このセッションを次の質問に答える事から始めます。「どの様にして癒しを保ちますか?」第一に、例えば、健康だったけど病気になったとします。これは癒しを失ったのではなく健康を失いました。祈ってもらって良くなり、あなたは癒されました。それからまた病気になったとしたら、それは「癒しを失った」と言うかもしれませんが、それは健康を失ったという事です。私達は同じ病気が戻ってきた時には「癒しを失う」と言って、それは同じ病気が再び戻ってくる事ですが、私はそれが実際に起きている事なのか疑います。それが同じ病気でもです。例えば、通りを歩いていてギャングの集団を見たとします。彼らの中には異なった階級があり、親分がいてその弟子達がいます。最初の日に、親分が飛び掛ってきてあなたを叩きのめしたとします。一週間して回復してからまた戻り、今度は親分の補佐役が来てあなたに殴りかかります。これと同じ様に、あなたは健康を失いますが、あなたを襲った人は違う人達です。同じギャングの集団からでも、違う人が襲い掛かって来ます。
例えば、癌を持っていたとします。そして、祈ってもらって癒されました。多くの場合には別の種類の癌が体の別の部分にやって来ます。人々は言います。「見て下さい。癒しを失いました。癌が戻って来ました。」私は多くの人達を扱ってきたので、確信しています。それは違う癌、違う悪霊とも言えます。私達の集会にやって来る30%位が医療関係の人達です。看護師、医師、医療従事者などです。私の個人的な意見と思うかもしれませんが、多くの場合には、医療関係で働いている人達が癒しの集会に行く理由は、彼らが霊的な召しを人間的な方法によって成就しようとしていると思います。あなたが医療関係の職についているなら、あなたは癒しへの思いがあるでしょう。私が9歳から12歳の子供だった時に、航空軍医としてアメリカ空軍に行くと確信していました。医療関係で働くつもりでした。最終的には空軍の護衛隊として法執行の専門家になりました。それから、パラシュート救助隊になり神は私に言いました。「違います。私はあなたにこれをして欲しいのです。」そして私はその道を選びました。多くの場合、私達は神が霊において約束してくれた事を人間的な方法で成就しようとします。それはアブラハムに起きた事と同じです。私達はイシュマエルを生もうとします。人々が医療関係で働くなら、彼らはその知識を使って人々を助ける事ができます。しかし、最終的にはそれはイシュマエルになります。その知識は逆に彼らを苦しめる事になります。何故なら、彼らは生物学や物理学について知り過ぎているからです。ある特定の事について話す時には言い方に注意して話さなければいけませんが、例えば、あなたは医師が化学物質の不安定によって起きる病気を持っているとします。うつ病だとします。私はうつ病などの病気に関しては気を配ろうとしていますが、うつ病を持っていても癒す事はできるので心配しないで下さい。
医師達はうつ病は脳の化学物質の不安定によって引き起こされると言います。ある一方の脳が正しい化学物質を作らなかったり、正しい量を作らなかったりという事があるようです。彼らはそれが原因だと言いますが、私はそれを足跡だと言います。もしある人が統合失調症だとすると医師は彼らに薬を与えますが、その薬は統合失調症を治す事はしません。ただコントロールするだけです。どの様にしてコントロールするのでしょうか?大抵は、それらの薬がどの様に働くかというと(これは専門的な定義ではありませんが、理解できると思います)、その薬はその病気に影響されているからだの部分を麻痺させます。その問題を引き起こしている部分を麻痺させます。彼らはその問題を起こしている部分を麻痺させる薬を与えます。その体の部分は正常に機能ができなくなります。この様に、化学物質の不安定自体はその問題の原因ではありません。化学物質の不安定自体は問題がそこにあるという証拠です。例えば、もしあなたがうつ病を持っているとしたら、あなたは時には気分がよく、ある時には悪くなります。もしそれが本当に医学的な問題なら、症状はいつも一定であるはすです。それは来たり去ったりするべきではありません。しかし、多くの人達は、「そうですね。この病気は来たり去ったりします」と考えます。それは違います。それは私達が決めた定義です。その来たり去ったりするのは悪霊です。それがその問題を引き起こすのです。化学物質の不安定は問題自体を引き起こしはしません。それは、悪霊がそこにいる時に正しい量の化学物質を作り出す体の部分をめちゃくちゃにして残した足跡です。
糖尿病も似た様なものです。これが悪魔のする事です。悪魔は私達の弱さを利用します。糖尿病のような病気は、初期段階から始まる遺伝性のものがありますが、多くの人々は栄養摂取の問題によって体を壊します。もし多くの糖分を持っているなら、私達の体はインスリンやグルコースといった形での糖分を作る事をやめます。何が起きるかというと、体の内で作られるものが体の外から摂取されると、体はそれを作る量を少なくする事によって調整します。それを摂取し続けると体はそれを作る事をやめます。何故なら、体は言うからです。「あなたがそれを摂取し続けるので、私はそれを作り出すのをやめます。」こうして免疫システムに弱い所を作ってしまいます。ここで、敵である悪魔はこの弱みを利用してそこから病気を引き起こそうとします。
私達には3つの免疫力があります。感情的な免疫力、身体的な免疫力、霊的な免疫力です。強い身体的な免疫力を持っている人は病気になりにくいです。強い身体的な免疫力と弱い感情的な免疫力を持つ場合は、時が経つにつれて弱い感情的な免疫力は身体的な免疫力を弱めていきます。何故なら、階級的には感情的な(魂の領域の)免疫力は身体的な免疫力よりも上だからです。又、私達が身体的にも感情的にも強い免疫力を持っていても、霊的な免疫力が弱いと病気になります。
オーラル・ロバーツ大学のピーターソン氏は異言で祈る人々の免疫力を調査しました。彼は、異言で毎日30分祈る人の身体的な免疫力が、通常時よりも30%上昇する事を発見しました。30分で30%上昇するのなら、毎日100分異言で祈れば100%上昇するのではないかと思います。このように免疫力には階級があります。何故、霊的な免疫システムはそこまで重要かと言うと、霊が階級的に上だからです。霊、魂、体の順です。ですから、弱い身体的な免疫力を持っていても、強い霊的な免疫力を持っているなら病気にはなりません。何故なら、霊が体を所有しているからです。敵は様々な病気を用いて私達の弱点を通して攻撃してきます。自分の弱点を作る時、敵はそれを踏み台にします。敵はその踏み台を通して攻撃し始めます。
ある人々は、「私は悪魔に扉に開いたので、彼は私を攻撃する権利があります」と言います。これについて考えてみます。第一に、私達は2種類の人、クリスチャンとノンクリスチャンを扱っています。私の癒しの列に並んでいても、私はどちらであるかは尋ねません。何故なら、その人が真理を私に話すかは分からないからです。その人の実を見るなら分かります。その実が証明します。その人の言葉は信じません。鍛えられた強い霊的な免疫力を持っている人は、大抵多くの事をしてもそれは身体的に影響しません。しかし、ずっとその様な状態でいる事ができると言っているのではありません。サムラル氏は肉的な領域からではなく、霊の領域から活動できるように教えました。牧師達は大半の場合、肉的に良くても魂の領域から活動します。それが、彼らが牧会をしていて燃え尽きる理由です。彼らは霊ではなく魂や体の領域から活動します。私達が霊の領域から活動する時、毎日遅く寝て早起きしても、負担にはならず多くの仕事を成し遂げる事ができます。年齢は関係ありません。サムラル氏は83歳でしたが、20歳の人をスタミナで負かす事ができました。それは、サムラル氏は肉的な領域からではなく、霊の領域から活動していたからです。彼は長い時間働き続ける事ができました。ろくに食べなくても彼には影響しませんでした。サムラル氏がこの様にできたのは、霊の領域から活動する方法を修得からです。それで、何も彼を傷つける事ができない領域に達しました。霊の領域から活動すればする程、私達に悪影響を及ぼす事ができるものは少なくなり、私達の内の霊は強く働きます。私達は考え方を一新しなければいけません。それによって霊は全ての領域で働き、五感で感じる外の状況が私達の内で信じている事に一致する様に変わっていきます。こうなればなる程、私達に悪影響を及ぼす事ができるものは少なくなり「悪い者は私に触れる事はできません」と言える様になります。罪やその他の悪いもの全てです。霊の領域から活動する事を修得して下さい。これを知らないから、多くの牧師達は疲れ果てて、少し運転しただけでも、直ぐに苛立ってしまいます。霊の領域から活動すれば多くの事をする事ができます。サムラル氏は常に霊の領域から活動する事を教えていました。鍛えれば霊の領域から活動する事ができ、肉に従ってではなく霊にあって歩む事ができます。
ここで私達が霊の領域でしている事は、軍隊が肉的な領域でしている事と同等の事です。私達は内にいる霊から始めて外に向かって訓練していきます。軍隊は肉体から始めて内に向かって訓練していきます。軍は訓練生を身体的にも精神的にも追いやり、ある極限の時点まで追いやります。彼らはその時点で身体的から霊的に切り替わります。「それは軍隊の例であって、霊的ではないでしょう」と人々は言います。全てが霊的です。全ての人は霊的です。私は霊の力によって様々な事を行う事ができる人々を知っています。
例えば、シャック・オーニールがバスケットボールをする時に何が起こると思いますか?彼のプレーは霊的です。何故でしょうか?それは「ゾーン」と呼ばれます。その「ゾーン」に彼が入ると全てのシュートが決まります。その領域に入ると失敗をする事ができません。その領域、またはゾーンとは実際には何でしょうか?それは「霊の中にいる事」です。クリスチャンとそうでない人の違いは、私達はイエスの御名によって霊的領域に踏み入る権利があるという事です。誰でも、イエスという扉を通して霊的領域に入る者は合法です。もしあなたがイエス以外の他の手段で霊的領域に入るなら、それは違法です。この世のアスリートや軍隊の人々は、イエスの御名や血によってではなく、それ以外の手段で非合法に霊的領域に入り込もうとします。魔女はタロットカードや魔術や麻薬や様々な非合法な手段を使って霊的な領域に入り込みます。しかし、それらは非合法な手段です。クリスチャンだけが合法的に霊的な領域で働く権利があります。
では、霊的領域に入る事がどうやって起こるのかを説明しましょう。子供の時に靴の紐を結ぼうとしていた時の事を覚えていますか?上手く結んだと思っても数分後にはすぐ紐はほどけてしまいます。どの様に靴紐を結んだらいいかを知らなかったからです。しかし、今では意識して靴紐を結ぶ必要はありません。今は紐が解けない様にどれくらいきつく結べば良いかも知っていて、話しながらでも、靴紐を結ぶ事ができます。何故でしょうか?それはその動作は意識を通り越したからです。それは霊的です。その動作は完全に無意識によるものです。ある人は、「その人は無意識にできる能力を得たのだ」と言います。違います。私達は訓練する事のできる体と魂と霊を持っています。細かく言うと、霊が私達を訓練します。私達は体と考えを霊に従って訓練する必要があります。軍隊も同じ事をします。レンジャー部隊や海軍やネイビーシールズなど他の特殊部隊の訓練は驚くべきものです。軍は彼らをウェイトルームなどに入れて、筋肉など身体をトレーニングさせます。しかし、軍の目的は身体的なトレーニングではありません。その目的は身体的にも精神的にも負荷をかけて、身体的にも精神的にもその人を完全に壊す事です。それが、海軍などが彼らに告げる事です。軍は「私達は皆さんを建て上げる事ができるようになる為に、まず皆さんを壊します」と伝えます。彼らは何をしようとしているのでしょうか?彼らは私達の失敗を知らしめて、どん底まで落とします。
それによって、肉的から、身体的から、自然的なものから霊的にスイッチを切り替えるように強制します。これが軍隊のする事です。私達は、時には軍人を指して「それこそ、強い海兵隊の精神だ」と言います。その海兵隊の精神とは彼らの内の霊の事です。私達はその精神を壊す事はできません。軍隊はその人の内に目的を達成する為には何でもする能力を鍛え上げます。霊において働く人だけが、目的達成の為に何でも行う事ができます。肉体的な手段によって霊の領域に入ろうとする事は非合法です。クリスチャンとして私達がなすべき事は、常に霊において働く事ができるレベルに到達する事です。私達がその様なレベルに到達する時、キリストの様に歩みます。それは、やるべき事を何でもするという事です。イエスは決して欠乏を見せなかったし、認めませんでした。イエスは水の上を歩き奇跡を行いました、彼はこれらの事を、肉によってではなく聖霊によって行いました。彼は身体を癒したにも関わらず、目に見える自分の体の事は気にも留めませんでした。何故なら、イエスはその様に霊において働くべき事を知っていたからです。
体は私の愛車のようなものです。道具です。その車は私の神ではありません。使い古した後は、新しいものと取り替えます。もちろん自分の体は大切にしますが、重要な事はそれが私を行く必要のある所に連れて行く事です。車はただの道具です。ある牧師が言いました。彼は飛び回って説教をする為に飛行機が必要でした。終に飛行機を手に入れ、彼は神に言いました。「何故、飛行機を手に入れる為に8年もかかったのですか?」神は彼に答えました。「飛行機をあなたに与える為に8年もかかりませんでした。ただ、飛行機があなたの立場を誇示するものから道具になるまでに8年間かかりました。」これが私達の気が付くべき事です。お金が神ではなくなった時に、それを道具として使う事ができます。お金が同時に、神と道具である事は不可能です。お金が道具になると、それを蓄積する事はしないで、それを道具として使います。ですから、私達にとってお金も、車も、建物も、何でも道具となる必要があります。その時には真に重要なものは人々の魂となります。
私達は霊的な戦いについて学んでいます。それに関して様々な教えがあります。実際に、何が一番役に立つか、何が霊的な戦いなのか教えましょう。もし私達が行っている事が罪を少なくして、霊的な事を増やすなら私達は霊的な戦いを行っています。もし私達のしている事が私達の生活の中での罪を減らさず、霊的な事を増やしていないなら、何か宗教的な遊びをしているだけです。ある時点で、私達は教会で旗を振って踊る事を止めて、福音の為に路上に出て行く必要があります。霊的な戦いは教会で行われる為のものではありません。霊的戦いは教会で起きないと言っているのではなく、教会だけで起きるものではないという事です。これは衝撃的な事かもしれませんが、ある時点で、教会はキリストの兵士を送り出して家々を回る必要があります。それが町での戦いです。この様な精神面を持つ必要があります。
では、大分話がそれましたが、どの様に癒しを保つかについてです。現実では、癒しを保つ方法は癒しを受取る方法と同じです。もし私が悪魔を追い払う事ができるなら私が周りにいる時には彼は何処かへ逃げます。ちょうど、警察の様なものです。私はあなたの周りにいる限りは敵を引き止めますが、私がいなくなると敵はそれを知って、あなたの所に帰ってきます。ですから、ある時点で私達は自分自身を守る事ができるくらいに強くなる必要があります。第二次世界大戦では、誰もが自分自身だけを守りたがりました。ユダヤ人は思いました。「誰かが私達を守ってくれるだろう。」しかし、敵は彼らを少しずつ減らして、もう抵抗できないまでにしてしまいました。これが悪魔のやり方です。敵は私達の関係を少しずつ断っていき、敵に対抗する十分な力が無くなるまでにします。ですから、私がここにいる間、2つのセッションで「神の癒しの秘訣」を教えていきます。癒しの一番の秘訣は何か知っていますか?もう嫌だと思う事です。うんざりだと思うまで何も変わりません。我慢をする余裕がある限り、嫌だと思いません。
私達は、罪に対して嫌だと思わなかった限り、罪からは抜け出しませんでした。そして、病気が嫌なものとしてそれを憎んでいる人の様に扱い始めるまでは、病気からは解放されません。私達は病気に向かって話し、私達の望んでいる事をするように命令し、病気に対して私達は権威持っている事を知って下さい。その為に15のポイントを見ていきます。それらはとても単純です。それと同時に、「霊的な力への秘訣」の7つのポイントを教えます。それらは自分だけではなく他人の為に強くなり、その強さに留まり続ける事を教えます。第一の鍵は、私達が聞く全ての事は私達の口で語られるべきです。それがまず強くなり強くあり続ける鍵です。異言も重要な鍵ですが、第一の鍵は、聞いた事を口で語りシェアし始める事です。どうして私はこの様に神癒技術者訓練を教える事が好きだと思いますか?それは毎回私が教える度に私は強くなるからです。私は御言葉を語る時に弱くはなりません。強くなります。何故でしょうか?それは語る事は、建て上げる事だからです。語る事によって新しいブロックが積み上げられ、そして、私はより強くなります。私がこの神癒技術者訓練マニュアルを作った理由は、皆さんが自分達のいる所で集まって神癒技術者訓練で学んだ事を教える為です。そうする事によってより強くなり、実際に学んだ事を生活の中で真に経験していく事ができます。全ての中で最も重要な鍵は学んだ事を実行する事です。多くの場合は、誰も学んだ事を行動には移したがりません。この教えを聞いて一番しなければならない事は、実行するという決心です。何故なら、その決心をしない限り何も変わらないからです。もし、その決心をしないなら私達は聞くだけの人になり、御言葉を行う人にはなりません。聖書は、もし私達が御言葉を聞くだけの人で行う人ではないのなら、自分自身を欺く事になると言います。
次の質問です。「ワーシップリーダーが癒しに関する歌を歌っていない時にも、同じ神の癒しの力の原理を使う事はできますか?」はい、できます。神は言葉を送って彼らを癒されたと書いてあります(詩篇 107:20)。ですから、癒しは言葉により引き起こされます。癒す為に癒しについて歌う必要はありませんが、私達の言葉は癒しになるという事です。私があるアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会で癒しの教義を教えていて、幾らかの結果を出していました。しかしその後、ある時点で癒しを教えるというよりも、私自身が癒しと一体になりました。そのある時点とは、私が神の心を真に理解した時でした。
よく人々は、「愛は多くの罪を覆う」と言います(Iペテロ4:8)。私達はただそれらの言葉を語るだけでなく実際に信じなければなりません。大半の人は間違いを犯す事を恐れるので何もしようとはしません。しかし、何もしない事が一番の間違いです。よく「神はその状況を変える事ができます」と言います。また、「悪魔が悪の為に作った状況も、神は神の栄光の為の状況に変える事ができる」とさえ言います。よく「神が全ての事を働かせて益として下さる(ローマ8:28)」と言います。しかし、全ての事が働いて益とはなりません。何故なら、聖書は「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の為には、神が全ての事を働かせて益として下さる事を、私たちは知っています」と言っているからです。これより、神を愛さないで神のご計画に従って召されていない人々の為には、全ての事は働いて益にならない事が分かります。そうですよね?そうでなければ、神は聖書に書いてあるような条件を付けませんでした。私達が悟らなければならない事は、ある御言葉には条件が伴うと言う事です。しかし、多くの人は起こる事は全て神の御心であるというアウグス・ティヌスによる神の主権の考えを持っています。それは真実ではありません。もしそれが真実なら、イエスが「あなたの御心が天でも行われるように地上でも行われますようにと祈るように」と教える必要はなかったでしょう。もし神の御心がいつも成されるのなら、その様に毎回祈る必要はありません。聖書には、神は一人でも滅ぶ事を望まず、全ての人が救われる事を望んでいると書いてあります(IIペテロ3:9、Iテモテ2:4)。今日、多くの人々は死に地獄に向かっていますか?もし、それが本当なら神の御心はいつも達成されてはいません。
それならいつ神の御心は成されるのでしょうか?それは私達がそれを行う時です。事実、イエス自身が「私が来たのは、私を遣わした方の御心を行う為である」と言いました(ヨハネ6:38)。しかし、イエスは何をなされましたか?彼は巡り歩いて物事をあるべき状態に修復していました。それは、イエスが修復した事は神の御心ではなかったという事になります。神様の御心が人の救いであったのに、イエスは物事をあるべき秩序に戻していました。イエスが行った全ての事は、実は、アダムや私達がもし堕落していなかったなら本来しているべき事でした。
何故なら、全ての被造物は正常な状態から外れてしまったからです(ローマ8:20-22)。今私達がするべき事は、全ての被造物を再び正常な状態に戻す事です。そして、私達にはキリストにおいて、それをする権威と力が与えられました。私達のするべき事は、何が神の御心で神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知る事です。その為には、考えを一新する必要があります。
私が引用した全ての聖書箇所について考えてみて下さい、それらを自分で調べて勉強して下さい。私はこれらの聖書箇所を文脈に沿って説明しようとしています。しかし多くの場合、聖書箇所は文脈に沿っては理解されていません。私は聖書の言葉の意味を変える事はしてはいません。しかしその結果、多くの神学を壊す事はしています。何故なら、神の言葉は自由の為にあるからです。何故か私達は、神は私達に敵対していて、善が起きる事を引き止めていると考えます。そして、それが神の御心だと考えます。そうではなく、神の御心が成されていないのは、私達がそれを行っていないからです。私達は、私達を遣わした方のわざを行わなければなりません(ヨハネ9:5)。神は聖霊の賜物を燃え立たせなさいと言います(IIテモテ1:7)。神は、「あなたは構えて下さい。そして私があなたの内の聖霊の賜物を燃え立たせます。それで、あなたはその賜物で働く事ができます」とは言われませんでした。神は、私達が聖霊の賜物を燃え立たせるように言いました。イエスはマタイの福音書7章22節で言いました。「私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行う者が入るのです。」ここより、改めて、何でも起こる事が神の御心ではない事を証明します。
考えてみて下さい。主は24節でこう言っています。「だから、私のこれらの言葉を聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べる事ができます。」風や、嵐や、それら様々なものが打ちつけましたが、その家は倒れませんでした。何故でしょうか?それは岩の上に建てられたからですよね?それからイエスは言われました。「また、私のこれらの言葉を聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べる事ができます。」何故でしょうか?イエスがそう言われたのは、風や嵐が打ちつけた時には家は倒れてしまうからです。それが岩の上に建てられていないからです。では、質問させて下さい。その人の家が倒れたのは神の失態ですか?嵐はそれら両方のグループの人達にやって来ましたか?そうですね。イエスは何と言いましたか?私達はこの世にあって困難があります(ヨハネ16:33)。そうですよね?しかし、それは神の御心であるとは限りません。それはハリケーン・カトリーナの様なものです。多くの人達が言いました。「あれは神の裁きでした。神の裁きがやって来ます。」それについて、最悪な事は、一人の人がその様な事を言い出すと、他の全てのクリスチャン達も一緒になって「それは神の裁きだ」と言い出す事です。
もし、それが神の裁きなら、神の命中力はとても悪いものです。何故なら、神はバーボン・ストリートを打つ事をしなかったからです。そこはまだ残っているからです。旧約聖書時代には、神の裁きでは町が丸ごと消滅しました。ソドムとゴモラはもうありません。神は旧約の時代の方が今の新約聖書の時代よりも命中力が良かったのでしょうか?神は年を取ったので、命中力が悪くなったのでしょうか?考えてみて下さい。それは神の裁きだったのでしょうか?それとも、ローマ8章にあるような全ての被造物の産みの苦しみの為のうめきでしょうか?それは何をしているのでしょうか?神の息子達の現われを待っています(ローマ8:19-22)。人々が立ち上がって言うのを待っています。「いや、ハリケーンよ。聞け。お前はここまで来れない。お前は沖で消滅する。ここに来て、損害を与えない。」それでも、人々は反論しようとして「でも…」と言うでしょう。では、ニューオリンズだけが滅ぼされるべき所だと思いますか?カリフォルニア州の海岸沿い全体もそれに値するのではないですか?神はそれらの都市も簡単に破壊できたはずですよね?しかし、何故神はニューオリンズだけを壊そうとするのでしょうか?ある人は言うかもしれません。「それは神の忍耐が切れたからです。」どれだけ軽率に他人を批判するかには驚かされます。むしろ立ち上がって言うべきです。「災害よ、去れ。静まれ。」それが私達の見本です。
イエスはこの様な裁きが来るように言われてはいません。私達は、その様な災害が自分達に起こらなかった事で、自分達が無実だと証明しようとします。しかも、ある人は言います。「あんな裁きがあるから敬虔に生きる方がいいです。」そう言うなら、ニューオリンズにいたクリスチャンは誰一人として怪我をしなかった、家を失ったりもしなかったという事ですか?一人として怪我をした人はいなかったという事ですね?もしそう言うなら、私達は他人を裁いている事になってしまいます。私ならその様な事は言いません。自分こそ裁かれるからです。それに壊されなかった家も知っています。ある人達の家々は守られました。私達の仕事は他人を非難する事ではありません。私達の仕事は人々を自由にする事です。助けて、励まして、建て上げる事です。サタンは私達の敵です。私達は血肉に対しては戦いません。聖書はそう言っていますよね?(エペソ6:12)。
では何故、私達はいつも人々を非難するのでしょうか?むしろ私達は敵を攻撃して、悪魔を敵として扱うべきです。悪魔が滅ぼし殺す者です。ヘブル5:12-14にはこう書いてあります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神の言葉の初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。」著者は、その当時のヘブル人達に対して言っていました。彼はヘブル人達の事を幼子で肉的であると言いました。それから、彼は言います。「しかし、堅い食物は大人の物であって。」大人とは誰であるか彼は言います。しかし、ここで注目すべき事は、彼は堅い食物は大人に属するものだけではなく、大人である事の定義を書いています。
彼は言います。「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」大人とは、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人達です。しかし、大半のクリスチャン達は、何が良いもので何が悪い物であるかを見分ける事はできません。何故でしょうか?それは経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練していないからです。私には「誰も傷つけないで、人の喜ぶ事をするように努めたいな」というような中途半端な姿勢はありません。もし私が誰かを不快にするなら、それは御言葉による事である事を願います。私は神の言葉が良い行いに導く為に、良い意味で皆さんを不快にし、刺激する事を願います。それが今私のしようとしている事です。皆さんを刺激する事、怒らせる事です。もし、それがあなたに必要なら、私は躊躇しません。どうせここには住んでいないからです(笑)。
私がビリヤードをしていた時に通っていたバーには、いつも常連の男達がいました。彼らは嘘を吹聴していました。「M16ライフルは見事な武器です。素晴らしいです。毎分3000発も撃つ事ができます。私は実際にM16を撃ちました。」私は言いました。「それは嘘です。」彼らは言いました。「何で嘘だと分かるのですか?」「私は実際にそれを撃った事があるからです。」まず、2回に1回はマガジンは詰まります。それがアメリカ兵もベトナム戦争でM16を捨てて、AK47を使い出した理由です。それにM16は毎秒3000発も撃ちません。彼らがその様な事を話しているのを聞いた時には、彼らは一度もそれを撃った事が無く、本当は何も知らない事が分かりました。恐らく、誰かが彼らにその嘘を教えたのでしょう。私達は一度もそれを経験した事なければ、聞いた事をそのまま信じてしまいがちです。しかし、一度出て行って聞いた事を実行すると、全ての理屈は崩れ去り何が真実かを見分ける事ができます。私達が実際にそれを実行して経験したからです。
誰かが「癒しはなくなりました」と言うなら、私はその人を見て思います。「みじめな、可哀そうな人だ。」何故なら、私は知っているからです。実際に経験しているからです。私は癒しを毎日見ています。癒しはなくなっていません。それでも、ある人は言います。「神は、あなたの人生に罪があるなら癒しません。」それは間違いです。私は毎日見ています。
人々は、自分の生活の中に罪があると認めても神に癒されます。私達は実際に出て行ってそれを行うまでは、他人から聞いた理屈を他の人に伝えます。しかし、私達が一旦それらを実行し始めると、全ての理屈は崩れ去ります。それで何が真実であるかを見分ける事ができます。それは武術でも同じです。ある時に、ある人が私に電話して、私達は違う流派であると言ってきました。彼は自分の流派がどれだけ素晴らしく美しいかを語り、私の流派はそうでないと言いました。ですから、私は終に彼に言いました。「いいですか、要するにはっきりさせるには、あなたが私の道場まできてリングの上に立って、拳と拳を合わせてどちらが本物か証明しましょう。結局、そういう事になりますよね。
誰でも話すだけならできます。しかし、拳を合わせてみれば、真実が分かります。」彼は言いました。「でも私達は、実際のスパーリングはしません。私達は歴史を学びます。」私は言いました。「でも、これは武術です。武術は戦いなのに戦う事ができないなら、あなたが持っているのはただの芸術です。」私達は彼らの様な人達をよく「こけおどし」と呼びました。彼らは様々な証書を持っていますが、それを証明する事はできません。教会も全くそれと同じです。博士号や修士号や学士号はどうでもいいです。私は、肩書きだけの人達を沢山見てきました。もし私達が虐げられている人達を自由にできないなら、何の役にも立ちません。何も変える事はできません。何故なら、私達は理屈など、どうにでも作り上げる事ができるからです。
私達は理屈から実際に役に立つ聖書の現実に戻る必要があります。イエスの行った事には力がありました。今では様々な癒しについての教え、様々な学校やクラスなどがあります。もし、それらの学校やクラスが本当に効果的なら、まず、皆さんがここにいて学んでいる必要はありません。効果的な癒しを行う為に知るべき事は、イエスの行わなかった事は、私も行わないという事です。私達はイエスを代表する者です。彼は、カウンセリング、指圧、水晶占いなどはしませんでした。彼はただ御言葉を語り権威を行使して病人を癒し、悪霊を追い出し神の国を実践しました。それはこういう意味です。
イエスは弟子達に「行って、神の国の福音を宣べ伝えなさい」と言われました(マタイ10:7)。そして、弟子達は行って「イエスがもうすぐやって来て、あなたの罪の為に十字架に架かり、死者の中から蘇られる」と宣べ伝る事はしませんでした。彼らは、イエスの死と復活についてさえ知りませんでした。イエスは弟子達に彼の死と復活について説明しましたが、彼らは理解しませんでした。イエスが実際に復活した直後も、彼らは理解しませんでした。(後の宣教において)、弟子たちは神の国の福音を宣べ伝えました。イエスの死と、埋葬と、復活は福音ですが、神の国の福音ではありません。それは私達が、神の国の福音を宣べ伝える事ができるようになる為の福音です。「神の国の福音」という言葉の意味は、文字通りには「神の絶対的な支配権の良い知らせ」です。これを弟子達は出て行って宣べ伝えました。彼らは全ての町々に行き「私達は、神は全てに勝って偉大であるという良い知らせを伝える為に来ました」と言いました。そして、病気を見つけた時は、「その良い知らせを証明します。神は癌よりも大きなものです。癌よ、去れ」と言い、その病人は癒されました。この様にして彼らは、その福音を証明しました。これが宣教する為に召された全ての人々が宣べ伝えるべき福音です。
全てのクリスチャンは、イエスの死と埋葬と復活による神の絶対的な支配権を宣べ伝えるように召されています。私達にはこの福音を実践する権威を与えられています。これが私達の仕事です。もし私の言う事に賛成なら、 私と一緒に声に出して言って下さい。皆さんが考える事ができるようにゆっくりと言いますね。では、祈りましょう。イエスの名によって、父よ、あなたの御言葉を信じます。私は御言葉を行う者であると信じます。私は御言葉を行っていない生活の領域にあっても、御言葉を行う者になります。父よ。あなたにお願いします。今、この御言葉を私にとってリアルなものにして下さい。この御言葉を歩んでいける道を見せて下さい。私はあなたの御言葉だけを受け入れます。私は人間の言葉を受け入れません。私は神の御霊による言葉を受け入れます。今日、ここで神の御霊により語られた言葉を私は保ちます。そうでない言葉は拒否します。だから、イエスの名によって私はあなたの言葉を成就させます。あなたの神の性質にあずかる者にしてくれた事を感謝します。そして今、私は新しい契約の下にある神の子であるクリス チャンである事を認めます。私は古い契約の下にいる聖徒でも、古い契約の下にいるしもべでもありません。私は新しい契約の下にいて仕える神の子です。アーメン。
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