2023年9月29日金曜日

New Man セッション17

セッション17


さて、前に戻りましょう。マタイによる福音書7章から再開します。9節まで読みましたが、もう一度読みます。マタイ 7:9-11「あなた方の内の誰が、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。この様に、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っているのです。それならなおの事、天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えて下さらない事があるでしょうか。」12節、「ですから、人からしてもらいたい事は何でも…」この言葉がどれほど広範な意味を持つか、お分かりでしょうか。「何でも」とはとても広範囲です。マタイ 7:12「ですから、人からしてもらいたい事は何でも、あなた方も同じ様に人にしなさい。これが律法と預言者です。」イエスが何を言っているか気づいていますか?イエスは、「彼らはユダヤ教の信仰において従わなければならない613の掟を細部にわたって作り上げまとめたのです」と言いました。ところがここでは、「これらの事、つまり、人からしてもらいたい事を他人にすれば、律法と預言者を全うする」とイエスは言っています。イエスが人々に伝えようとしたのは、自分にして欲しいと思う事を他人にもする事でした。私が子供の頃、これは「黄金律」と呼ばれていました。私たちはそれに慣れすぎている為、守るべき良いルールの事だと分かっていても、あまり高く評価しません。イエスはこれを基準にしています。イエスは様々な教えをしました。裁かれないように、人を裁くな。もしあなたが裁くなら、どうなるかなど。しかしイエスが言われたのは、「要約すると、あなたがすべき事は、次の事を覚えておく事です。自分にして欲しい事を人にもする。そうすれば、神の御心のままに生きる事になります」というものでした。とても単純ですね?こうしなければならない、ああしなければならない、こうするのが正しい、ああするのが正しいという考えを頭から捨てて下さい。違います。もし皆さんがただ自分の人生を生き、自分にされたいように人にするなら、常に神の意志の中にいる事になります。どんな反響や影響があるか、皆さんは気づいているかどうか分かりませんが... まず、イエスがパリサイ人にどのように対処したかを思い出して下さい。イエスは彼らを偽善者と呼びました。偽善者とは、演技する人たちです。イエスは人々に、彼らが言う事を行うように、でも、彼らのする事はしないようにと言いました。何故なら、彼らは自分たちが教える事をしないからです。その理由は、彼らが偽善者だからです。彼らは人に命令はするが、実行はしません。イエスは、彼らの言う事は正しいから、彼らの言う通りにしなさいと言いましたが、彼ら自身は実行しないので、彼らの真似をしてはいけないと言いました。彼らはただ人に言うだけなのです。


皆さんに聞きますが、イエスは偽善者でしたか?もちろん、そうではないです。「人からしてもらいたい事は何でも、あなた方も同じ様に人にしなさい」という言葉は命令ではありませんか?イエスは人々にそうするように言っています。このように生きなさいと言っていますよね?ではまた質問します。イエスは偽善者でしたか?偽善者とは、自分がやらない事を人にやるように命令する人でした。イエスが偽善者ではなかったとしたら、そして、他人にしてもらいたい事を他の人にしなさいと命令したという事は、イエスはその命令の通りに生きていたという事です。イエスは偽善者ではありませんでしたから。という事は、イエスは善を行い、悪魔に虐げられている全ての人を癒したという事です。何故なら、もしイエスがそのような状況にあったなら、それがイエスご自身の為にして欲しかった事だからです。私がしようとしている事は、イエスがご自分で説いたのと同じように生きた事を、皆さんに知ってもらいたいという事です。イエスの説教は、ご自身の歩みと異なるものではありませんでした。イエスは偽善者ではなかったので、そのような事はできませんでした。人々は言います。「イエスはただ、父の言われた事を言い、父のなさった事をしたのです。」誰もがそう言い、その二つが別のものであるかのようにしますが、それは同じ事です。イエスは御父がなさった事をどうご覧になったのでしょう?イエスが言ったように、「人からしてもらいたいと望む事は何でも、人にする」という事です。イエスは、「何故なら、もし御父がここにおられたら、それが父がなさる事だからです。もし私の父がここにいたら、父がそうしているのを見るでしょう」と言ったのです。聖書は、「善を行う事を知っていながらそれを行わない者にとって、それは罪である」と言っています。もし善を行う力が手にあるのに、それを行わないなら、それは罪だと書いてあるのです。そうですよね?ですから私たちは気づかなければ...私たちは小さな事にこだわり、その小さな事を大きなものに作り上げてきました。ところが、実際はとても単純な事なのです。前にも私が教えたように、最も偉大な信仰とは、最も広範で漠然とした約束を具体的な状況に適用できる事です。それが最も難しい事だからです。もしイエスが、「いいですか。毎週土曜日の午後三時半に、病人に手を置けば癒される」と言ったとしたら、全く難しい事ではありません。それはかなり具体的です。それで、どうするでしょう?人々を並ばせて...おかしな事に、そう決めたとたんに、「それはどのタイムゾーンですか?ああ、エルサレム時間帯にです。では、エルサレムのタイムゾーンで」となるのです。そうしてまた複雑にしてしまいます。土曜日の午後3時30分、手を置けば人が癒される、そのような具体的な約束事を、それを実行するという事ですが、それはほんの少しの信仰だけ必要です。何故なら、とても具体的な命令を受けたからです。


しかし、信仰とは、漠然とした命令を受け入れる事ができる事なのです。次のように言いましょう。おかしな事に、多くの人は、僕がのんびりしすぎていると怒ります。私は演出が足りない、十分に奮起していない、彼らが望むように物事を進めないので、それで彼らは腹を立てます。彼らはもっと私に...しかし、私はこれ以上ないほど真剣なのです。私が生きようとしている一般的なルールは、自分の仕事に真剣に取り組み、自分の召しに真剣に取り組むという事です。ただ、私は真剣になりすぎないという事です。面白いジョークがあれば、それを私に聞かせてくれれば、私も一緒に笑います。良い冗談ならですよ。対象が誰であろうと、面白ければ面白いのです。自分自身を笑う事ができないなら、自己防衛上の問題があなたにはあるのです。この幅広い約束を受け止める事ができなければいけません。マルコ16章は、幅広い約束です。信者が病人に手を置けば、病人は癒されるというものは、幅が広い約束です。厳密には、三つ、四つの具体的なものがあります。まず、信者である事、信者が手を置く事、病人がいる事、そして、病人が癒される事です。これら四つがあります。幅広いのですが、ある種の具体的なものもあります。私が始めた時、これが私たちがやっている事だ、と本当に迫った唯一の聖句でした。今も、それを土台として教えています。しかし同時に、人々は私がいつも手を置かず、言葉で命令するので腹を立てます。私は、食物アレルギーを持ち、特定のものが食べられない人たちを前にして、「あなたは何が食べられないのですか?それが食べられないのか?でも、それを食べて下さい」と言います。彼らは「食べられないって言ったでしょう?」と言いたいようにします。私は、「そう、だから食べてみて下さい」と言います。彼らが食べると、彼らは自由になり、癒されるのです。何故でしょう?彼らは命じた通りにしたからです。私たちは世界中でそうしてきたが、それは殆どつまらないものです。私たちは、「神様、食事に行かせた方が宜しいですか、それとも私たちに手を置いて欲しいのですか?」といった事をする必要はありません。そうすれば結果が出たから、そうすればいい、という感じなのです。人々が来るなら、「どうぞ、そのようにしたら良いです」と言いえば、彼らは何かを言うでしょう。人々は大抵、私に祈って欲しいと尋ねます。私は祈る事をしません。ただ、問題を言えば、私はその問題に対して、出て行けと言うだけです。それは祈りとは呼ばれるものではないですね。アーメン?私の義理の母は長年エホバの証人で、私が妻と出会った時も、彼女はエホバの証人でした。それで私たちはあまり仲が良い方ではありませんでした。今は文字に直して転写するお手伝いをしています。こうして変えられた事は驚く事です。彼女は私が本物かどうか確かめる為に、何年も私たちの生活を見ていたのでした。


私の人生で最も素晴らしい日の一つは、彼女が首に痛みがあると言った日でした。彼女は交通事故に遭っていて、首を安定させる為の装具を着ており、首の問題を抱えていました。私の妻は、「カリー、早く。お母さんの為に祈って。」妻の母は、私がやたら宗教熱心だと思っていて、彼女は自分の為に祈って欲しいなどとは決して言わず、そこにはいつも、私たちが突破できない壁があったのです。レストランの外に出て、食事をして、戻って来て、妻は自分の車に乗り、私は自分の車に乗ったところ、妻は私をひきとめて、「カリー、お母さんはあなたに祈ってもらいたいの」と言いました。私は、「本当に?そう言ったの?彼女の為に祈って欲しいと私に頼んだって?」「そうよ。」「わあ。そうとう酷いんだね。よほどの痛みなんだね(笑)。」それで私は彼女のいる車の近くまで行き、車に座っている彼女に近づいて言いました。「祈って欲しいという事ですか?」彼女は言いました。「ええ、でも、その前に、あなたは以前のあなたとは違うと言ってほしい」私は言いました。「その事については言えますけど、でも既に知っていると思います。見て下さい。この数年の私の人生は...」以前の私はクレイジーでした。それについてお話できます。(笑)その証はもう過ぎ去りました。まあとにかく、私は彼女を見て言いました。「私の人生は...」妻の母は私の浮き沈みを見ていました。彼女は問題など全てを見ていましたが、その後はスムーズに行っているのを見ました。それで彼女は納得したようで、祈ってくれという事になりました。私にとっては大きな出来事でした。義母から祈るように頼まれたら、それは信頼に値するという事です。義母があなたに祈るように頼んだら、あなたが本物だという事です。アーメン?一般的に、他の誰よりもあなたの事をよく知っているからです。さらに素晴らしい事に、義母は私たちと一緒にメッセージの文字起こしを助けています。私たちの出す本の殆どは、彼女の働きがあっての事なのです。


面白い事に、彼女はメッセージを沢山聞いたので、今や私のように説教する事ができるでしょう。義母は、「ほら、ここの所。私はこのようにしたけど、あなたらしくないので、修正する必要があると思うけど」などと言います。彼女はまた、よくこう言います。「あなたの言葉は文字にするのが本当に難しい。文章の半分くらいしか終わらないから。」(笑)実際、私はそうします。分けたり、話が飛んだりします。彼女は、「ここが前半で、後半はどこなのか理解しようとしているのよ。これはこっちに置くけど、あっちに戻さないといけない」などと言います。それで、私の言う事は、文字にするのは難しいそうです。しかし今、彼女は上手くやっていて、メッセージでさえもできるほど成長して、素晴らしいです。ある日、私は彼女が住んでいる町を通りかかりました。私たちがいる場所から北へ約一時間です。彼女とレストランで会って、昼食をとり、本の話をしました。私がそこを出ようとしていましたが、まだ座っている時に、「出て行く前に」と彼女が言いました。彼女は、「医者に行ったら、ここの所が。医者は皮膚がんだと言って、取り除いて方が良いと言ったの。それで、あなたにこれに、一言、言って欲しいの。」 誰もそんな事を私に言いません。みんな、「祈ってくれませんか」と尋ねます。しかし彼女は私のメッセージと神の言葉を知っているので、そう言ったのです。私は彼女に次のように言いたいと思いました。「あなたはもう癒されています。あなたが私に頼んでいる事を信じて、自分でやってみて下さい。あなたは信じています。どのようにして尋ねるか知っているので、自分でできます。」それから私たちは外に出て、帰ろうとしていました。「ちょっと、それに言います」と私が言うと、彼女が腕を伸ばしてきました。私は「イエスの名において、お前は彼女の体から離れろ。ここに留まる事はできない。お前は行かなければならない。全て死滅しろ」と言いました。そして私は帰りました。その時は、私はまだデンバーに住んでいて、彼女はダラスの北に住んでいました。数週間後、私はダラスに戻った時、彼女に会うと、「医者に戻って調べさせたら、がんは無くなっていました。その全てが無くなっていた」と彼女が言いました。神に栄光あれ。


私は以前...数年前、私の腕にシミができて、腕を擦るとピンと刺さったような、まるで破片のような感触がありました。目でも見えました。私は皮膚がんも取り扱った事があったので、「いや、お前はそうする事はできない」と言って、その上に指を乗せて、「イエスの御名において、お前は死滅しろ。私の体から離れろ」と言いました。それだけでした。それから私は仕事をしました。次の朝、起きると...およそ三、四週間だったと思いますが...私は一日中、「おお、神よ。がんを癒して下さい」などとしませんでした。私が考えていたのは、それ(軽く扱う事)だけでした。ただ指をおいて、死滅するように命じて、仕事をしました。翌朝起きると、その後、それが見当たらなかったので、見つける為に探さなければならなかったのです。ただ「イエスの御名によって、死滅しろ」と言っただけでした。それから三、四週間後のある日、私は朝起き上がると、それを探しましたが、ありませんでした。いつ消えたのか分かりませんが、たぶん、前日から今日にかけての一晩でしょう。その事についてずっと考える事はしませんでした。ただそれに言って、出て行くように命じただけです。何度も命じて、神をほめたたえ、神に感謝し、それだけで終わりました。このように、私は自分で問題を解決しました。何故こんな事を言うかというと、大抵の人は「これに言って下さい」と言う代わりに、「祈って下さい」と私に頼むからです。しかし私はそれに言います。何故なら、山が動かされる必要があるからです。聖書のどこにも、病気について神に祈れとは書かれていないし、そのような意味で自分の問題について神に祈れとも書かれていません。癒しの為に祈れともかいてありません。イエスが誰かの為に祈った場所は一つもないのです。主はいつも問題に話かけ、それらに行くように命じられた。イエスは人々に癒しを受けなさいなどと言ったのです。イエスは宗教的なもののようにはしませんでした。もし、クリスチャンに私がそうしたなら...気づいていますか、皆さんの多くは...私の所へ来て祈りを求めます。それは構いませんが、皆さんが「こうして下さい」と言えば、「そうしましょう」と私は言います。しかし気づいていますか?ここへ来て、「カリー兄弟。これに言って下さいませんか?」と言えるのです。私は「何ですか?分かりました。神よ、イエスの御名によって」と言えるのです。全く同じ事なのです。マルコ16章を読むと、信じる者が病人に手を置けば癒される(回復する)とあります。信者が祈れば、とは書いてありません。私たちはそのようにして読んでしまっていますが、信者が病人に手を置けばなのです。


マルコ16章は、信者が未信者にしるしを見せて、福音の現実を彼らが知る為にやるものです。信者が信者に手を置く事ではありません。いやしというしるしは、信者に伴うものです。ここでの病人とは、未信者の事で、神が実在するという現実を見る事ができ、自由になるように、しるしが彼らの為に行われるという事です。それで、マルコ16章は、信者が未信者に手を置いているのであって、信者が信者に手を置いているのではないのです。これを言っている理由は、他の別の事がありますが...時間がないのでそこに行く事はできません。イエスは、マタイ 7:12の箇所で、「ですから、人からしてもらいたい事は何でも、あなた方も同じ様に人にしなさい。これが律法と預言者です」と言いました。それに関係して、次の節では、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです」と言いました。ですから、滅びに至る広い道があり、「命に至る門は狭く、それを見いだす者は少ない」のです。この箇所を読むと、私たちは自動的に、イエスが話していると考えます。私たちは、イエスが御父への唯一の道であり、御父に近づく為にはイエスを信じなければならない事を知っています。そうでしょう?私たちは、イエスが唯一の道であり、イエスは命に至る狭い道である事を知っています。しかし、広い道は破滅に導く道であり、多くの人々がその道を歩むとも書かれています。しかし、命に至る道は狭く、その道を行く者は少ない。そこへ行くと主張する全ての人が、そうではないという事が分かります。そうですよね?マタイ 7:15「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなた方の所に来るが、内側は貪欲な狼です。あなた方は彼らを実によって見分ける事になります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶ事はできず、また、悪い木が良い実を結ぶ事もできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなた方は彼らを実によって見分ける事になるのです。私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行う者が入るのです。」


ローマ書では、イエスを主と呼ぶなら、主とするなら、救われるとあります。しかしイエスは、「主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、御父の御心を行う者だけが入る」と言いました。ですから、ただ救いの為の祈り以上の事があるのです。私たちの問題は...主の御名を呼ぶとは、主の御名を呼び求めるという意味でありますが、それはもっと深い意味があります。インターネットで最近、それについて学びをした所です。私たちは毎週日曜日の朝、教会の礼拝の一環として、アメリカからインターネット放送を行っています。朝の十時から一時間くらいやっています。短いシリーズの、二つのセッションだったと思いますが、やりました。そのタイトルは、信じるとはどういう意味かというものです。人々は、神を信じると言うのですが、意味論のようである事は認めますが、信じる、信じた、信じているという違いがあるのです。時計を今見ると、これこれの時間だと分かります。そして、今、信じると決めます。その一分後、私は先程の時間に、信じましたと言う事ができます。その意味は、ある地点で心を決めたという事です。そうしなかったのなら、信じなかったという事です。信じるとは、決めるという事です。言っている意味が分かりますか?ある時、ジョン・レイクは言いました。「祈って、祈って、祈って、自分自身が不信仰になるまで祈り続ける事ができる。」彼らは祈りの集会を持っていました。祈りのリクエストが沢山あり、その為に祈っていました。そしてジョンは、「さあ、私たちは祈りました。今度は五分持つ事にしましょう。そして、神を信じましょう」と言いました。この精神が分かりますか?祈って、宣言して、それはもう終わったものとして考えるのです。スタンプを押して、終わったとするのです。終わったものとして次に行こう、とするのです。私の言っている事が分かりますか?それは終わったと決心する必要があるのです。もう終わったと決めたら、それが終わったと、信じた事になるのです。そうですよね?信じた後、そこで止まってはいけません。信じるとは、それがなされたとみなし、なされるだろうと信じている事ではありません。これは、信仰の基本的な事です。マルコ 11:22 では、既に得たと信じなさい。そうすれば、その通りになるとあります。既に得たと信じる事と、霊においてそれを所有する事、信仰によって見る事の間には時間のギャップがあります。その部分は、皆さんが嫌いな所です。


誰も好きではありません。私はいつも言います。祈ったら答えを待つように、見るまで、待って下さい。その期間は、「その間」と呼ばれるものです。何故なら、その時、粗野なものがあるからです。それは困難な時で、諦めようと誘惑されたり、後退するように誘惑されるのです。しかし、私たちの考え方に問題があるのです。ヤコブは言いました。「様々な試練にあう時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」以前にも言いましたが、私は誰かが次のように言うのを聞いた事がありません。「カリー兄弟、誘惑にあっている最中です。でも、神に栄光があるように。」そういう事は起こりません。反対に、「ああ、何故これが起きているんだ。カリー兄弟?」私は知りません。喜びと思い始めるまでは、それが続くかもしれません。しかし、喜びとする時、見ていて下さい。それがどのように変化するかを。そして、変わったのは「それ」ではなく、「あなた自身」だった事に気づくでしょう。そして、あなたが変わった時、あなたが信仰に入った時、それは変わるのです。ですから、それはあなたを待っているのです。そうですよね?信仰とは何かという事を考え始めると...私たちは問題を望んではいません。人生が祝福され、素晴らしいものであり、問題を望みません。問題が無い時...どうそれを定義するかによりますが、大抵、信仰を用いるのは問題に対してだけですよね?一般的に、問題の無い事に信仰を使いません。新しい教会堂が必要であるにしても、それはあなたが信仰を適用している問題と言えるのです。しかし私たちは、信仰を用いる事を避けようとするのです。人々は、「その状況について、祈っています」と言います。「祈らなければならないほど悪化しているのですか?」「はい。悪い状況です。」そうするのは、問題であるからです。よく聞いて下さい。もしかしたら、これが皆さんに違う視点を与えてくれるかもしれません。


これが時間だとしたら、これはタイムラインで、これが祈る時、ここが見る時、物理的に現れる時です。それは1分かもしれないし、1週間、1カ月、1年かもしれません。癒しについて言っているのではありません。ただ信仰の適応について、結果を見る事について語っているのです。皆さんは何を望みますか?ここからここへと、できる限り早く到達する事を望んでいます。そうですよね?ビューっとこちらに来たいですね。「イエスの御名によって、アーメン」と言って、結果を見るという事です。そうですよね?このような事が早く起こるほど、信仰に立つ時間が短くなる事を知っていますか。従って、神を喜ばせる時間が少なくなるのです。ここからここまでが、神を喜ばせる唯一の時間だという事を知っていますか。分かりますか?結果を得るまで、信仰はあなたにとって問題です。奮闘であり、敵です。何故なら、あなたはどうして早く起こらないのだろうと考えるからです。何故、自分の信仰は働いていないのか?しかし本当は、「神に栄光あれ。私の信仰は働いており、神を喜ばせる時間がたくさんある」と言っているべきなのです。そうした考え方を持つ時、何かを楽しい事をしていると見えるのです。面白い映画を見て、それが終わりそうな時、「ああ、たったの二時間だ。もっと長いものに仕上げられたのに。終わってしまうなんて」と言うでしょう。或いは、良い本の場合でも。それを読んで、「ああ、読まなけりゃ良かった。そうすればまた初めて読めるのに」という感じのように(笑)。「とても面白くて、終わってしまうのが嫌だ」という感じです。アーメン?


楽しんでいる時は、あっという間に時間が過ぎてしまいますが、問題は楽しんでない時です。ことわざにあるように、「見ている鍋は沸騰しない」のです。それ続く言葉は、「忘れていれば、沸騰する」です。でも、そこに立って待っていたら、時間が掛かるように見えるのです。それと同じで、信仰があなたの問題になっている時、信仰は沸騰させたい鍋のようなものです。そこに立ってただ、「早く、早く、早く、ほら、ほら、急いで、急いで」と言っていて、時間が掛かるようなものなのです。しかし、もしあなたがただ種を蒔き、イエスの御名によってそれを受け取り、そして日常を過ごして行くなら、次に振り返った時、「ああ、もうすぐだ。結果を見始めているんだ。或いは、もう見えているだろいう」となるのです。私の言っている事が分かりますか?私たちはすぐに信仰から抜け出そうとしてしまいます。私たちは信仰に入る方法を探すべきなのです。聞いて下さい。あなたの信仰は常にそこにあるべきです。一つの信仰の企画への答えが得られたら、次のものを探すべきです。他に何を信じる事ができるだろう?何かないか探してみよう、と考えるべきです。「私は何も必要なものはないし、全て順調です。あなたはどうですか?あなたの為に祈ります。自分の信仰を広げたいのです。あなたの為に祈りましょう」というものです。何故かと言えば、私たちが神を喜ばせる唯一の時は、結果を見るまで信仰を植え付ける時だからですが、私たちはその時に入ろうとしないのです。全てを喜びとして下さい。信仰の旅を喜びとしなければならないのです。様々な誘惑に陥っても、それを喜びと思って下さい。どんな誘惑ですか?神を信じない、後退する、信仰を撤回する、止まってしまうなどの誘惑です。「まあ、上手く行っていないのだろう。」「何故、そう思うのですか?」「何も見えなかったからです。」でもそれなら、あなたは決して信じていなかった事になるのです。


マルコ11章に行きます。これを心に刻みましょう。11節です。「こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、全てを見て回った後、既に夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。」12節 「翌日、彼らがベタニアを出た時、イエスは空腹を覚えられた。」イエスはここで、必ずしも信仰の教えを授けようとしていたわけではありません。ただ食事を求めておられました。お腹が空いていたのです。13節「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉の他には何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。」主がそれを知らなかったとでも思いますか?いちじくの実がなる時期を知っていたと思いませんか?見て下さい。イエスがそこへ行って、いちじくの木を見ると、その時期ではなかったので実がありませんでした。そしてイエスは、「言われた」と書いてあります。イエスが言われたのは、この木がイエスに言った事でした。分かりますか?木は明らかに話してはいませんが、イエスに「いいえ」と言っていたのです。イエスがいちじくの実を取りに来ると、その木は「いいえ」と言ったのです。実がなる時期ではなかったというのは本当ですが、イザヤでは、義に歩む者には、野の木も季節の前に実を結ぶとあります。イエスは義のうちに歩まれました。種蒔きと刈り取りについて話すなら、農夫たちは、いちじくを得る為に待たなくてはなりませんでした。何故なら、その時期ではなかったからです。しかし、義であるイエスは、まだ芽が出る時期でもない木に近づいて、いちじくの実がなる事を期待したのでした。それがイエスが考えていた事です。イエスがそこに行かれると、その木は、いちじくの実を与えないと言ったのです。この木は神の言葉に従わなかったので、神はこの木に答えられました。いちじくの木がそんなふうに話すと思うなんて愚かだと言うのですか。ではお尋ねします。アダムが生きていた間、他に誰が地上にいたでしょうか。アダムは大地を豊かにし、それを治め、大地を従わせなければならなかったのでした。アダムは、木やその他のものを従わせなければならなかったのです。では聞きます。動物たちに名前をつけようとした時、神は動物たちを呼んで、自分のそばを歩かせました。そうですよね?アダムは動物に彼らが呼ばれるべき名をつけました。アダムは彼らに名を与えましたが、動物たちは従わなければならなかったのです。


木々が従い、動物たちが従い、地球全体が従うという事が何度も書かれているのを聖書から見る事ができます。全ての被造物が神の子が現れるのをうめきながら待っている事を覚えていますか。何故なら、それらは束縛の中にいるからです。うめいているのです。音を出しているのです。カール・バウ博士は、他の科学者も、ケント・ホビンドも、ある同じ事をしました。彼らは、今は実際に装置を持っていて、野の木々が手をたたくと聖書で書いてあるのを実際に聞く事ができます。レバノンの杉の木が歌っている事も。彼らは全ての木が歌う事を証明しました。全てのものが歌い、全てのものが音を出すのです。テキサスに私の友達がいます。彼はすごい人です。最も控えめな人物の一人です。人を助ける男です。素晴らしい人です。私が彼を知る前、彼は死んで天国に行きました。彼は死んで天国に行き、三分間そこにいました。でも、彼にとって三分間は、一日中だったそうです。しかし、彼は全ての話し、起こっている事の全てについて話す事ができます。木々や草花はみな歌い、神の賛美を歌っていたとの事です。そしてそれらは歌い始め...あまり詳しく言うと、彼の話を本当に台無しにしてしまうかもしれません。でも、私の記憶が正しければ、鳥さえいて、鳥はその小鳥に歌を歌っているのだと彼は話していました。母鳥は子鳥に神の賛美を歌い、子鳥はそれに応えて神に賛美を歌い返しました。花々は神を賛美していました。そこにあるもの全てが......空気そのものが......彼がそう表現したように......まるで水の中を歩いているようでした。扇風機を回せば、皆さんは空気を感じる事ができます。何故なら、空気の流れを作り出すからです。一般にはこちらから空気が入って来ません。ここにある空気が前方の空気を押し出すので、目の前の空気が顔に当たっているのです。それで、空気を押し出すからです。もし私がここに立って、空気を入れて、こうして強く振ったら、気流が皆さんの方に向かってくるのを感じる事ができます。


同じ事が、水だとよく分かります。水中でこうすると、水の流れを作る事ができます。霊の領域とはそういうものです。水の中にいるようなもので、どんな動きも他の何かに影響を与えるのです。空気もそうですけど、私たちはそれをあまり意識してはいません。水は...言い換えると、分子なのです。波は分子と分子がぶつかるだけです。霊の領域ではまさにそうなのです。そこでは、神の力を放つ事を知るなら、言葉によって、見るだけで、或いは、手で放つ事ができます。私は皆さんに手を置いて力を放ち、そこへと力を移したり、後列の人に「イエスの名によって」と言うだけで、文字通り、投げるようにして、力を解放する事もできます。ベニー・ヒンが行った幾つかの例、彼が腕やジャケットを振ると、人々が倒れるというような事など。その幾つかは本物ですが、幾つかはそうではありません。彼を責めてはいけません。腕を振って倒れたとしても、それが本物かどうかは、その人の責任ではないのです。ですから、私は彼の事を責めるつもりはありません。私にとってはどちらであっても、関係ありません。しかし、人が神の力を感じる事ができるような方法で、自分から神の霊を投影する事がき、全員がそれを感じる事ができるか、最後の人だけがそれを感じるかを決める事ができるのです。恐らく、この部分は皆さんに言うべきでもないかもしれませんが。パウロは以前から知っていた幾つかの事柄に基づいて説教しました。以前から知っていた事を、神は彼に示され、パウロは、以前に知っていた事と関連づけ、それを用いて教える事ができたのです。そのような方法で、主は誰にでもなさるのです。伝道師がかつて漁師であったなら、漁の話をするだろうし、漁の例え話を使うでしょう。私は格闘をやっていたので、物事を実証する為に、それに例えて説明する事もあります。私は学んでいた頃の事を覚えています。多くの学びでした。数年も掛かりました。ある男が、1800年代後半から1900年代前半にかけていました。クー・ユー・チョンという中国人です。彼は「鉄の掌」として知られる人でしたが、彼の手は柔らかかったのです。硬い手ではありませんでした。力ではありませんでした。それは中国語で霊や呼吸を意味する「気」と呼ばれるものでした。


ヘブル語の「ルゥア」のようです。ギリシャ語では「ニューマ」で、同じ概念です。違うのは、中国人は神が関与しているという考えがなかった事です。そして、彼らはこのような事に手を出し始め、「気」というものを開発し始めました。彼らは、その特定の方法を「チ・グーム 」と呼んでいます。それは、中国式の気の開発法です。そしてその人は、身長170センチ、体重40キロくらいで、骨と皮でした。彼がデモンストレーションを行った時、彼が服を脱ぐと、肋骨を数える事ができました。筋肉がありませんでした。彼はタイルやレンガを積み上げ、人々にこう言いました。「選びなさい。どれを壊して欲しいか?」彼らは、「それら全てだ」と言います。「簡単な事だ」と彼は言って、彼はそこに立ち、(拳)を落とすのです。すると、全てが壊れたのでした。それからタイルを回収する為に数分かけ、「一つ選べ」と言うのです。彼らは、「13枚のタイルのうち、上から8番目だ。8つ数えて、それだけを壊し、他のものは壊れないように」と言います。彼は「分かった」と言って、軽く叩き、8番目のものを壊します。どうやってでしょう?彼は霊の力を投射する方法を学んだからです。あれは悪霊に強化されたのですかって?そうです、間違いないでしょう。私が格闘をやっていた時は、絶対に悪霊に取り憑かれていましたから。間違いありません。当時、私は今よりもっと小さかったです。当時は、身長163cmとか165cmとかでした。私の最高の体重は 59、60kgがベストでした。64kgまで行った事がありますが、60kgがベストでした。それで、デモンストレーションをしに行きますが、その中で、大きい人、大抵二人の大きな人を私は選びました。テキサスで言うように、フットボール選手のような人を選ぶのです。ここなら、ラグビーでしょうか。私はこれらの男たちを捕まえて、「いいか。私はそこに立つ」と言って、彼らに、「この辺りに全力でパンチをしてみろ。この辺り。ここじゃない。他のどこでもない。ここだ」と言います。二人に同時にパンチさせても、私はそれに耐えられるのです。クランチなどをたくさんやったので、筋肉のおかげもありますが、それ以上に霊的なものでした。そして、一番大きな男を選んで、こう言います。「ここに来て、私を持ち上げて。」 通常、彼らは「はい、これでよし」と言って、私を持ち上げて、そこに降ろします。それから私は、「今度は、30まで数えろ」と言います。そして、彼らが数を数えている間、私は意図的に「根を張る」と呼ばれる事をしました。そうすると動かされないのです。それから、「よし、もう一度持ち上げて」と私は言いました。しかし、私はそこに立っているのです。彼らは、「さっきやったよね。問題ありません」という感じでやろうとします。そして押したり、色々とやりますが、私の肩は上がっても、私の足は地面から離れないのです。何故なら、私は地に根を張ったからです。どんなに大きな男でも、背の高い男でも、強くても関係ありませんでした。私の足を地面から離す事ができなかったのです。何故なら、それは霊の力だったからです。神の霊ではありませんでした。私自身の霊でもありませんでした。私が思った事を達成できたのは、悪霊と連携した私自身の霊だったです。その目的は、私をより霊的に深く引き込む事でした。


神の霊も同じ事をなさいます。誰かに奉仕する時、それはあなたの霊だけではなく、あなたの霊と神の霊が共に働きます。これが神の意志だとあなたが決め、それを達成する為に、あなたが意図する通りに、神の霊とあなたの霊が共に働くのです。その目的は、私を神の霊の中に深く引き込む事にあります。ですから、私たちが神の霊を解放する事について語る時...この話をする理由は、皆さんに気づいて欲しいからです。私は最初に言いました。私たちが教えられてきた宗教的なやり方だけに神を限定するのではなく、もっと大きな視点から神を見て欲しいのです。神は偉大な事ができるという事に気づいて欲しいのです。考えてみて下さい。もし私たちが祈って同意する事ができるなら、もしイエスが百人隊長のしもべに語りかけ、遠くから彼を自由にする事ができるのなら、なぜ手を置く必要があると思うのですか?百人隊長のしもべは新生してもいませんでした。彼らは同じ霊を持っていませんでした。イエスはそのしもべに、「癒されよ」と命じてもすらいなかった事に気づいてますか。「あなたの信じた通りになるように」と言っただけです。「あなたが言った通り、信じた通りになるように」と。イエスはただ同意しただけです。そして、事は終わったのです。そうですよね?その人はその時から癒され始めたのです。マルコ11章で、イエスはいちじくの木にこう言っています。「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように。」弟子たちはこれを聞いていました。これはどういう意味でしょう?周りの人々がイエスの言葉を聞き取れるように、大きな声で言ったという事です。マルコ 11:15「こうして彼らはエルサレムに着いた...」イエスは前日、既に神殿に入っていて、そこから出てきて、戻る途中で、「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように」とその木に告げました。それからイエスは宮の中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されました。


マルコ 11:16-19「また、誰にも、宮を通って物を運ぶ事をお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「『私の家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、お前たちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どの様にしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していた為、彼らはイエスを恐れていたのである。夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。」それで、イエスは都から出たり入ったり、行ったり来たりしているのです。マルコ 11:20「さて、朝早く...」まだ24時間しか経っていないという事ですね。彼らが夕方に出かけた時、弟子たちは誰も何も言いませんでした。都を出て、戻って来る間、誰も何も言っていません。という事は、彼らは恐らく、(いちじくの木に対して)何の変化も感じていなかったという事です。何も変化は見られなかったのです。そうですよね?マルコ 11:20「さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧下さい。あなたが呪われた、いちじくの木が枯れています。」彼らが「呪われた」と言った事に気づいて下さい。イエスは、このいちじくの木に、「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように」と言いました。イエスはこのいちじくの木を呪ってはいません。「いちじくの木、死滅しなさい」とは言っていません。何が起こったか見て下さい。いちじくの木は、根本から死んでしまいました。何故なら、いちじくの木は従わなければならず、いちじくの木が今後、永遠に人がその実を食べられないようにするには、死ぬしかなかったからです。イエスは何をしましたか?主はご自身が望まれる結末を語られたのです。分かりますか?「いちじくの木よ、あなたに根から死滅するようにと命ずる」とは言っていないのです。イエスはただ、「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように」と言ったのです。いちじくの木は「それを確実にする唯一の方法は、死ぬ事だ」と考え、死んでしまったのです。


見て下さい。イエスはこの事を用いて教えます。ペテロは言いました。「あなたが呪ったいちじくの木は枯れています。」マルコ 11:22「イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。」他の人々は、この箇所を取って、「ギリシャ語では、神の信仰を持ちなさいと言っている」と言います。イエスはただ、「神を信じなさい。信じるのです」と言ったのです。信仰は信仰で、ただ何かを信じるという事です。それだけです。イエスは言いました。「神を信じなさい。まことに」...つまり、確かに、絶対に、疑いもなくという意味です。「あなた方に言います。誰でも」...これは大きな発言です。それは、皆さんを含みますか?誰でも「言うなら」...誰でも「望むなら」ではありません。誰でもこの山に向かって言うならです。『立ち上がって、海に入れ』とは、リクエストですか?祈っているのか、それとも命令しているのですか?望んでおられる事を話しているのですか?...『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。」イエスは「あなたの言う事が実現すると信じなさい。何でも言った事を手にします」と言われたのです。必ず実現すると信じなさいという事です。しかし、そこが問題でもあります。人々はこう言います。「私が何か言っても、それが実現しないのは何故ですか。」その理由は、スイッチを入れたり切ったりできると思っているからです。一度だけ命令を口にすれば、後はずっと、従順にあなたに従うと思っているからです。これから私が言う「嘘」とは、嘘をついたり、ごまかしたりするような意味ではありません。しかし例えば、「聖霊、来たれ」という歌を歌ったら、それは嘘だという事を理解していますか?特に、あなたが新生したのならです。生まれ変わっていないなら、それは全く違います。聖霊があなたの所へ来て下さる必要があるからです。しかし、新生したのなら、それはそれはむなしい空言になるのです。何故なら、御霊は既にそれをして下さったからです。そういう意味では、それは嘘になるのです。


おかしなものです。「何を望みますか?教会でもっと神を感じたいですか?」と言われると、「はい、私たちはもっと神を求めます。神を慕い求めます。神が必要です」と人々は言います。そして、「では、神の祝福があるように」と牧師が言って、その礼拝が終わると人々は出て行き、次に教会来るまでは、神について話もしません。教会にいる時は、「神を求めます。鹿がそうするように...」と言います。あなたは嘘をついています。何が欲しいのか、よく考えて下さい。あなたは子供に、「来週の木曜日に遊園地に連れて行くよ」と言えば、「木曜日はまだ?今日行くの?」と子供が話すのを聞くでしょう。何故なら、子供はそれを欲するからです。そのように尋ね続け、その事はその子の考えにあり、そればかりを考えているからです。「そこについたら、最初の乗り物はこれで、それが終わったら...そうだ食べ物、これを食べて、それからそこにいたら...」というように、そればかりを考えるのです。或いは、月曜日の夜に、「今度の土曜日は遊園地に行こう」と子供たちに言ってみて下さい。次の日に子供の部屋に入ると、どんな服を着て行くかの準備が整えられています。「これは何?」と聞くなら、「遊園地に着て行く服だよ」と子供は答えるでしょう。どうしてこうなるかと言うと、この事が彼らの考えにあるからです。人々は普段の生活では一言で済ませるのに、教会に行くと神の力を望み、神の言葉を語ろうとし、望んでいるものを期待しますが、そうではありません。常に神の事を考えている必要があります。私たちは人生を生きる事について話しているのです。イエスはスイッチをオンにしたり、オフにしたりはしませんでした。イエスはいつも信じていたのです。イエスは、信じていない事を、口にしてはいない事に気づいていますか。その事を考えてみて下さい。想像してみて下さい。もし、あなたがそれに従って言葉を並べなければならないとしたら...実際、そうしているべきです。


しかし、そうしなければならないと想像してみて下さい。殆どの人がそう望んでいますが、もし魔法のようなもので、あなたが言った事が全て即座に起こると想像してみて下さい。誰もあなたの町に残っている人はいないでしょう。道で誰かに割り込まれると、あなたは、「あんたのタイヤがパンクするように」と言い、「ボン、ボン」となります。家では、「言っておくけど、これが嫌いなんだ。ただ気分が悪くなるんだ」と言うと、その通りになるのです。分かりますか?もし神があなたの言葉を尊重されるなら...神はサムエルについてそう言われました。サムエルの言葉は一言も地に落ちませんでした。神は彼が求めた全てに答えて下さいましたが、(サムエルのようでない)私たちは神の力を求めているのです。神の力はどのようにして来るのですか?神の力が発揮される一番の方法は、言葉なのです。それが一番の方法です。イエスは言いました。「何を望んでいるのか?」ある人が、「目が見えるようになりたいのです」と言えば、「目が見えるようになりなさい」と答えられました。言葉です。「どうして欲しいのですか?」「主よ、お言葉一つで、そうなります。」「宜しい。あなたが望む通りに、信じる通りになるように。」娘のいた女性に対しては、「子供たちのパンを取り上げて、犬に与えるのはよくない」とイエスは言われました。「はい。しかし、犬でもパンくずは頂きます。」「あなたがそのように言ったので、行きなさい。あなたの娘は解放されます。」言葉です。いちじくの木に対しては、「今後いつまでも、誰もお前の実を食べる事がないように」と言われると、それは死にました。イエスが言った事は全てその通りになりました。言葉は神の力を伝える第一の方法なのです。アーメン?


私たちはこの地球上で唯一、自分の口から出る言葉をコントロールし、指揮する事ができるものです。アーメン?しかし、私たちはただ言葉を投げつけ、何についてもおしゃべりします。その一方で、教会においては、祈って何かが起こるのを見たがるのです。例えば、週に一度ジムに言って、ボディービルのコンテストに参加できると考える事はありません。分かりますか?実際にエクササイズしなければならないのです。ジムに行って、そこで立って、プロテインバーを食べたり、ジュースを飲んだりするだけではありません。それから家に帰って、座ってテレビを見るなら、殆どの運動は親指だけです。座ってポップコーンを食べたり、テレビの前に座ってアイスクリームを食べたりしておいて、「二ヶ月以内に、ボディービルのチャンピオンになるんだ」と言う事はできないのです。そのようにはならないのです。目標の為の生き方が必要です。アーメン?ボディービルダーや優勝者を見て下さい。彼らは、世界一うっとうしい連中です。何故なら、一緒に食べに行くと、「ここでは食べられない。」「どうして?」「これこれがないから。」「問題ないよ。一度だけなら。」「いいえ。」私の娘がグルテンフリー、乳製品フリーなどの...私にしてみれば、食事フリーですが(笑)。どこか食べに行った時、「ここにしよう」と私が言うと、「ここでは食べれない」と娘が言うのです。「じゃあ、お腹空かしていなさい。私はここで食べるから。」しかし、彼女は規律正しくしていました。私が言いたい事はそれです。誰かに律法主義を押し付ける事について話しているのではありません。しかし、鍛錬される事は価値ある事なのです。ですから私は、嬉しいという意味の表現を「死ぬほどくすぐったい」で表そうとはしません。それは嘘です。くすぐる事で死ぬ事はありません。私はくすぐって死んだ人を知りません。私がその最初の人になるつもりはないです。私は死ぬほど驚きません。死ぬほど行きたいのでもありません。ですから、そうした事を私から聞く事はないでしょう。理由は、私の口から出た事は実現すると信じているからです。皆さんは、私の口から出た事は必ず実現すると信じているので、祈りの為に私の所へ来るのです。


私がやろうとしているのは、皆さんの口から出た事が実現すると信じられるようにする事なのです。そうすると何が起きるか分かりますか?皆さんは、「カリー兄弟。この事について同意してもらえませんか」と言って私の所へ来ます。私は、「同意します」と言うと、私たちは合意の祈りをします。何事に関しても、二人が合意すれば、それはなされる、という事です。それがどんなに強力が知っていますか?イエスは、そうの通りになると言われました。もし、たぶん、知る由もない、という事ではありません。ですから、夫婦は...神の為の発電所であるべきです。二人が一つですから。目標、大志、望みが一つです。二人は、同じ方向へ向かっているべきです。一緒になって何かに合意する時はいつも、二人が一つになって合意しているのです。同意して祈るべきです。そうすると事が起こります。同意するだけで。同意の祈り、話し言葉など、それらの一つを取って、焦点を当て、心に刻み、のめり込むなら。つまり、黙想して、学んで、御言葉から掘って、言葉にし、宣言し、その通りに歩み、夢中になるなら、比較的短い間で...それらの一つを、どれか一つを始めると、それはあなたの為に働き始めるでしょう。こうして自分で自分を鍛錬するという事です。神はそれを尊重して下さいます。「全ては賜物であるべきだ」と言う人もいます。しかし賜物とは、主の中に入る事、賜物とは、病人に手を置く事ができる事です。それは全て、神が恵みによって与えて下さったという意味で賜物なのです。聖書では、「敬虔の為に自分自身を鍛錬しなさい」と明確に言っています。それは賜物について言ってはいません。「自分を律しなさい、若い時の情欲を避けなさい、これらのものから離れなさい、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てなさい。」恵みを誇張して、間違って考えている人々がいます。それは別の溝です。神の恵みではありますが、その恵みによって、私たちはこれらの事ができるのです。人間としてこれらの事をするのではありません。こういう事ができるのは、恵みによるのです。何故なら、神の恵みが私たちにそうさせて下さるからです。何故なら、私たちは神の中にいるからです。それが神の恵みです。私たちは病人に手を置く事ができますが、世の中の人たちは、こんな事はできません。彼らは医者の所へ行かなければならないし、切ったり、薬や注射を打ったりしなければならないのです。病人に手を置いて回復するのを見るという神の恵みを得られないのです。こうした事に上手くなりたければ、練習するのです。


人々は言います。「癒しの練習をする必要はないと思う。」しかし医者は練習します。彼らはそう呼ばれていませんか?「一般に練習する人(通常の英語は一般開業医の意味)」と?(笑)それは練習です。これは医療練習(通常は医療行為の意味)であり、皆さんはその練習を受けているのです。(笑)ですから、年寄りの医者がいいのです。多くの練習をしたのですから。アーメン?最初のモルモットではないからです。いやむしろ、真ん中くらいの練習をしてきた人が良いでしょう。若い医者は何も知らないので、いりません。若い医者はあなたに対して練習します。真ん中くらいの経験を持った医者良いでしょう。十分な経験を持ちながら、再挑戦もできるくらい若い、と言われるからです。そういう医者が必要なのです。分かりましたか?自分が実現させたい事だけを口にするように、自分を鍛錬しなければなりません。これが聖書なのです。

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