィグルワースが通った人生を経験する事をしないで得ようとします。彼のような力を得たいなら、彼のような人生を歩まなければいけません。それ相応の生き方をしなければいけません。単純ですよね。ある人は、「神は新聞を見るなと言いませんでしたか?」と訊くでしょう。それはウィグルワースが自分で決めた自制でした。何故なら、もし神が新聞はいけないとウィグルワースに言ったならば、神は同じようにレイク氏にも言わなければいけなかったはずです。それが真実なら、レイク氏の家に新聞があるなら、彼は神の力を持つ事はできなかったでしょう。分かりますか。私達はもっとよく頭を働かせて考える必要があります。
私達が何を信じるかによって、神の力がどれだけ私達を通して働くかが決まります。私達の信じる事は、私達を通して働く神の力のブレーカーです。もし私達のブレーカーが小さければ、痛みや頭痛のなど癒ししか見る事ができません。でも、もし私達のブレーカーが大きくなり始めて、私達が何を信じているかが重要である事を悟るなら、神の力は私達を通してより強く働くようになります。ですから、神の力が働く事を妨げる全ての制限を取去って下さい。
私は、「あなたが宝石を外さない限り、神はあなたに聖霊のバプテスマを授けません」と言うのを聞いた事があります。私は短いスカートのような誘惑するような服装でやって来た娼婦が、かがみこんで泣きながら、マスカラが涙と共に顔を流れながら、悔い改めるのを見た事があります。そして、ある人が来て「聖霊を受けなさい」と言うと、途端に聖霊のバプテスマを受けて異言で話し出しました。誰一人として彼女に説教などはしませんでした。何も教えませんでした。彼女は短いスカートも宝石も身にまとっていました。その様な服装を変えなくても良いと言っているのではありません。ある人は、彼らが変わるまでその様な事は起こりませんと言います。それは違います。それは神からの賜物です。私達は、救いは賜物である事を理解する必要があります。賜物は与えられるものです。賜物に対しては2つの事しかできません。それを受取るか、拒否するかです。私達は賜物を得るに値しません。何故なら、私達が賜物を得るに値する者になった途端に、それは賜物ではなくなるからです。それは報酬になります。そうですよね?私達は、霊的に成長するなら神は賜物を与えてくれると考えます。そうではありません。もし十分霊的に成長するなら、私達は実を実らせます。実は成長するものです。賜物は与えられるものです。違いが分かりますか?神が私達を通して働く事ができるように自分を神に明け渡して下さい。神の定めない条件を受け入れないで下さい。分かりましたか?そして、人々を癒して彼らを自由にし始めて下さい。
私は天に行った時に神に、「カリー、あなたは鉄砲玉のようでした。多くの人を癒しました。私が癒そうとしていなかった時も、あなたは癒しました。もう少しスローダウンしてもよかったのですよ」と言われる事を望みます。私は神に、「どうしてその病人の前を通り過ぎたのですか?私が彼らを愛している事を知らなかったのですか?彼らを通り過ぎる時には何を考えていたのですか?あなたは自分の事ばかり考えていて、周りで傷ついている人々が目に入らなかったのですか?」と尋ねられたくはありません。軍隊では、「全ての敵を殺して、神に後は任せなさい」ということわざがありました。その様に、キリスト教では「全ての人を癒して、後は神に任せなさい」となります。この様に考えましょう。
では、使徒の働き3章1節を読みます。「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求める為に、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネと共に、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、二人に目を注いだ。」さて、ペテロは今日の神学校で学ぶような神学的な知識はありませんでした。大半の一般の教会にいる人々の中で誰が彼のように「私を見なさい」と言うと思いますか?私達は、「私を見ないで下さい。イエスを見て下さい」とよく言います。このようにペテロは私達の考えるような神学を持ってはいませんでした。ペテロは私達のような事は言いませんでした。何故でしょうか?私達はいつも自分自身をけなしているからです。そんな事をしておきながら、何故神は私達を用いないのか?私達は力がないのか?と考えるのです。そして、「自分は何者でもないです」と言い続けます。はい、そんな事は知っています。あなた自身がそれを証明しています。あなたは何もしないからです。私達が誰であるかは行いが証明します。もし嘘をつくなら私達は嘘つきです。もし盗むなら盗人です。このように私達が誰であるかは私達がする事によって表わされます。ここでのポイントは、ペテロの言う事が間違っているか、私達が間違っているかです。その判別をする為には、ペテロの癒しの結果と私達の癒しの結果と比べる必要があります。私はペテロを選びます。彼の方が結果を出していると思います。
「ペテロは、ヨハネと共に、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、二人に目を注いだ。するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう(使徒 3:1-6)」。考えてみて下さい。ペテロが何と言ったかに注目して下さい。彼は、「聞きなさい。私には金銀はないが、私の持っているものを上げよう」と言いました。分かりますか?ペテロの神学はめちゃくちゃなものでした。彼はもっとましな言い方をするべきだったでしょうか?ペテロは私達が言うように、「では祈って主が何をなさるか見てみましょう」と言うべきだったでしょうか?
しかし、ペテロはその様な事は言いませんでした。彼は、「私の持っているものを、あなたに上げよう」と言いました。彼は、「では私の持っているものを、あなたに与える事ができるか見てみましょう」とさえも言いませんでした。彼は、「生まれた時から足がなえているのですか。うーん、それは世代の呪いのようですね。あなたのお母さんはどの様な人でしたか?何をしましたか?あなたの父親は何をしましたか?」とは言いませんでした。ペテロは問題を直接扱いました。そうですよね?彼は、「私の持っているものを、あなたに上げよう」と言いました。それで終わりです。質問などしていません。彼は祈る為の時間を取る事さえしませんでした。彼は私達の呼ぶように霊的にはなりませんでした。そうですよね?ペテロはただ即座に、「私の持っているものを、あなたに上げよう」と言いました。聖書はペテロが、「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」と言います(使徒の働き3:6)。
では、彼のした事を見ていきましょう。彼は言いました。「イエスの御名によって、起きて、歩きなさい。」彼がした事に注目して下さい。ペテロはその男に起きて歩きなさいと言いましたが、ペテロがそれをする為に手を引いて助けました。ペテロは彼の右手を取りました。彼は頭に手を置く事はしませんでした。彼が男の右手を取った時に何をしたかに注目して下さい。彼は男の右手を取って彼を立たせました。ペテロはその男が立つ事を助けたと書いてはいない事に注目して下さい。聖書は、ペテロがその男を立たせたと言っています。ペテロが全ての事をしました。その男の足はまだ萎えていましたよね?ペテロは自分の腕の力でその男を立たせました。そこで、たちまち何が起きましたか?たちまちとはいつでしょうか?ペテロがその男を立たせた時です。何が最初に起きましたか?ペテロが男を立たせた事です。そうすると、たちまち、男の足とくるぶしが強くなりました。何が起こったのでしょうか?癒しですか?いいえ、違います。これは力あるわざと言われるものです。聖霊の賜物の働きの一つです。しかしそれは、信仰によってなされたものです。ペテロは、「私の持っているものを、あなたに上げよう。御名によって」と言う言葉から始めました。彼は何を持っていましたか?御名です。そうですよね?彼は私の持っている賜物をあげよう、とは言いませんでした。彼は、「私は今から力あるわざの賜物を働かせよう」とも言いませんでした。彼は力あるわざの為にある事をしました。私達が力あるわざを起こす為に何か行動をする時、それは私たちを通して表れます。それが力あるわざと呼ばれる理由です。奇蹟の賜物ではなく、力あるわざという聖霊の力の現れがあります。力あるわざを教会で見る事がない理由は、誰も思い切って行動しようとしないからです。皆が信仰の賜物や癒しの賜物を欲しがります。何故でしょうか?それは神が賜物を働かせて、私達はただ離れて立って見ているだけで良いと考えるからです。
信仰の賜物は保護と必要なものの満たしの為のものです。力あるわざの賜物の為には人が関わらなければいけません。いいですか?その人が何か行動しなければいけません。そして、その行動が力あるわざを現します。ペテロはその男の右手を取り、立たせました。その行動が力あるわざを引き起こしました。彼は信仰を持って行動する事によって、御霊の賜物が働いて奇蹟が起こりました。もしペテロがその場でただ立って何もしなかったなら、何も起きなかったでしょう。彼が信仰の賜物を用いれば別ですが、ペテロは力あるわざを働かせていました。続いて、聖書は言っています。「(足のなえた男は)踊り上がって真っすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々は皆、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求める為に宮の「美しの門」にすわっていた男だと分かると、この人の身に起こった事に驚き、あきれた。この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみな一斉に、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこの事に驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか(使徒3:7-12)」。ここに秘訣があります。それは私達の力や聖さによるものではありませんでした。分かりますか?
私達は救われる為に断食はしませんでした。私達は神からの賜物に値する為に、良い人生を生きていませんでした。何も良い事を行いませんでした。これは私達の自分の力によるものでもありません。ただ神の力です。しかし、ペテロはそれを自由に使いました。私達はこの為に断食も、祈りもしませんでした。ではここで何が起きたのでしょうか?ペテロがそれを説明しています。ペテロは宣教して人々を責め始めます。彼は次のように説教し始めました。「アブラハム、イヤク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなた方は、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。その上、この聖い正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、(使徒3:13-14)」。誰が実際にイエスを殺したかについての議論を覚えていますか?それは私達の罪でした。それがイエスを殺しました。そうですよね?まず、ピラトはイエスを釈放しようとしていましたが、ユダヤ人達は釈放するなと言いました。ペテロは、「あなた方がイエスを引き渡した。その上、この聖い正しい方を拒んで、人殺しの男を釈放するように要求し、命の君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはその事の証人です。そして、この御名が、その皆を信じる信仰のゆえに、あなた方がいま見てとおり知っているこの人を強くしたのです」と言いました(使徒3:14-15)。何がその男を癒しましたか?それは彼らの聖さや力ではなく、イエスの御名がその御名を信じる信仰が奇蹟を行いました。そうですよね?では質問させて下さい。
私達はどの様にしてクリスチャンになりましたか?それはイエスの御名とその御名を信じる信仰によってではありませんか?では、私達はイエスの御名を信じる信仰を持っていますよね?そうですよね?私達は救われる為に、十分断食や、祈りや、良い行いをしましたか?救いに値するような生き方をしましたか?救われたのはあなたの力によるものですか?それとも神の力によるものですか?私達はペテロが持っていたものを全て持っていませんか?同じ御霊であり。同じ御名です。それはイエスの御名とその御名にある信仰です。私達は彼の御名を信じる信仰を持っていますか?もしそれを持っていないなら、その人は神に属してはいません。そうですよね?私達はペテロがその足の萎えた男を立たせる為に持っていたものと同じものを持っています。私達とペテロとの違いは何か分かりますか?ペテロは祈るだけでなく、その男に近寄り、その手を掴んで立たせました。それが違いです。それは力あるわざと呼ばれるもの(賜物)です。
次の事を強調したいと思います。もし私達が神に用いられるに値するなら、神は私達に報酬を与えなければなりません。神は私達に力を与えて、私達が神の為に生きる為に私達に支払いをしなければいけません。その様に考える時に、私達は神に用いられる為に断食をして、神に用いられるに値する為に何かをしようとします。その様に考えた瞬間に私達は自分の義を主張します。キリストの義には頼る事をしません。その様な考え方をした途端に、私達は神の御心に反する事になります。私達は恵みによって癒し、恵みによって癒されます。行いによるのではありません。誰も誇らない為です(エペソ2:8-9)。そうですよね?誇る事ではありません。何故でしょうか?それは、信仰による事だからです。私達はキリストを信じます。自分を誇りません。私達は仕事をして、本来するべき事をするだけです。アーメン。単純ですよね?
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