2019年1月25日金曜日

DHTT セッション7

もし私の教えを聞いて癒しの結果を出す事を諦めてしまうなら、悪魔はもっと簡単にあなたを諦めさせる事ができるでしょう。何故なら、悪魔は私達が癒しの結果を出す事を妨げようとします。私達が常に信仰に堅く立って戦い続ける事を悪魔は嫌います。悪魔は狂っているかもしれませんが、まぬけではありません。悪魔は長い間地上で生きてきました。悪魔は、もしクリスチャンが彼に向かって立ち上がっても、彼が少しの間立って耐えるなら、大半のクリスチャンは諦めて去っていく事に気がつきました。ですので、私達は最終的にどちらかが先に去るまで面と向かっての耐久勝負をする事になります。もし私達が堅く立つなら悪魔を打ち破る事ができます。敵を打ち破る為には、根性で堅く立ち耐え忍ぶ事か、堅く立ち続ける評判を確立する事です。一度その様な堅く立つ評判ができれば、悪魔はより早く逃げ去ります。何故なら、悪魔は私達が絶対に身動きしない事を認識するからです。基本的には、信仰によって歩むとは私達が起こって欲しい事を決めて、それが起こるまでは絶対に諦めない事です。その様な信仰の定義は多くの人に好まれるものではありません。何故ならそれは勇気と同じものだからです。それは、誰もが逃げ去っても、一人で立ち続ける事です。多くの人は、信仰は神秘的なものと考えがちです。私達が最後に打ち負かした問題が、私達の強さの度合いを表します。又、私達の強さは最後に私達が打ち負かされた問題よりも僅かに小さなものです。もし信仰を得たいならただ堅く立ち続ける事が必要です。信仰は質であって量ではありません。信仰は誰もが逃げ去る時に堅く立ち続ける力、私達が逃げ出したい時にも進み続ける力です。私達が学んだ事を実行するにつれて結果が出てきます。私達が教えていく程、神は学んだ事を教えの中で生かしてくれます。覚えておくべき事は、実践の経験によって役立つ事は吸収して役に立たない事を拒否して、自分に必要な事を吸収する事です。私の言った事が気に入らないからそれを受け入れないという意味ではありません。どういう意味かというと、もし教えられた事が本当に役立ち結果を出すのなら受け入れて、もしそうでないなら捨てるという事です。それが秘訣です。神の言葉は私達の信仰と行動の最も重要な規則です。ある人は「それはもう知っています」と考えるでしょう。多くのクリスチャンはそう主張します。もし大半の教会に尋ねるなら、人々は答えます。「はい、私達は神の言葉を信じ、それによって歩みます。」もしそれが真実なら教派は存在しないはずです。ですので、私は今から神の言葉は私達の信仰の最終的な権威である事を説明します。もし自分の経験が私達の信仰を決めるものなら、そういう人は私が御言葉を話す時に言います。「確かに、聖書には彼の打ち傷によって私達は癒されたと書いてあります。しかし、私は病気を持っていて祈っていたのだけれども…」そうやって、毎回経験や教義や何かを持ち出して言うでしょう。もし、癒しが今でもあると聖書が言うなら、癒しは今日私達の為にあります。私は他の人の達の経験を配慮します。しかし、私達の仕事は、私達の経験を神の言葉と一致させる事です。

他人の経験に賛同する事ではありません。「まあ、時にはその様な事もあります」という感じで賛同はしません。私はよくこう言うのを聞きます。「神は、時には私達の祈りに答えてくれて時には答えません。時には長く待たなければいけません。」そう言いたくなるのは分かりますが、それは聖書の言っている事ではありません。聖書は、神の約束はキリストイエスにあって、「しかり」であって「否」ではなく、イエスにあってアーメンであり、その通りになれと言っています(IIコリント1:18-20)。「いいえ」ではなく、「そうかもしれない」でもなく、「ちょっと待って」でもありません。私達は人生において、神との間で何か特別な事を求めている時があります。その様な時には、神からの具体的な答えを待つ時もあるかもしれませんが、霊的な戦いや、その他の場合においてはキリストの贖いに含まれているものは、いつでも全て神から受取る事ができるべきです。疑うべきではありません。キリストの贖いに含まれている事は神に願う必要はありません。ただ神に従えばそれらの贖いに含まれたものを経験する事ができます。もしそれが癒しに関連した事なら、祈る必要や断食する必要もありません。病気や患いは完全に打ち負かされたので、ただ病気や患いに去る様に命令するだけです。「私は良いクリスチャンなので、この病気に耐えます。神は、病気を通して、私を試しています」と考えないで下さい。イエスは私達の全ての病気や患いを負いました(イザヤ53:4、マタイ8:17)。病気や患いはあなたの人格を成長させる為ではなく、殺す為のものです。私達が死なない理由は神から免疫力を与えられているからです。免疫力のおかげで、ちょっとした病気なら死ぬ事はありません。神に感謝するべきです。もし私達が免疫力を持っていないなら、どの様な弱い感染も私達を殺す事ができます。私が強調したい事は、キリストによる贖いに含まれているものは何でも私達のものである事です。全てです。私達は約束を与えられています。イエスは言いました。「信じる者が病人に手を置けば彼らは癒されます(マルコ16:18)。」とても単純です。


とても役に立つ表現があります。それは、「もし神が私達に約束を与えるなら私達とその約束の実現との間に逆らって立つものは、何でも悪魔からのものであり私達が打ち壊すべきものです」というものです。神の約束について説明します。この約束は預言の言葉も含みますが、主には聖書に書いてある約束の事です。聖書には、聖徒達は「勝利を得る者」と書いてあります(黙示録2:11)。コソコソとした者とは言っていません。多くの人は、困難なしで人生を送ろうとします。もし困難や問題があるなら、神は彼らに敵対していると考えます。初代教会は困難を予期していました。彼らはそれが来る事を知っていました。しかし、彼らは困難がいつも来る事も信じてもいなかったし、それを賞賛する事もしませんでした。何故なら、もし私達が困難に遭う事を正しい教会の基準としていたら、エホバの証人は正しい教会という事になってしまいます。ですから、誰かが迫害されているからといってその人が正しいとは限りません。しかし、私達が迫害を受けていなかったら、私達は恐らく正しい道を歩んではいないでしょう(IIテモテ3:12)。

私達はまだ十分な宗教の霊を怒らせていません。私達はまだ霊的領域で知られていません。ですから、私達はある時点で何があろうとも進み続ける決心をしなければなりません。私達と神から与えられた約束の実現の間に立つものは、全て打ち負かされるべきです。その立ちはだかるものがある時に、「主よ。何故私達をエジプトで殺されなかったのですか?何故この様な事を経験させるのですか?何故今、私がこの様な経験をする事を、この様な事が起きるのを許すのですか?」という感じでイスラエル人の様になるのをやめて下さい。新しい契約の下にある神の子になって下さい。そして、周りの状況を見て言って下さい。「神に栄光が帰される様に。ここに神の言葉が真実である事を証明する機会があります。私はこの状況に勝利します。そして、私が勝利するなら私の居場所は天で確保されている事が分かります。」


話の要点は、神は「何の困難もない人が天に入る」とは言われず、「天に入るのは勝利する者達だ」と言われたという事です(黙示録2:11)。私達に困難がないのなら、勝利する事はできません。私は今までに一度も誰かから電話があって、その人がこう言うのを聞いた事はありません。「カリー、神に栄光を帰します。私は今、試練を経験しています。神に栄光を帰します。ただあなたとシェアしたかったんです。今は私の人生でのすばらしい時です。」私はまだ誰からも、その様な事は聞いていません。しかし、その時を待っています。聖書は様々な試練に遭う時には、それをこの上もない喜びとしなさいと言っています(ヤコブ1:2)。何故でしょうか?それは地獄がその人を警戒しているからです。それは地獄が私達の事を知ったという事です。それは、私達が地獄での評判を立てたので、地獄が幾らかの手下どもを、私達を狩る為に送ったという事です。私にはまだこの事は起きていませんが、待っています。その聖書箇所を読んで下さい。試練に遭う時には、それをこの上もない喜びと思いなさい(ヤコブ1:2)。


第二次世界大戦中、ノルマンディー作戦の以前にナチスが唯一憎み恐れた軍司令官がいました。それはパットン軍司令官でした。多くの人は、彼が問題を起こした事を知りません。彼は二人の兵士をはたきました。彼は軍の医療班のテントで戦闘の為に、精神的に披露した二人の軍兵を見つけました。彼らには身体的な問題はありませんでした。パットンは彼らをはたきました。一人を平手打ちして、もう一人には拳銃を突きつけて、その場で彼を撃たなければならないと脅しました。その出来事は報告され、ニュースで報道されました。すぐにアイゼンハウワー大統領は、パットンを軍の職務から解かなければなりませんでした。大統領は、パットンを一旦英国に引き戻しました。人々は大統領に「何故、パットンを職から解き、母国に送還させなかったのですか?」と尋ねました。彼はこう答えました。「それはできません。彼は戦いに勝ちます。」時々、私達は戦争に勝つのは政治家ではない事を忘れがちです。大抵、政治家が戦争を担うと長引きます。

兵士や戦士は、素早く戦いに勝ちます。ノーマン・シュワルツコフの件がいい例です。ですから、私達が戦いに勝ちたければ戦士を送ります。政治家ではありません。何故なら、政治家は誰とでも友好的になろうとするからです。戦士は行ってこう言います。「では、今から何が起こるか教えよう。あなたは降参するか、死にます。どちらがいいか?」これが私達の身につけなければならない姿勢です。それは、私達にはあらゆる霊的な戦いにおいて絶対的な支配権があるからです。戦いの勝敗は私達次第です。私達の司令官は戦いに勝つ為の全ての武器は与えてくれました。私達が戦いに負けるのは、私達自身がその与えられた道具や武器を使わないからです。その武器の一つは信仰です。多くの人は信仰を失います。何故なら、彼らは信仰が何であるかも理解していないからです。ですから、彼らは信仰を持っているかの判別もできません。私は他人が信仰を持っているか判別する事ができます。


その人が、戦いにおいて神の約束に今も堅く立っているなら信仰があります。聖書は「苦難の日に気落ちするなら、あなたの力は弱い」と書いてあります(箴言24:10)。立ち続けて下さい。戦いの勝利は神次第ではありません。神は私達の失敗に責任はありません。いいですか?イエスはいつも勝利しました。イエスは一回も戦いに負ける事はありませんでした。私達はこれについてもっと良く考えてみる必要があります。私達は悪魔の餌食になる為にこの地上に生きているのではありません。私達は勝利する為にここにいます。悪魔は私達が打ち負かし勝利する事を練習する為にこの地上にいます。ある人々は「私はそれには賛成できません」と言います。


旧約聖書を見てみましょう。旧約聖書では神はカナンの地に5つの部族を残します。それは戦いを知らないイスラエルの新しい世代とその部族が戦争をして、戦争がどの様なものかどの様にして戦うかを学ぶ事ができる為です(士師記3:1-4)。神はその5つの部族に向かって「あなた達はこの地に留まります、何故なら、後で私の子供達が来てあなたと戦い、どの様にして戦うかを学び、あなたを打ち負かします」と言われました。これが悪魔に対しての神の言葉です。悪魔は打ち負かされる為のものです。人々は「もし悪魔が戦場にいるのならただ殺せばいいだけです」と言います。そうです。ただ打ち負かせば良いのです。そうすれば敵はいなくなります。私達はこの地上に勝利する為に生きています。悪魔は打ち負かされる為にここにいます。それが彼の存在している目的です。ですから、悪魔を打ち負かして彼が目的を達成する事を助けてあげましょう。単純ですよね?全てのものには目的があります。私達の目的は勝利する事です。悪魔の目的は敗北する事です。


軍はパットンをその職務から解いてイギリスに引き戻しました。そして最終的には、いわゆる「影の軍隊」を任せました。影の軍隊とはただの書類上の軍隊です。言い換えると、その軍隊には誰もいません。何故ナチスが彼を憎むと同時に恐れたかというと、それは唯一つの理由の為です。それは、彼は戦う事を好んだからです。路上であろうと、軍隊であろうと、誰でも戦う事が好きな人を見つけるとその様な人とは戦いたくないでしょう。その様な人は勝ち負けに関係なく戦う事を楽しむからです。私達はそれを学ばなければいけません。私達は戦いを楽しまなければいけません。私は、勝ち負けについて話しているのではありません。何故なら、私達のしている癒しでは度々勝ち、度々負ける事はできないからです。負けるという事は誰かの死を意味するからです。だから負ける事はできません。超霊的で神秘的な考えを捨てて下さい。癒しは超霊的な事ではありません。ただ人が癒される事だけではありません。私達は誰か他の人の為に戦っています。


それはイラクにいる私達の国の軍隊の様なものです。政治について議論するつもりはありません。ただ言いたい事は私達が賛成しようがしまいが、兵士達は自分達の選択でイラクにいます。この様に、私達も戦いを敵の陣地に持って行く必要があります。敵が家の戸を叩くまでは待ちません。私達の中には、戦争を戦う事をまったく知らない世代がいます。彼らが平和ボケしている間に、明日戦争に行くつもりで訓練している人々がいます。その様な人々はいつ問題が起きても対処できる様に訓練をしているので、問題が発生すれば24~36時間以内に世界中の何処にでも彼らを派遣する事ができます。クリスチャンもそうするべきです。悪魔がやって来て私達の扉を叩くのを待つのではなく、癌を扉まで持って行って下さい。病気を扉まで持って行って下さい。病気は何処ででも見つける事ができるはずです。人々の家まで行って病気を見つけて、病気をとことん追跡するべきです。何故なら、もし病気が病人の家を去ったら、次は私達の家に入ってこようとするからです。いつも他人の縄張りで戦う方が有利です。戦いを敵の陣まで持って行って下さい。敵が戦いを私達の家まで持ってくるのを待たないで下さい。敵のいる所で戦えば、私達は去りたい時にいつでもその場を去る事ができます。そして、自分の家に平和を持って帰って来る事ができます。敵を待っていたら自分の家で毎日戦う事になります。それは困難です。これを理解しなければ、毎日自分の家で戦う事になります。私の言っている事を信じて下さい。


毎日起きて、自分の家で愛する人がベッドの上に病気で寝ているのを見ながら、その病気や死と戦う事は苦痛です。悪魔は、戦いが長引けば大半の人々は戦いを諦める事を知っています。彼らは戦いの終わりが見えないので諦め始めます。アメリカ人はすぐに諦める事で有名です。最初の湾岸戦争は完璧でした。100時間で私達の勝利にて終結しました。アメリカ軍は現地に大きな火力で赴いて、1週間以内に戦争を終わらせました。しかし、私達は長い戦いの後には疲労する事を知っています。その様な時には、他のクリスチャン達が共に集い支えあうべきです。


パットンの話に戻ります。今から話す事を強調したいからです。今から話す事を理解して下さい。今から話す事を理解するなら、自分の為ではなく他人の為にもっと戦う事ができる様になります。私は1997年以来、自分の為に祈る必要はなくなりました。私が1999年に足を骨折した時を除いてです。自分の為に戦う必要がない事は良い事です。他の人達の為に戦う為に時間を費やす事ができるからです。彼らがパットンにした事は、彼を英国に連れて行きジープに乗せて軍隊を任せました。何故なら、彼らは軍の中にはナチスのスパイがいて、情報はすぐにベルリンに報告される事を知っていたからです。なので、彼らはパットンをジープに乗せて、英国の北岸の全土を走らせ、対岸のドイツ軍の動きを観察させました。パットンが英国の南から北へ岸沿いに北上するに連れて、対岸のドイツ軍の戦車などの機甲部隊もそれにつれて移動しました。ドイツ軍は攻撃が来る事を知っていましたが、ただそれがいつ来るのかは知りませんでした。彼らは「もしアメリカ軍が賢ければ、侵略してくる時にはパットンが先頭に立つに違いない」と考えていました。


その様に優秀な兵力を動かしたナチス軍は、ある意味賢かったと思います。大半の人達は、優秀な戦力を使おうとしないからです。ですから、パットンが北に移動するにつれてドイツ軍の兵力も北に移動しました。その様な事を何週間にもわたって繰り返す事によって、ドイツ軍は機甲部隊などを動かす為に何千ガロンもの燃料を無駄に使う事になりました。しかし、パットンはジープを運転するための燃料しか必要としませんでした。何故この様な事が可能だったのでしょうか?それは評判です。パットンがドイツ軍の中で得ていた評判の為でした。何故この様な話をしたのでしょうか?それは、あなたに地獄での評判を得て欲しいからです。私達は、毎朝起きて車に乗って家を出て何処にでも行く時、地獄が、私達がどこに行くかを知る為に、悪霊の群れを偵察する為に放つ様になる位にならなければなりません。私達が毎朝起きた時には、悪霊たちが私達を恐れる様になるべきです。今から話す事はとても変わった事の様に聞こえるかも知れません。2つの聖書箇所を読みます。マルコ16章には、「信じる人々には次の様なしるしが伴います。病人に手を置けば病人はいやされます」と書いてあります。なので、癒しはしるしです。信じる者が病人に手を置く事はしるしです。


次に、Iコリント14:22です。そこでは異言は、誰の為の何の為のしるしだと言っていますか?未信者ですよね?何故でしょうか?それは、信じる者はすでに異言で話しているからです。なので、しるしは決して信じる者の為ではない事が分かります。何故なら、イエスは「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と言っています(マタイ16:4)。私達はその様な時代ではありません。その悪い姦淫の世代の様に振舞う事を止めて下さい。私達は彼らとは違います。私達は信じる者です。もしかしたら、ある人は「私には十分な信仰があるかどうか分かりません」と言うかもしれません。そんな事はありません。

私達には信仰があります。信じる者だからです。使徒の働きから後には、聖書には誰も信仰を持たなければならなかった事や信仰を得ようとした記述はありません。もし信じる者なら、信仰があると見なされていました。問題はどれだけ大きな信仰を持っているかではありませんでした。何故でしょうか?何故なら、信じる者として私達には十分な信仰があるからです。イエスを信じる者なら十分な信仰があります。一番の奇跡は救いですよね?それは癒しよりも偉大な事ですよね?もし、私達が救われるのに十分な信仰があるのなら、明らかに癒しの為には信仰があるはずです。


例えば、もし私が一万円札を持っていたら、千円の商品を買う事ができます。何故なら、一万円は千円よりも大きいからです。もし救いは、癒しよりも偉大な奇跡だと信じるのなら、救いの為の信仰があるならば、癒しの為の信仰もあります。信仰は問題ではありません。何が問題か知っていますか?根性(忍耐)です。堅く立つ気がありますか?御言葉が真理であると決心する気がありますか?例えを話しましょう。しるしについて先程、話していた事を覚えていますか?マルコ16章とIコリント14章より、癒しや異言はしるしです。広告掲示板を教会や集会場には建てませんよね?何故でしょうか?それは、彼らはこれらの場所では多くの人がその広告掲示板やしるしを見る事はないと考えるからです。

彼らは、看板やしるしを多くの人が通り過ぎて見る所に置きます。しるしは多くの人に見られる所に置かれるべきです。もし、異言や癒しが不信者のしるしなら、何故それらが実践されるのが教会の中だけなのですか?癒しは不信者の為であって、教会の中では本来は行われる必要のないものですよね?新約聖書ではヤコブ書の5章だけに、癒しの為に信じる者が他の信者に祈る様に書いてあります。それも、今の様な教会の建物の中での事ではありません。長老達が実際に病人の家に行って祈る様に書いてあります。初代教会には癒しの集会などなかった事を知っていますか?癒しの集会が開かれたという様な記録はありません。それに近いものでも、パウロが行った癒しの例の一つでは、彼はその人に信仰のある事を認めました。実際に、その病人は自分の癒しの為に信仰を持っていたので癒されました。しかし、聖書の何処にも癒しの集会についての箇所はありません。それは救いの招きの様なものです。それが間違っているというわけではありません。しかし、聖書には書いていないという事です。


確かチャールズ・フィニーが始めて、ムーディーがそれを引き継いで、人々がもっと効果的に悔い改めの決心をする事ができる様にしました。私達は人々を悔い改めの決断に導く必要はありますが、それよりも人々を弟子訓練に導く事がより良い事です。多くの人達は悔い改めの決断はしますが、弟子訓練のための決断はしません。私達が行う癒しは、私が教えている事は教会で行う事ができます。本来、癒しを行うべき場所は教会ではありません。教会の外です。

癒しを特別な出来事として理解する限り、決して癒しをすんなりと行う事はできる様にはらないでしょう。癒しが特別な出来事から日常の生活の中の出来事になる時、癒しをすんなり行う事ができる様になります。「癒しが特別な出来事である事はどの様にして分かるでしょうか?」癒しが時々起こるものである限り、癒しは出来事です。癒しが水曜日や日曜日だけなら、癒しは出来事であって生き方ではありません。しかし、癒しが生き方になる時、私達はいつでもどこにいても出来ます。その様な時、癒しをすんなり行う事ができる様になります。より多くの結果を見る事ができます。そして、癒しの結果も安定したものとなります。最初に癒しを行い始めた時には、癒しは安定していつも起きないかもしれませんが、続けていると癒しの起きる頻度は増して安定してきます。私達がするべき事は選ぶ事です。私達は朝起きて言います。「今日は働かなくていいので、スーパーに行って祈るべき人達を見つけよう。」私達はその様に決断します。私はその様にしました。その様にして癒しを行い始めました。私は言いました。「スーパーに行って祈ろう。何故なら、病気にはうんざりしたから。スーパーは南の方にあって、少し運転しなければいけないけど、行きます。」スーパーを例に挙げているのには理由があります。何故なら、私は幾つかの場所で人々の為に祈りましたが、ある場所では店員や警備員に止められたり邪魔されたりしました。しかし、スーパーでは、その様な事は起きなかったからです。それは彼らの方針なのかは分かりませんが、私はいつも祈る事ができました。ですから、私達は選ぶ事ができます。自分で決断して立ち上がって、人々の為に祈りに行く事ができます。


例えば、スミス・ウィグルスワースです。彼は、毎日1人をキリストに導く事を決めていました。ある時に彼は、夜遅くまだ誰かに証しをしていないと気づき、外に出てすぐそこにいた男に証しをしました。もし癒しと救いが、神が与えてくれたものなら、私達も同じ事を癒しについてもできます。そして、私はその様にしました。私は言いました。「癒しは、教会だけで行わなければいけない事ではない。もし私の行っている癒しが真実なら、何処にいても効果がなければいけないはずだ。」それが理由です。私達が教会にいる時には色々な教義、色々な理屈を作り上げる事ができます。しかし、私達がスーパーに行った時には、私達は他人に向かって「あなたは信仰に堅く立って下さい」と言う事はできません。分かりますか?今日の教会だけで行われている癒しは本来のあるべき癒しの現実から離れたものになってしまっています。


私達は、自分達だけの小さな教会の文化を持っています。私達は正しいクリスチャン的な言葉や正しい語調やどの様に振舞うべきか、どの様な見栄えであるべきか知っています。例えば、私達が昼食をしに出て行って、座って昼食を食べる前には皆が周りを見回して、「食べ始める前に祈りましょう」と言うのを知っています。もし私達が周りにいる人達を知らないなら祈ります。もし知っているなら、祈る必要はないと考えます。

私達はその様に振舞いがちで、その様な傾向があります。或いは、この様な頭痛の祈りの格好をします。腕を頭の上に乗せて、まるで頭痛を持っているかの様な格好を取って祈ろうとします。それは祈りの格好をしているだけで、祈りではありません。それか、もし誰かがここで前まで来て膝を突いて、これが祈りの姿勢ですと言っても、それは教会でしか使えないでしょう。また、もし私が「あなたは神の義が必要です」と言うと、私達なら何の事を言っているか理解できると思います。しかし、路上にいる人々は何を意味するか知りません。私達が出て行って「イエスは義です」と言っても、人々は「義って何?」などと言うと思います。彼らは教会が使っているのと全く違った言葉の概念を持っています。


まず、私達が教会でする必要のある事は、教会用語を誰でも理解する事のできる日常の言葉に変える事です。でも問題は、そうする時教会に再び戻ると、「あの人は聖書的な言葉を使っていない」と思われます。私は普段、クリスチャンに教える時には、必要ならヘブル語やギリシア語で言葉の意味や定義を調べます。しかし、路上の人や未信者と話す時には、私は「救い」や「義」といった言葉は使いません。彼らはそれらの言葉が、どの様な事を意味するか知らないからです。もしその意味を知っていたとしても、大抵は間違った意味で教えられているからです。私の言いたい事は、軍隊の様に考える事です。必要のないものは全て捨て去る事です。兵士は着飾って戦場に行く事はしません。軽量で歩き周ります。宗教的な必要のないものを捨て去る必要があります。外に出て行って祈る時には、祈る人の最低人数をあらかじめ設定して、目標を立てて下さい。目標を作る事は良い事です。「私はこれだけの人の癒しの為に今日は祈る」という様に決めて、祈りに行く事は間違った事ではありません。始めはその様に目標を定める必要があるかもしれませんが、それも次第に減っていき、自然なものとなります。癒しの為に祈る事は習慣となります。


ある人は、「癒しを習慣の様に無意識でするのなら、それは正しい事ですか?」と訊きます。その質問をする事自体が問題です。その人は、人々を助ける事よりも自分の報酬の事を考えています。パウロはこの様に言いました。「たとえ私が持っている物を全部貧しい人たちに分け与え、私のからだを焼かれる為に渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません(Iコリント13:3)」。しかし、それは彼から与えられた人々には役に立ちますよね?私達は物事を正しい動機でも、間違った動機でもする事ができます。どちらにしても人々は助けを得る事ができます。パウロは「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。…すると、どういう事になりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたでキリストが宣べ伝えられています」と言いました(ピリピ1:15-18)。私達はいつも「でも私は、どの様にするかの導きもないし、動機も正しいか分かりません」と言います。しかし、私はあなたの動機が正しいか正しくないかを見分ける事ができます。

動機が正しいかどうか考えている事自体が、その動機は正しくない証拠です。それは、私達は自分の事に焦点を置いているからです。私達が自分の事について考えている限り、キリスト教の本質の表面すら触っていません。他の人々を助けに行く前に自分の事について考える事を止めて下さい。完璧な者になろうとする事を止めて下さい。私達は人々を助けるにつれて自分も修正されていきます。


私達は以前、「私達がこの世に生まれた時には、胸に神だけが満たす事のできる穴を持って生まれてきます」と伝えていました。新生した時には私達は、新しい穴を持って生まれてきます。それは仕える為の穴です。そして、私達が人々に仕え始めない限り、その穴は満たされません。それが、私達がいつもあれこれ新しい流行や教えを追い求め続ける理由です。それらのものによって、その穴を満たそうとするからです。一度、私達が人々に仕え始めれば私達は満たされ、全てが変わります。


教会について、私がいつも思う事があります。私はそれを逆行した教会と呼びます。何故なら、私達はいつも、何でも逆にする傾向があるからです。例えば、私達が伝道しに行く時は、人々を集めて出て行って他の人々に言います。「あなたは救いにあずかる必要があります。神との正しい関係を持つ必要があります。心をキリストに明け渡して下さい。彼は、あなたの人生を変えてくれます。彼はあなたを救ってくれます。」大抵、彼らは答えます。「でも私は、その前に自分の人生を正さなければいけません。キリストの下に来る前にそれをきれいにしなければいけません。私は準備ができていません。」それを聞く時に私達は心の中で言います。「違います。あなたは分かっていません。あなたはイエスのもとに来る為に自分自身を正しく直す事はできません。イエスのもとに来る事によってあなたは正しくされるんです。」そうですよね?


例えば、その人を説得して教会に導いたとします。彼が悔い改めて教会に来始めたとします。彼らは教会に座って、説得させられたとしてもある時点で言うでしょう。「私の人生には多くの問題がありすぎてメチャクチャです。」それでこう答えるでしょう。「違います。あなたは分かっていません。あなたは自分自身を直す事はできません。全ては恵みによります。行いによるのではありません。もしあなたが自分で自分を修正できるなら、キリストは必要ありません。なので、全て恵みです。絶対的な恵みです。ただ神のあわれみに身を投げて下さい。」その様に私達はいつも言いませんか?こうして彼らを説得します。彼らは悔い改めて、そして、教会に来て2~3週間位経ったとします。そこで、ある牧師が来て癒しについて教えたとします。「神は癒します。癒しは贖いの中に含まれています。彼はあなたを癒したいと思っています。彼はあなたを自由にしたいと思っています。もし癒されたいなら、ここに並んで下さい。」

そして、3週間前に救われて教会に通い出した男の人はまだ問題や悪い癖があるとします。彼は、それをやめようとしているのに、やめる事ができないでいます。それで、ついに彼は立ち上がって、「私は身体的な問題があります。それから癒されたいです」と言い、列に並んで前まで来ます。そして、その牧師は彼に訊きます。「何が問題ですか?」彼は答えます。「私はこの問題があります。それから、こんな問題もあります。」それから牧師は言います。「分かりました。」そしてチェックリストを見て言います。「あなたは救われていますか?」(男の人)「はい」(牧師)「聖霊のバプテスマを受けていますか?」(男の人)「はい」(牧師)「あなたの生活の中で罪はありますか?」(男の人)「はい、もちろんあります。」それを聞いて牧師は言います。「罪があるんですか?汚れた人ですね。席に戻りなさい。あなたの生活の中の罪を取り除くまで、あなたは癒されません。」


考えてみて下さい。道端にいる時には全ては恵みで、彼らを教会に導いた後は全てが行いです。私達はいつも聖書とは違ったやり方をしている事が分かりますか?私達は全てを逆にしています。それなら、病人は罪人として路上にいた方がましです。何故なら、そうしたら少なくとも神がその人に憐れみをかけて彼を癒し、良いお方である事を示すかもしれません。違いますか?しかし、彼らを、一旦教会に導くと、次の様に考える傾向があります。「あなたが、教会の扉を超えて入ったら、もし、あなたが救われているなら、私達が定めた基準に従って生きなければいけません。」そして、彼らが弟子になる様に助ける事をしません。いいですか。理解して下さい。


聖化について話す時には、私達は一貫して罪から離れる事について話します。初代教会は明確な聖化の教えをしていましたが、最近ではその様な教えから逸れてきました。初期の教会時代の頃には聖化とは一瞬にして罪に死んで、罪は私達に対して何のコントロールもなくなる事でした。誘惑が無くなる訳ではありません。しかし私達は、誘惑には自分を明け渡しません。戦いは、時には、自分を罪や誘惑に明け渡さない事です。自分を明け渡して、それからまた罪や誘惑から抜け出そうとする事ではありません。それが大半の教会が教えてきた事です。聖化の定義はその様なものではありません。「救われたら、罪を犯す事がだんだん減って行くべきです。」聖化をその様に定義するべきではありません。その定義に沿って歩むべきではありません。私達は罪に対して死んで、そして誘惑による煩いは減っていきます。誘惑がなくなると言っているのではなく、誘惑との戦いが減って行くという事です。分かりますか?それが聖化です。


それはヨルダン川を渡ったイスラエル人達の様です。神は何故、彼らにその川を過ぎて進み続ける様に言ったのか分かりますか?それは、彼らがヨルダン川に近くいる限りは、彼らはエジプトに戻る機会があったからです。

私達の問題は、ヨルダン川を渡って約束の地に来たのに、その約束の地に入ろうとしない事です。川の周りにとどまって、機会があるごとにエジプトに戻ろうとする事です。何故なら、ヨルダン川に戻ってくれば、再び洗われてきよめられて赦される事を知っているからです。この様に罪に対して様々な意見や見方が教えられています。しかし、罪は束縛であって人を殺すものです。それが癒しと何の関係があるのだろうかと考えているかもしれません。今話している事は癒しと関係しています。もう説明した様に、私達は神に用いられる前に完璧になる必要はありません。しかし、私達は神に用いられていながら、同時に罪を犯し続けたくはないはずです。私の伝えたい事が分かりますか?間違えを犯す事についてではなくて、罪を犯して生き続けながら神に用いられ続ける事についてです。何故なら、神の御前に立った時には言い訳はできないからです。


実際に、私はある人に言われた事があります。私は彼の教会で説教をする事がありました。その礼拝の後に彼は言いました。「昼食を食べに行きましょう。」それから、向かう途中で彼は言いました。「あなたと話したかったので、昼食に誘いました。兄弟、シェアしたい事があります。警告したい事があります。私はまだあなたの内には見られませんが、高ぶりに陥らない様に注意していて下さい。」それを聞いて私は思いました。「分かりましたが、本当に私のメッセージを聞きましたか?そのメッセージは高ぶりに導くものではありません。私は誰でも私のしている事をする事ができると伝えました。」昔のメッセージは、ある人は油注ぎを受けていて、他の人はその油を注がれた人がしている事はできないというものでした。その様なメッセージは人々を高ぶりに導きます。それは、その人を高く上げるからです。私の伝えるメッセージは人を高ぶらせる様なものではありません。誰でも私のしている事ができるというのに、何でそれは高ぶりに導くでしょうか?私がこの教壇に立ってしている事は、私に任された仕事です。何も誇る事はありません。ただ私の仕事をしているだけです。ですから、彼の言った事は私の頭に残りました。彼はこう言いました。「いいですか。私達は、あなたの名前をよく聞きます。色々な事を聞きます。高ぶりに陥る事は簡単です。私は知っています。何故なら、以前は、神は私を大きく用いられましたが、高ぶりに陥ってしまいました。」私は彼に訊きました。「どの様なメッセージをあなたは宣べ伝えて、その時にはどの様な状況にあったのですか?」その当時、彼は幾つかの問題を抱えていて、彼のメッセージは簡単に高ぶりに陥る様なものでした。たとえ神が私達を用いるからといって、私達が特別なのではありません。それは私達が正しい事を証明する事でもありません。神は、死人を生き返らせる為に私達を用いるかもしれません。しかし、それは正しい教えを信じているからでもありません。


私はある教会でとても変な教えを信じている人々を通して神が幾つかの奇跡を行った事を知っています。彼らは救われていたのでしょうか?そう望みます。

私は彼らを裁く者ではありません。神が私達を用いるから私達の教えが正しい訳ではありません。一番重要な事は私達の語っている事が聖書と一致している事です。何故なら、もし奇跡としるしだけに従うなら、私達は霊的に力を持っている人々に簡単に惑わされてしまいます。それが、私達は聞いた事を全て聖書に従って試さなければならない理由です。もし私達が語っている事が御言葉に沿っているのなら、神の力もその御言葉を証明する為に働くはずです。聖書は終わりの時には惑わす霊と悪霊の教えなどにより、偽のしるしや奇跡が行われると言っています(Iテモテ4:1、マルコ13:22)。イエスは言われました。「主よ、主よ、という全ての人達が天の御国に入るのではありません。」「その日には大勢の者が私に言うでしょう。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追いだし、奇跡を行ったではありませんか?」そして、言われました。「私から離れていけ、私はあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども(マタイ7:22-23)。」今日、癒しを信じない人達は言います。「この聖書箇所を見て下さい。ある人々は、「もしあなたがしるしや奇跡を行っているなら、イエスはその様な人達の事を言っています」と言いますが、違います。その意味は、やがてしるしや奇跡は教会の中で一般的に行われる様になるので、信じる者が癒しを行うのは当たり前の事になり、教会の中でしるしや奇跡が起きていても、彼らはまだ罪を犯し続けているという事が、頻繁に起こってくるという事です。ある人々は言います。「聖書は彼らが実際にしるしや奇跡を行ったとは言っていません。ただ彼らがそう言ったと書いてあるだけです。」しかし、イエスは彼らが実際にそれらのしるしや奇跡を行わなかったとは言われませんでした。私は、人々は神の御前で堂々と嘘をつくとは思いません。全てが明らかにされると思います。「でも、彼は、彼女はこう言った、と思いました」などの言い訳はなくなります。「この様な事が起きました」と明確になると思います。とにかく、神は私達を用いるという事です。


神はユダも用いました。イエスは12弟子達を遣わし、彼らは帰って来て言いました。「主よ。悪霊たちでさえ、あなたの御名によって私達に従います(ルカ10:17)。」イエスはある時、言われました。ユダは始めから悪魔だと(ヨハネ6:70)。ですから、ユダはその問題をいつも抱えていました。そして、ついに敵が彼に入りました。明らかに、人は正しくなくても神に用いられる事はあるという事です。そうですよね。何故でしょうか?それは、神は人々を愛しているからです。神が私達を用いるからといってそれは私達が正しいという意味ではありません。それはただ私達がそこにいて、人を助ける事ができる状況にあったというだけです。ですから、どうして私達は高慢になるのでしょう。ただ自分の仕事をしましょう。


ある人々は言います。「私は使徒だ、私は預言者だ。」しかし、実はあるでしょうか。もし実がそこにあるなら、大抵の場合は自分でその様な事は言う必要はないからです。

自然と人々が、その様な人達について語ります。その様であるべきです。しかし、その様に自称して駆け巡っている人達もいますが、もし私達が本当に聖書を読んで使徒とはどの様なものであるかを理解するなら、多くの人達が使徒であると主張する事はないと思います。何故なら、パウロは使徒である事の資格がどの様なものであるかを書きました。それは、海上の難、飢え乾きなど、いつも全てが簡単だったわけではありません(IIコリント11:23-27)。盗賊の難など、様々な事を経験しました。


今では、使徒である事の資格は町でも高級車を持っている事や、大きな家や広い教会のネットワークなどを持っているという様なものです。それらが、彼らが使徒であるかを決める要因になってしまっています。それは聖書的ではありません。使徒はしもべのかしらでした。彼は聖徒達を整えてまとめる様な人でした。彼は自分に注目を集めるのではなく、キリストのからだを建て上げようとしました。なので、私達はこの事の核心に戻る必要があります。ある人は言うかもしれません。「癒しと何の関係があるのですか?」それは考え方です。何故なら、一旦、多くの人達を助ける事ができると気が付くと、人々は信じる者としての基礎も学ばないで使徒や預言者になろうとするからです。信者としての行動すらしていないのに、使徒になりたがる人達がいます。信じる者は病人に手を置けば癒されます。悪霊を追い出します、死人を生き返らせます。福音を宣べ伝えます。異言で語ります。毒を飲んでも害を受けません(マルコ16:15-18)。人々は、これらをした事がないのに、彼らの下には使徒的なネットワークや教会などを持っています。彼らは信じる者の基本的な働きさえしていません。使徒になる事などは、後回しにして下さい。私達は基礎的な事に戻る必要があります。全ての人達が一から学び訓練を受ける事ができる、基礎訓練キャンプがあったらいいと思います。例えば、もし誰かが救われたら、私達はその人を基礎訓練キャンプに送り、そこでの8週間位の訓練を終えたら卒業してここに戻って来るという様なものです。


初代教会の時代は、人々はただ教会にやって来る事はありませんでした。教会は全て隠れていたからです。人々は何処で彼らが集まっているか知りませんでした。彼らは家々で集まっていました。その頃は、もし新しい町に行ってあなたがクリスチャンなら、ただ市場に行って歩き回って、「すみません。教会の集会は、今夜は何処で集まりますか?」とは訊きません。何故なら、彼らは集会の場所などは知らなかったからです。その人はサウルの為に働いているかもしれないと思ったでしょう。自分たちを見つけ出して、牢獄に入れようとしているのだと思ったかもしれません。教会の扉には「ようこそ。歓迎します」という様な看板は掛けてありません。彼らは市場に棒を持って立って地面に魚を書きます。そして、誰かが側を通って、それに気が付いて言います。「あなたはクリスチャンですね。魚を見ました。」それであなたは言います。

「私はある町から来た信じる者です。この町にはビジネスで数日滞在するのですが、ここの聖徒達と交わりたいと思っています。」彼は言います。「では、今日の午後にここで会いましょう。集まりは今夜7時からです。私達は6時にここで会ってそれから集会に行きます。」それで、6時に彼らと会ったとします。そして、あなたは訊きます。「今から何処に行くのですか?今夜は何処で集まるのですか?」彼らは言います。「まだそこに直接は行きません。」これは実際に起こっていた事です。初代教会の人達が書き残し、彼らの間で読まれていたハーマスの羊飼いという本に書いてあります。それは聖書ではありませんが、その当時に何が行われていたかについての記録です。それはアーチコの巻物の一部です。それも聖書ではありませんが、それは様々な所からの情報が集められたものです。集まる前には、彼らはよく言いました。「今から教会に行きますが、その前に、病気の人が祈りの為に私達を呼んだのでその人の所に行きます。私達はそこにまず行きます。」そして、彼らがそこに着いた時には彼らは言います。「こんにちは、私達は誰々です。こちらはある町から来た信じる者です。彼があなたの為に祈ります。」そして、もしその人が癒されたらあなたは教会に行けます。その人が癒されなかったなら、あなたは信じる者ではありません。なので、教会には行けません。想像してみて下さい。扉の所に病人達を並べて、人々は入ってくる前に病人の為に祈らなければいけません。そして、もしその人が癒されれば信じる者である事が証明されます。そうでないなら、その人はスパイです。想像してみて下さい。何で中国の地下の教会がとても強いか知っていますか?悪魔は知っています。教会を和らげて弱くする一番の方法は迫害を取り除く事です。迫害を取り除けば教会は弱くなります。迫害の中では教会は結束して強くなります。


また、この話を聞いた事があると思います。確か、ロシアだったと思います。彼らが集まった時彼らは教会の集会を行っていました。牧師が、その地下教会でメッセージをし始めると2人の軍服を着て銃を持った兵士が入ってきました。そして、そこにいる人達に言いました。「全員壁に背を向けて並べ。お前達は選択する事ができる。もし、クリスチャンでないなら、今去る事ができる。しかし、クリスチャンなら壁に沿って並べ。」そこで、何人かは立ち上がってその場を去って何人かは壁に背を向けて並びました。彼らが壁に向かって並び終えると、その兵士達は帽子を取って銃を置いて言いました。「牧師先生、全ての不信者は去りました。やっと説教をする事ができます。」その時に、誰がキリストを信じる者か否定する者かはっきりしたのです。私達はこの様な事についてはよく話しますが、実際に、この様な考えは持っていません。私は政治と宗教を混ぜる事には反対です。何故なら、その様な事をするたびに国家社会主義の様なものに行き着きます。しかし、軍人精神を教会に取り入れる事には賛成です。何故なら、キリスト教の基礎は自制だからです。私達は弟子と呼ばれます。私達が自制を持っていないなら弟子ではありません。弟子という言葉は、自制という言葉が源になっています。

どれくらいの自制が必要なのかは議論次第ですが、強調したい事は、ある時点で私達は自分の信じている事に従って生き始める決心をしなければいけません。ただ教会に行って「私達は信じます。私達は病人に手を置く事を信じます。」と口で言うだけでは十分ではありません。「いつ病人に手を置きましたか?」「私達は先週しました。」「私達とはどういう意味ですか?」「私は教会にいて長老達が祈りに行きました。」いいですか。私達は集団の利益を自分のものとする事はできません。ある人は言うでしょう。「私達の教会がしたから、私もしました。」それは違います。あなたはしていません。ですから、信じる者になって病人に手を置いて下さい。私達の手は誰かに触れ、人々の所に行って助ける必要があります。

2019年1月24日木曜日

DHTT セッション 8

神の言葉は確かな契約です。私は預言的な事や預言的なミニストリーに賛成です。それらに反対しているとは思って欲しくはありません。御霊によって導かれる事にも賛成します。注意するべき事は、私達はこれらの事に関しての先入観を持っている事です。多くの人々は預言の言葉を受取るまでは何もしようとしません。人々は預言の言葉と神からのその預言の確認を受取るまでは何もしない状態になっています。人々は言います。「でも、私達が御霊に導かれるまで待つ必要がありませんか?」それは「御霊に導かれる」という言葉の定義によります。もし私達が何か外部からの、気まぐれな感覚について話しているなら、その様な導きは必要ありません。すぐに宣教を始めるべきです。でも、もし私が外からの気まぐれな感覚を受けて、それが聖書の言葉と一致するなら、それを実行して下さい。御霊の導きはいつも御言葉と一致します。考えてみて下さい。もし、その御霊の導きが聖書の言葉と一致するなら、私達は御言葉をいつでも行う事ができます。導きがあっても無くてもです。新約聖書には導きを得るようには書いてありません。それを証明できます。使徒の働きでは、パウロは大宣教命令に従って行動していた事が分かります。御霊の導きによってではありませんでした。彼は福音を宣べ伝えて、人々に救いをもたらしました。彼らはアジアに行く予定だったのに、聖霊がそこには行かないように言った箇所があります。その後に、パウロはマケドニアについての幻を受け取り、そこにいるある人が言いました。「ここに来て私達を助けて下さい」(使徒16:9)。パウロは既にアジアに向かっていて、宣教活動を始めていました。彼が御霊の導きを待っていたのなら、御霊が彼に「アジアに行ってはいけません。向きを変えてこっちへ行きなさい」と言う必要はありませんでした。もし彼が導きを受け取ってから行動していたのだったら、彼は既にアジアに行くように聖霊の導きを受け取っていたという意味になります。聖霊は「私は考えを変えました。ここへ行って下さい」と言って、そんなに簡単に考えを変えたと思いますか?それとも聖霊は全てを前もって知っていたと思いますか?聖書は言います。聖霊は私達を全ての真理に導きます(ヨハネ16:13)。しかし同時に、聖霊は私達にやがて起ころうとしている事を示します。使徒パウロは、今日一般的に理解されている様な導きに従って行動してはいませんでした。彼が幻を受けてマケドニアに行った時には、彼は聖霊の導きによって行動していました。私は導きに反対ではありません。聖書の大宣教命令は私達に全世界に出て行って宣教しなさいと言っています。私達が出て行くにつれて特別な導きを受け取るでしょう。もし特別な導きを受けたならそれに従って下さい。でも、特別な導きを受け取るまでは聖書の言葉に従って下さい。ただ出て行って聖書の言葉を行って下さい。これについては、聖書でも最近の歴史でもたくさんの例があります。



T.L.オズボーン氏は私が今話している事についての典型的な例です。彼は妻のデイジーとインドに行きましたが、何の結果も力もありませんでした。彼らは何をすれば良いのか分からず、結局アメリカに帰ってきました。彼は言いました。「私達がサンフランシスコの港に着いた時には、私はその船の舳先に立ってデイジーに、もうあなたをアメリカの外には連れて行きませんと伝えた事を覚えています。」それは60年前の事で、それ以来、彼らは200カ国以上の国に行きました。明らかに彼はその約束を守りませんでしたが、それはこの後何が起きるのかを知らなかったからです。彼は出て行って神を知り、しるしと奇跡を伴った宣教をするべきだと気が付きました。それはパウロが言った事です。「私はしるしと奇跡を伴って、福音をくまなく宣べ伝えました」(ローマ15:18-19)。


私達は福音を宣べ伝える事はできますが、しるしと奇跡を伴うまでは、それをくまなく宣べ伝える事はできません。しるしや奇跡は神の言葉に伴うものです。私は御霊の現われとしての、しるしや奇跡が実在するかについて話すつもりはありません。皆さんは、既にしるしや奇跡は今日の為にある事を認識していると私は思っています。それを想定の上でそれらの事が皆さんにとって、日常的な出来事になるレベルになるように手助けしようとしています。癒しは「普通」のものだからといって、それらをないがしろにするのではありません。ただ、それらの事が私達の日常の中で常に起こるようになるべきです。聖霊の力にあって働き始めるまでには、いくらかの運動量が必要になります。初めの頃には多くの運動量でも僅かな結果しか得る事ができません。例えば、車を押し始めた時には多くの力が必要ですが、一旦、それが動き始めると加速がかかり、どんどん速くなっていきます。悪魔は、私達が最初の幾つかの戦いに勝利する事を妨げようとします。何故なら、私達が一度その勝利を経験すれば、その後に敗北しても前に進み続けるからです。もし、敵が私達の初めの幾つかの戦いの勝利を妨げる事に成功すれば、私達の頭の中にはいつも僅かな疑いの念が残るからです。それによって、私達はいつも「癒しは本当に私の為だろうか?私のしている事は正しいのだろうか?癒しは本当に今日も起きるのだろうか?」などと考えるからです。これらの考えは頭の中をめぐるので、克服しなければなりません。想像してみて下さい。聖霊があなたに話しかけて、「今から私はあなたを癒しの為に用います。大きな力が働き始めます。でも、あなたの最初に祈る21人は癒されません。何の結果も見ないでしょう。その内の何人かは死ぬかもしれません」と言ったとします。さて、あなたはどうしますか?どの様な反応をしますか?21人の為に祈り22人目を癒し、そしてまた1番目の人に戻って過去に祈った全ての人達を癒すべきです。最初の21人を放って置かないで下さい。幾らか癒しの結果を得た後に、初めの人々の元に戻って彼らを癒して下さい。


以前に私は、コロラド州のデンバー市にあるアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会にいました。幾つかの素晴らしい事をそこで経験できました。

それはニューエイジを信じる人達が多くいる地域です。毎回私がそこに行くたびに、魔女や魔術師やニューエイジの人達がやって来ました。多くの場合、魔女達は間隔を空けて会堂の椅子に座ります。彼らは集団でやって来ますが、なかなか見分ける事ができません。散らばるからです。前回にそこにいた時に私は、集会前にスタッフ達とその会場の後ろ側にいました。彼らは言いました。「いいですか、集会の中に魔女達がいる事を知っています。私達は彼女達を知っています。以前にも彼女達を見ました。ですから、今は何をするかの準備ができています。だから、あなたは何も心配しないで下さい。」私は分かりましたと答えて、彼らが何をするか興味津々でした。礼拝が進むにつれて彼らは、教会の若者達を呼びました。そのグループは特別な名前を持っていました。そのグループはMaster’s Commission というクループの一部でした。彼らは教壇から言いました。「では、配置について下さい。」私は考えていました。「配置とは何だろう?」若者達が群集から出てきてそれぞれ壁に沿って扉のそばに立つのを見ました。それで彼らは言いました。「それでは始めて下さい。」彼らは異言で祈り始め祝福し、悪いものを縛り始めたりしました。その時の魔女達の反応は忘れる事ができません。彼女達は完全に困惑しました。そして、その何人かは去り始めました。私達は誰もその場に強制的に留めて置く事はできません。彼女達が出て行くにつれて、何人かの若者達も一緒に出ていって、彼女達が扉に着く前に彼女達と話して証をしたり祈ったりしていました。彼らが組織だっていたのには驚かされました。組織化はいつも、一度誰かに会って2回目からできるものです。一回目は混乱です。何故なら、私達は何も予期していないからです。でも、2回目からは私達は準備して少しでも、ましになるように組織化します。その様な経験があったので彼らは組織化し始めました。私達も何回かそうした経験がありました。魔女達はただ力を求めている人達の事です。残念な事に、大半の教会は力を見せていないので、彼女達は他の所へ行ってしまいます。


私がいつも祈っている事はこれです。私は神に3つのタイプの人達を私達のミニストリーに導いてくれるように祈っています。それらは、元バプテストの人達、元軍人、元カルト信者の人達です。元バプテストの人達は何をするのにも導かれる必要はありません。彼らは福音を証する事は正しい事だと知っているので、誰にでもいつでも、どこでも証をします。少なくとも伝統的なバプテストはそうです。2つ目には元軍人達です。彼らは命令を受取って、それを成し遂げる事がどの様な事であるかを知っています。彼らは新しい命令を受取るまでやめません。3つ目は元カルトの信者人達です。彼らはカルトに入っていたので、完全に自分を捧げて目的を成し遂げる事を知っているからです。多くの場合には、彼らは不当に扱われて悲惨な目にあっています。でも、私の求めているのは彼らのその姿勢です。私は簡単に元バプテストを力にあって歩ませる事ができます。一度彼らに神の力を見せれば彼らはその力にあって歩み始めます。彼らは神の力を聖書での中に見てそれを経験すれば、彼らはそれにあって歩み始めます。問題は聖霊派の人達です。

何故なら、彼らは他の人達と同じ様に多くの伝統などを持っているからです。ですので、それらを壊していく必要があります。では、セッション2の17ページです。書き記された御言葉は天からの声よりも確かなものです。もし聞こえてきた声か聖書の言葉かを選ぶなら、聖書の言葉を信じて下さい。何故なら、殆どのカルトは誰かが何かの声を聞く事から始まったからです。何かの声を聞く事はそんなに重要ではありません。しかし、聖書に書かれた御言葉が最も権威のあるものです。それは、御言葉が最も確かなものであるという意味です。声といえば、例えば、預言の言葉も良いものです。聖書も預言する事をないがしろにしてはいけません(Iテサロニケ5:20)。又、預言によって勇敢に戦い抜くように言っています(Iテモテ1:18)。預言は勇敢に戦い抜く為に役立つものです。神は前もって預言を与えてくれます。神は私達の経験する事を全て知っていたので、預言の言葉を通して教えてくれます。私達が戦い始めて、戦いの最中で神の語った事を思い出すのです。しかし、もし神が戦いの最中にその事を告げるなら、それは本当に神からのものなのかを疑います。もしそれが戦いの前の事なら、戦いの最中に「神は前もって語ってくれました」と言う事ができます。ですから、預言は良いものです。戦いの最中に預言を受ける事もできますが、その預言の正当性が命を左右する事があるので、いつもそれは本当なのかと考えてしまいます。でも聖書の言葉はいつも堅く定まっています。私達が今日読んでも、20年後に読んでも同じ事を語っています。そうですよね?預言は来たり去ったりします。でも、聖書の言葉はいつまでも堅く立っています。神の言葉はより確かな契約であり、私達の最高の権威です。私達の経験が御言葉を評価するべきではありません。御言葉が私達の経験を評価するべきです。この考え方によると、建て上げられてきた教会の伝統の大半は打ち壊されます。私達は御言葉に従って自分の経験を判断するべきです。教会で教えられている大半の神学は、私達の失敗に基づくものです。私達が失敗を犯す時、私達は聖書を読んでその失敗を正当化する為に、その失敗を説明する聖書箇所を見つけようとします。ですから、大半の神学は勝利や成功ではなく失敗に基づいています。


ここで大胆に言わせてもらいます。教会で謳われる大半の信条は、異端などの問題が持ち上がった度に、その問題に応じて修正されてきたものです。自分達の信仰を主張して確立されてきたものではありません。一般的に、信条を作成する時に、人々は、「これらが私達の信じる事です。書き記しましょう」とは言いません。異端や異なる信条が発生すると突然に、次の様に言い出します。「ちょっと、私達は今の信条に同意しないので、私達の信条を修正する必要があります。」そうして、人々は今の大半の信条に付け加えてきました。それが全く間違っているという訳ではありません。私がここで言いたいのは、私達は何が真に重要であって妥協するべきでなく、何が重要でないかを見分ける必要があるという事です。何が神の言葉と一致していて従うべきか、何が一致しないで従うべきでないかを知らなければなりません。詩篇119:89で神の言葉は永遠に天において定まっています。

私達は御言葉を地上でも定めなければいけません。どれだけの間天で定められていますか?永遠にです。神の言葉が天において定まっていなかった時はありますか?いいえ、ありません。御言葉は天で定まっていて決して変わりません。ですので、その御言葉通りに神は物事を見て語ります。そうですよね?神は、私やあなた方、又、状況に応じて変わりはしません。神の言葉は、天において定まっています。この聖書箇所は、「神の御言葉は天と地において定まっている」と言っていない事に注目して下さい。その理由は、神の御言葉は、地においては定まっていないからです。分かりますか?それは私達の仕事です。それがイエスは、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈るように教えた理由です(マタイ6:9-10)。何故でしょうか?何故なら、神の御心は神の言葉であり、神の御心は天において定まっています。私達の仕事は神の御心を地で定める事です。私達は、神の御心を自分の心とします。そして、それを地で成し遂げます。ですので、この地は、神の御心が行われていない混沌とした場所である事を意味します。私達の仕事はこの地上の事柄を正しい状態に戻す事です。私達の仕事は、地を修理するのではく天のようにする事です。ある人は言うでしょう。「私達がその仕事を全て成し遂げる事ができないかもしれないのに、神は本当に私達がそれに挑戦する事を望みますか?」はい、そうです。何故でしょうか?それは全ての人を助ける事ができないからと言って、誰も助けないのではないからです。そうですよね?道の隅に立って看板を掲げている人は、「どうか助けて下さい。私達は食べ物の為に働きます」と書いていますが、でもそれは本当ではありません。彼らが本当に意味している事は、「私にお金を下さい」です。彼らはそれを看板には掲げたくないので書きません。クリスチャンがこう言うのを聞いた事があります。「彼らにお金を上げる時に、彼らや他の人達が、あなたがお金を上げるのを見たら、彼ら全員にお金を上げる事になります。」そうですが、それが何ですか?でもある人は議論します。「でも、誰にでもお金を上げるなら、私が家に帰るまでには、財布の中にはお金はなくなってしまいます。」だから何ですか?私達は、神を知っていますが彼らは知りません。私達はどこからもっとお金を得るかを知っています。しかし、彼らは神を知りません。何故こう言うかというと、私も同じ経験してきたからです。確かに、私達は論理的に考えようとします。彼らは、神の与えたお金をドラッグや、お酒や、タバコなどに使うかもしれません。しかし、本当にそうするかは分かりません。もし、本当にそれを心配するならお金を上げないで、彼らの為に何か食べ物を買ってあげたら良いです。道端の隅にお金や食べ物を求めている人達がいる時の、人々の反応は面白いものです。何故なら、突然、彼らは携帯や他の物をいじくり始めます。そして、赤信号なのでそこで立って待っています。そこに彼らがいる事を無視しようとします。しかし、聖書には「全ての求める者に施しなさい」と書いてあります(マタイ5:42)。しかし、人々は言います。「でも、それは私達がその人がドラッグや酒を買う事を助けている事ではないですか?」違います。もし聖書が言うのなら、それに従うべきです。そうですよね?

ある人はまた言います。「一度彼らに食べ物を与えたら、もっと多くの人が集まってきます。」私達は実際にそれを行いました。何人かの人達に食べ物を与えて、彼らは戻り続けました。そうしているうちに、彼らはもっと多くの人達を連れてきました。それで、私は神の御前へ行って話しました。「神よ。どうしたらいいですか?彼らは私に頼ってきます。私が彼らの助けです。私が彼らの源です。」そして、神は答えました。「知っています。彼らは私の事を知りませんが、あなたは私の事を知っています。あなたの源は誰ですか?」私は答えました。「もちろん、あなたです。」神は言いました。「それなら、何を心配しているのですか?あなたは何か持っていないものはありますか?お金ですか?食べ物ですか?」そして、私は言いました。「そうです。それらは決してなくなりません。」神は言いました。「では、何を心配しているのですか?」そして、私がその様にすればするほど、何も欠乏しない事に気が付きました。


私がダラス市に住んでいる時に赤信号で止まっていると、ある男が車の窓まで来ました。私は窓を開けてポケットに手を突っ込んで、そこに入っていた1000円札を取り出して彼に渡しました。それは5千円札でも、1万円札でもありませんでした。1000円札です。それを渡した時には彼はそのお金を見て、驚いて言いました。「神の祝福があるように。」私は言いました。「彼は私を祝福してくれます。だから私はこの様な事ができるんです。」そして彼は続けて言いました。「私はいつもでもこの様な状態のままでいる気はありません。」そして、その男の人は色々と話し始めました。彼は何年も前には億万長者だったのに、突然にしてそれを失ってしまった、という事です。彼は続けて言いました。「でも、私はいつまでもこのままではいません。私はこの状況を克服します。」それに対して私は答えました。「私はそれを信じます。信じますよ。」そうして話している間に信号が変わり、去らなければならなくなりました。その場を去ってすぐに道の脇に駐車して妻に言いました。「もしもっとお金があったら、あの人に上げたいです。あの人を助けてあげたいです。」これを聞いてある人は「それは愚かな事です。彼がそのお金を何に使うか分かりません。」それは重要な事ではありません。例えば、私が元々神のものであるお金をその人に上げるとします。そして、その人はそのお金を何か悪い事に使うとします。しかし、それは彼と神との間の問題ですよね?神と私の間では、私は彼に従順です。それが大切な事です。そうですよね?人助けはいつも正しい事です。聖書は私達の敵が腹を空かせているなら、食べ物を与えなさいと言っています(ローマ12:20)。その男の人は、私の敵でありませんでした。多分、クリスチャンでもなかったかもしれません。敵は一人だけです。それは悪魔です。彼らは、助けが必要な人達です。良きサマリア人のたとえ話を思い出して下さい。教会には、祭司の様な彼らの前を通り過ぎていく人達も多くいます。しかし、サマリア人はその様な人達の所に来て言います。「私には多くのものはありませんが、でも、これが私の持っている分です。」

私は、ただ聖書を読んでそれを文字通りに理解して、それを行う事について話しています。私達が御言葉を行う時にそこには力が働きます。私は何も特別な人ではありません。全く普通の人です。でも、私は諦めません。諦める事を拒否します。私は聖書の語っている事を見つけて、それを行って歩んでいこうとし続けるだけです。そして、神は真実な方です。神は私よりも真実な方です。私にも浮き沈みはありました。私は長い間、不安定なクリスチャンでした。本当です。その様な事を経験してきました。私が癒しの為に祈り始めた時、私は罪を犯していた期間がありました、罪です。あからさまな罪でした、自分でも分かっていたし、周りの人々も知っていました。それでも人々は癒されました。それにはショックを受けました。それは、私がその当時教えられた事に全く反したものでした。罪を犯していたのに人々は癒されました。その時は理解できませんでした。そして終に神の御前に行き、「神よ。何故ですか?私は罪を犯しているのに何故私を用いて人を癒すのですか?気にしないのですか?」と訊きました。神は答えました。「知っています。あなたの事は後で清算します。」それはまるで、ある人が校長室に呼ばれた様なものです。分かりますか?その後、私の内に聖くなりたいという願いが起きました。そして、私の行っていた罪は減りました。私は、「何故私には罪があると知っているのに、彼らを癒すのですか?」と神に尋ねました。神は言いました。「私は彼らを愛しているので、私が用いる事のできる人は誰でも彼らを助ける為に用います。しかし、私がその人を用いるからといって、私はその人に何をしても良いと許可を与えるのではありません。その人達の罪は後で清算します。」分かりますか?神には物事の清算の仕方があり、私達が思いつく様なものではありません。私達はもし生活の中で罪を行っているなら、その罪は神が私達を人助けの為に用いるのを妨げると考えます。


神は異邦人を用いてイスラエルの民を救った事を知っていますか?神が彼を信じない異邦人を用いるのなら、神は問題を抱えた罪を犯しているクリスチャンは、なおさら用いるはずです。そして、神は彼に向かって心の正しい人ならなおさら用いるでしょう。そうですよね?でもある人は「私は準備ができていないし、十分な知識もありません。」と言うかもしれません。どれだけの事を知る必要がありますか?私達の今知っている知識のレベルで、私達は誰かを助ける事ができます。例えば、あなたが新生した時にヨハネ3:16を知っていたか分かりません。もし知っていたら、ヨハネ3:16の聖書箇所を学んだ時点で伝道する資格を得るのです。全ての聖書箇所を学んだ後ではありません。私達が救われた時には、ほぼどの聖書箇所も知りませんでした。でも、それでも悪魔を打ち負かしました。その聖書箇所以外は全く知らなかったのに悪魔に打ち勝ちました。たとえ話で説明しましょう。1943-44年に戻ったとします。第二次世界大戦の時にはあちこちに強制収容所がありました。多くの強制収容所には機関銃を持った番兵と見張りの塔や番犬がそこら中にいました。でも、門は開いたままでした。あなたは強制収容所に収容されているとします。

あなたはその門の前後を歩き、毎日他の収容された人と共にその開いた門の前を歩いて、兵隊や車がその門を行ったり来たりしているのを見ています。そして、この様に考えます。「恐らく、ここから門を通して歩き出る事ができる。」これを他の囚人に話すと、「やめなさい。彼らはあなたを殺します。機関銃を持った人を見て下さい。あの見張りの塔を見て下さい。それは馬鹿げている」と言うでしょう。あなたはためらいますが、一息ついて「いや、やっぱりできると思う。シャベルを肩に置いて歩いていけば、私を、労働をしている囚人だと思うでしょう。むしろ、ここにいて一人一人殺される事を待っているよりは、失敗して死んだとしても、一発この機会を試してみた方がましです」と言います。彼らは引き下がって「やめろ」と言います。しかし、あなたはシャベルを肩に置いて、まるでどこに行くか知っている様なふりをして門に向かって歩いていきます。門に近づいていきますが、周りは見渡しません。しかし、見張りの塔の上にはナチスの兵士が機関銃を持っているのを知っています。そして、彼らにその銃口を向けられた音を聞きます。あなたの心臓の鼓動は大きくなり、冷や汗をかいてきます。しかし、構わず何処に行くのかをまるで知っている様に歩き続けます。兵士達が何か話しているのが聞こえます。すぐに、銃口は上げられ、兵士達は元の見回りに戻ります。そして、あなたはそのまま門を歩き過ぎます。その門を出てその陣地を横切った所に茂みがあり、なんとそこにある切り株が開いて、その中にいる人が「こっちに来い」と手招きしているのを見つけます。そして、彼はフランスのレジスタンス集団である事に気づき、彼と共に脱出します。


そして一ヶ月後、朝起きて、「神に今ここにいられる事に感謝します。ここミネソタは最高です。私がいた強制収容所の外にいる事ができる事は感謝です」と言う事ができます。すると、突然電話が鳴ります。その受話器を取り「もしもし」と言うと、受話器の向こうの声が、「朝だ。起きろ、外に出ろ。点呼を取るまで立っていろ。分かったか?」と言いますそれを聞いてとっさにあなたは、「この声はあの強制収容所の司令官の声だ」と考え、数秒の間考えたまま止ります。何故なら、あなたはまるでその強制収容所に戻ったかのように感じるからです。そしてこう考えます。「外に出て司令官が言うように、点呼を取るまで並んで立つべきだろうか?」しかしあなたは、「いや、神に感謝します。私は今ミネソタ州にいます」と言って電話を切ります。では質問です。次のうちどちらを行う事により大きな信仰が必要だったでしょうか?その門を歩き過ぎる事か、その電話を切る事かどちらでしょうか?もちろん門を歩き過ぎる事です。その門を歩き去る事ができたなら、その電話を切る事はさらに簡単な事のはずですよね。では、私達の話していた事に戻ります。聖書によると私達は、罪と罪過の中にあって死んだものである間に(エペソ2:1)、私達はまだ悪魔に属していた時に私達は決断を下し、神は私達を暗闇の圧制から救い出して愛する御子の支配の中に移されました(コロサイ1:13)。そうですよね?まだ、悪魔に属している間、悪魔の支配下にいる間に、私達は自分で決断してその支配下から抜け出しました。

そうですよね?では、もし悪魔が私達を所有していた時にその様な事ができたなら、悪魔が電話の受話器を通して「あなたは病気です。あなたは癌になりました。あなたは死にます。あなたを殺します」と言うと、その受話器を置いて電話を切る事はどれだけ簡単な事でしょうか?むしろ私達は、手にある受話器を見て「バカじゃないの」と言い、電話を切る事ができるべきです。そうですよね?今では、悪魔が私達に対して力を持つ事を許す方が、むしろ信仰が必要なくらいでしょう。何故なら、以前は悪魔に属していましたが、今では彼には属してもいないからです。何故、悪魔なんかの言う事を聞く必要があるでしょうか?何故、私達は悪魔に向かって「私はお前には属していない。お前は私を支配する事も、命令する事も、何をするようにも、その様な権威はない」と言わないのですか。ある人々は、「問題は私が悪魔に扉を開けた事です。ですので、今は、悪魔は私に入ってくる権利を持っています」と言います。


法律上の義務について話しましょう。第一に、それはモーセの律法に基づいています。聖書は、悪魔は初めから盗人であり、殺人者であり嘘つきであると書いてあります(ヨハネ8:44)。そうですよね?初めからです。ある人々は、悪魔は私達に対して権威を持っていると考えているようです。彼は権威なんて持っていません。悪魔は裏切り者であり、犯罪者です、彼は「私は高く上り、神を打ち倒し、私が神になろう」と考えた瞬間からその様な者です(イザヤ14:13-14)。そうですよね?それが、悪魔がアダムに近づいてきて、「このエデンの園は私のものです。ここから去りなさい」と言わなかった理由です。彼は権威や力などは全く持っていませんでした。彼はアダムとエバを欺かなければなりませんでした。不幸にも、アダムとエバはその神から与えられた権威と力を悪魔に与えてしまいました。聖書は、特にクリスチャンに向かって、「あなたは自分のものではありません」と言っています。私達の体は私達のものではありません。代価を支払って、買い取られたものです(Iコリント6:19-20)。皆さんは私の車は私の名義で登録され、私のものである事を知っています。


もし、私がその車の鍵をここに置いておいたら、誰でもその鍵を取って車を運転する事が許されると思いますか?「ここにカリーの車の鍵があります。あなたのものです。好きなように運転して、好きなように使っていいです」と言う事はできません。そうですよね?私達の身体は、私自身のものではありません。それは誰に属するものですか?イエスにです。だから、私達は自分の身体を悪魔に渡す権利はありません。分かりましたか?私達は、決して悪魔が私達の身体に影響を及ぼす事を許可する権利はありません。私達の身体はイエスのものだからです。新約聖書には、私達が悪魔に権利を与えるので悪魔が病気を与えるとは書いてありません。聖書には、罪を犯したら悪魔に機会を与える事になると書いてあり(エペソ4:25-32)、病気についてではありません。

病気がやって来るのは2通りあります。まず、種蒔きと刈り取りの法則です。私達は、自分自身に害のある事をしてそれを通して悪魔が影響する機会を与える事ができます。自分で自分の身体を壊して悪魔に機会を与えてしまいます。これが種蒔きと刈り取りの法則です。それから、敵からの攻撃があります。敵が私達を攻撃するのは私達を憎んでいるからです。私達が何もしなくても敵は攻撃します。私達を憎んでいるからです。問題はそれを認識しない事です。だから私達は神学を作り出したのです。それは、「もし私達が病気を持っているなら、私達のうちに何か解決されていない深い悲しみや何か赦せない人がいるからだ。もし私達が関節炎を持っているなら、苦い霊を持っているに違いない」というものです。何かしら霊的な原因を見つけようとするものです。この対処法の問題点は、いつも正しい原因を見つけなければいけない事です。毎回100%正しいものです。それらの原因を診断する事は病人達を裁く事になります。私達は原因を見つけようとして言います。「あなたがこの病気を持っている理由は、霊的な問題を持っているからです。」


聖書は言っています。「さばいてはいけません。さばかないためです。あなた方が裁くとおりに、あなた方もさばかれるからです」(マタイ7:1)。聖書は実を見分ける事も語っています(マタイ7:16)。しかし、病人をさばいて、こう言うべきではありません。「あなたは罪の中にあります。この様な問題を持っているので罪を犯しているに違いありません。」もしある人が罪を犯しているのを目撃するならそれは別の事です。私達は、「あの行動は罪です。だからあなたは罪を犯しています」と言う事はできます。しかし、病人に、「あなたは罪を犯していますか?この様な病気を引き起こす為に何をしたんですか?」と言うなら、毎回正しくさばかなければいけません。何故なら、自分を裁く者としているからです。分かりますか?聖書のどこにもイエスは「人をさばきなさい」とは言っていません。こうやって私が話してきた神学は教会の中で築き上げられてきました。でも、これらはどれも聖書的ではない事が分かりますか?私達はよく病人を見たときに、自動的にその人は何か罪を犯したのではないかと考えがちです。私達は赦したくなければ赦さないでいいでしょうか?もちろん、赦す必要があります。多くの人が、「ある人が罪の赦しを得たら、罪を告白したら、その人は癒されました」と言う理由を知っていますか?答えは簡単です。それは、もし私達に罪があり、そしてそれを知っているなら、私達は神に対しての癒されるための確信も信仰も持てないからです(ヤコブ1:6-8)。面白い事に、その様な問題を抱えてしている人々が私のもとに癒しの為にやって来ます。彼らは病気などの問題については話しますが、彼らの罪については話しません。しかし、彼らは私が彼らの病気を癒す事ができると信じます。そして、私は彼らを癒します。私が彼らに対して決してしない事が何か知っていますか?彼らの私生活に関して質問しない事です。まず、いちいち私生活の話を聞いて、一つ一つ罪を見つける時間はありません。イエスは決してその様な事はしませんでした。


もし私達の生活の中に罪があるなら、良心が自分を非難するので、神に対して確信を持つ事はできません。神に対して信仰を持つ事はできません(Iヨハネ3:19-22)。だから、自分の為に祈っても癒されません。何故なら、私達は自分が癒されるべきでない理由を知っているからです。これで愛する人の癒しの為に祈る事が難しい理由が分かります。それは、私達がお互いの事をとても良く知っているからです。私達が神に用いられるべきでない理由や、愛する人たちが癒されるべきでない理由を考えつくからです。これが、愛する人の癒しの為に祈るのが難しい理由です。癒される事は、罪とは何の関係もありません。イエスの癒した人達は全て罪人でした。誰一人として聖くなく、新生しておらず、純粋ではありませんでした。そうですよね?それが、イエスが彼らを癒して「行きなさい。もう罪を犯してはなりません」といった理由です(ヨハネ5:14)。でも、多くの人は病人に向かって、「あなたが罪を止めたら神はあなたを癒します」と言います。イエスは、「行きなさい。もう罪を犯してはなりません。でないともっと悪い事が起こります」と言いました。教会が作り上げてきた神学は聖書的ではありません。イエスは、「行って、全ての人の問題を見つけなさい」とは言いませんでした。イエスは言いました。「行って、捕らわれ人達を自由にしなさい。」もし、全ての人の問題を見つけようとするなら、ただ社会の中で専門家を形成する事になるだけです。


それが理由で、皆がカウンセラーになろうとします。聖書は、聖霊が私達のカウンセラーであると言っています。人々の人生を覗いて問題を見つけ出すようには言いませんでした。世代の呪いを見つけようとする事もこれと同じです。人々は言います。「でも、私の祖父は世代の呪いを持っているに違いありません。何か罪を犯したに違いありません。」もし、私達が問題を持っていたらそれは世代の呪いではなく、ただの罪です。もし、私の父がアルコール中毒だから私もアルコール中毒になったのなら、それは世代の呪いではありません。それは、ただ私が、父の飲酒を見たから、私も酒を飲む決断をしただけです。もし、私がその様になったとしても、それは世代の呪いというものではありません。それはただの罪です。酒を飲むのを止めればいいだけの事です。問題は次の様なものです。ある人は言います。「でも、私はどうしようもできません。」それは嘘です。実際、私達は自分で罪を止める事ができます。自分がその罪を楽しんでいる事を認めて、それに対して責任を取って下さい。興味深い事に人々は自分の犯している罪を憎む事をしません。何故この様な世代の呪いを持っている人達は自分の罪をいつも楽しむのでしょうか?何故彼らはそれらの罪を望むのでしょうか?彼らはよく言います。「私はいい人になりたいです。」それは本音ではありません。そういう人は、ただ地獄に行きたくないだけです。彼らはその罪は好きですが、地獄には行きたくないだけです。それが問題です。問題は世代の呪いではありません。この世全体は呪いのもとにあります(ガラテヤ1:4、1ヨハネ5:19)。それでも、人々は「でも、これは世代の呪いです」と言います。でも違います。

人々は世代の呪いを使っての金儲けの方法を作り上げてきました。世代の呪いについての本やセミナー、その他のものが出回っています。それらのセミナーの参加費は何万円にもなります。それらのセミナーでは、座り、目を閉じ、イエスのイメージを想像し、その問題の原因に戻ろうとします。それが何処から始まったかを見つけようとします。イエスは決してその様な事をするようには言いませんでした。彼は言いました。「病人を癒し、悪霊を追い出しなさい」(マタイ10:8、ルカ9:1、マルコ16:15-18)。それだけです。ある人は言います。「でも、私には恐れがあります。私が3歳の頃に、私はブランコに乗っていました。誰かが私を押したので、地面に落ちました。それ以来、恐れがあります。」それを聞いて、カウンセリングをしようとする人達は言います。「分かりました、では、その時点に今から戻りましょう。目を閉じて下さい。今ブランコのある所にいますか?いいですか?周りを見渡して下さい。イエスがそこにいるはずです。」それを聞いてその人は言います。「本当です。彼がそこにいます。」こうして、その人はイエスをそこに見ますが、残念ながらそれは違います。それは心霊術です。その様な人は悪霊を扱っています。その様な事には関わるべきではありません。今まで、その様な事を行ってきて、分裂しなかったり問題を抱えなかったりした教会を私は見た事がありません。確かに、何人かは助けられるかもしれませんが、数人なら催眠療法や精神分析などによっても助けを得る事ができます。でも、だからといってそれらのものが神からのものであるとは限りません。


神の祝福そのものが人を富ませ、労苦を増し加える事はしません(箴言10:22)。それらの様々な教えは人々を富ませはしないし労苦を加えるだけです。私達はイエスの言った事を理解しなければなりません。イエスは、「癒すか追い出しなさい」と言いました。パウロは、「私は後ろのもの、過去の事を忘れ、ひたむきに前に向かって進みます」と言いました(ピリピ3:13)。彼はいちいち過去の事を堀り出すとは言いませんでした。考えてみて下さい。どれだけ、過去に向かって掘る事ができますか?私達はもう既に死んでいます。そうですよね?ある人はまだ「でも私の過去は…」と言うでしょう。しかし、もう私達は死んでいます。古い私達は存在しません。全てのクリスチャンの抱える問題は新生において起きた事を理解していない為に起きます。その「私達」はもう存在しません。既に死んだ人をよみがえらせる事をやめて下さい。その人を死んだままにしておいて下さい。「でも私は抑えられません」と言わないで下さい。それは言い訳です。私達にはそれができます。もし私達が古い自分を死んだままに抑えておく事ができないのなら、神はあなたを地獄に送る事はできません。そうですよね?私達が罪の為に地獄に行くのは、地獄行き以外を選ぶ事ができないからではありません。


それは、チャールズ・フィニ-が、「それはあなたができないのではなく、ただしようとしないだけです」と言ったようです。分かりますか?これは心の問題になります。

ですから、非難する事を見つける事をやめて、人々を自由にしようとして下さい。人の問題を見つけなくてもよくなったら、癒しはすごく単純になりました。私はもう問題の原因などは見つけようとしないで、ただ人々を自由にします。私達は毎日何千もの証を受け取ります。私が祈った人達だけからのものではなく、訓練を受けた神癒技術者達からもです。中には、ある分野の癒しにおいて秀でている人達もいます。


例えば、アーカンザス州にはある夫婦がいます。彼らは臓器が再創造される奇跡において大きな結果を出しています。人々は病気などの為に臓器を取り去られました。彼らはその様な人々の為に祈り多くの新しい臓器が造られています。彼らにとっては、それは普通の事になっています。だから私は、彼らはその為に賜物を持っていると言います。今は賜物については教えません。でも、彼らは今私が教えている基礎的な事を行っていて、自分がどの分野で賜物を持っているかを認識しました。でもだからといって、彼らはその事の為だけに祈るわけではありません。どの様にしてある分野において特定の賜物があるか見つける事ができるか知っていますか?それは次の様にです。私達が人々の為に祈っていて、病人は言います。「この為に祈って下さい。」私達は答えます。「分かりました。では、祈りましょう。」それで、私達が頻繁に癒しの結果を出している問題を聞くとこう答えます。「問題ないです。見ていて下さい。」その反応の違いが分かりますか?それはまるで、「問題ないです。それが癒されるのはいつも見ています」というものです。そういう反応を見る時には、大抵私達はその分野において賜物を持っています。だからといって、賜物がある分野だけで祈りなさいという意味ではありません。全ての人達の為に祈って下さい。その中で賜物は働いていき、その賜物をより用いていく事ができるようになります。


では、詩篇119:89-92です。「主よ。あなたの言葉は、永久から天において定まっています。あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。それはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。全ては、あなたのしもべからです。もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。」神の言葉は永久から天において定まっている事に注目して下さい。そのページの下の所を見ると、ヘブル語の「定める」という言葉が書いてあります。それは「natsab」と言い、配置する、境界線として定めるという意味です。ここでは、境界線として定めるという意味である事を覚えておいて下さい。神の言葉は私達の境界線として定められています。だからイエスのしなかった事は、私達もするべきではありません。そうすると、私達が教会で聞いた90%の癒しについての教えは聖書的ではない事が分かります。何故なら、イエスは人々を分析したり、詮索したりしませんでした。彼はただ人々を赦しました。彼は人々に信仰を持つように言わなかった事にも気が付きましたか?彼は信仰については殆ど話しませんでした。

しかし、もし人々が癒される為に信仰を持っていたら、それを認めました。彼は言いました。「あなたの信仰があなたを救いました。癒しました」(マタイ9:22)。時には、彼は言いました。「私にそれができると信じますか?」彼らは言いました。「はい、信じます。」そして、イエスは言いました。「では、癒されなさい」(マタイ9:28-29)。それだけです。例えば、ある腰の曲がった女が会堂にやって来て、イエスが彼女を見た時の話を覚えていますか?その話に従うと、大半の癒しの教えは成り立ちません。イエスが彼女を見た時、彼女を呼び寄せました(ルカ13:10-12)。ここで、イエスは次の様に言わなかった事に注目して下さい。「今日はあなたにとって運のいい日です。」「どれだけの信仰を持っていますか?」「今日はあなたの癒される日だと思いますか?」などと言いませんでした。また、イエスは彼女を見て「あなたの腰は曲がっていますね、それは背骨が弱いからです。それは背骨の痛みからです。それは何か解決されていない悲しみや、誰か許す事ができない人がいるからです。もしそれらを解決したら、神はあなたを癒します」とは言いませんでした。私達は自分達の解放する者としての役割を、医者のようにして来た事に気が付くべきです。私達がする必要のある事はただ人々を自由にする事だけです。それがイエスのした事です。イエスは彼女を呼び寄せて、言いました。「女よ。あなたは病から解放されました」(ルカ13:12)。イエスは、「あなたは自由になりたいですか?」と聞かなかった事に気が付いて下さい。何故なら、まともな人なら誰でも自由になりたいからです。そうですよね?次のように考える人が多くいます。「イエスは何処に行っても、夜、祈る為に山に登り、神と時間を過ごして神が次の日にするべき事を全て教えられた。そして、イエスは次の日にその教えられた全ての事を行いました。」まず、もし彼がその様にして歩んだなら、信仰を持って歩まなかった事になります。何故なら、信仰にあって歩む事は、御言葉以外には保証なしで何事でも行う事だからです。より保証があればあるほど信仰は必要なくなります。そうですよね?神が現れるなら物事を行う事は簡単になります。


癒しを行う時に、多くの人々は、神が現われて「この人を癒し、あの人に手を置きなさい」と言ったと想像します。人々は、「イエスは、私は父がしている事だけを見て行う、と言いました」(ヨハネ5:19)と言うでしょう。だとすると、イエスは盲人の所まで行き、父が天から下ってきてその盲人を癒すのを見たので、その盲人の所へ行き、そして、彼を癒したという事になります。それは真実ではありません。何故なら、もし父が盲人を癒したのを見たのなら、もうその盲人を癒す必要はないからです。だからイエスは父が盲人を癒すのを見ませんでした。もし仮にイエスがその様に父の行う事をいちいち見て事を行ったのなら、私達はイエスのしたわざを行う事はできません。何故なら、私達はいつもその様に物事を見る事はできないからです。分かりますか?では、どの様にしてイエスは癒しなどの事を行ったのでしょうか?「イエスは御霊に導かれて事を行いました」と言うかもしれません。でも、恐らくそれは、私達の考える様な導きではありません。

何故なら、聖霊が私達を導いて何かを行わせるとは新約聖書には一切書いてないからです。聖霊は、私達を真理に導き入れると書いてあります(ヨハネ16:13)。そうですよね?聖霊は導いて行動させるとは書いてありません。例えば、よく次のように考えます。スーパーでカートを押している時に、病人が目の前を通り過ぎようとしていたとします。すると突然神が私達の手を動かしてその病人に置かせ、そして私達は、「ああ、神がこの人の為に祈るように私に言っている」というように考えます。この様な場合には信仰は必要ない事が分かりますか?徳も必要ありません。何故なら、徳とは正し事をしようとする、私達の道徳的な決断だからです。私達は、信仰も徳も持たなければなりません。こう考えると教会の教える大半の教えは聖書的ではなくなってくるでしょう。質問です。イエスは偽善者でしたか?もちろん、違います。もちろん彼が偽善者であるはずはありません。イエスは偽善者の定義を言いました。今から言う事をよく聞いて下さい。それはあなたの人生を変えます。イエスはパリサイ人達の事を説明したときに偽善者の定義を言いました。イエスはパリサイ人達を偽善者と呼びました。それはふりをする人という意味です。それが偽善者の実際の意味です。それは本当の自分ではない人のように振舞う人の事を意味します。イエスは言いました。「パリサイ人達、偽善者達の言う事は聞いて、それを行いなさい」(マタイ23:3)。イエスはその様に言いましたよね?弟子達にも言いました。「パリサイ人達の言う事は行いなさい。」何故でしょうか?それは、彼らはモーセの座に座っているからです。彼らは権威を持っているからです。だから、彼らの言う事は行いなさいと言われたのです。何故でしょうか?


正直に言って、パリサイ人達は現在のカリスマ派や聖霊派のクリスチャン達のようです。彼らは聖書の言葉の文字通りの翻訳にこだわり、神の言葉を文字通りに解釈していました。彼らは復活も信じていました。サドカイ人達は復活を信じていませんでした。私達は復活を信じています。ですので、私達はパリサイ人に近くなります。このように言っているのは、パリサイ人達が集団として悪かったのではなく、ただ悪かったのは彼らの行動でした。イエスは言いました。「彼らの言う事は聞きなさい、そして行いなさい。でも、彼らのしている事はまねをしてはいけません。」ですから、偽善者は何かをするように言っても、自分はその基準に従って生きていない人達の事です。そうですよね?それが偽善者です。では、質問です。イエスは偽善者でしたか?違います。イエスは自分が教えた事の基準に従って生きたという意味でしょうか?それを信じますか?これについてはよく考えてみる必要があります。何故なら、私はあなた達を隅に追い込もうとしているからです。


いいですか?チャールズ・フィニーも同じ事を言いました。「私はクリスチャン達が隠れ家にしている岩を全て見つけて、それらを壊します。そして、言い訳なしに神の御前に裸にして立たせます。」私も今から同じ様な事をしようとしています。

これは聖霊の導きの問題を解決すると思います。マタイの福音書7章13節で言いました。「狭い門と、広い道があります。」そして私達は、イエスは狭い道であると教えてきました。彼は言葉なので彼は狭い道です。そして、狭い道はこれです。「何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもその様にしなさい」(マタイ7:12)。イエスは人々にそう言いましたよね?考えてみて下さい。彼は言いました。「何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもその様にしなさい。そうしたら、律法も預言者も成就する事になります。」それが彼の言った事ですよね?つまり、次のように言ったという事です。「聞いて下さい。私はあなたたちに何をすればよいかを簡単に教えてあげます。これはいつも正しい事です。神学を知る必要も、全ての御言葉を知る必要もありません。それはこれです。あなたのいる全ての状況において、他人に自分にしてもらいたい事をしなさい。もしそれを行うなら、律法と預言者を成就する事になります。」言い換えると、私達がそれに従って生きる限り、聖書に従って歩みいつも聖書を成就する事になります。それが彼の言った事ですよね?イエスはそうするように言いました。もし彼がその基準に従って歩まなかったら、彼は偽善者になります。そうですよね?イエスを偽善者扱いするのはいい気分ではないと思います。彼は自分の教えた基準に従って歩みました。それが私の伝えたい点です。イエスは何か天から垂れ下がっている糸に操られて人形のように地上の様々な所には行きませんでした。


ある人は言います。「私はただ聖霊に流されて歩みます。」第一に、そう言う人はそれを実行はしません。彼らは、自分の考えやむなしい考えに従って歩みます。彼らは霊的になっていると思うかもしれませんが、実際には、聖霊に導かれる事は聖書の言っている事に従う事です。何故なら、神の御霊が聖書を書いたからです(IIテモテ3:16、IIペテロ1:20-21)。そうですよね?ですから、私達が聖霊に導かれて進む時には聖書の言っている事をします。使徒の働き10章38節によるとイエスは巡り歩きました。「それはナザレのイエスの事です。神はこの方に、力と聖霊を注がれました。彼は巡り歩いて、良いわざをなし、悪魔に制せられた全ての者を癒されました。」何故でしょうか?「神が共におられた」からです。それだけです。その「巡り歩いて」という言葉の意味は、「目的地もなしに歩き回る」という意味です。


もしかしたら過去に、イエスは神と毎日会って何処に行くべきかを全て告げられて、彼の人生は全てその様であったと教えられたかもしれません。また、イエスは夜になると父に会う為に山の上に行き、次の日に何をするべきかを告げられ、次の日の予定表を持って来て、「では、父よ。明日は何をしますか?」と尋ねると、御父が言います。「息子よ。聞きなさい。ヤコブの井戸にいなければいけません。朝にそこにいなさい。そこに一人の女がいるでしょう。私達は彼女に会う必要があります。

それをノートに書いておく必要があります。彼女はそこに10時位にいるでしょう。そこにいて下さい。いいですね。この様な事が起きます。これが彼女に言う事です。」それか、神が次の様な事を言ったと想像します。「(イエスに向かって)では、百人隊長が現れたら、彼はしもべを癒して欲しいと願うでしょう。でも、行かないで、ただ言葉を言いなさい。」そして、イエスがこう言ったと想像します。「でも、父よ。百人隊長といっても沢山います。どうして、その人だと分かりますか?」神は答えます。「~の様な人です。」こんな風に、私達は考えたりしますが、こんな事は起きませんでした。私達の考える様な形でイエスは御霊に導かれてはいませんでした。


では、イエスは全ての律法と預言者を全うしましたか?はい、そうです。彼は全ての義を成し遂げましたか?はい、そうです。イエスは全ての律法と預言者を全うし全ての義を成し遂げたので、彼は自分の教えるように何事でも自分にしてもらいたい事を、他の人にもそうしたに違いありません。これらの事は学校で教えられていました。それは黄金律というものです。他人に自分のして欲しい事をしなさいというものです。問題は、私達はこの黄金律を人間的な考えで理解している事です。これに従って人々は、もし病人がいるならスープを作って持って行きなさい、困っている人がいるなら助けなさい、お年寄りの為に扉を開けなさい、優しくしなさい、礼儀正しくしなさいと考えます。イエスはただ「礼儀正しくしなさい」とは言いませんでした。正直に言うと、イエスは私達が親切に礼儀正しくなる事はあまり気にしませんでした。イエスは宮に入ってむちを振るった事を覚えていますか?彼は台を倒し人々を追い出しました(マタイ21:12、ヨハネ2:13-15)。彼らは逃げ去りました。何故なら、イエスにむちで打たれる事を恐れたからです。では、それらの収税人達が慌ててイエスから逃げる為に、宮から走って出てくる光景を想像できますか?しかし、一般的なイエスのイメージを持つ人々は次のように言うでしょう。


「何が起こっているのですか?」

「あのイエスと言う男がむちを手に持って、私達を追い払いました。」

「あなたのお金は何処ですか?」

「床に置いてきましたよ」

「このイエスという男についてどう思いますか?」

「えーと、彼はとてもいい人ですよ。彼はとてもやさしくて、礼儀正しい人です。」


そんなはずないですよね?彼らはその様には言うはずがありません。彼らは、「あのイエスと言う男は狂っています。」彼らはありとあらゆる事をイエスに対して言うでしょう。ですから、イエスは私達をやさしく、礼儀正しい人にしようとしたのではありません。別に失礼な人になるように言っているのではありません。

しかし、イエスのようになる事はただやさしい人になる事ではありません。正しい事を行う人になる事です。分かりますか?イエスが実践した原則はイエスが彼の弟子に実践するように言った原則です。イエスは全ての原則を成し遂げましたか?はい、その通りです。これについて考えてみて下さい。イエスは旧約聖書の全ての御言葉を見て、それら全てを正確に実行する事によって全ての御言葉を成し遂げましたか?それとも、イエスは自分にして欲しい事を他人にもしようとしたので巡り歩いて良いわざをなし、悪魔に制せられている全ての人々を癒す事によって全ての御言葉を成し遂げましたか?私達はよく人間的な標準で見て神の標準で見ようとしません。しかし、私達が認識しなければならないのは、私達はもうただの人間ではないという事実です。私達は新しく造られた者です。新しい創造です。ある聖書では「かつて一度も存在した事のない種」と訳されています。それが私達です。私達だけが唯一神の御霊を持っている者です。私達には神の力があります。ですので、私達が他の人に自分にして欲しいよい事をしようと考える時、それは人間性から出たものではありません。それは私達の内にいる神の性質から出たものです。そして、私達にはそれを成し遂げ巡り歩いてよいわざをなし、悪魔に制せられている全ての人を癒す力が与えられています。


私達がスーパーで人を見た時には、その人が病気だったり傷ついていたりするのが分かります。その時私達は、「私は今何をするべきか?」「今、癒しをするべきでしょうか?」と考えるでしょう。その様な考えは聖霊が思い起こさせるものです。何故なら、彼の仕事はイエスの教えた全ての事を思い起こさせる事だからです。イエスが私の引用している人ではありませんか?神が私にこの病人に手を置いて欲しいのかと考える時、聖霊が与える言葉はイエスの話した言葉です。それは、私があなた方に話している言葉です。そこで思い浮かぶ考えは、「何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもその様にしなさい」である事を保証します(マタイ7:12)。これは、神にとって完璧なシステムだと思いませんか?神はいちいち私達を監督する必要はありません。神は私達に従うべき原則を与えるだけで、後は私達がそれに従うだけです。そして、神の御前に立った時には私達はその原則に従って裁かれます。どの様に人生を生きてきましたか?自分のして欲しい事を他の人にしてきましたか?神は曖昧な基準で私達を裁く事はしません。神は御言葉に従って私達をさばきます。ヤコブ書には自由の律法に従ってさばかれる者らしく話して、生きるように書いてあります(ヤコブ2:12)。ヤコブ1:25では御言葉である自由の律法を一心に見て、それに従って生きるように書いてあります。だから、私達はこの御言葉によって裁かれます。曖昧な御霊の導きではありません。


言わせて下さい。私は過去に、「神は、私にこれをするように導きました」と言う人々を見てきました。しかし、神は彼らをその様には導きませんでした。

人々は宗教的になってくると、「神は私にこう言いました…」という様な言葉を使い始めます。しかし、彼らの言う事はよく聞くと、聖書の言っている事と正反対である場合が多いです。彼らはこう答えます。「でも神様が私にそう言いました。」それはまるで、「私の言う事に反論するな。何故なら、神様が私にそう言いました。私が神様から何を聞いた事について、あなたは何も言う事はできない」と言っている様なものです。しかし、導きが御言葉と一致しないなら、それは神からのものではありません。要点は、どの様な霊的な感覚を得るかではありません。たとえ私達の人生で神が語らなくても、私達はその神の原則に従って生きる責任があります。これは完璧なシステムなのが分かりますか?神は私達に話さなければいけない理由はありません。


でもある人は言うでしょう。「神様、私は何もあなたから聞きませんでした。」神の語るべき事は既に聖書に書かれています。イエスが悪魔に試みにあわせられた時に、こう言わなかった事に気が付きましたか?「悪魔よ、聞け。父は、私に話して、私は彼の息子だと言った。」悪魔が、「もしあなたが神の息子なら、ここから飛び降りてみよ」と言った時には、彼は、「悪魔よ。父は言われた」とは言いませんでした。イエスは言いました。「悪魔よ。言っておくが、こう書かれている。」分かりましたか?イエスは「書かれている」と言いました(ルカ4:3-12)。私は人生の全てを、ミニストリーを、する事全てをこの書かれた御言葉に頼ってきました。だから神は多くの扉を開けてくれました。私達は世界中を周ります。何処に行っても同じ結果を見てきました。会った事のない人達も私達の教える事を聞いて、同じ癒しの結果を得て、私達に手紙を書いて知らせてくれます。「この神癒技術者訓練は結果を出します。」既にあなた方が過去に学んできた事は、めちゃめちゃにされたと思います。私はいつも手紙を受け取ります。それにはこう書いてあります。「カリー兄弟、私達の伝統的なキリスト教をめちゃめちゃにしてくれて、ありがとう。」何故だか分かりますか?それは伝統的なキリスト教は結果を出さないからです。私は人々がこう言うのを聞いた事があります。「でもこれは普通ではありません。」普通ではないのは知っています。普通というのは過大評価されています。分かりますか?愛する人が死んでいくのを見るのが普通になってしまっています。周りに聞いてみて下さい。それが普通です。私は普通にはなりたくありません。私は普通でいる事にうんざりしました。私は多くの人達を埋葬してきました、傷ついて死んで行くのを見てきました。そして、普通でいる事をやめる決心をしました。ですから、普通とは違う人になる事に決心しました。神は決して私達に普通になるようにと言いませんでした。

2019年1月23日水曜日

DHTT セッション 9

質問:「イエスは死とハデスの鍵を持っていますので、サタンは命を取り去る事はできませんよね?」それは違います。サタンは命を奪い去るべきではありませんが、彼は盗人です。盗人は盗み、殺し、滅ぼす為にやって来ます(ヨハネ10:10)。ですから、強盗が銀行からお金を盗む権威が無いように、サタンは命を取去る権威はありません。それでも、銀行強盗はお金を盗みます。サタンも同じです。それが、私達は神の警察である理由です。私達は彼を阻止する必要があります。ですから、サタンを見かけたら何処でも彼を阻止して下さい。贖いには、命、敬虔、繁栄、癒しなどは全て含まれています。それでは、イザヤ53章に戻って下さい。聖書の贖いに関する聖句は人が生きていく為に不可欠な、全てのものに関係しています。聖書には聖霊に導かれる事や、聖霊の導きについての聖句があります。神ははっきりと言っています。「私は、私の目であなたを導こう(KJV訳 詩編32:8)。」言い換えると、もし私達の考えが神の言葉に従って一新されるなら、私達は神の視点から物事を見始めます。何が正しくなくて、正しくなるべきかを見極めます。神は私達を彼の目で導いてくれます。彼の視点は神の言葉と一致しています。私達の考えも聖書と一致する必要があります。そして、私達は状況を見て、「これは正しくない」と言えるようになります。小児科病院に行った時に、そこにいる子供達や幼児達を見て、「こんな小さな子供達が病気なのは間違っている」と考えるには別に霊的になる必要はありません。それは当たり前の事です。もし小児科院に行って子供達を見て「これは間違っている」と思いながらも、神がその様な状況に関わっていると考えるなら、そんな病気を与えるような者が神でなくてあなたが神であるべきです。私の言っている事が分かりますか?私達が病気の子供達や病気を見て…子供だけではありませんが、ここでそう言うのは、子供は純粋で無邪気だからです。彼らは何も間違った事をしていない事を知っているからです。多くの場合には、大人はそれを見て「でも、彼らは何の罪を犯したのか?」と言います。しかし、その様な病気の状況を見ても、憐みを持つ事ができる事は、それは神からのものだと証明します。何故なら、通常、私達は自分の事しか考えず、自己中心的だからです。それでも、大半の人間はその病気の子供達の状況を見てそれは正しくないと考えます。それは、その人に神の知識が少しでもある事を証明します。


私は、多くの場合、医師は教会よりも神の心をよく知っていると言ってきました。何故なら、少なくとも彼らは病気を根絶するという誓いをするからです。私達は教会として「病気は根絶されなければならない」と言うべきです。心理学を勉強すると、人間は防衛機制というものを持っている事を学びます。例えば、戦争で捕らわれた人やルワンダの虐殺を経験した人々は、地獄のような悲惨な状況を経験します。その様な経験は言葉に表す事ができないので、正気を失わないように彼らは自己防衛機制を働かせます。

そして、その様な悲惨な状況が起こった理由を捜し始めます。防衛機制は彼らが正気を失わないように守る為の自己防衛として働きます。彼らはこの様な経験から何か良い事が生まれるに違いない、この様な事が起こったのには、何か理由があるに違いないと考えます。ナチスによる虐殺の中では、「私がこの様な状況を経験しているのには理由があるに違いない」と考えた人々だけが正気を失いませんでした。彼らは、人間というものは自分自身を完全な悪に明け渡して、悪魔に取り憑かれて理由や理性など全く関係なく人々を傷つけ、殺し、全くの悪になる事ができると考えませんでした。しかし、その様な悲惨な状況にあっても、防衛機制を持っている人々は、「これはひどい状況だけれども、何故私が今この様な状況を経験しているかの理由を見つけなければならない」と考えます。心理学は、その様な考え方を防衛機制と呼びました。アウグスティヌスはこれと同じものを「極端な神の主権」と呼びました。もし、私達が神の主権を極端に理解してしまうと、神に仕えるか、仕えないかを選ぶ人間の自由意志を無くした考え方になってしまいます。人々は、「それはアルメニウス主義ですか?それともカルヴァン主義ですか?」と尋ねます。人々はよく私に、「あなたは運命予定説を信じますか?」と訊きます。はい、もちろん信じます、私は、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたと信じます(ローマ8:29)。これが、私が運命予定説について信じている事です。そして、私は神に与えられた自由意志によって、私の意志を神の御心とより一致させる事によって、より御子のかたちと同じ姿になり神に栄光を帰すと信じます。私は、神は物事の背後にいて働いていると信じています。神は、人々を導いて全てのものを同時に、天に居ながら働かせている事を知っていますか?神の物事の行い方はいつも驚くべきものです。同時に、私達は神の主権を、何もしない言い訳や責任回避の口実として用いてきた事を認識するべきです。現実に、私達がしなければならない事は、神が命令した事を実行する事です。人々は「あなたは神の主権を信じますか?」と尋ねます。はい、私は信じます。神は、その主権によって病人に手を置けば病人は癒されると聖書に書かれています。ですから、私はそれを信じます。そうですよね?


でもある人は「それでは神の主権はどうなるのですか?」と質問します。神は、あらかじめ私が聖書を読みそれを行なう事を知っていたので、その主権によって、聖書に癒しの事を記述し、私はそれに従って癒しを行うのです。それでも、ある人は「あなたは全ての人が癒されるべきであると言っているので、神の主権を取り去っています。神の選択の余地を無くしています」と言います。はっきり言うと、私はむしろ神の主権をより拡大しています。何故なら、神の絶対的な権威は、神を信じていない人々の上にも拡大しているからです。私は、いつも癒しだけについて教えるわけではありません。ただ、私は癒しの分野において秀でているだけです。それは、私の人生で起きた多くの事や経験が関係しています。それらが、私を今いる時点に到達するのを助けました。

人々は言います。「全ては神のわざです。」いいえ、違います。それは悪魔が間違えを犯したからです。彼は、私を放っておくべきでした。私は、彼が私から奪った娘の命を、彼の奪った命の中で最も代価の重い命の一つにしてやろうと決心したからです。だから、彼に私を放っておくべきだったと後悔させてやりたいのです。彼は、私達に手を出すべきではありませんでした。それが私の人生の義務です。彼に代価を支払わせる事です。私は癒しについて勉強してきましたが、言ったように、癒しは聖書の教えの全てではありません。もし、癒しだけを知ってそれだけを学んでいたらその人は偏った人になります。通常は、その様な人はおかしな教義に陥ります。彼らはバランスの取れた人にはなりません。しかし、ここで私の教えている原理はあらゆる事に通じるものです。それは、悪霊追い出しにも救いにも、癒しにも、繁栄にもです。繁栄と言っても、自分だけの為の繁栄ではありません。私の意味する繁栄は、申命記18章18節に書いてあるようなものです。神は、私達に富を築く力を与えてくれます。それは、神がこの地上で彼の契約を確立する為です。私の持っているものは何でも神のものです。ですから、私が得るものは何でも神の国の拡大の為に用いられるべきです。死んだ時に銀行口座に多くのお金を持っておく為ではありません。私の目的は何も持たずに死ぬ事です。私は子供達には既に言いました。手に入れる事ができるものは、今のうちに手に入れておきなさい。何故なら、私が死んだ時には全てのものは分配されてしまうからです。


ジョン・ウェスレーについて言われた事と同じような事が、私が死んだ時にも言われる事を願います。彼が死んだ時には、彼は4万の説教とポケットに彼の棺を担ぐ人に支払う為の6つの銀と旅行をする時に持って廻った銀の食器と、その当時彼が生きていた頃の地上での神の力の働きであったメソジスト教会を残しました。今ではメソジスト教会はその当時と同じような力が無い事は認めます。しかし、私はその様な遺産を残したいと思います。私は、サムラル氏のいるサウスベンに、彼がなくなった後も何度か行った事があります。彼が生きている頃、私達に、「私が死んだ時には、彼らに私の墓石に『ここに信仰の人、レスターサムラル眠る』と書いて欲しい」とよく言った事を覚えています。それで、ある日私は彼の墓に行きました。彼が埋められた時に、その場にいなかったからです。彼の3人の子供達に会う為にも行きました。ステファン、ピーター、フランクです。サムラル氏の生きている頃に、私達が彼の所にいる時に、ステファンは私の息子に洗礼を授けました。私が彼の墓石を見る為にサウスベンに行くと、墓石にはレスターサムラルという名前と、没年月日と、「ここに信仰の人、レスターサムラル眠る」という言葉が刻んでありました。レイク氏が1935年に亡くなった時に、レイク氏と働いていたへブデン氏が読んだ賛辞を忘れる事ができません。彼は、「レイク氏がスポーケン市にやって来て、病気や打ちひしがれた人々を見た時に、私達は、勝利は私達が前進した先にあると信じていました。しかし、レイク氏は病人を癒し彼らを自由にして、勝利は先にあるのではなく、

既にここにある事を教えてくれました」と読み上げました。又、別の人は、「レイク氏は信仰を聞き手に与える能力がありました」と読みました。私が死んだ時にも、その様な言葉を言って欲しいと思います。例えば、もし私が息子に全財産を与えるのなら、彼はそれをすぐに使ってお金はなくなってしまいます。そして、彼はまたお金を求めなければなりません。もし私が、彼に神に対する信仰の知識を与えるのなら、彼は決して神に見捨てられたと感じる事もないし、一文無しになる事もなく何処にいても彼は生き延び繁栄する事を知ります。何故なら、彼は神が彼と共にいて、神が彼の源であると知っているからです。これが鍵です。私達は次の世代に、この様な教訓を残すべきです。教会の中で、私達は癒しが日常茶飯事になる点にまで達しなければなりません。癒しの為に祈る時に癒しを前面に持ち上げ見世物にする限り、私達はその様な点には達する事はできません。見世物にするべきではありません。


もしスーパーに行って病人の為に祈る時、神がその人を癒す事には、何の疑問もありませんよね?では、病人の為に祈る時にはその人をいちいち人数の少ない所に連れて行って祈る必要はありませんよね?「あそこに行って祈りましょう」と言う必要はありません。そうですよね?もし、あなたが、本当に神がその人を癒すと信じているなら、かえって「病人に向かって、ここで少し待っていて下さい。皆さん、こっちに来て癒しを見ませんか?見て下さい」と言って人を集めるでしょう。しかし、多くの教会は、福音を宣べ伝える事で人々の信仰が増され、癒しが起こる事を望みます。イエスも彼の弟子達も、その様にしませんでした。人々は聞く事によって信仰を得ましたか?はい、得ました。人々は自分の信仰によって癒されましたか?はい、癒されました。何故なら、使徒の働きでパウロは、ある人に癒される信仰を見て彼の手を取って立たせました(使徒14:8-11)。そうですよね?そして彼は癒されました。それが間違っているとは言っていません。ただ、他人の信仰にいつも頼る事を間違っていると言っているのです。癒しを行う時には、癒しの前に、人による教えや習慣を打ち壊す教えをする必要はありません。ただ病人の為に信仰を持ち、彼らを自由する必要があります。私達が、神が私達の問題だと考えている限り、信仰によって歩む事はできません。何故なら、その様な考え方では、彼らが癒されるかどうかを確信する事はできないからです。信仰は知る事です。信仰は必ずしも信じようと試みる事ではありません。信仰は知る事です。違いが分かりますか?一度その様な信仰を訓練すれば、信仰はただ信じる事を越えて知る事になります。私達は、今までに少なくとも7万人の為に祈ってきました。そのうち、私はてんかんの為に祈って癒されなかった人を知りません。知っている限りは皆癒されています。私達は、殆ど全ての記録を残しています。その他のある病気に対しては100%の癒しの成功率があります。全体的には、私達の祈ってきた94%から97%の人々は癒されています。ある病気は、他の病気に比べて瞬間的に癒されたりします。誰でもそうだと思いますが、私は段階的な癒しは嫌いです。

もちろんその人が癒されるなら良いですが、通常は瞬間的な癒しを求めます。癒しを行う時には、人々については忘れなければなりません。言い換えると、祈る時は誰とも話さず、神に向かっても話すべきではありません。その癒しを行う前にするべき事は、全て神と話し終えているべきです。病気の人の前に立った時は神と話す時ではありません。問題が持ち上がった時、すなわち危機に陥った時は祈り始める時ではありません。分かりますか?問題が起こった時、準備のできていない人にとっては、それは問題であり、準備ができている人にとっては機会です。問題に対して予め備えているのならそれは機会であり、そうでないのなら危機です。話している事の意味はこうです。例えば、店の中を歩いていたとします。そして、あなたの目の前で人が倒れて死ぬとします。あなたには時間がありません。今の教会は、その様に人が目の前で死んだとしても、「それでは少し待って下さい。今はとりあえずその人を冷凍庫に入れておいて、まず3日間断食をして祈り準備ができた後にそして戻って来てその人をらせます」と言います。これが今の教会の姿勢です。彼らは危機が来ると準備をしようとします。聖書的な姿勢ではありません。それが、私がこの軍隊的な考え方を取り入れようとしている理由です。今の教会は、その様な考え方ではありません。


海軍の特殊部隊は、まるで明日が戦いのように訓練します。それゆえ、いざ戦いになった時には「では、どれだけ早くチームが戦場に着く事ができるか?」と訊かれた時、「私達は少なくても彼らを訓練する為に30週間必要です」なんて言いません。30週間は長すぎです。私達は、いつも準備ができた状態で生きている必要があります。いいですか?私達は毎日訓練します。私は毎日電話を受けます。いつかかるか分かりません。私は、この様な神癒技術者セミナーの最中に電話を受けた事もあります。今携帯はマナーモード状態ですが、教えている最中に電話が鳴る場合もあります。その時に私は言います。このセッションを始めてまだ15分ですが、少し早く休憩にします。そして、休憩中に私は携帯を見て電話に出ます。それが緊急の電話だと知っているからです。その緊急のコールは私の緊急の番号とつながっていて、もし誰かがその番号に書けると「もし誰かが24時間以内に死ぬなら、このボタンを押して下さい。」そのボタンを押すと私の携帯にかかります。(現在はJGLMのウェブサイトに掲載してあります。2017年の時点では、主にJGLMスタッフが対応しています。)緊急の番号は私に誰からかかってくるのか表示しないので、無名と表示されます。私はそれが緊急の番号から来ているのと、急ぎを要する電話である事が分かります。私はその電話を取り休憩にします。私は次に何が起きるかわからないので、いつもその電話を取ります。それは誰かが川で溺れ死んだのかもしれないし、癌で死んだのかもしれないし、それは死んだ人が生き返った証かもしれません。どれであっても不思議ではありません。人々が電話してきた時には、最初は彼らは叫んでいるので、彼らを落ち着かせるまで何が起こっているのか分かりません。

大半の電話は、誰かが死んだか死にそうかです。ここで私が伝えたい事は、私は未来を見て何が起こるかを知るという贅沢はできないという事です。今から3日以内に、どの様な電話がかかるかは分からないという事です。人々の生死は、私が準備ができている事にかかっています。個人的には、私は早い時期に決して誰にも私の命も子供達の命も私の家族の命も、誰か他の人の手に任せない事に決めました。何故なら、彼らがその時にどれくらい準備ができているか分からないからです。彼らがどの様な精神状態か知る事はできないからです。クリスチャンの家族の中で一番喧嘩が多いのは日曜日に礼拝に行く前です。

私達がある一定の雰囲気で、教会堂で礼拝しなければいけないと考えるので、悪魔はそれを阻止しようとします。例えば、悪魔は私達が教会に来ても、心から礼拝して御言葉に耳を傾ける事ができるまで45分もかかるように試みます。悪魔はできるだけ私達が礼拝や御言葉を聞き、受取る事ができないように様々な問題や戦いを引き起こします。理解しなければいけない事はどの様な事が起きようとも、私達の霊的な状態は、いつもその出来事により変わる訳ではないという事です。聖書は「怒っても罪を犯してはいけません」と言っています(エペソ4:26)。しかし、「もし怒ってしまったら、心理状態は正常ではないので祈る事はできません」と言う人もいます。私達の心理状態は祈る事とは全く関係ありません。祈る事は霊的な事です。心理状態は感情であり魂の事です。私達が魂を燃え立たせる事と、霊を燃え立たせる事は別の事です。魂が霊であると考える限り、私達は魂に縛られたままです。これに気がつき始めると、次は、「ではどのように霊に従って歩んでいると知る事ができますか?」と訊くでしょう。それは簡単です。霊に従って歩んでいる時、私達は御言葉を行っています。私達が御言葉を行っていないなら、私達は霊に従って歩んでいません。


私がミニストリーを始めた頃、私はサムラル氏に会いました。私は「御言葉の爆発」という1981年にジョン・オースティンの教会で開かれた集会に参加しました。そこに行きましたが、私は任命を受けた牧師でも、資格を持っているのでもありませんでした。その集会で彼らは言いました。「この集会では、人々の質問に答えてもらう為に牧師達を招いています。ケネス・ヘーゲン氏、ジョン・オースティン氏、R・W・シャンバック氏、レスター・サムラル氏やTL・オズボーン氏達を招いています。彼らは信仰の運動で知られている大物達でした。そこで、私は考えていました。「その集会に行きたいが、私は牧師でもありません。」そして、確か彼らは人々を扉の所でチェックしていました。なので、彼らがチェックを始めた途端に私達は紛れ込んで座って、注目を集めないようにして聞いていました。人々は質問をしていました。そして、それが終わりに近づいてきた時に私は言いました。「私はサムラル氏に質問があります。」私は彼に質問して彼がその質問に答えて座ると私に言いました。「どれだけ早くサウスベンに来る事ができますか?」私は答えました。「できるだけ早く行きます。」

彼は言いました。「来たら私に会いに来なさい」と言いました。私は答えました。「分かりました。」私は妻にその事を伝えました。「私はサウスベンに行ってきます。」彼女は言いました。「何故ですか?」私は答えました。「サムラル氏がサウスベンに来るように言われたので行ってきます。」彼女はOKしてくれました。しかし、私は何も持っていませんでした。車や何か移動する手段は何も持っていませんでした。結局、妻を残してバスでそこに行く事になりました。そこに着いた時にも何も持っていませんでした。服は持っていましたが住む場所はありませんでした。誰も知らなかったし何も知りませんでした。バスを降りて教会に向かいました。そのバスを降りて教会の扉を通ると、そこには受付がありました。そこで私は言いました。「ここにサムラル氏に会いに来たのですが。」彼女は言いました。「面会の約束はしましたか?」「いいえ、でも彼は私が来るのを知っています。彼は私に会いに来るように言いました。」彼女は言いました。「分かりました。この廊下をまっすぐに行ってその右側です。」私は「分かりました」と言い、その扉まで行きノックしました。「入りなさい」という深いどら声が聞こえました。その扉を開いて中に入ると、長い部屋がありました。部屋に入って歩いていくとソファや壁に掛けられた様々なものがあり、その先を見ると机があり、彼は私の方向を見て座って何か書いていました。


その当時、私は妻に言っていました。もし2つの質問への答えが得られるなら全てが変わります。一つ目は、どの様にして神の御霊に導かれている事が分かるか。もう一つは、どの様にして神の御心を確信する事ができるか、です。つまり、神の御心は何かです。私はこれらの質問への答えを知る事ができるなら全てが上手く行くと考えていました。私はそこのソファに座って待っていました。しかし、彼は顔も上げないで書いていました。座って周りを見回して、世界中からの珍しいものを見回していました。すると、突然彼は書くのを止めて顔を上げて言いました。「神の御心を知る為には聖書を読みなさい。聖霊に導かれる為には聖書を行いなさい。」そして彼はまた書き始めました。私は彼を見て思いました。これらの質問の為にここに来て、もう用はないので家に帰る事ができるみたいだ。結局、私はサウスベン市に戻って、そこで仕事を見つけて、しばらくの間滞在しました。とうもろこしの房を花受粉させる為に取り除く仕事をしましたが、今までその様な事をした事はありませんでした。それは大変な仕事でした。とうもろこしの間を通りながらそれらを強く握らなければいけません。その様にしてお金を貯める為の仕事を得てお金が溜まると、私は戻って家族を呼び、そこに引っ越しました。私達はその教会のスタッフにはなりませんでしたが、祈りの奉仕で働きました。しかし、昼間は働いていたので、その祈りの奉仕の代わりをしてくれる人を見つけなければいけませんでした。結局、見つからなかったので、代わりに夜の祈りの奉仕を勤める事にしました。誰も夜にしようとする人はいなかったからです。毎晩、私達は起きて働きました。礼拝堂の明かりは暗いものでした。この様な話をしているのには理由があります。

そこには礼拝堂があり、長い椅子が並んでいました。子供達はそれらの長い椅子の上で、私達が祈りの奉仕をしている間に寝ました。その奉仕の中で、私達は初めて離れている人々でも、電話などで癒されたりする経験をしました。ある人に新しい心臓が与えられたり、様々な事が起きたりしました。ある夜の事です。まだ薄暗くて静まっている朝の4時、教会の建物は私達に貸しきられた様なものでした。教会の前からある物音を聞きました。私は軍隊の経験を持っているので、この物音を聞いていた時に思いました。「これは調べなければいけない。もしかしたら誰かが建物に入り込もうとしているかもしれない。」この教会のある地域は、あまり治安のいい場所ではなかったからです。それに入り口の扉には、大きな灯りもついていたからです。その入り口の所には大きな地図があって、こう書かれていました。「宣べ伝えられた事の無い何百万人、さらに何百万人」。そこにはその地図と灯りがありました。その地図には世界中が描かれていました。その地図には灯りが当てられていましたが、それ以外は暗くなっていました。なので、私はこっそりと後ろにある柱つたいに隠れながら、誰が教会に忍び込んだのかを見つけてやろうと思いました。その人を捕まえて警察でも呼ぼうと考えていましたが、それ以外にはあまり考えていませんでした。そこで、サムラル氏を見つけました。朝の4時なのにきちんとスーツを着て、その光の照っている所を歩いていました。私は隠れて彼が歩き周っているのを覗いていました。彼は地図を見上げて言いました。「コンゴの紛争はイエスの御名によって止る。大統領は良い人なのでその力にとどまる。」その様にして、彼は歩き回って祈っていました。これが彼の祈りの時間でした。彼がこれらの全ての国々の為に祈るのを見てそれを聞きました。彼はそれらの国の大統領の名前を知っていました。それらのいくつかは聖霊によるものだったと思います。彼はこの様に祈りながら歩き回り、私はそこに隠れて立ち見ていました。


一週間位の間、毎朝そこの柱に隠れて彼が祈るのを見ました。その人が祈るのを見る事によって、その人について多くを学ぶ事ができます。終にある日、私がその柱に隠れて彼が祈るのを見ていると、彼は言いました。「そこの陰に隠れて祈るのか、それともここまで来て祈るのか、どっちなんだ?」その時、正直その場から去りたい気持ちでした(笑)。私はそこから出てきました。彼の側は歩きたくはありませんでした。自分のやり方で祈ろうと思っていました。彼の真似をしているとは思って欲しくなかったからです。彼も私も歩き回っていました。私はそこで静かに祈っていると、彼が大声で言いました。「もし祈るなら。大きい声で祈りなさい!」私は必死で大きな声で祈りました(笑)。


私達は1年間程その様な生活を続けました。私はある夜の出来事を覚えています。クリスマスの頃の事です。サウスベンでは雪が降って寒くなるからです。初めて、道端でスキーをつけて歩いている人をみて思いました。

「なんでこんな寒い所に来てしまったのだろう。」私達には車がありましたがそれは壊れてしまい、その夜は祈りの奉仕をしに行く事ができませんでした。そして、次の日に彼に会った時に彼は言いました。「昨晩は何処にいたのですか?」私は答えました。「車が壊れてしまったのです。それはもう使い物にはならないので車はもう使えません。」マーフィー兄は彼の義理の弟でした。サムラル氏は彼の方を向いて言いました。「この夫婦に夕方までに車を用意してあげなさい。必ずそうしなさい。」そして、彼は振り返って歩き去りました。私達は、その日の5時までに車を手に入れました。素晴らしい車ではありませんでしたがそれは運転するには十分なものでした。彼はいつもこの様な人でした。彼自身は教会の裏の小さな家に住んでいました。彼はまさに立派な神の人でした。50年間のミニストリーの中でスキャンダルは何もありませんでした。


私はある時、一人の女性が教会に来た事を覚えています。私達が去る時に彼女は扉の所に来て訊きました。「家まで送ってもらえますか?」サムラル氏の妻のルイースは既に家に帰っていたので彼は言いました。「分かりました。」そして、彼らは車に乗り始めて私達は皆その駐車場にいました。彼女も車の前に乗ろうとしました。しかし、彼は言いました。「前ではなくて後ろです。」彼女は彼を見て後ろに乗り訊きました。「サムラル兄、私は前に座るには値しませんか?なんで、後ろに座らせるのですか?」彼は言いました。「あなたはいい人ですが、ただ苗字が違います。あなたの苗字はサムラルではありません。もしあなたがフロントシートに乗っているのを人々が見たら、朝までに、そのうわさはサウスベン中に広がってしまいます。」彼は続けて言いました。「物事には正しいやり方と、正しくないやり方があります。」この様に彼は霊的であって尚且つ、知恵もあり実践的な人でした。ある時には、教会に同性愛者達がやって来ました。そしてサムラル氏に言いました。「私達はここの教会が好きです。人々もいい人達だし、この教会員の一員になりたいと思います。でも、私達は同性愛者です。神は私達をこの様に造りました。なので、あなたの教会の会員になる事ができるか知りたいのですが。」サムラル氏は言いました。「まず、神はあなた達を同性愛者としては造りませんでした。第二にあなた達は教会の礼拝には参加できますが、会員にはなれません。会員になる為には聖い生活をしなければいけないからです。」続けて彼は言いました。「もし神があなた達をその様に造り、もしそれがあなた達にとって正しいとしたら、それは他の全ての人達にとっても正しくなければいけません。もしそれが全ての人にとって正しいものなら、人類は1つの世代で滅んでしまいます。」彼は言いました。「なので、全ての人間にとって正しい事なら、あなたにとっても正しい事です。もしあなたが悔い改めるなら、教会の会員になる事ができます。」それから3ヵ月後に、彼らは完全に同性愛からも解放されて自由になり、会員になっていました。そして、教会を前回訪れた時にもまだそこにいました。それは知恵です。


ある時、イエスは御父であり聖霊であって、三位一体ではない、統一の教義を信じている人達が教会にやって来ました。そして、彼らの教義が正しくて彼の教会は教義を変える必要があると説得しようとしました。彼らは教義を45分間の間に、次々と説明しました。サムラル氏は彼らを見て言いました。「では、事を簡単にしましょう。あなたはイエスを父と呼ぶのですか?」彼らは答えました。「はい。」サムラル氏は言いました。「私はイエスを兄と呼ぶので、あなた達は私をサムラル叔父さんと呼びなさい。」彼らはお互いを見て、この人は気がおかしいというような顔をすると立ち上がって、その場を去って行きました。彼らはそれ以上話す事はしませんでした。彼のこの答えが全ての議論を終わらせました。私がこの出来事を見た時、この世にあって霊的でありながら、親みやすくも現実的でもいる事ができる事が分かりました。


油注ぎを守る必要はありません。私達は油注ぎを守る事はしません。油そそぎが私達を守ってくれます。私達が聖霊を守る事はできません。ある人々は、「少し静かにして下さい。騒がしくして聖霊を悲しませたくありません」と言います。そうではなく、聖霊を悲しませるのは、むしろ病人の前をまるでその人がいないかの様にして通り過ぎる時です。誰かが礼拝中に騒がしくするなら、私の教えを聞くのに気が散ったりするかもしれませんが、聖霊の気を散らして邪魔をする事はしません。何故でしょうか?彼はいつも集中しているからです。もし私達の周りに病人がいるなら、聖霊は何処にいると思いますか?病人の近くです。その様な事を体験した事があります。私はある人の為に祈っていましたが、周りの人々は騒いだりして、私は気が散らされていました。しかし、聖霊は私に言いました。「カリー、こっちです。こっちに集中して下さい。この人が助けの必要な人です。集中して下さい。」私は騒がしくする事で聖霊が悲しむのを見た事がありません。人々は言います。「聖霊は鳩のようなので、私達は騒がせて彼を悲しませる事はしません。彼は飛び立ってしまいます。」確かに聖霊は鳩のようにして現われましたが、彼は神の御使いに力を与えて一夜にして185,000人もの兵士達を殺させもしました。私達が騒がしく話すと聖霊は悲しむと思いますか?冗談でしょう。


私達は天地を治める神について話しているのです。最も偉大で力のある戦士である神について話しています。神は癒す者でもあるので、彼は戦士でもある必要があります。彼は私達の為に戦ってくれるからです。多くの人はこう考えるのではないでしょうか。イエスは死んで地獄まで下った時、悪魔は言いました。「終にここに来ましたね。ここに鍵があります。持って行って下さい。」聖書はその様には記述していません。イエスは悪魔から鍵を奪い取りました。イエスはそれらの鍵を持っています(黙示録1:18)。それは事実です。問題は、私達はまるで本当の戦いが起きていないかのように振舞います。戦いは現実であります。それはダニエルを邪魔した様なものです。

彼の祈りは彼が祈ったその日に聞かれました。しかし、その状況に対して天において戦いがありました(ダニエル10:12-14)。しかし、私達は考えます。「もう一度、答えを得る為に祈らなければいけません。」違います。その祈りへの答えは、彼が祈ったその日に送られました。しかし、その答えは邪魔をする者達によって妨げられました。今は、私達はダニエルのような立場にはいません。カリスマ派のクリスチャンでさえも、癒しについて話すと、「パウロのとげやテモテの腹やパウロは誰かを病気のまま残してきた事や、ヨブの事について知っています」と言います。しかし、癒しについての5つの聖書箇所を教えて下さいと訊くと、彼らは答える事ができません。彼らはあらゆる癒しが起こらない失敗する理由や問題は知っています。聖書にはパウロのとげが病気だという証拠は何一つありません。また、多くの人は言います。「でも、私はヨブのような人です。」それは違います。私達はヨブのようではありません。ヨブには贖い主はいませんでした。ヨブには父の前で弁護してくれる方はいませんでした。ヨブは新生していませんでした。ヨブの内には神の御霊は宿っていませんでした。ヨブ記は、聖書の中でも最も古い本と伝えられています。私達は、ヨブが神について何を知っていたのかも、神とのどんな約束を持っていたのかも知りません。神が、彼に何を約束したかの記録は何もありません。人々は言います。「神は悪魔に許可を与えました。」その様に解釈する事は可能ですが、聖書は次のように言っています。「見なさい。ヨブはもうあなたの手の中にいます。(KJV訳ヨブ記2:6)」言い換えると、「私はヨブをあなたに与える事はしません。彼は既にそこにいます」こうなります。何故なら、彼はまだ神との契約の下にはいなかったからです。彼はまだ神の守りの下、律法の下にはいませんでした。律法は当時の神の守りを与えるものでした。それに加えて、聖書は悪魔が彼を悪性の腫物で打ったと書いてあります(ヨブ記2:6)。神ではなく、悪魔がそれをしたと言っています。そして、ヨブ記の最後には、神はヨブを捕虜から返されたと書いてあります(KJV訳42:10)。ヨブは悪魔に捕らえられていたという事です。聖書には、神は彼を捕虜から解放し、彼の所有物を2倍にされたと書いてあります。


癒しに反論する多くの人々は、パウロが弟子を病気で残してきた事や、テモテの胃の事などについて知っていて、「パウロはテモテに胃の為に少量のワインを飲みなさいと言いました」と言います。実際、もし外国に行って、少量のワインを水に混ぜるならバクテリアを殺す事ができます。パウロはテモテに、「もしあなたが胃に問題があるのなら、ワインを飲みなさい」と言っただけです。パウロはワインを薬として使ってはいませんでした。彼はただ、「ワインは水を浄化し、下痢の問題を解決します」と言っただけです。それでも、人々は「パウロはある人を病気のまま残してきました」と言います。私は人々を病気のまま残してきた事があります。スーパーに行って100人を癒しても、入り口を閉めてもう誰も入れないようにしない限り、誰か癒されていない別の病人を残してくる事になります。何故なら、新しい病人は入り続けてくるからです。

ゴードン・リンゼイの証しをシェアしましょう。彼がある女性の癒しの為に祈り家に帰りました。彼の妻は「どうしたの?」と尋ねました。彼は「祈りましたが、何も起こるのを見ませんでした」と言い落ち込みました。その夜礼拝に行くと、その女性が神を賛美しているのを見つけました。そこで、彼は彼女に聞きました。「どうしたのですか?」彼女は「あなたが去った5分後に私は癒されました」と言いました。私達は、パウロが残した人にその後何が起こったかは分かりません。しかし、パウロは手紙で、「神は私達を憐み、私達とあなたを自由にしてくれました」と書いてあります。人々はどうにかして神が癒しを行わない理由を作ろうとします。いつも神についての否定的な悪い事ばかり考えようとします。しかし、神は歴史を通して良い事意外には何もしていません。それを認識するべきです。神は人々を癒し祝福してきましたが、私達は神に背を向けて「しかし、神はこれやそれをしなかった」と言って、神を責めようとします。その様な事をする多くの人々は、キリストによる贖いに伴う恵みを受け取った事のない人々です。初代教会は私達の今知っている様なパウロへの啓示は知りませんでした。彼らは少しずつそれらの事を理解していきました。


今までにおかしな教えを作り出してきた理由は、多くの人々が使徒達や使徒の働きの書を神学の手本としてきたからです。もし私達が使徒の働きを神との歩みの手本とするなら、誰の考えに賛同しますか?パウロですか?ペテロですか?もし自分をパウロの立場に置くなら恵みによって歩みます。もしペテロに自分を置くなら、私達は割礼をして神殿の掟を守らなければなりません。それ以外にも、使徒の働きの書に記されている事に従って様々な事を行わなければなりません。何故なら、その当時は、ペテロは勇気を持って「パウロの教えている事は正しい」と言う事ができなかったからです。パウロでさえも、テモテに割礼を受けさせた時には動揺したようです。その時、パウロは律法に戻りました。何故なら、その時までは彼らは異邦人がイスラエル人と同じように救われるか確信を持っていなかったからです。そうですよね?ペンテコステから10年後位にやっとコルネリアスの家族に聖霊が下るまでは、異邦人も救われると確信を持って知りませんでした。この様に使徒の働きを私達の手本とするべきではありません。幼子の状態の教会ではなく、エペソの教会、栄光の勝利の教会を目指すべきです。その様な教会の為にイエスは再び戻ってきます。イエスは使徒の働きに書いてあるような教会には戻ってきません。使徒の働きの中の初代教会の時には、使徒たちは自分達のしている事をよく理解していませんでした。使徒の働きはそんな彼らの記録です。彼らの記録を無視するという事でもなく、ただ、私達はエペソのような教会を手本とするべきです。しみやしわ、その様なものが何一つない教会になるべきです。あらゆる点においてキリストに達するまで成長するべきです。初代教会はキリストに達するまで成長していませんでした。彼らは多くの問題を抱えていました。そうですよね?私達はもっと成長する必要があります。

受けた質問を読みます。「どの様にして、いつ癒し、いつ病気・悪霊を追い出すかを知る事ができますか?」まず、追い出して、それでもまだ癒されないのなら癒します。今から説明する事は重要な事です。一般に、教会では私達は癒しの為に具体的に祈ろうとします、私達が癒しや悪霊追い出しを行う上で、具体的になり過ぎるなら失敗します。何故なら、もし正しい言葉を正確に言おうとして具体的になりすぎて、間違えた事を言えば悪魔はそれを聞いて、私達が何を言っているのか分かっていない事を知ります。そして、悪魔は私達に従おうとしません。しかし、もし私達が総体的に「癒されよ、自由になれ」と言えば、悪魔は私達が何を知っているか分からず命令に従わなければなりません。それは私達が総体的になっているからです。分かりましたか?私達が癒しを行う為には、完璧でないといけないと、敵に考えさせられないようにして下さい。イエスは細かくありませんでした。イエスはただ、「何をして欲しいのですか?癒しを受取りなさい」とだけ言われました。私達はより少ない努力で、イエスよりも大きなわざを行うべきです。私達の敵はもう既に敗北しています。なので、私達が悪魔を打ち負かすのはもっと容易なはずです。もしイエスがその様に総体的に癒しを行ったなら、私達はさらに総体的になる事ができます。イエスより細かくなる必要はありません。私達は単純な事を難しくし過ぎてきました。もし細かくなるなら、敵はそれを利用して抵抗してきます。できるだけ総体的になって下さい。しかし、もし必要ならば、具体的になって下さい。