私が今までにまとめた最も重要な事が2つあります。それらの事を書いて図式にしました。この図式には神、イエス、聖霊、クリスチャン、悪魔、人、があります。天の階級に沿って、これらを書きました。私達にはしいたげる者、犯罪者、反逆者がいます。それは悪魔です。次は、力の行使者です。それは誰ですか?そうです、聖霊です。次は権威を与える者です。誰が権威を与えますか?イエスですよね?彼は「私には権威が与えられています。私はあなた達にその権威を与えます」と言いました(マタイ10:1、28:18-20、ルカ9:1)。次は、誰が病人で、回復する者ですか?それは人ですよね?裁判官、全てのしいたげられている人々の為にさばきを下す者は誰ですか?それは神です(詩篇103:6)。最後に執行者です。神との共同労働者です(Iコリント3:9)。それはクリスチャンですよね?一旦、この図式を完成させれば、全ての人達が自分の仕事が分かります。一度自分の仕事を知れば、何をすれば良いかが分かります。そして、他の人達の仕事も分かるので、誰が何に対して責任を持っているのかも分かります。例えば、会社の為に働くとしたら、誰が何に対して責任を持っているのかを知らなければなりません。次は、神の流れ図です。これが天での職務階級を示しています。最初に、初めの創造の時です。初めの創造では神が全ての責任者でした。イエスは神のうちにいて、聖霊も神のうちにいました。なので、彼らは一つでした。その下にアダムがいます。アダムは人です。そして、その下に、天使と悪魔がいました。悪魔は天使だったからです。これが初めの創造の時の階級です。これが、アダムが地上に置かれた時の状態です。アダムが堕落した時、これは変わりました。その後は、神、イエス、聖霊、その下に、悪魔と天使、その下にアダム、又は人になりました。人は悪魔と天使の下になりました。何故なら、悪魔はこの世の神になったからです(ルカ4:5-6、IIコリント4:4)。アダムがその支配権を彼に明け渡したからです。次にイエスの任務です。これは基本的に、初めの創造の状態に戻す事です。この場合には、もう少し付け足された事があります。
ここには堕落した人だけでなく、救われる人がいます。つまり、2種類の人がいます。生まれつきの人(肉の人)と霊の人です。私達は人を2つの階級に分けます。1つではありません。なので、ここに神、聖霊、ではここでイエスがやって来た時に、彼は自分を人の立場に置きました。そうですよね?悪魔はその上にいました、この世の神だったからです。しかし、イエスが、「完了した」と言った時(ヨハネ19:3)には、悪魔はその階級から引き下げられました。イエスは私達のような者になってくれました。それは私達が彼のようになる事ができる為です。ある人はここで、「待って下さい!何で贖われた人が、イエスと一緒の階級にいるのですか?」と言うでしょう。何故なら、私達はイエスと共に天の座に着いているからです(エペソ2:6)。
その下に、悪魔、天使がいます。そしてその下に生まれつきの人、贖われていない人です。何故なら、生まれつきの人はまだ悪魔の支配下にいるからです。では、私達は何処にいますか?私達はイエスと共にいます。覚えておいて下さい。全ての人は階級的に自分の上にも下にも誰かがいます。私達は自分の階級よりも上の者には膝をかがめます。自分の階級よりも下の者には、その上に足を置いて足台にします。私達の問題は次のようなものです。神は、人に地を支配して、従えるように、言いました。地を這う全ての生き物を、空の鳥、海の魚を支配するように(創世記1:26-28)。そして、人はその全てに名をつけました(創世記2:19-20)。神は他の人を支配するようにも言わなかったし、決して、人は他の人に対して支配権を持っているとも言いませんでした。しかし、堕落した肉的な人間の歴史を見てみると、人々は他の人を支配しようとしてきました。その為に戦争が起こってきました。人が人を支配しようとしてきたからです。イエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、みなに仕える者になりなさい」と言いました(マタイ20:25-28)。彼は神の国の道は、私達はお互いに仕える事です。私達は王になるべきである事を知っています。何故なら、神は私達を神の為に王、祭司として下さいました(Iペテロ2:9、黙示録5:10)。私達はとこしえに神と共に支配します。これが聖書の言っている事です。
問題は、私達は他の人を支配しようとしてきた事です。そして正しい王は、王である事は他の人々に仕える事である事を知っています。良い王は、彼が仕える人々の利益を一番に考えます。彼は統治するかもしれませんが、人々の上に権力は振るいません。違いが分かりますか?統治と権力を振るう事の違いです。神は私達に支配するように言いました。しかし、人の上に権力を振るうようには言いませんでした。彼は私達に、異邦人のように人々の上に権力を振るわないように、言いました(ルカ22:25-27)。イエスは地上にやって来て、私達が悪魔の上に立つ事ができるようにして下さいました。ですから、今、私達は悪魔の上に立っています。ローマ16:20には、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いて下さいます」と書いてあります。悪魔は階級的に私達の下にいます。何故なら、私達はキリストのからだであるからです。なので、悪魔は私達の足の下にあります。又、私達には階級的に上の者もいます。自分よりも上の者には膝をかがめます。私達の下にいる者には足を置きます。しかし、救われていない人は悪魔の支配と権威の下にいます。彼らは悪魔に属して、悪魔の子です。私達は彼らに足を置きません。私達は悪魔の上に足を置きます。私達の仕事は彼らを悪魔の奴隷である状態から解放する事です。ある人の質問です。「私は悪霊を手放したくない人に対して、その悪霊を追い出す権威がありますか?」はい、あります。2つの理由があります。一つは、私達は全ての悪霊に対しての権威があり、そして全ての人に対しての権威があります。私達は人々に対しては統治して、悪霊に対しては権力を振るいます。分かりましたか?統治する事です。
それは、こき使う事ではありません。彼らに仕える意味です。ではどの様にして人々に仕えるのでしょうか?それは次の言葉にまとめられます。それは、「私は神の子であり、悪魔を支配する者であり、人に仕える者です」というものです。人に仕える者になる為には、悪魔を支配する者でなければなりません。何故なら、もし悪魔を支配する者でないなら病気やわざわいは私達に従わないので、人々を自由にする事ができません。それで、人に仕える者になる為には悪魔を支配する者にならなければなりません。しかし、悪魔を支配する者である為には神の子でなければなりません。とても単純ですよね?
1980年代には、教会の間で、「私は王の子です」という考え方が流行りました。しかし、実際には彼らの考え方はむしろ「私は王に甘やかされた子です」というものになってしまいました。私達は今でもその様な考え方をする傾向があります。その様な人は、「私はもっと祝福を受けるべきだ」と考えます。そうではありません。私達は他の人々に対して祝福となるのに値します。その様な考えであるべきです。ですから、もし本当に王の子になりたいのなら、その様な甘やかされた者のような考え方を捨てて下さい。ただ王の子であるだけでなく、黙示録には、私達は神の為に王であり祭司であると書いてあります(黙示録5:9-10)。ですから、私達は悪魔を支配する者であり、悪魔に対して権力を振るうものです。そして新生していない人々を統治します。どのように統治するのでしょうか?それは彼らに仕えて、彼らを自由にする事によってです。悪魔を支配する者になる為には、人々を自由にします。悪魔の頭に足を置いて、人々を彼の手から解放する事によってです。私達の目的は人々を自由にする事です。私達は神を礼拝して、神を愛するべきです。それが神の言った事です。人々は、イエスに何が一番大切な戒めであるか尋ねました。イエスは何と答えましたか?イエスは、「全ての心を尽くして、思いを尽くして、知力を尽くして、あなたの主である神を愛せよ」と言われました(マタイ22:37、ルカ10:27)。そして、彼はこの第一の戒めと同じように大切な2つ目の戒めもあると言いました。それは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というものです。これを言い換えると、マタイ7:12にあるように、「何事でも、自分にしてもらいたい事は他の人にもその様にしなさい」となります。この様にする時、私達は隣人を自分自身のように愛します。それゆえ本質は、ソロモンも言ったように、「結局のところ、もう全てが聞かされている事だ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである」です(伝道者の書12:13)。これだけです。
私達は、「モーセの十戒を守らなければいけません」と考えます。そうではありません。私達が2つの戒めを守る時、十戒も守ります。分かりますか?もし私達が2つの戒めを守るなら、十戒を破る事はできません。何故、十戒だけを守らなければいけないと考えるのでしょうか?新約聖書には1050個の戒めがあります。
しかし、もし私達がこの2つの戒めを守るなら、全ての戒めを成就する事になります。私達は戒めを守る為に聖書の全てを知る必要はありません。聖書を読まなくても、勉強しなくてもよいと言っているのではありません。ただ、聖書の全てを理解していなくても、御言葉によって歩む事ができるという事です。聖書を読む事は成長する過程の一部です。クリスチャンなら誰でも最低、神を愛し彼の戒めを守り、全ての心と、知力と、魂と、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛するべきである事を知っているべきです。どうやって隣人を自分のように愛するのか?それは何事でも自分にして欲しい事は他人にもその様にする事です。これらに全て集約されています。これら全てさえを守っていれば、いつも正しく歩む事ができます。最近、私はこの様なトピックについての教えをしました。何故なら、多くのクリスチャン達が御言葉を行うのを妨げているのは、彼らが「神にはその病人を自由にして欲しくない何かしらの理由がある」と考えるからです。彼らは、悪い種を撒いてしまったとか、自分の人生の中で罪があるからとか、自分はまだ準備ができていない、或いは、神が「まだです」と言っていると考えます。
ガラテヤ人への手紙では、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制について書いてあります。最後の、「この様なものを禁ずる律法はありません」の言葉が鍵です(ガラテヤ5:22-23)。これはどのような意味でしょうか?説明させて下さい。私達は人々を愛する事ができます。喜びを持つ事ができます。寛容である事ができます。これら全ての9つの事をする事ができます。これらを禁じる律法はありません。単純ですよね?ある人はこう言うでしょう。「では、誰でも愛する事ができるとは、どういう意味でしょうか?」もし、私達が隣人を自分自身のように愛するなら、それは、私達は彼らに自分にして欲しい事をする事です。例えば、私達が病気であり、どこかの店に座って誰かを待っているとします。そこで、誰か御霊に満たされた、力に満たされた、神の命に満ちた、クリスチャンが通り過ぎるのを待っているとします。もしその様な人が通り過ぎるなら、自分に手を置いて癒してもらいたいですか?この質問の答えによって、私達は自分自身を、癒しを行う立場に置く事になります。何故なら、何でも自分にして欲しい事は、他人にもそうするべきだからです。単純ですよね?ですので、私達が神から生まれて、神の御霊を持っていて、御霊に満たされていると言うなら、他人に自分にして欲しい事をする責任があります。
聖書は、彼らのして欲しい事を彼らにしなさいとは書いてない事に注目して下さい。そう書かれていない事に感謝です。しかし、そう書かれている場合、私達が路上で酒飲みの人に、「すみません。何をして欲しいですか?」と訊くなら、彼らは、「私にウィスキーを買って欲しい」と言い、私たちが聖書に従おうとするなら、その様にしなければいけません。しかし、聖書は彼らのして欲しい事を彼らにしなさい、とは書いてありません。
そうではなくて、自分にして欲しい事を他人にもその様にしなさいと書いてあるのです。このマタイ7:12の御言葉は、多くの質問への答えである事が分かりますか?「もし彼らが悪霊を留めておきたかったらどうしますか?」という質問に対しては、聖書は、自分にして欲しい事を他人にもその様にしなさいと言っているので、もし、私達が悪霊を持っていたら、それを追い出して欲しいと思うはずです。それが答えです。「でも、もし彼らが悪霊を留めておきたかったら、どの様に追い出す事ができるでしょうか?」と思うかもしれません。しかし、私達は悪魔に対する権威を持っています。私達の下にある全ての者に対しては、権威を行使する事ができます。私達はただ去れと命令するだけです。もし彼らが悪霊に戻って来て欲しければ、彼らは悪霊を戻す事ができます。私は皆さんを自由にする事はできますが、自由のままにしておく事はできません。私は全ての病気や、患いや悪霊に対する権威があるので、皆さんを自由にする事ができますが、皆さんを自由のままにしておく事はできません。何故なら、誰でも自由になった後は、自分の好きなように生きるからです。
私達は自然と自分と同じレベルの人々を引き寄せます。今までクリスチャンと自称する人々の周りにいた事がありますか?私はそんな時に思いました。「言葉は正しいように聞こえますが、何かが正しくありません。」何故でしょうか?それは、彼らは口では神に近いと言いますが、心は神から離れているからです(マタイ15:8)。彼らは教会にいる時には「教会モード」でいて正しい事をしていますが、彼らの心は正しくありません。家に帰ると彼らは教会ではしないような事をします。言い換えると、カメレオンクリスチャンです。彼らはクリスチャンの周りにいる時には「神に感謝します。」と言いますが、彼らが飲み仲間の周りにいる時には「もう一杯持ってこい」と言うような口調です。分かりますか?私達は周りにいる人達に調子を合わせます。それが私達は周りにいる人達のレベルに引き寄せられる理由です。
私は自分の子供達に言います。「結婚相手は自分よりも劣った人を選ばないで、自分よりも優れた人を選びなさい。自分よりも霊的に強い人を選んで結婚して下さい。何故なら、相手は成長しようとするので、それによってあなたも成長するからです。もしあなたが成長する気が無いなら、相手もそのレベルに引き下げる事になります。」ある人は言うでしょう。「それは正しい事ですか?」今は他人の事については話していません。私は自分の子供達に対して責任があります。ある人が「友人はまるでエレベーターのようなものです。彼らはあなたを上に連れて行くか下に連れて行きます。しかし、彼らは私達を同じ場所には残しておく事はしません」と言うのを聞いた事があります。まさにその通りです。それが「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる(箴言27:17)」と書いてある理由です。あなたを鈍くしてしまうような、鈍い人々の周りにいないで下さい。
これまで多くの事を話してきましたが、以前に、神は一度言っただけで太陽は今でも東から昇って西に沈み続けていると話した事を覚えていますか?私達は毎日太陽の光を見る事ができます。神は毎朝起きて、「もう一度やりましょう」と言う必要はありません。太陽はただ同じように働き続けます。神が一度何か言ったら、それは神が止れと言うまで働き続けます。そうですよね?それなら、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」と神は言われたのに、何故それはある特別な期間の事だけだと考えるのでしょうか?それは続く事ですよね?面白い事に、全ての人は私達が大宣教命令を受けている事は認めます。それなら、もし私達が引き続き大宣教命令を受けているなら、その命令を受けた時に与えられたものも引き続き持ち続けるはずです。
次の事について考えてみて下さい。どの軍隊でも、まともな考えを持った将軍は、たとえ訓練されていたとしても、欠陥のある兵士達を送る事はしません。例えば、いつも勝利する者を送り、毎回敵を完全に圧倒している最中にその人を引き下がらせて、代わりに何の能力も、道具も、武器も持っていない兵士達を送って、「私は引き下がりますが、後は任せます」というような事はしません。それは意味が通りません。それはまるで、私が体格の大きい人達と喧嘩をする為に出て行って、彼らを殴っておいて、後は私の息子を残して、「では、あなたが彼らを打ち負かす事を願います。頑張って下さい」と言うようなものです。それでは、ただ敵を怒らせただけです。彼らは私の息子をボコボコにするでしょう。では、私は何をするべきでしょうか?もし私が責任のある父親なら、私は彼がどんな状況にも対応する事ができるように必要な全ての事を教えます。たとえ私がその場にいなくてもです。そうですよね?私は彼を訓練して、道具を与えて、武器を与えて、全ての事を伝えて、彼が敵に勝つ事ができる為の全ての秘密を教えます。それが、神が私達にした事です。神は賜物を教会から取去る事はしませんでした。神は、「今はもう使徒の時代は終わったので、聖霊の賜物は絶えました」とは言いませんでした。
次の様な状況を想像した事はありますか?例えば、ヨハネが最後に残った使徒で、死にかけている場面です。教会の歴史によると、人々は油によって彼を煮詰めようとしましたが、できませんでした。なので、彼が長く生きた唯一の使徒でした。考えてみて下さい、ここに雷の子とも言われた、神の力に満ちた、使徒ヨハネがいます。彼が老年でベッドに寝ています。死にそうです。病人は列を成して用意しています。それは彼が最後の使徒だからです。彼がいなくなったら、使徒の時代が終わり、癒しも聖霊の賜物も絶えてしまいます。多くの病人が彼のベッドの側に並んでいる事を想像して下さい。そこで、ヨハネの弟子達は言っています。「早く病人をこちらによこして下さい。」ヨハネはそのベッドで寝ています。彼は言います。「癒されなさい。」そして、次の人を呼びます。彼は言います。「早くして下さい。」彼はいつ亡くなるか分かりません。
彼が亡くなったら全て終わりです。もちろんその様な事は起きませんでした。しかし、もし全ての事が使徒達の死と共に途絶えたなら、その様な事が起きた事でしょう。私達はいつもある人達を特別だと考えます。12使徒は特別だと考えます。それは違います。特別なのは神の御霊です。彼らの行った事は、全て神の御霊が彼らを通して行った事です。人々は、いつもイエスキリストの代わりに人々を賞賛します。しかし、私達の仕事は、神を賞賛し人々の徳を建て悪魔を消耗させる事です。
神が一度言った事はその通りになります。ここでの法則は、何かが成し遂げられる為には、神はそれを一度語るだけでいいという事です。そしてその言葉は、神が変えるか止めるまで実現し続けます。聖書には癒しが絶えたと書いてある箇所は一箇所もありません。それでも、ある人々は御言葉を使って癒しが絶えたと説明しようとします。その様に解釈しようとする箇所は、「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます(Iコリント13:10)」です。ここで使われている「完全」というギリシャ語は「Teleos」で、「時が来た時には、全てのものが完成し、私達は成長し、もう不完全なものは必要がなくなる事」を意味します。正直言って、この地上に病気が無くなるまで癒しは必要です。ですから、私達が神の健康によって歩み、全ての病気を根絶した時に、癒しは止むでしょう。しかし、それがいつ起きるのかは神学者達が議論すれば良い事であり、私はただ人々を自由にする事に専念しています。では、これについて見ていきましょう。イザヤ53章の4-5節は言っています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪の為に刺し通され、私たちの咎の為に砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」これらの節を通して際立つのは、「私たち」と「彼」、「私たちの」と「彼は」と書いてある事です。イエスは何も自分自身の為にしなかった事に気が付きましたか?彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。私たちは思った。彼は罰せられ、彼は、私たちのそむきの罪の為に刺し通され、私たちの咎の為に砕かれた。彼への懲らしめが、と書いてあります。彼は自分のそむきの罪の為に刺し通されたのではありません。彼がした事は全て、私達の為でした。イザヤ53章の5節の最後の部分、「彼の打ち傷によって、私たちは癒された」は、Iペテロ2:24では、「彼の打ち傷によってあなたは癒された」とあります。ある人々は言います。「それは霊的な癒し、つまり、救われる事だ。身体的な癒しについてではない。何故なら、その前にそむきの罪について語っているからだ。だから、それは霊的な癒しについてであって、身体的な癒しについてではない。」まず、その箇所の「癒された」という単語は、「霊的な癒し」としては何処にも使われていません。実際に、旧約聖書ではこれと同じ単語が身体的な癒しに使われています。へブル語の旧約聖書はギリシャ語に訳された事を覚えておいて下さい。イエスや弟子たちはそのギリシャ語に訳された聖書を使っていました。
そして、Iペテロ2:24で使われているのと同じ「癒された」はイザヤ53章で使われています。その言葉は身体的な癒し以外の時に使われた時が一度だけあります。しかし、その時には、神殿の祭壇を建て直される事について意味する為に使われました。なので、その単語は身体的な癒しについて言及してない時にでも、神殿の祭壇の物理的な修復についての言及の為に使われています。ですから、誰かがその単語が身体的な癒しについてではないという人はギリシャ語を知りません。
私はギリシャ語の学者ではありませんが、私には友人のマイケル・ブラウン氏がいます。彼は7ヶ国語話します。それで、私が何か質問がある時には彼に電話をします。そうすれば彼はヘブル語や、ギリシャ語について教えてくれます。ある時に、私が妻と車を運転している時に、彼のテープを聞いていました。彼はテープの中で、聖句を読んでいました。
妻はそれを聞いていて、言いました。「彼の読んでいるのはキングジェームズ訳ではないわね。彼は何の訳を読んでいるの?」私は答えました。「彼は原語のヘブル語の聖書を読んでいるのさ。それが彼の聖書だから。」そういう事で、人々がその単語は霊的な癒しについてであり、身体的な癒しについてでないと言うなら、彼らは実際何について話しているのか知らないのです。
ここにいる人で誰かT.J.マクロッサンによって書かれた「Bodily Healing and the Atonement」という本を知っていますか?私は、いつもは持って歩いていますが、今は手元には持っていません。最近ではその本を見つけるのも難しくなってきました。癒しについての本の中でベストなものです。T.J.マクロッサンという人は、牧師任命の為に長老派の教会のギリシャ語やヘブル語を試験する人です。又、彼は神学校のギリシャ語とヘブル語の教授でもありました。当時、彼はギリシャ語とヘブル語の教授として、多くの人達に認められていました。彼は1930年代まで生きていました。彼はこの本を書きましたが、絶版になったので、ケネス・へーゲンとロイ・ヒックが再出版しました。これはとてもいい本です。小さい本ですが簡単に読める本ではありません。腰を下ろしてゆっくり読む必要があります。それには癒しの為のポイントなどは書いてありません。彼が言いました。彼のようなギリシャ語とヘブル語の教授としての権威を多くの人に認められた彼がこう言いました。「どんな学者でも、癒しが贖いに含まれていないと言う人、身体的な癒しが贖いの中に含まれていないと言う人は、2種類のうちのどちらかの人である事を証明します。その人は学者でなく、ギリシャ語もヘブル語も知らないか、その人は嘘つきです。」これはとても大胆な発言で、ストレートな言葉です。私なら嘘つきとまでは言わないでしょう。しかし、彼はそう言いました。彼はそれを研究したからです。これはすばらしい本です。皆その本を読んで勉強するべきです。「Bodily Healing and the Atonement」です。
さて、偉大な信仰は必要ないと言った事を覚えていますか?見方によれば、ある意味、信じようとしなくてもいいのです。何故、癒しの為には信仰は必要ない事を知りたいですか?これを聞くと驚きますよね?旧約聖書にある、全ての癒しはイザヤ書53章の「彼の打ち傷によって私たちは癒される」事を基にして成されました。旧約聖書の癒しは、将来やって来るイエスが打ち傷を負う事が示され、それが成就しました。これについて少し説明させて下さい。イエスは十字架に付けられる前に打ち傷を負いましたよね?彼らはまずイエスをむちで打ち、ピラトのもとに連れてきました(マルコ15:15)。彼はイエスを釈放したいと思いましたが、その様にはせず、イエスを十字架に付けました。この事について考えてみて下さい。「彼の打ち傷によって私たちは癒された」と言う聖書箇所を覚えていますよね?では、もしピラトがイエスを釈放したらどうなったと思いますか?答えは、私たちはまだ癒されています。癒しは未だに起きているでしょう。救いはどうでしょう?救いは起きていません。論理的な観点から話していますが、私がここで強調しているのは、癒しがあくまでも「彼の打ち傷による」という真理が決定的である事についてです。分かりますか?私達はイエスの打ち傷によって癒されています。
イエスが十字架に付けられなかったとしても、打ち傷を受けたという事なら、身体的な癒しはまだ起きます。私達は今イエスキリストを見ています。旧約聖書の人達は、誰も癒される為の権利はありませんでした。旧約聖書の時代に癒された人々は、全てイザヤ書に記された彼の打ち傷によって癒されました。今まで癒された人々は、全て彼の打ち傷によって癒されたのです。旧約聖書の預言者たちが「彼の打ち傷によって私達は癒された」と言った時には、イエスは私達の病を負っていませんでした。ですから、古い契約の下で起きた癒しは、全てこれから起ころうとする事柄に対する信用によるものでした。それらの全ての癒しはイエスが将来しようとしている事に対しての信用に基づくものだったのです。信用とは、言い換えると、信頼、又は信仰です。もし誰かが、私達に信用を与えるなら、それはその人が私達に信仰を置いているという事です。そうですよね?私達は言います。「あなたは信頼できるから、銀行口座にお金を預けます。彼の言葉は信頼できるので、私は彼に信用します。」もし誰かが私達に信用するなら、彼らは私達に信仰を置いている事になります。ですから、旧約聖書での全ての癒しは信用によるものでした。彼らは信仰によって癒されました。何故、癒しは信用、又は、信仰によったのでしょうか?それはイエスはまだむちで打たれていなかったからです。イエスはまだむちで打たれていなかったので、旧約時代の人々はこれから起こる未来の出来事を望んでいました。もしイエスが打ち傷を負っていなかったなら、今まで起きた全ての癒しは違法なものになります。何故なら、癒しの為の代価はまだ支払われていない事になってしまうからです。イエスは打ち傷を負いましたが、それ以前に起きた古い契約の下での癒しは全て、イエスが将来むちで打たれる事に基づいていました。ですから、それらの癒しは信仰によるものでした。
別の言い方で話しましょう。銀行の口座に10万円あるとします。それなら、500円の小切手を書くのに、ためらう事はありますか?ないですよね?何故なら、十分なお金がある事を知っているからです。10万円あるのに、500円の小切手を書く為の信仰は必要でしょうか?少しも必要ありません。何故なら、もう既にそこにお金がある事を知っているからです。私達がその口座にお金を預けたとします。もし銀行が、「すみません。あなたはここには口座を持っていません」と言うなら、私達は「ああ、そうですか。私は持っていると思ったのですが。すみません」とは言いません。私達はその場に堅く立って、銀行員と顔を合わせて、マネージャーを呼んで言います。「ここにレシートがあります。このようにちゃんとお金を預けました。」もしマネージャーが、「申し訳ないですが、それはただの紙切れとインクです」と言うなら、「違います。これはちゃんと私が口座にお金を預けた事を証明します。このレシートは、あなた達が私の預けたお金を受取って、私がお金を預けたという事を示す証拠です。これが私の持っている全ての証拠です。私は口座にお金を持っています」と私達は答えます。こういうやり取りが想像できますか?
イエスは死んで打ち傷を負いました。これは事実ですか、それとも作り話ですか?事実です。では、事実を信じる為には信仰は必要でしょうか?事実を信じる為には信仰は必要ありませんよね?私達は自分の名前を知っています。自分の名前を語る為には信仰は必要ありません。もし銀行の口座預金があるなら、小切手を書くのに信仰はいりません。何故でしょうか?それは事実だからです。私達は癒されています。それは事実です。ある人は、「癒されたようには感じません」と言います。関係ありません。それでも人々は、「あなたには口座預金のような証明はありません。なので、癒されていません」と言います。本当ですか?私達はこの聖書の言葉に書かれた証明があります。それは「彼の打ち傷によって、私達は癒された(IIペテロ2:24)」と書いてあります。誰でも、これに反する事を言うなら、その人は嘘つきです。そうですよね?人は偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです(ローマ3:4)。聖書はそう言っていますよね?癒しは事実です。イエスが、私達の病気や患いを負った事は事実です。私達は癒しの為に信仰が必要でしょうか?事実を信じる為に信仰が必要でしょうか?いいえ、必要ありません。では、キリストのうちに入る為には信仰が必要でしょうか?はい、必要です。私達はイエスに対しての信仰が必要です。キリストの中には癒しがあります。そうですよね?
例えば、もし私達がある店の会員カードをもっているなら、私達がその建物に歩いて入ろうとしても、止められる事はありません。彼らは私達の口座を確認しようとはしません。彼らが確認したいのは何であるか知っていますか?それは、私達の会員カードです。彼らは私達の口座にお金があるかは気にしません。何故なら、私達が何を買うか知らないからです。彼らが確認したい事は、私達がカードを持っているかです。
もし私達がカードを持っているなら、その店の何でも買う事ができます。彼らは私達が何を買うか気にしません。彼らが知りたい事は私達が店のメンバーであるかどうかだけです。天もそれと同じです。天は私達が何を買うか気にしません。癒しを買いたいですか?神は気にしません。彼は、「癒しが欲しいのですか?ここにあります。さあイエスのうちにきて、受取りなさい。あなたのカードはありますか?」と言うでしょう。どのようにそのカードを私達は得たのでしょうか?それはイエスの御名です。私達にはイエスの御名があります。私達は信仰があります。そこで私達は、癒しの為に信仰は必要だろうかと考えるでしょう。私達はイエスのうちに入る為には信仰が必要でした。しかし、イエスのうちにいるなら、その中にあるものを得る為には信仰は必要でしょうか?いいえ、必要ありません。何故でしょうか?何故なら、イエスのうちにある全てのものは、イエスと共にあるからです。
車を買ったときに、トランスミッションも一緒についてくるという信仰はありましたか?いいえ、必要なかったでしょう。トランスミッションは車に本来付いているものです。もし付いていなかったら、他のディーラーから車を買うべきです。分かりますか?私達はイエスと共に癒しを受取りました。癒しは私達が得ようとするものではありません。癒しを得ようとするのは世の人々です。彼らが癒しを得る為には信仰が必要です。何故なら、彼らには癒される権利はないからです。私達には癒しの為に信仰を持つ必要ありません。私達は癒される権利があります。イエスは私達にとって全てです。もし神が私達にイエスを与えたのなら、どうして神は私達に全てを与えない事があるでしょう(ローマ8:32)。神は私達に命と敬虔に関する全ての事を与えてくれました(IIペテロ1:3)。癒しは命に関する事ではありませんか?もし私達が病気で癒されなかったら、死にませんか?ですから、癒しは命に関する事です。私達は命を持っています。あとはその命を受け取るだけです。問題は次のようなものです。
イエスは、私達に彼を信じる者は命を得るという遺言を残しました。彼は死んで、今は肉を離れて霊です。問題は敵である悪魔は、まるで遺言など無かったかのように思わせる為に人々を欺きます。そして、人々はその悪魔の欺きを信じてしまっています。彼らは、「悪魔は嘘つきです。聖書にイエスを信じる者は命を受けると書いてあります。イエスキリストの命は私のものです。私はそれを受取ります」となかなか言いません。これが、私達が癒しを得る為には信仰が必要ない理由です。イエスのうちに入る為に信仰が必要です。イエスのうちに入れば、癒しはイエスの一部分として受取る事ができます。私達は自国の国籍を受取る事には信仰などいりません。一度国民となれば、国民に与えられる全てのものを受取ります。しかし、時には私達は自分のものを勝ち取る為に立ち上がって闘う必要があります。
1863年、一人の男が立ち上がって、奴隷解放宣言を掲げました。これに関しては多少誤解されている事もあるので、よく聞いて下さい。彼が立ち上がった時に彼は、「私は全ての奴隷を自由にします」とは言いませんでした。彼は、「私は交戦相手である南のマディソンディクソン区にいる奴隷を自由にする」と言いました。もし歴史を勉強するなら彼は北の奴隷を解放しなかった事が分かります。後になって、それは行われました。次の事について考えてみて下さい。彼は奴隷を自由にしました。南部はその当時は独立した別の国でした。英国やフランスはそれを認めていましたが、アメリカ合衆国の大統領であるアブラハム・リンカーンは、南部にいる全ての奴隷は自由だと言いました。それは例えば、アメリカの大統領が英国の全ての国民に対して今年は税金を払わなくてもいいですよと言うようなものです。国民はと喜びますが、英国政府は「やってみろ」と言うような感じでしょう。何故なら、英国政府はアメリカに、「お前にはその様な事をする権威はない」と言うからです。考えてみて下さい。リンカーンは彼に属していない奴隷も自由にしました。彼は奴隷達に対して権威は持っていませんでした。そうですよね?彼が奴隷解放宣言を出した瞬間にアメリカ合衆国政府によると奴隷は自由となりました。しかし、南北戦争はその後も2年続きました。奴隷解放宣言は1863年に制定されましたが、全ての奴隷達が、自分達が自由である事が実現するまでには、その奴隷解放宣言が掲げられてから、およそ100年かかりました。その理由は、彼らが奴隷制度に我慢してきたからです。そして、人々は、「もう、うんざりです。私達は全ての人に保障されて彼らの持っているのと同じ権利を持ちます。その権利の為に闘います」と言いました。そうですよね?そして彼らは行進し始めました。
マーチン・ルーサーJrは、ガンジーの非暴力の原則に従って抵抗運動を行いました。彼らは自由を得る為には立ち上がって、声を張り上げなければなりませんでした。これが問題です。イエスは2000年以上も前に癒しを私達にもたらしました。しかし、私達が我慢している限りは、私達は病気につながれて奴隷となります。私達はある時点で、「よし、この奴隷のような事は今日で終わりです。私は自由です。癒しは私のものです。悪魔は嘘つきです。そして病気は私の身体に留まる事はできません。身体よ、御言葉と一致しなさい」と決心する必要があります。
「どの様にして、私達は癒され、そしてそれを保つ事ができますか?」とよく質問されます。まず、私自身がいつも癒されている事を信じる事によってです。私が信じる事は問題が寄って来る事を妨げます。もし、何か敵からの攻撃を感じられたら、私は散歩に出かけます。そして少しの間歩いて、帰って来る頃までにはその兆候はなくなっています。それらのものが私の身体に45分以上も留まる事はありません。その理由は、私はそれらのものが私のうちに穴を掘るのを許さないからです。
私は何かおかしく感じたら、即座に歩きに出て行きます、特に、攻撃が私の家族などに対してなら、なおさらです。そして、私は言います。「おい、サタン。お前が1分間でも長く私の身体に留まる間に、私は5人の病人を見つけて彼らを癒してやる。だから、何人の人達が癒されて欲しいんだ?」私はその様に敵に言います。そして、敵はそれから学びました。ある人は、「そんな事何処で学んだのですか?」と訊きます。第2次世界大戦からです。フランスの抵抗派がナチスの大佐一人か誰かを殺すたびに、ナチスは、500人の農民を集めて、仕返しの為に、彼らを射殺しました。1人の為に500人です。悪魔がその様なシステムを考え出したので、悪魔自身がそれを良く知っていると私は考えました。ですから、私は悪魔に向かって言いました。「私の子に手を出したな。それなら見ていろ。私はお前の子供達を5人叩いて、病人を自由にしてやる。これならどうだ?そして、お前がいなくなるまでそれを続けよう。」
最初は、私達は自分達が本気だと悪魔に証明する必要があります。そうし始めると、悪魔が私達を見て、信じ始めます。しかし、その為には、私達はそれを証明する意志がなければいけません。それが問題です。大半のアメリカ人は戦う意志、立ち上がる意志がありません。彼らはただ寝転がって、何でも起こる事を許して言います。「これは神の御心に違いない。」そうではありません。神の御心は聖書のうちにあります。神の御心は私達の自由です。神は全ての虐げられている人達の味方です。
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