2019年1月23日水曜日

DHTT セッション 9

質問:「イエスは死とハデスの鍵を持っていますので、サタンは命を取り去る事はできませんよね?」それは違います。サタンは命を奪い去るべきではありませんが、彼は盗人です。盗人は盗み、殺し、滅ぼす為にやって来ます(ヨハネ10:10)。ですから、強盗が銀行からお金を盗む権威が無いように、サタンは命を取去る権威はありません。それでも、銀行強盗はお金を盗みます。サタンも同じです。それが、私達は神の警察である理由です。私達は彼を阻止する必要があります。ですから、サタンを見かけたら何処でも彼を阻止して下さい。贖いには、命、敬虔、繁栄、癒しなどは全て含まれています。それでは、イザヤ53章に戻って下さい。聖書の贖いに関する聖句は人が生きていく為に不可欠な、全てのものに関係しています。聖書には聖霊に導かれる事や、聖霊の導きについての聖句があります。神ははっきりと言っています。「私は、私の目であなたを導こう(KJV訳 詩編32:8)。」言い換えると、もし私達の考えが神の言葉に従って一新されるなら、私達は神の視点から物事を見始めます。何が正しくなくて、正しくなるべきかを見極めます。神は私達を彼の目で導いてくれます。彼の視点は神の言葉と一致しています。私達の考えも聖書と一致する必要があります。そして、私達は状況を見て、「これは正しくない」と言えるようになります。小児科病院に行った時に、そこにいる子供達や幼児達を見て、「こんな小さな子供達が病気なのは間違っている」と考えるには別に霊的になる必要はありません。それは当たり前の事です。もし小児科院に行って子供達を見て「これは間違っている」と思いながらも、神がその様な状況に関わっていると考えるなら、そんな病気を与えるような者が神でなくてあなたが神であるべきです。私の言っている事が分かりますか?私達が病気の子供達や病気を見て…子供だけではありませんが、ここでそう言うのは、子供は純粋で無邪気だからです。彼らは何も間違った事をしていない事を知っているからです。多くの場合には、大人はそれを見て「でも、彼らは何の罪を犯したのか?」と言います。しかし、その様な病気の状況を見ても、憐みを持つ事ができる事は、それは神からのものだと証明します。何故なら、通常、私達は自分の事しか考えず、自己中心的だからです。それでも、大半の人間はその病気の子供達の状況を見てそれは正しくないと考えます。それは、その人に神の知識が少しでもある事を証明します。


私は、多くの場合、医師は教会よりも神の心をよく知っていると言ってきました。何故なら、少なくとも彼らは病気を根絶するという誓いをするからです。私達は教会として「病気は根絶されなければならない」と言うべきです。心理学を勉強すると、人間は防衛機制というものを持っている事を学びます。例えば、戦争で捕らわれた人やルワンダの虐殺を経験した人々は、地獄のような悲惨な状況を経験します。その様な経験は言葉に表す事ができないので、正気を失わないように彼らは自己防衛機制を働かせます。

そして、その様な悲惨な状況が起こった理由を捜し始めます。防衛機制は彼らが正気を失わないように守る為の自己防衛として働きます。彼らはこの様な経験から何か良い事が生まれるに違いない、この様な事が起こったのには、何か理由があるに違いないと考えます。ナチスによる虐殺の中では、「私がこの様な状況を経験しているのには理由があるに違いない」と考えた人々だけが正気を失いませんでした。彼らは、人間というものは自分自身を完全な悪に明け渡して、悪魔に取り憑かれて理由や理性など全く関係なく人々を傷つけ、殺し、全くの悪になる事ができると考えませんでした。しかし、その様な悲惨な状況にあっても、防衛機制を持っている人々は、「これはひどい状況だけれども、何故私が今この様な状況を経験しているかの理由を見つけなければならない」と考えます。心理学は、その様な考え方を防衛機制と呼びました。アウグスティヌスはこれと同じものを「極端な神の主権」と呼びました。もし、私達が神の主権を極端に理解してしまうと、神に仕えるか、仕えないかを選ぶ人間の自由意志を無くした考え方になってしまいます。人々は、「それはアルメニウス主義ですか?それともカルヴァン主義ですか?」と尋ねます。人々はよく私に、「あなたは運命予定説を信じますか?」と訊きます。はい、もちろん信じます、私は、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたと信じます(ローマ8:29)。これが、私が運命予定説について信じている事です。そして、私は神に与えられた自由意志によって、私の意志を神の御心とより一致させる事によって、より御子のかたちと同じ姿になり神に栄光を帰すと信じます。私は、神は物事の背後にいて働いていると信じています。神は、人々を導いて全てのものを同時に、天に居ながら働かせている事を知っていますか?神の物事の行い方はいつも驚くべきものです。同時に、私達は神の主権を、何もしない言い訳や責任回避の口実として用いてきた事を認識するべきです。現実に、私達がしなければならない事は、神が命令した事を実行する事です。人々は「あなたは神の主権を信じますか?」と尋ねます。はい、私は信じます。神は、その主権によって病人に手を置けば病人は癒されると聖書に書かれています。ですから、私はそれを信じます。そうですよね?


でもある人は「それでは神の主権はどうなるのですか?」と質問します。神は、あらかじめ私が聖書を読みそれを行なう事を知っていたので、その主権によって、聖書に癒しの事を記述し、私はそれに従って癒しを行うのです。それでも、ある人は「あなたは全ての人が癒されるべきであると言っているので、神の主権を取り去っています。神の選択の余地を無くしています」と言います。はっきり言うと、私はむしろ神の主権をより拡大しています。何故なら、神の絶対的な権威は、神を信じていない人々の上にも拡大しているからです。私は、いつも癒しだけについて教えるわけではありません。ただ、私は癒しの分野において秀でているだけです。それは、私の人生で起きた多くの事や経験が関係しています。それらが、私を今いる時点に到達するのを助けました。

人々は言います。「全ては神のわざです。」いいえ、違います。それは悪魔が間違えを犯したからです。彼は、私を放っておくべきでした。私は、彼が私から奪った娘の命を、彼の奪った命の中で最も代価の重い命の一つにしてやろうと決心したからです。だから、彼に私を放っておくべきだったと後悔させてやりたいのです。彼は、私達に手を出すべきではありませんでした。それが私の人生の義務です。彼に代価を支払わせる事です。私は癒しについて勉強してきましたが、言ったように、癒しは聖書の教えの全てではありません。もし、癒しだけを知ってそれだけを学んでいたらその人は偏った人になります。通常は、その様な人はおかしな教義に陥ります。彼らはバランスの取れた人にはなりません。しかし、ここで私の教えている原理はあらゆる事に通じるものです。それは、悪霊追い出しにも救いにも、癒しにも、繁栄にもです。繁栄と言っても、自分だけの為の繁栄ではありません。私の意味する繁栄は、申命記18章18節に書いてあるようなものです。神は、私達に富を築く力を与えてくれます。それは、神がこの地上で彼の契約を確立する為です。私の持っているものは何でも神のものです。ですから、私が得るものは何でも神の国の拡大の為に用いられるべきです。死んだ時に銀行口座に多くのお金を持っておく為ではありません。私の目的は何も持たずに死ぬ事です。私は子供達には既に言いました。手に入れる事ができるものは、今のうちに手に入れておきなさい。何故なら、私が死んだ時には全てのものは分配されてしまうからです。


ジョン・ウェスレーについて言われた事と同じような事が、私が死んだ時にも言われる事を願います。彼が死んだ時には、彼は4万の説教とポケットに彼の棺を担ぐ人に支払う為の6つの銀と旅行をする時に持って廻った銀の食器と、その当時彼が生きていた頃の地上での神の力の働きであったメソジスト教会を残しました。今ではメソジスト教会はその当時と同じような力が無い事は認めます。しかし、私はその様な遺産を残したいと思います。私は、サムラル氏のいるサウスベンに、彼がなくなった後も何度か行った事があります。彼が生きている頃、私達に、「私が死んだ時には、彼らに私の墓石に『ここに信仰の人、レスターサムラル眠る』と書いて欲しい」とよく言った事を覚えています。それで、ある日私は彼の墓に行きました。彼が埋められた時に、その場にいなかったからです。彼の3人の子供達に会う為にも行きました。ステファン、ピーター、フランクです。サムラル氏の生きている頃に、私達が彼の所にいる時に、ステファンは私の息子に洗礼を授けました。私が彼の墓石を見る為にサウスベンに行くと、墓石にはレスターサムラルという名前と、没年月日と、「ここに信仰の人、レスターサムラル眠る」という言葉が刻んでありました。レイク氏が1935年に亡くなった時に、レイク氏と働いていたへブデン氏が読んだ賛辞を忘れる事ができません。彼は、「レイク氏がスポーケン市にやって来て、病気や打ちひしがれた人々を見た時に、私達は、勝利は私達が前進した先にあると信じていました。しかし、レイク氏は病人を癒し彼らを自由にして、勝利は先にあるのではなく、

既にここにある事を教えてくれました」と読み上げました。又、別の人は、「レイク氏は信仰を聞き手に与える能力がありました」と読みました。私が死んだ時にも、その様な言葉を言って欲しいと思います。例えば、もし私が息子に全財産を与えるのなら、彼はそれをすぐに使ってお金はなくなってしまいます。そして、彼はまたお金を求めなければなりません。もし私が、彼に神に対する信仰の知識を与えるのなら、彼は決して神に見捨てられたと感じる事もないし、一文無しになる事もなく何処にいても彼は生き延び繁栄する事を知ります。何故なら、彼は神が彼と共にいて、神が彼の源であると知っているからです。これが鍵です。私達は次の世代に、この様な教訓を残すべきです。教会の中で、私達は癒しが日常茶飯事になる点にまで達しなければなりません。癒しの為に祈る時に癒しを前面に持ち上げ見世物にする限り、私達はその様な点には達する事はできません。見世物にするべきではありません。


もしスーパーに行って病人の為に祈る時、神がその人を癒す事には、何の疑問もありませんよね?では、病人の為に祈る時にはその人をいちいち人数の少ない所に連れて行って祈る必要はありませんよね?「あそこに行って祈りましょう」と言う必要はありません。そうですよね?もし、あなたが、本当に神がその人を癒すと信じているなら、かえって「病人に向かって、ここで少し待っていて下さい。皆さん、こっちに来て癒しを見ませんか?見て下さい」と言って人を集めるでしょう。しかし、多くの教会は、福音を宣べ伝える事で人々の信仰が増され、癒しが起こる事を望みます。イエスも彼の弟子達も、その様にしませんでした。人々は聞く事によって信仰を得ましたか?はい、得ました。人々は自分の信仰によって癒されましたか?はい、癒されました。何故なら、使徒の働きでパウロは、ある人に癒される信仰を見て彼の手を取って立たせました(使徒14:8-11)。そうですよね?そして彼は癒されました。それが間違っているとは言っていません。ただ、他人の信仰にいつも頼る事を間違っていると言っているのです。癒しを行う時には、癒しの前に、人による教えや習慣を打ち壊す教えをする必要はありません。ただ病人の為に信仰を持ち、彼らを自由する必要があります。私達が、神が私達の問題だと考えている限り、信仰によって歩む事はできません。何故なら、その様な考え方では、彼らが癒されるかどうかを確信する事はできないからです。信仰は知る事です。信仰は必ずしも信じようと試みる事ではありません。信仰は知る事です。違いが分かりますか?一度その様な信仰を訓練すれば、信仰はただ信じる事を越えて知る事になります。私達は、今までに少なくとも7万人の為に祈ってきました。そのうち、私はてんかんの為に祈って癒されなかった人を知りません。知っている限りは皆癒されています。私達は、殆ど全ての記録を残しています。その他のある病気に対しては100%の癒しの成功率があります。全体的には、私達の祈ってきた94%から97%の人々は癒されています。ある病気は、他の病気に比べて瞬間的に癒されたりします。誰でもそうだと思いますが、私は段階的な癒しは嫌いです。

もちろんその人が癒されるなら良いですが、通常は瞬間的な癒しを求めます。癒しを行う時には、人々については忘れなければなりません。言い換えると、祈る時は誰とも話さず、神に向かっても話すべきではありません。その癒しを行う前にするべき事は、全て神と話し終えているべきです。病気の人の前に立った時は神と話す時ではありません。問題が持ち上がった時、すなわち危機に陥った時は祈り始める時ではありません。分かりますか?問題が起こった時、準備のできていない人にとっては、それは問題であり、準備ができている人にとっては機会です。問題に対して予め備えているのならそれは機会であり、そうでないのなら危機です。話している事の意味はこうです。例えば、店の中を歩いていたとします。そして、あなたの目の前で人が倒れて死ぬとします。あなたには時間がありません。今の教会は、その様に人が目の前で死んだとしても、「それでは少し待って下さい。今はとりあえずその人を冷凍庫に入れておいて、まず3日間断食をして祈り準備ができた後にそして戻って来てその人をらせます」と言います。これが今の教会の姿勢です。彼らは危機が来ると準備をしようとします。聖書的な姿勢ではありません。それが、私がこの軍隊的な考え方を取り入れようとしている理由です。今の教会は、その様な考え方ではありません。


海軍の特殊部隊は、まるで明日が戦いのように訓練します。それゆえ、いざ戦いになった時には「では、どれだけ早くチームが戦場に着く事ができるか?」と訊かれた時、「私達は少なくても彼らを訓練する為に30週間必要です」なんて言いません。30週間は長すぎです。私達は、いつも準備ができた状態で生きている必要があります。いいですか?私達は毎日訓練します。私は毎日電話を受けます。いつかかるか分かりません。私は、この様な神癒技術者セミナーの最中に電話を受けた事もあります。今携帯はマナーモード状態ですが、教えている最中に電話が鳴る場合もあります。その時に私は言います。このセッションを始めてまだ15分ですが、少し早く休憩にします。そして、休憩中に私は携帯を見て電話に出ます。それが緊急の電話だと知っているからです。その緊急のコールは私の緊急の番号とつながっていて、もし誰かがその番号に書けると「もし誰かが24時間以内に死ぬなら、このボタンを押して下さい。」そのボタンを押すと私の携帯にかかります。(現在はJGLMのウェブサイトに掲載してあります。2017年の時点では、主にJGLMスタッフが対応しています。)緊急の番号は私に誰からかかってくるのか表示しないので、無名と表示されます。私はそれが緊急の番号から来ているのと、急ぎを要する電話である事が分かります。私はその電話を取り休憩にします。私は次に何が起きるかわからないので、いつもその電話を取ります。それは誰かが川で溺れ死んだのかもしれないし、癌で死んだのかもしれないし、それは死んだ人が生き返った証かもしれません。どれであっても不思議ではありません。人々が電話してきた時には、最初は彼らは叫んでいるので、彼らを落ち着かせるまで何が起こっているのか分かりません。

大半の電話は、誰かが死んだか死にそうかです。ここで私が伝えたい事は、私は未来を見て何が起こるかを知るという贅沢はできないという事です。今から3日以内に、どの様な電話がかかるかは分からないという事です。人々の生死は、私が準備ができている事にかかっています。個人的には、私は早い時期に決して誰にも私の命も子供達の命も私の家族の命も、誰か他の人の手に任せない事に決めました。何故なら、彼らがその時にどれくらい準備ができているか分からないからです。彼らがどの様な精神状態か知る事はできないからです。クリスチャンの家族の中で一番喧嘩が多いのは日曜日に礼拝に行く前です。

私達がある一定の雰囲気で、教会堂で礼拝しなければいけないと考えるので、悪魔はそれを阻止しようとします。例えば、悪魔は私達が教会に来ても、心から礼拝して御言葉に耳を傾ける事ができるまで45分もかかるように試みます。悪魔はできるだけ私達が礼拝や御言葉を聞き、受取る事ができないように様々な問題や戦いを引き起こします。理解しなければいけない事はどの様な事が起きようとも、私達の霊的な状態は、いつもその出来事により変わる訳ではないという事です。聖書は「怒っても罪を犯してはいけません」と言っています(エペソ4:26)。しかし、「もし怒ってしまったら、心理状態は正常ではないので祈る事はできません」と言う人もいます。私達の心理状態は祈る事とは全く関係ありません。祈る事は霊的な事です。心理状態は感情であり魂の事です。私達が魂を燃え立たせる事と、霊を燃え立たせる事は別の事です。魂が霊であると考える限り、私達は魂に縛られたままです。これに気がつき始めると、次は、「ではどのように霊に従って歩んでいると知る事ができますか?」と訊くでしょう。それは簡単です。霊に従って歩んでいる時、私達は御言葉を行っています。私達が御言葉を行っていないなら、私達は霊に従って歩んでいません。


私がミニストリーを始めた頃、私はサムラル氏に会いました。私は「御言葉の爆発」という1981年にジョン・オースティンの教会で開かれた集会に参加しました。そこに行きましたが、私は任命を受けた牧師でも、資格を持っているのでもありませんでした。その集会で彼らは言いました。「この集会では、人々の質問に答えてもらう為に牧師達を招いています。ケネス・ヘーゲン氏、ジョン・オースティン氏、R・W・シャンバック氏、レスター・サムラル氏やTL・オズボーン氏達を招いています。彼らは信仰の運動で知られている大物達でした。そこで、私は考えていました。「その集会に行きたいが、私は牧師でもありません。」そして、確か彼らは人々を扉の所でチェックしていました。なので、彼らがチェックを始めた途端に私達は紛れ込んで座って、注目を集めないようにして聞いていました。人々は質問をしていました。そして、それが終わりに近づいてきた時に私は言いました。「私はサムラル氏に質問があります。」私は彼に質問して彼がその質問に答えて座ると私に言いました。「どれだけ早くサウスベンに来る事ができますか?」私は答えました。「できるだけ早く行きます。」

彼は言いました。「来たら私に会いに来なさい」と言いました。私は答えました。「分かりました。」私は妻にその事を伝えました。「私はサウスベンに行ってきます。」彼女は言いました。「何故ですか?」私は答えました。「サムラル氏がサウスベンに来るように言われたので行ってきます。」彼女はOKしてくれました。しかし、私は何も持っていませんでした。車や何か移動する手段は何も持っていませんでした。結局、妻を残してバスでそこに行く事になりました。そこに着いた時にも何も持っていませんでした。服は持っていましたが住む場所はありませんでした。誰も知らなかったし何も知りませんでした。バスを降りて教会に向かいました。そのバスを降りて教会の扉を通ると、そこには受付がありました。そこで私は言いました。「ここにサムラル氏に会いに来たのですが。」彼女は言いました。「面会の約束はしましたか?」「いいえ、でも彼は私が来るのを知っています。彼は私に会いに来るように言いました。」彼女は言いました。「分かりました。この廊下をまっすぐに行ってその右側です。」私は「分かりました」と言い、その扉まで行きノックしました。「入りなさい」という深いどら声が聞こえました。その扉を開いて中に入ると、長い部屋がありました。部屋に入って歩いていくとソファや壁に掛けられた様々なものがあり、その先を見ると机があり、彼は私の方向を見て座って何か書いていました。


その当時、私は妻に言っていました。もし2つの質問への答えが得られるなら全てが変わります。一つ目は、どの様にして神の御霊に導かれている事が分かるか。もう一つは、どの様にして神の御心を確信する事ができるか、です。つまり、神の御心は何かです。私はこれらの質問への答えを知る事ができるなら全てが上手く行くと考えていました。私はそこのソファに座って待っていました。しかし、彼は顔も上げないで書いていました。座って周りを見回して、世界中からの珍しいものを見回していました。すると、突然彼は書くのを止めて顔を上げて言いました。「神の御心を知る為には聖書を読みなさい。聖霊に導かれる為には聖書を行いなさい。」そして彼はまた書き始めました。私は彼を見て思いました。これらの質問の為にここに来て、もう用はないので家に帰る事ができるみたいだ。結局、私はサウスベン市に戻って、そこで仕事を見つけて、しばらくの間滞在しました。とうもろこしの房を花受粉させる為に取り除く仕事をしましたが、今までその様な事をした事はありませんでした。それは大変な仕事でした。とうもろこしの間を通りながらそれらを強く握らなければいけません。その様にしてお金を貯める為の仕事を得てお金が溜まると、私は戻って家族を呼び、そこに引っ越しました。私達はその教会のスタッフにはなりませんでしたが、祈りの奉仕で働きました。しかし、昼間は働いていたので、その祈りの奉仕の代わりをしてくれる人を見つけなければいけませんでした。結局、見つからなかったので、代わりに夜の祈りの奉仕を勤める事にしました。誰も夜にしようとする人はいなかったからです。毎晩、私達は起きて働きました。礼拝堂の明かりは暗いものでした。この様な話をしているのには理由があります。

そこには礼拝堂があり、長い椅子が並んでいました。子供達はそれらの長い椅子の上で、私達が祈りの奉仕をしている間に寝ました。その奉仕の中で、私達は初めて離れている人々でも、電話などで癒されたりする経験をしました。ある人に新しい心臓が与えられたり、様々な事が起きたりしました。ある夜の事です。まだ薄暗くて静まっている朝の4時、教会の建物は私達に貸しきられた様なものでした。教会の前からある物音を聞きました。私は軍隊の経験を持っているので、この物音を聞いていた時に思いました。「これは調べなければいけない。もしかしたら誰かが建物に入り込もうとしているかもしれない。」この教会のある地域は、あまり治安のいい場所ではなかったからです。それに入り口の扉には、大きな灯りもついていたからです。その入り口の所には大きな地図があって、こう書かれていました。「宣べ伝えられた事の無い何百万人、さらに何百万人」。そこにはその地図と灯りがありました。その地図には世界中が描かれていました。その地図には灯りが当てられていましたが、それ以外は暗くなっていました。なので、私はこっそりと後ろにある柱つたいに隠れながら、誰が教会に忍び込んだのかを見つけてやろうと思いました。その人を捕まえて警察でも呼ぼうと考えていましたが、それ以外にはあまり考えていませんでした。そこで、サムラル氏を見つけました。朝の4時なのにきちんとスーツを着て、その光の照っている所を歩いていました。私は隠れて彼が歩き周っているのを覗いていました。彼は地図を見上げて言いました。「コンゴの紛争はイエスの御名によって止る。大統領は良い人なのでその力にとどまる。」その様にして、彼は歩き回って祈っていました。これが彼の祈りの時間でした。彼がこれらの全ての国々の為に祈るのを見てそれを聞きました。彼はそれらの国の大統領の名前を知っていました。それらのいくつかは聖霊によるものだったと思います。彼はこの様に祈りながら歩き回り、私はそこに隠れて立ち見ていました。


一週間位の間、毎朝そこの柱に隠れて彼が祈るのを見ました。その人が祈るのを見る事によって、その人について多くを学ぶ事ができます。終にある日、私がその柱に隠れて彼が祈るのを見ていると、彼は言いました。「そこの陰に隠れて祈るのか、それともここまで来て祈るのか、どっちなんだ?」その時、正直その場から去りたい気持ちでした(笑)。私はそこから出てきました。彼の側は歩きたくはありませんでした。自分のやり方で祈ろうと思っていました。彼の真似をしているとは思って欲しくなかったからです。彼も私も歩き回っていました。私はそこで静かに祈っていると、彼が大声で言いました。「もし祈るなら。大きい声で祈りなさい!」私は必死で大きな声で祈りました(笑)。


私達は1年間程その様な生活を続けました。私はある夜の出来事を覚えています。クリスマスの頃の事です。サウスベンでは雪が降って寒くなるからです。初めて、道端でスキーをつけて歩いている人をみて思いました。

「なんでこんな寒い所に来てしまったのだろう。」私達には車がありましたがそれは壊れてしまい、その夜は祈りの奉仕をしに行く事ができませんでした。そして、次の日に彼に会った時に彼は言いました。「昨晩は何処にいたのですか?」私は答えました。「車が壊れてしまったのです。それはもう使い物にはならないので車はもう使えません。」マーフィー兄は彼の義理の弟でした。サムラル氏は彼の方を向いて言いました。「この夫婦に夕方までに車を用意してあげなさい。必ずそうしなさい。」そして、彼は振り返って歩き去りました。私達は、その日の5時までに車を手に入れました。素晴らしい車ではありませんでしたがそれは運転するには十分なものでした。彼はいつもこの様な人でした。彼自身は教会の裏の小さな家に住んでいました。彼はまさに立派な神の人でした。50年間のミニストリーの中でスキャンダルは何もありませんでした。


私はある時、一人の女性が教会に来た事を覚えています。私達が去る時に彼女は扉の所に来て訊きました。「家まで送ってもらえますか?」サムラル氏の妻のルイースは既に家に帰っていたので彼は言いました。「分かりました。」そして、彼らは車に乗り始めて私達は皆その駐車場にいました。彼女も車の前に乗ろうとしました。しかし、彼は言いました。「前ではなくて後ろです。」彼女は彼を見て後ろに乗り訊きました。「サムラル兄、私は前に座るには値しませんか?なんで、後ろに座らせるのですか?」彼は言いました。「あなたはいい人ですが、ただ苗字が違います。あなたの苗字はサムラルではありません。もしあなたがフロントシートに乗っているのを人々が見たら、朝までに、そのうわさはサウスベン中に広がってしまいます。」彼は続けて言いました。「物事には正しいやり方と、正しくないやり方があります。」この様に彼は霊的であって尚且つ、知恵もあり実践的な人でした。ある時には、教会に同性愛者達がやって来ました。そしてサムラル氏に言いました。「私達はここの教会が好きです。人々もいい人達だし、この教会員の一員になりたいと思います。でも、私達は同性愛者です。神は私達をこの様に造りました。なので、あなたの教会の会員になる事ができるか知りたいのですが。」サムラル氏は言いました。「まず、神はあなた達を同性愛者としては造りませんでした。第二にあなた達は教会の礼拝には参加できますが、会員にはなれません。会員になる為には聖い生活をしなければいけないからです。」続けて彼は言いました。「もし神があなた達をその様に造り、もしそれがあなた達にとって正しいとしたら、それは他の全ての人達にとっても正しくなければいけません。もしそれが全ての人にとって正しいものなら、人類は1つの世代で滅んでしまいます。」彼は言いました。「なので、全ての人間にとって正しい事なら、あなたにとっても正しい事です。もしあなたが悔い改めるなら、教会の会員になる事ができます。」それから3ヵ月後に、彼らは完全に同性愛からも解放されて自由になり、会員になっていました。そして、教会を前回訪れた時にもまだそこにいました。それは知恵です。


ある時、イエスは御父であり聖霊であって、三位一体ではない、統一の教義を信じている人達が教会にやって来ました。そして、彼らの教義が正しくて彼の教会は教義を変える必要があると説得しようとしました。彼らは教義を45分間の間に、次々と説明しました。サムラル氏は彼らを見て言いました。「では、事を簡単にしましょう。あなたはイエスを父と呼ぶのですか?」彼らは答えました。「はい。」サムラル氏は言いました。「私はイエスを兄と呼ぶので、あなた達は私をサムラル叔父さんと呼びなさい。」彼らはお互いを見て、この人は気がおかしいというような顔をすると立ち上がって、その場を去って行きました。彼らはそれ以上話す事はしませんでした。彼のこの答えが全ての議論を終わらせました。私がこの出来事を見た時、この世にあって霊的でありながら、親みやすくも現実的でもいる事ができる事が分かりました。


油注ぎを守る必要はありません。私達は油注ぎを守る事はしません。油そそぎが私達を守ってくれます。私達が聖霊を守る事はできません。ある人々は、「少し静かにして下さい。騒がしくして聖霊を悲しませたくありません」と言います。そうではなく、聖霊を悲しませるのは、むしろ病人の前をまるでその人がいないかの様にして通り過ぎる時です。誰かが礼拝中に騒がしくするなら、私の教えを聞くのに気が散ったりするかもしれませんが、聖霊の気を散らして邪魔をする事はしません。何故でしょうか?彼はいつも集中しているからです。もし私達の周りに病人がいるなら、聖霊は何処にいると思いますか?病人の近くです。その様な事を体験した事があります。私はある人の為に祈っていましたが、周りの人々は騒いだりして、私は気が散らされていました。しかし、聖霊は私に言いました。「カリー、こっちです。こっちに集中して下さい。この人が助けの必要な人です。集中して下さい。」私は騒がしくする事で聖霊が悲しむのを見た事がありません。人々は言います。「聖霊は鳩のようなので、私達は騒がせて彼を悲しませる事はしません。彼は飛び立ってしまいます。」確かに聖霊は鳩のようにして現われましたが、彼は神の御使いに力を与えて一夜にして185,000人もの兵士達を殺させもしました。私達が騒がしく話すと聖霊は悲しむと思いますか?冗談でしょう。


私達は天地を治める神について話しているのです。最も偉大で力のある戦士である神について話しています。神は癒す者でもあるので、彼は戦士でもある必要があります。彼は私達の為に戦ってくれるからです。多くの人はこう考えるのではないでしょうか。イエスは死んで地獄まで下った時、悪魔は言いました。「終にここに来ましたね。ここに鍵があります。持って行って下さい。」聖書はその様には記述していません。イエスは悪魔から鍵を奪い取りました。イエスはそれらの鍵を持っています(黙示録1:18)。それは事実です。問題は、私達はまるで本当の戦いが起きていないかのように振舞います。戦いは現実であります。それはダニエルを邪魔した様なものです。

彼の祈りは彼が祈ったその日に聞かれました。しかし、その状況に対して天において戦いがありました(ダニエル10:12-14)。しかし、私達は考えます。「もう一度、答えを得る為に祈らなければいけません。」違います。その祈りへの答えは、彼が祈ったその日に送られました。しかし、その答えは邪魔をする者達によって妨げられました。今は、私達はダニエルのような立場にはいません。カリスマ派のクリスチャンでさえも、癒しについて話すと、「パウロのとげやテモテの腹やパウロは誰かを病気のまま残してきた事や、ヨブの事について知っています」と言います。しかし、癒しについての5つの聖書箇所を教えて下さいと訊くと、彼らは答える事ができません。彼らはあらゆる癒しが起こらない失敗する理由や問題は知っています。聖書にはパウロのとげが病気だという証拠は何一つありません。また、多くの人は言います。「でも、私はヨブのような人です。」それは違います。私達はヨブのようではありません。ヨブには贖い主はいませんでした。ヨブには父の前で弁護してくれる方はいませんでした。ヨブは新生していませんでした。ヨブの内には神の御霊は宿っていませんでした。ヨブ記は、聖書の中でも最も古い本と伝えられています。私達は、ヨブが神について何を知っていたのかも、神とのどんな約束を持っていたのかも知りません。神が、彼に何を約束したかの記録は何もありません。人々は言います。「神は悪魔に許可を与えました。」その様に解釈する事は可能ですが、聖書は次のように言っています。「見なさい。ヨブはもうあなたの手の中にいます。(KJV訳ヨブ記2:6)」言い換えると、「私はヨブをあなたに与える事はしません。彼は既にそこにいます」こうなります。何故なら、彼はまだ神との契約の下にはいなかったからです。彼はまだ神の守りの下、律法の下にはいませんでした。律法は当時の神の守りを与えるものでした。それに加えて、聖書は悪魔が彼を悪性の腫物で打ったと書いてあります(ヨブ記2:6)。神ではなく、悪魔がそれをしたと言っています。そして、ヨブ記の最後には、神はヨブを捕虜から返されたと書いてあります(KJV訳42:10)。ヨブは悪魔に捕らえられていたという事です。聖書には、神は彼を捕虜から解放し、彼の所有物を2倍にされたと書いてあります。


癒しに反論する多くの人々は、パウロが弟子を病気で残してきた事や、テモテの胃の事などについて知っていて、「パウロはテモテに胃の為に少量のワインを飲みなさいと言いました」と言います。実際、もし外国に行って、少量のワインを水に混ぜるならバクテリアを殺す事ができます。パウロはテモテに、「もしあなたが胃に問題があるのなら、ワインを飲みなさい」と言っただけです。パウロはワインを薬として使ってはいませんでした。彼はただ、「ワインは水を浄化し、下痢の問題を解決します」と言っただけです。それでも、人々は「パウロはある人を病気のまま残してきました」と言います。私は人々を病気のまま残してきた事があります。スーパーに行って100人を癒しても、入り口を閉めてもう誰も入れないようにしない限り、誰か癒されていない別の病人を残してくる事になります。何故なら、新しい病人は入り続けてくるからです。

ゴードン・リンゼイの証しをシェアしましょう。彼がある女性の癒しの為に祈り家に帰りました。彼の妻は「どうしたの?」と尋ねました。彼は「祈りましたが、何も起こるのを見ませんでした」と言い落ち込みました。その夜礼拝に行くと、その女性が神を賛美しているのを見つけました。そこで、彼は彼女に聞きました。「どうしたのですか?」彼女は「あなたが去った5分後に私は癒されました」と言いました。私達は、パウロが残した人にその後何が起こったかは分かりません。しかし、パウロは手紙で、「神は私達を憐み、私達とあなたを自由にしてくれました」と書いてあります。人々はどうにかして神が癒しを行わない理由を作ろうとします。いつも神についての否定的な悪い事ばかり考えようとします。しかし、神は歴史を通して良い事意外には何もしていません。それを認識するべきです。神は人々を癒し祝福してきましたが、私達は神に背を向けて「しかし、神はこれやそれをしなかった」と言って、神を責めようとします。その様な事をする多くの人々は、キリストによる贖いに伴う恵みを受け取った事のない人々です。初代教会は私達の今知っている様なパウロへの啓示は知りませんでした。彼らは少しずつそれらの事を理解していきました。


今までにおかしな教えを作り出してきた理由は、多くの人々が使徒達や使徒の働きの書を神学の手本としてきたからです。もし私達が使徒の働きを神との歩みの手本とするなら、誰の考えに賛同しますか?パウロですか?ペテロですか?もし自分をパウロの立場に置くなら恵みによって歩みます。もしペテロに自分を置くなら、私達は割礼をして神殿の掟を守らなければなりません。それ以外にも、使徒の働きの書に記されている事に従って様々な事を行わなければなりません。何故なら、その当時は、ペテロは勇気を持って「パウロの教えている事は正しい」と言う事ができなかったからです。パウロでさえも、テモテに割礼を受けさせた時には動揺したようです。その時、パウロは律法に戻りました。何故なら、その時までは彼らは異邦人がイスラエル人と同じように救われるか確信を持っていなかったからです。そうですよね?ペンテコステから10年後位にやっとコルネリアスの家族に聖霊が下るまでは、異邦人も救われると確信を持って知りませんでした。この様に使徒の働きを私達の手本とするべきではありません。幼子の状態の教会ではなく、エペソの教会、栄光の勝利の教会を目指すべきです。その様な教会の為にイエスは再び戻ってきます。イエスは使徒の働きに書いてあるような教会には戻ってきません。使徒の働きの中の初代教会の時には、使徒たちは自分達のしている事をよく理解していませんでした。使徒の働きはそんな彼らの記録です。彼らの記録を無視するという事でもなく、ただ、私達はエペソのような教会を手本とするべきです。しみやしわ、その様なものが何一つない教会になるべきです。あらゆる点においてキリストに達するまで成長するべきです。初代教会はキリストに達するまで成長していませんでした。彼らは多くの問題を抱えていました。そうですよね?私達はもっと成長する必要があります。

受けた質問を読みます。「どの様にして、いつ癒し、いつ病気・悪霊を追い出すかを知る事ができますか?」まず、追い出して、それでもまだ癒されないのなら癒します。今から説明する事は重要な事です。一般に、教会では私達は癒しの為に具体的に祈ろうとします、私達が癒しや悪霊追い出しを行う上で、具体的になり過ぎるなら失敗します。何故なら、もし正しい言葉を正確に言おうとして具体的になりすぎて、間違えた事を言えば悪魔はそれを聞いて、私達が何を言っているのか分かっていない事を知ります。そして、悪魔は私達に従おうとしません。しかし、もし私達が総体的に「癒されよ、自由になれ」と言えば、悪魔は私達が何を知っているか分からず命令に従わなければなりません。それは私達が総体的になっているからです。分かりましたか?私達が癒しを行う為には、完璧でないといけないと、敵に考えさせられないようにして下さい。イエスは細かくありませんでした。イエスはただ、「何をして欲しいのですか?癒しを受取りなさい」とだけ言われました。私達はより少ない努力で、イエスよりも大きなわざを行うべきです。私達の敵はもう既に敗北しています。なので、私達が悪魔を打ち負かすのはもっと容易なはずです。もしイエスがその様に総体的に癒しを行ったなら、私達はさらに総体的になる事ができます。イエスより細かくなる必要はありません。私達は単純な事を難しくし過ぎてきました。もし細かくなるなら、敵はそれを利用して抵抗してきます。できるだけ総体的になって下さい。しかし、もし必要ならば、具体的になって下さい。

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