2019年1月14日月曜日

DHTT セッション 19

始めに士師記の13章を見ていきましょう。士師記13章を早く終えて、癒しの祈りをしていきたいと思います。ですから、時間をかけては見ていきません。それでは、今からボランティアの人達に頼んで誰も逃げる事ができるように扉に鍵をかけてもらいます。冗談です(笑)。何故かというと、これは私の見せ場などではないからです。私は24時間いつも癒しの為に祈っています。今回は皆さんが祈ります。何人がこの神癒技術者訓練を受けた事がありますか?手を挙げて下さい。では、訓練を受けた事のない人はいますか?では、癒しが必要な人はどれくらいいますか?大体90%ですね。では、この訓練を受けてきた人達、今夜は皆さんの番です。いいですか?私が今回教えてきたのは、私ではなく、皆さんが癒しを行えるようになる為です。ですから、この訓練を受けた人、またリーダーの人達は今夜、癒しの為に祈ります。それと、私はいわゆる致死の病気を持っている人達の為に祈ります。皆さんはその他の人たちの為に祈って下さい。私は歩いて回りますが、癒しはとても機械的に見えるかもしれません。しかし、それは働きます。神の力は機械的だからです。その理由は、神は全ての人がその力を使えるようにしたからです。だから、怖れないで下さい。大丈夫です。今から、ちゃんと何を、どの様にしたらいいかを教えます。でもその前に、最後のセッションを終えたいと思います。


先程、私達が話していた事を思い出して下さい。覚えていますか?思い出して下さい。聖霊のバプテスマがどの様に捕らわれ人を解放し、しいたげられている人を自由にする力を与えるかについて話しました。そして、手を置く事や言葉など様々な方法により、神の御霊の力を解放する事で彼らを自由にする事について話していました。覚えていますか?実際には、それらの幾つかについてはレイク氏の手紙で読みました。その中で、その秘訣は聖霊のバプテスマを通しての支配権の行使と言っていました。今から、それを聖書に従って証明します。その後で癒しを行っていきます。では、士師記13章24節から見ていきます。これはサムソンの話です。こう書いてあります。「その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。」25節に注目して下さい。「そして、主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」ここで、主の霊は彼を揺り動かし始めたと書いてある事に注目して下さい。今でも教会は通常この様に働いています。彼らは、主の霊に時々揺り動かされます。しかし、ダビデの生涯を勉強すると、サムエルが彼に次のイスラエルの王になる為に油を注がれた時から、神の霊がダビデの上にその日から留まったと書いてあります(Iサムエル記16:13)。そうですよね?教会はサムソンの様に力を使うのをやめて、ダビデのように力を使う必要があります。「2週間前に教会にきてあの礼拝に出ているべきだったな。あの礼拝は最高でした。あんな礼拝は今までに一度も経験した事はなかった。神の霊がその様に働いてから6ヶ月間くらいになります」の様には言うべきではありません。教会はこの様であるべきではありません。いつも同じであるべきです。神である主は変わる事はありません(マラキ3:6)。そうですよね?イエスはどうですか?昨日も今日も、とこしえに同じです(ヘブル13:8)。神の霊が動いていないように見える時は、それは、私達が動いていないからです。神の御霊はいつも変わらないからです。

では、女は男の子を生み、サムソンと名づけた、彼は大きくなり神は彼を祝福したと書いてあります。サムソンの話を知っていますか?あまりいい話ではないです。終わりは悪くはありませんが、途中は良くありません。士師記16章を読むとデリラの話が書いてあります。サムソンはこのペリシテ人と関わり始め、それは問題を引き起こします。彼の両親は彼女を気に入らないで、彼に同じ部族の中から女の人を捜すように言っていました。しかし、聖書はこう言っています。両親は神がペリシテ人と戦いを引き起こそうとしている事に気が付きませんでした(士師記14:4)。それが、サムソンがペリシテ人達の所に行き続けた理由です。彼がそこに行くたびに、サムソンは戦い、彼らを打ち負かして帰ってきました。では、15節から読んでいきましょう。「そこで、彼女はサムソンに言った。『あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えて下さいませんでした。』」ここで3回も彼女はサムソンに「あなたの強い力がどこにあるのか?」と訊いている事に注目して下さい。彼は3回とも彼女に嘘をつきました。そうですよね?そして、彼女は彼に言われた事をし、彼は奮い立って、多くのペリシテ人を打ち殺します。普通、2、3回目の嘘の後なら、彼女も学習しているべきです。考えてみて下さい。


サムソンを想像する時には、自動的にシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルシュネッガーなどが思い浮かぶと思います。彼らは筋肉ムキムキです。恐らく、シルヴェスター・スタローンが演じているサムソンが、「おい、デリラ!」と言っているのを、想像できると思います(笑)。しかし、実はサムソンはシルヴェスター・スタローンのようではありませんでした。アーノルド・シュワルシュネッガーのようでもありませんでした。もしそうなら、ペリシテ人達がデリラの所に行って、「サムソンの力がどこから来るのか見つけなさい」と言う必要はなかったはずです。もしシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルシュネッガーを見るなら、彼らの力がどこから来るかは分かるからです。それは大きな上腕筋からです。そうですよね?彼らの力の源に疑いの余地はありません。しかし、ペリシテ人達はどこからサムソンの力が来るのか分かりませんでした。恐らくサムソンは彼らのようではなかったはずです。多分、ウディ・アレンのように見えたかもしれません。考えてみて下さい。もしウディ・アレンが町への門を粉々にしたら、どんな反応をしますか?「彼の力がどこから来るか調べなさい」と言いますよね?彼には強い筋肉はないからです。サムソンは彼女に3回も嘘をついて、神の力について黙っていました。彼女に一度力がどこから来るかを話したら、それを失ってしまうからですか?本当にそうですか?この話のモットーは何でしょうか?嘘をついて、神の力を保つ事ですか?それとも、それを伝えて力を失う事ですか?違います。それがモットーではありません。しかし、驚くべき事は、神の力がどれだけ機械的なものであるかです。サムソンは神との契約を持っていました。そして、その契約はいつも働いていました。では、彼がここで何をしたかに注目して下さい。彼は3回嘘をついて、終に17節で真実を言います。18節でこう言っています。「デリラは、サムソンが自分の心をみな明かした事が分かったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。『今度は上って来て下さい。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。』ペリシテ人の領主たちは、彼女の所に上って来た。その時、彼らはその手に銀を持って上って来た。


彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、一人の人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。」20節です。「彼女が、『サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます』と言った時、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、体をひとゆすりしてやろう」と言った。彼は主が自分から去られた事を知らなかった。」これが理解しなければいけない事です。神の力を自由に働かせる為には、私達は神の力自体、聖霊自体は全く五感で感じる事ができるものではない事を悟らなければなりません。神の力は感じるものではありません。神の力を働かせている時には、何か感じるかもしれませんが、その感覚自体は神の力ではないです。何故なら、もしそれが本当なら誰もが同じ事を感じていなければいけないからです。しかし、もし人々にどう感じるか訊くなら、それぞれ違った事を感じています。ですから、人が感じる事が神の力ではありません。それはただの私達の身体の神の力への反応です。いいですか?


覚えておくべき事は次の事です。サムソンが言った事に注目して下さい。彼は立ち上がって言いました。今度も、いつもと同じように出て行って、体をひとゆすりしてやろうと言いました。彼は自分をひとゆすりしてやろうと言いました。その「ひとゆすり」はプロレスのように立ち上がって、自分の身体をひっぱたいて気合を入れる事なのかは、分かりません。でも、それが何であれ、サムソンは出て行ってペリシテ人達を打ち殺すつもりでした。そうですよね?それから、聖書は、サムソンは神の霊が彼から去った事を知らなかったと書いてあります(士師記16:20)。考えてみて下さい。サムソンは立ち上がって、ひとゆすりして、ペリシテ人達に飛びかかります。でも、今回は、彼らが彼を捕まえて、連れて行きます。彼には力は無かったからです。これは彼が神の力をいつも五感で感じてはいなかったからです。よく考えてみて下さい。いいですか?もし彼がいつもの力を感じていたのなら、彼がひとゆすりした時に、彼は神の力を感じなかったはずです。ですので、彼は神の御霊が彼と共にいないのに気が付いたはずです。でなければ、彼はこう言ったはずです。「あれ?主よ。どこにいるのですか?ちょっと待って下さい。主を見つけなきゃ。主よ。どこですか?」そうですよね?サムソンがひとゆすりした時に油注ぎを感じたはずです。なので、彼は神の御霊が自分の内にいない事に気が付いたはずです。なので、サムソンはいつも戦いに行く時には何も感じてはいなかったはずです。それは、彼が毎回戦った時には、彼は信仰を持って出て行ったという事です。彼は神との契約を信じていました。何も感じてはいませんでした。単純です。それが、私達がしなければいけない事です。


つまり、神の力はいつも私達の内にある事を信じ、いつも働くと信じ、言った事を必ず成し遂げる事を信じて思い切って行動する事です。質問させて下さい。油注ぎは何をする為に送られましたか?その油注ぎは人々のくびきを砕きました(KJVイザヤ10:27)。聖書はそう言っています。では、もう一箇所聖書で見てみましょう。Iサムエル記の10章1節です。これはサムエルがサウルをイスラエルの王として油を注ぎに行く時の事です。では、質問です。サウルは善良な王でしたか?いいえ、そうではありませんでした。良い王として始まりましたが、終わりは悪いものでした。そうですよね?彼が悪に走った時には神は驚きましたか?いいえ、神は何が起きるかを知っていました。しかし、サウルに油を注ぎました。そうですよね?それでもサウルは王でした。

神はサウルの権威と地位を認めていました。彼が悪に走るのを知っていてもです。それは「あなたは神に信頼されるような人ではないので、力を与える事はしません。もし神はあなたが悪で、間違いの方向に走ると知っているなら、油を注ぐ事はしません」というような考えを否定します。そうではないですか?神はサウルに油を注がれました。何が起こるかを知っていてもです。サウルの転向は神を驚かせる事はありませんでした。サウルが悪に走った時には、毎回、神は「どこからその様な悪がやって来たのですか?そんな事は思ってもいませんでした」とは言いませんでした。彼はサウルが悪に走るのを見て言ったでしょう。「私は知っていました。」何故でしょうか?何故なら、彼はサウルをある仕事を成し遂げる為にその地位に置いたからです。神はサウルにこう言っています。注目して下さい。こう書いてあります。「サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか」(Iサムエル10:1)。ここでは、まずサムエルは油のつぼを取って、サウルに油を注いでいます。これが油そそぎです。次に、彼は、「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか」と言っています。そうですよね?ですので、ここでは2つの油注ぎについて話しています。それらは、まず既に起こった霊的な油そそぎがあります。そして、その霊的な油そそぎが起こった事を証明するための目に見える油そそぎです。ここで、何が起きているかに注目して下さい。サウルはすでに油を注がれていましたが、サムエルはまた彼に油を注ぎました。サムエルの言葉に注目して下さい。「あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、二人の人に会いましょう。その二人はあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。所で、あなたの父上は雌ろばの事など諦めて、息子の為に、どうしたらよかろうと言って、あなた方の事を心配しておられます』と言うでしょう。あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木の所まで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています」(2-3節)。ここではサムエルは預言しています。これらはとても具体的なものですね。彼は続けて言っています。「彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町に入るとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、」(4-6節)。


この6節に注目して下さい。「主の霊があなたの上に激しく下る」と書いてあります。彼は既に油を注がれていませんか?彼は既に油を注がれているのに、聖霊が彼の上に注がれています。私がルカの福音書4:18で言った事を覚えていますか?イエスは、「神は私に油を注がれました。神の御霊が私の上にあります。神が私に油を注がれたからです」と言っています。分かりますか?私達はいつも言います。「私達には油そそぎがあります。それは私達の上に神の御霊があるからです。」でも、イエスは神の御霊が彼の上にあるのは、彼は油を注がれているからであると言っています。油そそぎが起こって、その後に神の御霊が注がれます。それは油が注がれているからです。それがここで起こった事です。サウルはまず油を注がれました。そして、神の御霊が彼の上に下りました。それは彼に油が注がれたからです。分かりますか?

私達が新しく生まれる時、それが油注ぎを受けた時です。「油注ぎ」という言葉の意味は、「任命される」という意味です。サウルは油を注がれた王でした。彼は王に任命されました。ですから、皆さんが油を注がれた時には、神の子として任命されたのです。ヨハネの福音書1章12にはこう書いてあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」これが新生です。しかし、聖霊のバプテスマを受けた時には、聖霊が私たちの上に注がれます。その様に聖霊が私達の上に臨むのは、神の子達として任命されたからです。私達はいつ祭司と王にされましたか?新生した時ですよね?ですから、皆さんが新生した時に王になります。どの様にしてサウルは王になりましたか?彼が油を注がれて王になりました。同じように、皆さんも王として油を注がれ、王として任命されています(Iペテロ2:9、黙示録1:6、5:10)。ですから、それが起こった時には、皆さんには神の子達になるための力と権威を持ちます。そして、神の御霊が私達の上に注がれます。この二つは関連していても、同じものではありません。サムエルは続けてこう言っています。「あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。」IIコリント人への手紙5章17節には、「誰でもキリストのうちにあるなら、新しく造られた者です、古いものは過ぎ去り、見よ、全てが新しくなりました。それらは神からでた事です」と書いてあります。それは、私達が新しい人、新しい被造物、新しい創造になった時の事です。このサウルの話は、旧約聖書の新生と聖霊のバプテスマの影です。


では、私達が新生して聖霊のバプテスマを受けた後に、神は私達にどの様に行動するように言っているか、このサウルの話より見てみましょう。こう言っています。「このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです」(Iサムエル10:7)。分かりますか?では、新生して、聖霊のバプテスマを受けた後には私達はどの様に行動するべきでしょうか?「手当たり次第に、何でもしなさい」です。言い換えると、これは「やるべき事は何でもしなさい」です。宗教的なクリスチャンは次の様に理解します。「この様なしるしがあなたに起こったら、私(神)があなたに語る時に、私があなたに話す事をしなさい。そして、私が語るまで何もしてはいけません。」悲しい事に、大半の教会はこの様に理解しています。それなのに、私達は何故神の働きをなかなか見る事ができないのかと考えます。ですから、鍵はレイク氏が言った様に、神は聖霊のバプテスマを通して私達に力を与えたので、信じる者達にその与えられた支配権を行使するように教える事です。この様に考える人もいます。「神は人にいつでも、どこでも人々を癒して、自由にする力を与える事はしません。神はそんな力を自由に使える為の許可を小切手の様に簡単に与えはしません。」その考えは間違いです。神はそれができるようにイエスの御名によって、小切手にサインもしてくれました。ヨハネの福音書では、「また私は、あなた方が、私の名によって求めるものは何でも、私はそれをしましょう」と書いてあります(ヨハネ14:13-14)。そうですよね?神自信がその聖書箇所を書きました。私達ではありません。私が教えてきた事を皆さんが信じない限りは、それらの聖書箇所を信じる事はできないでしょう。私達はいつも何か資格や条件が必要であると考えます。多くの人は、「あなた方が求めるものは何でも」という言葉を信じません。彼らは言います。「それはあり得ません。それなら、何でも求めたらどうなのですか?」

一度、神の言葉に従って考えが一新されれば、その様な質問はなくなります。私達の考えが一新されていくまでは何を求めたらいいかも分かりません。何故かというと、何か良くて神に受け入れられ完全な神の御心なのかを判断する事ができないからです(ローマ12:2)。でも、この教えの中で私達の考えは神の力と癒しの真理に従って一新されていっているはずです。あなた達は癒しの為に必要な情報は全て受けました。これは私が2万人に与えてきたのと同じ情報です。彼らは私に手紙や電話やメールで、何十、何百という癒しや悪霊追い出しの証を送ってくれます。毎週です。あなた達も同じ事ができます。神は分け隔てしません(ローマ2:11)。


ベニー・ヒンがあなたの町に来た事があるでしょうか?来た事はないですか?それは神がその町をあなたに任せたという事でないですか?つまり、神はあなたを信頼しています。ですので、思い切って行動して下さい。もう一箇所、聖書を見てきましょう。ルカの福音書10章です。簡単に見ていきます。イエスは死んで、蘇った後に、弟子達を遣わしました。大宣教命令というものです。その時に、イエスは言いました。全世界に出て行きなさい。福音を宣べ伝えなさい。病人を癒して、弟子としなさい。そして、弟子を作る時にはいつも、彼らに私が命じた事を全て守るように教えなさいと言いました(マタイ28:18-20、マルコ16:15-18)。ですから、イエスが彼の弟子に伝えた事と同じ事を、全ての人に教えるように命じました。つまり、私達はそれらの12弟子達と同じ事をしなければいけませんよね?1節からイエスはこう言っています。「その後、主は、別の七十人を定め、ご自分が行くつもりの全ての町や村へ、二人ずつ先にお遣わしになった」(ルカ10:1)。これはイエスが70人の弟子たちに言った事です。12弟子だけではありません。「そして、彼らに言われた。『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫の為に働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。私があなた方を遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。誰にも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなた方の祈った平安は、その人の上に留まります。だが、もしいないなら、その平安はあなた方に返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません』」(2-7節)。イエスは何について話しているのでしょうか?家です。家に行く事についてです。ですから、ここまでは、イエスは家について話しています。次の8節を見て下さい。ここで話が家から、町になりました。「どの町に入っても、あなた方を受け入れてくれたら、だされる物を食べなさい。そして、その町の病人を直し、」(8節)。ここでは、その町にいる病人を癒すように言っています。そしてイエスは言っています。「彼らに、『神の国が、あなた方に近づいた』と言いなさい。」ですから、私達が町に行く時には、そこにいる病人を癒して神の国が近づいたと言うべきです。どの様にして私達はその様な事をするのでしょうか?神の国によってです。ここで、この聖書箇所一つより、私達の町には病人がいるべきでない事が分かります。そうですよね?イエスは数人の病人を癒しなさいとは言いませんでした。彼は町にいる病人を癒しなさいと言いました。彼はどの病人を癒すようにも、どの病人を癒さないようにも言いませんでした。ただ、「町に行って、病人を癒しなさい」と言いました。重要な事は、私達は病人を癒す事は福音を宣べ伝える事の一部である事に気づく必要がある事です。

病人を癒す事は、「神の国がやって来た」という事を宣べ伝える事の一部です。それは福音を宣べ伝える事の一部です。実際にそれを見せる事は、神の国を宣べ伝える事の一部です。分かりますか?ここで、多くの人が時に勘違いをしている事があります。彼らは牧師だけが説教をして、福音を宣べ伝えると考えます。イエスを信じる者なら、福音を宣べ伝えます。クリスチャンなら宣教をする人です。それなら、私達は何処に行っても病人を癒し人々を助けます。聖書には求める人には施しなさいと書いてあります(マタイ5:42)。私達が行く所何処でもです。良いサマリア人の話を思い出して下さい。彼がどの様に傷ついた人を助けたか。全ての祭司や宗教的な人はその人を通り過ぎましたが、よいサマリア人はその人を助けました。


イエスは「誰があなたの隣人ですか?」と訊きました。単純に彼らの答えは、隣人とは、全ての助けを必要とする人と助ける人でした(ルカ10:30-37)。そうですよね?イエスはそれ以外の条件や定義をつける事はしませんでした。私達だけが余分に条件をつけようとします。ですから、私達の仕事は捕らわれ人に自由ももたらす事です。幾つかの証をシェアします。これから話す事は特に病気の人達ではなく、この訓練を受けてきた人達へのものです。いいですか?私は病人達が癒しを受取る事ができるようになる為に、信仰を増す為に話してはいません。ただ、癒しを行う人達の信仰を強めようとしています。もし、彼らが自信を持って癒しを行うようになるなら、病気の人々はより簡単に癒しを受取れるようになると思います。私達としては受取るよりも、与える方に興味があります。何故でしょうか?それは受けるよりも、与える方が幸いだからです(使徒20:35)。この言葉を唱えるだけでなく、信じなければいけません。


私達が最初に癒しを始めた時には、何をしているのかは明確ではありませんでした。始めの頃は、私は沢山のA・A・アランやジャック・コウなどのビデオを手に入れて、彼らの行う癒しや奇跡や癒しの聖会を見ました。A・A・アランは荒々しく、驚くべき人でした。彼がミニストリーを始めた頃には、ある男が歌のディレクターとして彼の為に働いていました。その男は楽器も弾けないし、歌う事もできませんでした。それでも彼はアランの所へ働きに行きました。その仕事だけがただ空いていたし、彼はアランの近くで働きたいと思いました。そして、彼はその仕事を受け入れ働き始めました。彼の名前はボブといいました。このボブを幾つかのビデオで見る事ができます。私は300個以上のA・A・アランやジャック・コウなどのビデオを持っています。私はソファーに座り、それらのビデオを見ていました。スイッチを押して見ながら、時には眠ってしまう事もありました。そして、そのビデオが終わったら、又巻き戻して始めから見ました。そして、よく言いました。「神様、あの様になりたい。あれができる様になりたい。彼らはみな死んでしまって教えてくれる人はいないけれど、あれらの力や技術を手に入れたいです。どうしたらいいですか?」彼らのビデオを見る事が、彼らの一番近くに行って学ぶ手段でした。ですから、私は何度もそれらを見て学びました。アランには驚かされました。彼らはまず歌を歌い、そしてボブは歌を取り仕切っていました。悲しい事に彼の歌声はひどいものでした。そして、見ていると、終に「では、今晩の伝道師、力と信仰を持った神の人、伝道師A・A・アラン!!」と彼らがそう言った途端に、アランがカーテンの後ろから出てきて、その脇には聖書を挟んでいました。彼はこの様なクリスチャンでした。

彼は出てくるとスタスタと歩いて止り、聖書を片手にとって「皆さん、神は今夜誰かを癒すと信じますか?」と叫びました。群衆は叫びます。そして、彼は言います。「アーメン。誰が私の言っている事を信じますか?」そして、彼らは病気の人々を連れてきました。彼らは担架の上に寝ていたり、ブランケットに包まれていました。そして、彼は言います。「彼らはそのブランケットの下には服を着ていますか?」そして、彼らは「そうです」と言い、アランはそのブランケットを跳ね除けて、その人を見て叫びます。「この状況は悲しい事ですよね。私の神よ。ひどいものです。」そして、問題が何なのかを聞きました。「この人の足には何の問題がありますか?」付き添いの人は答えます。「彼の足は動きません。麻痺していて、何も感じません。」アランは言います。「分かりました。誰か私と共に信じる人はいますか?」そして、彼はその足をつかんで動かし始めます。その足を動かしながら彼は言います。「イエスの御名によって、足よ、動け、動け。」

彼は足を動かし続け、しばらくしてから「では、私と一緒に信じて下さい」と言い、その人を担架から、ぐいっと引っ張ります。そういう事をする時には、病人は地に着くまでに癒されるべきです。そして、彼らは癒されました。彼らが癒されて、興奮して飛び上がるのを見るのは素晴らしいものでした。私は彼がその様なさまざまな驚くべき事をするのを見ました。


次はジャック・コウについてです。ジャック・コウもよく見ていました。彼は大柄な人です。彼はどら声を持っていました。ある小さな女性の人が癒しの為に舞台の上にやって来たときの事を覚えています。とても小さな、ペンテコステ派の女性です。彼女と比べて、ジャック・コウはとても大柄でした。その当時には大きなマイクを使っていました。そして彼らはそのマイクを首柄下げていました。彼はそこに座り、そしてこの小柄な女性の人がやって来て、そこにちょこんと立っています。そして、彼が言います。「ご婦人、どの様な問題を持っていますか?」そのマイクを彼女に近づけて、彼女は答えます。「えーと、腰に痛みがあります。」彼は、「分かりました」と言い、癒しを行います。彼はマイクを置きます。いいですか、コウはとても大柄です。そして、彼女はそこに立っています。ここでアドバイスです。癒しを行っている人を背後に立たせないで下さい。それはしないで下さい。いいですか?彼は立ち上がって両手で彼女の頭をつかんで、そして「下に」と言い彼女をしゃがませます。そして、彼女は下に押されてしゃがみます。そして彼は、「上、下、上、下」と彼女をしゃがませたり立たせたりします。そして、この女性を実際にその映像で見ると良いのですが。彼女はとても驚いて頭をつかまれて、下に押されて毎回下に押される時には彼女は「助けて、助けて!」という様な感じです(笑)。全て終わった時には彼は彼女を立たせて、「これでどうですか?」と言います。その女性はめまいを感じながらも気が付いて答えます。「癒されました。」彼は「そう思っていました」と言いました。彼はいつもこの様な人でした。私はそれを見ながら、「よし、神に栄光があるように。こうやって皆癒されるべきだ」と

独り言を言いながら、真夜中にどこかに病気の人はいないかなと考えたりしていました。


その当時は、この様なビデオを見ていてライトハウス・トライアングルというアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会に行っていました。私は彼らに頼んで言いました。「ドアで挨拶する役でも、何でも必要な事をします。何かさせて下さい。」終に私は牧師に言いました。「もし何か私が教えるとしたら、何を教えて欲しいですか?」

彼は言いました。「では、木曜日の聖書のクラスを教えたらどうですか?」私はそれを受け入れ、彼は尋ねました。「何を教えるつもりですか?」私は「えーと、聖書の教義はどうですか?」と言いました。私はP・C・ネルソンの聖書教義の本があったのでそれを使う事にしました。そして、最初の木曜日の夜のクラスで話しましたが、私は長い時間話す事に慣れていませんでした。その時には今のように長くは教えていませんでした。一日中や数日間のセミナーではありません。30分後には私の声には枯れてきていました。私は常に水を飲んでいました。それでも私の声は小さく、殆ど聞く事ができない状態でしたので、3週目に友人がやって来て言いました。「カリー兄弟、声がだんだん枯れてくるのに気が付きました。」私は答えました。「そうなんです。長い間話す事に慣れていないんです。」すると、彼は言いました。「それを改善する為の秘密があります。」私は「本当ですか?」と言い、彼は続けて言いました。「もしスダフェッドを取るなら、長く話す事ができます。」私はその様な事を聞いた事がありませんでした。彼は「それは効きます」と言って、スダフェッドを持ってきました。私はその時にはそれを受け取りました。


私は薬を殆ど飲んだ事がありませんでしたが、私は教える前にスダフェッドを飲みました。ちょうどその日は聖霊のバプテスマについて話す日でした。スダフェッドを飲んで、教える準備ができていました。教え出して30分程して話していました。「私達には聖霊の力が必要です。彼が私達の上に臨むと、力を受けます。神をほめたたえます。その様な力が必要です。」それから、40~45分経った頃に、突然私は気が付きました。「神に栄光あれ、聖霊の臨在があります。指に感覚がありません。膝から下の部分の感覚が無くなりました。ああ、これが聖霊の力です。皆さん、立って下さい。壁に沿って立って下さい。聖霊のバプテスマをしましょう。」私達は電気を消してペンサコーラ・リバイバルの音楽を流しました。それは「神をほめたたえます。あなたが通った道を通っています。主よ。あなたと共に行きます」と言うような歌詞です。私は立ちあがって歩きながら、「受取りなさい。受取りなさい」というようにすると、人々はバプテスマを受けました。私は彼らに手を置き、彼らは叫び倒れ、癒され、そして、悪霊は追い出されました。それから30分後、私は歩きながら考えていました。「神よ。あなたをあがめます。すごいです。誰かをよこして下さい。私はまだまだ手を置き続けます。」私達はこれらの全ての事を経験して家に帰った後に、聖霊が去った事に気が付きました。その時はそれで終わりました。その次の週に今度は聖霊のバプテスマの証拠について異言を教えていました。異言とは何か?何故異言で話す必要があるか?異言で話す事は祝福です。どの様にして異言によってこの力が生み出されるか?教え始める前に思いました。「先週、声がずっと枯れる事なく教える事ができた。」それで、また今回もスダフェッドを飲み、準備万端でクラスに行きました。また私は話していました。「聖霊のバプテスマが必要です。異言が必要です。それは力を得されてくれます。それは変なものでもないです。神をほめたたえます。異言で話す時に、そこに力があります。」その時、突然私は気が付いて言いました、「ああ、聖霊の臨在が戻りました。立って、壁に沿って並んで下さい。早く、早く。」そして、人々は聖霊のバプテスマを受けて異言で話しました。


次の週の日曜日、私は牧師にクラスについて報告をしなければいけませんでした。私は何が起きているのかを伝えました。彼は日曜日の朝の礼拝の後にテキサス特有の話しぶりで言いました。「聖書の教義のクラスで何が起こっているかは分かりませんが、16人が癒されて、14人の人達が悪霊から解放されました。」彼はある日私の所に来て言いました。「カリー君、私は今まで聖書の教義を学ぶだけの為にこれだけ沢山の人々が、教会にやって来るのを見た事はありません。」そして次の木曜日のクラスは2倍に増えました。みんなが何をやっているか見る為にやって来ました。ですので、私は同じように、「ああ、聖霊の臨在があります。早く、早く」というような感じでした。そんな感じで人数はどんどん増えていきました。その次の週、私はクラスの準備をしていました。またスダフェッドを飲もうとしていました。おかげで、私の声もかれずに1時間半も話す事ができました。そのスダフェッドをくれた友人が私の所にやって来て言いました。「カリー兄弟、スダフェッドの効きめはどうかと聞きたかったのですが。」私は答えました。「よく効いてるみたいです。」彼は言いました。「私は考えていたのですが、知ってますか?スダフェッドを飲めない人もいるんです。」私は答えました。「そうでなんですか?どういう意味ですか?」彼は言いました。「時々指などの感覚がなくなったり、そういう事が起こるんです。」そして、私はそこに座りながら、「う~ん、本当に?知りませんでした。変ですね」と言いつつ、頭の中では「誰にも何が起こっているか言わないでおこう。私がその副作用を感じていた事は絶対に黙っている事にしよう」(笑)。


しかし、私は考えていました。「それなら、何が起きてるのだろう?どの様にして人々は癒されたんだろう?彼らは本当に癒されたし、どうやって悪霊が追い出されているんだろう?何故それらの事が起こっているんだろう?」そこで、私は冷静になり、家に帰り神に訊き始めました。「どうしてですか?なんでこの様な事が起きたんでしょうか?」神は私に答えました。「あなたは感覚を、つまり何か感じる事を求めていました。あなたが薬によって何か感じた時に、それが神の力だと思いました。だから、その時は油が注がれた者のように行動しました。でも、本当はあなたには四六時中、力が注がれていました。しかし、あなたはが何か感じるまではその様に行動しませんでした。」分かりますか?


教会を見て下さい。私達は教会を代表する歌は「アメイジング・グレイス」だと考えます。でも、違います。B・J・トマスによって書かれた「感覚に捕らわれている」という歌じゃないですか?何故かというと、いつも何か感じるのを待っているからです。そうですよね?皆が何かを感じるのを待っています。油注ぎは本来感じるものではありませんが、私はずっと何か感じるのを待っていました。そして、そのスダフェッドが感覚の麻痺を感じさせてくれたので、私は油が注がれたように行動しました。そして、力は働きました。その結果、私は初めて癒しなどを行いました。その時はただふりをしていました。しかし、それ以来は、ふりをする必要はなくなりました。今は神の力はいつでも働く事を知っているからです。それから後に、私はペンサコーラ・リバイバルに行きました。そこで、デビッド・ホーガンという人のビデオテープを手に入れました。彼は私を燃立たせました。私は半年ほど説教も何もしていませんでしたので、私は興奮して祈りたいと思いました。いつでも教える準備ができていました。そして終に13キロほど離れた、私の叔母の家を訪れる途中で聖霊派の神の教会に立ち寄って、牧師さんに挨拶をして自己紹介をして、少し話しました。

すると彼は言いました。「それでは、いつか私達の前で説教して欲しいですね。」私は答えました。「是非、いつでも話します。」私は他に何もスケジュールも無かったので、いつでも準備ができていました。家に帰った後、2~3週間は彼から何も連絡はありませんでした。普通、連絡が無い場合は諦めます。だから、私は代わりに病院に行って、祈っていました。でも、その牧師から妻に電話がありました。彼は言いました。「来週の日曜日に話してもらえませんか?」私が家に帰って妻からそれを聞いた時には、「やった。何について話そうか?」と考え始めました。話す事はとても沢山あるので、どの様に一時間の長さにしようかと。その当時、私はCDやDVDなどの教えも作ってはいなかったので、「彼らは私の事も知らないし、デビッド・ホーガンの事も知らないので、デビッド・ホーガンのふりをしよう」と考えました。それまで、私は彼のビデオテープをずっと聞いていて、燃え立っていました。もしデビッド・ホーガンの事を聞いた事があるなら分かると思いますが、彼は厳しいです。


私は言う事を全て書き出して、張り切って家族と一緒に彼らの教会へ行きました。デイビッドはこの様なインディアンダンスをします。いつも、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」と言うような感じで、ポケットに小さなハンカチをはさんでいます。それで、彼のせりふも全て覚えていました。例えば、「あなた達ならこぎれいなやり方でその状況に対処していたと思います。でも居なかったのだから、私のやり方に文句は言う資格はありません」などの言葉です。そんな感じで準備をしました。当日に私は舞台に上がって、まず、息子と彼の友人に少し話させました。それから娘が歌を歌い賛美の時を持ちました。この教会は、いつもは6時には礼拝に来ても7時半には家で夕食を食べているような感じなのが分かりました。いつもは長時間の礼拝を持ってはいませんでした。私がマイクを手にする時までには、2時間以上過ぎていました。私はそれから2時間説教する準備ができていました。やる気満々でした(笑)。私は説教壇の後ろに立ちました。何でも単刀直入に話すつもりだったので、こう言いました。「始めに一つ言わせて下さい。ここにいる人達の中で、主イエスをまだ受け入れていない人はいますか?その人は手を上げて下さい。」人々の顔の反応は皆、「ああ、彼はもう救われたい人を呼んでいる。もうすぐ家に帰る事ができるぞ」と言っているようでした(笑)。彼らの考えは推測する事ができました。私は言いました。「まだ主イエスを受け入れていないなら、周りの人は知っています。だから、手を上げて下さい。」そして二人の人が手を上げました。「分かりました。では、あなた達に約束します。今夜、イエスが私達の前で働きをされなかったら、そのまま家に帰って好き勝手に生きていいです。罪でも犯して、何でもしていいです。しかし、もしイエスが今夜、働かれなかったらです。何故なら、救いが必要な時に現われない神には仕える価値は無いからです。でも逆に、もし彼が働くなら彼に仕えるのです。」彼らはお互いの顔を見て、「私達が勝つに決まっているではないか。今まで行ったどの教会でもイエスが働くのは見た事がないし」というような感じでした。彼らはそれを了承したようでした。そして私は言いました。「では、残りの時間はあなた達にではなく、クリスチャンに対して話しますね。あなた達にではないです。」私は言いました。「では、クリスチャン達に言います。ここにいる人達の誰が先週病人に手を置きましたか?」何人かが手を上げました。私は続けました。「誰が先月病人の上に手を置きましたか?誰が一年間病人の上に手を置かなかったですか?」そこまで訊いて、やっと一人手が上がりました。

その人は、「私は一年間誰にも手を置いて祈っていません」と言いました。私は彼らを見て言いました。「皆さんはみな罪にあります。もし今夜死んだら、皆地獄に行くでしょう。」その時の彼らの驚いた顔を見るべきでした(笑)。牧師はすぐそこに座っていました。彼らは牧師を「何で彼のこんな話し方を許すのですか?」という感じで見ていました。私は彼らを見て言いました。「いいですか?私は自分で信仰を持って、自分自身を生き返らせなければなりません。もし私が今からあの扉を出て、そこでバスに引かれて死ぬなら、皆さんは私を見て言うでしょう。きっと今が、彼が地上を去る時なのでしょう。」私は続けていいました。「皆さんのうち誰も私を生き返らせようとはしないでしょう。だから、私は自分で自分を生き返らせる為に私の信仰を立てる必要があります。」彼らは「本当にそんな事できるの?いや、できるはずがない。それは神の摂理に沿ってない」というような顔で私を見ていました。私は言いました。「いいですか?イエスは、私は彼と同じわざを行う事ができると言いました。誰も彼の命を取る者はいません。彼が自分で捨てるのです。そして、それをもう一度得るのです(ヨハネ10:18)。」私はその間、はったりを話していました。私自身そんな事ができるのかは知りませんでした。彼らも知らなかったので、別に問題にならないと思いました。彼らの表情は忘れられません(笑)。彼らは牧師を見て、「頭のおかしい人を説教壇で話させてしまいましたね。どうするんですか?」と言う感じでした。


この様にして、彼らはそこに私が2時間ほど話す間ずっと座っていました。誰も動きませんでした。多分、恐がっていたと思います。私が何か投げつけるかと思っていたのかもしれません。そして、終に私は祈って言いました。「それでは、今福音を宣べ伝えました。では、癒しの必要な人はいますか?」手が上がりました。私は言いました。「それでは、癒して欲しい人は、今ここに来て下さい。もし祈られないまま、この場を病気のまま去るなら、癒されないままです。でも、もしここまで来るなら神はあなたを癒します。だから、ここまで来て下さい。」大体30人くらいの人々が来て並びました。私は左利きなので、私が舞台から降りて彼らの所に行った時には、左側に行きました。そこにきちんとした身なりをした、教会の執事のような男性が立っていました。私が彼の前に立つと、彼は腕を組んで立っていました。彼を見て言いました。「すみません。あなたの為に何かできる事はありますか?」彼は背の高い人でした。彼は言いました。「私の腕は麻痺していて肩に痛みがあります。そして、腕は4年間の間、動かしていません。」私は彼を見ました。その時には、私は一度も麻痺した人の為に祈った事はありませんでした。A・A・アランやその様な人達のビデオの中以外では麻痺した腕が癒されるのは実際に見た事はありませんでした。彼を見ながら、頭の中で考えていました。「はい、それではあなたの為に何をしましょうか?」という感じで、その人を飛ばして隣の人に話しかけたくなりましたが、もしそうしたら信用を失って全てが失敗する事を知っていました。ですので、ここで成功か失敗か、やってみるしかないと思いました。もし成功して彼が癒されれば、リバイバルが起こります。もし失敗すれば早く家に帰れます(笑)。どちらにしろ、さっさと済まそうと思い、彼を見ました。しかし、何をどの様に始めたらいいのかも分かりませんでした。その時、突然私の頭の中にA・A・アランの映像が浮かびました。私は「ふむふむ」と思い、彼の腕をつかみそれを引っ張りました。彼は腕を4年間もの間動かしてはいませんでした。ですので、関節には、さまざまな体液などはなくなっているのです。私が腕を引いた時には、私は「ギー」という音を聞いたと思います。

そして、引っ張った後に手を離すと腕はその状態で固まっていました。私は頭の中で考えていました。「では、次は何をしよう?彼の腕は元のままの位置の方が良かっただろうな。」何故なら、少なくとも元の状態なら家まで運転できたからです(笑)。でも、今は伸びきっていて、そこで固まったままです。私は何を、どの様にしようかと考えていました。彼はそこに立ったままで、何でもしてくれ、というような感じでした(笑)。私は彼の腕をつかんで、押し戻しました。また、「ギーッ」という音が聞こえました。それで、私はその状況からもう抜け出せなくなっていました。何をしていいか分からなくて、その腕を引いて押して、引いて押して、と繰り返していました。腕を動かすたびに、「ギーッ」というような音が聞こえました。腕を引いたり、押したりしているうちに、のこぎりを引いているような「ギーッギーッギーッギーッギーッ」というような感じになりました(笑)。そして、私は考えていました。「神様、どうやったらこの状況から抜け出せますか?このままだとずっと続きます。どうやって抜け出せますか?」(笑)。終にその腕から手を離して、彼に任せる事にしました。そして言いました。「では、今から私は手を離しますが、そのまま腕を動かし続けて下さい。いいですか?」彼は「分かりました」と答えました。そこで私は言いました。「イエスの御名によって、腕よ。動け!イエスの御名によって、腕よ、動け、働け、本来のように働け。今、腕よ、動け!!」そして、彼の腕をゆすりました。すると、彼は言いました。「ああ、今癒されました。」そして、彼は跳ねて躍っていました。私はその彼を見て、彼が驚いているように、私も驚いていました(笑)。「本当に?」と私は思っていました(笑)。そこで、私は少し冷静になり、何が起こっているのかを理解できました。癒しが本当に起きている事が分かると、突然、私は「神よ。私達は一緒に何でもできます」というような感じでした。


私は次の人の所へ行って、「何をして欲しいですか?」と訊きました。その様にその夜30人全員癒されました。それまでその様な事は一度も見た事はありませんでした。本当に驚きました。それが終わった時には、私は言いました。「それでは自分の席に戻って下さい。では、何人の人達が今私のした様な事と同じ事をしたいですか?」11人の人が手を上げました。私は言いました。「それは聖霊のバプテスマと呼ばれます。それを受ける為にここまできて下さい。」彼は前まで来て、並びました。私は何をして良いのか分かりませんでした。そこに立ちながら、考えていました。「確か、聖書には使徒たちは彼らに手を置いて、聖霊を受けなさいと言って、彼らは聖霊のバプテスマを受けました」(使徒の働き8:18)。それで彼らにその様に手を置いて言いました。「聖霊を受けなさい。」そうすると、途端にその人は異言で話し始めました。私は「すごい!」と心の中で言い、驚きました。その様な感じで聖霊のバプテスマを授けて行きました。そして、11人目は小さな女性でした。彼女の番になった時に、私は彼女に手を置いて、「聖霊を受けなさい」と言って、振り返って歩き去ろうとしました。しかし、何も起きませんでした。私は向き直って、彼女の所に行って言いました。「あなたは何か問題をもっているのですか?」何故なら、彼女以外は皆異言で話しだしたからです。彼女が異言で話さないのは何かおかしかったからです。すると、彼女は泣き出して言いました。「私が知っている事は、いつも町の端まで車で運転していく度に、何故か、Uターンして帰ってきてしまうんです。町を出る事ができないんです。」私は言いました。「そうか、悪魔がついているからです。」それは本来適切な言い方ではありません。彼女の顔は、「本当ですか?どこですか?早く取って下さい」というような感じで驚いていました。

突然、彼女は泣きやめて、その悪霊が何処にいるのかと、慌てていました。私は言いました。「分かりました。ではこうしましょう。」私はサムラル氏がこう言ったのを見て覚えていました。「あなたはいつも悪霊などを追い出す必要はありません。あなたはただそれがしないように言っている事をすれば言いだけです。」私は彼女に言いました。「これがあなたのする事です。明日の朝車に乗りこの教会まで来て、そして、牧師達はあなたの後ろから車で運転してついてきます。そうして、あなたは町の端に向かって車を運転していきます。そして、もしあなたがそれ以上進む事ができないなら、彼らは後ろから無理やりあなたの車を押します。」牧師達を見た時には、彼らは下を向いて首を横に振っていました。全く何にも関わりたくないという感じでした(笑)。私は彼女に向き直って言いました。「分りましたか?」彼女は答えました。「分りました。」彼女がそれを言った途端に、彼女は異言で話し始めました。


神学的に考えようとしても構いませんが、これがそのまま起こった事です。それらを終えて、私は言いました。「では、今夜は福音を宣べ伝えたし、私達は癒しも聖霊のバプテスマも見ました。では、今度は誰が救われたいですか?」そして、あの2人の方を向きました。そして、彼らはお互いに見合って、「彼の勝ちですね。今夜は本当にこの場にイエスがいます」というような感じでした。彼ら2人は立って前まで歩いてきました。また、その他2人も反対側から立って前まで来ました。彼らは手も上げませんでした。しかし、多分彼らは私が説教している間に、まだ救われていない事に気づいたのかもしれません。私は彼らの為に祈り、その教会の人々とつなげて、その場を去りました。その夜の家に帰る時の運転は、すがすがしいものでした。何故なら、その教会に行く前は、私は何をどの様にするか知らなかったからです。私は誰かのふりを、いつも私が見ている人のまねをしただけでした。それで癒しなどが起きました。それ以来は、もう誰かのまねをする必要はありませんでした。今は、その様に癒しなどが起きると分かったからです。


私は何も力も感じませんでした。ただ、神の言葉が私にするように言った仕事をしただけです。神は私に仕事を成し遂げるための力を与える事をせずに、私にその仕事を成し遂げる責任を任せる事はしません。ですから、神は仕事を成す為の責任と共に、力も与えてくれました。私が話した、アランと彼の歌のディレクターのボブの話を覚えていますか?あまり知られていない事は、ボブはアランと一緒に周って働きました。ボブはいつも彼と一緒にいました。そして、70年代前半になって、突然アランは亡くなりました。でも、彼のテント集会の予定はたくさん立っていました。ですので、彼らはボブを呼んで言いました。「ボブ、私達は何かしなければいけません。手付金はもう払ってあります。これらのテント集会を行わなければいけません。本当にどうにかしないと。ボブ、あなたが行って説教して下さい。」ボブは答えました。「でも、私はA・A・アランではないです。」彼らは言いました。「知っているけれど、私達が他の手を見つけるまでは説教して下さい。」そして、彼はそれを受け入れました。ボブは次の集会に出て、アランの真似をしました。そしたらどうなったか知っていますか?幾つかの奇蹟が起きました。実際には、彼は自分の師であるA・A・アランのようになり、彼自身A・A・アランのように名前を短くして、R・W・シャンバックと改名しました。これが、シャンバックがミニストリーを始めたきっかけです。彼はただアランを見て学び、彼の不在の為に真似をしただけでした。

それでも人々はこう言います。「アランの油そそぎが彼に与えられました。」油注ぎは決して人から人には渡されません。ボブはアランの周りにいました。彼はアランを見て、それに信仰を持って、その様に真似をしただけなのです。そうしたら、力が働きました。私はアランのビデオを見たからと言って、彼の油そそぎを得る事はありませんでした。私はただ大胆さと、信仰を得て、どの様に癒しをする事ができるか学びました。多くの人は癒しなどを行いたいと思いますが、ただどの様にしたらいいかを知りません。しかし、この訓練では私達はそれを学ぶ事ができます。最初は、私が教えるやり方で癒しをしばらくの間行うかもしれませんが、そのうち、自分のパーソナリティが出てくると思います。次に私があなたに会う頃には、癒しのやり方は違ったものになっているでしょう。それでも、私が教えるように癒しを行っても、それは働きます。神はえこひいきしないからです。神は信仰に答えてくれます。彼は聖書の言葉に答えます。神は人をえこひいきする方ではありません。そして、私達が信仰を持って、御言葉を行うなら、その様になります。では、これから実際に癒しを行っていこうと思います。混乱してしまうので、皆が一斉に癒しを行う事はしません。イエスは人々を集めて、座らせて、50人ずつのグループに分けました(ルカ9:14)。主はとても几帳面でした。今回は皆が自由に癒しを行う事はしません。ちゃんと仕切って行います。まず、ここにこの訓練を受けた人に集まって並んでもらいます。聴衆の方を向いて下さい。それから、癒しの必要な人に集まってもらい、ここに列になってもらいます。それから2人の案内人がその列の先頭に立って、一人ずつ訓練を受けた人達の所に案内してもらいます。では、案内人の人はその様にして下さい。女性は女性の所に、男性は男性の所に案内して下さい。上手くいかないかもしれませんが、最初はその様にして下さい。それで、もし全ての祈る人が誰かの為に祈っている時には、残りの人々を待たせて下さい。そして、祈り終わった人の所に次の人を送って下さい。いいですか、秩序よく行う必要があります。何故なら、例えば、私達がモール等に行って祈る時には、大声を出したりする事はできません。人々は逃げたりしてしまうからです。それに、同じ場所に次の週も戻って祈りたいですよね。癒しは静かに、落ち着いて行う事ができます。そうでないと、人々は驚いて去って行ってしまいます。


子供と話す時には、悪霊や悪魔のような事は話す事はできません。怖がらせてしまうからです。子供でも大人にでも、話す時にはこの様にして下さい。悪魔や悪霊のような単語を口にする必要はありません。例えば、彼らが「腫瘍があります」と言うなら、ただこの様に言えばいいです。「腫瘍よ。イエスの御名によって、命じる、彼の体から去れ!」私のいつもの祈り方はこの様な感じです。でも、これは決して、まじないではありません。効果の出る秘訣でもありません。私は経験から学びました。例えば、ある人が腫瘍か血の塊があるなら、それに対して去るように言います。塊は時には分裂します。それらの断片が実際には危険になったりします。何故なら、それらは脳出血や心臓病を起こす事があるからです。ですので、私が学んだ事は、腫瘍や血の塊を持っている人の為に祈る時には「腫瘍よ。血の塊よ。イエスキリストの御名によって、彼らの体を去れ。分解して、退化して、消えてなくなれ。そして、何も悪影響を残すな。」この様に祈ります。ここで大切なのは「言葉」ではなく、「意図」です。いいですか?また、私達は具体的に言う必要はありません。ただ「どの様な問題がありますか?」と訊けばいいです。それで、病気を持っている人達、あなたは病気の経験や歴史を話す事はしないで下さい。

私達は医者ではありません。私はその病気がその様に始まって、どの様な経験をしてきたかは知る必要はありません。いいですか?もしそうするなら、私達に不信仰を起こして、癒される事なく帰る事になりかねません。「ただ問題の名前を教えて下さい。打ち負かそうとしているものの名前を教えて下さい。症状を教えて下さい。それに命令します。でも、問題が分からないなら素直に、「分りません」と言って下さい。」彼らが、問題が分からないというのなら、こう言って下さい。「病の霊!命令する。去れ!!」ただ「病」と言うだけでもいいです。重要な事は、私達が何を意図するかです。いいですか?私達の意図するべき事は完全な癒しです。私はこの様に言ったりします。「体と魂と霊との完全な癒しを命令します。」これはただの例です。ですから、基本的に私達は問題が去るように命令します。問題を追い出した後には、体に命令します。「体よ。全ての機能よ。回復しろ!癒されよ!」これらの事をした後には、その人にこの様に訊いて下さい。「以前は何ができませんでしたか?」彼らが、「歩けませんでした」と言うなら、何をさせるか分りますか?彼らに歩かせて下さい。彼らができなかった事をさせて下さい。いいですか?その様にした時には、多くの場合、癒しだけでなく奇蹟の働きが同時に起きます。でも、「私には奇蹟の働きの賜物はありません」と言うかもしれません。実際に私達が何を持っているかは分かりません。それでもある人は言うかもしれません。「でもカリー、それは私のスタイルではありません。」あなたはまだ自分のスタイルは訓練していません。私達はあなたが自分のスタイルを築くのを手伝う為にいます。それまでは私の真似をして下さい。私のやり方は結果を出すからです。


いいですか?私達はブーツや服を選んで着る必要はありません。油注ぎは服にあるのではないですよね?その服を着る人の内に留まっています。もし服に油そそぎがあるのなら、その服を脱いでそれを地面に投げて、人々がそれに触れば良いだけです。しかし、そうではないですよね?癒しにスタイルは関係ありません。重要なものは私達の内におられる、神の言葉、神の御霊です。それでは準備はできていますか?癒しを行っていきましょう。まずは、牧師や長老の方たち、リーダーの人達は自分の立場は分かっていますよね?では、この様にしましょう。誰かの為に祈る為に来た人、もし牧師や長老の方たち、リーダーの人達があなたの所に来たら、彼らについて行って下さい。その人は特別に特定の人の為に祈りを行います。いいですか?もし彼らが来たら、彼らと一緒に行って下さい。では、残りの祈る人達!牧師さん達、今からどうするか説明します。この訓練を受けて、今夜誰かの癒しの為に祈る為に来た人は、前まで来て並んで下さい。すぐ祈り始めます。では、癒しの必要な人々はこの真ん中の通路に来て、ここにいる案内人達の前に並んで下さい。では、案内人の人達は一人ひとり、こちら側からできるだけ男性は男性に、女性は女性のもとに送って下さい。できるだけそうして下さい。ここで覚えておいて下さい。イエスは言いました。「あなたは言葉数が多ければ聞かれるのではありません」(マタイ6:7)。私達がどれだけ長く祈るのかが重要なのではありません。イエスは短く祈りました。例えば、「癒されよ!」という様にです。いいですか?長い祈りではなく、義人の祈りは大きな力があります(ヤコブ5:16)。長い祈りではありません。私達は全ての霊的な力を少ない言葉に込めて、目の前にいる問題を力を込めて言葉で打つ、つまり、彼らから追い出します。私達の拳でではなく、言葉で打つ事に注意して下さい。私達はその問題を手で叩くのではなく、その問題を言葉によって打ちます。まだ祈らないで下さい。ちょっと待って下さい。まだ、相手に触らないで下さい。

誰か一人ここまで来て、少し協力してもらえますか?今からする事を見て下さい。皆が見える様に横を向いてもらえますか?では、これから祈る人は見て下さい。相手の頭に手を置く事はしません。彼らの手を取って下さい。このやり方は変ではないし、適切な方法です。病気のある身体の部分などには手を置かないで下さい。その様にするなら、不適切になってしまいかねないので。ただ、相手に言って下さい。「手を見せて下さい。」普通は、私達がこの様に手を差し出すと、彼らもこの様に手を差し出すと思います。(手の甲を上向きにして差し出す。相手は反対に手の平を上にして差し出す。)もし私達がこの様に差し出すなら、彼らはこの様に手を差し出します。(手の平を上にして差し出す。相手は手の甲を上にして差し出す。)彼らの手の平が下になるようにして下さい。では、彼らの手を取る時には、これが見えますか?私がどの様にしているかに注目して下さい。私はこの様に手を取ってはいません。何でこういう方法ですると思いますか?理由は、もし相手が倒れ始めたら、彼は私の手を握り、抜け出せなくなって私も一緒に倒れてしまうからです。指で相手の指を握って下さい、深く握る必要はありません。この場合、もし相手が倒れ出して、あなたの手を強く握っても、簡単に手を引き抜く事ができます。それからその人に対応できます。いいですか?私はこの方法をクイック・リリースと呼びます。ですから、彼らの手の平は下に向きで、あなたの手の平は上向きで、指で指をつかんで下さい。まだ相手に触れないで下さい。まず、何が問題なのかを見つけるんですよね?いいですか?ある人は、「何でまだ相手に触れてはいけないのですか?」と疑問に思うかもしれません。それはあなたが触ると、命があなたから相手に流れていくからです。時には、私はその人の手を取って、命が流れるようにする時もあります。それはちょうど、ブースターコードの様なものです。ブースターコードに触ると充電されます。癒しに必要なのはチョロチョロ流れるケーブルではなく、一気に流れるものです。問題を激しく打つ事です。それは次のように行います。


彼らの問題を訊いて、「イエスの御名によって、問題よ、イエスの御名によって命じる」と言い、「去れ!」と言って下さい。その問題が去るように命令して下さい。「イエスの御名によって命令する。去れ!!」です。分かりましたか?この声は、肺からでも喉からでも、口だけで言うのでもありません。霊からです。いいですか?一気に込めて下さい。長く祈らないで、全ての力をその「去れ」に込めて下さい。本当にそのつもりで言って下さい。問題にあなたが真剣である事を見せて下さい。問題を納得させて下さい。それから、その様に祈るまでは、手はこの様なものですが(相手の手はまだ握らない状態)、その様に「去れ!」言った時には、指で相手の指を数秒握って下さい。そして、手を放して下さい。その様に言った瞬間に相手の指を握り、その時に言葉と共に命を相手に流します。それはコンタクトまたは移転と呼ばれます。握った時に命が流れ、数秒したらそれを放します。それは命が自分に戻って来ない為です。何故かというと、時には命は自分の所に戻って来るからです。それは波のように出て行って、戻って来るのを感じる事もできます。皆さん準備はいいですか?まず、問題が何であるかを訊いて下さい。最初のステップは問題を訊く事です。問題が分かりましたか?その様にステップに沿って行って下さい。覚えて置いて下さい。尋ねるのは名前だけです。まだ手を握らないで下さい。問題を聞いた後は、手のひらを下にして、手を伸ばしてもらって下さい。では、その問題に対して命令して、手を握って下さい。どうぞ始めて下さい。強く、説得力のあるように命令して下さい。

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