2019年1月25日金曜日

DHTT セッション7

もし私の教えを聞いて癒しの結果を出す事を諦めてしまうなら、悪魔はもっと簡単にあなたを諦めさせる事ができるでしょう。何故なら、悪魔は私達が癒しの結果を出す事を妨げようとします。私達が常に信仰に堅く立って戦い続ける事を悪魔は嫌います。悪魔は狂っているかもしれませんが、まぬけではありません。悪魔は長い間地上で生きてきました。悪魔は、もしクリスチャンが彼に向かって立ち上がっても、彼が少しの間立って耐えるなら、大半のクリスチャンは諦めて去っていく事に気がつきました。ですので、私達は最終的にどちらかが先に去るまで面と向かっての耐久勝負をする事になります。もし私達が堅く立つなら悪魔を打ち破る事ができます。敵を打ち破る為には、根性で堅く立ち耐え忍ぶ事か、堅く立ち続ける評判を確立する事です。一度その様な堅く立つ評判ができれば、悪魔はより早く逃げ去ります。何故なら、悪魔は私達が絶対に身動きしない事を認識するからです。基本的には、信仰によって歩むとは私達が起こって欲しい事を決めて、それが起こるまでは絶対に諦めない事です。その様な信仰の定義は多くの人に好まれるものではありません。何故ならそれは勇気と同じものだからです。それは、誰もが逃げ去っても、一人で立ち続ける事です。多くの人は、信仰は神秘的なものと考えがちです。私達が最後に打ち負かした問題が、私達の強さの度合いを表します。又、私達の強さは最後に私達が打ち負かされた問題よりも僅かに小さなものです。もし信仰を得たいならただ堅く立ち続ける事が必要です。信仰は質であって量ではありません。信仰は誰もが逃げ去る時に堅く立ち続ける力、私達が逃げ出したい時にも進み続ける力です。私達が学んだ事を実行するにつれて結果が出てきます。私達が教えていく程、神は学んだ事を教えの中で生かしてくれます。覚えておくべき事は、実践の経験によって役立つ事は吸収して役に立たない事を拒否して、自分に必要な事を吸収する事です。私の言った事が気に入らないからそれを受け入れないという意味ではありません。どういう意味かというと、もし教えられた事が本当に役立ち結果を出すのなら受け入れて、もしそうでないなら捨てるという事です。それが秘訣です。神の言葉は私達の信仰と行動の最も重要な規則です。ある人は「それはもう知っています」と考えるでしょう。多くのクリスチャンはそう主張します。もし大半の教会に尋ねるなら、人々は答えます。「はい、私達は神の言葉を信じ、それによって歩みます。」もしそれが真実なら教派は存在しないはずです。ですので、私は今から神の言葉は私達の信仰の最終的な権威である事を説明します。もし自分の経験が私達の信仰を決めるものなら、そういう人は私が御言葉を話す時に言います。「確かに、聖書には彼の打ち傷によって私達は癒されたと書いてあります。しかし、私は病気を持っていて祈っていたのだけれども…」そうやって、毎回経験や教義や何かを持ち出して言うでしょう。もし、癒しが今でもあると聖書が言うなら、癒しは今日私達の為にあります。私は他の人の達の経験を配慮します。しかし、私達の仕事は、私達の経験を神の言葉と一致させる事です。

他人の経験に賛同する事ではありません。「まあ、時にはその様な事もあります」という感じで賛同はしません。私はよくこう言うのを聞きます。「神は、時には私達の祈りに答えてくれて時には答えません。時には長く待たなければいけません。」そう言いたくなるのは分かりますが、それは聖書の言っている事ではありません。聖書は、神の約束はキリストイエスにあって、「しかり」であって「否」ではなく、イエスにあってアーメンであり、その通りになれと言っています(IIコリント1:18-20)。「いいえ」ではなく、「そうかもしれない」でもなく、「ちょっと待って」でもありません。私達は人生において、神との間で何か特別な事を求めている時があります。その様な時には、神からの具体的な答えを待つ時もあるかもしれませんが、霊的な戦いや、その他の場合においてはキリストの贖いに含まれているものは、いつでも全て神から受取る事ができるべきです。疑うべきではありません。キリストの贖いに含まれている事は神に願う必要はありません。ただ神に従えばそれらの贖いに含まれたものを経験する事ができます。もしそれが癒しに関連した事なら、祈る必要や断食する必要もありません。病気や患いは完全に打ち負かされたので、ただ病気や患いに去る様に命令するだけです。「私は良いクリスチャンなので、この病気に耐えます。神は、病気を通して、私を試しています」と考えないで下さい。イエスは私達の全ての病気や患いを負いました(イザヤ53:4、マタイ8:17)。病気や患いはあなたの人格を成長させる為ではなく、殺す為のものです。私達が死なない理由は神から免疫力を与えられているからです。免疫力のおかげで、ちょっとした病気なら死ぬ事はありません。神に感謝するべきです。もし私達が免疫力を持っていないなら、どの様な弱い感染も私達を殺す事ができます。私が強調したい事は、キリストによる贖いに含まれているものは何でも私達のものである事です。全てです。私達は約束を与えられています。イエスは言いました。「信じる者が病人に手を置けば彼らは癒されます(マルコ16:18)。」とても単純です。


とても役に立つ表現があります。それは、「もし神が私達に約束を与えるなら私達とその約束の実現との間に逆らって立つものは、何でも悪魔からのものであり私達が打ち壊すべきものです」というものです。神の約束について説明します。この約束は預言の言葉も含みますが、主には聖書に書いてある約束の事です。聖書には、聖徒達は「勝利を得る者」と書いてあります(黙示録2:11)。コソコソとした者とは言っていません。多くの人は、困難なしで人生を送ろうとします。もし困難や問題があるなら、神は彼らに敵対していると考えます。初代教会は困難を予期していました。彼らはそれが来る事を知っていました。しかし、彼らは困難がいつも来る事も信じてもいなかったし、それを賞賛する事もしませんでした。何故なら、もし私達が困難に遭う事を正しい教会の基準としていたら、エホバの証人は正しい教会という事になってしまいます。ですから、誰かが迫害されているからといってその人が正しいとは限りません。しかし、私達が迫害を受けていなかったら、私達は恐らく正しい道を歩んではいないでしょう(IIテモテ3:12)。

私達はまだ十分な宗教の霊を怒らせていません。私達はまだ霊的領域で知られていません。ですから、私達はある時点で何があろうとも進み続ける決心をしなければなりません。私達と神から与えられた約束の実現の間に立つものは、全て打ち負かされるべきです。その立ちはだかるものがある時に、「主よ。何故私達をエジプトで殺されなかったのですか?何故この様な事を経験させるのですか?何故今、私がこの様な経験をする事を、この様な事が起きるのを許すのですか?」という感じでイスラエル人の様になるのをやめて下さい。新しい契約の下にある神の子になって下さい。そして、周りの状況を見て言って下さい。「神に栄光が帰される様に。ここに神の言葉が真実である事を証明する機会があります。私はこの状況に勝利します。そして、私が勝利するなら私の居場所は天で確保されている事が分かります。」


話の要点は、神は「何の困難もない人が天に入る」とは言われず、「天に入るのは勝利する者達だ」と言われたという事です(黙示録2:11)。私達に困難がないのなら、勝利する事はできません。私は今までに一度も誰かから電話があって、その人がこう言うのを聞いた事はありません。「カリー、神に栄光を帰します。私は今、試練を経験しています。神に栄光を帰します。ただあなたとシェアしたかったんです。今は私の人生でのすばらしい時です。」私はまだ誰からも、その様な事は聞いていません。しかし、その時を待っています。聖書は様々な試練に遭う時には、それをこの上もない喜びとしなさいと言っています(ヤコブ1:2)。何故でしょうか?それは地獄がその人を警戒しているからです。それは地獄が私達の事を知ったという事です。それは、私達が地獄での評判を立てたので、地獄が幾らかの手下どもを、私達を狩る為に送ったという事です。私にはまだこの事は起きていませんが、待っています。その聖書箇所を読んで下さい。試練に遭う時には、それをこの上もない喜びと思いなさい(ヤコブ1:2)。


第二次世界大戦中、ノルマンディー作戦の以前にナチスが唯一憎み恐れた軍司令官がいました。それはパットン軍司令官でした。多くの人は、彼が問題を起こした事を知りません。彼は二人の兵士をはたきました。彼は軍の医療班のテントで戦闘の為に、精神的に披露した二人の軍兵を見つけました。彼らには身体的な問題はありませんでした。パットンは彼らをはたきました。一人を平手打ちして、もう一人には拳銃を突きつけて、その場で彼を撃たなければならないと脅しました。その出来事は報告され、ニュースで報道されました。すぐにアイゼンハウワー大統領は、パットンを軍の職務から解かなければなりませんでした。大統領は、パットンを一旦英国に引き戻しました。人々は大統領に「何故、パットンを職から解き、母国に送還させなかったのですか?」と尋ねました。彼はこう答えました。「それはできません。彼は戦いに勝ちます。」時々、私達は戦争に勝つのは政治家ではない事を忘れがちです。大抵、政治家が戦争を担うと長引きます。

兵士や戦士は、素早く戦いに勝ちます。ノーマン・シュワルツコフの件がいい例です。ですから、私達が戦いに勝ちたければ戦士を送ります。政治家ではありません。何故なら、政治家は誰とでも友好的になろうとするからです。戦士は行ってこう言います。「では、今から何が起こるか教えよう。あなたは降参するか、死にます。どちらがいいか?」これが私達の身につけなければならない姿勢です。それは、私達にはあらゆる霊的な戦いにおいて絶対的な支配権があるからです。戦いの勝敗は私達次第です。私達の司令官は戦いに勝つ為の全ての武器は与えてくれました。私達が戦いに負けるのは、私達自身がその与えられた道具や武器を使わないからです。その武器の一つは信仰です。多くの人は信仰を失います。何故なら、彼らは信仰が何であるかも理解していないからです。ですから、彼らは信仰を持っているかの判別もできません。私は他人が信仰を持っているか判別する事ができます。


その人が、戦いにおいて神の約束に今も堅く立っているなら信仰があります。聖書は「苦難の日に気落ちするなら、あなたの力は弱い」と書いてあります(箴言24:10)。立ち続けて下さい。戦いの勝利は神次第ではありません。神は私達の失敗に責任はありません。いいですか?イエスはいつも勝利しました。イエスは一回も戦いに負ける事はありませんでした。私達はこれについてもっと良く考えてみる必要があります。私達は悪魔の餌食になる為にこの地上に生きているのではありません。私達は勝利する為にここにいます。悪魔は私達が打ち負かし勝利する事を練習する為にこの地上にいます。ある人々は「私はそれには賛成できません」と言います。


旧約聖書を見てみましょう。旧約聖書では神はカナンの地に5つの部族を残します。それは戦いを知らないイスラエルの新しい世代とその部族が戦争をして、戦争がどの様なものかどの様にして戦うかを学ぶ事ができる為です(士師記3:1-4)。神はその5つの部族に向かって「あなた達はこの地に留まります、何故なら、後で私の子供達が来てあなたと戦い、どの様にして戦うかを学び、あなたを打ち負かします」と言われました。これが悪魔に対しての神の言葉です。悪魔は打ち負かされる為のものです。人々は「もし悪魔が戦場にいるのならただ殺せばいいだけです」と言います。そうです。ただ打ち負かせば良いのです。そうすれば敵はいなくなります。私達はこの地上に勝利する為に生きています。悪魔は打ち負かされる為にここにいます。それが彼の存在している目的です。ですから、悪魔を打ち負かして彼が目的を達成する事を助けてあげましょう。単純ですよね?全てのものには目的があります。私達の目的は勝利する事です。悪魔の目的は敗北する事です。


軍はパットンをその職務から解いてイギリスに引き戻しました。そして最終的には、いわゆる「影の軍隊」を任せました。影の軍隊とはただの書類上の軍隊です。言い換えると、その軍隊には誰もいません。何故ナチスが彼を憎むと同時に恐れたかというと、それは唯一つの理由の為です。それは、彼は戦う事を好んだからです。路上であろうと、軍隊であろうと、誰でも戦う事が好きな人を見つけるとその様な人とは戦いたくないでしょう。その様な人は勝ち負けに関係なく戦う事を楽しむからです。私達はそれを学ばなければいけません。私達は戦いを楽しまなければいけません。私は、勝ち負けについて話しているのではありません。何故なら、私達のしている癒しでは度々勝ち、度々負ける事はできないからです。負けるという事は誰かの死を意味するからです。だから負ける事はできません。超霊的で神秘的な考えを捨てて下さい。癒しは超霊的な事ではありません。ただ人が癒される事だけではありません。私達は誰か他の人の為に戦っています。


それはイラクにいる私達の国の軍隊の様なものです。政治について議論するつもりはありません。ただ言いたい事は私達が賛成しようがしまいが、兵士達は自分達の選択でイラクにいます。この様に、私達も戦いを敵の陣地に持って行く必要があります。敵が家の戸を叩くまでは待ちません。私達の中には、戦争を戦う事をまったく知らない世代がいます。彼らが平和ボケしている間に、明日戦争に行くつもりで訓練している人々がいます。その様な人々はいつ問題が起きても対処できる様に訓練をしているので、問題が発生すれば24~36時間以内に世界中の何処にでも彼らを派遣する事ができます。クリスチャンもそうするべきです。悪魔がやって来て私達の扉を叩くのを待つのではなく、癌を扉まで持って行って下さい。病気を扉まで持って行って下さい。病気は何処ででも見つける事ができるはずです。人々の家まで行って病気を見つけて、病気をとことん追跡するべきです。何故なら、もし病気が病人の家を去ったら、次は私達の家に入ってこようとするからです。いつも他人の縄張りで戦う方が有利です。戦いを敵の陣まで持って行って下さい。敵が戦いを私達の家まで持ってくるのを待たないで下さい。敵のいる所で戦えば、私達は去りたい時にいつでもその場を去る事ができます。そして、自分の家に平和を持って帰って来る事ができます。敵を待っていたら自分の家で毎日戦う事になります。それは困難です。これを理解しなければ、毎日自分の家で戦う事になります。私の言っている事を信じて下さい。


毎日起きて、自分の家で愛する人がベッドの上に病気で寝ているのを見ながら、その病気や死と戦う事は苦痛です。悪魔は、戦いが長引けば大半の人々は戦いを諦める事を知っています。彼らは戦いの終わりが見えないので諦め始めます。アメリカ人はすぐに諦める事で有名です。最初の湾岸戦争は完璧でした。100時間で私達の勝利にて終結しました。アメリカ軍は現地に大きな火力で赴いて、1週間以内に戦争を終わらせました。しかし、私達は長い戦いの後には疲労する事を知っています。その様な時には、他のクリスチャン達が共に集い支えあうべきです。


パットンの話に戻ります。今から話す事を強調したいからです。今から話す事を理解して下さい。今から話す事を理解するなら、自分の為ではなく他人の為にもっと戦う事ができる様になります。私は1997年以来、自分の為に祈る必要はなくなりました。私が1999年に足を骨折した時を除いてです。自分の為に戦う必要がない事は良い事です。他の人達の為に戦う為に時間を費やす事ができるからです。彼らがパットンにした事は、彼を英国に連れて行きジープに乗せて軍隊を任せました。何故なら、彼らは軍の中にはナチスのスパイがいて、情報はすぐにベルリンに報告される事を知っていたからです。なので、彼らはパットンをジープに乗せて、英国の北岸の全土を走らせ、対岸のドイツ軍の動きを観察させました。パットンが英国の南から北へ岸沿いに北上するに連れて、対岸のドイツ軍の戦車などの機甲部隊もそれにつれて移動しました。ドイツ軍は攻撃が来る事を知っていましたが、ただそれがいつ来るのかは知りませんでした。彼らは「もしアメリカ軍が賢ければ、侵略してくる時にはパットンが先頭に立つに違いない」と考えていました。


その様に優秀な兵力を動かしたナチス軍は、ある意味賢かったと思います。大半の人達は、優秀な戦力を使おうとしないからです。ですから、パットンが北に移動するにつれてドイツ軍の兵力も北に移動しました。その様な事を何週間にもわたって繰り返す事によって、ドイツ軍は機甲部隊などを動かす為に何千ガロンもの燃料を無駄に使う事になりました。しかし、パットンはジープを運転するための燃料しか必要としませんでした。何故この様な事が可能だったのでしょうか?それは評判です。パットンがドイツ軍の中で得ていた評判の為でした。何故この様な話をしたのでしょうか?それは、あなたに地獄での評判を得て欲しいからです。私達は、毎朝起きて車に乗って家を出て何処にでも行く時、地獄が、私達がどこに行くかを知る為に、悪霊の群れを偵察する為に放つ様になる位にならなければなりません。私達が毎朝起きた時には、悪霊たちが私達を恐れる様になるべきです。今から話す事はとても変わった事の様に聞こえるかも知れません。2つの聖書箇所を読みます。マルコ16章には、「信じる人々には次の様なしるしが伴います。病人に手を置けば病人はいやされます」と書いてあります。なので、癒しはしるしです。信じる者が病人に手を置く事はしるしです。


次に、Iコリント14:22です。そこでは異言は、誰の為の何の為のしるしだと言っていますか?未信者ですよね?何故でしょうか?それは、信じる者はすでに異言で話しているからです。なので、しるしは決して信じる者の為ではない事が分かります。何故なら、イエスは「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と言っています(マタイ16:4)。私達はその様な時代ではありません。その悪い姦淫の世代の様に振舞う事を止めて下さい。私達は彼らとは違います。私達は信じる者です。もしかしたら、ある人は「私には十分な信仰があるかどうか分かりません」と言うかもしれません。そんな事はありません。

私達には信仰があります。信じる者だからです。使徒の働きから後には、聖書には誰も信仰を持たなければならなかった事や信仰を得ようとした記述はありません。もし信じる者なら、信仰があると見なされていました。問題はどれだけ大きな信仰を持っているかではありませんでした。何故でしょうか?何故なら、信じる者として私達には十分な信仰があるからです。イエスを信じる者なら十分な信仰があります。一番の奇跡は救いですよね?それは癒しよりも偉大な事ですよね?もし、私達が救われるのに十分な信仰があるのなら、明らかに癒しの為には信仰があるはずです。


例えば、もし私が一万円札を持っていたら、千円の商品を買う事ができます。何故なら、一万円は千円よりも大きいからです。もし救いは、癒しよりも偉大な奇跡だと信じるのなら、救いの為の信仰があるならば、癒しの為の信仰もあります。信仰は問題ではありません。何が問題か知っていますか?根性(忍耐)です。堅く立つ気がありますか?御言葉が真理であると決心する気がありますか?例えを話しましょう。しるしについて先程、話していた事を覚えていますか?マルコ16章とIコリント14章より、癒しや異言はしるしです。広告掲示板を教会や集会場には建てませんよね?何故でしょうか?それは、彼らはこれらの場所では多くの人がその広告掲示板やしるしを見る事はないと考えるからです。

彼らは、看板やしるしを多くの人が通り過ぎて見る所に置きます。しるしは多くの人に見られる所に置かれるべきです。もし、異言や癒しが不信者のしるしなら、何故それらが実践されるのが教会の中だけなのですか?癒しは不信者の為であって、教会の中では本来は行われる必要のないものですよね?新約聖書ではヤコブ書の5章だけに、癒しの為に信じる者が他の信者に祈る様に書いてあります。それも、今の様な教会の建物の中での事ではありません。長老達が実際に病人の家に行って祈る様に書いてあります。初代教会には癒しの集会などなかった事を知っていますか?癒しの集会が開かれたという様な記録はありません。それに近いものでも、パウロが行った癒しの例の一つでは、彼はその人に信仰のある事を認めました。実際に、その病人は自分の癒しの為に信仰を持っていたので癒されました。しかし、聖書の何処にも癒しの集会についての箇所はありません。それは救いの招きの様なものです。それが間違っているというわけではありません。しかし、聖書には書いていないという事です。


確かチャールズ・フィニーが始めて、ムーディーがそれを引き継いで、人々がもっと効果的に悔い改めの決心をする事ができる様にしました。私達は人々を悔い改めの決断に導く必要はありますが、それよりも人々を弟子訓練に導く事がより良い事です。多くの人達は悔い改めの決断はしますが、弟子訓練のための決断はしません。私達が行う癒しは、私が教えている事は教会で行う事ができます。本来、癒しを行うべき場所は教会ではありません。教会の外です。

癒しを特別な出来事として理解する限り、決して癒しをすんなりと行う事はできる様にはらないでしょう。癒しが特別な出来事から日常の生活の中の出来事になる時、癒しをすんなり行う事ができる様になります。「癒しが特別な出来事である事はどの様にして分かるでしょうか?」癒しが時々起こるものである限り、癒しは出来事です。癒しが水曜日や日曜日だけなら、癒しは出来事であって生き方ではありません。しかし、癒しが生き方になる時、私達はいつでもどこにいても出来ます。その様な時、癒しをすんなり行う事ができる様になります。より多くの結果を見る事ができます。そして、癒しの結果も安定したものとなります。最初に癒しを行い始めた時には、癒しは安定していつも起きないかもしれませんが、続けていると癒しの起きる頻度は増して安定してきます。私達がするべき事は選ぶ事です。私達は朝起きて言います。「今日は働かなくていいので、スーパーに行って祈るべき人達を見つけよう。」私達はその様に決断します。私はその様にしました。その様にして癒しを行い始めました。私は言いました。「スーパーに行って祈ろう。何故なら、病気にはうんざりしたから。スーパーは南の方にあって、少し運転しなければいけないけど、行きます。」スーパーを例に挙げているのには理由があります。何故なら、私は幾つかの場所で人々の為に祈りましたが、ある場所では店員や警備員に止められたり邪魔されたりしました。しかし、スーパーでは、その様な事は起きなかったからです。それは彼らの方針なのかは分かりませんが、私はいつも祈る事ができました。ですから、私達は選ぶ事ができます。自分で決断して立ち上がって、人々の為に祈りに行く事ができます。


例えば、スミス・ウィグルスワースです。彼は、毎日1人をキリストに導く事を決めていました。ある時に彼は、夜遅くまだ誰かに証しをしていないと気づき、外に出てすぐそこにいた男に証しをしました。もし癒しと救いが、神が与えてくれたものなら、私達も同じ事を癒しについてもできます。そして、私はその様にしました。私は言いました。「癒しは、教会だけで行わなければいけない事ではない。もし私の行っている癒しが真実なら、何処にいても効果がなければいけないはずだ。」それが理由です。私達が教会にいる時には色々な教義、色々な理屈を作り上げる事ができます。しかし、私達がスーパーに行った時には、私達は他人に向かって「あなたは信仰に堅く立って下さい」と言う事はできません。分かりますか?今日の教会だけで行われている癒しは本来のあるべき癒しの現実から離れたものになってしまっています。


私達は、自分達だけの小さな教会の文化を持っています。私達は正しいクリスチャン的な言葉や正しい語調やどの様に振舞うべきか、どの様な見栄えであるべきか知っています。例えば、私達が昼食をしに出て行って、座って昼食を食べる前には皆が周りを見回して、「食べ始める前に祈りましょう」と言うのを知っています。もし私達が周りにいる人達を知らないなら祈ります。もし知っているなら、祈る必要はないと考えます。

私達はその様に振舞いがちで、その様な傾向があります。或いは、この様な頭痛の祈りの格好をします。腕を頭の上に乗せて、まるで頭痛を持っているかの様な格好を取って祈ろうとします。それは祈りの格好をしているだけで、祈りではありません。それか、もし誰かがここで前まで来て膝を突いて、これが祈りの姿勢ですと言っても、それは教会でしか使えないでしょう。また、もし私が「あなたは神の義が必要です」と言うと、私達なら何の事を言っているか理解できると思います。しかし、路上にいる人々は何を意味するか知りません。私達が出て行って「イエスは義です」と言っても、人々は「義って何?」などと言うと思います。彼らは教会が使っているのと全く違った言葉の概念を持っています。


まず、私達が教会でする必要のある事は、教会用語を誰でも理解する事のできる日常の言葉に変える事です。でも問題は、そうする時教会に再び戻ると、「あの人は聖書的な言葉を使っていない」と思われます。私は普段、クリスチャンに教える時には、必要ならヘブル語やギリシア語で言葉の意味や定義を調べます。しかし、路上の人や未信者と話す時には、私は「救い」や「義」といった言葉は使いません。彼らはそれらの言葉が、どの様な事を意味するか知らないからです。もしその意味を知っていたとしても、大抵は間違った意味で教えられているからです。私の言いたい事は、軍隊の様に考える事です。必要のないものは全て捨て去る事です。兵士は着飾って戦場に行く事はしません。軽量で歩き周ります。宗教的な必要のないものを捨て去る必要があります。外に出て行って祈る時には、祈る人の最低人数をあらかじめ設定して、目標を立てて下さい。目標を作る事は良い事です。「私はこれだけの人の癒しの為に今日は祈る」という様に決めて、祈りに行く事は間違った事ではありません。始めはその様に目標を定める必要があるかもしれませんが、それも次第に減っていき、自然なものとなります。癒しの為に祈る事は習慣となります。


ある人は、「癒しを習慣の様に無意識でするのなら、それは正しい事ですか?」と訊きます。その質問をする事自体が問題です。その人は、人々を助ける事よりも自分の報酬の事を考えています。パウロはこの様に言いました。「たとえ私が持っている物を全部貧しい人たちに分け与え、私のからだを焼かれる為に渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません(Iコリント13:3)」。しかし、それは彼から与えられた人々には役に立ちますよね?私達は物事を正しい動機でも、間違った動機でもする事ができます。どちらにしても人々は助けを得る事ができます。パウロは「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。…すると、どういう事になりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたでキリストが宣べ伝えられています」と言いました(ピリピ1:15-18)。私達はいつも「でも私は、どの様にするかの導きもないし、動機も正しいか分かりません」と言います。しかし、私はあなたの動機が正しいか正しくないかを見分ける事ができます。

動機が正しいかどうか考えている事自体が、その動機は正しくない証拠です。それは、私達は自分の事に焦点を置いているからです。私達が自分の事について考えている限り、キリスト教の本質の表面すら触っていません。他の人々を助けに行く前に自分の事について考える事を止めて下さい。完璧な者になろうとする事を止めて下さい。私達は人々を助けるにつれて自分も修正されていきます。


私達は以前、「私達がこの世に生まれた時には、胸に神だけが満たす事のできる穴を持って生まれてきます」と伝えていました。新生した時には私達は、新しい穴を持って生まれてきます。それは仕える為の穴です。そして、私達が人々に仕え始めない限り、その穴は満たされません。それが、私達がいつもあれこれ新しい流行や教えを追い求め続ける理由です。それらのものによって、その穴を満たそうとするからです。一度、私達が人々に仕え始めれば私達は満たされ、全てが変わります。


教会について、私がいつも思う事があります。私はそれを逆行した教会と呼びます。何故なら、私達はいつも、何でも逆にする傾向があるからです。例えば、私達が伝道しに行く時は、人々を集めて出て行って他の人々に言います。「あなたは救いにあずかる必要があります。神との正しい関係を持つ必要があります。心をキリストに明け渡して下さい。彼は、あなたの人生を変えてくれます。彼はあなたを救ってくれます。」大抵、彼らは答えます。「でも私は、その前に自分の人生を正さなければいけません。キリストの下に来る前にそれをきれいにしなければいけません。私は準備ができていません。」それを聞く時に私達は心の中で言います。「違います。あなたは分かっていません。あなたはイエスのもとに来る為に自分自身を正しく直す事はできません。イエスのもとに来る事によってあなたは正しくされるんです。」そうですよね?


例えば、その人を説得して教会に導いたとします。彼が悔い改めて教会に来始めたとします。彼らは教会に座って、説得させられたとしてもある時点で言うでしょう。「私の人生には多くの問題がありすぎてメチャクチャです。」それでこう答えるでしょう。「違います。あなたは分かっていません。あなたは自分自身を直す事はできません。全ては恵みによります。行いによるのではありません。もしあなたが自分で自分を修正できるなら、キリストは必要ありません。なので、全て恵みです。絶対的な恵みです。ただ神のあわれみに身を投げて下さい。」その様に私達はいつも言いませんか?こうして彼らを説得します。彼らは悔い改めて、そして、教会に来て2~3週間位経ったとします。そこで、ある牧師が来て癒しについて教えたとします。「神は癒します。癒しは贖いの中に含まれています。彼はあなたを癒したいと思っています。彼はあなたを自由にしたいと思っています。もし癒されたいなら、ここに並んで下さい。」

そして、3週間前に救われて教会に通い出した男の人はまだ問題や悪い癖があるとします。彼は、それをやめようとしているのに、やめる事ができないでいます。それで、ついに彼は立ち上がって、「私は身体的な問題があります。それから癒されたいです」と言い、列に並んで前まで来ます。そして、その牧師は彼に訊きます。「何が問題ですか?」彼は答えます。「私はこの問題があります。それから、こんな問題もあります。」それから牧師は言います。「分かりました。」そしてチェックリストを見て言います。「あなたは救われていますか?」(男の人)「はい」(牧師)「聖霊のバプテスマを受けていますか?」(男の人)「はい」(牧師)「あなたの生活の中で罪はありますか?」(男の人)「はい、もちろんあります。」それを聞いて牧師は言います。「罪があるんですか?汚れた人ですね。席に戻りなさい。あなたの生活の中の罪を取り除くまで、あなたは癒されません。」


考えてみて下さい。道端にいる時には全ては恵みで、彼らを教会に導いた後は全てが行いです。私達はいつも聖書とは違ったやり方をしている事が分かりますか?私達は全てを逆にしています。それなら、病人は罪人として路上にいた方がましです。何故なら、そうしたら少なくとも神がその人に憐れみをかけて彼を癒し、良いお方である事を示すかもしれません。違いますか?しかし、彼らを、一旦教会に導くと、次の様に考える傾向があります。「あなたが、教会の扉を超えて入ったら、もし、あなたが救われているなら、私達が定めた基準に従って生きなければいけません。」そして、彼らが弟子になる様に助ける事をしません。いいですか。理解して下さい。


聖化について話す時には、私達は一貫して罪から離れる事について話します。初代教会は明確な聖化の教えをしていましたが、最近ではその様な教えから逸れてきました。初期の教会時代の頃には聖化とは一瞬にして罪に死んで、罪は私達に対して何のコントロールもなくなる事でした。誘惑が無くなる訳ではありません。しかし私達は、誘惑には自分を明け渡しません。戦いは、時には、自分を罪や誘惑に明け渡さない事です。自分を明け渡して、それからまた罪や誘惑から抜け出そうとする事ではありません。それが大半の教会が教えてきた事です。聖化の定義はその様なものではありません。「救われたら、罪を犯す事がだんだん減って行くべきです。」聖化をその様に定義するべきではありません。その定義に沿って歩むべきではありません。私達は罪に対して死んで、そして誘惑による煩いは減っていきます。誘惑がなくなると言っているのではなく、誘惑との戦いが減って行くという事です。分かりますか?それが聖化です。


それはヨルダン川を渡ったイスラエル人達の様です。神は何故、彼らにその川を過ぎて進み続ける様に言ったのか分かりますか?それは、彼らがヨルダン川に近くいる限りは、彼らはエジプトに戻る機会があったからです。

私達の問題は、ヨルダン川を渡って約束の地に来たのに、その約束の地に入ろうとしない事です。川の周りにとどまって、機会があるごとにエジプトに戻ろうとする事です。何故なら、ヨルダン川に戻ってくれば、再び洗われてきよめられて赦される事を知っているからです。この様に罪に対して様々な意見や見方が教えられています。しかし、罪は束縛であって人を殺すものです。それが癒しと何の関係があるのだろうかと考えているかもしれません。今話している事は癒しと関係しています。もう説明した様に、私達は神に用いられる前に完璧になる必要はありません。しかし、私達は神に用いられていながら、同時に罪を犯し続けたくはないはずです。私の伝えたい事が分かりますか?間違えを犯す事についてではなくて、罪を犯して生き続けながら神に用いられ続ける事についてです。何故なら、神の御前に立った時には言い訳はできないからです。


実際に、私はある人に言われた事があります。私は彼の教会で説教をする事がありました。その礼拝の後に彼は言いました。「昼食を食べに行きましょう。」それから、向かう途中で彼は言いました。「あなたと話したかったので、昼食に誘いました。兄弟、シェアしたい事があります。警告したい事があります。私はまだあなたの内には見られませんが、高ぶりに陥らない様に注意していて下さい。」それを聞いて私は思いました。「分かりましたが、本当に私のメッセージを聞きましたか?そのメッセージは高ぶりに導くものではありません。私は誰でも私のしている事をする事ができると伝えました。」昔のメッセージは、ある人は油注ぎを受けていて、他の人はその油を注がれた人がしている事はできないというものでした。その様なメッセージは人々を高ぶりに導きます。それは、その人を高く上げるからです。私の伝えるメッセージは人を高ぶらせる様なものではありません。誰でも私のしている事ができるというのに、何でそれは高ぶりに導くでしょうか?私がこの教壇に立ってしている事は、私に任された仕事です。何も誇る事はありません。ただ私の仕事をしているだけです。ですから、彼の言った事は私の頭に残りました。彼はこう言いました。「いいですか。私達は、あなたの名前をよく聞きます。色々な事を聞きます。高ぶりに陥る事は簡単です。私は知っています。何故なら、以前は、神は私を大きく用いられましたが、高ぶりに陥ってしまいました。」私は彼に訊きました。「どの様なメッセージをあなたは宣べ伝えて、その時にはどの様な状況にあったのですか?」その当時、彼は幾つかの問題を抱えていて、彼のメッセージは簡単に高ぶりに陥る様なものでした。たとえ神が私達を用いるからといって、私達が特別なのではありません。それは私達が正しい事を証明する事でもありません。神は、死人を生き返らせる為に私達を用いるかもしれません。しかし、それは正しい教えを信じているからでもありません。


私はある教会でとても変な教えを信じている人々を通して神が幾つかの奇跡を行った事を知っています。彼らは救われていたのでしょうか?そう望みます。

私は彼らを裁く者ではありません。神が私達を用いるから私達の教えが正しい訳ではありません。一番重要な事は私達の語っている事が聖書と一致している事です。何故なら、もし奇跡としるしだけに従うなら、私達は霊的に力を持っている人々に簡単に惑わされてしまいます。それが、私達は聞いた事を全て聖書に従って試さなければならない理由です。もし私達が語っている事が御言葉に沿っているのなら、神の力もその御言葉を証明する為に働くはずです。聖書は終わりの時には惑わす霊と悪霊の教えなどにより、偽のしるしや奇跡が行われると言っています(Iテモテ4:1、マルコ13:22)。イエスは言われました。「主よ、主よ、という全ての人達が天の御国に入るのではありません。」「その日には大勢の者が私に言うでしょう。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追いだし、奇跡を行ったではありませんか?」そして、言われました。「私から離れていけ、私はあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども(マタイ7:22-23)。」今日、癒しを信じない人達は言います。「この聖書箇所を見て下さい。ある人々は、「もしあなたがしるしや奇跡を行っているなら、イエスはその様な人達の事を言っています」と言いますが、違います。その意味は、やがてしるしや奇跡は教会の中で一般的に行われる様になるので、信じる者が癒しを行うのは当たり前の事になり、教会の中でしるしや奇跡が起きていても、彼らはまだ罪を犯し続けているという事が、頻繁に起こってくるという事です。ある人々は言います。「聖書は彼らが実際にしるしや奇跡を行ったとは言っていません。ただ彼らがそう言ったと書いてあるだけです。」しかし、イエスは彼らが実際にそれらのしるしや奇跡を行わなかったとは言われませんでした。私は、人々は神の御前で堂々と嘘をつくとは思いません。全てが明らかにされると思います。「でも、彼は、彼女はこう言った、と思いました」などの言い訳はなくなります。「この様な事が起きました」と明確になると思います。とにかく、神は私達を用いるという事です。


神はユダも用いました。イエスは12弟子達を遣わし、彼らは帰って来て言いました。「主よ。悪霊たちでさえ、あなたの御名によって私達に従います(ルカ10:17)。」イエスはある時、言われました。ユダは始めから悪魔だと(ヨハネ6:70)。ですから、ユダはその問題をいつも抱えていました。そして、ついに敵が彼に入りました。明らかに、人は正しくなくても神に用いられる事はあるという事です。そうですよね。何故でしょうか?それは、神は人々を愛しているからです。神が私達を用いるからといってそれは私達が正しいという意味ではありません。それはただ私達がそこにいて、人を助ける事ができる状況にあったというだけです。ですから、どうして私達は高慢になるのでしょう。ただ自分の仕事をしましょう。


ある人々は言います。「私は使徒だ、私は預言者だ。」しかし、実はあるでしょうか。もし実がそこにあるなら、大抵の場合は自分でその様な事は言う必要はないからです。

自然と人々が、その様な人達について語ります。その様であるべきです。しかし、その様に自称して駆け巡っている人達もいますが、もし私達が本当に聖書を読んで使徒とはどの様なものであるかを理解するなら、多くの人達が使徒であると主張する事はないと思います。何故なら、パウロは使徒である事の資格がどの様なものであるかを書きました。それは、海上の難、飢え乾きなど、いつも全てが簡単だったわけではありません(IIコリント11:23-27)。盗賊の難など、様々な事を経験しました。


今では、使徒である事の資格は町でも高級車を持っている事や、大きな家や広い教会のネットワークなどを持っているという様なものです。それらが、彼らが使徒であるかを決める要因になってしまっています。それは聖書的ではありません。使徒はしもべのかしらでした。彼は聖徒達を整えてまとめる様な人でした。彼は自分に注目を集めるのではなく、キリストのからだを建て上げようとしました。なので、私達はこの事の核心に戻る必要があります。ある人は言うかもしれません。「癒しと何の関係があるのですか?」それは考え方です。何故なら、一旦、多くの人達を助ける事ができると気が付くと、人々は信じる者としての基礎も学ばないで使徒や預言者になろうとするからです。信者としての行動すらしていないのに、使徒になりたがる人達がいます。信じる者は病人に手を置けば癒されます。悪霊を追い出します、死人を生き返らせます。福音を宣べ伝えます。異言で語ります。毒を飲んでも害を受けません(マルコ16:15-18)。人々は、これらをした事がないのに、彼らの下には使徒的なネットワークや教会などを持っています。彼らは信じる者の基本的な働きさえしていません。使徒になる事などは、後回しにして下さい。私達は基礎的な事に戻る必要があります。全ての人達が一から学び訓練を受ける事ができる、基礎訓練キャンプがあったらいいと思います。例えば、もし誰かが救われたら、私達はその人を基礎訓練キャンプに送り、そこでの8週間位の訓練を終えたら卒業してここに戻って来るという様なものです。


初代教会の時代は、人々はただ教会にやって来る事はありませんでした。教会は全て隠れていたからです。人々は何処で彼らが集まっているか知りませんでした。彼らは家々で集まっていました。その頃は、もし新しい町に行ってあなたがクリスチャンなら、ただ市場に行って歩き回って、「すみません。教会の集会は、今夜は何処で集まりますか?」とは訊きません。何故なら、彼らは集会の場所などは知らなかったからです。その人はサウルの為に働いているかもしれないと思ったでしょう。自分たちを見つけ出して、牢獄に入れようとしているのだと思ったかもしれません。教会の扉には「ようこそ。歓迎します」という様な看板は掛けてありません。彼らは市場に棒を持って立って地面に魚を書きます。そして、誰かが側を通って、それに気が付いて言います。「あなたはクリスチャンですね。魚を見ました。」それであなたは言います。

「私はある町から来た信じる者です。この町にはビジネスで数日滞在するのですが、ここの聖徒達と交わりたいと思っています。」彼は言います。「では、今日の午後にここで会いましょう。集まりは今夜7時からです。私達は6時にここで会ってそれから集会に行きます。」それで、6時に彼らと会ったとします。そして、あなたは訊きます。「今から何処に行くのですか?今夜は何処で集まるのですか?」彼らは言います。「まだそこに直接は行きません。」これは実際に起こっていた事です。初代教会の人達が書き残し、彼らの間で読まれていたハーマスの羊飼いという本に書いてあります。それは聖書ではありませんが、その当時に何が行われていたかについての記録です。それはアーチコの巻物の一部です。それも聖書ではありませんが、それは様々な所からの情報が集められたものです。集まる前には、彼らはよく言いました。「今から教会に行きますが、その前に、病気の人が祈りの為に私達を呼んだのでその人の所に行きます。私達はそこにまず行きます。」そして、彼らがそこに着いた時には彼らは言います。「こんにちは、私達は誰々です。こちらはある町から来た信じる者です。彼があなたの為に祈ります。」そして、もしその人が癒されたらあなたは教会に行けます。その人が癒されなかったなら、あなたは信じる者ではありません。なので、教会には行けません。想像してみて下さい。扉の所に病人達を並べて、人々は入ってくる前に病人の為に祈らなければいけません。そして、もしその人が癒されれば信じる者である事が証明されます。そうでないなら、その人はスパイです。想像してみて下さい。何で中国の地下の教会がとても強いか知っていますか?悪魔は知っています。教会を和らげて弱くする一番の方法は迫害を取り除く事です。迫害を取り除けば教会は弱くなります。迫害の中では教会は結束して強くなります。


また、この話を聞いた事があると思います。確か、ロシアだったと思います。彼らが集まった時彼らは教会の集会を行っていました。牧師が、その地下教会でメッセージをし始めると2人の軍服を着て銃を持った兵士が入ってきました。そして、そこにいる人達に言いました。「全員壁に背を向けて並べ。お前達は選択する事ができる。もし、クリスチャンでないなら、今去る事ができる。しかし、クリスチャンなら壁に沿って並べ。」そこで、何人かは立ち上がってその場を去って何人かは壁に背を向けて並びました。彼らが壁に向かって並び終えると、その兵士達は帽子を取って銃を置いて言いました。「牧師先生、全ての不信者は去りました。やっと説教をする事ができます。」その時に、誰がキリストを信じる者か否定する者かはっきりしたのです。私達はこの様な事についてはよく話しますが、実際に、この様な考えは持っていません。私は政治と宗教を混ぜる事には反対です。何故なら、その様な事をするたびに国家社会主義の様なものに行き着きます。しかし、軍人精神を教会に取り入れる事には賛成です。何故なら、キリスト教の基礎は自制だからです。私達は弟子と呼ばれます。私達が自制を持っていないなら弟子ではありません。弟子という言葉は、自制という言葉が源になっています。

どれくらいの自制が必要なのかは議論次第ですが、強調したい事は、ある時点で私達は自分の信じている事に従って生き始める決心をしなければいけません。ただ教会に行って「私達は信じます。私達は病人に手を置く事を信じます。」と口で言うだけでは十分ではありません。「いつ病人に手を置きましたか?」「私達は先週しました。」「私達とはどういう意味ですか?」「私は教会にいて長老達が祈りに行きました。」いいですか。私達は集団の利益を自分のものとする事はできません。ある人は言うでしょう。「私達の教会がしたから、私もしました。」それは違います。あなたはしていません。ですから、信じる者になって病人に手を置いて下さい。私達の手は誰かに触れ、人々の所に行って助ける必要があります。

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