セッション7
おはようございます。早々にマニュアルの内容に入って行きたいのですが、昨日答えようと思っていた質問が二つほどあります。一つの質問はこうです。私は以前、イエスが常に親切で穏やかで、いわば一度も平静を失われた事がないとお話しましたが、質問にはこうあります。「主は十字架に架かる前に、園で血の汗を流し、動揺されました。平静ではありませんでした(ルカ22:44)。」確かにそうですね。そしてこう書いてあります。「どうか説明して下さい。」良い指摘です。大まかに、イエスが動揺された時が二度あります。他にも感情を見せられた時があったのですが、病人を癒された時、主は憐れみからそうされました。憐れみは感情も含まれています。憐れみは、人を行動に駆り立てます。ですから私も、特に子どもたちを見て、彼らが置かれている状況を見て、胸が一杯になる時がありました。どんな犠牲がかかろうと、その状況を正したいと思ったものです。イエスもそれと同じように、憐れみの心に突き動かされておられたのです。
さて、二度という事ですが、一度目は園においてでした。昨日、平静を失わない事についてお話したのを覚えておられると思いますが、それは信仰という領域に関係しています。主は、ご自分の信仰が成果を生まないのではないかと心配してはおられませんでした。「望んだ通りの結果が見られないのでは」などと心配された事は一度もありません。むしろ常に、望み通りの結果になると確信しておられました。園で主が見せられたのは、全く異なった種類の感情です(それを感情と呼べるならの話ですが)。 園での本質的な問題は、信仰ではなかったからです。重要なのは、ご自分がそのような死に方をする事を、主がご存じであられたという点です。主はそれがご自分の最期になるとご存じだったのであり、そして実際に血の汗を流された事は、キリストの受難(パッション)として知られているものの一部です。その血は私たちが贖罪によって受ける事を免れた、感情的また精神的苦悩の一部だったのであり、私たちの癒しは単に、鞭打ち刑の杭で始まったのでもなければ、十字架において始まったのでもありません。その始まりは園だったのです。そして、その園で流された血によって、私達が自制心のある思考を持ち、鋭い思考を持ち、キリストの思考、神の平安を持つ事ができるように解放してくれました。
私達が平安を持つ事ができる理由は、イエスが園で苦しまれたからなのです。だから、園での出来事が聖書に記述されているのです。それはただの普通の出来事ではありませんでした。それは、「イエスが私たちの為に体験された受難の一部」として書かれているのです。彼は自分の信仰が失敗するとは恐れてはいませんでした。主が二度目に、異なった感情(そう呼んでも差し支えなければ)を見せられたのは、ラザロの墓におられた時であり、そこには主が霊の憤りを感じられたとあります(ヨハネ11:33-38)。ギリシャ語で読むと、戦いを前にした軍馬のように息巻いている様子を表す意味なのです。
さて、その出来事は、先ほどお話した燃え立つ事についての話にも関係があります。それこそまさに、その時主がされていた事なのです。主は自らを奮い立たせておられました。これまでに戦いに出て行く軍馬を映画や絵画で見た事があるなら、心に浮かぶのはきっと、映画「グラデュエーター」の冒頭のような光景でしょう。彼らは英国の北部で、西ゴート族と戦おうとしており、気候は寒く、馬の吐息が見えるほどです。それがどのように造られているかは、実に驚異的です。馬さえもが、いかにも戦いに出て行く直前のように見え、周りにカメラマンや色々なスタッフやエキストラといった人々が立っている事を考えると、それは驚くべき事だからです。ですから、彼らがそのように見せる事ができるという事実は、かなり驚異的です。しかし、軍馬が奮起しているという事と、実際に戦いに臨む準備ができている事は異なります。
それに対して、イエスが常に平静を保っておられた時、それはある意味、「自分の信仰は成果を生むだろうか?」という疑問を、一切抱かれなかったという事です。主がそのような疑問を抱かれた事すら、一度としてありませんでした。主は信仰を用いられましたが、ご自分の信仰について語られた事は一度もありませんでした。「そうだな、私に十分な信仰があればいいのだが」とか、「もちろん私には十分な信仰がある」などとは、一度も言われませんでした。そのような見方すらされなかったのです。主の信仰は神にありました。主が焦点を置いていたのは、ご自分の信仰ではありません。神に焦点を置く時、信仰となるのです。焦点が自分の信仰に置かれている時には、信仰の内にはいないという事です。神に焦点を置く時、皆さんは信仰の内にいるのです。その時、神が望んでおられるのと同じ様に、自分も問題の解決を望んでいるので、自分の望み通りに問題が解決すると分かるのです。お分かりでしょうか?
二番目はこんな質問です。「もし自分がキリストにあって何者であるかが分かっており、そのような生き方をしているなら、それによって自分の家族は保護を受け、守られるでしょうか?」はい、そうなるでしょう。ある意味、自然とそうなるでしょうが、自動的なものではありません。矛盾した言い方ですね。どういう事かというと、自分が何者であるかを知っていて、そのように生きている人は、家族が守られる事を期待するので、その通りになるのです。正直な話、「期待」は最も崇高な形態の信仰です。最も崇高な形態の信仰を見たいなら、それは期待に他なりません。人は大抵の場合、何かを期待しているなら、それが起こった時に驚きません。そうでしょう?驚いたとしたら、その人の信仰ではなく、他の誰かの信仰によってそれが起こった事になります。信仰は求めたものを得た時に、決して驚かないからです。そして大抵の人は、癒しが起こると非常に興奮します。それは確かに良い事です。明らかに神に栄光を帰す行為なのですが、何かの事で興奮し喜ぶのは良いとしても、それに驚いてはいけません。驚くなら、信仰の内にいなかった証拠です。神がそれをされた方法に驚く事はあるかもしれませんが、それが起こったという事実に驚くべきではないのです。
人々が「わあ、あれを見たかい? あんな事が起こるなんて!」などと言う時に、そうなると信じ、それが起こると期待していた皆さんは、このように言います。「ああ、そうだね。」すると相手は時々、「どうした?平然として。」「いや、興奮しているよ。嬉しいさ。だが、そうなると期待していたんだ。それは私にとって、既に起こったも同然だった。」ですから、奇跡が起こる時、私は驚きません。それは偶発的に起こったわけではないからです。お分かりでしょうか?私が信じたから、そうなったのです。ですから、私が興奮するのは、それが起こるのを見た時ではなく、そうなると信じた時なのです。お分かりでしょうか?私たちは、これとこれについて話すつもりでした。そうでしたね。「昼食後に話すと言われていたあの件はどうなったのですか?(笑)」私たちはあの時、格闘技における一つの防御の型、といった事について話していましたから。さて、しかし覚えておられるでしょうか、私は確かにそのテーマについて話したのであり、それは「一つの事」についての話でした。そして先ほどもお話したように、「一つの事」と言っても、実際は幾つかあるのです。
基礎となる「一つの事」は、この御言葉です。これが肝心なのです。妹が自分を助けないと言って、マルタが腹を立てていたのは、これが原因でした。そこでイエスは言われました。「いや、あなたの妹は大切な一つの事を選んだのであり、それは彼女から取り上げてはならないものだ(ルカ10:41-42)。」妹は何をしていたのでしょう?イエスの足元に座って、その教えに耳を傾けていたのです。ですから、その一つの事とは、常に神の御言葉なのです。万事が常にそこに帰結します。それが最重要事項なのです。そして、皆さんにお話しした二番目の「一つの事」は、イエスの御名です。それこそが、必殺技である事を覚えていましょう。それは機械的に起こる事ではないので、ある意味、技(わざ)ではありません。むしろ、万事を順調に運ぶ為の方法と呼ぶべきでしょう。そして言っておきたいのですが、私たちはこの教材で皆さんに教えているものの、もしいつか自分でも個人的に学びたいと考えているなら、(そしてこのテーマに関してそのような学習をしてきた人たちも数人いますが)あそこにそれに関する本が何冊か置いてあります。しかし、本を読むのは常に良いものですが、その一方で、聖書に没頭してそれを自分で学習する方がもっと良いのです。そうでしょう?
皆さんが掘り出す金(きん)は皆さんのものです。それは人からのものではなく、直接受けた啓示となります。大抵の場合、人々が死ぬのは、人から聞いた啓示によって生きようとするからです。病気や疾患で亡くなる人々は、その殆どが神を信じ、癒しを信じていて、こんな風に言います。「ああ、神は癒される。神が癒されると知っている。そしてその打たれた傷によって、私は癒された。」もし彼らが死ぬなら、それは通常、彼らが自らそこに踏み込んで、この御言葉を自分で掘り出すのではなく、常に他の誰かの証しの言葉を信仰の拠り所としていたからです。殆ど常にそうです。
さて、私が皆さんに学習するよう勧めている一つの事とは、イエスの御名です。それについて詳しく調べるべきです。詩篇や箴言でもいいでしょう。そこには良い名前の価値について書かれているからです。また、名前にどんな意義や価値があるのかについても書かれています。それから、イエスの御名の背後に何があるのかについても、じっくり読んで下さい。ヒントをあげましょう。それは神の御国全体です。一言で言えばそういう事なのです。御言葉が皆さんにとって現実となるのは、その情報を知っているからではなく、皆さんがそれを調べ、掘り出す時にそうなるのです。その作業が終わると、皆さんは言うでしょう。「その御名の背後には、神の御国全体がある。」最初にその事をお話ししました。覚えておられるでしょうか?しかし、今や皆さんはそれを知っています。単に人から聞いたのではなく、今ではもうそれを知っているのです。ですから、重要なのは調べ上げて、掘り出す事です。それが主要な一つの事です。
御国で影響を及ぼす存在になりたいなら、一つの事に集中しなければならないのです。主は言われました。「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」人々は、どうして光が暗くなり得るだろうか、と言います。そうですね、量子物理を学ぶといいでしょう。量子物理学者たちは、暗い物体や暗い光について語った最初の人々だからです。そしてイエスは二千年前に、それについてご存知でした。そのように言うと、人々は私たちが聖書を信じているせいで、考え方が遅れていると言います。いいえ、私たちは彼らよりも進んでいるのです。私たちは科学者たちよりも、二千年先を行っています。そして彼らはいつの日か、私たちに追いつくでしょう。この現世か来世のどちらにおいてかは分かりませんが。聖書は科学的な書物です。それは再度にわたって科学を実証しています。そして大抵の場合、自らを科学と称する、聖書に反対する全ての事柄は、最終的に誤りであると証明されるのです。人々は科学と聖書を混ぜ合わせる事はできないと言いますが、それは嘘です。歴史上で最も偉大な科学者の中には、信仰の人であった人たちが大勢います。彼らは神を信じ、聖書の真理を追い求めました。そしてその真理を見いだし、それによって科学を探求するよう駆り立てられたのです。
さて、また「一つの事」に話を戻しましょう。人は一つの物事に集中しなければならないからです。皆さんの目は一点を見つめていなければなりません。イエスがエルサレムに行こうとされていた時の記述において、その事が強調されています。エルサレム行きを取りやめたりはされませんでした。一つには、イエスはご自分が崖から突き落とされて命を落とす事はないとご存知でした。何故知っておられたのか、ですって? 主が読み上げられた旧約聖書のどこにも、メシヤがそのような死に方をすると書かれた聖句はなかったからです。けれども、その御体を貫かれると記された詩篇22篇を事前に読まれていた主は、ご自分が贖罪の捧げ物として、世の罪の為に命を失う事をご存じでした。主は大祭司によって、引き渡されねばなりませんでした。これら全ては、主の死がいわば「成立」される為に、起こらなければならなかったのです。ですから主は、大勢の地元住民がご自分を会堂から引きずり出して、崖から突き落とそうとしていた時、彼らと一緒に歩いても差し支えない事を知っておられました。そのような死に方をしない事をご存じだったのです。そうなったら、物事が然るべく展開しません。ですから主は、まったき平安の内におられました。私がその場面を描写する際に引き合いに出し、思い浮かべる光景とは、アブラハムが今にもイサクを犠牲に捧げようとしていた時の場面です。彼らは主を外に引きずり出して、崖下に放り投げようとしました。主を突き落として殺そうとしていたのです。主はただ彼らと共に歩いておられました。そのお心にまったき平安を宿しておられた事は確かですが、恐らくはそれを口に出すなら、こんな風に言われていたのではないでしょうか。「本当にそれをするつもりなのか?本気で私を崖から突き落とすつもりか?それほど私の言った事に反対しているのか?」そして主は、崖っぷちまで行かれたわけですが、聖句を読むと、そこにはこう書いてあります。「しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」まるで、「いいだろう、ならば私にも考えがある」とでも言うかのように。
それはまるで、ナイフを振り上げたアブラハムに、神がこう言われた時のようです。「やめなさい。今あなたが私を恐れ、私を信じている事が分かった。」神は、ぎりぎりの瞬間まで待たれたのであり、恐らくはイエスも待っておられたのだと思います。イエスは明らかに、説かれたメッセージゆえにご自分を殺そうとしている人々の過ちを指摘し、彼らに自責の念を与えようとしておられました。そこで大人しく崖っぷちまで引っ張られて行き、それからこのように言われたのだと思います。「本当にそうするつもりなのか? やめなさい。気にする事はない。私は今日、このような方法で死ぬ事はないのだから。私が死ぬのは今日ではない。ここでは死なないのだ。」そしてただ、彼らの真ん中を抜けて歩き去って行かれたのです。さて、皆さんは自分の頭の中で、はっきりさせておかなければなりません。自分がどのように死ぬか神に尋ねて下さい。そうすれば、神は答えて下さるでしょう。きっとそうして下さいます。教えて下さるでしょう。皆さんが知りたいと心から願い、真剣に知りたいと思っているなら、神は皆さんがどのような死に方をするか、教えて下さるでしょう。いつ死ぬかは教えて下さらないかもしれませんが、どのようにしてかは教えて下さるはずです。神はそれを教えて下さいます。求めるなら、そして本当に知りたがっているなら、教えて下さるからです。まあ、殆どの人は知りたがりませんが。それをサプライズにしてもらいたがるのです(笑)。
しかし明らかに、自分がどのように死ぬかを選ぶ事ができます。聖書には、ヘブル全体を通じて信者たち、つまり神の人たちの事が書かれており、そこには、彼らが釈放される事を願わなかったとあります。つまり、彼らは殺されるはずであった時に、釈放しようとの申し出に対して、こう答えたのです。「いえ、結構です。このまま死にます。」ヘブル書を読んで下さい。ヘブル11章に、まさにそう書かれています。彼らは釈放される事を願わず、そして人は申し出を受ける事なしに、それを断る事はできません。そうでしょう? ですから、彼らは救い出される事を放棄する道を選んだのであり、そこには、「さらにすぐれた蘇りを得る為に」と書かれています。それは一つの選択でした。彼らがヘブル11章に名を連ねているのは、それが理由です。その選択をしたがゆえに、そこに彼らの名前があるのです。「いいえ、私たちはこのまま殉教者として死にます。そうすれば、さらにすぐれた蘇りがありますから。」これこそが信仰です。そうではありませんか?しかし実をいうと、皆さんの言う家族共々守られるという話は、紛れもない真実なのです。南北戦争時代のアメリカで、ある司令官がいました。今日においてさえも、殆どの軍事学校で、教官たちは彼が1861年から1863年にかけて用いた戦略を教えています。そしてそれは極めて秀逸なのです。彼は良い司令官だったからです。彼の事を、恐らく史上最高の軍事司令官であると考えている人たちもいます。彼の名前はトーマス・ジョナサン・ストーンウォール・ジャクソンです。ストーンウォールというニックネームでした。そして彼の最も際立った点とは、南北を合わせた、当時の米軍の司令官全員の内で、最も偉大な信仰の人だったという事です。本当に驚異的でした。彼の話や彼の伝記や、彼が自分の妻に宛てて書いた手紙を読んで見て下さい。全てが神についてなのです。そして彼は、日曜に戦闘を戦う事を拒みさえしました。それが主の日であると信じていたからです。日曜は戦う日ではないと。切迫した状況なら戦うが、日曜に戦う場合は、戦闘を終わらせる程度にしか戦わないと言ったのです。敵軍が退却したら、越境の罪に問われずに済むよう、後を追ったり探し回ったりせず、できるだけ早く戦いを終わらせると。それが彼の信条でした。
彼の「Stonewall(石壁)」というニックネームの由来の話があります。彼は戦闘の只中で馬上に座し、周囲では砲弾が炸裂し、兵士がばたばたと倒れていたのですが、その中で正規の軍服に身を包み、その等級や司令官である事が誰の目にも明らかだった為、格好の攻撃目標になっていました。ある時などは片手を挙げて、脇に退くようにとの合図を軍に送りさえし、その際に手を撃たれてしまいました。すると、彼はただ自分の手を掴んで、ぐっと握りしめ、手袋を上下逆さまに付け替えて、血が軍服に流れ出さないようにしました。しかし、人々は彼に尋ねました。彼は全ての戦いにおいて、一度としてたじろいだ事がなかったので、「何故あなたは戦闘中にそれほども平静を保っていられるのですか?」と。すると彼は答えました。「神への信仰によって、私には分かっている。神の御心の内に留まっている限り、たとえ戦場にあっても、家で床に就いている時と同様に安全であると。」考えてみて下さい。過去の文書を調べて、彼の話を読むなら、実に驚かされます。もっと色々な話があるのですから。あまり深く入り込みたくはありませんが。皆さんはここに、南北戦争の歴史の勉強をしに来たわけではありませんからね。けれども、彼の神への信仰と、その信仰によってどんな事が起こったかは、本当に驚異的なのです。
それから、もう一つの質問、こう書かれています。「ヘブル6:1-4には、初歩の基礎的な教えの数々について書かれており、その一つとして、手を置くという行為が挙げられています。私たちはそのような初歩的な行為を、今も行っているのではありませんか?」そうとも言えますし、そうでないとも言えます。それを基礎であると考えるのは、それを実践していない人々だけです。そうでしょう? 皆さんはそのような基礎を人々に教え、その後、もっと深い教えへと進むのです。ヘブル6:1 を読んでみると、このように書いてあるからです。「何故私たちはこれらの慣習や、手を置く事を、再びやり直しているのか?」手を置くという行為だけではありません。彼は神への信仰についても触れています。そしてそれが基礎的な事柄であるとして、このように述べています。「それを後にして、先へ進もうではないか」と。では、想像してみて下さい。皆さんが全ての教会で、このように言ったらどうでしょう。「私たちはもう基礎的な事をやめて、神のもっと深い事柄に移るつもりなので、もう神への信仰について説いてはいけない。」すると人々は言うでしょう。「神への信仰について教える事ができないですって?では何を教えればいいのですか?」だってそうでしょう、それは事実上、教えの大半を占めているのですから。しかし、主が言おうとされていたのは、神への信仰について説いてはいけないという事ではありませんでした。むしろ、こう言われていたのです。ただ教えられている事を聞くだけではなく、どこかの時点で、実際にその通りに生きるレベルに達しなければならないと。実際に神への信仰の内に歩まねばならないのです。そして覚えておくべき重要な事とは、神への信仰こそが基礎だという事です。それは到達すべき何かではなく、信仰そのものが基礎なのです。手を置く事は…それには3つか4つの様々な理由があり、もちろんその一つは、病人を癒す為です。もう一つは、人を聖職者として任命する為です(按手)。聖句が頭の中でごちゃまぜになって、こんな風に言う人も大勢いるでしょう。「あなたは私たちに、出て行って誰にでも手を置くようにと言っている。」いいですか、私はそんな事を言っていません。出て行って、癒しのミニストリーを行うようにと言っているのです。皆さんが祈る必要すらないと言いました。手を置いてもいいし、言葉で命じても構わないと。どのようにやるかを教えているのではありません。外には癒しを必要としている世界があり、それをもたらすのは皆さんであると言ったのです。それをどのようにやるかなど、関係ないではありませんか?
それは、聖オーガスティンかアッシジの聖フランシス…彼らのどちらか…が言った事と似ています。「あらゆる方法で福音を宣べ伝えなさい。必要ならば言葉を用いて。」私が言いたいのも、大体そういう事なのです。しかし、中には聖句を引き合いに出して、こんな風に言う人たちもいます。「さて、病人に手を置けと言いますが、聖書には誰にも突然に手を置いてはならないと書いてありますよ。」しかしそれは、癒しについて書かれている箇所ではありません。聖職への任命について書かれている箇所なのです。そこでは、彼らを聖職者として任命する事について語られています。聖書は、あなた方の間で労する人々の事を知っておくようにと述べています。按手して任命するには、彼らの生活態度や評判などに関する、ある種の要求事項を設けねばなりません。そこで語られているのはそうした事についてであり、病人に手を置く事についてではありません。任命の按手を誰にしても良いのであったなら、イエスや弟子たちや、他の全員が違反者となります。彼らは、ほぼ全員に、突然に手を置きましたから。
さて、質問にはこう書かれています。「それなら私たちは、成熟した者への教えはもちろんの事、初歩的な教えにもたずさわっているのではありませんか?」そう、ヘブル6:1-4 でそう書かれているのに気づくでしょう。通常、人々にそこに書かれた教えを読んで、その数を数えるよう言うと、大抵の人は6つあると言います。しかし、7つ目は人々がつい見落としてしまう、最初の部分である事を、覚えていなければなりません。そしてそこには、完全さを目指すよう書かれており、つまり成熟した状態という事です。それがその聖句に書かれている7番目の教えです。ですから私たちは、神への信仰についての教えから、さらに先へと進まなければなりません。病人に手を置く事の、さらに先へと進まなければならないのです。そして、バプテスマについての教え、そのさらに先へと進まなければならず、このバプテスマは複数形ですが、聖書には7つのバプテスマがあり、苦しみのバプテスマも含めて、少なくともその4つがクリスチャンの為です。そうですね? そこに病気は含まれていません。皆さんが受ける苦しみ、すなわち、「バプテスマ」とは、病気ではなく、御言葉のゆえに受ける迫害や災いです。いいですか? 病気を苦しむのではありません。むしろそれに立ち向かい、戦い、抵抗するのです。あなたは病気を苦しみ、耐え忍ぶのではありません。それと対決し、それに抵抗し、戦うのです。皆さん聞こえますか? どうか心して聞き、耳を傾けて下さい。
これらの基礎的な教えの数々が挙げられ、それからこう書かれています。「成熟を目指して進もうではないか。」つまり、成熟した状態という事です。そしてそれこそが、私たちがここにいる理由なのです。皆さんが成長して成熟するという事です。成熟を目指して進み続けるにつれ、ここに書かれてある他の全ての教えも、効果を表し始めるでしょう。しかし気づいて欲しいのですが、それらが基礎であると書かれているのです。ですから理屈の上では、私たちはバプテスマや手を置く事について教える必要はないはずです。そして教える必要がないとしたら、それは皆さんがそれについて既に知っているからです。ですから、それを知らないなら、基礎さえも分かっていない事になります。そうでしょう? 基本も呑み込めていないという事です。そしてそれは、教会がこれまで非常に疎かにしてきた領域の一つなのです。キリストの体である私たちは、そのような過ちを正さねばならず、ある意味…大抵の人は、その為に何一つ計画を練っていません。殆どの人はクリスチャンとしてどう生きるかよりも、むしろ休暇をどう過ごすかについて計画を立てています。それが事実です。何時間もかけて、ここに行こうとか、あそこに行こうとか、これにしようとか、これだけ費用がかかるので、お金を貯めなければ、とか何とか・・・。そしてクリスチャンとして生きる為の計画は、全く立てていないのです。どのように成長し、どこを目指し、宣教師を助けるかどうかや、聖書学校を設立するのを助けるかどうか、といった事を。いいですか、聖句は非常に明確に語っています。聖書にはこう書かれているのです。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、自分の手をもって骨折って働きなさい。」働かなければならない理由とは、「困っている人に施しをする為」です。聞きましたか?
神がこう言われたとしたらどうでしょう。「ある仕事をしてもらいたいが、稼いだお金は一円たりとも自分で遣ってはならない。万事において私を信頼しなければならないが、仕事には行かなければならない。そして給料をもらったら、その全てを貧しい人々に食べさせ、裸の人に服を着せ、聖書学校や盲人の為の教会を設立する為に遣わなければならない。」想像してみて下さい。そう言われたら、皆さんの殆どは、クリスチャンにならないでしょう。まずならないと思います。よそに行って、他の何かを信じる事でしょう。どうしてかって?もっと利己的に生活したいからです。お分かりですか? 皆さんは真理が欲しいですか、それともただ良い気分になりたいだけでしょうか?しかし事実、私たちがここにいるのは、人々の必要を満たす為なのです。私たちがそうできるのは、神が私たちの必要を満たして下さるからです。大抵の人は、ちょっとでもお金が貯まると、もう神に信仰を持たなくてもいいと考えます。そして自分のお金に頼り始めるや否や、神ではなく、お金が神になってしまいます。破産して健康保険もなく、癒される為に祈らなければならなかったという状況から、社会保険付きの良い仕事に就き、もう今では保険もお金もあるとします。医者に診てもらわねばならなくなり、もう神に信頼しなくなったら、その時あなたは、どの神に仕えている事になりますか?分かりますね? やけに静かになりましたね(笑)。皆さん息を吸って下さい。息を吸って…誰にも意識を失ってほしくありません。答を知りたくないなら、質問をしないでもらいたいものです。
さて、皆さんは何らかの計画を立てなければなりません。どこかの時点で、これとの繋がりを断たなければならないのです。これ、というのは、世俗、世の中の事です。よく聞いて下さい。これまで何度も繰り返し尋ねてきましたが、皆さんと神との最初の繋がりは、神が与えて下さったからできたのですよね?皆さんの大半は、ヨハネ3章16節に基づいて、いつかどこかで救われました。「神は、実に…お与えになったほどに、世を愛された。」神は世を愛され、与えられたのです。それが最初の基礎です。つまり、それが初歩的な事柄なのです。そしてそうさせたのは、神の霊でした。神は愛され、与えられた。神の霊とは、イエスを世に遣わされた、まさにその霊です。神についての全てが、その霊と関連しているので、皆さんも同じ神の御霊を持っているなら、やはり与える霊を持つようになります。お分かりでしょうか?心配しないで下さい、まだ献金の時間ではありません。献金はまた後ほど集めます。今はやらない方がいいでしょう。私がこんな事をお話しているのは、下心があってこの話をしていると思われたくないからです。
しかし、皆さんの中のその霊が、イエスが内に宿しておられるのと同じ霊である事に、どこかで気づいて欲しいのです。イエスの中にある同じ霊が皆さんの中にあるなら、それはその霊が、イエスご自身の中に宿っていた時と同じ願いを抱き、同じ行動をし、同じ結果を求めるという事です。イエスはとてもはっきりと言われました。ここでもまた、キリスト教の基礎を掘り下げていきましょう。イエスはそれを明確にされたからです。主は言われました。皆さんの命を捨てるなら、ご自分の命を与えると。その両方に執着するようにとは言われませんでした。こう言われたのです。実際、ギリシャ語の原語を調べてみると、そこではさらに決然とした言い方をしています。このように言われたのです。「あなたの卑小な命を…その目標や野心や願いを捨てるなら、より崇高な命を、私の目標、願いを与えよう。」これであなたが神の霊を宿しているかどうかがはっきりします。皆さんはまだ、自分の願いを持っていますか?まだ自分の野心がありますか、それとも神の御心を引き継ぎましたか?神の霊があるなら、神の御心を引き継ぐはずです。中にはこんな事を言う人もいます。「カリー、私たち全員に、ただ仕事を辞めて出て行き、福音をのべ伝えろというのかい?」ええ、もちろん。当たり前でしょう?「君にそんな事が言えるものか」と言われても、たった今言いましたよ(笑)。確かに言いました。
すると人は言います。「そんな風に人を召し出す権限なんてないだろう?」私にはそうする事ができます。皆さんの90パーセントが、それに応じないと分かっているからです(笑)。そうでしょう?だからこそ、皆さんの唯一の別の選択肢とはこれです。出て行って宣教師にならないなら、送り出す支援者になるべきです。どちらか選んで下さい。おかしな事ですが、通常は送り出す側の人々が、最終的にいつかは、宣教師として出て行くようになるのです。人は何かを与える時、一緒に心も与えるからです。そして心がそれに伴うなら、遅かれ早かれ、残りの部分もそれに伴うわけです。そうですね?というわけで、どんな大義に身を捧げるかに気をつけて下さい。皆さんは宣教師になるかもしれないのです。アメリカへの宣教師に。私たちには、そのような人たちが必要です。彼らは世界中で必要とされているのです。
さて、急ぎましょう。セクション4を見て下さい。44ページ辺りにあります。エペソにある「奥義」とは、「ある一つの奥義」ではなく、「特定の奥義」について話しています。「ある」奥義と言うなら、他にも幾つか奥義がある事になります。「その奥義」と言うなら、たとえ他の奥義があったとしても、「それ」こそが肝心の奥義であるという事です。そうでしょう?エペソ1:9、3:3、3:4、3:5、5:32と6:19 にあります。その言葉が、4つの章に出てくる事に気づくでしょう。このような短い書で、「奥義」という言葉が6章からなる書の4つの章で6回も出てくるのですから、これには何らかの意味があるのです。言い換えるなら、それはこのエペソの書がその特定の「奥義」と、密接に関わっているというしるしです。さて、これらを読んで、その幾つかについて話したいと思いますが、もっと前の方に戻ると、コロサイにおいても…コロサイには4つの章があるのですが、その言葉はコロサイでも4回出てきます。そしてその箇所は、コロサイ1章、2章、そして4章で、2章では2回出てきます。ですから、それが出てこないのは3章だけなのです。このように調べてみると、どれほど頻繁にそれに言及されているかに、実に驚かされます。私がコロサイとエペソをよく引き合いに出すのは、それが理由なのです。それがマニュアルにも入っています。これからこれを読んでいきますが、セミナーの後でも、エペソとコロサイを、その一節一節、一字一句、じっくりと読む事を大いにお勧めします。これらに習熟してもらいたいのです。
さて、マニュアルの44ページを開けると、最初にローマ16:25と26があり、そこでは「啓示」について語られています。つまりは「奥義」です。ですから、そして私たちも知っているように、パウロはこの啓示をもらって、後にエペソの人々にそれを告げました。このように言ったのです。「それを読むなら分かるだろう。」と。これは、その前の手紙の事です。それについては昨日詳しく話しましたね。それから彼は今、ローマ16:26 でこう言ったのです。「今やこの奥義が現された」と。そして信仰の従順に導く為に、それが「あらゆる国の人々に知らされた」と。次に1コリント2を読むと、7節にこうあります。「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光の為に、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」ここに注目して下さい。「この知恵を、この世の支配者たちは、誰一人として悟りませんでした。」聞きましたか?何故でしょう? それは、「その奥義」が世界の始まる前から、創世以前からずっと隠されていたからです。そうでしょう?そこが昨日読んだ箇所です。
ですから、全ての世の支配者たちはこの奥義を知りませんでした。それは彼らから隠されていたのです。しかし、今パウロはそれをのべ伝える事ができます。何故でしょう? 昨日もお話したように、イエスが十字架に架かって蘇られたからこそ、それをのべ伝える事ができるのです。何故でしょう?もはやそれが奥義であり続ける必要はないからです。よく聞いて下さい。「この世の支配者たちは、それを誰一人として悟りませんでした。」8節です。「もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」 聞きましたか?そこで今、もっと掘り下げて学ぶ事ができる様、ここに焦点を絞ってお話ししましょう。いいですね?世界が造られる前からずっと隠されていた奥義、それが隠されていて、明かされなかったのは、世の支配者らがその事を知っていたなら、キリストを十字架に架けなかったであろう、という理由からです。私たちは、彼らがキリストを十字架につけた時、何が起こったかや、その結果どうなったかも知っていますが、彼らがキリストを十字架に架けなかったであろう理由とは、その十字架刑によって起こったような結果を望まなかったからです。そして十字架刑の結果こそが、その奥義なのです。そこで、イエスが十字架に架かられた今では、奥義を明かす事ができます。もう彼らはそれを止める事ができないからです。ですから、それが明かされなかった理由とは、彼らがそれを止める事を防ぐ為でした。もしそれを知っていたなら、彼らはそうしなかったでしょうから。お分かりでしょうか?
さて、これがどれほど大切であるかを、皆さんに理解して頂けたかどうか、まだ定かではありません。何故なら昨日ガラテヤ6章の14節と15節を読んだからです。そこにはこうあります。「キリストにあって、新しい創造以上に大事な事(力ある事)はありません。」そうですね?この新たな創造物が大切(力ある事)なのです。主はそう言われました。割礼は重要な事ではありません。割礼を受けていない事、ギリシャ人やユダヤ人、異邦人たち…この新しい創造以外、何一つ大切なもの(力ある事)はないのです。何故でしょう? それは、この新しい人こそが奥義だからです。さて、そこでこんなたとえ話を思いつきました。ちょっとは参考になると思います。もし人が、全てを変えてしまうほど素晴らしい何かを見つけたとします。その何かを、生涯ずっと別の事を聞いて生きてきた人々に説明しようとしましょう。それを教える際に、他の人々がそれまでずっと教えられてきた聖書用語を用いているせいで、誰にもその効果が現れないとしたらどうでしょう。彼らはこう言います。「これは聞いた事がある。もうそんな事は知っていますよ。」しかし、彼らが聞いてきたのが、その真理のたった百万分の一程度だけだったとしたらどうでしょうか?
私は、自分など足下にも及ばないような偉大な説教師たちが次のように言うのを、何度も聞いてきました。「殆どのキリスト教徒は、まだクリスチャンになっていない」と。実際人々は、クリスチャンにならないよう予防接種を受けてきたようなものです。それは人々が、救われるに十分なだけしか、少なくとも、自分が救われていると思うに十分なだけしか聞かないからです。救われていないとは言っていませんよ。ただ、本当に救われた人と、救われたと思っているだけの人がいるというだけです。昨日も言いましたが、人々が新生やら何やらについて、断片的な事ばかりを聞いて、それを事実上、火災保険か何かのように長期間にわたって勧められてきたとしたらどうでしょう。その後それについて話されるたびに、このように考えるのではないでしょうか。「新生について話すのですか? 何か深遠で意義深い教義を探求すると思っていたのに。」しかし、敵である悪魔の全目的とは、皆さんにこの真理を見落とさせる事なのです。
キリスト教では多くの場合、特に御霊に満たされたカリスマ派においては、聖霊のバプテスマや、賜物や、力について語られます。これらはどれも驚異的です。この奇跡やあの奇跡について証しし、皆が感嘆の声を上げ、「わあ、すごい。素晴らしいな。自分もそこにいました。私も見たのです。」「ああ、私もそこにいたかったな」などと言います。私たちはそれを見て、こう尋ねます。「どうやってその力を得たのですか?」「そうですね、まずは新生しなければなりません。ですから、新生させてあげましょう。こちらに来て下さい。聖霊のバプテスマを授けますから。」そして私たちは、なるべく早く相手に聖霊のバプテスマを授けようとして、あらゆる要点をすっ飛ばし、この新生が何を意味するのかという衝撃的事実に気づかないのです。皆さんの内面をキリストに似たものとするのは、その新生であるという事に。
残念な事に、それは違った風に教えられてきた為、軽んじられ、見下されます。とりわけカリスマ派のクリスチャンはそうです。カリスマ派はその点に、あまり重きを置いてこなかったからです。「生まれ変わりなさい。そうすればあなたは…。ところで、あなたは異言を話しますか?賜物がありますか?聖霊のバプテスマを受けていますか?」カリスマ派が重視してきたのは、むしろそのような事です。よく聞いて下さい。神の全御計画とは、その御霊を私たちの内に入れる事でした。それがもう一つの要点なのです。おかしなものです。教会に来てメッセージを聞いて、次の日曜にもやってきて、今度は違うメッセージを聞いて、またその次の日曜に戻ってきて、別のメッセージを聞く、といった具合に、人々は毎回違う事を聞くのです。あるいは4週間続けて同じテーマについて、一連の説教をする事もあるでしょう。私はこれまで様々な教会に行った事があり、そういう事が続いていると分かっています。しかし、神の計画とは基本的に、このメッセージの一片を伝え、それを皆さんに教える事です。それに1週間や1か月、どれだけかかったとしても、私たちは皆さんにそれを教えます。そして皆さんが、その神の計画全体を知りたいなら、「ああ、それなら聖書学校に行かなくては」となるのです。私の言っている事が分かりますか?
聖書学校に行っても、時間の半分は、その神の計画について学ばないでしょう。それとは関係のない、大量の事実を学ぶだけです。そして彼らは、「計画の概要」と自分たちが呼ぶものを教えようとします。「これが旧約聖書の要旨です」とか、「これが新約聖書の要旨です。大体、そのような事が書かれているのです」など。しかし、殆どのクリスチャンは神の計画について何一つ知らず、神が何をなされようとしてきたかを見る事ができません。何らかの基礎的なものはあるのですが、全体像を知らないのです。「旧約聖書について何を知っていますか?」と聞くなら、「ええと、アダムやモーセの事を知っていますよ…。ああ待って下さい、アブラハムも。彼はモーセの前でしたっけ、後でしたっけ?アブラハムがどこかに出てきます。それからモーセがいて、どこかにダビデとゴリアテもいるはずです。それにバテシバも。バテシバを忘れてはいけません。そう、ダビデはその二つで有名なのです。ゴリアテとバテシバで。それからダビデと、ソロモンもどこかに出てきます。それにエリヤもいます」などと人は言うでしょう。
人々は神の計画については何一つ知らず、知っているのはこれらの断片的な事柄だけです。これらは正直言って、日曜学校で習う聖書の話です。人々は言います。「神のご計画とは、私たちが救われるよう、心にイエスを入れる事です。」ただ救われる為だけではありません。イエスが来られたのは、私たちに救命具を投げる為だけではありません。単刀直入な言い方をしますが、主が来られたのは、ご自分をクローン化する為でした。その為に来られたのです。ご自分をクローン化されるなら、私たちの中にご自分の霊を入れる事ができ、そうする事によって、神が世界の基が据えられる前から求めておられた家族ができます。そうでしょう?しかし、アダムがした事のゆえに、そして神が実に頭脳明晰な方であられるがゆえに、神は何が起ころうとしているかをご存じであられたので、世が造られる前からイエスの十字架刑を計画されていました。それに向けて様々な事を働きかけておられたのです。さて、奥義というのは厳密に言うと、十字架刑の事ではありません。十字架刑の事は、聖書にちゃんと書かれているからです。主はその事を証しされました。詩篇22篇です。ご自分が身を貫かれる事について語られています。皆さんがそれを読む事ができるように。何かの暗号のようですが、主はその事をあまり隠そうとされませんでした。隠しておられたのは、十字架刑から生じる結果です。その結果によって、何が起こるであろうかについてです。十字架刑の結果とは、イエスが死から蘇られた時に、皆さんも蘇った事なのです。そして今や、神はご自分に向き直る時に、その御霊を皆さんの中に入れて下さり、イエスがされた全ての事から生じた祝福にあずからせているのです。あたかもそれらの行為を、皆さん自身がしたかのように。要するに、それら全てが主ではなく、皆さんがした事になっているのです。主の死、埋葬、復活…それら全てが、皆さん自身がした事とも見なされています。人は死なない限り、生きる事ができないからです。そして以前にも言った事をここでも言いますが、キリスト教の問題とはそこです。
すなわち、一度も死んでいないのに、復活の命を生きようとしている人が、あまりに多すぎるのです。死ぬ事なしに復活の命を生きる事はできません。しかし一旦死んで、その復活の命が皆さんの中に宿り、その中で生まれるなら、その時皆さんは再び蘇って、新たな霊にあって、新たな人生を歩むようになるのです。昨日それらについて読んだのを思い出して下さい。今では主の霊が皆さんの中におられ、全てが変わりました。一旦死んで蘇ったなら、もはや過去に属するあらゆる事柄が、皆さんに当てはまらなくなります。聞こえますか?律法の下に居られなくなるのです。何故でしょう? 律法は人が生きている期間しか有効性を持たないからです。一旦死んだなら、その人はもはや律法の下には居ません。パウロが次のように言っているのは、その為です。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」何故でしょう? 私は死んだからです。そして死んだがゆえに、もう律法の下にはいないのです。
しかし、私たちは次のような事に気づかなければなりません。人々は言います。「もう律法の下にいないなら、何でも好き放題できて、しかも何の罰も受けないのでは…。」ええ、しかし本当に死んだのなら、皆さんが求めるのはキリストのような生き方です。自分に死んでキリストの内に入った人は、何でも好きなようにできて、しかも罪に定められないという考えは間違いです。そうする事は可能ですが、新しく歩むとは、ちょうど軍隊に入るようなものです。軍の司令官たちは、新米兵を入隊させる為に、何でも言うでしょう(笑)。「どこで働きたいですか?」と彼らが聞き、「ハワイで任務に就きたいです」と言ったとしたら、「いいですとも。さあここにサインを」と言うでしょう。そして皆さんは気づくのです。招集がかかるのをグアムで待っている間、自分が8時間の炊事勤務に就いている事に。実際、グアムもそんなに悪くはありません。恐らく、アラスカかどこかよりは。これはあくまでも私見ですが。ちょっと、脇道に逸れてしまいました...。
ここでパウロの言おうとしている事に、気づいて下さい。彼はこう言いました。「世の支配者たちが知っていたなら、キリストを十字架に架けたりはしなかっただろう。」さて、考えてみて下さい。サタンはイエスを憎んでいます。何故って、イエスと対戦するたびに打ち負かされているのですから。誰かと対決するたびに、打ち負かされる事は人を意気消沈させる、昔ながらの方法です。二人の選手がリングに上がるのを見ていると、相手を見下ろすあの仕草があります。普通は戦いに勝った側が、相手をじっと見下ろします。そして彼らは、自分の評判を高めようとします。「全く、この男がトレーニングしている所を見た事があるかい?ないって?そうさ、奴らは練習場に誰も入れないんだ。奴は対戦相手全員をノックアウトしているよ。トレーニングパートナー全員を、第1ラウンドでぶちのめしてしまうんだ。相手はあっさりやっつけられてしまう。すごいんだよ。奴は必殺パンチを編み出したんだ。それを一発見舞われたら、相手選手はもうおしまいだよ。」そしてその噂が広まります。その噂が、彼と対戦する事になった選手にどんな影響を及ぼすか分かりますか?つまり、リングに上がって相手にじっと見下ろされたら…。そうしたら彼は、まず相手の選手の利き腕を見るでしょう。そしてその利き腕には近寄らないでしょう。彼は既に打ち負かされたも同然です。もう防御する方法を考えているからです。既にこう考えているのです。「あの手に近づいては駄目だ。」彼は戦う意志などありません。試合中ずっと逃げ回るつもりです。何故でしょう?それは既に負けているからです。特に、もし毎回打ち負かされ、その事が分かっている場合はそうです。そしてサタンもそのように振る舞うのです。「ああ、どうしたらいいんだろう。イエスと対戦するたびに負けてしまう。」それにも関わらず、もしこの奥義を知らなかったなら、彼らは栄光の主を十字架につけたりはしなかったであろうと、パウロは言うのです。言い換えると、十字架刑から生じたような結果になるぐらいなら、むしろイエスを生かしておいて、顔を合わせるたびに打ち負かされていた方が、まだましであると思っていたという事です。私だったら、毎日のように相手を打ち負かす事を選ぶでしょう。いったん相手がこてんぱんにやっつけられてしまうなら、相手はどんな心境になるか分かりますか?それは、知っていればやらなかったであろうと、言わしめるほどのものでした。この奥義は、それほど大切であるという事です。だからこそ、こうしてお話ししているのです。
私は不利な立場にいます。何故なら、皆さんがすでに以前読んだ事について、説明しているからです。既に読んだ聖句、既に聞いた教義、もう聞いた事のあるテーマについて。しかし皆さんは、福音の単純な言葉に宿る真理を、それが及んでいる深いレベルまで聞いた事は一度もないのではないでしょうか。というのは、正直言って、この事を皆さんが理解するなら…。これは別に大げさに言っているわけではありません。もしこれを詳しく調べて理解し、その通りに歩むなら、これは事実上、全てを変えてしまうからです。何故でしょうか?それは、これが新しい契約だからです。お分かりでしょうか? これは新約聖書です。これはあなたの中の神の霊です。これは新しく生まれる事であり、そして全てを変えてしまいます。それは単に、「ああ、旧約から新約へと移行したのですね」というものではありません。違うのです。旧約の時代は終わりました。そして旧約聖書は…古い契約はいわば終結し、今や私たちは新約聖書の時代にいるのです。そしてその恩恵にあずかっています。
先日その恩恵についてお話したのを覚えていますね。契約とは、二つの集団の間で交わされる契約であり、神とイエスの間にも契約が結ばれ、そこではアブラハムがイエスの役目を果たしていました。神は、アブラハムとの間に契約を結ばれたのです。しかし実際には、それはアブラハムとの契約ではありませんでした。むしろそれは、アブラハムの子孫と結ばれた契約だったのです。ガラテヤ書で神は、それを「子孫たち」と複数形では呼ばれずに、一人の子孫と言われたのであり、それはキリストです。ですから神は、イエスと契約を結ぶ際の代理人として、アブラハムを用いておられたのです。それが事の真相です。そしてイエスはおいでになり、その契約を事ごとく成就されました。一つとして破る事なく、その全てを守られたのです。アブラハムを通して、イエスと契約を結ばれた時、神は人間たち全員が、イエスが現れるまで、ひどく無秩序に振る舞うであろう事をご存知でした。そこで430年後に律法を設けて、人にそれを与えられたのです。人がひどく無秩序に振る舞うので、悪い事をしたら罰が下るよう、そこに律法が必要だったのです。そこで、神は律法を定められましたが、神がイエスと結ばれた契約には、その影響が及びませんでした。全く影響を受けなかったのです。それは人々の罪ゆえに、ただそこに存在し続けました。それこそパウロがガラテヤで話していた事です。彼がそこにそう書いたのには、そういう理由があったのです。
その後イエスはおいでになり、その律法を事ごとく成就されました。呪いが必要なくなるように。呪いは人が過ちを犯した時にだけ下るからです。そしてイエスは過ちを犯されなかったので、呪いがないのです。それで主は、死という究極の罰を受けて苦しまれ、一時は神から引き離される事さえ経験されたのであり、それは実に最悪の罰でした。しかしそれもまた、主が選ばれた事だったのです。その後、イエスが死人の中から蘇られた時(ギリシャ語では「死人の中から出てこられた」とあります)、それが起こった時に、主は皆さんの為に苦しまれました。お気づきでしょうか、もし主が皆さんの為に苦しまれなかったとしたら…。主は不法に苦しみを受けた事になります。罪の支払う報酬は死なのですから。ところが、主は一度も罪を犯されませんでした。死刑に値するようなどんな罪も、一度も犯されなかったのです。本来は死ななくてもよかったはずなのです。ですから、主が死なれた唯一の理由は、皆さんの為に死という罰を受け、苦しむ為でした。そうですね? お分かりでしょうか?それが主が死なれた唯一の理由です。ですから、主が死なれたのが皆さんの為でなかったとしたら…。つまり、主がそれら全ての事を、皆さんがしなくて済むよう、皆さんの益の為にされたのでなかったとしたら、主は律法を破って死なれた事になるのです。法にそぐわない罰を苦しまれた事になります。そうでしょう?お分かりでしょうか?
という事は、主は確かに私たちの為に苦しまれたのであり、私たちは、主が苦しまれた全ての事を苦しまなくてもいいという事です。そうでしょう?それら全てのものが私たちから取り除かれました。主が私たちのようになられたので、私たちも主のようになる事ができるのです。何故でしょうか?何故なら、私たちはこの世にあって、主のような存在だからです。1ヨハネ4:17 にそうあります。ですから私たちはたった今、イエスのような存在なのです。すなわち主の代理人です。主は私たちの身代わりになって下さいました。私たちが主にあって生きる事ができるよう、私たちの為に死なれたのです。私たちが苦しまずに済むよう、ご自分が苦しまれたのです。私たちが受けなくて済むように、全ての罰をその身に負われました。これが福音の良き知らせです。
皆さんは過去の自分の過ちゆえに苦しむ必要はありません。苦しまずに済む方法とは、死ぬ事です。そして死ぬ方法とは、キリストの中に入り、自分のわざや良い行いや、自分に関するどんな事に頼るのもやめる事です。それらに頼るのをやめて、今ではイエスがされた事と、イエスが皆さんの内でどのような存在になられているかに、事ごとく完全に頼るのです。そして今皆さんは、イエスが生きられたように生きる事ができます。イエスが皆さんの為に苦しまれたので、皆さんはこの人生を生きる事ができるのです。ですから、皆さんはイエスがされたように病人を癒すのです。何故でしょう?主がそれをされ、皆さんに命を与えられたので、もはや皆さんが生きているのではなく、イエスが皆さんの中に生きておられるのです。そういうわけで、主はご自分が望まれるような方法で、皆さんを通して行動し、生きる事がおできになります。そうですね?これこそパウロの言った事です。彼はこう言いました。「それだから自分自身を、罪に対して死んだ者と見なしなさい。」皆さんが罪を犯さないのは、死人は罪を犯さないからです。そうでしょう?死人は罪を犯しません。ですから、自分を死んだものと見なしているなら、罪を犯すのをやめるでしょう。そうですね?恵みは、あなたが罪を犯すことを許さないのです。恵みはあなたを殺し、もう罪を犯さなくても済むようにしてくれます。お分かりですか?「ああ、今では何でもできるし、罪に定められない」などという考えは全て嘘です。そこまで恵みが拡大解釈されることを、神は決して意図しておられませんでした。恵みは、あなたが罪を超越した次元で生きる力を与えてくれます。恵みによってあなたは、キリストの人生を生きる事ができるのです。キリストは罪を犯す事なく人生を歩まれましたから。お分かりでしょうか?こうして、罪の支配力は断ち切られました。主が話しておられるのは、そういう事なのです。このキリストの贖いのゆえに、皆さんはこの人生を生きる事ができ、また癒される事ができるのです。
さて、よく聞いて下さい。もしイエスのように生きる事ができず、イエスのように罪のない人生を生きる事ができないなら、どうしてイエスのように癒せるなどと考えるのですか?イエスの人生から、自分が倣いたい面だけを選ぶ事ができると考えているのですか? 皆さんはイエスのようになるか、ならないかのどちらかです。単純でしょう?これは単純な教えであり、しかも良き知らせです。何故でしょう?それは罪の支配力が断ち切られて、もう罪を犯さなくて済むからです。ですから、もし罪を犯すなら、それはそうする事を選んでいるのです。それが好きだからです。おかしなものですね?人は好きではない何かに誘惑される事は決してありません。好きなものにだけ誘惑されるのです。ヤコブは言いました。「人が誘惑に陥るのは…それぞれ自分の欲に惹かれ、おびき寄せられるからである。」人はその持っている強い欲によって、誘い出されます。好きではないものには誘惑されません。サタンはやって来て、皆さんの手を掴んで、「これをするんだ、さあ、飲みなさい。」「でも、したくありません。嫌です。」「駄目だ、飲むんだ。」敵はそんなやり方はしません。あなたが好きなもので誘惑するのです。そうですね?そして、皆さんがそれを好きなら、まだ古い人に死んでいないという事なのです。皆さんは言うかもしれません。「そんなのは信じませんよ。」皆さんは、自分の欲を十字架につけてしまったのです。ほら、それはもう死んでしまいました。ですから、まだそれらのものが好きなら、皆さんの一部はまだ死んでいないのです。皆さんは死ななければなりません。そうですね?しかし、良い知らせがあります。私たちはイエスの人生を歩む事ができるのです。主が私たちの為に苦しまれたからです。主は私たちの罪を肩代わりして下さり、主の命が今私たちの中に宿っています。主の霊が私たちの内に宿っているのです。御霊が私たちの中で生きており、私たちは聖なる存在です。それは御霊が聖なる存在だからです。そして、私たちは御霊を持っているので、聖なる人生を生きる事ができます。
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