2023年9月29日金曜日

New Man セッション10

セッション10



先ほど少しお話した事について質問を受けましたが、もう少し明確にしたいと思います。全ての信者が神の癒やしの力を表し、行使する為に召されました。「それでは、キリストにあっての賜物や癒やしの目的は何なのですか。またそれらと、キリストの癒やしの力を表明する全ての信者たちの能力との違いは何なのでしょう?」マルコ16章では、賜物には一切触れられていない事に気づくはずです。それらの事をするのは信者たちだけです。イエスは天から力を受けるまでエルサレムで待っているようにと言われました。聖霊を受けた後に力を受けると。そして今、新生し、神の御霊を受け入れた皆さんは、力を持っています。それには疑問の余地がありません。イエスは聖霊を受けるようにと告げ、時折力が下るのを待ちなさいとは言っていません。そうした考えは、新約聖書的ではありませんが、教会で、そんな風に力が下るのを待ち望むようになったのは馬鹿げた事です。神はその御霊を賜り、御霊の中にはあらゆる賜物や力、私たちに必要な全てのものがあるので、他に授けられる必要がもうないのです。問題は手に入れたものをどのように用いるかを知らない事にあります。それだけの事なのです。さて、神に示して下さいと泣き求め、天から下って来て下さいとか、出てきて下さいとか泣き求める事については、全てローマ10章に書かれています。そこには、信仰による義は、「あなたは心のうちで、誰が天に上るであろうか、誰が深みに下るのか」などとは言わないと書かれています。むしろ信仰による義は、このように語ると。「『言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」 ですから、自分が新生しており、神の御霊を持っていて、奉仕をする為に必要な全てのものを持っていても、他の事を宣べ伝えているなら、あなたは別の福音を聞いている事になるのです。いいですか? それだけの事です。



クリスチャンたちが日曜日の朝に集まって、神に現れて下さいと乞い求めている間に、人々が死んでます。そしてそれは、キリストの御霊に対する侮辱です。人はさらなる力を求めるたびに、キリストを否定し、キリストを拒んでいるのです。分かりますか?皆さんに必要なのは、さらなる力ではなく、自分を減らす事です。主をもっと多くもらうのではなく、自分を少なくしなければなりません。皆さんはイエスを必要なだけ、全部もらいました。今は邪魔にならないように、脇にどくだけです。そしてその方法とは、まず感情を振り払い、感情的にならない事です。自分の感情や気持ちを脇にどけて、真剣に取り組みましょう。私たちがゲームをし、そのへんに座って「クンバヤ(黒人霊歌)」を歌っている間に、助けを求めて泣いている世界があるからです。いいですか?死にそうな人や、愛する人や子供が死にかけている人々から…死にそうな人もいれば、死人を埋葬したばかりの人もいますが、そんな人々から殆ど一日中、皆さんに電話がかかってきたなら…何故私がこのような話し方をするかが、分かる事でしょう。情けない事に教会は、本来そのような所にいるべきだというのに、未だにそこから出て行きません。神は五役者のミニストリーを招集されましたが、皆さんには聖書があるので、本当は他の誰にも、あまり責任を問う事はできません。自分の聖書を取り上げて、自分の聖書を読み、それを信じなければなりません。そして五役者のミニストリーが、皆さん自身が聖書で読んだ事以外の何かをするよう告げるなら、彼らが言っている事を無視しなければならないのです。これではっきりしましたか?あなたは聖書を信じなければなりません。神の御前に立つ時、皆さんを勝訴へと導く為に、五役者のミニストリーが弁護士として、傍らに立ってくれる事はまずないでしょう。分かりますか?人はこの御言葉と共に立っている時、神はこう言われるでしょう。「あなたはそれを用いて何をしたのか?」「実は、~さんがこう言われたのです…」すると神は言われます。「今彼の話はしていない。彼とは後で話すつもりだ。今はあなたと話しているのだ。私の言葉には何と書いてあるか?」「そうですね、彼らが言うには…」「彼らの言葉ではだめだ。」このように、神の言葉が何と言っているかを自分で調べ、それを信じなければならないのです。そうですね?そうする事になっているのです。



皆さんがゲームをし、教会ごっこをしたいと思っているなら話は別です。皆さんがそう望むなら、大勢の人たちをここに招いて、そうする事ができます。そして彼らに、皆さんの為に芝居を演じ、酒を飲んで酔っ払い、聖書がむなしい偶像、あるいは心のままになされる預言と呼ぶような、自分の夢や幻を語ってもらう事ができるのです。そこには、そのような事を語る偽預言者が呼び寄せられ、その心のままに預言する事について書かれています。しかし私たちは、その上を行って、キリスト教が現実的なものであり、ゲームではないという真理と現実にたどり着かなければなりません。皆さんがこの本の通りに生きるか、そうしないかに応じて、実際に人々の生死が決まります。つまりはそういう事なのです。「私たちは、ほんの小さなグループに過ぎません。大勢の人を集めなければ」などと言うかも知れません。しかし、いつも最初は数人なのです。イエスも十二人と働かれました。全ての福音や手元にある全ての情報から分かるように、新約聖書の3分の2を書いたあのパウロが、人としてのイエスをまるで知りさえしなかったのです。イエスを知っていた十二人の中で、福音を書いたのはマタイとヨハネだけです。マルコとルカは、イエスのそばに居た事すらありませんでした。マルコは少しそばに居ましたが、ルカはパウロと一緒にやって来たのです。ですから、十二人の中で福音を書いたのはたったの二人で、真の生き証人と言えるのは彼らだけなのですが、その二つの福音からどのような成果が生じたでしょう。もちろん、イエスがパウロにお与えになった啓示もあります。キリスト教が2000年以上にもわたって、成長を妨げられてきたにも関わらず、これまで何をしてきたかや、どのようなものに成長し、何を成し遂げて来たかを見て下さい。



イエスがそれを十二人でおできになったのなら、何千人、何十万人といる私たちは尚更、どれだけ多くの事をしているべきでしょうか?色々な人々の話に耳を傾けるなら、彼らはクリスチャンが何百万もいると言う事でしょう。自分がクリスチャンであると公言している人々は確かに何百万といますが、本当のクリスチャンが何人いるのか、私にはよく分かりません。ですから、いずれはこの事について真剣になり、本気で信じなければならないのです。自分を完全に無視しなければならないという事です。自分の生い立ちや歴史や出身地や、何をしてきたかといった事、それらを無視しなければなりません。それらに対して死ななければならず、もはやそのような考え方すらしてはいけません。自分の思いを変えなければならないのです。警察官が仕事に行く時、彼は夫や父親のようには考えません。自分をそこから切り離し、奉仕している都市や地方自治体の法に沿って考えなければならないのです。そしてその法を施行しなければなりません。そして、私たちもそれと全く同じ事をしなければならないのです。自分が誰であるかを忘れて、自分が誰の代理なのかを悟り始めなければなりません。自分が代理を務めているお方の立場に身を置かなければなりません。そうするまでは、効果を生むクリスチャンになる事はないでしょう。どんなに預言し、祈り、聖句を引用し、歌うなどしても関係ありません。何をしようと、それらは全く無に等しいのです。肝心なのは、実際に人々の人生にどのような影響を与えているか、という事です。



神との関係においては、皆さんは祈り、歌うべきでしょうか?もちろんです。もちろんそうすべきですが、思いを集中させるべき点はそこでしょうか?「私は神を礼拝する為に創造された」と書かれたTシャツを着ている人々を見かけます。確かに礼拝は私たちの人生の一部であり、それには疑いの余地がありません。しかし、イエスは何度も礼拝している人々に向かって、こう言われさえしたのです。「あなた方は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。彼らが、私を拝んでも、無駄な事である。」聞きましたか? 無駄に拝む事だってあり得るのです。「礼拝しているなら、神はそれをご覧になられますよ。」いいえ、全く無駄な礼拝というものがあるのです。そしてこの神がどれほど素晴らしいかを歌いながらも、周りの世界に影響する為に何もしていないなら、皆さんの礼拝は無駄なものに違いありません。皆さんが世の人々に手を伸ばす事ができるようにと、皆さんを贖う為に死んで下さったキリストご自身を否定しているからです。目的はそこにあるのです。お分かりですか?自分が創造された目的を知りたいなら、創世記1:26-28 を見ればいいのです。そこを読めば、どうして自分が創造されたかが分かります。皆さんはこの地上を支配し、それを神の御心や目的に沿ったものにする為に創造されました。つまり、神の御心に沿っていないものを縛ったり解いたり、禁じたり許可したりする事になっているのです。それらを神の御心に沿わせるのです。それが目的です。さて、その過程において、皆さんは礼拝しているべきでしょうか?もちろんそうすべきです。そして人々を自由にするという仕事を正しく行っており、地上における神の御心を成就しているなら、皆さんは礼拝するでしょう。そして礼拝は必ずしも、乞い求める事とは限りません。礼拝は決して、神が次にしようとされている事をするよう懇願する事ではないのです。礼拝とは、神がどんなに素晴らしいお方であるかを、神に告げる事です。それは神への感謝や賛美であり、神がすでにされたあらゆる事ゆえに、また将来しようとされている事や、すると言われてきたあらゆる事ゆえに、神を崇める事です。神に何かをするよう乞い求める事とは、何の関係もありません。新約聖書にはそんな事は書かれていません。



それに最も近い箇所といえば、ある時、使徒たちが祈った祈りです。「主よ、御手を伸ばして癒しをなし...。」それだけで、しかも一度しか祈られませんでした。彼らが祈りの集会を開いたり、毎日、一日中も祈る集会を設けたり、ハープをつま弾くような集会を開いている様子を、読んだ事はないでしょう。私たちは神の御前で時間を過ごすのです。そして昔に戻って、ユダヤ教徒の真似ごとをしようとするのはやめましょう。ユダヤ教が正しいなら、神はそれを変えられなかった事でしょう。お分かりですか?ユダヤ教がちゃんと責務を果たしていたなら、イエスは新しい契約を設けられなかったでしょう。そして私たちは、ただこれらの物事を過去のものとして扱い、新しい契約のキリスト教には、ユダヤ文化や異教文化のような文化はない事に気づく必要があります。もしあるとすれば、それは天国の文化でしょう。それは聖なる文化であって、自分に関心を惹き付ける為の、上辺だけの虚飾や見せかけの行為ではありません。その目的とは、この世にイエスを示すような生活を送る事です。そうですね?さて、悪い部分に目を向けてみましょう。もし皆さんがこれと何の関係もなく、イエスが死んで皆さんの中に入り、ご自分とその持っておられるもの全てを与えられなかったとしたら、私はもちろんここに居て、皆さんにこんな風に話してはいない事でしょう。自分に出来ない事をするようにと期待される事はないわけですから。しかし実際は、この本がするようにと告げている事を、全て行う事ができるのです。主はパウロを通して、こう言われたからです。「キリストによって、どんな事でもできる。」イエスご自身が、ご自分がされたのと同じ、或いは、それ以上に大いなるわざを、信者たちもするようになると言われました。信者たちがそうするようになるとイエスが言われたのですから、私たちは信者か、信者でないかのどちらかです。業務内容に「これが信者たちのする事だ」と書いてあるなら、神に感謝して、忙しく働き、信者がするべき事をした方がいいでしょう。そして、言い訳をしたり、言い逃れをしてはいけません。「実はですね。まだ二倍の油注ぎを受けていなくて、それを待っているんですよ」と言う人がいますが、新約聖書のどこにも二倍の油注ぎについて、一言も書かれていません。何故なら第一に、そんなものは要りませんから。人々は二倍の油注ぎについて語り、様々な油注ぎや突破の油注ぎや何やら、ありとあらゆる油注ぎについて語りますが、そんなものは新約聖書には全く出てこないのです。一言もです。私たちはキリストにあって全き存在です。その事に何一つ付け加える必要はありません。する必要な事があるとすれば、自分から何かを取り去る事ぐらいでしょう(笑)。全く驚きです。お分かりですか、(何か欠けているものがあると勘違いして)日々かき集めたり、付け加えようとするのではなく、むしろ日々削り取って行くのです。自己に対して死ぬのです。



私はいつも人々にこう言います。とりわけ癒やしやそういった分野においては、新しい教義など必要ないと。問題は、知識が不足している事ではありません。むしろ、誤った教えを沢山知りすぎている事です。通常、皆さんが引用する言葉は全て、何かの本から来ているからです。もし油注ぎに関する言葉を…二倍の油注ぎ、この油注ぎやあの賜物、こんな事が起こっているとか、このような注ぎ入れを待っているとか、このようなリバイバルを待っているとか、そういった言葉を引用しているなら、言わせてもらいますが、その人は聖書を引用しているのではなく、その本を書いた人間の言葉を引用しているのです。そのような言葉は聖書に書かれていません。主はただ、聖霊をもらえるほど十分長く留まっているように、と言われているだけです。そしてそれを受けたなら、忙しく働くようにと。それだけの事です。事実、ある時彼らが皆エルサレムに留まっていると、主がこう言われました。「全世界に出て行きなさい。」残っていたのは12人…いえ、11人です。主は彼らと、他の500人に言われました。大勢に向かってこう言われたのです。「全世界に出て行きなさい。」それから12年…恐らくは12年から14年経っても、彼らはまだエルサレムに留まっており、その後やっと方々に散らばったのです。ご存じの通り、ヤコブは殺され、ペテロは捕らえられました。さて、いいですか、彼らがエルサレムにいなかったら、ヤコブは殺されていなかった事でしょう。少なくともエルサレムにおいては。どこかの野原で殺されていたかもしれませんが、ヘロデやその類いの人々の手にかかる事はなかったでしょう。



何故なら、イエスは全世界に出て行くようにと彼らに言われたからです。その辺に留まっていなさいとは言われませんでした。私は「信仰の言葉」のグループ、オクラホマ州タルサの人々の近くに何年か居ましたが、全く驚きでした。オクラホマでは…タルサでは、全ての教会に聖書学校があるのです。どの教会にも聖書学校があり、特に「信仰の言葉」教会はそうです。そして驚きなのは、そこでは毎年…私はある時、商工会議所の何人かと話したのですが、タルサには毎年新しい教会ができるそうです。そして毎週、1つの教会が閉鎖されるのだと。毎週新しい教会ができて、別の1つが閉まるのです。毎週です。また、そこの学生たちは全員聖書学校に通っており、何百という聖書学校があるのです。言いましたね、全ての教会に1つです。そして彼らは、毎年新たな卒業生を送り出し、そこの卒業生は全員タルサに留まり、出て行って新しい教会を始めるのです。やがて彼らは聖書学校も始め、そのようにしてひとりでに物事が積み重なっていくのです。それから新しい教会ができ、皆はそこではどんな話をするのだろうと、こぞって見に来ます。そして別の教会が閉まるのです。その後、ある程度時間が経つと、その教会も閉まります。そのように絶え間ない流れがあるのですが、人々は決して町を去りません。彼らは決して世界に出て行かず、ただそこに留まっているのです。何故でしょう?全員が、私たちと同じような考え方で神を信じており、とても居心地が良く思っているからです。お分かりでしょうか、彼らもこう言っています。「ええ、うちは良い教会ですよ。」しかし、献身している教会員は一人もいません。人々は週末にそこにやって来て、「もうこれは前に聞いた」と言い、それから次の週に新しくできた次の教会に行くのです。



ですから、新生する人たちの数が全然増えません。増えるのは人の移動だけです。人々はある教会から次の教会へと渡り歩くのですが、教会に行く為にこの世に居るのではない事に、いつかは気づかねばなりません。教会に通う為に新生したのではない事に。お分かりでしょうか?皆さんは人々に教会をもたらす為にここに居るのです。何故でしょう?皆さん全体が教会だからです。私たちは集まらなければなりません。集まる事は何も悪くありません。確かに、聖書は非常にはっきりと、私たちは集まるべきで、それをやめてはならないと告げています。ですから、集まるなと言っているのではありません。ただ共に集まる事は…正直言って、それをその週のハイライトとすべきですらないという事です。それを週の間に起こっている事の証を分け合う場とするのでない限り。そうですね?さて、私たちは次の二つのものを確立しました。とりわけ西欧文化において。消費者の立場からの考え方を確立してしまったのです。人々は教会に行って、ある人の説教を聞き、自分がそこから何をもらえるのかを知り、彼が与えるものを取り入れて、次の週まで待ちます。何故なら、次の週には別の人がやって来て、今度はその人から何がもらえるのかを見る事になるからです。結局彼らは、ただ絶え間なく聞いているだけで、学んでいる事を実践し、実際に人生に当てはめる事は殆どありません。お分かりですか?私が教会に反対しているように受け取って欲しくはありません。そうではありませんから。基本的に、広い意味では、全ての家が教会であるべきで、教会はどんなに沢山あっても十分とは言えません。人々は言います。「ああ、そこは一番教会が密集している地域です。他のどこよりも教会が多いのです。」考えてみるとファーストフード業界でさえも、決して十分な店舗を持つという事がありません。そうではありませんか?常に成長過程にあるのです。さらなる成長こそが、目的の全てなのです。何故でしょう? 店舗が多ければ多いほど、占有率も多くなりますから。皆さんは言います。「市場占有率ですって?そんな事は教会で話題にしませんよ。」普通に考えるなら、恐らく私が言っている事が理解できないでしょう。しかし、神の御霊を持っているなら、理解できるようになります。何故でしょう? 私たちには市場占有率が必要だからです。要するに、全ての街角に教会があるべきなのです。何故なら人々は…知っていましたか、人々は教義に基づいて教会を探すのではないという事を?



ちょっと調べてみたのですが、実に驚きました。新たな教会を探す時、平均的なクリスチャンはその教会の教義がどんなものかを重視しないのです。彼らがどこに目を留めるか分かりますか? 一つは、自宅にどれほど近いかという事です。遠くまで運転したくないからです。それが人々が教会を選ぶ第一の理由なのです。「正しい教会」があらゆる街角に必要としているのは、それが理由です。年中無休で24時間営業のセブンイレブンのようにするのです。そしてそれが、教会が持つべきもう一つの資質です。人々は9時から5時までの間にだけ病気になるわけではありません。午前2時に病気になる事もあります。だからこそ、緊急病院やらそうしたものがあるわけです。それなら、私たちも同じ事をするべきです。いいですか、私は神の御国について話しているのです。神の王国について。それが天の御国の意向なのです。そして人々が、教会を選ぶ二番目の理由はきれいなトイレがあるかです。エホバの証人の王国会館に行くと、そこにはきれいなトイレがあるので、恐らく人々はそこに留まる事でしょう。考えてみて下さい。馬鹿らしい話ではありませんか?そこで何を教えていようと、「ああ、そこのトイレはきれいですよ」という理由だけで、誰かがそこに留まるなどという事は。そして三番目の理由は、子供向けの良いプログラムがある事です。彼らは子供たちを、元々そうであった分の倍ぐらい地獄の子供たちにしています。それに気づかなければなりません。教会ではそのような事に関して、お互い競い合っているのです。



人々はより良い仕事を求めて町の反対側や国の反対側へと移動しますが、そこに引っ越してから辺りを見回して、「ここに良い教会はありますか?」と言うのです。そして、「そこには教会がなく、私たちには交流が必要です。この教会から子どもたちを連れ出し、遠くから来て、そこに良い教会がないというのはだめです」という風には、決して考えません。子供たちの交友関係や彼らが受ける訓練よりも、仕事を優先するのです。私がかつて、学びの為の特別集会に出席する為に辞めた…ええ、それらは仕事でした…。何故かと言えば、職場が休みをくれなかったからです。「来週は休みたいのですが」と言うと、「すまないができない」と言われるのです。事前にその事を伝えても、「悪いが、休ませてやれない。今週は君が必要なんだ」と言われるのです。実に大変でした。休めないなら、辞めるしかありません。そして家に帰って妻に「集会に行くよ」と言うと、妻は「あら、辞めたの?(笑)」そんな風でした。大抵そんな感じでしたが、何故だかお分かりでしょうか?真理が欲しかったからです。私は真理を求めていたので。それを探し求め続け、聖書を読み続けて、それを自分で詳しく調べました。仕事など、どうでもいい事でした。何故でしょう?今振り返ると特にそう思うのですが、地上には、私が今携わっているものに匹敵する職歴や職業や仕事など、一つもないからです。これほど素晴らしいものは、他に何一つありません。そして実のところ、それをしていた当時には、そこから今のような結果が生じるなどとは、思いもよりませんでした。全く知らなかったのです。正直なところ、当時はそれについて心配する事すら、全然ありませんでした。欲しかったのは真理と、自分が手を置くと誰がか癒やされるという事だけでした。それだけが大切だったのです。



そして私たちが真理を見つけたがゆえに、神は私たちの影響を増し加える事を良しとされ、実際に今世界中でそうされているのです。私は毎回神に尋ねながら進めています。私自身が何かを起こそうとしているのではなく、メッセージは広がっています。私たちは常に人々にメッセージを出す方法、必ず人々が何よりも優先されるよう、常に気を配っています。計画を立てる際には計画について話したり、そういった事をしますが、同時に聖書にはっきりと、人は心に自分の道を思い巡らすが、その人の歩みを確かなものにするのは主であると書かれています。私たちは計画を立てますが、柔軟に構えます。そして事実、非常に多くの不確実な要素に目を留めているので、神がどの道を選ばれようと、そこに行く覚悟ができているのです。すでにそこに目を向けていたからです。私たちは既に、存在し得たであろう、あらゆるプランBを目にしてきました。しかし、これがただのセミナーではなく、数日間の集会以上のものである事に、どこかで気づかなければなりません。世界を変えなければならないのです。数々のカルトは本気で外に出て、そうしようと努めています。皆さんが今週、家を空けている間に、彼らは皆さんの家の扉をたたいています。彼らは忙しく働いているのです。



私たちは一度、郷里の町で、エホバの証人の長老の一人と話した事があります。私の妻はエホバの証人として育てられたので、そこに何人か知り合いがおり、時々偶然に顔を合わせる事があったのです。そして驚いた事に、最後に彼と話した時、彼らは二つの事を始めたばかりでした。一つは、彼らは事前に商工会議所に行って、いつでも誰かが新しくそこの地域に引っ越して来るたびに、連絡できるよう手配していました。そして人々が引っ越して来ると、彼らがそこの最初の訪問者となって、ちょっとした歓迎のしるしに贈り物のバスケットを持って行き、「うちの地域にお迎えできて嬉しいです。落ち着くまで助けが必要でしたら何なりと」などと言って挨拶をするのです。そして次から次へと人々の心を勝ち取って行きます。それから二番目に、彼らの長老全員がスペイン語を学び始めました。その地域にやってくるのは、大半がスペイン語圏の人たちだからです。彼らの殆どがスペイン語を話していました。ですからそこに新しく入ってくる人々とうまくやっていけるよう、彼らはスペイン語を学び始めたというわけです。



それなのにクリスチャンは、「構うものか。何語を話すって?彼らがずっとあそこに居て、面倒をかけない限りは、気にしない」とするのです。ほら、その考え方全体が、天の御国などではなく、あまりにも世的なのです。私たちは天の御国の事を考えなければなりません。肌の色の違い、その類いのどんな要素をも超越し、イエスが死んで下さったのは呼吸しているべての人間の為であり、彼らが何をしたかや、他のどんな事も関係ないのだという事に気づかなければなりません。そして悪人であればあるほど、改心したあかつきには、イエスの為のさらに素晴らしいトロフィーとなる事でしょう。そうですね?ウィリアム・ブースもそうでした。彼は1800年代に、息子のブラムウェルを酒場に連れて行ったのですが、その頃、酒場は柄の悪い場所でした。事実、売春宿に他ならなかったのです。そこには煙草の煙が立ちこめ、照明も薄暗く、人々が酒を飲んで、あらゆる不潔な行為が行われていました。ブースはほんの8歳か10歳ぐらいの幼いブラムウェルをその中に連れて行くのでした。考えてみて下さい。あらゆる悪が行われている酒場に、そんな子を連れて行ったのです。そしてその子はそういったあらゆる光景を目にして「わあ!」となっていました。そんなものを見た事がなかったからです。ブースは彼らに目をやって言いました。「彼らをご覧。私たちの人々だ。彼らを勝ち取らなければならない。」そしてブラムウェルに言いました。「さまよえる人々に、最悪の人々に手を伸ばしなさい。」そして、最悪の人々を勝ち取れば、噂が広まってその最悪の人から、さらにずっと多くの人々を勝ち取るだろうと言ったのです。それが彼の考えでした。彼らは売春宿に出向いて、娼婦たちに会い、彼女らを勝ち取りました。また、売春宿のすぐ外で待っている事もありました。そして出てくるやいなや、彼女たちに証しし始めたのです。そして彼女たちは、キリストに心を捧げると決心すると、その場で歩道にひざまずいて彼らと共に祈りました。それから彼らは彼女を立たせると、どうすればいいか分からないその女性に、こう告げました。「いえ、そこに戻ってはいけません。一緒に来て下さい。」そして彼らがバラック(長屋)と呼んでいたところに連れて行き、そこで女性は、救世軍の兵士として生活したのです。その後彼らは女性たちを自分たちと共にそこに住まわせ、二週間ほど教えたり訓練を与えたりします。それから教会の教義を彼女たちにたたき込むのです。また、新生するとはどういう事かについてしっかり教え込みます。ただ彼女たちの中に、新たな生命を注ぎ込むのです。彼らは、聖霊のバプテスマが何かについて、まるで知りもしませんでした。癒やしについて何一つ知りませんでした。賜物についても、何一つ知りませんでした。持っていたのは「唯一」新生だけです。しかし、それらの人々は真の意味で生まれ変わっていました。



何故なら、かつて娼婦であった女性たちは二週間経つと、以前働いていた場所の前に戻ってきて、今や救世軍の軍服姿で、まだそこで働いていると分かっている女性たちに証しをするのです。おかしなものですね、今日では誰かが救われたなら、以前通っていた場所から出来るだけ離れようとするのですが。何故でしょう?またそこに舞い戻ってしまう事を恐れるからです。もし戻ってしまうなら、真に救われていなかった事になります。内においてそれは死んでいなくてはならず、戻って行ってそこに居る人々に証しをし、人生が変わった事が彼らに分かるほどでなければなりません。新生していればそうなるはずです。さて、よく聞いて下さい。決して御霊のバプテスマや賜物を軽んじているわけではありません。これはそんな話ではないのです。ただ、新生した時に自分が何を得たのかに、気づかなければならないと言っているだけです。私たちが救いをどんなに安っぽいものと考えているかには、全く驚いてしまいます。それにも関わらず、救われた時の事を振り返り、それについて語り、その事で涙を流し、それについて歌い、イエスが払われたあらゆる犠牲について歌いながら涙を流します。そしてその週の残りはずっと、主が一度も存在しなかったかのように振る舞うのです。私たちは、心の中でこれが現実であると確信する所まで行かなければなりません。



人は、自分が身を捧げているものと同じようになります。テレビ番組に時間を費やすなら、そのようになるでしょう。その事について考え、話すなど、そういう事しかしたがりません。しかし、神の御言葉に時間を費やし、それに没頭するなら、自分も神の御言葉になります。「もっと神を求めます」と人々は言います。いいえ、皆さんは神の全てを持っています。本当にもっと望むのなら、そうする為に必要な事をしているでしょうから。分かりますか?「神をもっと得る事などできないと言っているように聞こえましたよ」と言うかもしれませんが、私の言いたい事が分かってもらえたらと思います。つまり、神についてもっと知りたいなら、もっとイエスのように歩み、御言葉に没頭して、自分が何者なのかを突き止めた方がいいという事です。実際に私は、この主題を取り上げようと思っていました。すぐにこれらについて話し始めるつもりですが、ヤコブ書を読んでもらいたいので、聖書のヤコブ書を開いて下さい。



さて、何年も前に、私は何冊かの本を読み始めました。完全な福音キリスト教に入った時、私が初めて手に入れたカセットテープは、ケネス・コープランドのものです。そして読むようにと初めて手渡された本は、E・W・ケニオンの「二種類の義」という本でした。それでコープランドのテープを聴いたのですが、当時はその内容にとても驚きました。今はテープの方は覚えていませんが、ケニオンの本は覚えているのですから、おかしなものです。そしてE・W・ケニオンは本の表紙に、「教会に与えられた最も重要なメッセージ」と書いていたのです。その二種類の義に関しては、大体同意します。そして驚いた事に今でさえ、その本を開いて読み返す時があるのです。二種類の義があるというのは、まさにその通りだからです。キリストへの信仰による義があり、それによってキリストにあって、神の義となります。そして律法による義があり、それは受け入れてもらえるような者になろうと努力する堕落した人間の義でもあります。聖書は新生する前の人の義は、汚れた衣のようであると言っています。ですから、人は義を持っていたのですが、それは律法の義であり、それによって罪ありとされるのです。しかし、同時に律法による義も持っていたのであり、それは先ほども言ったように、ぼろぼろの衣のように汚れています。何故ならイエスは…ちょっと考えてみて下さい。パリサイ人は、恐らくユダヤ教の全ての団体の中で、最もフルゴスペル、カリスマ派のクリスチャンにも似ています。彼らは復活を信じていました。サドカイ人は復活を信じていませんでした。私たちは復活を信じています。彼らは霊を信じ、私たちと同じように、霊が存在する事や、天使やそれらのものの存在を信じていました。サドカイ人はそれを信じていませんでした。そして彼らは、御言葉を文字通り解釈すべき事も信じていました。カリスマ派のクリスチャンの大半も、信じていると言う事でしょう。ですから厳密に言うと、良いパリサイ人は教義の面では、良いペンテコステ派になっていた事でしょう。問題は、イエスが次のようにさえ言われた事です。「彼らがあなた方に言う事はみな、行い、守りなさい。」何故でしょう?彼らは聖句を正しく、字義通り解釈していたからです。「しかし、彼らの行いをまねてはいけません」とイエスは言われました。なせでしょう?彼らは聖書の通りにしなかったからです。そして主は彼らを偽善者と呼ばれました。彼らは演技をし、あたかも御言葉通りに行っているかのように見せかけているが、実際はしていないと。



そしてイエスは、ご自分の弟子や信者や聴衆に言われました。「まことに、あなた方に告げます。もしあなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなた方は決して天の御国に、入れません。」主の言われた事が正しく、私たちがそれを正しいと分かっているなら、全てを正しく信じた全てのパリサイ人が、まだ罪の中にいるという事です。そうではありませんか?主はある時、彼らにこう言われました。「一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にする。」かなり容赦ない言葉ですね。彼らは正しい事を信じており、いつもイエスに詰め寄って、主を冒涜者と呼び、律法を破っていると訴えていたのです。実際には破っておられなかったのですが。律法を犯していたならそれは罪であり、罪を犯されていたとしたら、私たちの身代わりになる事はできなかったでしょうから。そして私たちクリスチャンは、パリサイ人のようになりました。イエスが犯したと彼らが言っている律法は、その殆どは彼らの口頭による律法で、彼らが築き上げていたものは全て、自分たちの伝統であり、彼らは当時、それを書かれた神の言葉よりも重要視していたのです。そしてそれこそが、殆どの団体がしてきた事です。私たちは自分の伝統を神の言葉にまさるものとして高めてきたのであり、イエスでさえもこう言われました。「あなた方は、自分たちの言い伝えの為に神の戒めを犯している。」イエスは神の律法は一度も、一つとして犯されませんでしたが、人の律法は確かに犯されました。人の律法は神の律法とは異なっていたからです。



というわけで、パリサイ人たちは、良いペンテコステ派になっていた事でしょう。私たちも同じ事をしているからです。私たちの義はそれにまさっているとはいえ、それは自分たちの義ではなく、神の義である事に気づかなければなりません。それが今や、私たちに与えられているのです。ですから、私たちは努力して得たのでもなければ、それを得るに値するわけでも、それをもらえるレベルに達したわけでもありません。それは与えられたのであり、一瞬にしてクリスチャンになって、一瞬で義とされたのです。そうではありませんか?さて、ここに問題があります。私たちはこれまで、ある程度までしか進みたがりませんでした。聖書には、私たちが朽ちる事のない神の言葉、つまり朽ちる事のない神の種によって生まれ変わったと書かれています。それは神の言葉です。ですから、神の言葉という種があり、私たちはマルコ4章で、イエスが次のような話をされたと知っています。御言葉の種を蒔く人についての話です。農夫が種を蒔き、それらの種は四つの土壌に蒔かれます。四種類の異なった種があるのではありません。種は一種類ですが、四つの異なったタイプの土壌があるのです。その土壌は四種類の異なった人々を表していると言いました。しかし、本人がそのような人間になる事を望んだか、結果的にそんな人間になってしまったという事実を除いては、人々はその違いによって分類されていたわけではありません。ですから、最初の三人のようにはならないと決める事も、四番目の人のようになろうと決める事もできるわけです。実際に実を結んだのは、全部で最後の四番目の人だけでした。



私たちが新生したのは、朽ちる事のない種によってであるという事に気づかなければいけません。不朽の種とは、腐る事も変わる事もない種という事であり、種を変えるなら、それは変異種となります。マルコ4章によると、神の言葉という種は神の御国と関連していますが、私たちはその種が神の御言葉であり、神の御言葉が全てであると知っています。とりわけ私たちにとってはそうであり、新約聖書ではそうなのです。ですから、イエスはこの言葉が肉体となったお方であられ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネにある、これらの聖句の一つ一つが、イエスの人生を物語っていて、それらの節一つ一つが、イエスのDNAの一部なのです。人々の所に行って、癒やしを抜きにしてイエスの人生について教えようとしたら、イエスのDNAを変える事になります。そうですね?しかし、何であれ神の御言葉を選んで、それを変えたとしたら、主は黙示録で、この聖書に少しでも付け加えるか、少しでもそこから取り除くなら、その報いを受けると言われました。そこに付け加えたり、そこから取り去ってはいけないのです。そうするなら、変異種のクリスチャンを造り出す事になるからであり、それこそ私たちがしてきた事です。そしてそのような変異種のクリスチャンたちは、今や語尾に「主義(イズム)」の付いた名前で呼ばれています。ペンテコステ主義、主教制教会主義、長老主義、カトリック主義など。それら全ては変異種です。何故でしょう?彼らは神の御言葉を部分的にしか信じておらず、他の部分を取り除いてしまったからです。そして変異種は変異種しか生み出す事ができません。ですから、すべき事とは神の御言葉に立ち返り、えり好みをせずに神の御言葉全体を守って、その全体を受け入れ、しかも喜んでそうする事です。アーメン?



私は通常、最初にこう尋ねます。「この中で聖書を信じている人は何人いますか?」町のどの教会でも入って行って、同じ質問をします。割合で言えば、大体どこも同じくらいの数の手が上がります。自分はそれを信じていると全員が言うのです。しかし、結局はどのような生き方をしているかが重要です。人はその信念に従って行動するからです。それを実践していないなら、信じていない事になります。単純な事です。イエスは言われました。「何故、私を『主よ、主よ。』と呼びながら、私の言う事を行なわないのですか。」ご自分を主と呼びながらその教えを行わず、それに従わないのは愚かな事であると言われたのです。その通りではありませんか?実際にマタイ7章でも、同じ事を言われています。「風が吹き、雨が降り、その家々は岩の上(イエスの言葉の上)に建てられている。私の言葉を聞いてそれを行う者の家は、持ちこたえるだろう」と言われました。何故でしょう?岩の上に家を建てた人は賢いからです。岩とは何でしょう?それはイエスの御言葉です。主はその事を話しておられたのです。そして言われました。「同じように雨が降り、風が吹き、同じような嵐が、それと同じ言葉を聞いたが行わなかった別の人の所に押し寄せた。そしてそれを行わなかったがゆえに、彼の家は倒れ、その倒れ方はひどかったので、彼は愚かな人と言われた。」何故でしょう?彼は聞いたのに、行わなかったからです。それらの二人の違いは、賢い人が聞いた御言葉を行い、愚かな人は行わなかったという事だけだったのです。「主が導いて下さらなかった」、「主が印象を与えませんでした」などという人がいます。その箇所にそんなものは見つかりません。主が何か印象を与えるものに対して、皆さんは責任を負っているのではなく、この聖書にある言葉に対して、責任を負っているのです。そして興味深い事に、この御言葉の通りにやり始めると、聖霊が御言葉を思い出させ、私たちに印象を与えるのです。私たちの考え方は逆なのです。聖霊が示されるまで待ってから行動しようとしていますが、ただ御言葉を行うなら、聖霊が御言葉に沿って導くのです。そしてそれは、あなたにとっての命となるでしょう。



ヤコブ1章……17節から読み始めましょう。「全ての良い贈り物、また、全ての完全な賜物は上から来るのであって...」ここでヤコブは、あらゆる良い贈り物や完全な賜物と言っています。ですから贈り物を見て、それが良い完全な贈り物であれば、天からであると分かるのです。そして、良くもなく完全でもなければ、それは天からではありません。そうですね?神は良い贈り物や完全な贈り物しかされません。悪い贈り物を贈られる事はないのです。「全ての良い贈り物、また、全ての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」聞きましたか?御父は変わらないのです。それこそが神の主権です。神は変化されません。ある日は癒やす神であられたのに、次の日には癒やされないといった事はないのです。皆さんを気に入られて癒やして下さり、別の人は忌み嫌って癒やされない、といった事もありません。どういう事か分かりますか?神は神であられ、全く変化されないのです。神は信頼できるお方で、移り変わりや、移りゆく影はありません。お分かりですか?神が移り変わった事をほのめかす影も、その兆しすらもないという事です。「父は御心のままに、真理の言葉をもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にする為なのです。」聞きましたか?神ご自身の意思で、そう決められたのです。これは強要されて下すような決断ではありません。神は決断し、それを与えられました。そして皆さんは、与えられたものを受け取ると決断するのです。私が皆さんに、「車をあげたいのです。その車が欲しいですか?」と言ったら、「まずその車を見せて下さい。」と言う事でしょう。車を受け取るとしたら、そのままのものとして受け取らなければいけません。次のように言ってはいけないのです。「車は欲しいですが、こんなものが付いている車は嫌です。あれを取り外すか、これを取り付けてもいいですか?」いいえ、ありのままの姿でその車を受け入れなければいけません。何故でしょう?私がそれをあげようと言っているからです。ですから、ありのままの姿でそれを受け取るのです。そこに付け加えたり、そこから取り外したりはできません。



さて、彼はこう言っています。「父は御心のままに、真理の言葉をもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にする為なのです。愛する兄弟たち。あなた方はその事を知っているのです。しかし、誰でも、聞くには早く、語るには遅く、怒るには遅いようにしなさい。」聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くある為に導かれる必要はない、という事は分かりますか?そうするよう命じられているのです。導かれる必要はありません。「神は私が怒るに遅くあるよう、導かれませんでした。だから直ぐに怒っても構わないでしょう。導きを待っていたのですが、怒りを遅くするようにとの導きはありませんでした。ですから怒ろうと思います。」それがどれだけ馬鹿げて聞こえるか分かりますか?ですから、命令に従うようにと導かれる必要はないのです。そうですよね?彼はこう言っています。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」さて、これが命令である事に注目して下さい。これは私たちにするようにと告げられている事なのです。「ですから、全ての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられた御言葉を、素直に受け入れなさい。御言葉は、あなた方の魂を救う事ができます。」そして22節。「また、御言葉を実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」欺くのは、悪魔でさえないのです。御言葉を聞くだけで行わないなら、悪魔があなたを欺く必要もありません。自分で自分を欺いているのです。「御言葉を聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。」御言葉を聞くだけで行わないなら、その人は鏡をのぞき込んでいる生まれつきの人のようであるというのです。「自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」生まれつきの人が鏡をのぞいて自分の姿を見、その後そこを立ち去って、自分がどんな姿であったかを忘れてしまうのです。御言葉を聞いても行わない人は、そのような人であるという事です。



「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は...」ここで彼は、鏡を見ている生まれつきの人のように、御言葉を聞いても行わない人を、「完全な律法、すなわち自由の律法という別の鏡を一心に見つめて離れない別の人」と比べています。文脈全体からも分かるように、彼は神の御言葉の事を話しているのです。神の言葉(イエスの教え)は完全な自由の律法です。そうですね?何故でしょう? 囚われ人を自由にするからです。それは完全な自由の律法なのです。「しかし、御言葉を聞いても行わない人は、鏡を見てそこから立ち去り、それがどのようであったかを忘れてしまう人のようです。」そしてヤコブはこう言っています。「しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめるなら」つまり、聖書を鏡にたとえているのです。そして神の言葉の教えを聞いてもそれを行わないなら、それは完全な自由の律法を見ても、その後そこから歩き去り、自分がどんな人間であったかを忘れてしまう人のようであると言っています。「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、」つまり、それを一心に見つめ、聞き、そして行うのです。ちょっと質問させて下さい。鏡を見ると何が見えますか?反射した自分自身の姿、そうですね。見えるのは自分です。ここでヤコブは、この完全な自由の律法(イエスの教え)を見るなら、それはまるで鏡を見ているようだと言っています。絵を見ているとは言っていません。イエスの肖像を見ているとさえ言っていないのです。しかし、私たちはイエスが肉体となった言葉であると知っているので、これ(聖書)を見るなら、イエスを見ているのです。そうではありませんか?御言葉を見ると、イエスが見えるべきです。この御言葉を見て、それを行うなら、鏡を見た後もそれがどのようであったかを忘れていない人であるという事です。何故でしょう?実際にそうである通りの者になっているからです。普通の鏡を見ると、自分自身が見えますが、聖書という鏡を見るなら、そこにイエスが見えます。何故でしょう?イエスこそが、皆さんのあるべき姿だからです。



この書はあなたが何者であるかを教えてくれます。お分かりでしょうか?この書は鏡なのです。内なる自分が何者であるか知りたいですか?この本をのぞいて、この書の中に見える全てのものが、皆さん自身なのです。それはイエスご自身です。何故でしょう?イエスは肉体となった御言葉であられるからです。しかし、皆さんは自分が何者であると思いますか?イエスが皆さんの内におられます。生きているのはもはや皆さんではなく、キリストが皆さんの中に生きておられるのです。ですから、皆さんが今この書をのぞき込んで見ているものは、自分の内にあるものなのです。お分かりですか?



しかし、この書に書いてある事を行わないなら、それを見た後に歩き去って、普通の人間のように振る舞う人のようです。皆さんは決して、普通の人として生まれてきたのではありません。普通の人となるようには、意図されていませんでした。この完全な自由の律法を一心に見つめて、そこに留まっているなら、その人は忘れてしまう人ではなく、御言葉を行う人であるとヤコブは言っています。さて、皆さんは御言葉を行う人ですが、仕事をしています。何故でしょう?御言葉を行う事、それこそが仕事だからです。実際に仕事をされているのは、皆さんの中の父なる神ですが、皆さんも実際に御言葉を行わなければなりません。御言葉を行うと、神が皆さんを通して働いて下さるのです。お分かりでしょうか?私は皆さんが自分自身を見失って、イエスの中に自分自身を見いだして欲しいのです。自分の人生を見失い、イエスにあっての人生を手に入れて欲しいのです。本当の自分が何者であるのかを突き止めて欲しいのです。このセミナーを昨日始めた時に、この事に深く入って行くなら、何故そんなにもすごい事かが分かるとお話しした理由が分かりますか?これを理解して実践するなら、皆さん一人一人が、これまでに味わった事のないような、最高に素晴らしい解放を経験するでしょう。それは自己からの解放となるからです。もはや皆さん自身ではなくなるのです。人への恐れ、話す事への恐れ、何に対する恐れであれ、全てなくなるのです。何故でしょう?もはや生きているのは皆さんではないからです。キリストが皆さんの内に生きておられるのです。



語る人は誰でも、人としてではなく神の言葉を託された人のように語るべきです。人々は言います。「あなたはとても大胆ですね。あなたが話す内容はかなり強烈ですよ。」いいですか?私は語る時にためらいません。何故だか分かりますか?聖書に書かれている言葉だからです。神の言葉が言っている事を読んで聞かせているだけです。何も言い訳はしませんし、私は何も言っていません。私は神の御告げとして語っているのです。言い訳をしているのではありません。私たちはこの書のように歩んでいるでしょうか?ここそこで、幾分はそうしていますが、していない時もあります。しかし、それについて言い訳をするでしょうか?いいえ。何かの信念に歩もうとすれば、その第一歩はそれを受け入れ、それが可能であると信じ、その方向に動く事です。ですから、それについて言い訳などしません。これが皆さんがなるべき姿です。この通りに歩んでいるべきです。もし私が語るとしたら、神の言葉を託された者として語ります。説教師のように、または良いアイデアを温めてきた人のように、あるいはただ説教を与えている人のように語る事などできません。これは説教ではありません。決まった説教を準備してここに来ているわけではないのです。皆さんに話している内容は神の霊から来ており、そのように受け止めてもらいたいです。私は可能な限り、率直に話しています。このような話し方は、パウロのそれにとても似ています。そして彼と全く同じような事を話しているのです。どうしてそう言えるか分かりますか?私は神の御霊がパウロに言った事を繰り返しているからです。



この二日間で聞いたもの以外の考えや教義を皆さんが持っているなら、神は何が正しいかを示して下さるでしょう。しかし、これが真理です。福音に目を留めて出て行かなければなりません。「そんな生き方は到底できませんよ」と言うのですか?イエスは言われています。「私は道であり、私を通るならそのように生きる事ができる」と。自分が生きる事ができるような福音を持っているなら、それは恐らくインターネットのどこかから拾ってきた単なる自己啓発のメッセージです。本物の福音は自己啓発ではありませんから。福音は自分に死ぬ事です。確か、ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉だったと思うのですが、キリストが来るよう求められる時には、来て死ぬようにと求められているのです。そして私たちは、その事を肝に銘じておかなければなりません。そのような殉教者精神を取り戻す必要があるのです。イエス・キリストの良き兵士になる事ができるように。苦難を耐え忍び、すべき事をするのです。兵役についている人は、この世の事に関わり合う事はありません。私が知っている殆ど全てのクリスチャンは、完全にこの世の事に関わり合っています。それでいて、どうして物事が上手くいかないのか知りたがっているのです。その答えは、「あなたの心はどこにあるのですか?」という事です。皆さんが人生で目にするものは、皆さんの考えが、これまでどこにあったかを正確に表しているからです。それほど単純な事です。休憩にしましょう。

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