セッション18
さて、聖書から幾つかの箇所を読みたいと思います。まず詩篇136篇です。詩篇136篇1節には、ある際立った点があります。詩篇136篇。「 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。地を水の上に敷かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。夜を治める月と星を造られた方に。その恵みはとこしえまで。エジプトの初子を打たれた方に。その恵みはとこしえまで。主はイスラエルをエジプトの真ん中から連れ出された。その恵みはとこしえまで。」12節です。「力強い手と差し伸ばされた腕をもって。」この言い回しを覚えていて下さい。「差し伸ばされた手」です。「力強い手と差し伸ばされた腕をもって、その恵みはとこしえまで。」神はそれによってイスラエルをエジプトから連れ出されたのです。すぐに分かりますね。「葦の海を二つに分けられた方に。その恵みはとこしえまで。主はイスラエルにその中を通らせられた。その恵みはとこしえまで。パロとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。その恵みはとこしえまで。荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる王たちを打たれた方に。その恵みはとこしえまで。主は力ある王たちを、殺された。その恵みはとこしえまで。エモリ人の王シホンを殺された。その恵みはとこしえまで。バシャンの王オグを殺された。その恵みはとこしえまで。主は彼らの地を、相続の地として与えられた。その恵みはとこしえまで。主のしもべイスラエルに相続の地として。その恵みはとこしえまで。主は私たちが卑しめられた時、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。主は私たちを敵から救い出された。」ここを覚えていて下さい。「その恵みはとこしえまで。主は全ての肉なる者に食物を与えられる。その恵みはとこしえまで。 天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」
さて、注目して下さい。彼は基本的に、イスラエルの全歴史をたどって、その各文を「その恵みはとこしえまで」で結んでいます。ですから要は、神の恵みがとこしえだという事です。きっとそれが伝えたい要点なのだと思います。さて、マタイ9章を開いて下さい。1節から読みましょう。「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。と』言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、『この人は神をけがしている』と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。『何故、心の中で悪い事を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事を、あなた方に知らせる為に。』こう言って、それから中風の人に、『起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群集はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。イエスは、そこを去って道を通りながら、取税所に座っているマタイという人をご覧になって、『私について来なさい』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられる時、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓についていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『何故、あなた方の先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。』」そして旧約のある聖句を、ホセア6:6と12:7を引用してこう言われています。「私は憐れみは好むが、いけにえは好まない。」
聞きましたか? 神が「私は憐れみは好むが、いけにえは好まない」と言われた時、それがどういう意味だったのか、行って学んで来なさいと言われたのです。旧約聖書では、神は次のようにさえ言われています。「私はあなた方の祝日を好まない。あなた方が祝日に行う事も。あなた方が集まる事も。あなた方の祝宴を好まない。あなた方がするどんな事も好まない。」そして神は言われました。「いけにえを捧げる事と憐れみを持つ事の違いをあなた方が理解していないからだ。」ですから、この節で強調されているのは憐みなのです。では、先ほどの詩篇136篇を覚えていますね?「その恵み(憐れみ)はとこしえまで。」アーメン?神の恵みがとこしえに続くなら、今も続いているという事です。そうでしょう?神は言われます。「私は正しい人を招く為ではなく、罪人を招く為に来たのです。」するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、何故、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするような事はしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるような事はしません。ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」イエスがこれらの事を話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいで下さって、娘の上に御手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります。」さて、この後どうなるかはもう大体分かっているでしょう?そして驚きなのは、イエスはこれを2000年前にされ、今日もなお同じ事をされているという事です。アーメン?私たちはそんな証しを耳にします。溺死した若者が脳死状態で、しばらく死んでいたのに、目を覚ました時に自分が命じられたまさにその通りの事をしたのです。彼は起き上がってこう言いました。「お腹が空いた」と。そう言うように命じられていたのです。
そう、私たちが知っているそのような出来事についての証しを聞いた人が、皆さんの中にも大勢いる事でしょう。ちょっと面白いのは、死人が蘇ったという証しが常にひと際注目を浴びるのです。それは過去においてさえ、かなり珍しい事だったからです。しかしここ南アフリカでの一番最近の集会で…少なくとも去年開催された複数の集会のどこかで、自分が死から蘇ったか、あるいは死人を蘇らせたという人に出会わなかった事は一度もありませんでした。私たちが出席した全ての集会で人々はその事について話していたのです。そして驚きなのは、その事について話すと、人から変な目で見られる事です。そして「それは疑わしいな」という目つきをされるのです。しかし言っておきますが、私たちは献金は受け取っていないので、嘘をついても何の得にもならないわけです。何の益もありません。どの道そこから得るものはないし、私がここにいるのは、ただ世界中でイエスがしてくれた事を、自分たちが目にしたイエスの御わざを伝える為なのです。そして驚くべき事に、私は証しすら話していません。自分の証しを話す事もできますが、それについて話しさえしていません。他の人々の証しを話しているのです。福音の真理のメッセージを学んだ人々、神の恵みが真にとこしえに続くと知っている人々の証しを。これらの証しは全て、神の恵みに帰結するからです。神が自分を通して働き、病人を癒し死人を蘇らせ盲人の目を開けてくれた、などのあらゆる証しを聞かせてくれた人の中で…少なくとも私に話してくれた人の中では…神が自分を通してそうして下さったのは、自分がそれにふさわしい者だからだ、と言った人は一人もいませんでした。一人もです。むしろ実際には、彼らは通常、神が自分を用いられた事に幾分驚いていたのです。彼らはただ、その結果を追い求めただけです。彼らは必要を目にし、それを満たしたいと願って、引き下がる事を拒みました。そして面白い事に、人々はこのように言います。「そうだね、こういう話をする人たちは、きっとプライドの塊で、おごり高ぶっているんだよ。」本当に、その人たちとじかに話してみるといいでしょう。彼らの大半は、神がして下さった事や、自分が目にした神の御わざについて語る時、とても謙虚なのです。殆ど第三者でもあるかのようにそれを語るか、あるいはそれを語る時に「神がこれをしてくれたのです」と言うのです。「本当に?どこで?誰がしたのですか?」「えっと、実は神は私を通してそれをされたのです。何故かは分かりませんが。」そして、初めて死人が蘇るのを見た時の事を覚えています。たとえその30分前に、死人を蘇らせる為に神が自分を用いるつもりでおられると誰かに告げられていたとしても、きっとそれを信じなかったでしょう。私には準備ができていませんでした。引きこもって断食し、祈り、それに備えたわけではありません。彼らが死ぬと知らなかったのですから。常に準備ができているとは限らないのです。
さて、その人は実際、このように言います。「私の娘がいま死にました。」18節です。「でも、おいで下さって、娘の上に御手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります。」この人は先ほども言ったように会堂の管理者で、新生してもおらず、神とどんな関係にあったのかも分かりませんが、新生していなかった事は分かっています。そして19節にはこうあります。「 イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。すると、見よ。十二年間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわる事でもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。イエスは群集を外に出してから、うちにお入りになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんで下さい」と叫びながらついて来た。」 さて、彼らが何と言っていたかに気づきましたか? 「ダビデの子よ、私たちをあわれんで下さい。」イスラエルの全歴史において、彼らは神の恵みと祝福に癒しが伴う事を理解していました。人々がイエスのもとにやって来て、「ダビデの子イエスよ。あわれんで下さい。」と言った話を数多く見つける事ができます。そして全ての状況において、結果は常に同じです。彼らが「あわれんで下さい。」と言うと、誰かが癒されたのです。主は実際に大勢の群衆を見て、彼らを憐れまれました。ある時、ナインという町に入っていくとある女性の一人息子の若者の葬式が執り行われており、イエスはその母親を憐れまれ、息子を死から蘇らせたとあります。母親を憐れに思われたからです。考えてみて下さい。彼は死んだ若者を憐れんだのではなく、その母親を憐れに思われたのです。さて、その若者は母親に感謝すべきですね。イエスが彼女を憐れまれなかったなら、そのまま葬式が執り行われていた可能性もあるわけですから。
いいですか、主は「若者は蘇るにふさわしいような人物だったのか?それに値するような者だったのか?彼の死因は?」などと尋ねたりされませんでした。明らかに彼は、死ぬには若すぎるような年齢でした。しかしおかしな事に、その事には全く触れられていません。イエスが母親を憐れまれた、と書いてあるだけです。私たちはしばしば詳細にこだわり、時にはイエスが誰かを癒されない理由を探そうとする事もあります。そして常に、イエスがそうされないかもしれない理由を探しているのです。あるいは、癒しがなされた後であれば、何故こうされなかったのか、或いは、ああされなかったのかなどと言うのです。正直に言いますが、聖書には、明かされた物事は私たちに属するが、隠された物事は神に属すると書かれています。しかし、今夜皆さんにおもに話したいのは、それが恵みによるのだという事です。この部屋には、癒されるにふさわしい人など一人もいません。一人もです。あなたが何をしたかは関係ありません。どんなに良い人間であったかもです。ここに居る人の中で、自分が救われるに十分なだけ善良であったと思う人はいますか?では、皆さんのほぼ全員が、自分が救われた事すらも、ただ神の恵みによるのだという事に同意しているのですね?さて、考えてみましょう。皆さんの中で自分が、或いは誰かが救われるに十分なだけ良い人間になれると思う人はいますか?それに値するほど十分、善良になれると、そんな事が可能だと思いますか?それとも、全てはただ神の恵みであると思っているでしょうか?さて、考えてもみて下さい。十分良くなれないなら、神が救わないと決めるほど十分悪くもなれないわけです。そうでしょう?もし悪すぎて救えないなどという事があり得るなら、神がそれを与えて下さるほど良くなる事もあり得るのです。そうですね?ですから、それをもらえるほど十分良くなれないなら、神に救ってもらえないほど悪くなる事もできないわけです。要するに、皆さんも言ったように、結局、それは恵みによるです。両方の側の恵みです。一方を持っていないなら他方も持っていないからです。両方が揃わなければなりません。十分良くなるというなら…もし人が十分良くなる事ができるなら、悪すぎてそれをもらえない事だってあり得るのです。しかし、それをもらえるほど良い人になれないなら、もらえないほど悪い人になる事もできません。分かりますか?皆さんがどう思うかは分かりませんが、それは良いニュースです。アーメン?そうすれば、それはただ神が良いお方だからだ、という事に帰結するからです。いいですか、かつて私はこのように言ったものです。「贈り物の価値は、それを受け取る側ではなく、むしろ贈る側の良さで決まる。」そうですね?それはあなたがどれほど良い人であるかにはよらないのです。神があなたに与えて下さる贈り物は、あなたとは何の関係もありません。神が与えて下さる贈り物は、全て神に関わるものです。そうでしょう?さて、読み続けましょう。彼はこう言っています。幾つか読んでいきましょう。二人の盲人が彼についてきて、こう叫んだと書いてあります。「ダビデの子よ、私たちをあわれんで下さい。」そしてイエスは家に入り、盲人たちがそばにやって来ると、こう言われました。「私にそれができると信じるか?」変な質問ではありませんか?しかしそれは彼らが、私たちが知っているような形でイエスを知らなかったからです。それで、主はただこう尋ねられたのです。「私にこれができると信じるか? それが可能であると信じているか?」そして彼らは言いました。「はい主よ。」そこで主は彼らの目に触れて言われました。「あなた方の信仰通りに、あなた方の身になるように。」驚きですね?
さて、この二人の盲人に注目して下さい。彼らについては何も書かれていません。彼らの過去については触れていないのです。しかし、イエスはこれら二人の盲人が癒されるに十分なだけの信仰を持っていると言われました。そして彼らに必要だった唯一の信仰とは、「私にこれができると信じるか?」「はい。」「分かった。そうしてあげよう。」簡単でしょう? 全ての癒しがそれくらい簡単であるべきです。最大の問題とは、時として私たちが克服すべき障害であり、その障害は残念な事に、通常は宗教によってそこに置かれたものです。十分良くなる事や十分悪くなる事、ふさわしくなる事やふさわしくない事といった、ありとあらゆる考えが宗教から来ているからです。そして大抵は、クリスチャンになった後でさえも、多くの場合こんな質問が持ち上がるのです。「どれほど信仰を持っているか?」私は悲しみを知っています。病気や患いがどんなものか分かっているのです。私たちはそれを目にし、そんな人たちの近くにいて、特にここ10年間は、かつてなかったほどそうでした。ずっと旅をして回り、実際にこのようにしてフルタイムでミニストリーをしてきたからです。家族が病気になったり何かを患ったりする事もありましたが、それでも非常に豊かに祝福されてきました。神の健康の内に生きてきたのであり、時々他の家族が色々な病気にかかるのを目にしても、ここ20年間自分の家族は誰一人として死ぬ事はありませんでした。老齢の人たちさえもです。驚くべき事です。そしてずっと人々のそばにいて、病人のそばにいるので、それがどんなに大変かが分かります。誰かが病気の時、それが子供であれ親であれ兄弟であれ、その病人一人だけではなく、家族全員が苦しみます。家族全員が何らかの形で囚われ人となるのです。そして人々の愛情は…家族の中でもとりわけ病気の人や、問題を抱えている人に注がれ、私たちにはそれが分かります。色々な所を旅して回り、そこで起こっている事を目にし、人々が感じている苦痛について耳にします。私たちは実際に、そのような事を経験してきているのです。沢山の事を見てきましたが、神が人々の人生にどのように働きかけられるかも目にしており、それは実に驚くべきものです。
人々に何かを伝える事ができるとしたら、大切なのは、ただ癒される事ではない、という事です。癒されたとしても、またいつかは病気になり、再び癒される必要が出てくる可能性が高いからです。しかし、自分に癒しをもたらす事のできる真理を手に入れて、その後に癒されたなら、次にまた何かにかかったとしても、誰かに解放してもらう必要はありません。あなたは真理を知るようになるので、それを遠ざけておく事ができますし、もしそれがあなたに降りかかってきたとしても、他の誰かの助けなしにそれを遠ざける事ができます。いいですか、驚くべき事とは、一旦それを理解し、その内を歩き始め、他の人々を助け始めると、実際に自分自身の為に癒しが必要になる事は殆どなくなるという事です。実に驚くべき事です。そして、それはどんどん簡単になっていきます。面白い事に、あなた自身は病気や疾患からどんどん遠ざかっていくのですが、それと同時に、あなたがさらに多くの人々に奉仕するようになっているので、病気や疾患にますます近づいているのです。しかし、病気はあなたから遠く離れていて、決してあなたに触れる事はありません。そして、しばらくして、御言葉の中で時間を過ごし、真理の中で時間を過ごすと、それがあなたの中に湧き上がってくるのです。そして実際に、人と接してると、その人が経験している事を理解する事ができ、傷みを感じる事ができるのです。彼らの目を見ればそれが分かり、それが聞こえてきて…そうしたあらゆる事が起こっているのです。しかしそれと同時に、それはあなたとはかけ離れた世界なのです。時々、そのような問題を抱えている人を完全に理解するのは難しい事もあります。自分がとても長い事、そのような事柄から遠ざかっていたからです。それが見えるし、それを持っている人に奉仕をして彼らを解放する事ができますが、それを理解する事が難しくなってしまうのは、これまで自分ではずっとそうした病気にかからず、ずっとそれらを経験していないからです。他の人を助けるのに忙しくしていたからです。あなたから命が注ぎ出され、そして命が注ぎ出されるなら、敵があなたを何かの病気にかからせるのは難しいのです。あなたはただ注ぎ出し続け、どんな病気が襲おうと、それはすぐに洗い流されて、決してあなたに触れる事はないからです。そして驚くべき事に、それをするにつれて、病気の事が理解し難くなります。あなたはこんな風に言い続けるからです。「お前がそこにいる理由が分からない。そしてどのようにそこに留まっているのか。何故なら、この真理がここにある。それは全ての人の為なのだ。」救いや他の全てのものと同様、真理はそこにあるのです。その中に入り込んで、それを自分の中に入れましょう。だからイエスはこう言われたのです。「あなた方が私にとどまり、私の言葉があなた方にとどまっているなら、何でもあなた方の欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなた方の為にそれがかなえられます。」
皆さんに質問させて下さい。私が聖書に沿っていない事を何か話すのを、聞いた事がありますか?今聖句を読んだばかりですよね?大抵は、ただそうしているだけです。ただ聖句を読んで、「それはそういう意味です」と言って、それについて少し話します。やっている事といえば、それだけではありませんか?ですから、もし私が今週、答をもたらしたとしたら、それは隠されていたものや、皆さんが持っていなかった答ではないはずです。そして神は、一人の人間が、よく言われる「特別な人」である事を望んでおられません。イエスこそが特別なのだという事に、人々が気づく事を望んでおられるのです。神は人々に、それは神の愛である事に気づいて欲しいのです。それは神の恵みであり…とこしえに絶える事がないのです。肝心なのはそれです。私たちは神の力や神ご自身について語り、私もセミナーの間にそれについて話してきました。私たちはその事について話すし、神様が力を持っておられる事には、何の疑問も抱いていないのです。人々は言います。「神はどれほど強力な方なのですか?」「神は神なのだから、その御力に際限などありませんよ。」それなら、神が起こって欲しいと望んでおられる事が実際に目にできないとしたら、それは神が喜んで癒したいと思っておられる事を、私たちが心から確信していないからに違いありません。クリスチャンがそんな風でいるのは、正直、とても悲しい事です。その人が救われておらず、神を知らないというならまだ理解できます。そういう人たちが、神が癒しを喜んでして下さるかどうかに疑問を抱いても、まだ分かるのです。しかし父親として、私だったら自分の子供に、むしろこのように言われたいです。「パパ、パパがお金を持っていて僕を助ける事ができるなら、そうしてくれるって分かっているよ。もしそうできるんだったら、きっと助けてくれるよね」と。「パパ、パパには僕を助けられると分かっているけど、ただパパが僕を助けたいかどうか、よく分からないんだ」なんて言われるよりも、ずっといいです。違いが分かりますか?しかし、考えてもみて下さい。私たちは神様にそんな風に言っているのです。「神にできるだろうか?」と。できますとも。イエスは彼らに、「私にこれができると信じますか?」と尋ねられました。彼ら「はい」と言いました。そして、必要なのはそれだけでした。そうでしょう?主は言われました。「あなた方の信仰のとおりになれ。」彼らはただ、はいと言っただけです。ですから今晩、皆さんにミニストリーをするにあたり、次のように言っておきます。第一に、私たちは皆さんに信仰を持つようにとは求めません。私たちは神の御言葉の中で、信じる者が病人に手を置けば癒されると書かれている聖書の箇所を見つけました。それだけです。それで十分なのです。さて、あなたは信じる人になる事ができ、求めるなら私たちあなたに手を置き、全ての人を同じように扱います。皆さんに手を置き、神の言葉と一致するよう、皆さんの体に命じます。そしてその言葉は、彼の打ち傷によって癒されたと書かれているものです。ですから、皆さんに信仰を持つようにとは求めません。しかし、今ここで言っておきますが、自分でも信仰を持っており、それを行使したいと望んでいるとしたら、私たちがそこに着く前にすら、癒される事ができるでしょう。ぜひそうなって欲しいです。イエスご自身があなたに対処され、あなたを自由にして下さる方がいいのです。そうしたら他の誰にも、いかなる功績も帰される事がないでしょうから。アーメン?それが私たちの望んでいる事です。
一旦、癒しを受け取った人が「神は私を癒されたが、あなたを癒されるかどうかは分からない」と言うのを、私は今まで一度も聞いた事がありません。一度もです。むしろ、そんな人たちが何と言うか知っていますか?「私を癒されたのなら、神はあなたも癒して下さいます。」そうですね?それがどんなに上手く行くかに、全く驚いてしまいます。人は癒されても、高慢になったりしないのです。もしなるとしたら、むしろ謙虚になります。神が病人を癒す為にあなたを使われるとすれば、信じようが信じまいが、あなたはそれで高慢になったりはしないのです。人々が癒されていると本当に分かったなら、むしろ謙虚な気持ちになります。彼らよりもあなたの方が、自分には実際そんな事をする力はない事や、それが全て神様のみわざである事を、もっとよく知っているからです。あなたはこう考えます。「神様、全てあなたがされました。それがあなたであると分かっています。私にはそれが自分と何の関係もない事が分かります。自分の事は十分知っていますから。」つまり、ただ決断しさえすれば、非常に簡単であると言いたいのです。これまで私は、聖句から恵みには癒しが伴う事を話してきました。そう書いてありましたよね? 彼らは恵みを求めたのです。そして何を得ましたか?癒しです。ですから、癒しは恵みに含まれているのです。そして恵みはどんなものですか?それはとこしえに続きます。ですから、今晩は恵みがあります。そうですね?という事は、もし恵みがとこしえに続くなら、今晩も恵みがあるのであり、そして恵みの内には癒しがあります。癒しは恵みに含まれているのです。さて、神が誰かに恵みを与える時、恵みを受ける人はそれに値するでしょうか? いいえ。それは恵みを与える側の、善なる性質によるのです。それは恵みを受ける側の人とは、何の関係もありません。決めるのは、恵みを与える側の神です。今詩篇136篇を読んでいるのですが、神の恵みがとこしえに続くと、はっきりと書かれています。神の恵みは決して絶える事がありません。恵みは憐みの同義語であり、憐れみは愛の同義語だからです。そしてこんな歌もありませんでしたか? 「あなたの私への愛は決して尽きる事がない。あなたは決して私を見捨てない。」もし神が決してあなたを見捨てず、あなたへの神の愛が決して尽きる事がないなら、神の恵みは、今もあなたに注がれているのです。ほら、ほんの数秒間立ち止まって、実際に神様がどんなに良いお方であるかに気づいて下さい。どんなに恵み深いお方であられるかに。
あなたが大金持ちだとしましょう。文字通り世界一のお金持ちです。自分の子どもや孫たちの為に大学の学費や銀行口座や、そうしたあらゆるものを提供できるほど裕福なのです。それらの子孫たちは数世代にわたって既に生活が保障されている上に、余分のお金もたっぷりあります。遣いきれないほど。これまで欲しいものは何でも買ってきました。つまり、途方もないお金持ちの事を話しているんです。お金がありすぎて、その遣い道もわからないほどです。お金が有り余っており、しかも毎日トラックがバックであなたの戸口に停まって、さらに多くのお金を降ろして行くのです。毎日そんな事が起こり、そして彼らは、この先50年間ずっとそれが続くだろうと既にあなたに告げています。ずっとお金が戸口に落とされ続けるであろうと。それなら、誰かがあなたのところにやって来て、「これこれが必要なんです。食事が必要です」と言っても、何か問題があるでしょうか?そう言われても、何か支障がありますか?いいえ。彼らが入って来て「車が壊れそうなんです。車が必要です」と言ったとしたら、その人に車を買ってあげる事に、何か問題があるでしょうか?いいえ。何故でしょう?そんな事は、あなたには些細な事だからです。与えたからといって、それを惜しいとは決して思わないほど沢山持っているのですから。お金があるからという理由だけで人々に家を買ってやり、それでもまるでそのお金が惜しいとは思わない事でしょう。さて、それほど豊かに持っているとしたら、決して遣いきれないぐらいお金があるとしたら、それを与えてしまう事を、少しもためらわない事でしょう。さあ、考えてみて下さい。聖書は神は愛であると言っています。神は愛なので、とても多くの愛を持っておられます。愛を途方もなく豊かに持っておられるので、ただ与えて、与えて、与え続け、与える事をためらう事さえされません。しかも、与えてもらう価値のない人たちにまで与えられるのです。そうでしょう?私が誰の事を話しているか分かると思います。今、そういうふさわしくない人たちの名前が思い浮かんでいるはずです。神はただそのように、人々に愛をどっさりと与え、愛を示し続けられます。そこで、こんな疑問が浮かびます。「神よ、何故あなたはそのようにされるのですか?彼らはあなたの事など、気にもかけていません。何故彼らにそんなに良くされるのですか?」神はただ愛をふんだんに与え続け、おかしな事に、与えれば与えるほど、さらに気前よくなられます。神が物惜しみをするなど、到底あり得ないからです。
また、覚えていて下さい。神は実際には、何も持っておられません。神ご自身が全てなのです。神は愛です。神の恵みはとこしえに続きます。恵みは憐みの類義語で、憐みは愛の類義語であり、そして神は愛なので、その恵みはとこしえに続くのです。それは神がとこしえに永らえられるからです。それが神の本質です。そして神の恵みはとこしえに続き、恵みに伴って癒しが与えられ、神から恵みを受け取るのと同じくらい簡単に、恵みも受け取る事ができます。ちょっとここで、恵みについて考えてみて下さい。恵みを受けたなら、恵みの中には癒しがあります。そして神の恵みはとこしえに続き、日々新たにされるのです。詩篇の作者は神様の恵みや憐みや良いご性質について、数多くの良い歌を歌いました。自分の生きている限り必ず、それら全てが伴うであろうと。神はあなたに、そんなにも良くして下さるのです。あなたが誰であれ、何をしたのであれ関係ありません。知っていますね、あなたの為に、イエスを与えて下さったのです。そしてあなたは自分がそれに値しないと分かっているでしょうが、そんな事を言っても、もう手遅れです。神様はあなたが生まれる前からイエスを地上に送って下さったので、イエスが来られるのを阻止して、その贈り物を拒む事などできません。そして、私たちが歌っているように、神はそれを愛ゆえにされたわけですが、殆どの人はその事について考えすらしません。私たちはそれについて歌い、それから次の歌に移りますが、決してその事についてじっくり考え、神が愛を持っておられるのではなく、神ご自身が愛であられる事に気づく事はありません。そして愛の内に歩むなら、神の内に歩む事になるのです。そして神の内に歩み、聖霊の内に歩むつもりであれば、愛の内に歩まねばなりません。そして愛の内に歩むつもりであれば、恵みの内に歩まねばならず、恵みの内に歩むつもりであれば、批判的な態度の内に歩む事はできません。批判的な態度は、人を見て「うわっ」と言って裁きます。しかし恵みは、「おや、それをしてはいけないよ」と言います。何故でしょう?それは、恵みはとこしえに続くからです。「批判的態度はとこしえに続く」ではありません。そんな事は言っていないのです。とこしえに続くのは恵みです。悪い意味での裁きを受けるにふさわしい人間でない限り、恵みを必要とはしません。しかし、神様はあなたに恵みが必要であるとご存じなので、その恵みがとこしえに続くのです。そうですね?というわけで、神がどれほど良いお方であるかという、これら全ての神のご性質は…慈愛に満ち、世話して下さり、喜んで助けて下さるなど、これら全ては…ご覧なさい。神の内を歩む為に重要なのは、ただ神の中で自分を消し去ってしまう事です。人生を捨てて、神様のいのちを得るのです。アーメン?
さて、私の事をすごく霊的だとか、そういう風に感じてほしくはありません。ただ、霊の内を歩むという、それだけの事です。霊的な事を説明する人の話を聞いても、何を言っているのかわからないと思った事はありませんか?それが理由で私はそんな風に説明します。人は話が分からないという理由で、そのような話し方をする人をすごく霊的であると考えるのです。しかし、イエスがものすごく霊的な方ではなかった事に、気づいているでしょうか。彼は非常に実際的で、同時に愛そのものであられました。決して誰も拒まれた事はありません。誰にも癒す事を拒まれず、福音のメッセージを、最初はイスラエルの人々にだけでしたが、その後あらゆる所の全ての人々に広められました。そして、求めてくる人全員を癒し、その人たちに与えるようにと言われました。誰かに癒して欲しいと頼まれたなら、どうしますか?癒しを与えます。何故でしょう?求めてくるなら、誰にでもそれを与えるからです。ご覧なさい、神様は実に良いお方で、実に器の大きな、実に愛情深い方なので、私たちは時々理解に苦しみます。殆どの人は神を、自分の地上の父親との関係に基いて理解しているからです。そのように神を見ているのです。地上の父親が非常に厳しく容赦ないなら、通常あなたは神を非常に厳しく容赦ないお方であると想像します。地上の父親が家に居た事がないなら、しばしば天の父なる神に対して、「自分でこれを何とかしなくては、神は気遣って下さらないから。神はそこにおられ、私を救って下さったが、ただそれだけの事だ」という態度になるでしょう。神は、あなたが神の中で自分をすっかり消し去り、何かを考えるたびに、それを口に出す前に、神がそれに同意して下さるほど、神と完全に繋がっている事を望んでおられるというのに。「そんなわけがない」と言うのですか。いいえ、神がそう言われたのです。あなたがまだ呼ばない先に答える、と言われました。神はそんなにも良いお方なのです。ご覧なさい。私たちは、ジェホバ・ジャイラ(Jehovar Jirah-備えて下さる神)という名前を知っています。神はそのように供給されるのです。そんなにも豊かに与えて下さいます。神は常にそこにおられるのです。
何年も前に、家庭に問題があったある少女がいました。彼女は娘の友達だったので、私たちの家にしばらく滞在し、彼女の母親と父親は離婚し、彼女は私のところに来て、父親の為に祈って欲しいと頼みました。彼は病気で、医者たちはその病気を見つけ、それは体を蝕んでいく病気でした。彼は死にかけていたのです。そして彼女は言いました。「父の為に祈ってくれませんか?」彼女が私たちのところに来た時、私たちは彼女の家庭生活の話を聞き、彼女の父親が良い人ではないと聞きました。私は彼が好きではありませんでした。一度も会った事はありませんが、彼についての話を聞いて、彼に嫌悪感を抱きました。そして彼女は言ったのです。「彼の為に祈ってくれますか?」と。私は「ああ、いいよ」と答えました。それから一日か二日経って、その事は忘れてしまっていました。彼の為に祈ろうとしたのですが、正直言って記憶からすり抜けてしまい、その事を殆ど気にも留めていませんでした。しかしそれから、この少女が数日後に私のところにやって来て、こう言ったんです。「カリーさん、父の為に祈ってくれると思っていたのですが。」私は言いました。「おや、祈らなかったとどうして分かったんだい?」彼女は言いました。「だって、父はまだ病気だから。」彼女は言いました。「さあ、父の為に祈って下さい。」私は「分かった、祈るよ」と言い、それから車に乗り込みました。町から少し離れたところに住んでいたので、町に向かって車を走らせながら、祈り始めました。私は祈ろうと最善を尽くしていました。何故なら、その男が好きではなかったからです。彼にあまり癒されてほしくありませんでした。本当にどうでもよかったのです。彼は悪い人で、好きではありませんでした。面識はありませんでしたが、嫌いだったのです。だからどうでもよかったのです。それで最善を尽くして、答えられないと知っているような祈りを祈りました。冗談抜きで、本当に。想像できる内で最も熱心さに欠ける祈りを祈っていたのです。これまでに聞いた人々の祈りの中で、答えられないと知っているあらゆる祈り方について考えました。そして、自分もそれと同じように祈ろうとしていたのです。「神よ、もしあなたがこの男を癒す事がおできになるのでしたら、もしそれが御心でしたら。」絶対に信仰があるように聞こえない祈り方が、他にもっとないかと考えました。「もしできたら、彼を助けて頂けませんか?ありがとうございます。」イエスの御名で祈る事すらしませんでした。イエスの御名で、と祈りを結ぶ事もしなかったのです。その名前が効いて、癒されてしまう事を恐れていたのです。だからこんな風に祈りました。「ありがとうございます。ではさようなら。」それだけです。するとすぐに、神が語られました。いいですか、それまで他の祈りを祈っても何も聞こえなかったのに、この祈りを祈ると、神が語られたのです。聞いて下さい。これは衝撃的でした。明らかに自分の成長を促してくれたからです。神はこう言われました。「彼を癒そう。」私は、祈りが答えられないようにするには、どうすれば良いのかと考えていたというのに。私は神がこの男性を癒すべきか否かについて、神と口論するつもりでした。神は言われました。「彼を癒そう。しかしそれは、彼が私と関係を結んでいるからではない。彼はそんな関係をまるで持っていないからだ。私がそうするのは、あなたが私と関係を結んでおり、あなたがそれを求めたからだ。」
そこで私は、神と口論しようと試みました。「いいでしょう。ではそれについての聖句を与えて下さらなければ。聖句が必要です。」すると神は、即座にアブラハムの事を思い起こさせられました。次にロトの事を思い起こさせて、ご自分がロトを滅びから免れさせたのは、アブラハムの事を覚えておられたからであると言われました。考えてもみて下さい。神がロトを助けられたのは、アブラハムの事を覚えておられたからなのです。それはナインのやもめの息子の話と似ていますね。イエスがその女性を憐れまれたので、少年が祝福を受けたのです。そうですね?しかし、その聖句は私に効果がありました。それによって、自分が神と繋がっており、神を認めているがゆえに…、恐らくその時は、確かにそんなに強く繋がっていませんでしたが…本来やるべきほど隣人を愛していなかったからです…けれども、私が神と繋がっていて、神に求めたがゆえに、神はそうして下さるおつもりなのだという事が分かったのです。そこでやっと気づきました。「私が何か言うだけで、それをして下さるほど、私たちは親密な関係なのだろうか?」と私は思いました。その後何年か経ち、そこからずっと離れた東海岸のバージニア州にいた事がありました。周りに何もない、実に辺ぴな場所でした。外に出て橋を渡ると、数軒の建物があり、そこから沼地を抜けて、とにかく田舎でした。外に出ても携帯がつながらず、電波を受信しようとするのですが、何も受け取れません。インターネットがまったく使えないのです。世から隔絶されているのです。私の携帯は、非常事態にかかってくる電話で、一日中鳴りっぱなしです。電話がかかってくると、よくそれをボイスメールに転送しました。そうすれば、相手の祈りの要請や電話番号や名前の記録が残るからです。電話で話している時、しばしば相手はヒステリックになっているか、全ての情報をちゃんと伝える事ができない為、ただそれをボイスメールに送って、後から聴くのです。そうすれば既に情報が分かっているので、折り返し相手に電話した時に、自分がどういう状況に関わっているのかが分かり、何の為に祈るかや、どう祈ればいいかが分かるからです。それで外に出ると、あまりに辺ぴな場所なので、電話回線のサービスも何もないわけですが、私の携帯には、通常一日に三~四件のボイスメールが入っています。それをただ頻繁にチェックして、再びメールボックスを空にし、相手の番号をメモしておいて、折り返しかけ直すなど、何であれ必要な事をしていました。けれども私はそういう色々な事を、絶えずやり続けていなければなりませんでした。
そこでかかってきた三本目の電話の内容はこうでした。「カリーさん、誰々が入院しています。医者はあきらめてしまいました。彼はあと数時間で死んでしまいます。祈って下さい。」それは三日前のものでした。私はひどい気分になりました。「ああ、しまった。これはまずいぞ。」人々は私たちに電話をかけ、他の誰にも電話をしない事が多いからです。ですから私たちが、祈っている唯一の人々でした。私はこう考えました。「ああ、この人はもう死んでいるかもしれない。この状況は思わしくない。」そこで残りのボイスメールを聴いていると、27番目の電話が3番目にかけてきたのと同じ男性で、彼はこう言いました。「カリーさん、神の祝福がありますように。祈って下さってありがとうございます。彼は一命をとりとめました。」これを聴いてもっと気分が悪くなりました(笑)。彼らは、私がその癒しに何らかの形で関わっていると思っているのですから。私はそれを聴いて、こう考えました。「この男は癒されたが、私は祈っていない。」そこで神に尋ねました。「これはどうした事ですか?」すると神は言われました。「私の信用はあなたにある。」私は「それについての聖句が必要です。聖句を示して下さらないと」と考えました。すると、神は言われました。「彼らがあなたと話せていたなら、あなたは祈った事だろう。信仰の祈りを祈って、彼らは癒されていただろう。だから、私はあなたが呼び求める先に答えたのだ。」アーメン?私たちは神を何と過小評価している事でしょう。神はそれよりずっと大きな方であられるというのに。神はあなたに癒しを届ける方法を探しておられるのです。あなたに火の中水の中をくぐり抜けてそれを得て欲しいなどとは思っておられません。イエスが火の中水の中をくぐって、それをあなたの為に手に入れて下さったのですから。アーメン?神様はあなたに健康でいて欲しいのです。イエスは鞭打ち刑場で、あなたの為に砕かれるべく、ご自分の体を与えて下さいました。あなたが健康でいられるように。何故でしょう?そのひとり子を与えられたほどに、神があなたを愛して下さったからです。あなたを罪から救う為だけではありませんでした。神に栄光を。決して救いを軽んじているわけではありませんが、それだけではなかったのです。
さて、もう少し読んでいきましょう。また詩篇に戻って下さい。詩篇103篇を読みます。私たちのところで訓練を受けてきた殆どの人は、この節を知っていますね。詩篇103:1にこう書かれています。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにある全てのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」2節には:「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くして下さった事を何一つ忘れるな。」3節では…その良くして下さった事の数々を挙げ連ねています。「主は、あなたの全ての咎を赦し、あなたの全ての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みと憐れみとの冠をかぶらせ。」さて、聞きましたか?ここでは正しい言い方をしなければなりません。間違った言い方をすると、皆さんがそれを非常に間違った風に解釈してしまって、よくないからです。神様があなたの全ての咎を赦し、全ての病を癒されるなら、咎の為にされた事は全て、病の為にもして下さるという事です。つまり、どちらも「全ての」と言っていますよね、そうでしょう?ですから、イザヤ53章では実際にこの事について書かれており、神が私たちの悲しみや嘆きを取り去られたとありますが、それは病気や病の事です。へブル書に戻ってそこを読んで下さい。もし神が…全ての患いを癒されないとしたら、全ての咎を赦されるとどうやって確信できるのでしょう?ある事で嘘をついているなら、別の事でも嘘をつく可能性があるわけです。そうでしょう?これが理由で、言い方に気を付けなければ、と言ったのです。私がこの事を話すと、人々が後で戻って来て、こんな風に言うからです。「あなたは私から救いを奪ってしまいました。私は気分が良くなかったからです。そこでこう考えました。もし自分がまだ病気であるなら、赦されてもいない事になる」と。いいえ、それが言いたいポイントではありません。とりわけ癒しの奉仕活動においてはそうです。福音伝道の奉仕であれば、そのポイントを強調しようと努める事も、或いは、あるかもしれません。今晩はそうしませんが。しかし、神は一方に対してされた事を、両方にされたのだという事に気づいて欲しいのです。あなたの咎を赦されたのなら、あなたの病も癒されたのです。さて、皆さんがこの世に生まれてくるずっと前に、イエスは罪の代価を支払って下さっています。そして、あなたがこの世に生まれてくるずっと前に、病気の代価も支払って下さいました。その後あなたは、彼が自分の罪の代価を支払って下さった事を受け入れ、彼を受け入れて救われたのです。そうでしたね?癒しもそれと同じです。ただ少し違うのは、救いの場合は人生の変化が伴うという点です。生活様式が変わるのです。しかし癒しの場合は、癒されても生活様式は変わらない事があります。生活様式を変えないなら、恐らくまた病気になるでしょう。それでも、癒しは受ける事はできます。しかしここで重要なのは、神がその両方において同じ事をされたのだという事です。神はあなたの咎を赦し、あなたの病を癒されました。あなたは自分の咎に対するイエスの贖いを受け入れました。ですから今度は、自分の癒しに対するイエスの贖いを受け入れて下さい。イエスが十字架の上でして下さった事は、自分の為にして下さったと信じて下さい。信者としてそう決断したはずなのです。そして、イエスが鞭打ち場でされた事もまた、自分の為にして下さったのだと信じて下さい。そしてそうするなら、私か他の誰かがあなたに手を置く前にさえ、あなたは癒されるのです。癒しは人の手によるのではなく、神の御霊によるからです。アーメン?癒しは神の御霊によって生じ、神の言葉を真理として受け入れた瞬間に、それは起こります。神による罪の代価の支払いを受け入れたなら、その瞬間に新生したのです。神が病の代価を支払って下さった事を受け入れるとすぐに、あなたはその現れを見、癒しを受け取ります。そんなにも簡単な事です。両方とも既に成し遂げられた事になっており、ただ「そうだ、それは私の為だ」と言うだけで良いのです。
さて、続けましょう。証しだけでも、ここで皆さんに何時間でも話し続ける事ができます。実際…ある日、一つの場所で、毎日9時から5時まで、ただ証しだけを話し続けたとしても、少なくとも2週間はそこに居られる事に気づきました。そういう事は頻繁にやっているのですが、実際に2週間ずっとそうしていられるのです。恐らくは、病気の種類や体の部分ごとに、分類して話さなければならないでしょうが。そして今、アメリカでもそれをするようになりました。私はどこに行くにも車で行くので、色々な高速道路を走っている時に、どの道路を走っていても、こんな風に言う事ができます。「この出口から降りた所で、こんな癒しが起こった。この町ではこんな癒しが、あんな癒しがあった。そしてこの道を降りて行くと…ああ、あそこに別の高速道路があったな。この道を降りた所で、こんな癒しがあった。」 私たちは、これまでとても多くの癒しを見てきたのです。そして驚くべき事に、それは今も続いており、私たちは神がなされるみわざを見て、とても驚いています。しかし同時に、さほど驚きもしないとも言えるのです。それは、神がみわざをなさるのを見れば見るほど、だんだん驚かなくなっていくからです。むしろこのように言います。「ああ、さすが神だ。そうとも。」そうして、「ああ、ちっとも驚かないよ」といった風にただ腑に落ちるのです。何故でしょう?神はそういうお方だからです。アーメン?
ですから、あなたの癒しはあなたがどれほど良い人であるかや、何をしてきたかや、他のどんな事とも関係ありません。良い事をしたのであれ、悪い事をしたのであれ、それはあなたが癒されるかどうかに、全く関係ないのです。そのどれ一つとして。私たちは皆さんの為に信仰を持っており、皆さんに癒しのミニストリーをするつもりでいます。しかし、神が探しておられるのは誰かの中の信仰だけなのです。その信仰があなたのものであれ、私たちのものであれ、そんな事は気にも留められません。今や、癒しは既に十字架によって成し遂げられている事が認識できるのです。それは既になされました。ですから厳密に言えば、癒しは信仰の問題ではなく、むしろ神に何ができるかについての私たちの信仰こそが、神を喜ばせ、神に栄光を帰すのです。ですから今夜私たちが癒しのミニストリーを始める時に、「自分は癒されるだろうか?以前も誰かに祈ってもらった。以前にも同じ問題があって、これまで癒された試しがない」なとど考える事すらやめてもらいたいのです。全て忘れて下さい。全部忘れるんです。何故でしょう?今夜は新しい日だからです。何故でしょう?神の恵みがとこしえに続き、神の恵みは日ごとに新しいのです。アーメン?今日は新しい日です。これは新しい時間であり、新しい分です。ですから、あなたが癒されない理由など一つもありません。癒しは恵みから生じるからです。そして神の恵みはとこしえに続きます。神はそういうお方なのです。神はジェホバ・ラファ、つまり癒す主であられます。イエスが代価を支払われたので、それはそんなにも簡単なのです。アーメン?
では今から、少し祈りましょう。さあ、私たちはミニストリーをします。必要に応じて人々に手を置きます。ただもし可能であれば…皆さんが自分で神と繋がって欲しいのです。ただ、自分が神と繋がっている事を知って下さい。後で振り返って、「少しの疑いもなく、あの時私は神と繋がっていた」と言える時が来るのは、素晴らしい事です。それほど素晴らしい事は、他にありません。では、今から祈ります。
父なる神よ、主よ、イエスの御名によって、私たちはあなたの聖なる御名をほめたたえます。あなたは素晴らしい方です。あなたはあらゆる異教の神々にまさる方です。あなたのような方は、他にいません。あなた以外に誰一人いないのです。あなたは最高主権者、天地を造られた壮大な神です。王としての知識によって、ご自分の創造物に恵みや愛や憐みを賜ると決められたのはあなたであり、あなたはそうすると決断されました。そして父よ、その事を感謝します。父よ、心からあなたに感謝します。今私たちがあなたと繋がり、ずっと繋がっていられる事を。またあなたの御霊によって、私たちがあなたと繋がり、その繋がりを通して、あなたの命や御力が私たちの中に流れ込んで、私たちを自由にし、癒し、解放し、救いや罪の赦しをもたらして、たった今私たちを清めてくれる事を。父よ、あなたの御力が実際に霊の領域にあり、稲光のようである事を感謝します。そして稲光が落ちると、その周りの空気そのものが浄化され、そこには病気が住み着く事はできません。ですから父よ、今あなたに感謝します。私たちが語ると、あなたの御力が稲光のように、男性や女性や子どもの体や魂の中を駆け抜けるのですが、同時にあなたは、穏やかな雨のような方法でそうされるのです。私たちを怖がらせたり、ショックを与えないような方法で。むしろそれは慰め、平安をもたらし、自由をもたらし、解放をもたらします。
そして父よ、今もイエスの御名によって、あなたに感謝し、あなたをほめたたえ、あなたに栄光と誉れを与えます。それを受けるにふさわしいのは、あなただけだからです。ですから父よ、あなたを賛美し、あなたに感謝します。父よ、あなたが代価を支払う為に、喜んで耐え忍び、ご自分の御子をこの地上に送って下さった事を感謝します。私たちの罪が赦され、私たちの不義が取り除かれた事を感謝します。父よ、病気や患いが、病が私たちから取り除かれた事を感謝します。あなたの御子ナザレのイエス・キリストの受けた打ち傷によって、私たちは癒されました。そして今も癒されています。今この時、この場所で、この瞬間に、あなたの御力を、あなたの御国の力を、人々の思考や体に対するあなたの支配権を、たった今私の声によって解き放ちます。今晩ここに来て、ここに居られるようにと、王なる神が喜びをもって、地球の反対側から送られた神の大使として…そしてあなたは、彼らもまたここにいられるようにあらかじめ定めて下さいました…そのような大使として、私は皆さんの罪が赦され、不義が取り除かれ、病が癒され、主の打たれた傷によって、皆さんが健やかにされた事を、ここに告げる光栄に預かっています。イエスの御名によって、今、ナザレのイエス・キリストが皆さんを自由にしました。今すぐ癒されよ、治れ、イエスの御名で。たった今ここで、過去は全て忘れ、そして確信して下さい。神の実在が、癒す為に今ここにあると。神の御力が癒す為にここにあると。神の御霊が癒す為にここにあると。そしてたった今、どんな問題にどれだけ長く面してきたか、どれだけ長い事それを患ってきたかにかかわらず、どれだけ治ったり再発したりを繰り返してきたかにかかわらず、今ここで、神の御力によって、あなたは自由になりました。癒されました。健康です。神の憐れみゆえに、そして神の恵みが永遠に続くがゆえにです。だから今、イエスの御名によって癒されよ。自由になれ。イエスの御名で。今イエスの御名によって、痛みよ、お前に命じる。この人たちから出て行け。お前にはここにいる権利などない。ここにお前の場所はない。お前はこれらの人々の為に死ななかった。これらの人々の為に代価を払わなかった。イエスの御名でお前に命じる、臓器よ、回復し始めよ、癒されよ。解放されよ。イエスの御名で。今すぐに。あなたを自由にします。今ここで、神の御力によって。化学的不均衡よ、治れ。イエスの御名によって。今、あなたを自由にします。イエスの御名で、今。では、以前できなかった事をしてみて下さい。
肺よ、今癒されよ、癒されよ。イエスの御名で、神の御霊によって、それが癒されるよう命じる、今すぐに。では呼吸してみて下さい。以前できなかった事をし始めて下さい。腕を伸ばせなかったのなら、腕を伸ばしてみて下さい。脚を動かせなかったのなら、動かしてみて下さい。片目が見えなかったなら、もう片方の目を手で覆って、そちらの目で見てみて下さい。今、耳よ開け、イエスの御名で。神の御霊によって、聖なる霊によって、イエスの御名で、今そうなるよう命じる。父よ、あなたの御霊を与えられた事を、そしてあなたの御霊によってこれらの御わざがなされる事を感謝します。必要な人々に与える事ができるよう、あなたがこの力を人に与えられている事を感謝します。その事ゆえに父よ、感謝します。今、あなたが私たちの中に置かれた知恵の霊、理解の霊、助言の霊を感謝します。主への恐れの霊を感謝します。私たちはあなたがどんなお方かを知っており、神であられると同時に父でもあられる事を知っています。父よ、その事を感謝します。今イエスの御名で、私たちはあなたに敬意と栄誉を表します。あなたを崇めます。あなたは崇められるにふさわしい唯一の方です。その事を感謝します。そして父よ、あなたの恵みがとこしえに続く事を感謝します。あなたに感謝し、今あなたを崇めます。さあ、神を崇め、神に感謝し始めましょう。まだ新生していない人がいるなら、今がそうするのに良い時です。今、もしあなたが聖霊のバプテスマと呼ばれるものをまだ受けていないなら、今それを受けるといいでしょう。神はそれが贈物であると言われました。それを求めるなら、他のものを与えたりはしないと。求めるものを与えて下さると、そう約束されているのです。ですから今、イエスの御名で、まだ聖霊のバプテスマを受けていないなら、今神に求め、受け取って下さい。イエスの御名によって。父よ、あなたはそれが、ご自分が私たちに与えたいと望んでおられる贈り物であると言われました。そして父よ、今祝福された聖霊を求めている人たちを満たし、彼らにバプテスマを与えて、溢れさせて下さい。
父よ、今私たちは言います。イエスの御名で、聖霊を受け取りなさい。聖霊のバプテスマを受けた人たちは、異言で祈り始めて下さい。これは聖書的な事であると理解していて下さい。メッセージの最中に、皆が同時に話し始めるのではありません。同時にやらないようにと言われているのは、そういう意味なのです。霊の内で礼拝し、祈るだけです。私たちと神との問題なのです。グループの問題ではありません。個人個人が神に祈るのです。では、今やっているように異言で祈り始め、礼拝し始めて下さい。異言を伴うような形で聖霊のバプテスマをまだ受けておらず、そうしたいなら、今がその時です。ただ受け取るだけです。受け取らないなら、ただ自分の言語で神を礼拝して下さい。そして神がどんな素晴らしい方であるかについて、神に感謝し、賛美し、神をほめたたえ、礼拝し始めましょう。神がどんなに素晴らしいお方であるかや、神がして下さった事ゆえに。神は素晴らしい神であられるからです。私たちを敵の罠から救い出されました。私たちはイエスの御名の内に、神の力強い御手によって贖われました。癌は頭(こうべ)を垂れなければならない。それは神の存在に耐えられない。癌は腰をかがめなければならない。癌よ、お前は聞き従え。イエスの御名にひざをかがめよ。今お前に命じる。エイズよ、今出て行け、イエスの御名で。血液系と免疫系が強まり、回復するよう命じる、イエスの御名で。今すぐにだ。腎臓に命じる、今機能し始めよ、イエスの御名で。腎臓よ、働け。仕事をしろ、イエスの御名で。今すぐにだ。正常に戻れ、イエスの御名で。正常になって、正しく機能せよ。イエスの御名で、今すぐに。心臓が癒されるよう命じる。今すぐ癒されるようにと。証しで聞いた、あの二つしか心室がなかったのが、四つに増えた赤ん坊のように。父よ、あの証しを感謝します。主よ、感謝します。あなたは素晴らしいです。あなたは素晴らしい。素晴らしい神です。あなたのような方は他にいません。そして今、あなたの御霊によって起こる癒しとゆるしと自由を感謝します。イエスの御名で。今すぐそうなれ。
さて、皆さんの中で私たちのDHTトレーニング(神癒技術者訓練)を受けた事がある人はいますか?この中でどれぐらいの人が受けたでしょうか?分かりました。よかったら訓練を受けた方は、その場で立ってみて下さい。ああ、そうですか。次はちょっとこちらに来て、壇上に上がって下さい。信仰告白の為に出てきてもらう時みたいですね。ここに並んでもらいましょう。さて、聞いて下さい。きっと今皆さんの殆どが感じている事でしょうが、これは通常の癒しの礼拝ではありません。私たちの癒しの礼拝に行った事がある方なら、これは平均的な集会ではありません。もっと分かりやすく言うと、ここには特定の霊があるのです。分かりますか?霊に敏感な人なら、きっと感じられると思いますが、そこには非常に敬虔な霊があるのです。いいですね?そして私の事を知っているなら、大半の場合私が楽しんでこれをしていると分かっているでしょう。何かを生み出そうとしているのではなく、むしろそれはただ神の御霊がこれらの集会でそちらの方向に動くからであり、それは良い事です。別にそれに反対しているわけではありません。私たちは常に神と共に動きますから。けれども同時に、私たちがここでしている事は、ただの見世物ではない事を皆さんに理解して欲しいとも望んでいます。これはただのショーではありません。何かを見せようとしているわけではないのです。穏やかに事を進め、皆さんを興奮させる事もしないし、集団で病的興奮状態にさせたいとも思っていません。無駄にわくわくさせて、後で結局何も起こらなかった、といった経験をさせたくないのです。皆さんに神の霊と繋がって欲しいと望んでいます。アーメン?それが私たちの願いです。そしてそれをする最善の方法の一つとは、ただ時間を割いて意識的に神と繋がろうとする事です。私たちがこれまで常にやってきたように。さて、これは既になされた事であり、今からしようと予定している事ではありません。既になされたのです。たった今、ここにそのような霊を感じるのは、それが理由です。この部屋にもそれが感じられるし、そしてそれは、ある種の神性さと表現するのが最善でしょう。お分かりでしょうか。それは通常、殆ど重々しいとも言える形で現れますが、ただ憂鬱にさせる重々しさではなく、これまでもずっとそうであったような、穏やかな静けさなのです。
そして、今癒しが必要な人は、手を挙げて下さい。体の癒しが必要な人はどれくらいいますか?既に癒された人の方が、まだ癒されていない人よりも多いように思われます。普段とちょっと違いますね。さて、今からミニストリーを始めたいと思いますが、留意していて欲しい事があります。私はそちらに行って、この壇上にいる人々と一緒に皆さんの為に祈り、皆さんに手を置きます。それは問題ありません。ただ、どこかの時点でキリストの体である教会は成長しなければなりません。そして皆さんは、人に目を留めるのをやめなければならないのです。お分かりでしょうか? そしてキリストに目を向け、キリストの霊を持っている人は誰でも、キリストの御霊を持っている他の人たちができるどんな事でもできるのだと確信していて下さい。アーメン? そう、それが私が、何らかの特別な人物になろうとしていない理由の一つです。むしろその逆を行こうと努めています。自分がする仕事がなくなってしまうよう、懸命に働きかけているのです。本当ですよ。しかし、気づいて欲しい事があります。ミニストリーが始まって…彼らがそちらに行って、皆さんに癒しのミニストリーをする際に…このミーティングではそのようなやり方をしようと思いますが…私が祈る人を呼び集めるのです…私はそれをイエスのもとに行い、他の祈り手たちはこの時点において、それを私のもとに行います。いいですか? ですから、私たちは繋がっているのであり…彼らがあなたに触れたら、それは私があなたに触れているようなものです。そして私があなたに触れるなら、それはイエスがあなた触れているようなものです。皆が同じ霊を持っているのですから。アーメン?そんなにも簡単な事です。ですから、クリスチャン流の偶像崇拝に陥って、こんな風に言ってはいけません。「私は彼に触ってもらいたい。その為に来たのだから。」そんな風に言わないで下さい。何故ですって? 重要なのは神であって、人ではないからです。アーメン? 私たちは成長する必要があります。そしてそれがわからないなら、外にいる人々の人生に触れる者となって、神に用いられる事はできないでしょう。他の誰かに病人に触ってもらおうとして、常に人々をこのようなミーティングに引っ張ってくるようになるからです。アーメン?
それでは、ミニストリーを始めたいと思いますが、それは皆同じイエスの御わざです。そして先ほども言ったように、私は皆さんのところを回り、他の人たちと一緒に皆さんの為に祈りますが、どうかその事を忘れないで下さい。人に目を留めるような考えを持っている限り、巧みに操られて、利用されてしまうでしょう。そうなってしまうのです。どうかそのように考えるのはやめて、今私たちがキリストにあって一つなのだと確信して下さい。キリストが私たちの中におられ、私たちは彼の中におり、「私は大物だが、あなたは小物だ」などといった区別は一切ありません。皆が一緒にこれに携わっているのです。アーメン?
さてそれでは、もう一度。病気で体の癒しが必要な人は、手を挙げて下さい。この壇上にいる人たちは、彼らのところに行って下さい。できるだけ男性は男性のところに、女性は女性のところにお願いします。できるだけそうした方がいいです。別に堅苦しいルールというわけでもありません。では、あちらに行って、祈り始めて下さい。彼らが祈っている間、私もそれに同意して祈ります。今ここで。そして私は、具体的な症状を知っている必要はありません。そこが素晴らしいところです。今イエスの御名で。このセミナーに出ていたなら、手を置く事によって聖霊を流すと話していたのを聞いた事でしょう。癒しにおいては、語る言葉や、見つめる事によってすらも、聖霊が流れるのだと。私がここから見渡して目を合わせ、言葉によって触れる時に、その事を知っていて下さい。私は語っています。あなたは癒されています。今ここで。神の聖霊によって、たった今です。イエスの御名で、あなたを解放する。癒されて健康になれ。私たちは病人のところを回ります。実際に、私もそちらに行って祈ります。イエスの御名で、その御名によって、完全に癒されるよう命じる。そうなれ。そうなれ。それに同意する、同意する。さあ見ていて下さい。イエスの御名で、イエスの御名で。完全に癒されよ。癒されて健康になれ。イエスの御名で。今そうなれ。今すぐに。イエスの御名で。そうなれ。そうなれ。アーメン。命と強さと健康。癒され健康になれ、イエスの御名で。癒されて健康になれ、今すぐに。イエスの御名で。イエスの御名であなたを解放する。ナザレのイエス・キリストの御名で、癒されよ。今すぐに。癒され健康になれ。今、頭のてっぺんからつま先まで、イエスの御名で。アーメン。
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